雪解雨「剣ちゃん、そろそろ休憩しよー! はい! お茶入れてきたよー!」
雨が屋根を叩く音から逃れるように書類仕事に勤しんでいると、やちるが盆に湯呑みを乗せてこちらに駆け足で慌ただしくこちらに向かって来た。茶が溢れてしまうという考えが頭にはなさそうだ。
「はい、どうぞー!」
「盆がびしょびしょになってんぞ」
湯呑みに入れていた茶が半分は溢れているのが伺えるほど盆に水溜りができている。
「死覇装、濡らすなよ」
「分かってるよーだ」
「俺の分だけか?」
「後で持ってくる! 出来立てほやほやを剣ちゃんに飲んで欲しかったの!」
「なんだそりゃ」
「剣ちゃん、書類のお仕事頑張ってるから一番乗りなの!」
湯呑みを受け取ると運んできた時より慌ただしく給湯室の方へと駆けて行った。背の高さが足りない分を椅子で補って、自分の茶を用意している。
執務仕事なんて地味な仕事は嫌いだった。頭を使うより体を使う方がずっとずっと好きだった。
でも、あの日からは意識を別のところに持って行ってくれるならば戦い以外でも執務仕事でも何でも没頭した。お陰で十一番隊の書類処理速度も上がった。字も多少は上手くなった。他の奴らからしたら万々歳なのかもしれない。
筆を置き、やちるの入れた茶を一口飲んだ。
「……」
適度な渋味と旨味が丁度良く、すっきりとした後味。これは、
優紫が好きだった煎茶の味だ。
今でもはっきりと思い出せる。この茶を三人で談笑しながら飲んだ時のことを。あの時の日差しの暖かさ、
優紫がどんな声で何を話していたか、どんな顔で笑ってたか。まるで今しがたの出来事のように鮮明だ。
「……
優紫には、もう、会えないっていうのに」
自分を誡めるように、自分だけに聞こえるように呟いた。
「剣八さん」
何度も、何度も、何度も、思い返した声が聞こえた。
それは幻聴ではなく、確かに形がある声だった。
「
優紫……?」
声が聞こえたほうへ、ゆっくり目を向けるとそこには
優紫の姿があった。最後に見た時と同じ穏やかな顔で笑っている。
思わず立ち上がると、椅子が大きな音を立てて後ろに倒れた。椅子か床のどちらかが傷ついたかもしれない。でもそんなことはどうでも良かった。
一歩、一歩ゆっくり
優紫へと近付く。
優紫は顔を少し傾け、微笑みながら俺を見ている。
「……本当に、
優紫か?」
「はい」
目を細めて笑う
優紫からしっかりと返事が返ってきた。俺は堪らず抱き締めた。
(ああ、温かい……)
幻なんかじゃない。数え切れない程、記憶をなぞった感覚だ。俺の胸の中に確かに、
優紫がいる。華奢で、柔らかくて、落ち着く匂い。何もあの時と変わらない。
「
優紫……
優紫……」
「剣八さん」
名前を呼ぶと、俺が好きな声で返ってくる。
「なあ、
優紫」
「はい」
強く抱きしめると、俺が好きな優しい手が俺を抱きしめ返してくる。
それがただただ嬉しい。
「
優紫は……、
優紫は……幸せだったか……?」
俺が問うと、俺の胸を軽く押して少しだけ離れた。唇で弧を描いて微笑んでいる
優紫の瞳に俺が映っている。
「ええ、もちろん」
俺の頬に優しく触れながら、
優紫は応えた。
「私は、ずっと幸せですよ」
親指の腹で気付かないうちに流れていた涙を拭われる。
「私は、剣八さんがこれからも大好きだった戦いを楽しんでくれたら幸せです」
現実であって欲しいと心の底から願う、これも幻想だと分かっている。
優紫がここにいないことは紛れもない事実なのだから。
「十一番隊の皆さんといつものように賑やかに日々を過ごしてくだされば幸せです」
今、俺に贈ってくれている言葉も俺が作らせた偽の言葉だと分かっている。だが、言葉から伝わってくる
優紫の心が確かに俺の一部になっていく。
「貴方を愛してくれる方達と共にこれからも貴方らしく生きてくださったら……私はずっと、ずっと幸せですよ」
曇り空の隙間から降り注ぐ光のような
優紫の笑顔は、とても嘘だとは思えなかった。
歪んだ唇の口角をあげて俺も笑顔を返すと、優しく優しく抱き締められた。
*
知らぬ間に机に伏せて眠っていた。顔を上げると、机には書類と筆と茶を飲み干して空になった湯呑み。
「剣ちゃん、おはよう。よく寝てたね。雨もうすっかり止んだよ」
閉じ切っていた窓をやちるが開くと、明るい光が差し込んだ。少しその光が眩しくて片手で顔を覆った。手のひらが濡れ、今もとめどなく頬に涙が流れていることに気付いた。
「良い夢見れた?」
「……ああ」
「良かったね、剣ちゃん」
枯れるほど流した悲愴色をした涙が、今日は欣快色をしていた。
終
唯一愛していた人を失ったしまった剣八さん。
エイプリルフールに合わせて、技局が発売した『嘘のような理想な世界の夢を見れる』というような薬をやちるちゃんがお茶に混ぜて剣八さんに飲ませる、というお話でした。