何度だって恋をする もうずっと前から消えてしまいたかった。
彼が私では無い誰かを私に重ねて、愛を囁いていることを知っていたから。
彼と出会って間もない頃、髪を伸ばさないのか?と聞いてきたり、私の料理が食べたいと言ってきたことがあった。私はどちらも彼が望む応えを出すことが出来なかったのか、彼は少し訝しげな表情を浮かべていたのを覚えている。それに対して私は、長い髪が好きなのかな?料理が出来るように見えたのかな?とか。それぐらいのことしか思わなかった。
でも、彼が私にそれを言った理由はすぐに分かった。彼は私ではなくもう一人の私が好きなのだ。それが前世の私だ。テレビで時々前世を占うなんてのをやっているが私は前世なんて信じてなかった。そんな私は彼と一緒に過ごし始めて、ある夢を見るようになった。そう、それが前世の記憶。前世の私は髪も長く、料理も上手。すぐに彼はだから私にそう聞いたのだ、と一致した。おまけに、今の私とは全く違う性格だった。現代風に言えば清楚系だろう。夢の中で見る私はそんな感じだった。
彼は私を見ていない。それに気付いてからもしかしたら彼が望む私にならなければ捨てられてしまうのではないか?という懸念が生まれた。それが次第に大きくなり、結果的に私は彼が望む私になることを選んだ。友達に相談すれば、そんな男こっちから願い下げだ、なんて言われてしまうのだろう。私だって本当は私を見て欲しい。こんな事したくない。
「お帰りなさい、剣八さん。お夕飯の準備出来ですよ」
私が我慢すれば、私が演じれば、彼がきっと喜んでくれる。ずっと彼の隣にいられる。そう思ったけど違った。
「……何やってんだ」
私が聞いたことのない優しい声で名前を呼ばれると思っていた。しかし彼の声は低く太く、すぐに怒っていると分かった。
「剣八、さん……?」
自分が想像していた展開とは違う事態に私は戸惑った。彼はこれを望んでいたはずだった。
「何やってんだって聞いてんだっ!」
彼の怒気が篭った声に私の肩は震えた。こんなに怒気が篭った声を浴びせられたのは初めてだった。何が駄目だったのだろうか。完璧に出来ていたはずだった。強く私を射抜く瞳が早く応えろと語りかけていた。
「何って…。だって、剣八は…私じゃなくてこっちの"
優紫"の事が好きなんでしょ? ……こうしないと剣八の傍に、いられないから、だからっ」
事実を言葉にすると益々自分が惨めに思えた。
彼の顔を見るのが怖くて、目を合わせることは出来なかった。
「……確かに、…そうだ」
淡々と告げる剣八のその言葉に心臓が一瞬止まった。そう思えるぐらいが胸が苦しい。泣いてしまいそうだった私は堪えるように左手の甲に爪を立てた。
私のその手に彼の大きな手が触れた。私は驚き、思わず顔を上げて彼の顔に視線を合わせた。
「初めは確かにそうだった…」
怒った顔をしているに違いない、そう思ったのにとても穏やかな表情だった。声音も先程の淡々としたものでは無く、優しいものだった。
彼の手が爪を立てていた右手を左手の甲から離れさせて、爪の跡が残る手の甲を優しく撫でた。
「きっかけは確かにそうだ ……でも今は違う」
彼の瞳には私が映っていた。
「今の俺は、今の
優紫が好きだ」
「……っ。ほんとうに?」
「ああ」
「……嘘だよ」
「嘘じゃねェよ。悪かった。…
優紫が笑っていたから伝わっていると思っていた。言葉でちゃんと伝えるべきだった。…好きだ、
優紫。俺が好きなのは
優紫だ」
彼は優しい顔で微笑みかけている。
「どう説明しても傷付けてしまう気がして怖かった。…でも黙って何も言わずに隠して、こうして苦しませてしまっていたら世話ねぇな」
耐えきれなくて私は遂に泣いてしまった。
「私、"
優紫"みたいに髪の毛長くないよ?」
「短ぇ髪も似合ってる」
彼は私の短い髪を愛おしそうに触れる。
「喋り方だってお淑やかじゃないし」
「そんなのどうだっていい。それに明るくて元気でいいじゃねぇか。俺は好きだ」
頬を伝う雫を彼が優しく掬う。
「料理だって下手だし」
「そのうち上手くなんだろ。それに俺も飯ぐらい作れる。作るのが苦手っていうなら俺が作る」
彼の大きな手が私の手に絡む。
「……おっぱいだって小さいし」
「小さい胸の方が感度いいんだろ?」
「すけべ」
「お前が言ってただろ」
彼が優しく私を抱き寄せ、広い彼の胸に閉じ込められた。
「……本当に、私でいいの?」
「何回言わせんだ」
「ごめん」
「怒ってねぇから謝るんじゃねぇよ」
私の顎をすくい、彼は優しく軽いキスをした。
「もう分かった、って言うまで何回でも言ってやる。だから顔を上げて俺の事だけ見てろ」
数え切れないほど、好きだと伝えられながら何度もキスをした。
それでも私はまだ、少し信じられなくて。"
優紫"を手放したくなくて私に甘い言葉囁いているのではないか、と思ってしまう。でも彼の瞳にはしっかり自分が映っている。
まるで愛おしい人を見つめるかのように私を見つめて、優しく抱きしめられる。彼が何度も拭ってくれるが、涙は止めどとなく私の頬を流れて彼の手を濡らした。
「もう泣くな」
彼は私が落ち着くまで優しく抱きしめ、背中を撫でていた。くずって泣いている赤ちゃんをあやしているようだった。でも今はそんなことどうでも良かった。
「剣八が好き。ずっと隣にいさせて」
私のこの感情のきっかけも前世の自分が持つものから生まれたものかもしれない。そうだとしても、今自分の中にある気持ちは誰にも干渉されず自分で育てた気持ちだ。
「俺も好きだ。優紫の隣にしかいたくねぇ」
彼が私への気持ちを育ててくれたように、私もそうでありたい。確かめる方法なんて何も無いけれど、そう思いたい。
「浮気したら許さないからね」
笑いながら黙って頷いたその瞳があまりに優しくて余計泣いてしまった。
終