2023

■起こせよ文明の風

++++

「最近は本当に暑くて参るね」
「本当ですね。空梅雨もいいところです」

 向島エリアも梅雨入りしたと発表されてしばらく経つ。その割に雨の量なんかは記録的に少なくて、まるで梅雨をすっ飛ばして真夏に突入してしまったかのような錯覚さえ抱く。雨が降らないのであれば降らない方が生活はしやすいし、後は急なにわか雨にさえ襲われなければと言ったところだろうか。
 情報知能センターの空調の都合で長袖を着ている野坂にしても、さすがにサークル室ではその袖を捲ってA5サイズのホワイトボードをうちわ代わりにしている。理系の学部が授業を受ける建物は冷房が効き過ぎる傾向にあって、外に出ると温度差で体が馬鹿になっているのを感じる。そういうことの繰り返しで自律神経が乱れたりするんだろうね。

「圭斗先輩」
「ん、どうした?」
「扇風機という文明の利器がありますよねこの部屋には」

 冷房がガンガンにかかる講義棟に対して、扇風機レベルでも文明の利器になってしまうこの環境だ。緑ヶ丘のような私立のマンモス校だったらサークル棟にも冷暖房が完備されているのかもしれないけど、小さな公立大の向島大学では夢のまた夢だ。だけどそう言われてみれば、この暑いのに扇風機を解禁していなかったということがどうかしている。

「そう言えば、片付けてあったはずだけど表に出てるね。誰かが出してくれたのかな」
「先週の土曜日に菜月先輩が扇風機の掃除をされたそうです」
「土曜日? もしかしなくても、例によってお前は菜月さんを待たせたのか。異様に綺麗になってるってことは、それだけの時間遅れたんだな」
「お恥ずかしながら」

 扇風機の羽やカバーには埃ひとつついていない。オフシーズンになってそれを片付けるときも、埃よけの袋なんかは被せないにも関わらずだ。よくよく見れば床にも埃が落ちていない。まあ、埃よけの袋に関しては100均に行けば不織布の物とかが売っているだろうし、今年のオフシーズンに覚えていれば購入を検討してもいいね。
 それはそうと、菜月さんの暇潰しは、扇風機を掃除したついでのサークル室の掃除にまで及んだのかもしれない。土曜日は彼女と野坂が昼放送の収録をしているのだけど、時間にルーズなこの男が菜月さんを派手に待たせることは数知れず。待たされている時間をどう潰すかが課題であるとはよく聞くけど、扇風機の掃除をしたことは言われなければわからなかった。

「扇風機を掃除したのはいいけど、菜月さん本人は大学に来てるのか?」
「授業に出席しているかはともかく、サークルには来られると思います」
「雨が降らないなら降らないで、暑いから外に出たくないとか汗かいて前髪が決まらないから外に出たくないとか日焼けしたくないから外に出たくないとか日差しが強くて目が辛いから外に出たくないとか平気で言うだろアイツ」
「想像には難くありません。夏場の汗は金属アレルギーである菜月先輩の大敵ですし」
「その割にイヤリングは頑なに外さないのはどうかと思うけどね。アレルギーに対応したパーツに付け替えてもらえばいいのに」
「番組収録の際に耳が見えるのですが、アレルギーで赤く腫れていたり、膿んだような傷になっているのは見ていてとても痛々しく思います」

 彼女の金属アレルギーの話はそこそこに、空いているコンセントを探して久方ぶりに電気を通す。いつからあるんだよってくらいに見た目がレトロな扇風機だ。実際に誰が持ち込んだのかも既にわからないし、元号をいくつか遡りそうな風体のそれをいきなり強で運転しようものならぶっ飛んでしまうかもしれない。
 まずは弱運転で、首振りをオンに。ガタガタだとか、ブーンという音と共にそよそよと風が流れ始め、ホワイトボードでひたすら風を送っていた野坂の手も止まる。素晴らしい。まさにこれは文明の利器だ。窓を全て開け放っていたにも関わらず存在しなかった風の動線がここに生み出されている。
 するとどうだ、その風に誘われたかのように彼女が現れる。額には汗が滲み、前髪が束になって貼り付いている。講義棟からは徒歩15分、アップダウンのある長い道を歩いてきたのだから、当然と言えば当然だろう。いつも思うのだけど、彼女は高いヒールの靴でよくこの上り坂を来るなあと。

「おはよー」
「おはようございます」
「圭斗、お前はここまで車で来れるんだから暑くないだろ。前髪乾かしたいからどいてくれ」

 言うが早いか彼女が扇風機の前に陣取ると、首振り機能もオフになり、風の強さも強になる。ロートルの発する音が若干悲鳴がかってきたところで、無事に強モードでの動作を確認。彼女にとっては扇風機がドライヤー代わりのようだ。まさかそのために徹底的な掃除を? いや、前髪のコンディションひとつで機嫌が大きく変わる彼女なら有り得る話だ。

「よし、完璧」
「見事なストレートだね。ところで菜月さん、扇風機を掃除してくれたそうだけど」
「ああ、別に。土曜日は時間があり余っていたからな」
「野坂を待つのにかい?」
「以外に何がある」
「申し訳ございません」
「お前のその形式だけの謝罪は見飽きたって何度言えばわかるんだ」

 首振り機能が再びオンになって風の量も弱に戻った扇風機は、ガタガタ唸りながら風を送っている。いつガタがきてもおかしくない老体だ。今後菜月さんには是非とも前髪の水分を粗方取ってから風を浴びていただきたいものだ。しかしこの音だと番組収録中は切らないと良からぬ音をマイクが拾いかねないね。

「菜月さん、前髪を乾かすために徹底的な掃除を?」
「と言うかこの部屋の扇風機の本来の役割は、男臭くてむさい空気を外に出すことだろ」
「かたじけない」
「はっ……それは気付きませんでした…!」
「ただでさえ夏は暑くて茹だるのに、少しくらいさわやかに迎えたっていいだろう」


end.


++++

夏の準備は人知れず菜月さんが済ませるMMP。このロートルの仕事はもうしばらく先まで。

(rebuild2013/※起こせよ文明の風)

.
33/98ページ