覆水盆に返らず
貴方の名前
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ねぇねぇ、瑛君土曜日のシフトなんだ」
「バカっ!!学校でその話は厳禁だって言っただろうが」
背中に声が掛かると直ぐ様そいつの口を手で押さえ込む。周囲に目を走らせると人の気配がなかった事に安堵を覚え、塞いでいた口を解放してやった。
「ぷはっ……ごめんごめん。でも、私だって周囲に人が居たらこんな話はしないよ!」
手を離すのは少し早かったか。頬を膨らませながら文句を言ってくるのは気が強い証拠だな。そんな奴だから俺も気を遣う必要がなくて楽なんだけどさ。
「うるせー、口答えしてんじゃねーよ」
いつものようにこいつの頭にチョップを喰らわせてやる。勿論手加減はしてるけど、他の女には間違ってもこんな真似はできない。葉月も頭を擦って大袈裟に痛がっているフリをして見せるのもいつもの事だ。本気で怒ったりもしない。
「もうっ、瑛君はすぐに手が出るんだから。その癖は直さないと駄目だよ」
「安心しろ、お前以外にはしないから。それに、葉月が変な事を言わなきゃ俺だってこんな真似しないっての」
「はいはい、全部私が悪いんですね」
これ以上言い争ってもキリがないと先に折れてくるのはいつも葉月の方だ。俺の性格をよく知ってんな。
「分かればいい……それで、土曜日がどうしたって?」
もう一度周囲を確認してから葉月の耳元に口を寄せて囁く。すると葉月も同じように俺の耳元に手を添えながら口を寄せてきた。何だか擽ったい感じだな。
「うん、土曜日のシフトなんだけど予定よりも2時間早く入って良いかな?今週は混み合いそうだからお願いしたいってマスターから言われてたのを瑛君に言い忘れてて」
「じいちゃ、マスターがそう言ったなら従うしかないだろう。いちいち俺に聞いてくんなって」
そんな事いちいち俺にお伺いを立てる必要なんてないだろう。思わずぶっきらぼうに言い放って葉月に背中を向けた。それでも葉月の視線をまだ背中に感じていて。
「……瑛君最近ちゃんと寝てる?目の下に隈、が」
「隈なんてまだできてないだろう!!」
毎日鏡でチェックしてんだからそんな嘘に騙されたりするかよ。それでも怒鳴りつけると同時に葉月の方へと再び体を向けてしまう。その視線の先には俺を心配そうに見つめる葉月の姿があった。
「うん、今はまだね。でも、少し顔色が悪いんじゃない?……マスターも本当はその事を心配してたんだと思うよ」
一歩一歩俺に近付いてくるとすぐ目の前で立ち止まり、優しく俺の頰を撫でる。フザケている様子もないから乱暴に振り払う事もできない。それに俺自身がこの白く柔らかい手の感触を心地良く思っていたから。
「二人とも心配し過ぎだっての……でも、そうだな。葉月もようやく使えるようになってきたところだし、俺が2時間遅れで入っても何とかなんだろう」
ったく、じいちゃんも遠回しな気の遣い方をしてきやがる。今はそんな繁忙期じゃないだろう。ここは素直に二人の優しさに甘えさせて貰うとするか。
「ところで、葉月……この手は何だ?お前も一応女なんだから少しは気を遣えっての!」
俺の頰に触れていた手を掴み取ると水仕事で荒れ始めている指先を指摘する。本当はずっと前から気付いていたのになかなか言い出せずにいたんだ。だから俺のポケットにはいつも忍ばせていたものがあって。
「あっ、うん、心配かけちゃってごめんね。でもすぐに治、る」
「甘くみるんじゃねーよ。仕方無いからそれやる。間違って買って困ってたとこだし」
そう言ってポケットから取り出したハンドクリームを葉月の手に握らせる。仕事に支障が出ない程度に微かに香る柑橘系の爽やかな香りを選んだ。本当ならローズやベリー系の甘い香りも似合いそうだけど。
「えっ、貰っちゃってもいいの!?瑛君が使うつも」
「俺はいつも使ってる無香料のがあるから。お前もそれがなくなったら自分で新しく買えよ」
どうしてこんな言い方になるんだろう。もっと素直になれたらいいのに。自分で自分に呆れちまうっての。それでも葉月は嬉しそうに笑顔を浮かべて見せる。
「瑛君、本当にありがとう!!大切に使わせて貰うね」
「お、おぅ……」
子供のように無邪気に笑う葉月の姿が眩しくてまともに見る事ができずに顔を背けてしまう。本当は葉月のこの笑顔が一番……好きな筈なのに。
「そうだ、教室に友達を待たせたままだった!?瑛君ごめんねとありがとう!!」
「はいはい。急いで転ぶんじゃねーぞ」
葉月らしいと思いながら小走りで駆けていくその背中が消えるまでずっと眺めていた。急に現れたと思えば急に居なくなるし、忙しい奴。俺も息を一つ吐いてから反対方向へと体を向ける。誰も居ない筈のその先によく見知った人物の姿を確認すると肩が震えちまった。
「どわっ、蓮二!?お前いつからそこに居たんだよ。さっきまでは確かに居なかっ」
「そこの資料室の中に居たものでな。出るタイミングを逸してしまっていた」
「そ、それじゃあさっきのやり取りも」
「あぁ、全部見させて貰ったぞ。お前は相変わらず素直じゃな、い」
「盗み聞きなんて趣味が悪いだろうっ!!」
思わず勢いのままに蓮二の胸ぐらを掴んで壁際へと押し付けてしまう。それでも蓮二は眉一つ動かさずに冷静そのもので。
「すぐに熱くなる所も変わらないな。その性格でよくプリンスを演じていられるものだ」
蓮二がよく口にするこの「プリンス」と言う言葉には嫌悪感を覚えてしまう。俺を揶揄して使うところに蓮二の底意地の悪さが窺える。……まぁ、蓮二とはガキの頃からの付き合いだし、俺の素を知っている数少ない人物の一人だしな。
「どうせ俺はお前と違って天性の天才じゃなく、努力型の天才なんだよ」
単なる負け惜しみだって分かっていてもこのまま黙っていられるかっての。流石に掴んでいた襟元は解放してやったけど。
「お前はまだそんな事を言っているのか。青空さんも苦労するな」
「な、何で」
「何でそこで葉月の名前が出てくるんだよとお前は言う」
くっ、いつも通りの先読みってやつか。悔しそうに唇を噛み締めると満足そうにほくそ笑む蓮二の顔が視界に入ってきた。あー、ムシャクシャする。いつもの癖で前髪を無造作に搔き上げながら蓮二を睨む。無言の圧力ってやつだ。
「……いい加減自分の気持ちに素直になったらどうだ」
「……どう言う意味だよ」
「そこまで言わないと分からない程の無能な男だったか?だとしたら俺の佐伯瑛に対する認識を改める必要が」
「だからその言い回しを止めろっての!!……そんなん、自分が一番よく分かってるよ」
蓮二には本当に敵わない。口喧嘩で勝てた試しはないし……俺以上に俺の本質を見抜いている。俺にとって掛け替えのない幼馴染、親友である事は間違いない。本人の前では口が裂けても言えねーけど。そう、俺にとって心許せる人間なんて蓮二くらいだと思っていたのに……最近は葉月の存在が俺の中でどんどん大きくなっているのが感じられる。
「……どうやらまだ考える時間が必要なようだ。焦らせてしまってすまなかった」
自分の言いたい事だけ言ってすぐに居なくなるのも蓮二の悪い癖だ。残された方はこの消化不良な気持ちをどう処理すればいいんだっての!!……いや、蓮二がこんなアッサリ引き下がるなんておかしくないか。俺の中で何かが引っかかる。でも、こんな嫌な予感なら外れて欲しい。そう思いながら俺もその場を後にしていった。
瑛には悪いが物事には適したタイミングと言うものがある。あの二人にとって今が正にその時だ。この機を逃して瑛に後悔して欲しくはない。あいつはとことん不器用な奴だからな。青空さんのような女性に傍に居て支えて貰う必要がある。強がっていても本当は打たれ弱い……フッ、これではまるで息子を心配する父親だな。
そんな思いを胸に抱えながら喫茶店の扉を潜る。扉のベルが鳴ればすぐに笑顔で出迎えてくれたのは青空葉月。
「いらっしゃいませ!!あっ、柳君また来てくれたんだ。いつもの席に案内するね」
「あぁ、頼む」
何故か気が付くと俺まで口元が弛んでしまっていた。席に案内されるといつものやり取りが始まる。
「今日もいつものと同じで良かった?」
「あぁ、構わない……お前もすっかり板についてきたものだ」
「流石にね。それじゃあ少々お待ち下さい」
そう言ってカウンターへと駆けていく青空さんを見送っていたらマスターと視線が合ってしまう。いつも通りに人受けのする笑みを浮かべながらその瞳の奥は全てを見透かしているかのように感じられる。これが年の功と言ったところかもしれないな。俺にもまだ越えられない領域といったところか。
それから数分程して運ばれてきたコーヒーの香りが鼻腔を擽る。味で楽しむ前のこの瞬間が一番好きかもしれない。そんな事をふと考えていたら小皿も一緒にテーブルの上へと置かれた。その上には数個のチョコレートが並べられている。
「マスターからの差し入れ。今日はお客さんも少ないし二人で少しお喋りしてきなさいって」
そう言うと自身が飲む用のコーヒーまで準備しているではないか。彼女のこう言った性格は大分得をしていると思う。俺や瑛には決して真似できないものだ。そして……彼女の魅力の一つである事に変わりはない。
「随分と好待遇だな……俺もお前も」
「フフッ、そうだね。でも、柳君が静かに読書してたいって言うなら私の事は観葉植物だと思って無視してくれて構わないよ」
「よりによって観葉植物の例えを出してくるとは……俺の読みもまだまだ甘いな」
彼女はこうやって時折突拍子もない事を言い出してくるものだから俺も刺激を覚える。一緒に居て飽きないタイプと表現すべきだろうか。それでいて心が安らぐようだ。きっと瑛も彼女のそんな部分に惹かれたのだろう。
「あれっ?今日はいつもの文庫本を持ってきてないの」
「あぁ、今日は青空さんと話をしたいと思ったからな」
「「私と?何で」」
二つの声が重なると同時に笑い声が溢れる。「そうだった、柳君は先読みの達人だったね」なんて言いながら目尻に涙まで浮かべている青空さん。そんな事を彼女に教えたのは瑛しか居ない。しかし、今日の本題はその瑛の事だ。
「実は俺の知り合いに青空さんに好意を寄せている人物が居てな」
彼女には遠回しな言い方をしても時間の無駄だ。それならば単刀直入に話をつけた方がいい。想像していた通りに顔を真っ赤に染める彼女はとても可愛らしかった。その動揺を隠そうとしてコーヒーに口を付けるも猫舌の彼女にはまだ熱かった筈。
「少し落ち着け。水で冷やすといい」
直ぐ様水の入ったコップを彼女へと差し出す。素直にコップを受け取った彼女がちびちびと水を飲む姿はこれまた猫を連想させる。一体次はどんな行動を取るのかと目が離せなくなってしまう。
「フーッ……柳君が驚かせるからいけないんだよ」
「それはすまなかったな。ではこれでも食べてもう少し落ち着くといい」
小皿に乗せられていたチョコレートの粒を取り青空さんの口の中へと押し込む。
「おいしーい。じゃあ今度は柳君の番ね、はいアーン」
今度は青空さんがチョコレートを摘んで俺の口元前へと運ぶ。ここにきて自分の行為を悔いる事になろうとは。深く考えずに取った行動だったものの、立場が逆になればこんなにも恥ずかしいものだったのかと思い知らされる。彼女が天然である事を考慮しておくべきだった。しかしここで拒否するわけにもいくまい。
「早くしないと溶けちゃうよー」
その声を合図に俺も覚悟を決めて口を開くとコロンとした感触と甘い味覚が広がっていく。目の前では指についたチョコレートを舐め取る青空さんの姿があった。これではまるで世に言う……バカップルではないか。せめてもの救いは周囲に人が居なかった事、ましてやこんな場面を瑛に見られていた日には……そこまで考えてふと視線を窓側へと向けるとそこには鬼のような形相をして佇んでいる瑛の姿があった。
(何してんだよお前は!?)
瑛の心の声が聞こえてくる。流石にこの展開は俺も想定外だった。しかし起きてしまったものはどうしようもない。俺も腹を括り平静を装う事にしよう。何事もなかったかのようにして視線をコーヒーカップへと移す。折角のコーヒーが冷めぬ内に味わおうとすれば再び目の前に伸びてくる青空さんの手。
「はい、おかわりをどうぞ!」
そう言って手に摘んでいたチョコレートを俺の口元に運ぶと同時に店の扉が勢いよく開く。
「「何してんだよ、お前等は!!」」
ズカズカと俺達の席に近付いてくると想像通りの言葉を口にして声を荒げる瑛と俺の声が重なった。その事に青空さんも初めの内は驚いていたもののすぐに笑い声へと変わる。
「アハハ、流石は柳君だね。先読みの達人さん!」
本日二度目の呼び名を耳にしながら彼女のこの性格に救われたと思う。下手をすれば重苦しい空気に包まれていたであろうこの状況を打開してくれたのだから。これも天然の為せる業なのか、或いは計算されて……いや、彼女ならば前者だろう。少なからず俺も青空さんの本質を知る程度の時間は共に過ごしてきたつもりだ。
「俺の事を無視すんなっての!!大体お前はまだ仕事中だろうが」
自分の存在を無視されているようで益々機嫌を損ねた瑛がテーブルに強く手を置いてきた。思ったよりも大きな音に肩を震わせた彼女に鋭い視線まで向けていた瑛。このまま見過ごす事はできまい。
「落ち着け瑛。これはマスターが俺に気を遣ってくれた好意によるものだ。そもそもお前は今どの立ち位置で意見を言っている?」
「は?俺はこの店の関係者として」
「であればその態度は褒められたものではあるまい。俺以外の客への配慮に欠けている。公私混同甚だしいとは正にこの事だな」
気が付けば何故か俺も瑛を挑発するような物言いになってしまっていた。当初の目的を忘れかけていたのかもしれない。しかし、瑛が自分の気持ちを青空さんに素直に伝えようともせずに八つ当たりする姿を見て不快感を覚えたのも事実。
「クッ……そもそもどうして蓮二がここに居るんだよ」
どうやら瑛も冷静さを取り戻したようで声を荒げる事はしない。それでも俺に向ける視線にはまだ敵意が込められている。全く、本当に不器用な奴だ。彼女へ対してもそれだけ真っ直ぐに気持ちを伝えればいいだけだと言うのに。
「あ、あの、柳君はこのお店の常連さんだよ。瑛君も知っているんだと思っていたから」
席から立ち上がり、ビクビクした様子で口を挟んでくる青空さんからはまだ動揺が見受けられた。瑛も先程の自分の態度を反省しているのか彼女にはそれ以上強く当たろうとはしない。そう、瑛の標的は俺なのだから。
「一体何が目的なんだ、蓮二」
声は荒げずに低い声を出す瑛。これは本当に怒っている時の証拠だ。それなら俺も当初の目的へと戻る事にしよう。
「お前の態度が煮え切らないので俺が彼女に代弁しようとしていた」
「は?何だよ、それ。俺の気持ちを無視して勝手に話を進、め」
「もしかして柳君がさっき言ってた知り合いって瑛君の事?」
瑛の言葉を遮り口を挟んできた青空さんは再び顔を真っ赤に染めていた。鈍感な彼女とは言えどこの状況下では嫌でも気が付くという事か。俺は肯定の意味を込めて黙って頷くも瑛が否定をし始める。
「お前こいつに変な事を吹き込んでじゃねぇよ!!葉月も蓮二の言う事なんか真に受けるなっての」
「えっ、あっ……そうだよね、ハハッ、ごめんね。柳君も意地悪が過ぎるって。それじゃあ私は仕事に戻るから」
この時の青空さんが空元気を装っているのは容易に見抜く事ができた筈。それでも声を掛けずに見送る瑛に怒りを覚えてしまう。気が付くとそのまま自身も裏の更衣室に向かおうとする瑛の肩に強く手を掛けていた。
「彼女にあんな顔をさせてよく平気でいられるものだな」
「お前には関係ないだろう。これは俺と葉月の問題で部外者、は」
「どうしてお前は彼女に好意を寄せる男が自分だけだと安心していられるのか不思議で仕方が無い」
ここまで腹が立ったのは一体いつ以来だろうか。先程の青空さんの無理に作った笑顔を見れば全てを察せられるもの。それでも尚、自分の気持ちばかりを優先して守ろうとする瑛に嫌悪感まで抱いてしまう。こんな男に彼女を渡したくない。何故かそんな思いが頭を過る。
「おい、蓮二……まさかお前」
「不変などと言うものはこの世にはそうそうないものだ。黙っていても欲しいものが手に入る事はない」
そう、何事も行動を起こさなければ始まらないと言うもの。人は日々選択の連続だ。俺が今ここで取るべき行動は一つだけ。瑛の横をすり抜けて青空さんの背中へと声を掛ける。
「青空さん、俺自身が君に伝えたい事がある。俺は君の事を」
「待て、蓮二っ!!葉月は誰にも渡さない。葉月を一番好きなのは俺なんだよ!!」
「えっ……て、瑛君っ!?」
振り返った青空さんの見つめる視線の先は瑛にのみ向けられていた。先程とは打って変わり、恥ずかしさの中にも喜びを含ませた表情。そんな顔を見せられては俺の出る幕など何処にもあるまい。奥で佇むマスターが頭を下げる姿が目に飛び込んできた。あぁ、この気持ちはもう暫く俺の心の内にしまっておくとしよう。いずれ良い思い出へと変わるまで。
「……狙い通りだったな」
せめてこれ位の虚勢を張るのは許されよう。あくまでも計画通りだったと思わせる。二人の間の抜けた顔を見られたのはなかなかに興味深い。そして……ただ一度だけ青空さんの背中に触れる事を許して貰おう。
「大分時間が掛かったと思うが瑛も自分の気持ちを伝えられた。次は青空さんの気持ちも伝えてやってくれないだろうか」
「そうだね……柳君、ありがとう!」
ほんの一時とは言え彼女の視線を、意識を一人占めできた。俺にとってはそれだけでもう十分過ぎる褒美を得られたと言うもの。青空さんの背中を押したのは最初だけだ。後は自ら進んで瑛の元へと歩みを進めていく。
「瑛君、私も瑛君の事が……好きだよ。だから今すっごく嬉しい」
花が綻ぶような笑顔とは正にこの瞬間を指して使われるべき例えだろう。俺が知り得る中で最高の笑みを浮かべていたのだから。瑛の奴もいつものように憎まれ口を叩けずに顔を赤らめているばかり。こんな瑛を見られるとはな。……最後にもう一押ししておくか。
「良かったな二人とも……ただ、青空さんを慕う人物が多いのも事実。それだけは肝に銘じておけ」
「おまっ!?」
「どうしたの瑛君?急に顔色が悪くなったみたいだけど何処か具合でも悪いんじゃない?」
瑛にだけ聞こえるようにそっと耳打ちをしてその場から離れると青空さんが心配そうに声を掛け、背伸びをして瑛の額へと手を伸ばしている姿が視界に入る。赤や青へと忙しなく顔色を変える瑛を見ているのも面白いが俺はそろそろこの場を後にするとしよう。これ以上あの二人を見ているのは厳しいものがあるからな。
そっと店を後にして一度だけ振り返る。窓越しに見えた二人は今までと何ら変わらないように見えた。照れ隠しをするように青空さんの手を振り払う瑛。その顔にはまだ火照りが残っている。そんな瑛を見てケラケラと笑っている青空さん。これで良かったのだと改めて安堵の息を吐く。俺にとってあの二人はどちらも代え難い存在なのだから……幸多からん事を。
→御礼