花と蝶
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《中学生 過去》
共依存:お互いがお互いに依存している状態
依存、という言葉を使う程度には深刻だった。
本来、時間と場所さえあれば取れるはずの睡眠。
金や材料があれば困らないはずの食事。
2つとも人間の三大欲求に含まれているのに、それが自分の意思だけではどうにも満たせないのだから。
そうなってしまった発端は中学に上がってすぐのことだった。
「…やけに嬉しそうだな」
雨月とクラスが同じになり、席も隣になって。普段より明るい空気に、わざと呆れた口調で問いかけた。
『うん!今日、お母さん帰ってきて朝までいてくれるんだって』
「へぇ」
家が隣なら小学校も中学校も一緒。雨月の両親は家にいることが少ないと知っていた。
『夕飯、一生懸命作らなきゃ』
「聞いてねぇよ」
『相変わらず真くん冷たいね』
笑いながらそういう雨月は、"冷たい"なんてことは然して気にもとめてない。
いつも笑顔で優しいイイコチャン。
小学校にいる時からそうだった。
地区行事では毎回顔を合わせ、クラスや委員会が一緒になったこともある。
どの場面でも笑っていたし、人の心配ばかりしていて、どちらかというと嫌いな人種だった。
(どっかでボロ出さねぇかな)
物心ついたときから知っている筈なのに、こいつの泣き顔や失敗談を何一つ知らなくて。
そんなことすら考えていたら、案外それは早くやってきた。
「珍しいな、時間ギリギリだぜ?」
『うん、ちょっと寝坊しちゃった』
翌日、誰よりも早く教室にいる雨月が朝練後の俺より遅く席についた。
間に合って良かった、と笑う顔がどこかぎこちない。
「寝坊自体珍しいだろ、なんかあったのか?」
『ううん、何にも』
(何かあったんだな)
確信するのは早かった。
母親が帰ってくると喜んでいたから、てっきりその類の理由だと思っていた。
まして、彼女にとって母親の帰りは"何も"に値する訳ない。
(まあ、いいや)
何かあったところで俺には関係ないし。
強いて言えば、無理矢理作ったぎこちない笑顔に違和感があることくらい。
「羽影はいつもいい笑顔だな」
ただ、偶々その日発した担任の言葉で。違和感を感じているのは自分だけだと気づいたけれど。
.
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯
(何やってんだあいつ)
結局今日は雨月と話すことなく終わって。
もう寝ようかと思えば、窓の向こうがチカチカしている。
窓同士が近いために普段も微かに灯りや音はわかるが、電気をつけたり消したり、時折物音もして。
一度気になり出したら寝付けなくなってしまったのだ。
(うぜぇ)
いつもは近いのを邪険にしていた窓を、身を乗り出して叩く。
カーテン越しに人影が揺れて、数秒の間を置いて窓が開いた。
「…」
『真くん…ごめん、うるさかったよね…もう電気消すし静かにするから、本当にごめ――』
「なあ、何で泣いてんだ?」
文句の一つでも言ってやろうと意気込んでいたのに、開いた窓の先の雨月の泣き顔で全て吹き飛んだ。
(こいつも泣くのか)
至極当たり前な感想と、普段笑ってばかりの彼女が泣く理由への興味。
慰めようなどという気は一切なく質問した。
『…』
「何があったんだよ、話してみろ」
ただ、聞き出すには少しくらい優しげな方がいいだろう。何か弱味が掴めるのなら多少面倒でも仕方がない。
そう思って声色を丸くし、さりげなく窓から彼女の部屋へ入り込んだ。
『…お母さん、もう帰ってこないの』
「…」
『朝起きたらいなかった。朝までいてくれるっていってたのに』
余程取り乱しているんだろう、俺が隣に座り混んでることには疑問すら抱いていない。
それどころか然り気無く俺のシャツの裾を握っている。
いくら幼馴染みでも、取り立てて仲が良かった訳じゃない。そんな相手に縋るくらいだ、よっぽど応えたんだろう。
何となく裾を握っている手を離させ、上から包むように握って二人の間に置いた。
ベッドのシーツがポフッと軽い音を立てる。
それを話してもいい合図と受け取ったのか、気持ちが決壊したのか、雨月は嗚咽混じりに今までの経緯を語り始めた。
雨月の父は仕事人間だった。
家事も育児も全く手を出さず、たまの休みも殆ど寝て過ごす。
それに我慢できなかったのが雨月の母だった。
若くして結婚し子を持った母は、実際の結婚生活が理想とかけ離れていることにショックを受けた。
家事も育児も夫と二人で、たまには自分も今まで通り友達と遊んで…そんなことはできなかったのだ。
雨月が小学校にあがると母親が週末家にいることはなく、家事も雨月も投げ出して遊びに行く。
平日も洗濯、食事の準備をしたら終わり、その食事も一緒に食べることはないし、話しかけても無視されるか怒られた。
ネグレクトや虐待と言われるグレーゾーンには差しかかっている。
でも雨月は幼いなりに、いや、幼いからこそ。
"いい子にしていれば愛してもらえる"
それを信じて疑わなかった。
学校では真面目で、優しくて、明るくて。
勉強も委員会も努力を惜しまない。
母がいなくても自分の食べるものくらいは作れるようになったし、洗濯や掃除もある程度はできる。
"誉めて"
滲み出るメッセージは母親に全く届かなかった。
寧ろ手がかからないのをいいことに、ますます雨月の母は彼女に構わなくなった。
それを、今まで興味も示さなかった父が"社会的に体制が悪い"と口を出して大喧嘩。
母は雨月を置いて実家に帰ってしまった。
何の説明もされなかった雨月は
"いい子にしてれば帰ってきてくれる"
と、今まで以上に努力を積んだ。
そして昨日、"母親がいなきゃ駄目。いっそ連れ帰ってこい"と実家で諭された母が帰ってきた。
雨月は喜び勇んで手料理を振る舞い、その他の家事もこなし、成績表や学校で誉められたことなんかを話した。
それが逆効果。
「あんた、私いなくても生きていけるんだね」
『お母さん?』
「…うるさい」
自室に篭ってしまった母に
"きっと疲れてたんだ、邪魔しちゃいけない。明日の朝もまだ話せるから…"
そう言い聞かせて雨月も寝ることにした。
でも。
『え…』
朝起きたら、母の部屋はもぬけの殻。
荷物も何も残っていない。
ただ一つ、昨夜なくて今朝あったもの。
母の署名が入った離婚届がテーブルに置いてあった。
『…?』
それが何を意味するか解らない程子どもではなく、だからといって割りきれる程大人でもなかった。
どうしていいか解らず立ち尽くしていれば、数週間ぶりに父が帰ってきた。
『お父さん!これ…お母さんが…』
「…」
無言で受け取った父は、何を躊躇うこともなく鞄からペンと印鑑を出して。
スラスラとサインをしていく。
『!?え、ねえ、』
「今までと何も変わらないだろ」
そして、その届を持って今来たばかりの玄関を通って出ていってしまった。
.
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯
『もう、どうしていいか解らなくて。ぼうっとしてたら遅刻しそうだった』
「だから今日の朝は遅かったのか」
『うん』
色々と合点がいった。
虫酸が走る程のイイコチャンぶりも、今朝を含むこいつの違和感も。
「…それが、何で夜中にバタバタすることになるんだ」
ただ、それがよく解らない。
憤っていたなら兎も角、こいつはただ泣いていた。
『…眠れないの』
「は?」
『起きたら、お母さんはいない。誰もいない。でも、寝ている間に誰かいなくなる。…怖くて寝れない』
「…」
『寝ようと思って電気を消して、目を閉じても上手くいかなくて…少し寝ても怖い夢ですぐ目が覚めちゃうの。…音がしたのは、夢に驚いて枕なげちゃったからかな…ごめんね』
一人で寝れないとか、餓鬼か。嗚呼でも、こいつは子供扱いされることなくここまで育ったんだ。
『…はは、私がもっといい子だったら。お母さんもお父さんも居てくれたのかな…』
「馬鹿じゃねぇの?」
『なっ!』
「これ以上お前がいい子とか気持ち悪いっつーの。お前がどうしようと結果は同じなんだよ」
『っ、真くんは頭いいからそう考えるのかもしれない、でも!私はそれしか考えてこなかったんだよ!』
俺と違って。外でも中でもいい子をしてきた雨月が叫ぶのを初めて見た。
馬鹿な女。
自分だけが悪かった、なんて。つくづくヘドが出るほどのイイコチャンだ。
「…バァカ」
『だからっ!』
「お前、そんだけ努力して何を得たんだよ。お前が苦しみ耐えて得ようとしてたものは、誰に踏みにじられたんだよ。気づけバァカ!!」
無性に腹が立って若干怒鳴り付ければ、雨月は驚いたように目を丸くして。
涙の止まった瞳でこちらをみつめる。
「んだよ」
『…ありがとう』
「あ?」
『私に努力してるって、苦しんでたって言ってくれたの、真くんが初めてで…。少しすっきりした、ありがとう』
不思議だった。
努力が無駄だったと突きつけて、馬鹿だと罵った筈なのに感謝されるなんて。
「…で、寝れそうなわけ?俺朝練あるからそろそろ寝たいんだけど」
その妙な気分から抜け出す為に、話を本題に戻す。
『…』
こいつ、また不安顔に戻りやがった。
「なんだよ」
『真くん、本当に申し訳ないんだけど…手、離したくない』
さっきまで俺が上から覆っているだけだった手、今見れば彼女が遠慮がちに指を掴んでいる。
「俺、眠いんだけど」
『泊まっていかない?』
「他人の布団で寝れるかバァカ」
『じゃあ私が真くんの部屋にいく』
「……はあ、好きにしなよ」
もう、今日は色々考えて眠かったし、また窓がうるさくても嫌だし。
(雨月のすがるような目を何故か見ていられなかったし)
窓から雨月を部屋に招いて、どうしても手を離さないこいつと同じベッドで寝ることになった。
普段より狭く感じる布団の中で違和感と睡魔が格闘している中、隣からは既に寝息が聞こえてきて。
意識するだけ無駄と判断した睡魔が一瞬で勝った。
(何を意識していたかなんて、考える余地は無いほどに)
.
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯
朝になって、うっすら覚醒していく意識の中。手に違和感を覚えた。
(確か昨日、雨月が来て)
手を握られたまま寝た。
違和感を感じる手に視線をやれば、片手で掴まれていた筈の右手が彼女の両手で覆われるように握られていた。
俺は手を貸すために上を向いて、彼女も上を向いて寝たのに。
今雨月はこちらを向いていて。俺の手を自分に引き寄せるようにして眠っている。
昨夜泣いたせいか、少し腫れぼったい瞼。
薄く開いて酸素を取り入れる唇。
呼吸に合わせて動く肩。
暫くそれを眺めていたが、朝練があることを思い出して。ゆっくり手を抜き取り起き上がる。
「起きろ」
『ん…真くん、おはよう…』
「寝れたみたいだな」
『うん、ぐっすり』
「なら早く戻れ」
『ん。朝練がんばって。じゃあ、また学校で』
寝起きがいいのか、すんなりと起きて窓に脚をかける雨月。
「…目、冷してこいよ。腫れてる」
後ろ姿にぼそっと声をかければ、動きを止めて。
こくり、と小さく頷いた。
『ありがとう』
その声も俺に劣らず小さくて。
雨月が窓から出たのを確認して朝練へ向かった。
***
その日の雨月はいつも通りで、目もしっかり冷してきたのか腫れは目立たなかった。
夜も部屋は真っ暗で。今日は寝れたのか、なんて然程気にせずいれば。
翌日学校で見たのは一昨日と同じ顔。うっすらついた隈に笑いきれていない笑顔。
(本当に馬鹿だな)
寝れなかったんだろう。
その日の夜も部屋は暗かったが、窓から下を覗けば一階に灯りがついていた。
あいつなりに眠る方法を探しているんだろう。
明日は土曜だし、多少寝れなかろうがなんとかなる筈だ。
(なんであいつの心配してんだか)
明日は一日中練習だから。
と、すっきりしない頭を無理矢理眠りに落とした。
***
練習を終えて帰宅した。
母親は泊まりの用事がある、と書き置きとコンビニの弁当が置いてあった。
それを適当に食べ、シャワーを浴びてから2階の自室にあがる。
コンコン
荷物を置いて一息つこうとしたら窓から音がした。
「…なんだ」
窓から、なんて。
あいつしかいない。
『ごめん、疲れてるのに、迷惑なのは承知なんだけど…』
「とりあえず入れ」
そして、雨月の顔を見て用件はすぐにわかった。
『…あのね、』
「はあ、一睡もできねぇのかよ」
『数分単位なら寝れる…でも、嫌な感じがして目が覚める。その後はまた暫く寝れない…』
「二日間ともか」
『うん…』
俺は椅子に座って、ベッドに腰かける雨月を見下ろしていた。
疲れが顔にありありと浮かんで、ご自慢の笑顔も影すらない。
「で、どうしたいわけ?流石に俺はまだ寝ないし、これから読書するつもりなんだけど」
『…、傍にいて、ほしい。寝たい…』
「あっそ」
時間は20時。寝るには早すぎるし、したいことも多い。
本棚から読みかけの本を選び、ベッドにあがった。そして、ヘッドボードのランプをつけて部屋の灯りを消す。
『え…』
「んだよ、寝たいんだろ。さっさと布団に入れ」
『う、うん』
雨月が入った後から俺が入り込んだ。
俺はうつ伏せになり、肘をついて本のページをめくる。
「これが読み終わったら寝る。邪魔しなければ好きにしてていい」
『…ありがとう』
雨月はやっと小さく笑って。俺の方を向いたまま、やっぱり服の裾を遠慮がち掴んで瞼を下ろす。
途端に、呼吸が寝息になるあたり、寝不足は深刻だったのだろう。
その日から、雨月は夜中に俺の部屋の窓を叩き、隣合って寝ては朝帰っていく。
そんな生活が続くようになったのだ。
Fin.
共依存:お互いがお互いに依存している状態
依存、という言葉を使う程度には深刻だった。
本来、時間と場所さえあれば取れるはずの睡眠。
金や材料があれば困らないはずの食事。
2つとも人間の三大欲求に含まれているのに、それが自分の意思だけではどうにも満たせないのだから。
そうなってしまった発端は中学に上がってすぐのことだった。
「…やけに嬉しそうだな」
雨月とクラスが同じになり、席も隣になって。普段より明るい空気に、わざと呆れた口調で問いかけた。
『うん!今日、お母さん帰ってきて朝までいてくれるんだって』
「へぇ」
家が隣なら小学校も中学校も一緒。雨月の両親は家にいることが少ないと知っていた。
『夕飯、一生懸命作らなきゃ』
「聞いてねぇよ」
『相変わらず真くん冷たいね』
笑いながらそういう雨月は、"冷たい"なんてことは然して気にもとめてない。
いつも笑顔で優しいイイコチャン。
小学校にいる時からそうだった。
地区行事では毎回顔を合わせ、クラスや委員会が一緒になったこともある。
どの場面でも笑っていたし、人の心配ばかりしていて、どちらかというと嫌いな人種だった。
(どっかでボロ出さねぇかな)
物心ついたときから知っている筈なのに、こいつの泣き顔や失敗談を何一つ知らなくて。
そんなことすら考えていたら、案外それは早くやってきた。
「珍しいな、時間ギリギリだぜ?」
『うん、ちょっと寝坊しちゃった』
翌日、誰よりも早く教室にいる雨月が朝練後の俺より遅く席についた。
間に合って良かった、と笑う顔がどこかぎこちない。
「寝坊自体珍しいだろ、なんかあったのか?」
『ううん、何にも』
(何かあったんだな)
確信するのは早かった。
母親が帰ってくると喜んでいたから、てっきりその類の理由だと思っていた。
まして、彼女にとって母親の帰りは"何も"に値する訳ない。
(まあ、いいや)
何かあったところで俺には関係ないし。
強いて言えば、無理矢理作ったぎこちない笑顔に違和感があることくらい。
「羽影はいつもいい笑顔だな」
ただ、偶々その日発した担任の言葉で。違和感を感じているのは自分だけだと気づいたけれど。
.
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯
(何やってんだあいつ)
結局今日は雨月と話すことなく終わって。
もう寝ようかと思えば、窓の向こうがチカチカしている。
窓同士が近いために普段も微かに灯りや音はわかるが、電気をつけたり消したり、時折物音もして。
一度気になり出したら寝付けなくなってしまったのだ。
(うぜぇ)
いつもは近いのを邪険にしていた窓を、身を乗り出して叩く。
カーテン越しに人影が揺れて、数秒の間を置いて窓が開いた。
「…」
『真くん…ごめん、うるさかったよね…もう電気消すし静かにするから、本当にごめ――』
「なあ、何で泣いてんだ?」
文句の一つでも言ってやろうと意気込んでいたのに、開いた窓の先の雨月の泣き顔で全て吹き飛んだ。
(こいつも泣くのか)
至極当たり前な感想と、普段笑ってばかりの彼女が泣く理由への興味。
慰めようなどという気は一切なく質問した。
『…』
「何があったんだよ、話してみろ」
ただ、聞き出すには少しくらい優しげな方がいいだろう。何か弱味が掴めるのなら多少面倒でも仕方がない。
そう思って声色を丸くし、さりげなく窓から彼女の部屋へ入り込んだ。
『…お母さん、もう帰ってこないの』
「…」
『朝起きたらいなかった。朝までいてくれるっていってたのに』
余程取り乱しているんだろう、俺が隣に座り混んでることには疑問すら抱いていない。
それどころか然り気無く俺のシャツの裾を握っている。
いくら幼馴染みでも、取り立てて仲が良かった訳じゃない。そんな相手に縋るくらいだ、よっぽど応えたんだろう。
何となく裾を握っている手を離させ、上から包むように握って二人の間に置いた。
ベッドのシーツがポフッと軽い音を立てる。
それを話してもいい合図と受け取ったのか、気持ちが決壊したのか、雨月は嗚咽混じりに今までの経緯を語り始めた。
雨月の父は仕事人間だった。
家事も育児も全く手を出さず、たまの休みも殆ど寝て過ごす。
それに我慢できなかったのが雨月の母だった。
若くして結婚し子を持った母は、実際の結婚生活が理想とかけ離れていることにショックを受けた。
家事も育児も夫と二人で、たまには自分も今まで通り友達と遊んで…そんなことはできなかったのだ。
雨月が小学校にあがると母親が週末家にいることはなく、家事も雨月も投げ出して遊びに行く。
平日も洗濯、食事の準備をしたら終わり、その食事も一緒に食べることはないし、話しかけても無視されるか怒られた。
ネグレクトや虐待と言われるグレーゾーンには差しかかっている。
でも雨月は幼いなりに、いや、幼いからこそ。
"いい子にしていれば愛してもらえる"
それを信じて疑わなかった。
学校では真面目で、優しくて、明るくて。
勉強も委員会も努力を惜しまない。
母がいなくても自分の食べるものくらいは作れるようになったし、洗濯や掃除もある程度はできる。
"誉めて"
滲み出るメッセージは母親に全く届かなかった。
寧ろ手がかからないのをいいことに、ますます雨月の母は彼女に構わなくなった。
それを、今まで興味も示さなかった父が"社会的に体制が悪い"と口を出して大喧嘩。
母は雨月を置いて実家に帰ってしまった。
何の説明もされなかった雨月は
"いい子にしてれば帰ってきてくれる"
と、今まで以上に努力を積んだ。
そして昨日、"母親がいなきゃ駄目。いっそ連れ帰ってこい"と実家で諭された母が帰ってきた。
雨月は喜び勇んで手料理を振る舞い、その他の家事もこなし、成績表や学校で誉められたことなんかを話した。
それが逆効果。
「あんた、私いなくても生きていけるんだね」
『お母さん?』
「…うるさい」
自室に篭ってしまった母に
"きっと疲れてたんだ、邪魔しちゃいけない。明日の朝もまだ話せるから…"
そう言い聞かせて雨月も寝ることにした。
でも。
『え…』
朝起きたら、母の部屋はもぬけの殻。
荷物も何も残っていない。
ただ一つ、昨夜なくて今朝あったもの。
母の署名が入った離婚届がテーブルに置いてあった。
『…?』
それが何を意味するか解らない程子どもではなく、だからといって割りきれる程大人でもなかった。
どうしていいか解らず立ち尽くしていれば、数週間ぶりに父が帰ってきた。
『お父さん!これ…お母さんが…』
「…」
無言で受け取った父は、何を躊躇うこともなく鞄からペンと印鑑を出して。
スラスラとサインをしていく。
『!?え、ねえ、』
「今までと何も変わらないだろ」
そして、その届を持って今来たばかりの玄関を通って出ていってしまった。
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『もう、どうしていいか解らなくて。ぼうっとしてたら遅刻しそうだった』
「だから今日の朝は遅かったのか」
『うん』
色々と合点がいった。
虫酸が走る程のイイコチャンぶりも、今朝を含むこいつの違和感も。
「…それが、何で夜中にバタバタすることになるんだ」
ただ、それがよく解らない。
憤っていたなら兎も角、こいつはただ泣いていた。
『…眠れないの』
「は?」
『起きたら、お母さんはいない。誰もいない。でも、寝ている間に誰かいなくなる。…怖くて寝れない』
「…」
『寝ようと思って電気を消して、目を閉じても上手くいかなくて…少し寝ても怖い夢ですぐ目が覚めちゃうの。…音がしたのは、夢に驚いて枕なげちゃったからかな…ごめんね』
一人で寝れないとか、餓鬼か。嗚呼でも、こいつは子供扱いされることなくここまで育ったんだ。
『…はは、私がもっといい子だったら。お母さんもお父さんも居てくれたのかな…』
「馬鹿じゃねぇの?」
『なっ!』
「これ以上お前がいい子とか気持ち悪いっつーの。お前がどうしようと結果は同じなんだよ」
『っ、真くんは頭いいからそう考えるのかもしれない、でも!私はそれしか考えてこなかったんだよ!』
俺と違って。外でも中でもいい子をしてきた雨月が叫ぶのを初めて見た。
馬鹿な女。
自分だけが悪かった、なんて。つくづくヘドが出るほどのイイコチャンだ。
「…バァカ」
『だからっ!』
「お前、そんだけ努力して何を得たんだよ。お前が苦しみ耐えて得ようとしてたものは、誰に踏みにじられたんだよ。気づけバァカ!!」
無性に腹が立って若干怒鳴り付ければ、雨月は驚いたように目を丸くして。
涙の止まった瞳でこちらをみつめる。
「んだよ」
『…ありがとう』
「あ?」
『私に努力してるって、苦しんでたって言ってくれたの、真くんが初めてで…。少しすっきりした、ありがとう』
不思議だった。
努力が無駄だったと突きつけて、馬鹿だと罵った筈なのに感謝されるなんて。
「…で、寝れそうなわけ?俺朝練あるからそろそろ寝たいんだけど」
その妙な気分から抜け出す為に、話を本題に戻す。
『…』
こいつ、また不安顔に戻りやがった。
「なんだよ」
『真くん、本当に申し訳ないんだけど…手、離したくない』
さっきまで俺が上から覆っているだけだった手、今見れば彼女が遠慮がちに指を掴んでいる。
「俺、眠いんだけど」
『泊まっていかない?』
「他人の布団で寝れるかバァカ」
『じゃあ私が真くんの部屋にいく』
「……はあ、好きにしなよ」
もう、今日は色々考えて眠かったし、また窓がうるさくても嫌だし。
(雨月のすがるような目を何故か見ていられなかったし)
窓から雨月を部屋に招いて、どうしても手を離さないこいつと同じベッドで寝ることになった。
普段より狭く感じる布団の中で違和感と睡魔が格闘している中、隣からは既に寝息が聞こえてきて。
意識するだけ無駄と判断した睡魔が一瞬で勝った。
(何を意識していたかなんて、考える余地は無いほどに)
.
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯
朝になって、うっすら覚醒していく意識の中。手に違和感を覚えた。
(確か昨日、雨月が来て)
手を握られたまま寝た。
違和感を感じる手に視線をやれば、片手で掴まれていた筈の右手が彼女の両手で覆われるように握られていた。
俺は手を貸すために上を向いて、彼女も上を向いて寝たのに。
今雨月はこちらを向いていて。俺の手を自分に引き寄せるようにして眠っている。
昨夜泣いたせいか、少し腫れぼったい瞼。
薄く開いて酸素を取り入れる唇。
呼吸に合わせて動く肩。
暫くそれを眺めていたが、朝練があることを思い出して。ゆっくり手を抜き取り起き上がる。
「起きろ」
『ん…真くん、おはよう…』
「寝れたみたいだな」
『うん、ぐっすり』
「なら早く戻れ」
『ん。朝練がんばって。じゃあ、また学校で』
寝起きがいいのか、すんなりと起きて窓に脚をかける雨月。
「…目、冷してこいよ。腫れてる」
後ろ姿にぼそっと声をかければ、動きを止めて。
こくり、と小さく頷いた。
『ありがとう』
その声も俺に劣らず小さくて。
雨月が窓から出たのを確認して朝練へ向かった。
***
その日の雨月はいつも通りで、目もしっかり冷してきたのか腫れは目立たなかった。
夜も部屋は真っ暗で。今日は寝れたのか、なんて然程気にせずいれば。
翌日学校で見たのは一昨日と同じ顔。うっすらついた隈に笑いきれていない笑顔。
(本当に馬鹿だな)
寝れなかったんだろう。
その日の夜も部屋は暗かったが、窓から下を覗けば一階に灯りがついていた。
あいつなりに眠る方法を探しているんだろう。
明日は土曜だし、多少寝れなかろうがなんとかなる筈だ。
(なんであいつの心配してんだか)
明日は一日中練習だから。
と、すっきりしない頭を無理矢理眠りに落とした。
***
練習を終えて帰宅した。
母親は泊まりの用事がある、と書き置きとコンビニの弁当が置いてあった。
それを適当に食べ、シャワーを浴びてから2階の自室にあがる。
コンコン
荷物を置いて一息つこうとしたら窓から音がした。
「…なんだ」
窓から、なんて。
あいつしかいない。
『ごめん、疲れてるのに、迷惑なのは承知なんだけど…』
「とりあえず入れ」
そして、雨月の顔を見て用件はすぐにわかった。
『…あのね、』
「はあ、一睡もできねぇのかよ」
『数分単位なら寝れる…でも、嫌な感じがして目が覚める。その後はまた暫く寝れない…』
「二日間ともか」
『うん…』
俺は椅子に座って、ベッドに腰かける雨月を見下ろしていた。
疲れが顔にありありと浮かんで、ご自慢の笑顔も影すらない。
「で、どうしたいわけ?流石に俺はまだ寝ないし、これから読書するつもりなんだけど」
『…、傍にいて、ほしい。寝たい…』
「あっそ」
時間は20時。寝るには早すぎるし、したいことも多い。
本棚から読みかけの本を選び、ベッドにあがった。そして、ヘッドボードのランプをつけて部屋の灯りを消す。
『え…』
「んだよ、寝たいんだろ。さっさと布団に入れ」
『う、うん』
雨月が入った後から俺が入り込んだ。
俺はうつ伏せになり、肘をついて本のページをめくる。
「これが読み終わったら寝る。邪魔しなければ好きにしてていい」
『…ありがとう』
雨月はやっと小さく笑って。俺の方を向いたまま、やっぱり服の裾を遠慮がち掴んで瞼を下ろす。
途端に、呼吸が寝息になるあたり、寝不足は深刻だったのだろう。
その日から、雨月は夜中に俺の部屋の窓を叩き、隣合って寝ては朝帰っていく。
そんな生活が続くようになったのだ。
Fin.