番外編、SS詰め合わせなど
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「……広くて立派なリビングね」
穂香は感嘆の声を上げた。
ノースセクターの共用リビングはモノトーンで統一されたシックなインテリアに囲まれていた。左右に分かれた個人部屋は各々特徴を出しているのだが、このリビングはいかにもブルーノースらしい。
リビングには誰も居らず、部屋からも人の気配を感じない。ノヴァが話していた通り、留守の様だ。今頃は程なくして戻ったノヴァがマリオンに事情を説明しているだろう。
「ブルーノースっぽいだろ」
「うん。…インテリアも素敵」
「穂香が好きそうだもんな」
「ええ、こういう家具で揃えるのが憧れ…っ好き」
カウンターテーブルを眺めていた穂香は口元を抑えた。不自由なく会話を進められそうだと思った矢先、不意に口から飛び出してくる。症状のピークが過ぎ、少し落ち着いてきたので喋っても大丈夫だと考えていたのだが、まだ無理の様だった。
肩を落としてスマホを取り出す彼女にガストが「穂香」と名前を呼ぶ。
「簡単な返事ならジェスチャーだけで大丈夫だ。なんか複雑で、ややこしい話になりそうだったらこっちで話してくれ」
なるべく穂香の負担にならない方向で。ガストは自分のスマホを軽く振ってそう示した。
穂香は操作しようとした指を止め、こくりと頷いてみせた。
「喉は渇いてないか?飲み物ならすぐ用意できるぜ。……よし、何がいい?緑茶、紅茶、コーヒー、エスプレッソも淹れられるぞ。茶葉やコーヒー豆の種類も結構あるし、こっち来て好きなの選んでくれないか」
整理整頓されたキッチンスペース。日常的な使用感はあれど、清潔に保たれていた。コンロ周りに油汚れは見つからず、鏡面の様なシンクに蛇口が逆さまに映り込んでいた。
ガストが棚から次々と取り出した茶葉やコーヒー豆。缶や袋に入ったそれらを順にカウンターへ並べていく。紅茶はアールグレイ、アッサム、ウバ、ダージリンなど。確かに豊富な種類だ。コーヒー豆は三種類常備していた。
「さっきラボで会ったヤツ…マリオンが紅茶派でさ。その日の気分で選んでるみたいで。ああ、心配しなくていいぜ。これは共用で飲んでいいって言われてる。自分のお気に入りはちゃんとしまってあるみたいだ」
紅茶の茶葉を前に穂香は目移りしていた。自由に選んで良いと言われれば殊更に悩むというもの。ふと缶の銘柄に見覚えがあると思えば、マーケットで売られている中でも高級品に分類される代物。これらが当たり前の様にカウンターに並んでいる。
「ミルクもあるからミルクティーにも出来るぜ。どうする?」
冷蔵庫を覗いていたガストはミルクボトルを見つけ、一ガロンボトルを片手で軽々と持ち上げて穂香の方に見せた。
それに穂香は思わず目を丸くした。その量のボトルは両手でなければ持ち上がらない。グラスに注ぐにも料理に使うにしても使い勝手が悪い。なにせおおよそ四リットルもあるのだから。ボトルを傾ける際によろけ、危うく大惨事になりかけた事もある。それをまるで軽石でも扱う様にひょいと持ち上げたのだ。
「穂香の飲みたい物でいいぞ。…そうだ、ラテアート描いてやろうか?」
「ラテアート…」
ここにはエスプレッソマシン、ミルクピッチャー、ラテボウルが揃っている。これらがあればラテアートを描くことが可能だ。
ガストからは度々ラテアートが上手く描けたと写真が送られてくる。基本のハートを始め、立体的な鳥や真っ白でまん丸な可愛らしい猫のラテアート。その時は猫好きな同期が大変喜んだという一報も添えられていた。
話には何度も聞いているが、ガストが描いたものを穂香は実際に見たことは無かった。穂香の目が静かに輝いた。これが興味を引いたと分かり、ガストは笑みを深めた。
「ラテアートにするか?」
「うん。ありがと、ガスト。……っ好き」
「ん…どう致しまして。……コーヒー豆の種類はどうすっかな。イタリア産のもあるけど、ブレンドしても…」
ガストのスマホが短く震えた。画面に表示されたメッセージは「ごめん」という一言。それを送ってきた穂香は目を伏せ、俯いていた。
「好き」という単語に免疫が多少ついてきたものの、やはり本命の子に言われるとその重みが違うもので。狼狽えずにいようとしても、隠しきれない。僅かな表情の変化を捉えられてしまったようだ。しかし、それ以上に「ごめん」という言葉がガストに深く突き刺さる。
「…穂香。穂香が謝ることじゃないって。悪いのはそのチョコ渡してきたヤツなんだし」
「……?」
「だってそうだろ。…穂香に無理やり好きだって言わせようとして、その両想いチョコレートを利用したんだ」
道具を利用し、是が非でも相手の気持ちを引き出そうとする手口に腹が立つ。【サブスタンス】の症状にこれだけ苦しんでいる姿を見ると余計にだ。だが、両者は両想い。かなり複雑な心境であるガストは表情を顰めていた。
これに対し、穂香は何のことかと疑問を抱きながら首を傾げる。ガストはまだ勘違いをしたままなのだ。
「その場で食わせなかったのは何でか分からねぇけど…。どっちにしろそいつと両想いなんだろ?……良かったな」
好きな子の恋路を応援するのはこれで二度目であり、フラれたのも二度目。自分は一生友達のままなんだろう。そんな仄暗い気持ちに囚われてしまったガストは上手く笑えずにいた。
「ガスト」
穂香は至極真面目な顔で一言声を掛けた。そして、今からスマホにメッセージを打ち込むから見てほしいとジェスチャーをする。
『ちょっと待って、何の話?』
「何って…あのチョコ、穂香が好きな先輩から貰ったヤツなんだろ。それで、二人とも両想いで…」
『確かに職場の先輩から貰った。先輩が元カレにあげるはずだった物をね』
「……元カレ?」
『私の先輩、この間まで彼氏がいたんだけど…その人が浮気してたらしくて。バレンタイン前に別れたのよ。それで、渡そうと思ってたバレンタインチョコレートが私の所に回ってきた。……意味伝わる?』
ガストが誤解をしているとこの時点で気づいた穂香は今朝の出来事をメッセージにして伝えた。急いで打ち込んだので、ちゃんと伝わっているかふと心配になる。更なる誤解を生まない為にも、事実をはっきりさせたい。
「ああ…な、なるほど。あのチョコは完全に偶々穂香の手に渡ってきた…ってことだよな」
『そう。かなりご乱心だったわ、先輩』
「……そっか。じゃあ、それが両想いチョコレートってこともその先輩、知らなかった…んだな?」
穂香は首を縦に振った。
『知らなかったと思う。ゴミ箱に投げ捨てるつもりだったって言ってたし。でもチョコレートに罪はないし、アンシェルのチョコレート好きでしょって…半ば無理やり押しつけられたわ』
「そう、だったのか。…俺はてっきり。なんか、一人で勘違いしちまってたみたいだ。そっか…」
ほっとしたような溜息をついたガスト。その顔は安心しきっていた。
ようやく互いの誤解が解けた。ガストが考えていた職場の先輩は女性で、チョコレートはその女性が元カレに用意していたもの。よくよく考えてみれば、その話をしていた時から【サブスタンス】による症状が出ていた。そのせいで話の糸が縺れていったのだろう。
好きな子に二度もフラれたわけではなかった。肩から力が抜けたガストがふにゃりと笑う。
「…悪い。今日だけで何度フラれるんだ俺…って考えてたから。さっきマリオンに好きって言ってたの見た時も【サブスタンス】のせいだって分かってんのに、結構がっつり凹んじまって。ははっ…結構打たれ弱いのかもな、俺」
「ガスト…」
ガストは二、三秒目を瞑った後に軽く頷いた。それからキッチンの脇に引っ掛けてある自分のエプロンを手に取り、コーヒー豆の袋を二つ選んだ。ブレンド比率を頭に思い浮かべ、エスプレッソの準備を始めようとする。
「よし、モヤッとしてたのもスッキリしたし…今からエスプレッソ淹れてラテアートの準備するからちょっと待っててくれよ」
すっきりと晴れた顔つきをしているガストに対し、穂香はどこか浮かない表情をしていた。
「ガスト、ちょっと待って」
穂香はエプロンの裾を遠慮がちに掴んだ。真剣な眼差しで真っすぐにガストを見つめている。片手で握りしめていたスマホをカウンターの上にゆっくりと伏せた。唇を一度きゅっと結び、肺に溜め込んでいた空気を薄く開いた唇から静かに吐き出す。指先が微かに震えていた。
「私、ガストに伝えなきゃいけないことがあるの。……でも、今伝えてもきっと信じてもらえない。だから、だから少しだけ時間を頂戴」
「…深刻な悩みなら、穂香さえ良けりゃ今聞くぜ。穂香の言うことなら俺、信じるし。そんな真面目な顔して、こんな時にウソ吐くような性格じゃないって知ってる。そりゃ、エイプリルフールとかなら別だけどさ」
「……うん」
「お節介かもしれねぇけど、時間置いたら余計に言いにくくなることってあるだろ。…俺がそれで後悔すること結構あって。まぁ、俺の経験を押しつけるワケにもいかねぇし…穂香が言いたい時でいい。今でも、今じゃなくてもちゃんと話聞く」
物事には全てタイミングが存在している。それを計り知ることはとても難しい。自分が最善だと感じたところで、相手にとっては最悪のタイミングという場合も多々ある。恋愛模様は特にそうだ。
どんな時でも真正面から向き合う姿勢を見せる。その優しさがあまりにも温かすぎて、穂香の胸がぐっと締め付けられた。日本の恋人と別れた時も、同じ様に優しい声を掛け続けてくれたのだ。あの時と同じ様に、穂香は静かにぽろぽろと涙を零し始めた。
「どっどうしたんだ。…そんなに思い詰めてんのか」
「……ガストが」
「俺が何か気に障ること言っちまったか…?」
「違う。ガストが、ガストが優しすぎるから。……私、ガストのことが好き」
はっきりとガストに届けられた「好き」という言葉。それは【サブスタンス】のせいで無理やり出てきたものではなく、穂香の本心が伝えてきた感情。
刹那、時が止まったような気さえした。何度も聞いていたはずのその単語の意味が理解出来ず、暫くの間ガストは固まっていた。状況を理解した途端に心臓が早鐘を打ち始め、頭の上から足先まで全身に熱い血が巡っていく。
「私、ずっと勘違いしてた。ガストは色んな子と仲が良くて、彼女も数えられないぐらいいて…そうだと思い込んでた。でも、本当は女の子が苦手で、彼女が一人もいたことないって」
「う……それ、誰から聞いたんだ」
「さっき、ジャクリーンちゃんから」
ガストの傷口にぐさりと見えない棘が刺さった。少年期のトラウマに未だ囚われ続けているせいで、女の子が怖い。というよりも、どう接していいか分からないのだ。
穂香はラボの仮眠室でジャクリーンとお喋りをする中、ガストのあれこれを話してくれたことに静かに耳を傾けていた。まさかこの場面で自ら語ったことが持ち出されるとは。格好悪い一面を好きな子に知られてしまうとはよもや思うまい。
「私、ガストの気持ちに気づけなかった。気づいた時にはもう遅いんだろう、他の子を好きになってるんだろうって…。色々アプローチしてくれたのに、全く気づかなくて……無関心で。本当にごめんなさい」
「穂香が謝ることじゃないって。俺が不器用で、ヘタレだったからだ。…真っ向から気持ち伝えて、玉砕して、今の関係が壊れんのが嫌で…怯えてたんだ。そんなことになるぐらいなら、このままでいいかって…ずっと思ってた。この間まではな」
はらはらと落ちる涙の雫。躊躇いがちにガストは手を伸ばし、指でそっとその雫を掬い上げる。もう随分と前から思い悩んでいた彼女の心情を知ることができたのは幸か不幸か。こうして涙を流す彼女を前に幸とはとてもじゃないが思えない。いつだって好きな子には笑っていてほしい。
「穂香。俺、捨てられそうにないんだ。…穂香を好きだっていう気持ち。ジャクリーンにどんな話聞いてるかはわかんねぇけど、俺はずっと…穂香と会った時からずっと、一人の子を想い続けてきた。穂香のことが好きだ。これからも俺の隣にいてくれないか」
◇◆◇
「ノヴァ。なんでガストに嘘を吐いたんだ」
紅茶のカップをジャックから受け取ったマリオンは不思議そうに訊ねた。
マリオンは挙動不審なガストを取り逃がした後、すぐにラボに戻って来たノヴァから事情を聞いた。レンとのトレーニングを終えた後、改めてその理由を訊きに戻って来たのである。
「あの【サブスタンス】の症状を抑える薬、あったはずだと思ったけど」
「んー…無い方がガストくんの為にもいいかなぁと思ってね」
「そうナノ。ガストちゃまは…えーと、おくゆかしいノ」
「奥ゆかしい…?ガストが?」
ジャクリーンの言葉にマリオンは怪訝そうに眉を顰めた。慎み深い性格とは言えない。ただの世話焼きでお節介なヤツだと言って紅茶を一口飲む。バラの香りが苛立ちそうになる気持ちを鎮めてくれた。
「奥手、だよジャクリーン。ガストくん、恋愛に消極的だから中々自分の気持ちを伝えられないみたいでね」
「ガストちゃま、ずーっと穂香ちゃまのことで悩んでたノ。この前もホワイトデーに好きって言おうと思ってるけど、言えないかもしれないって」
あの時一緒にいた女性がガストの好きな子だとジャクリーンが飛び跳ねた。女性が苦手なガストだが、その子だけは特別な存在なんだとマリオンに話す。ガストの恋バナを人伝に聞いたノヴァも一肌脱ごうと思いついた策だったようだ。
「そうなんだよ。だから、これがいいチャンスなんじゃないかな~って。きっかけは何であれ、ガストくんの背中を押せたんじゃないかな」
「ジャクリーンも押してあげたノ♪ガストちゃまが穂香ちゃまのこと好きだって教えてあげたノ」
「ジャクリーン…それは」
相手の気持ちをネタばらししては元も子もないのでは。そう言いかけたマリオンだが、彼女が良いことをしたと思い込んでいるので口を慎んだ。ジャクリーンの笑顔を前にそんなことは言えない。
「これでガストちゃまと穂香ちゃまはラブラブナノ♪」
「……そうだな。ジャクリーンのおかげだ」
「ウフフ♪ジャクリーン、恋のキューピッドナノ」
小さなキューピッドが恋を実らせたことを知るのは少し先の話。
穂香は感嘆の声を上げた。
ノースセクターの共用リビングはモノトーンで統一されたシックなインテリアに囲まれていた。左右に分かれた個人部屋は各々特徴を出しているのだが、このリビングはいかにもブルーノースらしい。
リビングには誰も居らず、部屋からも人の気配を感じない。ノヴァが話していた通り、留守の様だ。今頃は程なくして戻ったノヴァがマリオンに事情を説明しているだろう。
「ブルーノースっぽいだろ」
「うん。…インテリアも素敵」
「穂香が好きそうだもんな」
「ええ、こういう家具で揃えるのが憧れ…っ好き」
カウンターテーブルを眺めていた穂香は口元を抑えた。不自由なく会話を進められそうだと思った矢先、不意に口から飛び出してくる。症状のピークが過ぎ、少し落ち着いてきたので喋っても大丈夫だと考えていたのだが、まだ無理の様だった。
肩を落としてスマホを取り出す彼女にガストが「穂香」と名前を呼ぶ。
「簡単な返事ならジェスチャーだけで大丈夫だ。なんか複雑で、ややこしい話になりそうだったらこっちで話してくれ」
なるべく穂香の負担にならない方向で。ガストは自分のスマホを軽く振ってそう示した。
穂香は操作しようとした指を止め、こくりと頷いてみせた。
「喉は渇いてないか?飲み物ならすぐ用意できるぜ。……よし、何がいい?緑茶、紅茶、コーヒー、エスプレッソも淹れられるぞ。茶葉やコーヒー豆の種類も結構あるし、こっち来て好きなの選んでくれないか」
整理整頓されたキッチンスペース。日常的な使用感はあれど、清潔に保たれていた。コンロ周りに油汚れは見つからず、鏡面の様なシンクに蛇口が逆さまに映り込んでいた。
ガストが棚から次々と取り出した茶葉やコーヒー豆。缶や袋に入ったそれらを順にカウンターへ並べていく。紅茶はアールグレイ、アッサム、ウバ、ダージリンなど。確かに豊富な種類だ。コーヒー豆は三種類常備していた。
「さっきラボで会ったヤツ…マリオンが紅茶派でさ。その日の気分で選んでるみたいで。ああ、心配しなくていいぜ。これは共用で飲んでいいって言われてる。自分のお気に入りはちゃんとしまってあるみたいだ」
紅茶の茶葉を前に穂香は目移りしていた。自由に選んで良いと言われれば殊更に悩むというもの。ふと缶の銘柄に見覚えがあると思えば、マーケットで売られている中でも高級品に分類される代物。これらが当たり前の様にカウンターに並んでいる。
「ミルクもあるからミルクティーにも出来るぜ。どうする?」
冷蔵庫を覗いていたガストはミルクボトルを見つけ、一ガロンボトルを片手で軽々と持ち上げて穂香の方に見せた。
それに穂香は思わず目を丸くした。その量のボトルは両手でなければ持ち上がらない。グラスに注ぐにも料理に使うにしても使い勝手が悪い。なにせおおよそ四リットルもあるのだから。ボトルを傾ける際によろけ、危うく大惨事になりかけた事もある。それをまるで軽石でも扱う様にひょいと持ち上げたのだ。
「穂香の飲みたい物でいいぞ。…そうだ、ラテアート描いてやろうか?」
「ラテアート…」
ここにはエスプレッソマシン、ミルクピッチャー、ラテボウルが揃っている。これらがあればラテアートを描くことが可能だ。
ガストからは度々ラテアートが上手く描けたと写真が送られてくる。基本のハートを始め、立体的な鳥や真っ白でまん丸な可愛らしい猫のラテアート。その時は猫好きな同期が大変喜んだという一報も添えられていた。
話には何度も聞いているが、ガストが描いたものを穂香は実際に見たことは無かった。穂香の目が静かに輝いた。これが興味を引いたと分かり、ガストは笑みを深めた。
「ラテアートにするか?」
「うん。ありがと、ガスト。……っ好き」
「ん…どう致しまして。……コーヒー豆の種類はどうすっかな。イタリア産のもあるけど、ブレンドしても…」
ガストのスマホが短く震えた。画面に表示されたメッセージは「ごめん」という一言。それを送ってきた穂香は目を伏せ、俯いていた。
「好き」という単語に免疫が多少ついてきたものの、やはり本命の子に言われるとその重みが違うもので。狼狽えずにいようとしても、隠しきれない。僅かな表情の変化を捉えられてしまったようだ。しかし、それ以上に「ごめん」という言葉がガストに深く突き刺さる。
「…穂香。穂香が謝ることじゃないって。悪いのはそのチョコ渡してきたヤツなんだし」
「……?」
「だってそうだろ。…穂香に無理やり好きだって言わせようとして、その両想いチョコレートを利用したんだ」
道具を利用し、是が非でも相手の気持ちを引き出そうとする手口に腹が立つ。【サブスタンス】の症状にこれだけ苦しんでいる姿を見ると余計にだ。だが、両者は両想い。かなり複雑な心境であるガストは表情を顰めていた。
これに対し、穂香は何のことかと疑問を抱きながら首を傾げる。ガストはまだ勘違いをしたままなのだ。
「その場で食わせなかったのは何でか分からねぇけど…。どっちにしろそいつと両想いなんだろ?……良かったな」
好きな子の恋路を応援するのはこれで二度目であり、フラれたのも二度目。自分は一生友達のままなんだろう。そんな仄暗い気持ちに囚われてしまったガストは上手く笑えずにいた。
「ガスト」
穂香は至極真面目な顔で一言声を掛けた。そして、今からスマホにメッセージを打ち込むから見てほしいとジェスチャーをする。
『ちょっと待って、何の話?』
「何って…あのチョコ、穂香が好きな先輩から貰ったヤツなんだろ。それで、二人とも両想いで…」
『確かに職場の先輩から貰った。先輩が元カレにあげるはずだった物をね』
「……元カレ?」
『私の先輩、この間まで彼氏がいたんだけど…その人が浮気してたらしくて。バレンタイン前に別れたのよ。それで、渡そうと思ってたバレンタインチョコレートが私の所に回ってきた。……意味伝わる?』
ガストが誤解をしているとこの時点で気づいた穂香は今朝の出来事をメッセージにして伝えた。急いで打ち込んだので、ちゃんと伝わっているかふと心配になる。更なる誤解を生まない為にも、事実をはっきりさせたい。
「ああ…な、なるほど。あのチョコは完全に偶々穂香の手に渡ってきた…ってことだよな」
『そう。かなりご乱心だったわ、先輩』
「……そっか。じゃあ、それが両想いチョコレートってこともその先輩、知らなかった…んだな?」
穂香は首を縦に振った。
『知らなかったと思う。ゴミ箱に投げ捨てるつもりだったって言ってたし。でもチョコレートに罪はないし、アンシェルのチョコレート好きでしょって…半ば無理やり押しつけられたわ』
「そう、だったのか。…俺はてっきり。なんか、一人で勘違いしちまってたみたいだ。そっか…」
ほっとしたような溜息をついたガスト。その顔は安心しきっていた。
ようやく互いの誤解が解けた。ガストが考えていた職場の先輩は女性で、チョコレートはその女性が元カレに用意していたもの。よくよく考えてみれば、その話をしていた時から【サブスタンス】による症状が出ていた。そのせいで話の糸が縺れていったのだろう。
好きな子に二度もフラれたわけではなかった。肩から力が抜けたガストがふにゃりと笑う。
「…悪い。今日だけで何度フラれるんだ俺…って考えてたから。さっきマリオンに好きって言ってたの見た時も【サブスタンス】のせいだって分かってんのに、結構がっつり凹んじまって。ははっ…結構打たれ弱いのかもな、俺」
「ガスト…」
ガストは二、三秒目を瞑った後に軽く頷いた。それからキッチンの脇に引っ掛けてある自分のエプロンを手に取り、コーヒー豆の袋を二つ選んだ。ブレンド比率を頭に思い浮かべ、エスプレッソの準備を始めようとする。
「よし、モヤッとしてたのもスッキリしたし…今からエスプレッソ淹れてラテアートの準備するからちょっと待っててくれよ」
すっきりと晴れた顔つきをしているガストに対し、穂香はどこか浮かない表情をしていた。
「ガスト、ちょっと待って」
穂香はエプロンの裾を遠慮がちに掴んだ。真剣な眼差しで真っすぐにガストを見つめている。片手で握りしめていたスマホをカウンターの上にゆっくりと伏せた。唇を一度きゅっと結び、肺に溜め込んでいた空気を薄く開いた唇から静かに吐き出す。指先が微かに震えていた。
「私、ガストに伝えなきゃいけないことがあるの。……でも、今伝えてもきっと信じてもらえない。だから、だから少しだけ時間を頂戴」
「…深刻な悩みなら、穂香さえ良けりゃ今聞くぜ。穂香の言うことなら俺、信じるし。そんな真面目な顔して、こんな時にウソ吐くような性格じゃないって知ってる。そりゃ、エイプリルフールとかなら別だけどさ」
「……うん」
「お節介かもしれねぇけど、時間置いたら余計に言いにくくなることってあるだろ。…俺がそれで後悔すること結構あって。まぁ、俺の経験を押しつけるワケにもいかねぇし…穂香が言いたい時でいい。今でも、今じゃなくてもちゃんと話聞く」
物事には全てタイミングが存在している。それを計り知ることはとても難しい。自分が最善だと感じたところで、相手にとっては最悪のタイミングという場合も多々ある。恋愛模様は特にそうだ。
どんな時でも真正面から向き合う姿勢を見せる。その優しさがあまりにも温かすぎて、穂香の胸がぐっと締め付けられた。日本の恋人と別れた時も、同じ様に優しい声を掛け続けてくれたのだ。あの時と同じ様に、穂香は静かにぽろぽろと涙を零し始めた。
「どっどうしたんだ。…そんなに思い詰めてんのか」
「……ガストが」
「俺が何か気に障ること言っちまったか…?」
「違う。ガストが、ガストが優しすぎるから。……私、ガストのことが好き」
はっきりとガストに届けられた「好き」という言葉。それは【サブスタンス】のせいで無理やり出てきたものではなく、穂香の本心が伝えてきた感情。
刹那、時が止まったような気さえした。何度も聞いていたはずのその単語の意味が理解出来ず、暫くの間ガストは固まっていた。状況を理解した途端に心臓が早鐘を打ち始め、頭の上から足先まで全身に熱い血が巡っていく。
「私、ずっと勘違いしてた。ガストは色んな子と仲が良くて、彼女も数えられないぐらいいて…そうだと思い込んでた。でも、本当は女の子が苦手で、彼女が一人もいたことないって」
「う……それ、誰から聞いたんだ」
「さっき、ジャクリーンちゃんから」
ガストの傷口にぐさりと見えない棘が刺さった。少年期のトラウマに未だ囚われ続けているせいで、女の子が怖い。というよりも、どう接していいか分からないのだ。
穂香はラボの仮眠室でジャクリーンとお喋りをする中、ガストのあれこれを話してくれたことに静かに耳を傾けていた。まさかこの場面で自ら語ったことが持ち出されるとは。格好悪い一面を好きな子に知られてしまうとはよもや思うまい。
「私、ガストの気持ちに気づけなかった。気づいた時にはもう遅いんだろう、他の子を好きになってるんだろうって…。色々アプローチしてくれたのに、全く気づかなくて……無関心で。本当にごめんなさい」
「穂香が謝ることじゃないって。俺が不器用で、ヘタレだったからだ。…真っ向から気持ち伝えて、玉砕して、今の関係が壊れんのが嫌で…怯えてたんだ。そんなことになるぐらいなら、このままでいいかって…ずっと思ってた。この間まではな」
はらはらと落ちる涙の雫。躊躇いがちにガストは手を伸ばし、指でそっとその雫を掬い上げる。もう随分と前から思い悩んでいた彼女の心情を知ることができたのは幸か不幸か。こうして涙を流す彼女を前に幸とはとてもじゃないが思えない。いつだって好きな子には笑っていてほしい。
「穂香。俺、捨てられそうにないんだ。…穂香を好きだっていう気持ち。ジャクリーンにどんな話聞いてるかはわかんねぇけど、俺はずっと…穂香と会った時からずっと、一人の子を想い続けてきた。穂香のことが好きだ。これからも俺の隣にいてくれないか」
◇◆◇
「ノヴァ。なんでガストに嘘を吐いたんだ」
紅茶のカップをジャックから受け取ったマリオンは不思議そうに訊ねた。
マリオンは挙動不審なガストを取り逃がした後、すぐにラボに戻って来たノヴァから事情を聞いた。レンとのトレーニングを終えた後、改めてその理由を訊きに戻って来たのである。
「あの【サブスタンス】の症状を抑える薬、あったはずだと思ったけど」
「んー…無い方がガストくんの為にもいいかなぁと思ってね」
「そうナノ。ガストちゃまは…えーと、おくゆかしいノ」
「奥ゆかしい…?ガストが?」
ジャクリーンの言葉にマリオンは怪訝そうに眉を顰めた。慎み深い性格とは言えない。ただの世話焼きでお節介なヤツだと言って紅茶を一口飲む。バラの香りが苛立ちそうになる気持ちを鎮めてくれた。
「奥手、だよジャクリーン。ガストくん、恋愛に消極的だから中々自分の気持ちを伝えられないみたいでね」
「ガストちゃま、ずーっと穂香ちゃまのことで悩んでたノ。この前もホワイトデーに好きって言おうと思ってるけど、言えないかもしれないって」
あの時一緒にいた女性がガストの好きな子だとジャクリーンが飛び跳ねた。女性が苦手なガストだが、その子だけは特別な存在なんだとマリオンに話す。ガストの恋バナを人伝に聞いたノヴァも一肌脱ごうと思いついた策だったようだ。
「そうなんだよ。だから、これがいいチャンスなんじゃないかな~って。きっかけは何であれ、ガストくんの背中を押せたんじゃないかな」
「ジャクリーンも押してあげたノ♪ガストちゃまが穂香ちゃまのこと好きだって教えてあげたノ」
「ジャクリーン…それは」
相手の気持ちをネタばらししては元も子もないのでは。そう言いかけたマリオンだが、彼女が良いことをしたと思い込んでいるので口を慎んだ。ジャクリーンの笑顔を前にそんなことは言えない。
「これでガストちゃまと穂香ちゃまはラブラブナノ♪」
「……そうだな。ジャクリーンのおかげだ」
「ウフフ♪ジャクリーン、恋のキューピッドナノ」
小さなキューピッドが恋を実らせたことを知るのは少し先の話。
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