番外編、SS詰め合わせなど
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チョコレートに翻弄される
ブルーノースシティの中心部にはお洒落なカフェが点在している。
先日テレビで紹介されたこの場所は人気を集めており、日によっては席が空くまで待ち時間を要する事もある。
穂香が訪れた時間帯は昼時を避けたおかげもあり、席が丁度空いていた。彼女は窓際の席で温かいコーヒーを飲みながら外を眺めている。
軒先の店に飾られた青と白のガーランドが風に揺れている。今日のノースシティ一帯は寒気に覆われ、肌寒い日であった。
こんな日でも『ヒーロー』はパトロールに赴き、街の平和を脅かすものに立ち向かう。それは【サブスタンス】による被害の時もあれば、【イクリプス】と対峙する場合もある。
穂香の友人であり、待ち人のガスト・アドラーも昨年からその職に就いているので、遅れてきている理由は大方それだろうと穂香は腕時計を見る。約束の時間から三十分経過していた。
ガストは今日の約束を穂香に取り付ける際、「買い物に付き合ってほしい」と話していた。自分はレッドサウス育ちだからノースシティの店で買い物をする機会があまり無いのだと。一人で店に入るにはかなり勇気が要ると笑っていた。その点、穂香はノースシティの事務所で働いている。日本から赴任して三年半。この街にも慣れたものだ。
一際強い風が窓の外を通り抜けていった。フラッグがバタバタと揺れる。
この寒空の下、頑張っている友人に労いの意を込めて温かいコーヒーを奢ってあげよう。
穂香は遅れていることに腹を立てるよりも、寒さに耐えながら街を見回るガストを案じていた。
仕事を昼で上がってきた穂香は先に軽く昼食を済ませていた。しかし、出来合いの小さなサンドイッチ一つではどうにも小腹が空く。と言うよりは甘い物が何か欲しい。食後のコーヒーのつもりで頼んだブラックコーヒーが余計にそうさせていた。
穂香は隣の席に置いたバッグに目を向けた。そこにはチョコレートの箱が入っている。これは職場の先輩に押しつけられたもので、ある意味曰く付きの物だ。
これは過ぎたバレンタインに用意された物だった。本来ならば穂香の先輩が彼氏に渡すチョコレートだったのだが、バレンタイン直前に浮気が発覚。激しい口論の末にすっぱりと別れた。随分とあっさりした決断、未練も何も無いという清々しさに穂香は賞賛の拍手を送りたくなるほどであった。
そして問題のチョコレートであるが、半月が経った現在になって部屋の隅に箱ごと投げ捨ててあったのを発見したという。これを見た途端に収まっていた怒りが沸々と蘇ってきた。箱を鷲掴み、今度こそゴミ箱にシュートしようとした。しかし、チョコレートに罪は無いと傍と我に返る。くっきりと指がめり込んだ箱を暫く睨みつけ、仕事用にバッグに詰め込んだというわけだ。
そのチョコレートが丸ごと穂香の手に渡ってしまった理由は大したものではない。ロッカールームで偶然一緒になり、偶然バッグからはみ出ていたチョコレートの箱について穂香が訊ねたのだ。「それどうしたんですか」と。地雷を踏んでしまうとは思いもせずに。
「穂香、チョコレート好きでしょ?!これ、あげる!全部食べていいから!」
その怒涛の勢いに穂香は断る術も暇も無かった。チョコレートを手放す理由を早口で説明され、箱ごと押しつけられたチョコレートを受け取ったというわけだ。
メーカーは有名なアンシェルで、バレンタイン時期限定の高級チョコレート。販売開始から十分で売り切れたという代物だ。理由はどうあれ、高級品を貰ったからにはそれなりのお返しを考えなければならない。穂香の先輩は全く見返りなど求めていないだろうが、そうもいかない。ギブアンドテイク精神が板についている穂香は仕事中も頭を悩ませていた。
ガストが来た際に一緒に考えてもらおうか。話のネタにもなる。穂香は「大変な物貰っちまったな」と苦笑いを浮かべるガストの顔を思い浮かべた。
バッグに手を伸ばした穂香はチョコレートの箱をテーブルに取り出した。小ぶりな四角い箱のデザインは赤を基調とした可愛らしいもので、目を惹きつけられる。ただ、箱の隅に指の形がくっきりと残っていた。恨みの痕跡とも言える。
仕切りで分けられた六粒のチョコレート。味見も兼ねて一粒口に放り込んだ。
甘い芳醇な香りと濃厚なチョコレートが口の中で絹の様に解けていく。文句無しで最高の味だ。チョコレートに目がない穂香は頬を緩めた。ブラックコーヒーとの相性は抜群。この至高のチョコレートを味わう機会を失った相手は本当に勿体無い。見知らぬ相手を憐れんでしまう、それほど美味しいチョコレートだった。
しかし、このチョコレートが厄介な代物であったことに穂香は気づくはずも無かった。
幸せに包まれるこのひと時。余韻に浸っていた後、カフェのドアベルがカランカランと店内に鳴り響いた。
穂香が入口に目を向けると息を弾ませているガストの姿が見えた。店員に「待ち合わせをしている」と伝え、店内を見渡そうとした。直ぐに翠眼が穂香を捉え、目が合った彼女はひらひらとガストに手を振ってみせた。途端にガストの表情がパッと輝く。
「穂香、お待たせ。遅れちまって悪い。…結構待たせちまったよな」
「気にしないで。お仕事お疲れ様」
「サンキュ。…上がろうと思った矢先に厄介な【サブスタンス】と出くわしちまって。そいつの対応してたらすっかり遅くなっちまった」
「大変だったのね。ガストたちのおかげで私たちが平和に暮らせてるんだし…いつもありがと。外、寒かったでしょ。飲み物奢るから好きなの頼んで」
「いや…俺が遅刻してきたのに、それは図々しすぎるっつーか…」
「ガストが寒い中頑張ってる間、私は暖かい室内で待ってたんだもの。少しぐらい労わせて。それに、ちょっと相談乗ってもらいたいこともあるし」
メニュー表を差し出した穂香は「それならイーブンでしょ」と付け加えた。それを受け取るガストは少々渋った様子を見せるが、彼女の厚意を断るのも気が引ける。相談とは何だろうか。ガストはそれを気にしながらも有難くコーヒーを頂くことにした。
ガストから注文を受けた店員は水が入ったグラスを一つ彼の前に置き、もう一つのグラスにウォーターピッチャーから水を注いでいった。
「少し温まってから買い物に行きましょ」
「そうだな。今日は一段と冷え込んでて、手がもうかじかんで酷いぜ…。俺はこの後何も予定無いんだけど、穂香は?」
「私も予定無いわよ」
「じゃあ買い物終わったらメシ食いに行かないか。ノースに新しくできたダイナーがあるんだ。そこ行ってみようぜ」
「ノースに?へぇ…どんな感じなのか気になる。じゃあ夕飯はそこで食べましょ」
「よし、決まりだな」
穂香の快い返事を受けたガストは上機嫌に笑った。
何を隠そう、ガストは穂香に想いを寄せている。かれこれ三年半になる。
夏空の下で出逢った恋は日を追うごとに想いを連ねていった。しかし、紅葉を迎える頃にその想いは儚く散ってしまう。
日本に恋人が居る。そうだと知ったのはガストが想いを告げようとした直前であった。それはもう大きな石槌で殴られた様なショックを受けた。
海を隔てた遠距離恋愛でも穂香は幸せそうだった。一途なその想い方にガストは嫉妬する事も。
そんな彼女に想いを打ち明けようとはしなかった。彼女の顔を曇らせたくなかったのだ。穂香には笑っていてほしい。それが見られるならば、自分の密かな想いは胸の奥底に沈めておこう。良き友人として側に居られるならば、それでいいと思っていた。
そして時が過ぎ去り、昨年の夏に穂香は日本の恋人と別れた。これを機に沈めていた想いを告げようと考えたこともあったのだが、その一歩が踏み出せずに今日に至る。
ガストの想いは消えるどころか、燻り続けていた。恋に終止符を打った彼女は何故次の恋を探さないのか。その理由はもしかしてと淡い期待を抱きもするが、未だ進展が望めないまま友人関係をずるずると引きずっている。だが、今度こそはと強い気持ちで臨もうとしていた。
「それで、今日のお目当ては?」
「ええと…その、一緒に選んでもらいたい物があって」
「私のセンスでいいのかしら」
「ああ。むしろ穂香じゃないと意味がないっていうか…」
ガストの言葉は尻すぼみに消えていく。自信の無さがそこに現れており、しかもこのタイミングで席にコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせ致しました。ごゆっくりどうぞ」
互いの会話が一度そこで途切れると、コーヒーを楽しむ時間に切り替わった。
ガストが温かいコーヒーにミルクを注げば水面に渦を巻くような模様が現れる。そういえば、と思い出した様に彼は口を開いた。先日描いたラテアートが上手くいったので、同室のレンにとても喜ばれたと。こっちまで嬉しくなったとガストが無邪気に笑う。これを見た穂香は些細な事で喜ぶのは昔から変わらないと笑みを零した。
「同期の人と打ち解けていってるみたいで良かったわ。…ところで、どこのお店?」
「この近くにあるショップだ。アクセサリー扱ってる店で」と、ガストはどこか気恥ずかしそうに喋る。頬がほんのり赤く染まったのは冷えた身体が温まってきたせいではなさそうだ。
暦は三月を迎えている。恐らくはバレンタインのお返しを見繕うのだろう。ガストはこのルックスから女性に大層モテることを穂香は知っていた。多数の女性に言い寄られ、揉めている場面に何度か遭遇もしている。
それこそ昔は「モテる男は大変ね」と茶化していたのだが、今はどうだろうか。複雑な感情が穂香の胸中に渦巻いている。今も胸の辺りが詰まる様な思いであった。
コーヒーカップを静かにソーサーへ戻し、視線を伏せたまま穂香はガストに訊ねた。
「ホワイトデーの贈り物かしら」
「まぁ、そんなとこだな」
「さっきも聞いたけど、私のセンスでいいの」
「穂香がいいなって思ったヤツを選んでほしいんだ」
「…分かった」
「あ、そういや相談したいことってなんだ?」
テーブルの隅に置かれた綺麗なチョコレートの箱。穂香の視線がそこで止まったので、それはどうしたのかとガストが訊ねる。
「このチョコレート…なん、だけど。好きっ…?先輩から、貰っ…ひっく。ごめ、なんか急に、しゃっくりが」
「大丈夫か?」
穂香は口元と痙攣する胸元を軽く押さえ、呼吸を落ち着けようとした。しかし、息をする度に横隔膜が跳ね上がってしゃっくりが出てきてしまう。何の前触れも無く出始めたしゃっくりに疑問を抱きながらも、ガストは水の入ったグラスを穂香の前に置く。
「あ、ありがと……っく」
「先輩から貰ったチョコレートって、これの事だよな。なんかバレンタイン用っぽい感じだけど」
「…えぇ、それ…なんだけどっ」
「おいおい、ホントに大丈夫かよ。止まるまで待つから無理に喋んない方がいいぜ」
水を飲めば一時的に治まるようだが、口を開けばまたしゃっくりが込み上げてくる。穂香があまりにも苦しそうに喋るので、会話を中断させようとした。
「う、ん……っ。ガスト、……好き」
「……え?」
穂香の口から不意に出た単語。それまでの脈絡どころかそんな雰囲気でも無かったのだが。そのままの意味で捉えると「ガストが好き」という意味合いになる。
これには二人が同時に目を丸くした。穂香はそんな事を言うつもり無かった、ガストはまさか彼女からそう言われるなんて。後者にとっては夢じゃなかろうかとさえ思っている。
「え、…私、なんで。ひっく…好き」
「え、えっと…あ、いや…ちょっと、その」
ガストの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。何か様子がおかしいと頭の隅で気づいていながらも、意中の彼女から「好き」と言われて舞い上がっている自分もいた。嬉しくないはずがない。言葉にならない単語を発していたガストは口元を抑えて俯いた。心拍数は上昇、その音が外に聞こえてしまいそうな程。煩く高鳴っていた。
「ご、ごめん…でも、なんかおかし…っく。好き」
「……とりあえず、とりあえず落ち着こう。うん、落ち着け俺。ええと……何の話、してたんだっけ」
「チョコレート、っ大好き。の話よ。それ、好き…先輩から貰って、さっき食べたんだけど…好き」
ガストは思わず頭を抱えた。たった二文字の言葉がこれほどまでに破壊力があるとは。いや、今はそこに集中している場合ではない。頭の隅に引っかかる事を必死に思い出そうとしていた。
断片的な穂香の話を纏めるとつまりこうだ。「好きな先輩から貰ったチョコレートを食べた」と。あくまでガストの推測だが、好きな先輩がいるということに改めてショックを受けてしまう。
ガストは片肘を付き、色々取り乱さない様に精一杯落ち着きを払って見せようとする。その視線は彷徨っていた。
「……それ、アンシェルのチョコレートだよな。……なんか、思い当たる節がある」
「え…?」
「先月の頭ぐらいに一般販売されたチョコレートに【サブスタンス】が混入されてたって研究部のヤツらが話してたんだ。それがアンシェルから販売されてた物だって。正確にはカカオ栽培地の土壌に【サブスタンス】が埋まってたとかで、メーカー側の過失じゃないとは言ってたけど、その症状が好きとか嫌いとか勝手に口から出てくるっていう…」
ガストは息を継ぐ間も無く、淡々と頭にある情報を並べた。こうでもしなければ冷静さを保っていられない。穂香はこれらとよく似た症状を発症している。ガストの混乱していた頭が段々と整理されてきた。
「もしかして、まだ回収されてない商品があったのか…?それが運悪く穂香の手に渡っちまった…いや、故意に…?」
件のチョコレートは『両想いチョコレート』としてSNSで暫く話題になっていた。それを口にした者は好意的な発言をする。上手く使えば片想いの相手から好きと言ってもらえるわけだ。
その噂を耳にした時、ガストは気に入らないやり方だと顔を顰めていた。嘘でも好きと言われたら嬉しいかもしれない。だが、気持ちが伴わない好意は虚しいだけだろうと。
穂香にそうさせようとした男にガストは心底腹を立てていた。その先輩が女性である事や、勘違いをしている事に気が付くはずも無い。
先ずはこの状況を何とかしなければいけない。ガストは一人頷き、顔を上げて穂香を見る。彼女は不安そうにしていた。「大丈夫だ」と優しく声を掛ける。
「【HELIOS】の研究部なら何とかしてくれる。ちょっと予定変更になっちまうけど、今からエリオスタワーに向かおうぜ」
「ガスト……ありがと。っ…大好き」
彼女の口から零れ落ちる「好き」という単語は只でさえガストを動揺させるというのに、そこに大が付くと計り知れない威力となる。非常に動揺したガストは手元のコーヒーカップに手をぶつけ、その拍子にカップが倒れてしまった。零れたコーヒーがガストのスラックスを引っ掛けた。
「熱っ!」
「ちょっと、大丈夫…!っ好き」
「だ、大丈夫だ。大丈夫だからとりあえず落ち着け俺…!」
感情をコントロールしろ。それをメンターではなく自分自身へ向けて、必死に感情を落ち着かせようとしていた。
この後もコーヒースプーンをテーブルの上に転がしたり、グラスの水を零してしまったりと一時店を騒がせてしまった。
◇◆◇
「まさかまだ回収されてないチョコレートがあったなんてねぇ」
「…ああ、俺もびっくりした。そのチョコの噂が立ってから結構経ってたし、もう全部回収されたと思ってたからな」
「もしかしたら、何らかの理由で渡しそびれちゃったのを持っていたのかもしれないね。……ところでガストくん、だいぶ疲れてるみたいだけど大丈夫かい?」
かなり疲弊したガストはぐったりとしながらもノヴァに笑ってみせた。
ガストと穂香はあの後ノースシティから南に下り、エリオスタワーにやってきた。その間の移動中も穂香の症状は治まらず、むしろ悪化する一方。口を開く度に「好き」「大好き」と出てくる。次第に穂香は黙りがちになった。口さえ開かなければこの症状は発現しない。穂香の声が聞こえなくなると、ガストの心配をより煽る形にもなった。
エリオスタワーに到着して直ぐに研究部へ向かい、ラボにいたノヴァに事情を説明。【サブスタンス】のせいかもしれないと見解を示し、判断を仰いだ。
と、そこへラボを偶然訪れたジャックはガストを見るなり目を三角に吊り上げた。「スラックスに汚れを検知しマシタ!汚れの種類はコーヒーと思われマス。シミになる前に洗濯をしマス!」とガストにぐいぐい迫り寄る。緊急事態だから後でと言っても聞き入れてくれる様子は全くない。壁際に追いやられそうになったガストを助けるべく、ノヴァがこういった理由だと説明をする。ジャックは少し悩んだ末「着替えを持ってきマス」とラボを後にしたのだ。
そんなやり取りもあった為、余計にガストは疲れてしまっていた。
「大丈夫だ。…穂香の症状はどのぐらいで落ち着くんだ?」
「一日程度かなぁ。彼女は一般人だし。今が症状のピークみたいだから、徐々に落ち着いてくると思うよ」
「一日か…【バレンタイン・リーグ】で使った特効薬とかは無いのか?」
「それが材料が不足してるんだ。フェイスくんに作ってあげたマスクの材料も切らしてるし…ごめんね」
ノヴァが申し訳なさそうにガストにそう謝った。
先日開催の【バレンタイン・リーグ】で大規模な同様の事件が発生していた。この時は好意的な発言とは真逆の敵意ある言葉が観客席に飛び交ってしまった。カップルたちの喧嘩がヒートアップしかけた時に効果を発揮したのがその特効薬。しかし、口は禍の元とはよく言ったもので、暫く会場内の空気が重苦しく淀んでいた。その後、第13期のウエストチームが空気を塗り替え、無事にイベントリーグは成功を収めた。
「じゃあ、どうしたらいい?安静にしてた方がいいとか」
「うーん。特に無いかな。身体に異常をきたすわけでもないから、普通に過ごしてもらって構わないよ」
「そっか。…普通に、か。でも念の為にゆっくり過ごしてもらった方がいいよな」
ガストは資料や本が乱雑に積まれたデスクの向こう側を見る。穂香は診断を受けた後、奥の仮眠室で待機していた。一人では暇だろうからと気を利かせたジャクリーンも一緒だ。
「ノヴァ博士。そこの仮眠室、そのまま穂香に使わせてもらってもいいか。…突然こんな風になっちまったし、疲れてると思うんだ。だから安全な場所で休ませてやりたくて」
「それは構わないけど」
「サンキュー。ここなら何かあった時に対応して貰えるし、一番いいと思ってさ」
不測の事態が発生した際に対応が可能な場所。ここであれば何かあっても大丈夫だとガストは信じていた。
それだけ穂香の事が心配で、大切な存在なのだろう。それを知っていたノヴァは目を柔らかく細める。
「…おれはガストくんが側にいてあげた方が、一番いいと思うんだけどね」
「え…?いや、でも…俺がいたら落ち着かないだろうし」
「ガストくん。おれたちは【サブスタンス】に慣れてるけど、一般人にとっては生命に危機を及ぼさない微弱な【サブスタンス】でも驚異に感じる。…前回のイベントリーグ戦でみんな疑心暗鬼に陥っちゃったみたいに。だから、ガストくんみたいに親しい人が側にいてくれたら不安も和らぐと思うんだ」
ノヴァはゆっくりとガストに言い聞かせる。日頃から【サブスタンス】の扱いや対応をしている【HELIOS】関係者ならば「この程度の物か」と思うだろう。しかし、穂香は免疫も知識も乏しい一般人だ。理論上、害は無いと説明した所で漠然とした不安だけが残されてしまう。
ガストは口数が減った穂香のことを心配していた。気丈な彼女がいつになく不安そうに表情を曇らせていたのだ。そんな状態の彼女を一人残して置けるのかと聞かれているようなもの。それは出来ない。自身の中でガストは即答した。
「…そうだよな。穂香にしてみればワケのわかんねぇ症状で苦しんでる。それを一人っきりにさせたら…不安に押し潰されちまうかも。今は頼れんの俺くらいしかいねぇし…」
「そうそう、その意気だよガストくん」
「え?」
「症状の悪化が心配ならタワー内で過ごしてくれれば対応できる。部屋のリビングで映画でも見たらどうかな。ヴィクはラボに籠もりっきりだし、マリオンはレンくんとトレーニングの約束があるみたいだよ」
おかしな事にまるで示し合わせた様に同居人たちは不在。それを教えたノヴァがやけにニコニコしているのも気になる所ではあるが、この際ガストにとって都合が良い。誰かと顔を合わせれば会話を避けることはほぼ不可能。そこで自分以外の男に「好き」と言ってる場面を目にしては、メンタルに大変よろしくない。それが少しでも回避出来るのならば、リビングで症状が治まるまで過ごすのが最善だ。
ガストはその提案に乗ることにした。
「じゃあ、リビングで暫く過ごさせてもらう」
「そうするといいよ。マリオンたちに会ったらおれから事情は説明しておくから」
「サンキュー」
すっかりオフの予定を塗り替えられてしまったが、致し方あるまい。過ごし方が少し変わっただけで、彼女と過ごす時間には変わりないのだから。ホワイトデーの贈り物はまた次の機会にすればいい。開店したダイナーのメニューも事前に調べておけば後の楽しみも増える。
ガストは前向きに今の状況を捉え、穂香に声を掛けに行こうと仮眠室へ足を向けようとした。
「ガスト。洗濯が完了している物から着替えをお持ちしマシタ。オフと聞いていマシタので私服デス」
「おお、サンキュー、早かったなジャック」
「一刻も早くシミを取りたいデスから」
「はは…だよな。すぐ着替えるからちょっとだけ待っててくれ」
「わかりマシタ」
いち早く戻ってきたジャックが着替え一式の紙袋をガストに差し出した。色が濃い生地のスラックスならばシミも目立たないだろうと万が一にでも口にすれば烈火の如く怒り出すであろう。何となくそんな予感を察していたガストは柔和な笑みを浮かべるだけにした。
紙袋を手に改めて仮眠室のドアをノック。中から「はいナノ〜!」と元気なジャクリーンの声が返ってきた。
二人はベッドに並んでお喋りをしていた。そっとガストが穂香の様子を窺う。彼女の暗い表情は少しだけ晴れていた。ジャクリーンのおかげだろうか。
「ガストちゃま。パパとお話は終わったノ?」
「ああ、終わったぜ」
「ジャクリーンも穂香ちゃまといっぱいお話ができて、とーっても楽しかったノ〜!」
ガストは度々ジャクリーンとお話をしていた。最近の出来事や楽しい話がメインだ。そこで良く耳にする穂香という人物。会話を重ねる毎にどんなレディなのかとジャクリーンは想像を膨らませていた。
実際に対面した穂香はジャクリーンの目にとても素敵なレディに映っていた。穂香は聞かれたことに対して答えていただけ。なにせこの状態だ。もう少し気の利いた話を展開したい気持ちもあった。それでもジャクリーンはニコニコと嬉しそうに笑ってくれたので、気持ちがふわりと安らいだ。
「ジャクリーンは前から穂香と話したがってたもんな」
「はいナノ。ウフフ♪」
「随分ご機嫌だな」
「穂香ちゃまにいっぱい好きって言ってもらったノ〜♪」
小さな体をぴょん、ぴょんと跳ねさせるジャクリーン。ニッコリと笑いながら「嬉しいノ!」と話す彼女だが、穂香は【サブスタンス】の症状で「好き」という単語を口にしているだけ。それを単純に相手からの好意として受け取っている。「好き」と言われて嫌な気がする者は殆どいないだろう。
穂香はジャクリーンを穏やかな眼差しで見守っていた。年の離れた妹を見るように。
「…そっか。良かったな、ジャクリーン」
「ジャクリーンも穂香ちゃまのこと大好きナノ。もちろんガストちゃまのことも大好きナノ♪」
「おう。俺もジャクリーンのこと好きだぜ」
「ウフフ。好きがいっぱいでみんなハッピーナノ!」
ジャクリーンの周りにカラフルな小花や小さなハートがいっぱい浮かんでいる。そんな幻覚が見えそうなぐらいに彼女は幸せな笑顔を振りまいていた。その頭を穂香が優しく撫でる。
「ジャクリーン。ちょっと穂香と話したいから、ノヴァ博士の所に行っててくれないか」
「わかったノ。ガストちゃまも穂香ちゃまにいっぱい好きって言ってもらうといいノ」
ベッドからぴょいと飛び降りたジャクリーンはトテトテと歩いてラボの方へ消えていった。
夜の浜辺の様に静まり返った室内。何となく、気まずい雰囲気になってしまった。ガストはどう声を掛けようかと悩んでいた。
「あー…穂香、調子はどうだ?…って、良いワケないよな。とりあえず他に気になる症状とかはないか?」
見上げてきた焦げ茶色の目。その目にじっと見つめられたガストは思わずドキリとした。またここで先程のように慌てふためいては穂香を心配させてしまう。上頬に熱が集まるのを感じながらも平静を装うとする。
ガストの問い掛けに対し穂香は黙って首を横へ振った。気になる症状は無いという返事だ。
「そっか。それなら良いんだ。…ノヴァ博士から聞いたかもしれねぇけど、今が症状のピークらしいから段々落ち着くってさ。だからそれまでタワー内で過ごすのがいいんじゃないかって話だ」
「……」
「…それで、ここじゃ暇も潰せないし、俺たちの部屋のリビングに来ないか?テレビもあるから映画やドラマも見れるし、コミックスもある。この間、サウスの本屋を手伝った話をしただろ?その時のお礼にって貰ったんだ。そうだ『不思議の国のアリス』の読み聞かせも出来るぜ。結構いい感じに読めるようになったんだ」
「……」
ガストが懸命に話すも穂香からのリアクションは一つも無かった。それどころか軽く俯いてしまった。やはり不安が勝っているのだろう。
この部屋に入ってからガストは一度も穂香の声を聞いていない。その事がさらにガストの不安を煽る。
「…やっぱ不安、だよな。ワケわかんねぇ事に振り回されちまって…でも、俺がいる。怖いとか、苦しいとか…とにかく何か困った事があれば俺を頼ってくれ。全力で何とかしてみせる…その、さっきは情けないトコ見せちまったけど……ん?」
何とか元気付けようとするガスト。狼狽えれば相手を不安にさせてしまう。何が起きても冷静に受け止めなくては。そう心に誓ったガストの袖を穂香が不意に引っ張って注意を促した。いつの間にか穂香の手元にはスマホがあり、ガストに自分のスマホを見るようにジェスチャーで伝える。
ガストはスラックスの後ろポケットからスマホを取り出し、画面を点灯させた。メッセージの通知が一件。目の前にいる穂香から届いたものだ。
『こっちで返事する。ガスト、色々ありがと』
声に出すことが難しいのならば、筆談としてメッセージアプリを活用すればいい。穂香はそれに気が付いた。それを思いつく余裕すらなかったガストは「成程な」と深く納得する。
「これなら言いたいことちゃんと伝わるもんな」
『ちょっとタイムラグは生じるけどね。でもこの方がガストに迷惑かけないと思ったから』
「俺は迷惑だなんて思ってないぞ。…穂香の声が聞けないのはちょっと寂しい気もするけど、この方が話しやすいならこの方法でコミュニケーション取ろうぜ」
そう言ってガストは柔らかく穂香に微笑んでみせた。俄か、穂香の頬が熱くなる。先程のジャクリーンとの会話の一端を思い出したていた。
『ガストちゃまは穂香ちゃまのことが好きだから嫌われたくないって言ってたノ』
ガストとは長い付き合いであった。穂香がニューミリオンに赴任した時からだ。観光がてらにとあちこち遊びに連れ出してくれたので、思い出は楽しいものばかり。故に良い友人関係を築いてきた。そう、穂香は思っていた。
友達としての「好き」ではなく、恋焦がれる意味だと知ったのは昨年の木枯らしが吹く頃。しかし、ガストがずっと一途に自分を想い続けていたのだと気づくには少々遅すぎた。今さらという後ろめたさを強く感じた穂香は、芽生え始めた感情を心の内に仕舞いこんだのだ。
気が無い女にはやがて愛想が尽きるだろうと。そう、思っていたのだが。ガストは未だ穂香を想い続けている。それを先程知ってしまった。
穂香は俯き加減でスマホに文字を打ち込んだ。
『そういえば、火傷しなかった?大丈夫?』
「火傷?……あ、さっきのか。大したことないぜ。だいぶ温くなってたし。ああ、それで先に着替えようと思ってさ。それからリビングに連れてく」
『良かった。オーケー。私、部屋の外に居た方がいいわね。ノヴァさんの所で待ってる』
手に提げた紙袋とガストの顔を順に見た穂香は腰を上げ、足早に仮眠室を後にした。
彼女の心情を知る由も無いガスト。早く着替えて彼女と合流しようという事しか考えていなかった。ジャックが用意した着替えをベッドの上に取り出し、コーヒーで汚れてしまったスラックスを脱ぎ始める。元々生地の色が濃いので、多少シミになったとしても目立ちはしない。なんてことをジャックの前で言おうものなら烈火の如く怒り出すだろう。
ルームウェアに袖を通しながらジャックにお詫びの品をとガストは考えていた。好物をマリオンに聞いてみようか。メンターとのコミュニケーションの一環にもなる。平素から手厳しい彼も家族同然のジャックの事ならば柔和な対応をしてくれるだろう。
手早く着替えたガストは制服を紙袋に畳んで詰め込み、仮眠室からラボに移動したその時。とんでもない場面に遭遇してしまった。
「……っ、好きです」
穂香がマリオンに告白をしていた。
顔を赤らめているのは不意に出てきてしまった症状のせい。それを正面から受け止めたマリオンも少し驚いたような表情でいる。傍から見れば甘酸っぱい恋愛ドラマの様な一場面。【サブスタンス】の症状と頭で理解しているガストだが、好きな子の告白シーンを目の当たりにした彼の手から紙袋がどさりと床に落ちた
マリオンは突然の告白に面食らっていたものの、直ぐに微笑んでみせた。それはいつも彼がファンに向けているものと同じ顔だ。
「ありがとう。サインはどこに書けばいい?」
「えっ…サイン?……え、ええと…手帳に。お願いします」
「分かった」
穂香にとっては予期せぬ流れとなったが、逆に都合が良い展開だ。マリオンのファンだと思われたのだろう。慌てて穂香は手帳を鞄から取り出し、フリースペースを開いてボールペンと一緒にマリオンへ差し出した。
白いページにサラサラと綴られるマリオンの筆跡。ニューミリオンに長く滞在しているが『ヒーロー』から貰ったサインはこれが初めてだった。それだけガストは穂香にとってあまりにも身近な友人なのだ。
「いつも応援してくれてありがとう。これからもノースセクターをよろしく」
「は、はい」
「ガスト。いつまでそこで呆けているつもりだ」
マリオンの視線がきっと鋭く光る。呆然としていたガストはハッと我に返るも、未だこの現状についていけてない。告白シーンは転じてファンサービスの場面となったが、ガストにとっては間接的にフラれたに近い。これがそのまま良い雰囲気になろうものなら、例え立場が下であろうと「ちょっと待った!」と割って入っていただろう。
ガストは足元に落とした紙袋を拾い上げてから引き攣った笑みを浮かべた。
「……ノヴァ博士とジャクリーンがいねぇみたいだけど、どこに行ったのかなぁと思って。マリオンはいつの間に来てたんだ…?」
「ボクは今ここに来た。それが突っ立っている理由とは思えないが。ノヴァは医療部に呼ばれていったし、ジャクリーンも一緒についていった」
「そ、そっかぁ…ノヴァ博士は大変だなぁ。あちこち引っ張りだこで。それだけ頼りにされてるってことか。ああ、ジャック。これ、頼むよ」
「有難うございマス」
早口で話すガスト。紙袋を受け取ったジャックが一目散にラボを出ていく。それだけでも充分に怪しい上に、集合場所から慌ただしく居なくなったガストをマリオンは訝しむ。ジロリと彼を睨むが、一般市民の穂香がいる手前少し口調は穏やかに努めていた。
「それよりガスト、オマエ待ち合わせがあるから急ぐと言ってなかったか。それがどうして此処にいるんだ」
「いやぁ…それがちょっと色々あって…」
「色々?」
咎めるような紫水晶の視線。話の内容を詮索され、それが長引けば長引くほどダメージが募るのは目に見えていた。ガストは居ても立っても居られなくなり「悪い!」と声を上げた。
「マリオン、事情はノヴァ博士から聞いてくれ頼む!これ以上俺の傷口を抉らないでくれ…!」
「……おい!ちょっと待て!」
自分の口から説明をするよりも【サブスタンス】の専門家であるノヴァに任せた方が信憑性もある。この場をノヴァに託したガストは穂香の手を引いてラボを足早に退出。華奢な手を掴んだガストの手は少し汗ばんでいた。
◇
ブルーノースシティの中心部にはお洒落なカフェが点在している。
先日テレビで紹介されたこの場所は人気を集めており、日によっては席が空くまで待ち時間を要する事もある。
穂香が訪れた時間帯は昼時を避けたおかげもあり、席が丁度空いていた。彼女は窓際の席で温かいコーヒーを飲みながら外を眺めている。
軒先の店に飾られた青と白のガーランドが風に揺れている。今日のノースシティ一帯は寒気に覆われ、肌寒い日であった。
こんな日でも『ヒーロー』はパトロールに赴き、街の平和を脅かすものに立ち向かう。それは【サブスタンス】による被害の時もあれば、【イクリプス】と対峙する場合もある。
穂香の友人であり、待ち人のガスト・アドラーも昨年からその職に就いているので、遅れてきている理由は大方それだろうと穂香は腕時計を見る。約束の時間から三十分経過していた。
ガストは今日の約束を穂香に取り付ける際、「買い物に付き合ってほしい」と話していた。自分はレッドサウス育ちだからノースシティの店で買い物をする機会があまり無いのだと。一人で店に入るにはかなり勇気が要ると笑っていた。その点、穂香はノースシティの事務所で働いている。日本から赴任して三年半。この街にも慣れたものだ。
一際強い風が窓の外を通り抜けていった。フラッグがバタバタと揺れる。
この寒空の下、頑張っている友人に労いの意を込めて温かいコーヒーを奢ってあげよう。
穂香は遅れていることに腹を立てるよりも、寒さに耐えながら街を見回るガストを案じていた。
仕事を昼で上がってきた穂香は先に軽く昼食を済ませていた。しかし、出来合いの小さなサンドイッチ一つではどうにも小腹が空く。と言うよりは甘い物が何か欲しい。食後のコーヒーのつもりで頼んだブラックコーヒーが余計にそうさせていた。
穂香は隣の席に置いたバッグに目を向けた。そこにはチョコレートの箱が入っている。これは職場の先輩に押しつけられたもので、ある意味曰く付きの物だ。
これは過ぎたバレンタインに用意された物だった。本来ならば穂香の先輩が彼氏に渡すチョコレートだったのだが、バレンタイン直前に浮気が発覚。激しい口論の末にすっぱりと別れた。随分とあっさりした決断、未練も何も無いという清々しさに穂香は賞賛の拍手を送りたくなるほどであった。
そして問題のチョコレートであるが、半月が経った現在になって部屋の隅に箱ごと投げ捨ててあったのを発見したという。これを見た途端に収まっていた怒りが沸々と蘇ってきた。箱を鷲掴み、今度こそゴミ箱にシュートしようとした。しかし、チョコレートに罪は無いと傍と我に返る。くっきりと指がめり込んだ箱を暫く睨みつけ、仕事用にバッグに詰め込んだというわけだ。
そのチョコレートが丸ごと穂香の手に渡ってしまった理由は大したものではない。ロッカールームで偶然一緒になり、偶然バッグからはみ出ていたチョコレートの箱について穂香が訊ねたのだ。「それどうしたんですか」と。地雷を踏んでしまうとは思いもせずに。
「穂香、チョコレート好きでしょ?!これ、あげる!全部食べていいから!」
その怒涛の勢いに穂香は断る術も暇も無かった。チョコレートを手放す理由を早口で説明され、箱ごと押しつけられたチョコレートを受け取ったというわけだ。
メーカーは有名なアンシェルで、バレンタイン時期限定の高級チョコレート。販売開始から十分で売り切れたという代物だ。理由はどうあれ、高級品を貰ったからにはそれなりのお返しを考えなければならない。穂香の先輩は全く見返りなど求めていないだろうが、そうもいかない。ギブアンドテイク精神が板についている穂香は仕事中も頭を悩ませていた。
ガストが来た際に一緒に考えてもらおうか。話のネタにもなる。穂香は「大変な物貰っちまったな」と苦笑いを浮かべるガストの顔を思い浮かべた。
バッグに手を伸ばした穂香はチョコレートの箱をテーブルに取り出した。小ぶりな四角い箱のデザインは赤を基調とした可愛らしいもので、目を惹きつけられる。ただ、箱の隅に指の形がくっきりと残っていた。恨みの痕跡とも言える。
仕切りで分けられた六粒のチョコレート。味見も兼ねて一粒口に放り込んだ。
甘い芳醇な香りと濃厚なチョコレートが口の中で絹の様に解けていく。文句無しで最高の味だ。チョコレートに目がない穂香は頬を緩めた。ブラックコーヒーとの相性は抜群。この至高のチョコレートを味わう機会を失った相手は本当に勿体無い。見知らぬ相手を憐れんでしまう、それほど美味しいチョコレートだった。
しかし、このチョコレートが厄介な代物であったことに穂香は気づくはずも無かった。
幸せに包まれるこのひと時。余韻に浸っていた後、カフェのドアベルがカランカランと店内に鳴り響いた。
穂香が入口に目を向けると息を弾ませているガストの姿が見えた。店員に「待ち合わせをしている」と伝え、店内を見渡そうとした。直ぐに翠眼が穂香を捉え、目が合った彼女はひらひらとガストに手を振ってみせた。途端にガストの表情がパッと輝く。
「穂香、お待たせ。遅れちまって悪い。…結構待たせちまったよな」
「気にしないで。お仕事お疲れ様」
「サンキュ。…上がろうと思った矢先に厄介な【サブスタンス】と出くわしちまって。そいつの対応してたらすっかり遅くなっちまった」
「大変だったのね。ガストたちのおかげで私たちが平和に暮らせてるんだし…いつもありがと。外、寒かったでしょ。飲み物奢るから好きなの頼んで」
「いや…俺が遅刻してきたのに、それは図々しすぎるっつーか…」
「ガストが寒い中頑張ってる間、私は暖かい室内で待ってたんだもの。少しぐらい労わせて。それに、ちょっと相談乗ってもらいたいこともあるし」
メニュー表を差し出した穂香は「それならイーブンでしょ」と付け加えた。それを受け取るガストは少々渋った様子を見せるが、彼女の厚意を断るのも気が引ける。相談とは何だろうか。ガストはそれを気にしながらも有難くコーヒーを頂くことにした。
ガストから注文を受けた店員は水が入ったグラスを一つ彼の前に置き、もう一つのグラスにウォーターピッチャーから水を注いでいった。
「少し温まってから買い物に行きましょ」
「そうだな。今日は一段と冷え込んでて、手がもうかじかんで酷いぜ…。俺はこの後何も予定無いんだけど、穂香は?」
「私も予定無いわよ」
「じゃあ買い物終わったらメシ食いに行かないか。ノースに新しくできたダイナーがあるんだ。そこ行ってみようぜ」
「ノースに?へぇ…どんな感じなのか気になる。じゃあ夕飯はそこで食べましょ」
「よし、決まりだな」
穂香の快い返事を受けたガストは上機嫌に笑った。
何を隠そう、ガストは穂香に想いを寄せている。かれこれ三年半になる。
夏空の下で出逢った恋は日を追うごとに想いを連ねていった。しかし、紅葉を迎える頃にその想いは儚く散ってしまう。
日本に恋人が居る。そうだと知ったのはガストが想いを告げようとした直前であった。それはもう大きな石槌で殴られた様なショックを受けた。
海を隔てた遠距離恋愛でも穂香は幸せそうだった。一途なその想い方にガストは嫉妬する事も。
そんな彼女に想いを打ち明けようとはしなかった。彼女の顔を曇らせたくなかったのだ。穂香には笑っていてほしい。それが見られるならば、自分の密かな想いは胸の奥底に沈めておこう。良き友人として側に居られるならば、それでいいと思っていた。
そして時が過ぎ去り、昨年の夏に穂香は日本の恋人と別れた。これを機に沈めていた想いを告げようと考えたこともあったのだが、その一歩が踏み出せずに今日に至る。
ガストの想いは消えるどころか、燻り続けていた。恋に終止符を打った彼女は何故次の恋を探さないのか。その理由はもしかしてと淡い期待を抱きもするが、未だ進展が望めないまま友人関係をずるずると引きずっている。だが、今度こそはと強い気持ちで臨もうとしていた。
「それで、今日のお目当ては?」
「ええと…その、一緒に選んでもらいたい物があって」
「私のセンスでいいのかしら」
「ああ。むしろ穂香じゃないと意味がないっていうか…」
ガストの言葉は尻すぼみに消えていく。自信の無さがそこに現れており、しかもこのタイミングで席にコーヒーが運ばれてきた。
「お待たせ致しました。ごゆっくりどうぞ」
互いの会話が一度そこで途切れると、コーヒーを楽しむ時間に切り替わった。
ガストが温かいコーヒーにミルクを注げば水面に渦を巻くような模様が現れる。そういえば、と思い出した様に彼は口を開いた。先日描いたラテアートが上手くいったので、同室のレンにとても喜ばれたと。こっちまで嬉しくなったとガストが無邪気に笑う。これを見た穂香は些細な事で喜ぶのは昔から変わらないと笑みを零した。
「同期の人と打ち解けていってるみたいで良かったわ。…ところで、どこのお店?」
「この近くにあるショップだ。アクセサリー扱ってる店で」と、ガストはどこか気恥ずかしそうに喋る。頬がほんのり赤く染まったのは冷えた身体が温まってきたせいではなさそうだ。
暦は三月を迎えている。恐らくはバレンタインのお返しを見繕うのだろう。ガストはこのルックスから女性に大層モテることを穂香は知っていた。多数の女性に言い寄られ、揉めている場面に何度か遭遇もしている。
それこそ昔は「モテる男は大変ね」と茶化していたのだが、今はどうだろうか。複雑な感情が穂香の胸中に渦巻いている。今も胸の辺りが詰まる様な思いであった。
コーヒーカップを静かにソーサーへ戻し、視線を伏せたまま穂香はガストに訊ねた。
「ホワイトデーの贈り物かしら」
「まぁ、そんなとこだな」
「さっきも聞いたけど、私のセンスでいいの」
「穂香がいいなって思ったヤツを選んでほしいんだ」
「…分かった」
「あ、そういや相談したいことってなんだ?」
テーブルの隅に置かれた綺麗なチョコレートの箱。穂香の視線がそこで止まったので、それはどうしたのかとガストが訊ねる。
「このチョコレート…なん、だけど。好きっ…?先輩から、貰っ…ひっく。ごめ、なんか急に、しゃっくりが」
「大丈夫か?」
穂香は口元と痙攣する胸元を軽く押さえ、呼吸を落ち着けようとした。しかし、息をする度に横隔膜が跳ね上がってしゃっくりが出てきてしまう。何の前触れも無く出始めたしゃっくりに疑問を抱きながらも、ガストは水の入ったグラスを穂香の前に置く。
「あ、ありがと……っく」
「先輩から貰ったチョコレートって、これの事だよな。なんかバレンタイン用っぽい感じだけど」
「…えぇ、それ…なんだけどっ」
「おいおい、ホントに大丈夫かよ。止まるまで待つから無理に喋んない方がいいぜ」
水を飲めば一時的に治まるようだが、口を開けばまたしゃっくりが込み上げてくる。穂香があまりにも苦しそうに喋るので、会話を中断させようとした。
「う、ん……っ。ガスト、……好き」
「……え?」
穂香の口から不意に出た単語。それまでの脈絡どころかそんな雰囲気でも無かったのだが。そのままの意味で捉えると「ガストが好き」という意味合いになる。
これには二人が同時に目を丸くした。穂香はそんな事を言うつもり無かった、ガストはまさか彼女からそう言われるなんて。後者にとっては夢じゃなかろうかとさえ思っている。
「え、…私、なんで。ひっく…好き」
「え、えっと…あ、いや…ちょっと、その」
ガストの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。何か様子がおかしいと頭の隅で気づいていながらも、意中の彼女から「好き」と言われて舞い上がっている自分もいた。嬉しくないはずがない。言葉にならない単語を発していたガストは口元を抑えて俯いた。心拍数は上昇、その音が外に聞こえてしまいそうな程。煩く高鳴っていた。
「ご、ごめん…でも、なんかおかし…っく。好き」
「……とりあえず、とりあえず落ち着こう。うん、落ち着け俺。ええと……何の話、してたんだっけ」
「チョコレート、っ大好き。の話よ。それ、好き…先輩から貰って、さっき食べたんだけど…好き」
ガストは思わず頭を抱えた。たった二文字の言葉がこれほどまでに破壊力があるとは。いや、今はそこに集中している場合ではない。頭の隅に引っかかる事を必死に思い出そうとしていた。
断片的な穂香の話を纏めるとつまりこうだ。「好きな先輩から貰ったチョコレートを食べた」と。あくまでガストの推測だが、好きな先輩がいるということに改めてショックを受けてしまう。
ガストは片肘を付き、色々取り乱さない様に精一杯落ち着きを払って見せようとする。その視線は彷徨っていた。
「……それ、アンシェルのチョコレートだよな。……なんか、思い当たる節がある」
「え…?」
「先月の頭ぐらいに一般販売されたチョコレートに【サブスタンス】が混入されてたって研究部のヤツらが話してたんだ。それがアンシェルから販売されてた物だって。正確にはカカオ栽培地の土壌に【サブスタンス】が埋まってたとかで、メーカー側の過失じゃないとは言ってたけど、その症状が好きとか嫌いとか勝手に口から出てくるっていう…」
ガストは息を継ぐ間も無く、淡々と頭にある情報を並べた。こうでもしなければ冷静さを保っていられない。穂香はこれらとよく似た症状を発症している。ガストの混乱していた頭が段々と整理されてきた。
「もしかして、まだ回収されてない商品があったのか…?それが運悪く穂香の手に渡っちまった…いや、故意に…?」
件のチョコレートは『両想いチョコレート』としてSNSで暫く話題になっていた。それを口にした者は好意的な発言をする。上手く使えば片想いの相手から好きと言ってもらえるわけだ。
その噂を耳にした時、ガストは気に入らないやり方だと顔を顰めていた。嘘でも好きと言われたら嬉しいかもしれない。だが、気持ちが伴わない好意は虚しいだけだろうと。
穂香にそうさせようとした男にガストは心底腹を立てていた。その先輩が女性である事や、勘違いをしている事に気が付くはずも無い。
先ずはこの状況を何とかしなければいけない。ガストは一人頷き、顔を上げて穂香を見る。彼女は不安そうにしていた。「大丈夫だ」と優しく声を掛ける。
「【HELIOS】の研究部なら何とかしてくれる。ちょっと予定変更になっちまうけど、今からエリオスタワーに向かおうぜ」
「ガスト……ありがと。っ…大好き」
彼女の口から零れ落ちる「好き」という単語は只でさえガストを動揺させるというのに、そこに大が付くと計り知れない威力となる。非常に動揺したガストは手元のコーヒーカップに手をぶつけ、その拍子にカップが倒れてしまった。零れたコーヒーがガストのスラックスを引っ掛けた。
「熱っ!」
「ちょっと、大丈夫…!っ好き」
「だ、大丈夫だ。大丈夫だからとりあえず落ち着け俺…!」
感情をコントロールしろ。それをメンターではなく自分自身へ向けて、必死に感情を落ち着かせようとしていた。
この後もコーヒースプーンをテーブルの上に転がしたり、グラスの水を零してしまったりと一時店を騒がせてしまった。
◇◆◇
「まさかまだ回収されてないチョコレートがあったなんてねぇ」
「…ああ、俺もびっくりした。そのチョコの噂が立ってから結構経ってたし、もう全部回収されたと思ってたからな」
「もしかしたら、何らかの理由で渡しそびれちゃったのを持っていたのかもしれないね。……ところでガストくん、だいぶ疲れてるみたいだけど大丈夫かい?」
かなり疲弊したガストはぐったりとしながらもノヴァに笑ってみせた。
ガストと穂香はあの後ノースシティから南に下り、エリオスタワーにやってきた。その間の移動中も穂香の症状は治まらず、むしろ悪化する一方。口を開く度に「好き」「大好き」と出てくる。次第に穂香は黙りがちになった。口さえ開かなければこの症状は発現しない。穂香の声が聞こえなくなると、ガストの心配をより煽る形にもなった。
エリオスタワーに到着して直ぐに研究部へ向かい、ラボにいたノヴァに事情を説明。【サブスタンス】のせいかもしれないと見解を示し、判断を仰いだ。
と、そこへラボを偶然訪れたジャックはガストを見るなり目を三角に吊り上げた。「スラックスに汚れを検知しマシタ!汚れの種類はコーヒーと思われマス。シミになる前に洗濯をしマス!」とガストにぐいぐい迫り寄る。緊急事態だから後でと言っても聞き入れてくれる様子は全くない。壁際に追いやられそうになったガストを助けるべく、ノヴァがこういった理由だと説明をする。ジャックは少し悩んだ末「着替えを持ってきマス」とラボを後にしたのだ。
そんなやり取りもあった為、余計にガストは疲れてしまっていた。
「大丈夫だ。…穂香の症状はどのぐらいで落ち着くんだ?」
「一日程度かなぁ。彼女は一般人だし。今が症状のピークみたいだから、徐々に落ち着いてくると思うよ」
「一日か…【バレンタイン・リーグ】で使った特効薬とかは無いのか?」
「それが材料が不足してるんだ。フェイスくんに作ってあげたマスクの材料も切らしてるし…ごめんね」
ノヴァが申し訳なさそうにガストにそう謝った。
先日開催の【バレンタイン・リーグ】で大規模な同様の事件が発生していた。この時は好意的な発言とは真逆の敵意ある言葉が観客席に飛び交ってしまった。カップルたちの喧嘩がヒートアップしかけた時に効果を発揮したのがその特効薬。しかし、口は禍の元とはよく言ったもので、暫く会場内の空気が重苦しく淀んでいた。その後、第13期のウエストチームが空気を塗り替え、無事にイベントリーグは成功を収めた。
「じゃあ、どうしたらいい?安静にしてた方がいいとか」
「うーん。特に無いかな。身体に異常をきたすわけでもないから、普通に過ごしてもらって構わないよ」
「そっか。…普通に、か。でも念の為にゆっくり過ごしてもらった方がいいよな」
ガストは資料や本が乱雑に積まれたデスクの向こう側を見る。穂香は診断を受けた後、奥の仮眠室で待機していた。一人では暇だろうからと気を利かせたジャクリーンも一緒だ。
「ノヴァ博士。そこの仮眠室、そのまま穂香に使わせてもらってもいいか。…突然こんな風になっちまったし、疲れてると思うんだ。だから安全な場所で休ませてやりたくて」
「それは構わないけど」
「サンキュー。ここなら何かあった時に対応して貰えるし、一番いいと思ってさ」
不測の事態が発生した際に対応が可能な場所。ここであれば何かあっても大丈夫だとガストは信じていた。
それだけ穂香の事が心配で、大切な存在なのだろう。それを知っていたノヴァは目を柔らかく細める。
「…おれはガストくんが側にいてあげた方が、一番いいと思うんだけどね」
「え…?いや、でも…俺がいたら落ち着かないだろうし」
「ガストくん。おれたちは【サブスタンス】に慣れてるけど、一般人にとっては生命に危機を及ぼさない微弱な【サブスタンス】でも驚異に感じる。…前回のイベントリーグ戦でみんな疑心暗鬼に陥っちゃったみたいに。だから、ガストくんみたいに親しい人が側にいてくれたら不安も和らぐと思うんだ」
ノヴァはゆっくりとガストに言い聞かせる。日頃から【サブスタンス】の扱いや対応をしている【HELIOS】関係者ならば「この程度の物か」と思うだろう。しかし、穂香は免疫も知識も乏しい一般人だ。理論上、害は無いと説明した所で漠然とした不安だけが残されてしまう。
ガストは口数が減った穂香のことを心配していた。気丈な彼女がいつになく不安そうに表情を曇らせていたのだ。そんな状態の彼女を一人残して置けるのかと聞かれているようなもの。それは出来ない。自身の中でガストは即答した。
「…そうだよな。穂香にしてみればワケのわかんねぇ症状で苦しんでる。それを一人っきりにさせたら…不安に押し潰されちまうかも。今は頼れんの俺くらいしかいねぇし…」
「そうそう、その意気だよガストくん」
「え?」
「症状の悪化が心配ならタワー内で過ごしてくれれば対応できる。部屋のリビングで映画でも見たらどうかな。ヴィクはラボに籠もりっきりだし、マリオンはレンくんとトレーニングの約束があるみたいだよ」
おかしな事にまるで示し合わせた様に同居人たちは不在。それを教えたノヴァがやけにニコニコしているのも気になる所ではあるが、この際ガストにとって都合が良い。誰かと顔を合わせれば会話を避けることはほぼ不可能。そこで自分以外の男に「好き」と言ってる場面を目にしては、メンタルに大変よろしくない。それが少しでも回避出来るのならば、リビングで症状が治まるまで過ごすのが最善だ。
ガストはその提案に乗ることにした。
「じゃあ、リビングで暫く過ごさせてもらう」
「そうするといいよ。マリオンたちに会ったらおれから事情は説明しておくから」
「サンキュー」
すっかりオフの予定を塗り替えられてしまったが、致し方あるまい。過ごし方が少し変わっただけで、彼女と過ごす時間には変わりないのだから。ホワイトデーの贈り物はまた次の機会にすればいい。開店したダイナーのメニューも事前に調べておけば後の楽しみも増える。
ガストは前向きに今の状況を捉え、穂香に声を掛けに行こうと仮眠室へ足を向けようとした。
「ガスト。洗濯が完了している物から着替えをお持ちしマシタ。オフと聞いていマシタので私服デス」
「おお、サンキュー、早かったなジャック」
「一刻も早くシミを取りたいデスから」
「はは…だよな。すぐ着替えるからちょっとだけ待っててくれ」
「わかりマシタ」
いち早く戻ってきたジャックが着替え一式の紙袋をガストに差し出した。色が濃い生地のスラックスならばシミも目立たないだろうと万が一にでも口にすれば烈火の如く怒り出すであろう。何となくそんな予感を察していたガストは柔和な笑みを浮かべるだけにした。
紙袋を手に改めて仮眠室のドアをノック。中から「はいナノ〜!」と元気なジャクリーンの声が返ってきた。
二人はベッドに並んでお喋りをしていた。そっとガストが穂香の様子を窺う。彼女の暗い表情は少しだけ晴れていた。ジャクリーンのおかげだろうか。
「ガストちゃま。パパとお話は終わったノ?」
「ああ、終わったぜ」
「ジャクリーンも穂香ちゃまといっぱいお話ができて、とーっても楽しかったノ〜!」
ガストは度々ジャクリーンとお話をしていた。最近の出来事や楽しい話がメインだ。そこで良く耳にする穂香という人物。会話を重ねる毎にどんなレディなのかとジャクリーンは想像を膨らませていた。
実際に対面した穂香はジャクリーンの目にとても素敵なレディに映っていた。穂香は聞かれたことに対して答えていただけ。なにせこの状態だ。もう少し気の利いた話を展開したい気持ちもあった。それでもジャクリーンはニコニコと嬉しそうに笑ってくれたので、気持ちがふわりと安らいだ。
「ジャクリーンは前から穂香と話したがってたもんな」
「はいナノ。ウフフ♪」
「随分ご機嫌だな」
「穂香ちゃまにいっぱい好きって言ってもらったノ〜♪」
小さな体をぴょん、ぴょんと跳ねさせるジャクリーン。ニッコリと笑いながら「嬉しいノ!」と話す彼女だが、穂香は【サブスタンス】の症状で「好き」という単語を口にしているだけ。それを単純に相手からの好意として受け取っている。「好き」と言われて嫌な気がする者は殆どいないだろう。
穂香はジャクリーンを穏やかな眼差しで見守っていた。年の離れた妹を見るように。
「…そっか。良かったな、ジャクリーン」
「ジャクリーンも穂香ちゃまのこと大好きナノ。もちろんガストちゃまのことも大好きナノ♪」
「おう。俺もジャクリーンのこと好きだぜ」
「ウフフ。好きがいっぱいでみんなハッピーナノ!」
ジャクリーンの周りにカラフルな小花や小さなハートがいっぱい浮かんでいる。そんな幻覚が見えそうなぐらいに彼女は幸せな笑顔を振りまいていた。その頭を穂香が優しく撫でる。
「ジャクリーン。ちょっと穂香と話したいから、ノヴァ博士の所に行っててくれないか」
「わかったノ。ガストちゃまも穂香ちゃまにいっぱい好きって言ってもらうといいノ」
ベッドからぴょいと飛び降りたジャクリーンはトテトテと歩いてラボの方へ消えていった。
夜の浜辺の様に静まり返った室内。何となく、気まずい雰囲気になってしまった。ガストはどう声を掛けようかと悩んでいた。
「あー…穂香、調子はどうだ?…って、良いワケないよな。とりあえず他に気になる症状とかはないか?」
見上げてきた焦げ茶色の目。その目にじっと見つめられたガストは思わずドキリとした。またここで先程のように慌てふためいては穂香を心配させてしまう。上頬に熱が集まるのを感じながらも平静を装うとする。
ガストの問い掛けに対し穂香は黙って首を横へ振った。気になる症状は無いという返事だ。
「そっか。それなら良いんだ。…ノヴァ博士から聞いたかもしれねぇけど、今が症状のピークらしいから段々落ち着くってさ。だからそれまでタワー内で過ごすのがいいんじゃないかって話だ」
「……」
「…それで、ここじゃ暇も潰せないし、俺たちの部屋のリビングに来ないか?テレビもあるから映画やドラマも見れるし、コミックスもある。この間、サウスの本屋を手伝った話をしただろ?その時のお礼にって貰ったんだ。そうだ『不思議の国のアリス』の読み聞かせも出来るぜ。結構いい感じに読めるようになったんだ」
「……」
ガストが懸命に話すも穂香からのリアクションは一つも無かった。それどころか軽く俯いてしまった。やはり不安が勝っているのだろう。
この部屋に入ってからガストは一度も穂香の声を聞いていない。その事がさらにガストの不安を煽る。
「…やっぱ不安、だよな。ワケわかんねぇ事に振り回されちまって…でも、俺がいる。怖いとか、苦しいとか…とにかく何か困った事があれば俺を頼ってくれ。全力で何とかしてみせる…その、さっきは情けないトコ見せちまったけど……ん?」
何とか元気付けようとするガスト。狼狽えれば相手を不安にさせてしまう。何が起きても冷静に受け止めなくては。そう心に誓ったガストの袖を穂香が不意に引っ張って注意を促した。いつの間にか穂香の手元にはスマホがあり、ガストに自分のスマホを見るようにジェスチャーで伝える。
ガストはスラックスの後ろポケットからスマホを取り出し、画面を点灯させた。メッセージの通知が一件。目の前にいる穂香から届いたものだ。
『こっちで返事する。ガスト、色々ありがと』
声に出すことが難しいのならば、筆談としてメッセージアプリを活用すればいい。穂香はそれに気が付いた。それを思いつく余裕すらなかったガストは「成程な」と深く納得する。
「これなら言いたいことちゃんと伝わるもんな」
『ちょっとタイムラグは生じるけどね。でもこの方がガストに迷惑かけないと思ったから』
「俺は迷惑だなんて思ってないぞ。…穂香の声が聞けないのはちょっと寂しい気もするけど、この方が話しやすいならこの方法でコミュニケーション取ろうぜ」
そう言ってガストは柔らかく穂香に微笑んでみせた。俄か、穂香の頬が熱くなる。先程のジャクリーンとの会話の一端を思い出したていた。
『ガストちゃまは穂香ちゃまのことが好きだから嫌われたくないって言ってたノ』
ガストとは長い付き合いであった。穂香がニューミリオンに赴任した時からだ。観光がてらにとあちこち遊びに連れ出してくれたので、思い出は楽しいものばかり。故に良い友人関係を築いてきた。そう、穂香は思っていた。
友達としての「好き」ではなく、恋焦がれる意味だと知ったのは昨年の木枯らしが吹く頃。しかし、ガストがずっと一途に自分を想い続けていたのだと気づくには少々遅すぎた。今さらという後ろめたさを強く感じた穂香は、芽生え始めた感情を心の内に仕舞いこんだのだ。
気が無い女にはやがて愛想が尽きるだろうと。そう、思っていたのだが。ガストは未だ穂香を想い続けている。それを先程知ってしまった。
穂香は俯き加減でスマホに文字を打ち込んだ。
『そういえば、火傷しなかった?大丈夫?』
「火傷?……あ、さっきのか。大したことないぜ。だいぶ温くなってたし。ああ、それで先に着替えようと思ってさ。それからリビングに連れてく」
『良かった。オーケー。私、部屋の外に居た方がいいわね。ノヴァさんの所で待ってる』
手に提げた紙袋とガストの顔を順に見た穂香は腰を上げ、足早に仮眠室を後にした。
彼女の心情を知る由も無いガスト。早く着替えて彼女と合流しようという事しか考えていなかった。ジャックが用意した着替えをベッドの上に取り出し、コーヒーで汚れてしまったスラックスを脱ぎ始める。元々生地の色が濃いので、多少シミになったとしても目立ちはしない。なんてことをジャックの前で言おうものなら烈火の如く怒り出すだろう。
ルームウェアに袖を通しながらジャックにお詫びの品をとガストは考えていた。好物をマリオンに聞いてみようか。メンターとのコミュニケーションの一環にもなる。平素から手厳しい彼も家族同然のジャックの事ならば柔和な対応をしてくれるだろう。
手早く着替えたガストは制服を紙袋に畳んで詰め込み、仮眠室からラボに移動したその時。とんでもない場面に遭遇してしまった。
「……っ、好きです」
穂香がマリオンに告白をしていた。
顔を赤らめているのは不意に出てきてしまった症状のせい。それを正面から受け止めたマリオンも少し驚いたような表情でいる。傍から見れば甘酸っぱい恋愛ドラマの様な一場面。【サブスタンス】の症状と頭で理解しているガストだが、好きな子の告白シーンを目の当たりにした彼の手から紙袋がどさりと床に落ちた
マリオンは突然の告白に面食らっていたものの、直ぐに微笑んでみせた。それはいつも彼がファンに向けているものと同じ顔だ。
「ありがとう。サインはどこに書けばいい?」
「えっ…サイン?……え、ええと…手帳に。お願いします」
「分かった」
穂香にとっては予期せぬ流れとなったが、逆に都合が良い展開だ。マリオンのファンだと思われたのだろう。慌てて穂香は手帳を鞄から取り出し、フリースペースを開いてボールペンと一緒にマリオンへ差し出した。
白いページにサラサラと綴られるマリオンの筆跡。ニューミリオンに長く滞在しているが『ヒーロー』から貰ったサインはこれが初めてだった。それだけガストは穂香にとってあまりにも身近な友人なのだ。
「いつも応援してくれてありがとう。これからもノースセクターをよろしく」
「は、はい」
「ガスト。いつまでそこで呆けているつもりだ」
マリオンの視線がきっと鋭く光る。呆然としていたガストはハッと我に返るも、未だこの現状についていけてない。告白シーンは転じてファンサービスの場面となったが、ガストにとっては間接的にフラれたに近い。これがそのまま良い雰囲気になろうものなら、例え立場が下であろうと「ちょっと待った!」と割って入っていただろう。
ガストは足元に落とした紙袋を拾い上げてから引き攣った笑みを浮かべた。
「……ノヴァ博士とジャクリーンがいねぇみたいだけど、どこに行ったのかなぁと思って。マリオンはいつの間に来てたんだ…?」
「ボクは今ここに来た。それが突っ立っている理由とは思えないが。ノヴァは医療部に呼ばれていったし、ジャクリーンも一緒についていった」
「そ、そっかぁ…ノヴァ博士は大変だなぁ。あちこち引っ張りだこで。それだけ頼りにされてるってことか。ああ、ジャック。これ、頼むよ」
「有難うございマス」
早口で話すガスト。紙袋を受け取ったジャックが一目散にラボを出ていく。それだけでも充分に怪しい上に、集合場所から慌ただしく居なくなったガストをマリオンは訝しむ。ジロリと彼を睨むが、一般市民の穂香がいる手前少し口調は穏やかに努めていた。
「それよりガスト、オマエ待ち合わせがあるから急ぐと言ってなかったか。それがどうして此処にいるんだ」
「いやぁ…それがちょっと色々あって…」
「色々?」
咎めるような紫水晶の視線。話の内容を詮索され、それが長引けば長引くほどダメージが募るのは目に見えていた。ガストは居ても立っても居られなくなり「悪い!」と声を上げた。
「マリオン、事情はノヴァ博士から聞いてくれ頼む!これ以上俺の傷口を抉らないでくれ…!」
「……おい!ちょっと待て!」
自分の口から説明をするよりも【サブスタンス】の専門家であるノヴァに任せた方が信憑性もある。この場をノヴァに託したガストは穂香の手を引いてラボを足早に退出。華奢な手を掴んだガストの手は少し汗ばんでいた。
◇