番外編、SS詰め合わせなど
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彼女が猫になりました
ガスト・アドラーと如月レンは近くの談話室に慌てた様子で滑り込んだ。談話室に人の姿はなく、それが彼らにとって幸いなことであった。
静まり返った室内で、二人はそれぞれ腕に抱えている猫に視線を落とす。ガストに抱えられている三毛猫はアーモンド型の瞳を持ち上げ、じっとガストの顔を見つめていた。
「…どうする、レン」
ガストはあくまで平常心を心掛け、レンに意見を求めた。レンはというと、流石にこの事態に動揺を隠せないのか、表情に焦りの色が見られる。腕にはしっかりと猫を優しく抱きとめている。
どうすると訊かれ、どうもこうもないと静かに口を開いた。
「…このまま野に放つわけにいかない」
「レン、落ち着こうぜ。野良猫前提で話すのはおかしいだろ」
「……分かってる」
レンはぴったりと胸に頭をくっつけているマンチカンの頭を指でそっと撫でた。マンチカンは怯えているのか微かに震えているようだ。
ガストに抱えられている三毛猫は長いしっぽをゆらりと揺らした。
この出来事は二十分ほど前に遡る。
彼らはエリオスタワーのロビーフロアでそれぞれ霧華、穂香と待ち合わせる約束を交わしていた。偶然にも外出日と待ち合わせ場所が重なったのだ。
先に到着していた彼女たちは互いの待ち人が来るまでの間、話に華を咲かせながら楽しんでいた。もはや定職となった目覚まし係のガストは待ち合わせ時間に間に合うよう、レンを起こして慌ただしくロビーフロアまで降りてきたという。
顔を合わせた四人はしばらく他愛もない話をしていた。まだ夢現のレンを覚醒させてからとガストの計らいもあってだ。
そして事件が起きる。レンの寝惚け眼もはっきりとしてきたので、そろそろ解散しようとした時だ。彼らが彼女たちの方を振り向くと、そこにはさっきまで話していたはずの二人の姿は消えていて、代わりに二匹の猫がいた。
目の前にいた彼女たちが猫になったのだ。何を言っているか分からないと思うが、それを目の当たりにしたガストたちも信じられずにいた。現にレンが錯乱してしまう程。
足元で三毛猫がにゃーんと鳴き声を上げた。
この猫たちは紛れもなく、霧華と穂香だ。何故かマンチカンと三毛猫に姿が変わってしまった。その理由や原因は分からない。だが、とにかく人目のつかない場所へ移動した方が良さそうだ。瞬時にそう判断した二人は猫を抱えあげ、一先ずタワーの上層部へ。近場の談話室に駆け込んだというわけだ。
「一般市民の目に触れないようにとりあえずここまで来たはいいけど」
「大丈夫か」
レンは腕の中で震えているマンチカンに顔を近づけ、優しく抱きしめた。その表情はとても柔らかい。
それは以前に迷い猫を探していた時のものと酷似していた。猫相手には柔和な態度を見せるのでこれにはもう慣れてきた。あのマンチカンは霧華のはずだが、ここに来るまでの間、二人は一言も発していない。姿が猫に変化してしまったのだから、人の言葉も話すことができなくなったのでは。そう一抹の不安が過ったガストだが。
「ねえ、ガスト。下ろしてくれない?それか支えるならちゃんと支えてくれないと、圧迫されて苦しいし足が伸びてしんどい」
ガストが腕に抱えていた三毛猫が不意に人の言葉を喋った。それに驚いたガストは静まり返った談話室で大声を出してしまう。
「しゃ、喋ったぁぁぁぁ?!」
「そりゃ喋るわよ。元々人間なんだから」
「……ということは穂香で間違いない、よな?いや、でもさっきにゃーって鳴いてただろ。猫みたいに」
「ええ。試しに鳴いてみたら、ホントに猫みたいな声が出たの。……なんで猫になっちゃったのかしら」
三毛猫の穂香はガストをじっと見上げ、瞬きをした。長い尻尾が左右にペシペシと揺れる。
猫と会話ができている。摩訶不思議なこの現象にガストは頭を抱えたくなった。自分の彼女が猫になってしまったのだ。ただ、言葉がそのまま通じるのは実に有り難い。
「じゃあ、霧華ちゃんも喋れるってことだよな?」
レンの腕にしっかりと抱かれているマンチカンが声を震わせながら「どうしよう」と呟いた。
霧華は伏せていた顔を上げ、哀しい目をレンに向ける。
「……明日、ポラリスたちの健康診断…行かないといけないのに。私がこんな姿じゃ……連れていけない」
「だ、大丈夫だって。…俺たちも突然のことで焦ってたけど、だいぶ落ち着いてきたし。二人が元に戻れる方法探す」
「ああ、必ず。……万が一戻れなくても俺がポラリスたちを病院に連れていく。霧華も一緒に」
「ガストさん、レンくん…ありがとう」
人形のように丸くて愛らしい目と見つめ合うレンの顔は真剣そのもの。中々良い雰囲気ではあるが、傍から見れば猫相手に語りかけているようなもの。しかも、先程の言い方では霧華の飼い猫二匹に加え、霧華自身も含まれているニュアンス。完全に猫扱いをしているレンにガストは苦笑いを浮かべた。
「ははっ……猫三匹連れて行くのは大変そうだな……っうお?!」
ガストの腕の中にいた穂香がジタバタと暴れだし、ひょいと逃げ出した。フローリングの上にバランスを崩すことなく着地し、不満げに目を細めてガストを見上げる。
嫌がるように抜け出されたことが少しばかりショックだったのか、寂しそうにガストは眉を寄せた。
「…どうしたんだ?」
「ガスト。お前は猫の抱き方がなってない」
「そうよ。圧迫されて苦しいって言ったじゃないの」
「わ、悪い……猫って思った以上になんか伸びるし、どこを支えればいいのか」
何しろ突然の出来事だ。周囲が騒ぎだし、野次馬が集まる前にと慌てて抱え上げ走ってきた。それにもかかわらず、レンはしっかりと霧華を抱えていた。驚いたり怯えたりして飛び出さないように。
両者から非難の目を浴びたガストは首の辺りを掻いて、眉を寄せたまま笑いかけた。
「じゃあ、手本を見せてくれよ。見たとこ霧華ちゃん全く暴れないし、それが正しい抱え方なんだろ?」
「……わかった。霧華、一度下ろす」
「うん」
あまりにも素直な反応にガストは驚きを隠せずにいた。普段ならば彼は否定か無視をすることが多い。だが、猫に関わることには今までも積極的に応じる様子を見せる。そう驚くことでもなかったかとガストはさらに苦笑う。
フローリングの床に下ろされた霧華はその場に前足を揃えて座っていたが、すぐにぺたりと体を伏せた。ふさふさのしっぽを体に巻きつけて。
一方、穂香の前で膝を着いたレンは視線をわざと外しながら、顎下を指先でわしゃわしゃと撫でていた。ゴロゴロと軽快に喉を鳴らす様子にレンが目を優しく細める。
「猫は上から撫でようとすると、叩かれると思って警戒しがちだ。よほど慣れてる猫じゃない限り、下から手を差し出してやった方がいい」
「おお…なるほど。だからこの前、威嚇されたんだな」
「猫を抱き上げる時は親指と人差し指で肩甲骨の辺りを、薬指と小指で前足の付け根を挟む。こうすると胸が圧迫されないから嫌がりにくい。…こんな感じだ」
口で説明するよりも実際に見せた方が手っ取り早い。そう考えたレンは穂香の背後に回り、両手を差し込んで優しく持ち上げ、素早く横向きにして前足の下からお尻を支えた。
「ちゃんと支えてやらないと暴れて逃げ出す。そもそも抱っこが嫌いな猫もいる」
「……すごい。全然苦しくないし、安定してるから安心感がすごい」
「前足を抑えると嫌がるから止めておけ」
「流石だなレン。猫マスターみたいだ」
「変な称号をつけるな」
ツンと言い放ったレンは抱き上げていた穂香を下ろし、ぷいとそっぽを向いてしまった。だが、僅かに照れていたのをガストは見逃さずにいた。どうやら満更でもないようだ。それをまた指摘すれば機嫌が悪くなってしまうので、触れずにおこうと口を開く。
「猫の抱っこの仕方はとりあえず分かったけど、これからどうする?ラボに行ってみるか」
「……」
「それは嫌だ、って顔してんな。大方【サブスタンス】の影響だろうし、相談するならそこしかないと思うぜ。…それか、まず司令に」
報告を兼ねて相談をするのが次点で最善だろう。ガストはそう続けようとして、言葉を止めた。
ふと、床に伏せていた霧華が急に体をがばっと起こした。三角の小さな耳をしきりに動かしている。どうやら周囲の音に警戒しているようだ。
「霧華ちゃん、どうしたんだ?」
「…足音が聞こえます」
「え?」
「聞こえるわ。……足音が二つこっちに近づいてくる」
「俺には聞こえないけど」
耳を澄ませてみたところで、足音どころか物音一つ廊下から聞こえてこない。それもそのはずだ。猫は聴力が人間よりもかなり優れている。廊下の端か、エレベーターホールを降りた辺りの足音を拾い上げたのだろう。
「猫は人間よりも耳がいい」
「……そいつらが談話室に入ってきたら、ちょっとマズイんじゃないか」
「極力騒ぎにしたくない。…とりあえず司令室に向かうぞ」
「オーケー。レンが司令を頼りたいならその案で構わないぜ」
ここで策を練るよりは早急に報告をした方が良い。その提案に乗ったガストは早速レンを真似て穂香を抱き上げた。手本通りに今度はしっかりと支える。
「穂香、ちょっとの間我慢してくれよ」
「うん。さっきよりだいぶマシ」
「…話し声が聞こえてきた。行くぞ」
再び猫を抱え上げた二人は談話室を後にし、司令室へと向かった。
◇◆◇
二人は猫を抱えて急ぎ足で談話室から司令室に移動。何人かのヒーローとすれ違ったが、特に呼び止められもせずに済んだ。彼らは二人が抱えている猫に視線を向けても、驚きもしない。
この反応を不思議に思いながらも二人は司令室の前に到着した。
「ようやく着いたな。……なんか道のりがやけに長く感じたのは気のせいか。司令、いるといいんだけど」
司令室のドアを叩く前にガストはレンの方に視線を向ける。彼は普段通り落ち着いた表情で、腕に抱いた猫の頭を撫でていた。気持ちよさそうに目を閉じている霧華を見ていた穂香は「いいなぁ霧華ちゃん」と呟く。見た限りでは先程よりも霧華の様子は落ち着いているようだった。
「ガスト。私も頭撫でて」
「…司令室に入ってからな」
突然のナデナデ要求に動揺しながらも、些か緊張した面持ちでガストは片手を持ち上げ、眼前のドアをノックした。
小気味よく響いたノック音に応えた「どうぞ」という声に二人は密かに安堵を覚えていた。これで問題解決に一歩近づく。が、そう思ったのも束の間。
ドアを開けた先で彼らを待ち構えていたのは、一匹の真っ黒な豹。司令室の中央に佇んでいた。
それを目にした彼らは言葉を失い息を呑む。何故こんな所に豹が。全員同じことを考えていた。鋭い目を持つ豹に睨まれ、身が竦む。同様に彼女たちも目をまん丸に見開いていた。
何がどうなっている。司令室に忽然と現れた黒豹。アンバーカラーの鋭い眼光、喉から漏れる低い唸り声。姿勢を低く構えてガストを睨みつけていた。
今にも飛び掛かりそうな状態の黒豹を前にして、ガストは抱えていた穂香をぐっと胸に引き寄せる。まともに戦える状態ではない。かといって、彼女たちを下ろした時に黒豹の標的がそちらへ向いては困る。なんにせよ考えなしに動くのは危険だ。背を向けた途端に鋭い爪と牙が襲い掛かってくるかもしれない。
逃走の機会をじりじりと窺い、身構えているガストとレン。相手は唸りをあげるだけで一向に動こうとしなかった。
妙な緊迫感に包まれた一室で、しばし睨み合いが続く。先に動いたのは相手の方だった。黒豹は下げていた頭を持ち上げ、その場に四足を揃えて座る。そして次の瞬間には気の抜ける展開が待ち受けていた。
「驚いたか?ガスト、レン」
突然、黒豹の表情がすっと穏やかになり、落ち着いた声で彼らにこう話し掛けてきたのだ。姿は違えど、声には聞き覚えがある。第13期の司令、紅蓮のものだ。
「………そ、その声もしかして、司令…か?」
こくりと頷いてみせた黒豹。俄かには信じ難い光景だが、その声を聞いた霧華はレンの腕の中で耳を跳ねる様に動かした。
「姉さん?」
「…やはりレンが抱えている猫は霧華か。思った以上に【サブスタンス】の影響が広範囲に及んでいるようだな」
その喋り方や声の特徴は確かに紅蓮だ。直ぐに状況を飲み込めずにいた二人が呆然としている間、霧華はするりとレンの腕から抜け出した。そして黒豹にゆっくりと近づいていく。歩みに躊躇いは無い。
霧華は自分より何倍もある体長の黒豹を見上げた。艶のある美しい毛並み。キリっとした表情、優しい眼差しは姉のもの。本能的に彼女が姉であると感じ取っていた霧華だが、彼らは不安そうに様子を窺っている。
ふと、彼女の右前足に火傷の痕を見つけた。これを見た霧華は紅蓮だと確信を得た。昨日、【イクリプス】との戦いで軽い火傷を負ったと聞いていたのだ。その火傷の痕を労わるように舐め始める。
「お、おぉ……霧華ちゃんが懐いてるってことは、本当に司令みたいだな」
「私の名を語る豹がいるとでも思ったか?……霧華、すまないな。大したことはない、大丈夫だ」
「司令。この現象は他にも確認されているのか」
レンは霧華の方をちらちらと気に掛けながら、紅蓮にそう訊ねた。紅蓮に懐く様子から、この黒豹は間違いなく第13期の司令だ。そう納得したレンではあるが、目の前でもふもふが二匹じゃれているせいか、うずうずしている。豹も一種の大型の猫と捉えているのかもしれない。
紅蓮の長いしっぽが動くと、霧華はそれを目で追いかけ始めた。
「タワー周囲で猫型【サブスタンス】の出現が確認された。そいつは神出鬼没な上に、私もこの様だ。そしてどういうわけか被害は第13期ヒーローズに限定されていた……が、そうとも限らないようだな」
「猫型【サブスタンス】」
「って、ちょっと待ってくれ。俺たちの同期やメンターも猫になってるヤツがいるってのか?」
そういえばとガストはあることに気が付いた。ロビーフロアから談話室、談話室から司令室に来るまでの間に誰一人として顔を合わせていない。広いタワー内、数多くのヒーローが在籍しているのだからそれは自然なことでもあるのだが。先程すれ違ったヒーローに驚かれなかったのは、こういった事情を既に知っていたからかもしれない。
「ノースはマリオンとヴィクターが猫化した。今はノヴァのラボで調査中だ。半数が猫化していると報告を受けている。現在13期はパトロール及び任務から外されている。他のチームに委ねている状況だ」
「…ノースは偶々オフだったからいいけど、ってやつだな。もしかしたらアキラたちも」
「ああ。ブラッドの報告ではアキラとオスカーが猫に。直接報告に来たが、私の姿を見て頭を抱えていた」
「そりゃ抱えたくもなるって。…こうして一般人にも影響出てるのはマズイんじゃないのか」
紅蓮の話では一般人への影響はこの二人が初めてのようだ。しかし、猫化被害が第13期に留まらず、他のチームや一般人に及び始めれば事態を治めるのに時間を要してしまう。神出鬼没の猫型【サブスタンス】が速やかに回収されるといいのだが。
不安を抱きながらもガストは徐に視線を下に向けた。穂香が先程からやけに静かだったのが気になっていたのだ。見ると彼女は瞬きをゆっくりと繰り返しており、こくりこくりと舟を漕いでいた。
「ねむい」
呟いた声はいかにも眠たそうで、くぁと欠伸をしてから目を瞑った。頭をガストの胸にぴたりと寄せて。
「おいおい…こっちは気を揉んでるってのに。自由だな……猫だからか」
「んー…だって、温かいし心地よくて」
うにゃうにゃと寝言を呟く穂香。猫マスターのレクチャーのおかげで、負担をかけずに抱っこできているようだ。「ガストの腕の中は温かいから好きだ」と言っていたことをふと思い出し、思わず顔が綻びそうにもなる。
つい顔が緩んでしまったが、上司と同期の前で惚気るわけにもいかない。幸いなことに彼らの注意は逸れている。霧華は紅蓮のしっぽにじゃれて夢中だ。遊んでいる様子をレンが微笑ましく見守っている。
「時間経過で完全な猫になっちまうってことはないよな」
「案ずるな。先程、猫から人間に戻った事例の報告も受けている。元に戻る条件はまだ調査中だが…そう時間も掛からんだろう」
「それを聞いて安心したぜ。妙に猫っぽくなってきてるし、なんか霧華ちゃんは司令のしっぽにじゃれついて楽しそうだし…」
左右に揺れる黒いしっぽを追いかけ、マンチカン特有の短い手で掴もうと躍起になっていた。霧華がその言葉にハッと我に返り、慌てて姿勢を正して座り直す。
「ごっごめんなさい…!その、楽しくて…つい」
「私の方こそすまない。構ってくれるのが嬉しくてな。霧華は猫になっても愛らしい」
紅蓮の優しい眼差しは子を見守るそれに近い。種をこえた親子に見えなくもないが、体格差があり過ぎるだろとガストは自分にツッコミを入れる。
「ははっ…司令は豹になって益々頼もしく……って、なんで司令は猫じゃなくて豹なんだよ」
「さぁな。それは分からん。兎に角、事態が治まるまでは第13期ヒーローに自室待機の指示を出している。ガストも彼女がその状態では身動きが取り辛いだろう」
「あぁ。いつも以上にフリーダムだし、目が離せそうにない。レンはどうする?」
「俺はここにいる。…霧華が司令の側にいたそうだからな」
「だよな。じゃあ、俺たちは先に部屋に戻ってるぜ」
うとうとしていた穂香は瞑っていた目を開け、寝ぼけた目を霧華たちに向ける。そして、にゃーんと一声鳴いた。
◇◆◇
司令室から居住フロアに下りたガストは自室へと戻ってきた。共有スペースのリビングには誰もおらず、しんと静まり返っている。ノースのメンター二人はまだラボにいるのだろう。
「広いリビングね」
目を爛々と輝かせた穂香はキョロキョロと頭を動かした。先程までの眠気はすっかり飛んでしまったようで、知らない場所に興味津々な様子で瞳孔をまん丸にしている。
「共用のスペースだ。キッチンもあるし、メシ作ることもできる。……って、さっきまで寝落ちしそうだったのに、急に覚醒したな」
「ガストが暮らしてる部屋、初めて見るし。…いいなぁこういう家具。スタイリッシュで素敵」
「いかにもブルーノースって感じだろ?こっちが俺たちルーキーの部屋だ」
リビングに向かって右手の部屋。そこがルーキーたちが使用する個人スペースだとガストは説明をする。
部屋を二つに仕切る本棚。左右の空間は極端なまでに雰囲気が異なる。
左側は趣味が色濃く現れており、それとは逆に右側の部屋はシンプルな最小限の家具で統一されていた。
モデルガンやダーツ盤が飾られた方を見てからガストの顔を見上げる。
「ガストの部屋、左の方でしょ?」
「正解。良くわかったな。ま、見りゃ一目瞭然か。レンは家具少ないほうがいいって、増やしたがらないんだ」
穂香はひょいとガストの腕から飛び降りた。モデルガンを飾るラックを見上げる。それらのコレクションは手入れが行き届いていて、磨かれた銃口が照明を反射してきらんと輝いた。
「これが自慢のコレクション?」
「おぅ。こいつは特に手に入れるの苦労したヤツなんだぜ」
「……うん。やっぱり全部同じに見えるわ」
ラックの中央に飾られたモデルガンを示し、喜々とした表情を見せるガスト。しかし素人目には細かい違いが分からないもの。実物を見せて詳しい説明をしようかと考えてもみるが、猫相手にモデルガンの魅力を語る絵面もどこか虚しいと気づいた。
部屋の中をうろうろと探索していた穂香はデスクの上に何か気になるものを見つけたのか、椅子に飛び乗って前足をデスクにちょんと置いて覗き込んだ。小さな液晶ディスプレイの前にテディベアのぬいぐるみストラップが置かれている。
昨年、イエローウエストのアミューズメントパークで手に入れた景品だ。穂香のバッグにも色違いのものがつけられている。大事にされているようで、目立つ汚れもない。
それが嬉しかったのか、三毛模様の長いしっぽをぴんと立てていた。
「穂香」
呼び掛けられた声に反応した彼女は一目散にガストの元へ駆け寄った。しっぽは立てたままで。
「どうしたの?」
「飲み物持ってくるから、ここで待っててくれよ」
「えっ、なんで置いてくのよ!」
大きな声を上げた穂香にガストは驚いてしまった。そんなに声を張り上げて抗議するようなことでもないからだ。リビングに戻って飲み物を用意して戻ってくるだけなので、五分もかからない。
「え……なんでって、すぐ戻ってくるし」
「いや!置いてかないで。私も一緒に行く!」
そう話しながらガストの足元に纏わりつくようにうろうろとし始めた。どうしたものかと狼狽える彼の前でぴたりと動きを止めた穂香。「連れて行かないなら」とガストを睨み上げる。
「その辺で爪とぐわよ」
「わ、わかった。わかったから…連れて行けばいいんだろ」
部屋で寛いでもらいたかったという気遣いが逆に気に障ってしまったようだ。
しっぽを上げたままガストの後ろをついてくる三毛猫はご機嫌な様子。
ふと、飼い主の後ろをついてくる猫の動画をガストは思い出した。飼い主を好いた猫は構ってほしいとすり寄って甘えてくるのだ。それとよく似ている。
リビングからタンブラーと水を入れた深皿を持ち出し、自室に戻ってきた。穂香はガストの歩く先でちょこちょこと動き回るので、気をつけないと踏んでしまいそうになる。
ベッドの上で毛繕いに専念していた穂香は顔を洗い始めた。すっかり猫のようだとその様子を見ながらガストはスマホを弄り始めた。天気予報を調べると、セントラル周辺は明日雨のようだ。
穂香は自分の前足をじっと見つめていた。
「…それにしても、なんで三毛猫なのかしら。霧華ちゃんはマンチカンだったし」
「なんでだろうな。特に理由はなさそうだけど…でも、穂香はどの猫種でも可愛いと思う」
「ありがと。……眠くなってきた。ここにいると落ち着く」
大きな欠伸をした後、体を丸めた。ころころと気分が変わる様はまさに猫。この気まぐれさが愛らしくて堪らないという猫好きの気持ちが少しは理解できそうだ。ガストはソファからその様子を眺めていた。一枚くらい写真に残しておこうかとさえ考え始める。
「寝ててもいいぜ。何かあれば起こすし、安心して寝てくれ」
「ん……ガストは寝ないの?」
丸くなった状態でガストをじっと見つめる穂香。彼はスマホを弄っていた手を止め、差し障りのない表情を浮かべた。
「いや……俺は眠くないしな」
「……寝ないの?」
これがいわゆる猫圧。就寝時間が近づいた頃にベッドで先に陣取った猫が早く寝ないのかと圧をかけてくるやつだ。これも動画で見たとガストは目頭を押さえた。猫を飼っている人間が猫に振り回される理由が分かる気がしてきた。これは逆らいにくい。
しかし、睡魔はまったくない。横になってやれば気も済むだろうか。そう思い、ガストはベッドに上がって横になった。お腹の前で丸くなった穂香の頭を優しく撫でる。すると、ごろごろと喉を鳴らした。気まぐれなお姫様は満足そうだ。
「まったく…すっかり猫になっちまったな」
「猫になっても、ガストのことは好きよ」
「俺もだよ」
頭から背中にかけて優しく撫で続けているうちに、穂香は寝息を立て始めた。
それから暫くして、片手でスマホを弄っていたガストの瞼も次第に重くなっていく。指を止め、瞼を閉じた状態が続くようになった。完全に寝落ちする前にスマホをベッドに伏せて、背を少し丸めて目を瞑る。
それから一時間後。レンは人間の姿に戻った霧華を連れて自室に戻ってきた。
こちらは元の姿に戻ったが、そっちはどうかと様子を見に来たのだ。だが、部屋に入って早々、掛ける言葉を失ってしまった。
穂香も人間の姿に戻れたようだが、ガストに抱き寄せられた状態で眠りについている。両腕を背中に回し、愛おしそうに彼女を抱きしめていた。
このラブラブな様子に二人は顔をほんのりと赤らめる。起こすのも気が引けるという暗黙の了解に落ち着き、そっと部屋を後にした。
ガスト・アドラーと如月レンは近くの談話室に慌てた様子で滑り込んだ。談話室に人の姿はなく、それが彼らにとって幸いなことであった。
静まり返った室内で、二人はそれぞれ腕に抱えている猫に視線を落とす。ガストに抱えられている三毛猫はアーモンド型の瞳を持ち上げ、じっとガストの顔を見つめていた。
「…どうする、レン」
ガストはあくまで平常心を心掛け、レンに意見を求めた。レンはというと、流石にこの事態に動揺を隠せないのか、表情に焦りの色が見られる。腕にはしっかりと猫を優しく抱きとめている。
どうすると訊かれ、どうもこうもないと静かに口を開いた。
「…このまま野に放つわけにいかない」
「レン、落ち着こうぜ。野良猫前提で話すのはおかしいだろ」
「……分かってる」
レンはぴったりと胸に頭をくっつけているマンチカンの頭を指でそっと撫でた。マンチカンは怯えているのか微かに震えているようだ。
ガストに抱えられている三毛猫は長いしっぽをゆらりと揺らした。
この出来事は二十分ほど前に遡る。
彼らはエリオスタワーのロビーフロアでそれぞれ霧華、穂香と待ち合わせる約束を交わしていた。偶然にも外出日と待ち合わせ場所が重なったのだ。
先に到着していた彼女たちは互いの待ち人が来るまでの間、話に華を咲かせながら楽しんでいた。もはや定職となった目覚まし係のガストは待ち合わせ時間に間に合うよう、レンを起こして慌ただしくロビーフロアまで降りてきたという。
顔を合わせた四人はしばらく他愛もない話をしていた。まだ夢現のレンを覚醒させてからとガストの計らいもあってだ。
そして事件が起きる。レンの寝惚け眼もはっきりとしてきたので、そろそろ解散しようとした時だ。彼らが彼女たちの方を振り向くと、そこにはさっきまで話していたはずの二人の姿は消えていて、代わりに二匹の猫がいた。
目の前にいた彼女たちが猫になったのだ。何を言っているか分からないと思うが、それを目の当たりにしたガストたちも信じられずにいた。現にレンが錯乱してしまう程。
足元で三毛猫がにゃーんと鳴き声を上げた。
この猫たちは紛れもなく、霧華と穂香だ。何故かマンチカンと三毛猫に姿が変わってしまった。その理由や原因は分からない。だが、とにかく人目のつかない場所へ移動した方が良さそうだ。瞬時にそう判断した二人は猫を抱えあげ、一先ずタワーの上層部へ。近場の談話室に駆け込んだというわけだ。
「一般市民の目に触れないようにとりあえずここまで来たはいいけど」
「大丈夫か」
レンは腕の中で震えているマンチカンに顔を近づけ、優しく抱きしめた。その表情はとても柔らかい。
それは以前に迷い猫を探していた時のものと酷似していた。猫相手には柔和な態度を見せるのでこれにはもう慣れてきた。あのマンチカンは霧華のはずだが、ここに来るまでの間、二人は一言も発していない。姿が猫に変化してしまったのだから、人の言葉も話すことができなくなったのでは。そう一抹の不安が過ったガストだが。
「ねえ、ガスト。下ろしてくれない?それか支えるならちゃんと支えてくれないと、圧迫されて苦しいし足が伸びてしんどい」
ガストが腕に抱えていた三毛猫が不意に人の言葉を喋った。それに驚いたガストは静まり返った談話室で大声を出してしまう。
「しゃ、喋ったぁぁぁぁ?!」
「そりゃ喋るわよ。元々人間なんだから」
「……ということは穂香で間違いない、よな?いや、でもさっきにゃーって鳴いてただろ。猫みたいに」
「ええ。試しに鳴いてみたら、ホントに猫みたいな声が出たの。……なんで猫になっちゃったのかしら」
三毛猫の穂香はガストをじっと見上げ、瞬きをした。長い尻尾が左右にペシペシと揺れる。
猫と会話ができている。摩訶不思議なこの現象にガストは頭を抱えたくなった。自分の彼女が猫になってしまったのだ。ただ、言葉がそのまま通じるのは実に有り難い。
「じゃあ、霧華ちゃんも喋れるってことだよな?」
レンの腕にしっかりと抱かれているマンチカンが声を震わせながら「どうしよう」と呟いた。
霧華は伏せていた顔を上げ、哀しい目をレンに向ける。
「……明日、ポラリスたちの健康診断…行かないといけないのに。私がこんな姿じゃ……連れていけない」
「だ、大丈夫だって。…俺たちも突然のことで焦ってたけど、だいぶ落ち着いてきたし。二人が元に戻れる方法探す」
「ああ、必ず。……万が一戻れなくても俺がポラリスたちを病院に連れていく。霧華も一緒に」
「ガストさん、レンくん…ありがとう」
人形のように丸くて愛らしい目と見つめ合うレンの顔は真剣そのもの。中々良い雰囲気ではあるが、傍から見れば猫相手に語りかけているようなもの。しかも、先程の言い方では霧華の飼い猫二匹に加え、霧華自身も含まれているニュアンス。完全に猫扱いをしているレンにガストは苦笑いを浮かべた。
「ははっ……猫三匹連れて行くのは大変そうだな……っうお?!」
ガストの腕の中にいた穂香がジタバタと暴れだし、ひょいと逃げ出した。フローリングの上にバランスを崩すことなく着地し、不満げに目を細めてガストを見上げる。
嫌がるように抜け出されたことが少しばかりショックだったのか、寂しそうにガストは眉を寄せた。
「…どうしたんだ?」
「ガスト。お前は猫の抱き方がなってない」
「そうよ。圧迫されて苦しいって言ったじゃないの」
「わ、悪い……猫って思った以上になんか伸びるし、どこを支えればいいのか」
何しろ突然の出来事だ。周囲が騒ぎだし、野次馬が集まる前にと慌てて抱え上げ走ってきた。それにもかかわらず、レンはしっかりと霧華を抱えていた。驚いたり怯えたりして飛び出さないように。
両者から非難の目を浴びたガストは首の辺りを掻いて、眉を寄せたまま笑いかけた。
「じゃあ、手本を見せてくれよ。見たとこ霧華ちゃん全く暴れないし、それが正しい抱え方なんだろ?」
「……わかった。霧華、一度下ろす」
「うん」
あまりにも素直な反応にガストは驚きを隠せずにいた。普段ならば彼は否定か無視をすることが多い。だが、猫に関わることには今までも積極的に応じる様子を見せる。そう驚くことでもなかったかとガストはさらに苦笑う。
フローリングの床に下ろされた霧華はその場に前足を揃えて座っていたが、すぐにぺたりと体を伏せた。ふさふさのしっぽを体に巻きつけて。
一方、穂香の前で膝を着いたレンは視線をわざと外しながら、顎下を指先でわしゃわしゃと撫でていた。ゴロゴロと軽快に喉を鳴らす様子にレンが目を優しく細める。
「猫は上から撫でようとすると、叩かれると思って警戒しがちだ。よほど慣れてる猫じゃない限り、下から手を差し出してやった方がいい」
「おお…なるほど。だからこの前、威嚇されたんだな」
「猫を抱き上げる時は親指と人差し指で肩甲骨の辺りを、薬指と小指で前足の付け根を挟む。こうすると胸が圧迫されないから嫌がりにくい。…こんな感じだ」
口で説明するよりも実際に見せた方が手っ取り早い。そう考えたレンは穂香の背後に回り、両手を差し込んで優しく持ち上げ、素早く横向きにして前足の下からお尻を支えた。
「ちゃんと支えてやらないと暴れて逃げ出す。そもそも抱っこが嫌いな猫もいる」
「……すごい。全然苦しくないし、安定してるから安心感がすごい」
「前足を抑えると嫌がるから止めておけ」
「流石だなレン。猫マスターみたいだ」
「変な称号をつけるな」
ツンと言い放ったレンは抱き上げていた穂香を下ろし、ぷいとそっぽを向いてしまった。だが、僅かに照れていたのをガストは見逃さずにいた。どうやら満更でもないようだ。それをまた指摘すれば機嫌が悪くなってしまうので、触れずにおこうと口を開く。
「猫の抱っこの仕方はとりあえず分かったけど、これからどうする?ラボに行ってみるか」
「……」
「それは嫌だ、って顔してんな。大方【サブスタンス】の影響だろうし、相談するならそこしかないと思うぜ。…それか、まず司令に」
報告を兼ねて相談をするのが次点で最善だろう。ガストはそう続けようとして、言葉を止めた。
ふと、床に伏せていた霧華が急に体をがばっと起こした。三角の小さな耳をしきりに動かしている。どうやら周囲の音に警戒しているようだ。
「霧華ちゃん、どうしたんだ?」
「…足音が聞こえます」
「え?」
「聞こえるわ。……足音が二つこっちに近づいてくる」
「俺には聞こえないけど」
耳を澄ませてみたところで、足音どころか物音一つ廊下から聞こえてこない。それもそのはずだ。猫は聴力が人間よりもかなり優れている。廊下の端か、エレベーターホールを降りた辺りの足音を拾い上げたのだろう。
「猫は人間よりも耳がいい」
「……そいつらが談話室に入ってきたら、ちょっとマズイんじゃないか」
「極力騒ぎにしたくない。…とりあえず司令室に向かうぞ」
「オーケー。レンが司令を頼りたいならその案で構わないぜ」
ここで策を練るよりは早急に報告をした方が良い。その提案に乗ったガストは早速レンを真似て穂香を抱き上げた。手本通りに今度はしっかりと支える。
「穂香、ちょっとの間我慢してくれよ」
「うん。さっきよりだいぶマシ」
「…話し声が聞こえてきた。行くぞ」
再び猫を抱え上げた二人は談話室を後にし、司令室へと向かった。
◇◆◇
二人は猫を抱えて急ぎ足で談話室から司令室に移動。何人かのヒーローとすれ違ったが、特に呼び止められもせずに済んだ。彼らは二人が抱えている猫に視線を向けても、驚きもしない。
この反応を不思議に思いながらも二人は司令室の前に到着した。
「ようやく着いたな。……なんか道のりがやけに長く感じたのは気のせいか。司令、いるといいんだけど」
司令室のドアを叩く前にガストはレンの方に視線を向ける。彼は普段通り落ち着いた表情で、腕に抱いた猫の頭を撫でていた。気持ちよさそうに目を閉じている霧華を見ていた穂香は「いいなぁ霧華ちゃん」と呟く。見た限りでは先程よりも霧華の様子は落ち着いているようだった。
「ガスト。私も頭撫でて」
「…司令室に入ってからな」
突然のナデナデ要求に動揺しながらも、些か緊張した面持ちでガストは片手を持ち上げ、眼前のドアをノックした。
小気味よく響いたノック音に応えた「どうぞ」という声に二人は密かに安堵を覚えていた。これで問題解決に一歩近づく。が、そう思ったのも束の間。
ドアを開けた先で彼らを待ち構えていたのは、一匹の真っ黒な豹。司令室の中央に佇んでいた。
それを目にした彼らは言葉を失い息を呑む。何故こんな所に豹が。全員同じことを考えていた。鋭い目を持つ豹に睨まれ、身が竦む。同様に彼女たちも目をまん丸に見開いていた。
何がどうなっている。司令室に忽然と現れた黒豹。アンバーカラーの鋭い眼光、喉から漏れる低い唸り声。姿勢を低く構えてガストを睨みつけていた。
今にも飛び掛かりそうな状態の黒豹を前にして、ガストは抱えていた穂香をぐっと胸に引き寄せる。まともに戦える状態ではない。かといって、彼女たちを下ろした時に黒豹の標的がそちらへ向いては困る。なんにせよ考えなしに動くのは危険だ。背を向けた途端に鋭い爪と牙が襲い掛かってくるかもしれない。
逃走の機会をじりじりと窺い、身構えているガストとレン。相手は唸りをあげるだけで一向に動こうとしなかった。
妙な緊迫感に包まれた一室で、しばし睨み合いが続く。先に動いたのは相手の方だった。黒豹は下げていた頭を持ち上げ、その場に四足を揃えて座る。そして次の瞬間には気の抜ける展開が待ち受けていた。
「驚いたか?ガスト、レン」
突然、黒豹の表情がすっと穏やかになり、落ち着いた声で彼らにこう話し掛けてきたのだ。姿は違えど、声には聞き覚えがある。第13期の司令、紅蓮のものだ。
「………そ、その声もしかして、司令…か?」
こくりと頷いてみせた黒豹。俄かには信じ難い光景だが、その声を聞いた霧華はレンの腕の中で耳を跳ねる様に動かした。
「姉さん?」
「…やはりレンが抱えている猫は霧華か。思った以上に【サブスタンス】の影響が広範囲に及んでいるようだな」
その喋り方や声の特徴は確かに紅蓮だ。直ぐに状況を飲み込めずにいた二人が呆然としている間、霧華はするりとレンの腕から抜け出した。そして黒豹にゆっくりと近づいていく。歩みに躊躇いは無い。
霧華は自分より何倍もある体長の黒豹を見上げた。艶のある美しい毛並み。キリっとした表情、優しい眼差しは姉のもの。本能的に彼女が姉であると感じ取っていた霧華だが、彼らは不安そうに様子を窺っている。
ふと、彼女の右前足に火傷の痕を見つけた。これを見た霧華は紅蓮だと確信を得た。昨日、【イクリプス】との戦いで軽い火傷を負ったと聞いていたのだ。その火傷の痕を労わるように舐め始める。
「お、おぉ……霧華ちゃんが懐いてるってことは、本当に司令みたいだな」
「私の名を語る豹がいるとでも思ったか?……霧華、すまないな。大したことはない、大丈夫だ」
「司令。この現象は他にも確認されているのか」
レンは霧華の方をちらちらと気に掛けながら、紅蓮にそう訊ねた。紅蓮に懐く様子から、この黒豹は間違いなく第13期の司令だ。そう納得したレンではあるが、目の前でもふもふが二匹じゃれているせいか、うずうずしている。豹も一種の大型の猫と捉えているのかもしれない。
紅蓮の長いしっぽが動くと、霧華はそれを目で追いかけ始めた。
「タワー周囲で猫型【サブスタンス】の出現が確認された。そいつは神出鬼没な上に、私もこの様だ。そしてどういうわけか被害は第13期ヒーローズに限定されていた……が、そうとも限らないようだな」
「猫型【サブスタンス】」
「って、ちょっと待ってくれ。俺たちの同期やメンターも猫になってるヤツがいるってのか?」
そういえばとガストはあることに気が付いた。ロビーフロアから談話室、談話室から司令室に来るまでの間に誰一人として顔を合わせていない。広いタワー内、数多くのヒーローが在籍しているのだからそれは自然なことでもあるのだが。先程すれ違ったヒーローに驚かれなかったのは、こういった事情を既に知っていたからかもしれない。
「ノースはマリオンとヴィクターが猫化した。今はノヴァのラボで調査中だ。半数が猫化していると報告を受けている。現在13期はパトロール及び任務から外されている。他のチームに委ねている状況だ」
「…ノースは偶々オフだったからいいけど、ってやつだな。もしかしたらアキラたちも」
「ああ。ブラッドの報告ではアキラとオスカーが猫に。直接報告に来たが、私の姿を見て頭を抱えていた」
「そりゃ抱えたくもなるって。…こうして一般人にも影響出てるのはマズイんじゃないのか」
紅蓮の話では一般人への影響はこの二人が初めてのようだ。しかし、猫化被害が第13期に留まらず、他のチームや一般人に及び始めれば事態を治めるのに時間を要してしまう。神出鬼没の猫型【サブスタンス】が速やかに回収されるといいのだが。
不安を抱きながらもガストは徐に視線を下に向けた。穂香が先程からやけに静かだったのが気になっていたのだ。見ると彼女は瞬きをゆっくりと繰り返しており、こくりこくりと舟を漕いでいた。
「ねむい」
呟いた声はいかにも眠たそうで、くぁと欠伸をしてから目を瞑った。頭をガストの胸にぴたりと寄せて。
「おいおい…こっちは気を揉んでるってのに。自由だな……猫だからか」
「んー…だって、温かいし心地よくて」
うにゃうにゃと寝言を呟く穂香。猫マスターのレクチャーのおかげで、負担をかけずに抱っこできているようだ。「ガストの腕の中は温かいから好きだ」と言っていたことをふと思い出し、思わず顔が綻びそうにもなる。
つい顔が緩んでしまったが、上司と同期の前で惚気るわけにもいかない。幸いなことに彼らの注意は逸れている。霧華は紅蓮のしっぽにじゃれて夢中だ。遊んでいる様子をレンが微笑ましく見守っている。
「時間経過で完全な猫になっちまうってことはないよな」
「案ずるな。先程、猫から人間に戻った事例の報告も受けている。元に戻る条件はまだ調査中だが…そう時間も掛からんだろう」
「それを聞いて安心したぜ。妙に猫っぽくなってきてるし、なんか霧華ちゃんは司令のしっぽにじゃれついて楽しそうだし…」
左右に揺れる黒いしっぽを追いかけ、マンチカン特有の短い手で掴もうと躍起になっていた。霧華がその言葉にハッと我に返り、慌てて姿勢を正して座り直す。
「ごっごめんなさい…!その、楽しくて…つい」
「私の方こそすまない。構ってくれるのが嬉しくてな。霧華は猫になっても愛らしい」
紅蓮の優しい眼差しは子を見守るそれに近い。種をこえた親子に見えなくもないが、体格差があり過ぎるだろとガストは自分にツッコミを入れる。
「ははっ…司令は豹になって益々頼もしく……って、なんで司令は猫じゃなくて豹なんだよ」
「さぁな。それは分からん。兎に角、事態が治まるまでは第13期ヒーローに自室待機の指示を出している。ガストも彼女がその状態では身動きが取り辛いだろう」
「あぁ。いつも以上にフリーダムだし、目が離せそうにない。レンはどうする?」
「俺はここにいる。…霧華が司令の側にいたそうだからな」
「だよな。じゃあ、俺たちは先に部屋に戻ってるぜ」
うとうとしていた穂香は瞑っていた目を開け、寝ぼけた目を霧華たちに向ける。そして、にゃーんと一声鳴いた。
◇◆◇
司令室から居住フロアに下りたガストは自室へと戻ってきた。共有スペースのリビングには誰もおらず、しんと静まり返っている。ノースのメンター二人はまだラボにいるのだろう。
「広いリビングね」
目を爛々と輝かせた穂香はキョロキョロと頭を動かした。先程までの眠気はすっかり飛んでしまったようで、知らない場所に興味津々な様子で瞳孔をまん丸にしている。
「共用のスペースだ。キッチンもあるし、メシ作ることもできる。……って、さっきまで寝落ちしそうだったのに、急に覚醒したな」
「ガストが暮らしてる部屋、初めて見るし。…いいなぁこういう家具。スタイリッシュで素敵」
「いかにもブルーノースって感じだろ?こっちが俺たちルーキーの部屋だ」
リビングに向かって右手の部屋。そこがルーキーたちが使用する個人スペースだとガストは説明をする。
部屋を二つに仕切る本棚。左右の空間は極端なまでに雰囲気が異なる。
左側は趣味が色濃く現れており、それとは逆に右側の部屋はシンプルな最小限の家具で統一されていた。
モデルガンやダーツ盤が飾られた方を見てからガストの顔を見上げる。
「ガストの部屋、左の方でしょ?」
「正解。良くわかったな。ま、見りゃ一目瞭然か。レンは家具少ないほうがいいって、増やしたがらないんだ」
穂香はひょいとガストの腕から飛び降りた。モデルガンを飾るラックを見上げる。それらのコレクションは手入れが行き届いていて、磨かれた銃口が照明を反射してきらんと輝いた。
「これが自慢のコレクション?」
「おぅ。こいつは特に手に入れるの苦労したヤツなんだぜ」
「……うん。やっぱり全部同じに見えるわ」
ラックの中央に飾られたモデルガンを示し、喜々とした表情を見せるガスト。しかし素人目には細かい違いが分からないもの。実物を見せて詳しい説明をしようかと考えてもみるが、猫相手にモデルガンの魅力を語る絵面もどこか虚しいと気づいた。
部屋の中をうろうろと探索していた穂香はデスクの上に何か気になるものを見つけたのか、椅子に飛び乗って前足をデスクにちょんと置いて覗き込んだ。小さな液晶ディスプレイの前にテディベアのぬいぐるみストラップが置かれている。
昨年、イエローウエストのアミューズメントパークで手に入れた景品だ。穂香のバッグにも色違いのものがつけられている。大事にされているようで、目立つ汚れもない。
それが嬉しかったのか、三毛模様の長いしっぽをぴんと立てていた。
「穂香」
呼び掛けられた声に反応した彼女は一目散にガストの元へ駆け寄った。しっぽは立てたままで。
「どうしたの?」
「飲み物持ってくるから、ここで待っててくれよ」
「えっ、なんで置いてくのよ!」
大きな声を上げた穂香にガストは驚いてしまった。そんなに声を張り上げて抗議するようなことでもないからだ。リビングに戻って飲み物を用意して戻ってくるだけなので、五分もかからない。
「え……なんでって、すぐ戻ってくるし」
「いや!置いてかないで。私も一緒に行く!」
そう話しながらガストの足元に纏わりつくようにうろうろとし始めた。どうしたものかと狼狽える彼の前でぴたりと動きを止めた穂香。「連れて行かないなら」とガストを睨み上げる。
「その辺で爪とぐわよ」
「わ、わかった。わかったから…連れて行けばいいんだろ」
部屋で寛いでもらいたかったという気遣いが逆に気に障ってしまったようだ。
しっぽを上げたままガストの後ろをついてくる三毛猫はご機嫌な様子。
ふと、飼い主の後ろをついてくる猫の動画をガストは思い出した。飼い主を好いた猫は構ってほしいとすり寄って甘えてくるのだ。それとよく似ている。
リビングからタンブラーと水を入れた深皿を持ち出し、自室に戻ってきた。穂香はガストの歩く先でちょこちょこと動き回るので、気をつけないと踏んでしまいそうになる。
ベッドの上で毛繕いに専念していた穂香は顔を洗い始めた。すっかり猫のようだとその様子を見ながらガストはスマホを弄り始めた。天気予報を調べると、セントラル周辺は明日雨のようだ。
穂香は自分の前足をじっと見つめていた。
「…それにしても、なんで三毛猫なのかしら。霧華ちゃんはマンチカンだったし」
「なんでだろうな。特に理由はなさそうだけど…でも、穂香はどの猫種でも可愛いと思う」
「ありがと。……眠くなってきた。ここにいると落ち着く」
大きな欠伸をした後、体を丸めた。ころころと気分が変わる様はまさに猫。この気まぐれさが愛らしくて堪らないという猫好きの気持ちが少しは理解できそうだ。ガストはソファからその様子を眺めていた。一枚くらい写真に残しておこうかとさえ考え始める。
「寝ててもいいぜ。何かあれば起こすし、安心して寝てくれ」
「ん……ガストは寝ないの?」
丸くなった状態でガストをじっと見つめる穂香。彼はスマホを弄っていた手を止め、差し障りのない表情を浮かべた。
「いや……俺は眠くないしな」
「……寝ないの?」
これがいわゆる猫圧。就寝時間が近づいた頃にベッドで先に陣取った猫が早く寝ないのかと圧をかけてくるやつだ。これも動画で見たとガストは目頭を押さえた。猫を飼っている人間が猫に振り回される理由が分かる気がしてきた。これは逆らいにくい。
しかし、睡魔はまったくない。横になってやれば気も済むだろうか。そう思い、ガストはベッドに上がって横になった。お腹の前で丸くなった穂香の頭を優しく撫でる。すると、ごろごろと喉を鳴らした。気まぐれなお姫様は満足そうだ。
「まったく…すっかり猫になっちまったな」
「猫になっても、ガストのことは好きよ」
「俺もだよ」
頭から背中にかけて優しく撫で続けているうちに、穂香は寝息を立て始めた。
それから暫くして、片手でスマホを弄っていたガストの瞼も次第に重くなっていく。指を止め、瞼を閉じた状態が続くようになった。完全に寝落ちする前にスマホをベッドに伏せて、背を少し丸めて目を瞑る。
それから一時間後。レンは人間の姿に戻った霧華を連れて自室に戻ってきた。
こちらは元の姿に戻ったが、そっちはどうかと様子を見に来たのだ。だが、部屋に入って早々、掛ける言葉を失ってしまった。
穂香も人間の姿に戻れたようだが、ガストに抱き寄せられた状態で眠りについている。両腕を背中に回し、愛おしそうに彼女を抱きしめていた。
このラブラブな様子に二人は顔をほんのりと赤らめる。起こすのも気が引けるという暗黙の了解に落ち着き、そっと部屋を後にした。