名コナ
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Lost woman 07
メッセージの通知を受信した画面を見て、珍しいこともあるものだと驚いた。「お昼休みに会えませんか」と彼女の方から連絡がきた。理由は何にせよ会いたいと思ってくれるまでに関係は良好という証。喜ばしいことじゃないか。自分が何か言う度に苦渋の面を見せてきたのも頻度が減ってきているし。
「わかりました」と一言返し、待ち合わせ場所や時間を指定した後にスマートフォンを上着のポケットに入れた。約束の時間まであと三時間。
それがあんな事になるとは予想していなかった。
目の前で彼女が倒れた。すっと力が抜けて、ゆっくりと傾いた体を支えて声をかけても返事がない。待ち合わせた時から様子がおかしいと思っていた。いつにましてもぼんやりとした瞳で、顔色も悪い。そうだと思ったら案の定これだ。
とにかく休める場所へ。気を失ってぐったりしている彼女を抱え上げ、あまりの軽さに驚かされた。睡眠どころか食事もまともに取っていないんじゃないかと思うほどだ。
近場で休める場所と考えた結論、安室透の名義で借りているマンションの一室へ。ベッドに寝かせた彼女は静かに呼吸をしていた。脈拍は正常、体温は僅かに低い。安静にしていれば直に目を覚ますだろう。体温がこれ以上下がらない様に毛布で包み、血の巡りが滞った頬を撫でる。雪の様に白い肌が余計に不安を募らせていく。早く目を覚ましてほしい。
願いが届かないままどれだけの時間が経過したか。ようやく彼女は息を吹き返したように目覚め、僅かに唇を動かした。永遠の眠りから目覚めたようにぼんやりとした瞳を覗かせる。その視界の正面に僕の顔を捉え「……あむろさん?」と夢現に呟いた。
「気が付いて良かった。覚えていますか?霧華さん、突然倒れたんですよ。…どこか具合の悪い所はありませんか」
呆けた瞳。次第に正常な意識が戻ってくる様が窺えた。しばらく沈黙を守り、頭の中が整理できた頃にようやく「なんとなく」と頼りない返事をした。
「だるいです」
「……でしょうね。その体調不良の原因は睡眠不足に依るものですよ。ここ数日、まともに寝ていませんね?目の下にできた隈が何よりの証拠です」
僅かに見開かれた瞳孔、瞬きを一度した後に目を逸らした。即ち肯定を意味する。珍しく異議申し立てをしてこないのは余程弱っているからだろうか。頬に触れても文句の一つも出ない。体温はまだ低かった。
「貴女が倒れた時、心臓が止まりそうな思いをしました」
「…すみません」
「こんな思いをさせられたんですよ。僕には訳を話して頂けますね?…どうしてこうなるまでカフェインを採り続け、眠らないようにしているのかを」
彼女は時間帯を気にすることなく無糖の珈琲を注文していた。彼女の職業柄、連日徹夜が続くようなものではない。それなら故意にカフェインを摂取する理由が必ずあるはずだ。
梓さんが気にかけていた窓の外をぼんやりと眺めているというのも寝不足が祟っていたんだろう。
まるで鉛で出来た体を重たそうにして向きを変える。仰向けでいるよりも横を向いていた方が楽だと言う。額から流れ落ちた前髪を指で払うように撫でる。そのまま頭を撫でていても何も言ってこない。あの日、手を振り払おうとした強気な彼女はすっかり影を潜めていた。
「夢見が悪いんです。彼が、死んだ時の夢ばかり見る」
暫くして、そう呟いた。
伏せられた睫毛が、声が、震えている。
「彼を殺した人の声がずっと離れなくて、まとわりついて、……今でも信じたくなくて、っ」
硝子の欠片のような涙が次から次へと溢れていき、白い頬を濡らす。それを幾度も掬いあげようと止まる事を知らない。
とても見ていられなかった。悲しみに明け暮れて涙を流す姿を。誰かを偲んで流す涙を。そうさせている男に嫉妬の感情すら沸いてきた。
もういい、と優しい声をかけても止まらない涙を掬うようにして瞼へ口づけを。これ以上は聞きたくなかった。
「…ここにはその男も居ませんし、僕が貴女の傍についています。だから、今だけはゆっくり眠ってください」
貴女に必要なものはまず休養ですから。そう嗜めて、毛布を引っ張り上げて彼女の身体を包み直す。幼子をあやす様に肩を叩き、額にそっと唇を落とした。
「怖い夢を見なくなるおまじないです。安心して眠れますよ。…お望みなら手を繋ぎましょうか」
冗談のつもりでそう言った。どうせ真に受けることはないと思っていた、冷たい指先が触れるまでは。思わず頬が緩みそうになる。ここまで甘えてくれるなら悪くないな。いっそこのまま自分のものにしてしまいたい。今ならそれも可能だ。所詮は歪な形の関係しか築けないだろうけど。
触れた指先を握り返して「おやすみなさい」と呟く。
ゆっくりと目を閉じた彼女から寝息が聞こえてくるまでそう時間はかからなかった。
◇◆◇
「霧華さん、写真を撮りましょう」
真っ赤なポップキャンディを摘まみながら彼はそう言った。いつも突拍子もないことを言ってくるので、付き合わされるこちらの身にもなってもらいたかった。それに嫌な顔一つせず付き従う初老の紳士には本当に頭が下がる。
「急ですね。どうしたんですか?」
「一つ確かめたいことがありまして」
「では、お二人ともそちらへ並んでください」
まだうんと頷いてもいないのに、部屋の扉の前へ腕を引かれて肩を並べて立つ。急に写真を撮ると言われてもどんな顔をすればいいのか。
「普通にしていて構いません」
「あの、人の心を読むの止めてもらえません?私の考えてること筒抜けみたいじゃないですか」
「ええ、筒抜けです。貴女は顔に出ますから。分かりやすい人ですよ。犯罪を起こしたらすぐに捕まります。私の出番はないでしょうね」
反論をしようとした直後にカメラを構えた男性に声をかけられたので、慌てて体の前で手を組む。ピースサインを一人でレンズに向けるのはなんだか浮いた感じだし。この人はぜったいやってくれないだろうし。私は面白みのないポーズを取っていたけど、彼はキャンディをまるでお菓子会社の宣伝の様に構え、もう片方の手はジーンズのポケットに突っ込んでいた。
シャッターが切れた。
彼は現像されてきた写真をじっと舐め回すように見ている。これで何がわかるんだろうか。もしかして、と期待を膨らませながら彼に訪ねると。「わかりましたよ」と両手の指先で写真を持ち上げ、私に向けた。
「貴女が亡霊ではないことが分かりました。ご覧の通り、頭のてっぺんから爪先までしっかりと写っている」
「……それ今さらですよね!?私のこと幽霊の類いと思いながら接してたんですか!」
確認の仕方が古典的すぎる。一瞬でも手掛かりが見つかるんじゃないかと思った私がバカだった。その一連の流れが後になって「素直に写真を撮りたいと仰れば良いのですがね」と初老の紳士から聞いたのはだいぶ後。
今思えばなんてことはない、笑い話だった。
◇◆◇
毛布の塊が動いた。衣擦れの音がしたので本に落としていた視線を横へ。
この数時間、彼女は身動き一つせずに死んだように眠っていたので正直焦りを覚えた。だがそれも杞憂に終わりほっとしている。
数時間前よりも眼差しははっきりとしている。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、真っ直ぐ前を見ていた。その視界にどうやら僕の姿は捉えていない。
「おはようございます。よく眠れたようですね」
ベッド脇から掛けられた声に驚いたのだろう。僕の顔を見るなりフリーズする。
暫く固まっていた彼女の時はようやく動きだし、寝起きの掠れた声で「……いまなんじですか」と尋ねてきた。
「……丁度九時半を回りました。すみません。あまりに気持ち良さそうに眠っていたので起こす気になれなくて」
「…くじはん。……くじ、九時半!?夜の?!」
「日付は跨いでいませんので夜の九時半ですよ」
「ごっごめんなさい。こんなに寝るつもりは」
がばっと音を立てて起き上がった彼女は急に頭を押さえた。目眩で眩んだのだろう。この反応を見た限りではいつもの調子に戻っていそうだ。今「手を繋ぎましょうか」と聞いても首を横に振るだろう。それは少し残念でならなかった。
ぐらりと傾いた身体を支えるように肩にそっと触れる。
「本調子じゃないんですから、急に動くとまた倒れますよ」
「……すみません。あの、ここどこですか」
「僕が借りている部屋です」
「安室さんお仕事は」
「今日は非番です」
「……もしかして、ずっとここにいてくれたんですか」
「ええ。眠っている間、貴女の傍にいると約束したのは僕の方ですから」
自分からした約束を破るのは性に合いませんから、と告げれば顔が紅潮したり青ざめたりと猫の目の様に表情が変化する。面白いと口にすれば機嫌を悪くするので、目を細めて笑うだけに留める。肩をすぼめる彼女の姿は余計に小さく見えた。
「……すみませんでした」
「気にしないでください。…ですが、今日はもう遅いですし泊まっていかれますか?」
彼女が慌てる素振りをさらに見たくて、冗談のつもりで聞いたはずが予想外の反応。きっぱりと強い口調でお断りされるのが常々。それが今日に限ってノーともイエスとも言い難そうにしているではないか。まさかとは思うが、自分に気があるのでは、と。いや、それはないな。今までの情報から導きだした冷静な結論に落胆するのは自分だった。では、そうでないとしたら様子が変だ。
開いていた本を片手で閉じ、己から発した声は安室透よりも低いトーンのもの。
「……何かありましたね?」
ぐっと言葉を詰まらせた。本当に分かりやすい人だ。視線をさ迷わせ、ぼそぼそとまるで聞かれたくないように呟きだす。
「実は、その……先週あたりから、近所で妙な視線を感じることがあって……怖くて」
彼女が家に帰りたくない理由、こちらの提案を直ぐに断らなかった理由がこれではっきりとした。やっぱり、そういうことか。一週間も前だって?どうして相談してくれなかったんだ。僕はそれほどまでに信用足らない男だと思われているのか。彼女を恐怖に陥れている悪の根源に対する怒りか、それとも自分の不甲斐なさか。気が付けば声を張り上げていた。
「どうしてもっと早く言わないんだ!悪質なストーカーだったらどうするんですか?偶々無事だったから良いものの、危険が及ぶのは間違いなく貴女自身なんですよ!?少しは自分の置かれた状況を理解してください!」
捲し立てるように怒鳴りつけた後で言い過ぎたかと口を閉じる。怒鳴るとしても降谷零としての方が多い。安室透の顔で居るときはこんなに感情的になることはない。そのせいだろうか。目を丸くして、まるで何故怒られているかわからない風に僕を見ていた。処理能力の落ちたコンピュータのように、数秒経ってからようやく鈍い反応を見せる。
「ご、ごめんなさい……今日の昼に、相談しようって……思ってて」
成る程、これでピースが揃った。相談相手として僕が選ばれ、呼ばれた。だけど、それより先に彼女の体力が限界を迎えたんだ。悪いのは彼女じゃない。いや、元を正せばカフェインを過剰摂取していた彼女になるのだけど。
ワザとらしく長い溜息をついて頭を抱える。少し落ち着け。そう自分に言い聞かせる間「こんなに怒られたの、久しぶりだったから……ちょっとびっくりして、すみません」と放心状態の理由まで話してくれた。彼女は自分を頼ろうとしていたのだ、それを頭ごなしに怒鳴った自分に呆れすら生じた。
「……こちらこそ、怒鳴ったりしてすみません」
謝罪をしっかりと述べ、彼女の両脇に腕を差し込んで身体を優しく包み込む。強張っている肩がぴくりと震えた。
「貴女が無事で何よりだ」と己の本心が漏れた。彼女が抵抗しないのをいいことに腕に力を入れて抱き寄せる。その細い腕を自分の背中に回してくれればいいのに。その淡い期待は泡沫に消え、「もう、大丈夫ですから」と胸を押し返された。
メッセージの通知を受信した画面を見て、珍しいこともあるものだと驚いた。「お昼休みに会えませんか」と彼女の方から連絡がきた。理由は何にせよ会いたいと思ってくれるまでに関係は良好という証。喜ばしいことじゃないか。自分が何か言う度に苦渋の面を見せてきたのも頻度が減ってきているし。
「わかりました」と一言返し、待ち合わせ場所や時間を指定した後にスマートフォンを上着のポケットに入れた。約束の時間まであと三時間。
それがあんな事になるとは予想していなかった。
目の前で彼女が倒れた。すっと力が抜けて、ゆっくりと傾いた体を支えて声をかけても返事がない。待ち合わせた時から様子がおかしいと思っていた。いつにましてもぼんやりとした瞳で、顔色も悪い。そうだと思ったら案の定これだ。
とにかく休める場所へ。気を失ってぐったりしている彼女を抱え上げ、あまりの軽さに驚かされた。睡眠どころか食事もまともに取っていないんじゃないかと思うほどだ。
近場で休める場所と考えた結論、安室透の名義で借りているマンションの一室へ。ベッドに寝かせた彼女は静かに呼吸をしていた。脈拍は正常、体温は僅かに低い。安静にしていれば直に目を覚ますだろう。体温がこれ以上下がらない様に毛布で包み、血の巡りが滞った頬を撫でる。雪の様に白い肌が余計に不安を募らせていく。早く目を覚ましてほしい。
願いが届かないままどれだけの時間が経過したか。ようやく彼女は息を吹き返したように目覚め、僅かに唇を動かした。永遠の眠りから目覚めたようにぼんやりとした瞳を覗かせる。その視界の正面に僕の顔を捉え「……あむろさん?」と夢現に呟いた。
「気が付いて良かった。覚えていますか?霧華さん、突然倒れたんですよ。…どこか具合の悪い所はありませんか」
呆けた瞳。次第に正常な意識が戻ってくる様が窺えた。しばらく沈黙を守り、頭の中が整理できた頃にようやく「なんとなく」と頼りない返事をした。
「だるいです」
「……でしょうね。その体調不良の原因は睡眠不足に依るものですよ。ここ数日、まともに寝ていませんね?目の下にできた隈が何よりの証拠です」
僅かに見開かれた瞳孔、瞬きを一度した後に目を逸らした。即ち肯定を意味する。珍しく異議申し立てをしてこないのは余程弱っているからだろうか。頬に触れても文句の一つも出ない。体温はまだ低かった。
「貴女が倒れた時、心臓が止まりそうな思いをしました」
「…すみません」
「こんな思いをさせられたんですよ。僕には訳を話して頂けますね?…どうしてこうなるまでカフェインを採り続け、眠らないようにしているのかを」
彼女は時間帯を気にすることなく無糖の珈琲を注文していた。彼女の職業柄、連日徹夜が続くようなものではない。それなら故意にカフェインを摂取する理由が必ずあるはずだ。
梓さんが気にかけていた窓の外をぼんやりと眺めているというのも寝不足が祟っていたんだろう。
まるで鉛で出来た体を重たそうにして向きを変える。仰向けでいるよりも横を向いていた方が楽だと言う。額から流れ落ちた前髪を指で払うように撫でる。そのまま頭を撫でていても何も言ってこない。あの日、手を振り払おうとした強気な彼女はすっかり影を潜めていた。
「夢見が悪いんです。彼が、死んだ時の夢ばかり見る」
暫くして、そう呟いた。
伏せられた睫毛が、声が、震えている。
「彼を殺した人の声がずっと離れなくて、まとわりついて、……今でも信じたくなくて、っ」
硝子の欠片のような涙が次から次へと溢れていき、白い頬を濡らす。それを幾度も掬いあげようと止まる事を知らない。
とても見ていられなかった。悲しみに明け暮れて涙を流す姿を。誰かを偲んで流す涙を。そうさせている男に嫉妬の感情すら沸いてきた。
もういい、と優しい声をかけても止まらない涙を掬うようにして瞼へ口づけを。これ以上は聞きたくなかった。
「…ここにはその男も居ませんし、僕が貴女の傍についています。だから、今だけはゆっくり眠ってください」
貴女に必要なものはまず休養ですから。そう嗜めて、毛布を引っ張り上げて彼女の身体を包み直す。幼子をあやす様に肩を叩き、額にそっと唇を落とした。
「怖い夢を見なくなるおまじないです。安心して眠れますよ。…お望みなら手を繋ぎましょうか」
冗談のつもりでそう言った。どうせ真に受けることはないと思っていた、冷たい指先が触れるまでは。思わず頬が緩みそうになる。ここまで甘えてくれるなら悪くないな。いっそこのまま自分のものにしてしまいたい。今ならそれも可能だ。所詮は歪な形の関係しか築けないだろうけど。
触れた指先を握り返して「おやすみなさい」と呟く。
ゆっくりと目を閉じた彼女から寝息が聞こえてくるまでそう時間はかからなかった。
◇◆◇
「霧華さん、写真を撮りましょう」
真っ赤なポップキャンディを摘まみながら彼はそう言った。いつも突拍子もないことを言ってくるので、付き合わされるこちらの身にもなってもらいたかった。それに嫌な顔一つせず付き従う初老の紳士には本当に頭が下がる。
「急ですね。どうしたんですか?」
「一つ確かめたいことがありまして」
「では、お二人ともそちらへ並んでください」
まだうんと頷いてもいないのに、部屋の扉の前へ腕を引かれて肩を並べて立つ。急に写真を撮ると言われてもどんな顔をすればいいのか。
「普通にしていて構いません」
「あの、人の心を読むの止めてもらえません?私の考えてること筒抜けみたいじゃないですか」
「ええ、筒抜けです。貴女は顔に出ますから。分かりやすい人ですよ。犯罪を起こしたらすぐに捕まります。私の出番はないでしょうね」
反論をしようとした直後にカメラを構えた男性に声をかけられたので、慌てて体の前で手を組む。ピースサインを一人でレンズに向けるのはなんだか浮いた感じだし。この人はぜったいやってくれないだろうし。私は面白みのないポーズを取っていたけど、彼はキャンディをまるでお菓子会社の宣伝の様に構え、もう片方の手はジーンズのポケットに突っ込んでいた。
シャッターが切れた。
彼は現像されてきた写真をじっと舐め回すように見ている。これで何がわかるんだろうか。もしかして、と期待を膨らませながら彼に訪ねると。「わかりましたよ」と両手の指先で写真を持ち上げ、私に向けた。
「貴女が亡霊ではないことが分かりました。ご覧の通り、頭のてっぺんから爪先までしっかりと写っている」
「……それ今さらですよね!?私のこと幽霊の類いと思いながら接してたんですか!」
確認の仕方が古典的すぎる。一瞬でも手掛かりが見つかるんじゃないかと思った私がバカだった。その一連の流れが後になって「素直に写真を撮りたいと仰れば良いのですがね」と初老の紳士から聞いたのはだいぶ後。
今思えばなんてことはない、笑い話だった。
◇◆◇
毛布の塊が動いた。衣擦れの音がしたので本に落としていた視線を横へ。
この数時間、彼女は身動き一つせずに死んだように眠っていたので正直焦りを覚えた。だがそれも杞憂に終わりほっとしている。
数時間前よりも眼差しははっきりとしている。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、真っ直ぐ前を見ていた。その視界にどうやら僕の姿は捉えていない。
「おはようございます。よく眠れたようですね」
ベッド脇から掛けられた声に驚いたのだろう。僕の顔を見るなりフリーズする。
暫く固まっていた彼女の時はようやく動きだし、寝起きの掠れた声で「……いまなんじですか」と尋ねてきた。
「……丁度九時半を回りました。すみません。あまりに気持ち良さそうに眠っていたので起こす気になれなくて」
「…くじはん。……くじ、九時半!?夜の?!」
「日付は跨いでいませんので夜の九時半ですよ」
「ごっごめんなさい。こんなに寝るつもりは」
がばっと音を立てて起き上がった彼女は急に頭を押さえた。目眩で眩んだのだろう。この反応を見た限りではいつもの調子に戻っていそうだ。今「手を繋ぎましょうか」と聞いても首を横に振るだろう。それは少し残念でならなかった。
ぐらりと傾いた身体を支えるように肩にそっと触れる。
「本調子じゃないんですから、急に動くとまた倒れますよ」
「……すみません。あの、ここどこですか」
「僕が借りている部屋です」
「安室さんお仕事は」
「今日は非番です」
「……もしかして、ずっとここにいてくれたんですか」
「ええ。眠っている間、貴女の傍にいると約束したのは僕の方ですから」
自分からした約束を破るのは性に合いませんから、と告げれば顔が紅潮したり青ざめたりと猫の目の様に表情が変化する。面白いと口にすれば機嫌を悪くするので、目を細めて笑うだけに留める。肩をすぼめる彼女の姿は余計に小さく見えた。
「……すみませんでした」
「気にしないでください。…ですが、今日はもう遅いですし泊まっていかれますか?」
彼女が慌てる素振りをさらに見たくて、冗談のつもりで聞いたはずが予想外の反応。きっぱりと強い口調でお断りされるのが常々。それが今日に限ってノーともイエスとも言い難そうにしているではないか。まさかとは思うが、自分に気があるのでは、と。いや、それはないな。今までの情報から導きだした冷静な結論に落胆するのは自分だった。では、そうでないとしたら様子が変だ。
開いていた本を片手で閉じ、己から発した声は安室透よりも低いトーンのもの。
「……何かありましたね?」
ぐっと言葉を詰まらせた。本当に分かりやすい人だ。視線をさ迷わせ、ぼそぼそとまるで聞かれたくないように呟きだす。
「実は、その……先週あたりから、近所で妙な視線を感じることがあって……怖くて」
彼女が家に帰りたくない理由、こちらの提案を直ぐに断らなかった理由がこれではっきりとした。やっぱり、そういうことか。一週間も前だって?どうして相談してくれなかったんだ。僕はそれほどまでに信用足らない男だと思われているのか。彼女を恐怖に陥れている悪の根源に対する怒りか、それとも自分の不甲斐なさか。気が付けば声を張り上げていた。
「どうしてもっと早く言わないんだ!悪質なストーカーだったらどうするんですか?偶々無事だったから良いものの、危険が及ぶのは間違いなく貴女自身なんですよ!?少しは自分の置かれた状況を理解してください!」
捲し立てるように怒鳴りつけた後で言い過ぎたかと口を閉じる。怒鳴るとしても降谷零としての方が多い。安室透の顔で居るときはこんなに感情的になることはない。そのせいだろうか。目を丸くして、まるで何故怒られているかわからない風に僕を見ていた。処理能力の落ちたコンピュータのように、数秒経ってからようやく鈍い反応を見せる。
「ご、ごめんなさい……今日の昼に、相談しようって……思ってて」
成る程、これでピースが揃った。相談相手として僕が選ばれ、呼ばれた。だけど、それより先に彼女の体力が限界を迎えたんだ。悪いのは彼女じゃない。いや、元を正せばカフェインを過剰摂取していた彼女になるのだけど。
ワザとらしく長い溜息をついて頭を抱える。少し落ち着け。そう自分に言い聞かせる間「こんなに怒られたの、久しぶりだったから……ちょっとびっくりして、すみません」と放心状態の理由まで話してくれた。彼女は自分を頼ろうとしていたのだ、それを頭ごなしに怒鳴った自分に呆れすら生じた。
「……こちらこそ、怒鳴ったりしてすみません」
謝罪をしっかりと述べ、彼女の両脇に腕を差し込んで身体を優しく包み込む。強張っている肩がぴくりと震えた。
「貴女が無事で何よりだ」と己の本心が漏れた。彼女が抵抗しないのをいいことに腕に力を入れて抱き寄せる。その細い腕を自分の背中に回してくれればいいのに。その淡い期待は泡沫に消え、「もう、大丈夫ですから」と胸を押し返された。
