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遠い世界
「きれい」
眼前に広がる小さな湖畔。森の木々に囲まれたその場所だけ空から光が差し込んでいる。物語に似つかわしい幻想的な風景に感嘆の溜息が漏れた。
岸辺から水面を覗き込む。透き通った水中に小魚が慌ただしく泳いでいった。
日はだいぶ傾いている。橙色の光で空が染まっていた。
完全に日が暮れる前に野営地のテントへ戻らなければならない。スコールがこの辺り一帯ならば安全だろうと判断を下したので、無理を承知で散策をしたいと頼んだのだ。条件は遠くまで行かないこと、日が暮れる前に戻ってくることだと念を押されていた。まるで母親のような口ぶりに思わず笑いそうにもなった。
キリカが単独行動を起こそうとすると、バッツが「俺も行こうか」と声をかけてきた。だがキリカはそれを丁重に断り、散策へと出かける。その後姿を見送るバッツはあからさまに不服だと口を尖らせていた。「たまには一人になりたい時もある」と宥めたのは珍しくも同意したスコールだった。
そんな背景があるとも知らず、キリカはのんびりと散歩を楽しむことができた。
まだ戻るには少し時間があるだろう。切り株に腰を下ろし、何を考えるわけでもなくぼうっと湖を眺めていた。
その瞳にはなんとなくだが覇気がない。そんな気がしたバッツは木の影から彼女の様子を見守っていた。
一人で行きたい、はいわかりましたと了承できるわけがない。自分が護ると宣言したからには彼女を危険な目に合わせる訳にはいかない。いつ何時、敵が襲ってくるとも限らない。五月蝿い二人に見つからないようこっそりと後をつけ、気付かれないようギリギリの距離を保ってきた。足音を立てずに忍び寄ることができるのはシーフのスキルが活きてるなと我ながら称賛に値する。
彼女は湖の周囲をゆっくり歩いたり、野花を観察していた。
神経を研ぎ澄ましたところで周囲の危険は感じられない。護衛として活躍はできなさそうだが、任務を全うできるなら文句はない。
ここで少々欲が出てきた。もう少し近づいてもバレないだろう。バッツは再び忍び足で前方へ歩み寄る。
かさり。枯葉を踏んだ音にその場に静止した。気付かれだろうかと恐る恐る顔を上げると、向こうには聞こえていなかったようだ。
ほっと息を吐きだした時だった。歌声が聞こえてきたのだ。
その旋律はどこか物悲しく紡がれていく。心に響くその歌に胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
聞いたことのあるメロディだ。懐かしい。でもそれが何の曲でどこで聞いたかを思い出すことができない。
記憶が欠如していた。
その歌を聞きたい一心で身近な木陰に身を隠した。
*
墨を流したような空に星が無数に瞬いている。
今夜は月明りにも照らされて明るい夜になりそうだった。
彼らは野宿の際に交代で見張り番を設けていた。戦う力を持たないキリカは除外とされている。
今夜の深夜零時まで見張り番に就いているバッツはテントの入り口横に腰を下ろしていた。
煌々と燃える薪がパチリと爆ぜる。バッツは手持無沙汰にしていた小枝をそこへ放り込んだ。
炎の明かりを頼りにジタンは愛用の双刀を熱心に手入れを行っている。刃に赤い炎がきらりと反射した。
焚火を囲んだ二人は今日の戦利品の話や明日はどの辺りを探索するかなど、加えて他愛ない雑談を交わしていた。
ぱち、ぱちと小気味よく弾ける薪。愛刀を鞘に納めたジタンはちらとバッツの顔を盗み見た。どうもおかしいと片眉をぴくりと動かす。夕方にキリカを追いかけていってからバッツの様子がおかしいことに気付いていた。自分ではこっそり抜けていったようだが、本業のシーフを舐めてもらっちゃ困ると自負する。
「どうしたんだ」
「夕方から辛気臭いツラしてるぜ」
お前がそんな顔してっとこっちまで調子が狂っちまう。大げさに肩をすくめてぼやいたジタンにバッツは僅か眉尻を下げて笑った。
彼から発せられる言葉にはいつもの明るさと勢いが薄れていた。
「ちょっと考え事してたんだ」
「ふーん」
「やっぱさ、キリカは元の世界に帰りたいんだよな」
「…は?言ってる意味がわかんないんだけど」
「ほら、待ってる人とかいるだろ?家族や仲間、友達、それに」
この世界に導かれた者は誰しも自分の元居た世界に帰りたいと願うだろう。
それはキリカも例にもれず。何を当たり前のことを聞いてくるのか。まして彼女は戦う為に来たわけじゃない。自分の身がどうなるかもわからない世界に留まりたいとでも考えるのだろうか。
「恋人、とか?」
ジタンが先ほどのバッツの質問に応えるが、反応はなかった。これは恐らく図星。
彼女から恋愛関係の話は聞いた覚えはない。聞き出したのは初恋の話くらいだった。
「気になるなら自分で聞いてみりゃいいだろ」
「んー」
「こういうのは気になった時に聞いとかないと後悔するぜ?」
珍しく煮え切らない態度のバッツだ。恋心抱く相手に真意を聞き出すのは容易じゃないし、ひどく緊張するものだ。それはジタンもわかっている。だが、これ以上男の恋路を手助けするのは性に合わないと席を立つ。「んじゃ、見張りよろしく」とひらりと手を振ってテントの中へ入っていった。
*
焚火の高さが低くなってくると火の勢いも弱くなってきた。バッツは枯れ枝を適当に放り込み、ゆらゆら揺れる赤い炎をぼうっと見つめていた。
その時、ぱさりと布の擦れる僅かな音が耳に届く。一瞬にして臨戦態勢になり、その音に意識を集中させる。だが、それは敵襲の来訪を告げるものではなかった。そこに姿を現したのは降伏の意を示すキリカ。
「ご、ごめん。驚かすつもりなかったんだけど」
「あ…こっちこそ悪い。どうしたんだ?とっくに寝たと思ってたのに」
「なんだか目が覚めちゃって。…隣いい?」
今夜は中々寝付けず、幾度の寝返りの後ようやく浅い眠りについたのだが。数時間もしないうちに目が覚めてしまったという。気分転換に外の空気を吸ってこようとテントから出た矢先、バッツに身構えられたというわけだ。
二人は並んで腰を下ろすも、話が特に弾むわけでもなく。お互いに口を閉じたままの時間の方が長かった。
沈黙の間を先に破ったのはバッツの方で、いつになく真剣な口調であった。
「なあ、キリカ。聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
キリカが顔を向けると、炎を真っすぐに見つめているバッツの横顔が映る。琥珀色の瞳にちろちろと炎が燻っていた。普段との差に思わず心臓がどきりと一度跳ねる。皆が口を揃えてお気楽なヤツだと言うが、そうでもないとキリカは思っていた。
「キリカはさ、自分の世界に待っている人、いるのか。家族や友達、……大切な人、とか」
「あー……大切な人はそりゃいるよ。バッツだっている、でしょ?」
帰りを待っている人、という大きな括りでならば存在している。家族は勿論、友達や会社の同期、仲の良い先輩、後輩。ただ、残念なことに恋人はいない。
自分にとって大切な人達は彼にも勿論居るだろう。共に光の戦士として闘った仲間、相棒。故郷のリックス村にだってバッツの帰りを待っている女性がいたはずだ。それがあるからこそ、バッツから帰ってきた答えにキリカは目を丸くした。
「多分、な」
いる、という前提で答えが返ってくるものばかりだと思っていた。ところが、実際には困り顔の苦笑い。この時はまだキリカは彼らの事情を知らなかった。
「よく、覚えていないんだ。微かに記憶に残っているのもあるけど、大半が思い出せない」
神々の争いに召集された者たちは元の世界の記憶が殆どないのだと言う。
愛する人のことも、死闘をくぐり抜けた仲間のことも、大切な人を失ったことも。覚えていない。
その事実を知ったキリカはあんまりだと言葉を失っていた。
ふと、脳裏に宿敵に敗れた暁の戦士の姿が浮かぶ。鮮明に蘇ったイメージに心臓が掴まれたように胸が苦しくなる。胸元の衣服をぎゅっと握りしめ、下唇を噛みしめた。
彼に思い出してほしい。忘れないでほしいと伝えたくて仕方がない。だが、果たしてその務めを自分が果たしていいのだろうか。完全なる部外者である自分は指をくわえて見ていることしかできないのか。
ぐるぐると頭の中で考えている間、想いの葛藤が涙となって右目から溢れていった。
「キリカ…?」
「…ごめん、なんでもないから」
突然涙を零したキリカに困惑するも、顔を隠そうと背を向けた彼女を包み込むように後ろから抱きしめた。
声は怯え、肩は震えている。そんな状態を何でもないで片づけるには問題がある。
「何でもなくないだろ。理由があるから泣いてるんだ」
バッツの手が優しくキリカの頭をぽんぽんと叩く。すると枷が外れたようにキリカの目から大粒の滴が次々とあふれ出した。髪をなでる手つきが優しくて、つい甘えてしまいそうになる。
思いをぐっと堪えていると「キリカ、こっち」と前を向かされた。バッツは正面からキリカをぎゅっと抱きしめた。
互いの体温が布越しに伝わってくるのと、フレグランスがふわりとキリカの鼻を掠めた。
「俺さ、キリカの事は絶対に忘れない。何があっても、絶対に」
「……バッツ。私も、私もずっと貴方のこと覚えてるから。だって、忘れたくないから…だから、」
*
真夜中の深夜零時。見張りの交代に出てきたスコールは二人の姿を見て素直に驚いていた。
バッツの腕に抱かれてすやすやと眠っているキリカ。毛布代わりに深紅のマントを被り、寒さを凌いでいるようだった。
それだけではない。バッツの眼差しがあまりにも優しいものだったので、まるで子どもを見守るようだとスコールの目に映っていた。
同時に、この場に自分は似つかわしくないと気付いた彼はキリカを起こさないよう配慮した声で話しかける。
「…邪魔したか」
「いや。交代サンキュースコール」
「まるで大きな子どもだな。……そうしていると、あんたが母親のように見える」
そのままを口にしたのだが、バッツは口をへの字に曲げた。
「そのポジションは御免被りたいな。せめて彼氏とかさー」
「くだらないこと言ってないで早く寝ろ。ぐずぐずしていると朝日が昇るぞ」
そっちの方が母親みたいじゃないかと悪態をつくと、スコールの目が鋭く光った。
「きれい」
眼前に広がる小さな湖畔。森の木々に囲まれたその場所だけ空から光が差し込んでいる。物語に似つかわしい幻想的な風景に感嘆の溜息が漏れた。
岸辺から水面を覗き込む。透き通った水中に小魚が慌ただしく泳いでいった。
日はだいぶ傾いている。橙色の光で空が染まっていた。
完全に日が暮れる前に野営地のテントへ戻らなければならない。スコールがこの辺り一帯ならば安全だろうと判断を下したので、無理を承知で散策をしたいと頼んだのだ。条件は遠くまで行かないこと、日が暮れる前に戻ってくることだと念を押されていた。まるで母親のような口ぶりに思わず笑いそうにもなった。
キリカが単独行動を起こそうとすると、バッツが「俺も行こうか」と声をかけてきた。だがキリカはそれを丁重に断り、散策へと出かける。その後姿を見送るバッツはあからさまに不服だと口を尖らせていた。「たまには一人になりたい時もある」と宥めたのは珍しくも同意したスコールだった。
そんな背景があるとも知らず、キリカはのんびりと散歩を楽しむことができた。
まだ戻るには少し時間があるだろう。切り株に腰を下ろし、何を考えるわけでもなくぼうっと湖を眺めていた。
その瞳にはなんとなくだが覇気がない。そんな気がしたバッツは木の影から彼女の様子を見守っていた。
一人で行きたい、はいわかりましたと了承できるわけがない。自分が護ると宣言したからには彼女を危険な目に合わせる訳にはいかない。いつ何時、敵が襲ってくるとも限らない。五月蝿い二人に見つからないようこっそりと後をつけ、気付かれないようギリギリの距離を保ってきた。足音を立てずに忍び寄ることができるのはシーフのスキルが活きてるなと我ながら称賛に値する。
彼女は湖の周囲をゆっくり歩いたり、野花を観察していた。
神経を研ぎ澄ましたところで周囲の危険は感じられない。護衛として活躍はできなさそうだが、任務を全うできるなら文句はない。
ここで少々欲が出てきた。もう少し近づいてもバレないだろう。バッツは再び忍び足で前方へ歩み寄る。
かさり。枯葉を踏んだ音にその場に静止した。気付かれだろうかと恐る恐る顔を上げると、向こうには聞こえていなかったようだ。
ほっと息を吐きだした時だった。歌声が聞こえてきたのだ。
その旋律はどこか物悲しく紡がれていく。心に響くその歌に胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
聞いたことのあるメロディだ。懐かしい。でもそれが何の曲でどこで聞いたかを思い出すことができない。
記憶が欠如していた。
その歌を聞きたい一心で身近な木陰に身を隠した。
*
墨を流したような空に星が無数に瞬いている。
今夜は月明りにも照らされて明るい夜になりそうだった。
彼らは野宿の際に交代で見張り番を設けていた。戦う力を持たないキリカは除外とされている。
今夜の深夜零時まで見張り番に就いているバッツはテントの入り口横に腰を下ろしていた。
煌々と燃える薪がパチリと爆ぜる。バッツは手持無沙汰にしていた小枝をそこへ放り込んだ。
炎の明かりを頼りにジタンは愛用の双刀を熱心に手入れを行っている。刃に赤い炎がきらりと反射した。
焚火を囲んだ二人は今日の戦利品の話や明日はどの辺りを探索するかなど、加えて他愛ない雑談を交わしていた。
ぱち、ぱちと小気味よく弾ける薪。愛刀を鞘に納めたジタンはちらとバッツの顔を盗み見た。どうもおかしいと片眉をぴくりと動かす。夕方にキリカを追いかけていってからバッツの様子がおかしいことに気付いていた。自分ではこっそり抜けていったようだが、本業のシーフを舐めてもらっちゃ困ると自負する。
「どうしたんだ」
「夕方から辛気臭いツラしてるぜ」
お前がそんな顔してっとこっちまで調子が狂っちまう。大げさに肩をすくめてぼやいたジタンにバッツは僅か眉尻を下げて笑った。
彼から発せられる言葉にはいつもの明るさと勢いが薄れていた。
「ちょっと考え事してたんだ」
「ふーん」
「やっぱさ、キリカは元の世界に帰りたいんだよな」
「…は?言ってる意味がわかんないんだけど」
「ほら、待ってる人とかいるだろ?家族や仲間、友達、それに」
この世界に導かれた者は誰しも自分の元居た世界に帰りたいと願うだろう。
それはキリカも例にもれず。何を当たり前のことを聞いてくるのか。まして彼女は戦う為に来たわけじゃない。自分の身がどうなるかもわからない世界に留まりたいとでも考えるのだろうか。
「恋人、とか?」
ジタンが先ほどのバッツの質問に応えるが、反応はなかった。これは恐らく図星。
彼女から恋愛関係の話は聞いた覚えはない。聞き出したのは初恋の話くらいだった。
「気になるなら自分で聞いてみりゃいいだろ」
「んー」
「こういうのは気になった時に聞いとかないと後悔するぜ?」
珍しく煮え切らない態度のバッツだ。恋心抱く相手に真意を聞き出すのは容易じゃないし、ひどく緊張するものだ。それはジタンもわかっている。だが、これ以上男の恋路を手助けするのは性に合わないと席を立つ。「んじゃ、見張りよろしく」とひらりと手を振ってテントの中へ入っていった。
*
焚火の高さが低くなってくると火の勢いも弱くなってきた。バッツは枯れ枝を適当に放り込み、ゆらゆら揺れる赤い炎をぼうっと見つめていた。
その時、ぱさりと布の擦れる僅かな音が耳に届く。一瞬にして臨戦態勢になり、その音に意識を集中させる。だが、それは敵襲の来訪を告げるものではなかった。そこに姿を現したのは降伏の意を示すキリカ。
「ご、ごめん。驚かすつもりなかったんだけど」
「あ…こっちこそ悪い。どうしたんだ?とっくに寝たと思ってたのに」
「なんだか目が覚めちゃって。…隣いい?」
今夜は中々寝付けず、幾度の寝返りの後ようやく浅い眠りについたのだが。数時間もしないうちに目が覚めてしまったという。気分転換に外の空気を吸ってこようとテントから出た矢先、バッツに身構えられたというわけだ。
二人は並んで腰を下ろすも、話が特に弾むわけでもなく。お互いに口を閉じたままの時間の方が長かった。
沈黙の間を先に破ったのはバッツの方で、いつになく真剣な口調であった。
「なあ、キリカ。聞きたいことがあるんだけど」
「うん?」
キリカが顔を向けると、炎を真っすぐに見つめているバッツの横顔が映る。琥珀色の瞳にちろちろと炎が燻っていた。普段との差に思わず心臓がどきりと一度跳ねる。皆が口を揃えてお気楽なヤツだと言うが、そうでもないとキリカは思っていた。
「キリカはさ、自分の世界に待っている人、いるのか。家族や友達、……大切な人、とか」
「あー……大切な人はそりゃいるよ。バッツだっている、でしょ?」
帰りを待っている人、という大きな括りでならば存在している。家族は勿論、友達や会社の同期、仲の良い先輩、後輩。ただ、残念なことに恋人はいない。
自分にとって大切な人達は彼にも勿論居るだろう。共に光の戦士として闘った仲間、相棒。故郷のリックス村にだってバッツの帰りを待っている女性がいたはずだ。それがあるからこそ、バッツから帰ってきた答えにキリカは目を丸くした。
「多分、な」
いる、という前提で答えが返ってくるものばかりだと思っていた。ところが、実際には困り顔の苦笑い。この時はまだキリカは彼らの事情を知らなかった。
「よく、覚えていないんだ。微かに記憶に残っているのもあるけど、大半が思い出せない」
神々の争いに召集された者たちは元の世界の記憶が殆どないのだと言う。
愛する人のことも、死闘をくぐり抜けた仲間のことも、大切な人を失ったことも。覚えていない。
その事実を知ったキリカはあんまりだと言葉を失っていた。
ふと、脳裏に宿敵に敗れた暁の戦士の姿が浮かぶ。鮮明に蘇ったイメージに心臓が掴まれたように胸が苦しくなる。胸元の衣服をぎゅっと握りしめ、下唇を噛みしめた。
彼に思い出してほしい。忘れないでほしいと伝えたくて仕方がない。だが、果たしてその務めを自分が果たしていいのだろうか。完全なる部外者である自分は指をくわえて見ていることしかできないのか。
ぐるぐると頭の中で考えている間、想いの葛藤が涙となって右目から溢れていった。
「キリカ…?」
「…ごめん、なんでもないから」
突然涙を零したキリカに困惑するも、顔を隠そうと背を向けた彼女を包み込むように後ろから抱きしめた。
声は怯え、肩は震えている。そんな状態を何でもないで片づけるには問題がある。
「何でもなくないだろ。理由があるから泣いてるんだ」
バッツの手が優しくキリカの頭をぽんぽんと叩く。すると枷が外れたようにキリカの目から大粒の滴が次々とあふれ出した。髪をなでる手つきが優しくて、つい甘えてしまいそうになる。
思いをぐっと堪えていると「キリカ、こっち」と前を向かされた。バッツは正面からキリカをぎゅっと抱きしめた。
互いの体温が布越しに伝わってくるのと、フレグランスがふわりとキリカの鼻を掠めた。
「俺さ、キリカの事は絶対に忘れない。何があっても、絶対に」
「……バッツ。私も、私もずっと貴方のこと覚えてるから。だって、忘れたくないから…だから、」
*
真夜中の深夜零時。見張りの交代に出てきたスコールは二人の姿を見て素直に驚いていた。
バッツの腕に抱かれてすやすやと眠っているキリカ。毛布代わりに深紅のマントを被り、寒さを凌いでいるようだった。
それだけではない。バッツの眼差しがあまりにも優しいものだったので、まるで子どもを見守るようだとスコールの目に映っていた。
同時に、この場に自分は似つかわしくないと気付いた彼はキリカを起こさないよう配慮した声で話しかける。
「…邪魔したか」
「いや。交代サンキュースコール」
「まるで大きな子どもだな。……そうしていると、あんたが母親のように見える」
そのままを口にしたのだが、バッツは口をへの字に曲げた。
「そのポジションは御免被りたいな。せめて彼氏とかさー」
「くだらないこと言ってないで早く寝ろ。ぐずぐずしていると朝日が昇るぞ」
そっちの方が母親みたいじゃないかと悪態をつくと、スコールの目が鋭く光った。