封神演義(WJ)
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5.面影を追いかけて
この季節、氷点下五度を下回る事は珍しくもない。いくら毎年来る冬とはいえ、この土地の人間ですら寒いものは寒い。ただ長い冬に慣れてしまう為か、遠く離れた地域の最高気温がマイナスでないのを見ると「なんだ温かいじゃない」と感覚がマヒした発言をすることも度々。
一日中晴れて良い天気ではあったが、気温を見るだけで凍り付きそうになる。夜は特に冷え込んでいたが、空気が澄み渡って星空がいつもよりも見ることができた。
この美しい星空の下、帰路についていた霧華が帰ってきた。玄関の鍵を内側から閉めて、寒い寒いと言いながら上がってくる。やはり想像を絶するに冷えたようで、頬や耳、鼻の頭まで真っ赤になっている。
「ただいま」
「おかえり。寒さで顔が真っ赤だのう」
「今年一番の冷え込みって言ってたから」
あまりの寒さに表情筋も強張ってぎこちない笑みが太公望に向けられる。その頬を両手で挟み込んで温めてやろうかと考えもしたが、彼女の手に荷物が増えていることに気が付いた。細長い白い紙袋から茶色い瓶がちらりと覗いている。目聡くそれを見つけた太公望が聞くより先に紙袋が軽く持ち上げられた。
「日本酒。取引先から頂いたんだけど、残念なことに誰も飲まないって。みんなビールか焼酎の方がいいって」
「それで引き取ってきた、と」
「うん。私は日本酒好きだから。あとで一緒に飲みましょう」
名案だと太公望は快く頷いた。じゃあ夕飯の支度をすると言ってキッチンに向かう霧華を追い、手伝うと申し出ると意外に驚かれる。
「わしとて一宿一飯の恩義ぐらい返す。……まあ、もう一ヶ月以上は世話になっているから今さらかもしれんが」
「それでも嬉しいです。ありがとう」
嫌味の一つくらいでも言われるかと思いきや、ごく自然に礼を言われる。それの何が気恥ずかしいと感じたのか、目を泳がせた太公望はわざとらしく咳払いをした。
今夜のメニューは温かいスープが良いと希望を受け、食材を手頃な野菜に置き換えたラタトゥイユに決まった。多めに作り、残りはスープポットに入れて職場へ持っていくことにした。
※
一人暮らしを始めてから食事は味気ないもので定着していた。それが温かいと感じるようになったのは半月ほど前。共に食卓を囲む相手がいるだけで味や香り、温かさまで変わってくるのだから不思議に感じていた。
霧華からは他愛のない日常的な会話を。太公望からは主に昼間見たテレビからの情報を共有する。時たま、昔話のようにぽつりと口にする彼の時代にも耳を傾けていた。ただ、霧華がその話に興味を持ったと気づくと太公望はそこでハタと止め、さりげなく話題をすり替える。なのでそれ以上深く聞き出すこともできなかった。
太公望は湯浴みから上がり、長袖のロングTシャツとルームウェアに着替えてリビングへ戻った。先に風呂を済ませた霧華が晩酌の用意をしている。センターテーブルの上に猪口が二つ。紙袋から取り出された一升瓶がどんと置かれた様は少々この部屋に似つかわしくない。ペットボトルの水とグラスも用意されていた。ソファに座っていた霧華が手招いたので、隣へ腰を下ろした。
酒を注いだ猪口を持ち上げ、何に乾杯するでもなくかちりと軽く合わせて猪口をぐいと傾ける。強い度数の為に酒を通った器官が瞬時に熱さを感じた。しかし、中々のど越しも良く後味も悪くない。日本酒は精米の割合や純米かどうかで味が変わる。好みは人それぞれだが、この日本酒は純米吟醸でそれなりにお高いものだと太公望に話した。博識なのでからかい気味に飲兵衛あと尋ねれば、親に教わったと返ってくる。
しかし、飲兵衛というのも強ち間違いではないのかもしれない。日本酒を嗜む程度と本人は言っていたが、結構飲んでいるにも関わらず顔色が全く変わらないのだ。これはもしや笊か枠の可能性か。まあ、変に絡んだり泣いたり怒ったりもしない様子なので、それはそれで良い。
互いにほろ酔いで気分も良くなってきた頃。霧華は水の入ったグラスに手を伸ばすことが多くなり、猪口が空になる時間が長くなってきた。
「もう飲まぬのか」
「明日もお仕事ですから。これ以上飲むと、うん。確実に寝落ちしてしまうわ」
「勤め人は大変だのう。居候の身であるわしが言うのもなんだが」
ふふ、と微笑む霧華は上機嫌。酒のせいか普段よりも饒舌である。幾分か敬語も減っていて、この上なく話しやすいと太公望も笑みを返した。
一升瓶の中身はまだまだ残っている。
「私に合わせなくていいですよ。飲みたかったら飲んでください」
「いや、わしもこれで止めにしよう。美味い酒を一人で飲んでもつまらぬからのう。また次におぬしと飲む機会まで残しておこう」
そう言うと猪口に残っていた一口をぐいと飲み干した。霧華とは違い、グラスに注がれた水はまだ手つかず。それを見て「お酒強いんですね」と呟かれた。
「そうでもない。酔いつぶれる時はつぶれる。今日はまだ五割程度かのう」
「……充分強いです。私はもう七割超えてます」
これ以上は二日酔いになる、怠さと戦いながらの仕事は回避したい。それで先ほどからグラスに注いだ水をこくこくと飲み干していた。
太公望は手の内で弄んでいた猪口を置き、水を飲む霧華に問いかけた。
「のう、霧華。一つ尋ねても良いか」
「ん?」
「おぬし、嫁には行かんのか」
「……ん」
空になったグラスを静かに置く。ことりと音が響いただけで、答えはすぐに返ってこなかった。じっと空のグラスを見つめるその表情に変化はない。何度も何度も繰り返し聞かれた質問なのだろう。それに対して何も思うことはないといった様子だった。
「おぬしのように気立ても良く、器量のよい娘なら男が放っておくまいに」
「そう?……そう、ね」
細い眉が僅かに顰められた。独り言のように呟いた後、「縁がなかったんじゃない」と他人事のように答えた。
「……勿体ない」
「それ叔母さんにも言われる」
テンプレートのように何度同じことを繰り返したか。太公望自身、そんな困った顔を見たくて聞いたつもりはなかった。ただ、予想している理由とこの現状が矛盾している訳を知りたかったのだ。
「すまぬ。聞かぬ方がよかったか」
「ううん。気にしないで。……私、一人で居る方が気楽。誰かとずっと一緒にいたら疲れてしまうから。それに、男の人と話すのも得意じゃないし」
「では何故わしを招き入れた」
「縁、だったのかも」
徐に視線を注がれ、限りなく黒色に近い瞳に見つめられ酒の余韻ではない熱を頬に感じた。そういう類の意味で言っているわけではない、それは承知の上だがそれでも期待してしまう。
霧華は霧華で思う所があるのかしばらく考えに耽っていた。やがて「放っておけなかったの」と話を続ける。
「一人で居たいって口では言うけど、やっぱり時々人恋しくなる。家に帰って、誰か話し相手が欲しいって。……ごめんなさい、自分勝手よね。なんだか私の我がままに付き合わせてるみたいで」
「わしは一つも迷惑に思うとらんよ」
「ありがとうございます。太公望さんは優しいんですね」
赤みの差した頬、すっと目を細めて笑う仕草。あまりにあの時と酷似していたもので、思わず太公望は手を伸ばしかけた。しかし、霧華から質問を投げ返されたので慌てて引っ込めることとなる。
「そういう太公望さんはどうなんですか」
「む?」
「気立ての良い伴侶がいらっしゃるのでは」
「……いたとしたら今こうしておぬしの家に転がりこんでなどおらぬ。バレたら殺されるであろうが…って、わかってて聞いたであろう?」
「ごめんなさい、そうですよね。もしそうなら私も追い返してますもの。じゃあ、好きな方は?」
まさかそう問われるとは思わなかった。さて、どう答えたものかと思案を巡らせる。
此処で出逢った時よりも、相手に対する想いは確実に膨らんでいる。共に過ごすことで見えてくる様々な一面、そのどれもが愛しいと思えてしまうのは末期かもしれない。計画とはだいぶかけ離れるが、今ここで想いを告げてしまおうか。そうしたらどんな顔をするのだろうか。
例え、相手が何一つも思い出せず、覚えていなかったとしても。太公望はもはや一人の女性として好意を寄せていた。
溜息を洩らした太公望はその重い口を開いた。昔話をするようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「昔、人間界を巻き込んだ大きな戦があった。それよりも少し前にある娘と出逢ってな。その娘は大層わしの事を慕っておったよ、尊敬の念を込めて。……数少ない、わしの良き理解者でもあった。だらけていても何処かの誰かさんみたいに怒らんかったし。だがわしは…そやつの気持ちを汲むことが出来なかった。気づいた時にはもう、何もかも遅かった。何もしてやれなかったわしを恨んでいるかもしれんな」
淡々と語られた昔話。伏せた目を瞑ればそこには自分を慕っていたかつての娘の姿。
あの時、別の選択をしていれば未来は変わったのだろうか。あの娘は生き抜くことができただろうか。何度もそう思い悩んできた。但し、彼女が生き残る道を選べば今度は蔑む視線がその眼から向けられる。どちらも、なんて都合の良い選択肢は無い。どれを選ぼうと犠牲はつきものだった。今あるこの道が正しいとは思えない、ただ、あの娘が選んだ道のおかげで今があるということを忘れてはならないと。何度も噛み締めてきた。
急にこんな話をされて困惑しているだろうと、霧華の方を見れば瞼をすっかり閉じていた。寝息を立てている。一体どこから寝ていたのかはわからない。もしかしたら最初から聞いていなかったかも。それなら有難いと太公望は眉尻を下げた。
「……ったく無防備だと何度言わせれば。彼奴もそう言っておったろうに」
信頼を寄せている相手の前だからこそなのか。それが心地よくも思える。
例えかつての事を覚えていなくとも、全くの赤の他人だったとしても。
「わしがおぬしを好いている事に変わりはないよ」
閉じた瞼の上に口づけを一つ。願わくば、己と同じ想いでありますように。
この季節、氷点下五度を下回る事は珍しくもない。いくら毎年来る冬とはいえ、この土地の人間ですら寒いものは寒い。ただ長い冬に慣れてしまう為か、遠く離れた地域の最高気温がマイナスでないのを見ると「なんだ温かいじゃない」と感覚がマヒした発言をすることも度々。
一日中晴れて良い天気ではあったが、気温を見るだけで凍り付きそうになる。夜は特に冷え込んでいたが、空気が澄み渡って星空がいつもよりも見ることができた。
この美しい星空の下、帰路についていた霧華が帰ってきた。玄関の鍵を内側から閉めて、寒い寒いと言いながら上がってくる。やはり想像を絶するに冷えたようで、頬や耳、鼻の頭まで真っ赤になっている。
「ただいま」
「おかえり。寒さで顔が真っ赤だのう」
「今年一番の冷え込みって言ってたから」
あまりの寒さに表情筋も強張ってぎこちない笑みが太公望に向けられる。その頬を両手で挟み込んで温めてやろうかと考えもしたが、彼女の手に荷物が増えていることに気が付いた。細長い白い紙袋から茶色い瓶がちらりと覗いている。目聡くそれを見つけた太公望が聞くより先に紙袋が軽く持ち上げられた。
「日本酒。取引先から頂いたんだけど、残念なことに誰も飲まないって。みんなビールか焼酎の方がいいって」
「それで引き取ってきた、と」
「うん。私は日本酒好きだから。あとで一緒に飲みましょう」
名案だと太公望は快く頷いた。じゃあ夕飯の支度をすると言ってキッチンに向かう霧華を追い、手伝うと申し出ると意外に驚かれる。
「わしとて一宿一飯の恩義ぐらい返す。……まあ、もう一ヶ月以上は世話になっているから今さらかもしれんが」
「それでも嬉しいです。ありがとう」
嫌味の一つくらいでも言われるかと思いきや、ごく自然に礼を言われる。それの何が気恥ずかしいと感じたのか、目を泳がせた太公望はわざとらしく咳払いをした。
今夜のメニューは温かいスープが良いと希望を受け、食材を手頃な野菜に置き換えたラタトゥイユに決まった。多めに作り、残りはスープポットに入れて職場へ持っていくことにした。
※
一人暮らしを始めてから食事は味気ないもので定着していた。それが温かいと感じるようになったのは半月ほど前。共に食卓を囲む相手がいるだけで味や香り、温かさまで変わってくるのだから不思議に感じていた。
霧華からは他愛のない日常的な会話を。太公望からは主に昼間見たテレビからの情報を共有する。時たま、昔話のようにぽつりと口にする彼の時代にも耳を傾けていた。ただ、霧華がその話に興味を持ったと気づくと太公望はそこでハタと止め、さりげなく話題をすり替える。なのでそれ以上深く聞き出すこともできなかった。
太公望は湯浴みから上がり、長袖のロングTシャツとルームウェアに着替えてリビングへ戻った。先に風呂を済ませた霧華が晩酌の用意をしている。センターテーブルの上に猪口が二つ。紙袋から取り出された一升瓶がどんと置かれた様は少々この部屋に似つかわしくない。ペットボトルの水とグラスも用意されていた。ソファに座っていた霧華が手招いたので、隣へ腰を下ろした。
酒を注いだ猪口を持ち上げ、何に乾杯するでもなくかちりと軽く合わせて猪口をぐいと傾ける。強い度数の為に酒を通った器官が瞬時に熱さを感じた。しかし、中々のど越しも良く後味も悪くない。日本酒は精米の割合や純米かどうかで味が変わる。好みは人それぞれだが、この日本酒は純米吟醸でそれなりにお高いものだと太公望に話した。博識なのでからかい気味に飲兵衛あと尋ねれば、親に教わったと返ってくる。
しかし、飲兵衛というのも強ち間違いではないのかもしれない。日本酒を嗜む程度と本人は言っていたが、結構飲んでいるにも関わらず顔色が全く変わらないのだ。これはもしや笊か枠の可能性か。まあ、変に絡んだり泣いたり怒ったりもしない様子なので、それはそれで良い。
互いにほろ酔いで気分も良くなってきた頃。霧華は水の入ったグラスに手を伸ばすことが多くなり、猪口が空になる時間が長くなってきた。
「もう飲まぬのか」
「明日もお仕事ですから。これ以上飲むと、うん。確実に寝落ちしてしまうわ」
「勤め人は大変だのう。居候の身であるわしが言うのもなんだが」
ふふ、と微笑む霧華は上機嫌。酒のせいか普段よりも饒舌である。幾分か敬語も減っていて、この上なく話しやすいと太公望も笑みを返した。
一升瓶の中身はまだまだ残っている。
「私に合わせなくていいですよ。飲みたかったら飲んでください」
「いや、わしもこれで止めにしよう。美味い酒を一人で飲んでもつまらぬからのう。また次におぬしと飲む機会まで残しておこう」
そう言うと猪口に残っていた一口をぐいと飲み干した。霧華とは違い、グラスに注がれた水はまだ手つかず。それを見て「お酒強いんですね」と呟かれた。
「そうでもない。酔いつぶれる時はつぶれる。今日はまだ五割程度かのう」
「……充分強いです。私はもう七割超えてます」
これ以上は二日酔いになる、怠さと戦いながらの仕事は回避したい。それで先ほどからグラスに注いだ水をこくこくと飲み干していた。
太公望は手の内で弄んでいた猪口を置き、水を飲む霧華に問いかけた。
「のう、霧華。一つ尋ねても良いか」
「ん?」
「おぬし、嫁には行かんのか」
「……ん」
空になったグラスを静かに置く。ことりと音が響いただけで、答えはすぐに返ってこなかった。じっと空のグラスを見つめるその表情に変化はない。何度も何度も繰り返し聞かれた質問なのだろう。それに対して何も思うことはないといった様子だった。
「おぬしのように気立ても良く、器量のよい娘なら男が放っておくまいに」
「そう?……そう、ね」
細い眉が僅かに顰められた。独り言のように呟いた後、「縁がなかったんじゃない」と他人事のように答えた。
「……勿体ない」
「それ叔母さんにも言われる」
テンプレートのように何度同じことを繰り返したか。太公望自身、そんな困った顔を見たくて聞いたつもりはなかった。ただ、予想している理由とこの現状が矛盾している訳を知りたかったのだ。
「すまぬ。聞かぬ方がよかったか」
「ううん。気にしないで。……私、一人で居る方が気楽。誰かとずっと一緒にいたら疲れてしまうから。それに、男の人と話すのも得意じゃないし」
「では何故わしを招き入れた」
「縁、だったのかも」
徐に視線を注がれ、限りなく黒色に近い瞳に見つめられ酒の余韻ではない熱を頬に感じた。そういう類の意味で言っているわけではない、それは承知の上だがそれでも期待してしまう。
霧華は霧華で思う所があるのかしばらく考えに耽っていた。やがて「放っておけなかったの」と話を続ける。
「一人で居たいって口では言うけど、やっぱり時々人恋しくなる。家に帰って、誰か話し相手が欲しいって。……ごめんなさい、自分勝手よね。なんだか私の我がままに付き合わせてるみたいで」
「わしは一つも迷惑に思うとらんよ」
「ありがとうございます。太公望さんは優しいんですね」
赤みの差した頬、すっと目を細めて笑う仕草。あまりにあの時と酷似していたもので、思わず太公望は手を伸ばしかけた。しかし、霧華から質問を投げ返されたので慌てて引っ込めることとなる。
「そういう太公望さんはどうなんですか」
「む?」
「気立ての良い伴侶がいらっしゃるのでは」
「……いたとしたら今こうしておぬしの家に転がりこんでなどおらぬ。バレたら殺されるであろうが…って、わかってて聞いたであろう?」
「ごめんなさい、そうですよね。もしそうなら私も追い返してますもの。じゃあ、好きな方は?」
まさかそう問われるとは思わなかった。さて、どう答えたものかと思案を巡らせる。
此処で出逢った時よりも、相手に対する想いは確実に膨らんでいる。共に過ごすことで見えてくる様々な一面、そのどれもが愛しいと思えてしまうのは末期かもしれない。計画とはだいぶかけ離れるが、今ここで想いを告げてしまおうか。そうしたらどんな顔をするのだろうか。
例え、相手が何一つも思い出せず、覚えていなかったとしても。太公望はもはや一人の女性として好意を寄せていた。
溜息を洩らした太公望はその重い口を開いた。昔話をするようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「昔、人間界を巻き込んだ大きな戦があった。それよりも少し前にある娘と出逢ってな。その娘は大層わしの事を慕っておったよ、尊敬の念を込めて。……数少ない、わしの良き理解者でもあった。だらけていても何処かの誰かさんみたいに怒らんかったし。だがわしは…そやつの気持ちを汲むことが出来なかった。気づいた時にはもう、何もかも遅かった。何もしてやれなかったわしを恨んでいるかもしれんな」
淡々と語られた昔話。伏せた目を瞑ればそこには自分を慕っていたかつての娘の姿。
あの時、別の選択をしていれば未来は変わったのだろうか。あの娘は生き抜くことができただろうか。何度もそう思い悩んできた。但し、彼女が生き残る道を選べば今度は蔑む視線がその眼から向けられる。どちらも、なんて都合の良い選択肢は無い。どれを選ぼうと犠牲はつきものだった。今あるこの道が正しいとは思えない、ただ、あの娘が選んだ道のおかげで今があるということを忘れてはならないと。何度も噛み締めてきた。
急にこんな話をされて困惑しているだろうと、霧華の方を見れば瞼をすっかり閉じていた。寝息を立てている。一体どこから寝ていたのかはわからない。もしかしたら最初から聞いていなかったかも。それなら有難いと太公望は眉尻を下げた。
「……ったく無防備だと何度言わせれば。彼奴もそう言っておったろうに」
信頼を寄せている相手の前だからこそなのか。それが心地よくも思える。
例えかつての事を覚えていなくとも、全くの赤の他人だったとしても。
「わしがおぬしを好いている事に変わりはないよ」
閉じた瞼の上に口づけを一つ。願わくば、己と同じ想いでありますように。