リズム怪盗R
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とけたまほう
一通の手紙を書き終えたキリカはペンを落ち着かせた。
書き始めたのは十四時だいうのに、たった一枚の文面にだいぶ時間をかけてしまった。
元気にしているか、体調は崩していないか。
この間久々に幼馴染みと再会したことなど、差し障りのない内容を書いただけなのだが、中々文が上手くまとまらなかったようだ。
日本語で書いた手紙に変な文章がないか読み直す。
日本語を書くのも久し振りだったため、つたない文字が多い。
漢字に線が一本足りないことにきづき、つけたしたそれはなんだか歪な形をしていた。
手紙を二つに折って、桜柄の封筒に入れる。
この時期に桜とは季節外れな気もするが、母は桜を好いているからあえて選んだ。
この便箋は日本に居た時に買ったもの。
きれいだからと勿体なくて使えずにいたうちの1つだ。
他にも鮮やかな紫陽花、向日葵、紅葉などの四季折々の便箋が大事にしまわれている。
ノリで封をした手紙を先に書き終えた二通の上に重ねた。
やっと全ての手紙を書き終えた。
凝り固まった体をうんと伸ばし、壁掛け時計を見上げる。
もう十五時をまわっている。
そろそろ手紙を出しに行かなければ郵便の回収に間に合わない。
鞄を取りにコート掛けに手を伸ばそうとする。
そこに掛けてある黒いジャケットの肩に埃がついていることに気がついた。
クローゼットからブラシをとりだし、丁寧にジャケットを撫でていく。
毎日ブラッシングをかけないと、色が黒いせいで埃が目立つのだ。
ブラッシングをかけ終えたジャケットを眺めるキリカの目が一度揺れた。
指先でそっと襟に触れる。
持ち主を待つそれが悲しげに見えたのは気のせいか。
あの夜。このジャケットは証拠品として警察に押収されそうになった。
軽視の手に渡りそうになる直前に、キリカが「これは幼馴染みのものだ」と言った。
怪しまれていたが、アランも空気を察したのか話を合わせてくれたおかげで、押収されずにすんだのだ。
これは持ち主が取りに来るまで大事に保管しよう。そう決めた。
すぐに取りに来るだろう。
そう思っていたが、二日、三日、五日。
一週間経っても彼は現れなかった。
一体どうしたのか。
気まぐれな彼のことだから、気が向いた時に来るのかもしれない。
それなら、それでいい。
だが、まだあの返事をしていない。
好きだと言ってくれたが、こちらの気持ちをまだ伝えてはいない。
ここ1週間もやもやとした気分で、溜め息ばかりの毎日だった。
早くご主人が来るといいわね。
そう呼び掛けるように語りかける。
キリカは静まり返った部屋を後にした。
この時期は日本と違って過ごしやすい。
梅雨はないし、湿度も高くない。
じめじめとした空気に額に貼り付く前髪、不快感もない。
そこが気に入っているひとつでもある。
地中海の気候はとても過ごしやすい。
キリカは近くの郵便局まで足を運んでいた。
日陰を伝って歩く人が多い。
過ごしやすい気候とはいえ、直射日光は女性にとって避けたいもの。
手紙を郵便局に任せ、これで今日の大仕事を終えた。
羽を伸ばすように両腕を広げ、空を見上げる。
太陽が背の高い木に隠れん坊をしていて、葉の隙間からきらきらと輝いていた。
日の光の眩しさに目を細める。
外に出たついでにマルシェに寄って何か買っていこう。
今夜のご飯は何がいいか。さっぱりした物がいい。
そんなことをぼうっと考えていると、足元でわんと鳴き声が聞こえた。
足元に白い犬が尻尾を振りながら座っていた。
左目の周りに茶色いブチ模様があり、長い耳をピンッと立てている。
首輪の代わりに赤いスカーフをきゅっと結んでいた。
じっと見つめて来るその犬の頭を撫でてやると嬉しそうに目をつぶる。
尻尾がぶんぶんと振り子のように揺れていた。
「フォンデュ!勝手にどっか行くんじゃない!」
この犬の名前なのか、遠くからそう叫んでいた主人が駆けつけてきた。
意外なことに、その顔は随分久しぶりに見るものだった。
同じアパートに住むのにここ一週間顔を合わせてないのだ。
今までは一日に一回は顔を見ていたのだから、不思議なものだ。
お互いに相手を認識したが、すぐに挨拶が出てこないようだった。
先に声をかけたのはキリカだ。
「こんにちは」と声をかけると、思い出したようにラルフも挨拶を返した。
顔は笑っているが、口許がやや引きつっている。
それがバレないうちにとラルフは腰を屈め、フォンデュに「ダメだろ」と叱っていた。
「この子、ラルフ君の犬?」
「あ、はい。フォンデュって言うんです」
「賢そうね」
「そんなことないですよ」
賢いという単語に反応したのか、ワンッと得意気にフォンデュが鳴いた。
赤い舌を出して短い呼吸を繰り返している。
フォンデュはキリカをじっと見上げていた。
「今日は御休みなんですね」
「ええ。今ちょうど手紙を出したところ。これからマルシェに寄って帰ろうと思ってるの」
「そうですか。僕も、一緒に行ってもいいですか?」
フォンデュの頭が左右に動く。
キリカの声がすれば右へ、ラルフの声がすれば左へ。
忙しなく動かしていた。
普段ならばすぐに快く承諾してくれるのだが、今日は都合が悪いのか返事がなかった。
しかし、それはラルフの思い込みだったのかキリカはすぐに微笑みながら頷いた。
「ええ、いいわよ。でも、荷物持たせてしまうかもしれないわよ」
「荷物持ちくらい構いませんよ。な、フォンデュ……?」
ラルフがフォンデュに相槌を求めて視線を送るが、愛犬の姿は忽然と消えていた。
あたりを見渡すと遥か遠くに白い犬が見えた気がした。
「フォンデュのやつ……また勝手に」
「追いかけなくてもいいの?」
「いいですよ。猫と違ってちゃんとご飯の時間には帰ってきますし」
「ふふ。やっぱり賢いのね」
「食い意地が張ってるだけですよ。僕たちも行きましょうか」
「そうね」
影坊主が少しだけ伸びていた。
来た時よりも気持ち面積の広い木陰を二人で歩いていく。
歩道の向こう側から小さな子どもが母親の手を引いて「はやくはやく」と急かしている。
母親は笑いながら後についていた。
「なんだかラルフ君と会うの久し振りね」
「そう、ですね。最近レポートや手伝いが忙しくて」
「ああ、そろそろ夏休みだものね。それで学生さんの顔が嬉しそうだったんだわ」
「みんな予定立ててるみたいですから。キリカさんは休みにどこか行くんですか?」
フランスの夏休みは学生も社会人も長い。
日本の友達にそれを話したら目が飛び出そうなくらい驚かれたものだ。
「羨ましい!」とばかり繰り返していた。
昔は郊外の別荘で過ごしたり、遠方へ旅行に出掛けていたこともある。
今年は実家に帰る予定も特には立てていなかった。
「行かないわ。今年は家に居ようと思ってるの」
「そう、ですか」
「私、人を待ってるの。私が大好きな人」
キリカはまっすぐと前を向いたまま、呟いた。
どこか憂いを帯びたブルーの目が再び揺らぐ。
どちらが先に歩みを止めたのかわからない。
二人は遊歩道の端で、木漏れ日が漏れる木の下で静止した。
真っ直ぐと前を見据える横顔が綺麗だ。それでもどこか悲しげに見える。
「忘れ物、預かってるから。いつ取りに来てもいいように待っているの。私が出かけてしまったらすれ違ってしまうでしょう?」
そう言ってキリカは長い睫毛を伏せる。
ラルフは何も答えられずにいた。
せめて「そうですね」「はい」と相槌を打てばいいものの。
うまい言葉が見つからない。
やけに鼓動がばくばくと騒いでいた。胸騒ぎに近い。
「彼は私のことを好きだって言ってくれたの。嬉しかったわ。でも、嫌われちゃったみたい」
あの日以来、Rは姿を見せなかった。
相変わらす新聞やニュースで世間を騒がせてはいるが、キリカの前には姿を現さなかった。
誰かに話そうにも恋をしている相手は世を騒がせている怪盗。
そう簡単に話せるわけもない。
自分を姉のように慕ってくれるクロードに、とも思ったがそれは怖かった。
弄ばれたんだ、と言われそうで。
そんなことはないと信じていた。
しかし、その気持ちも時間が流れれば流れるほど薄れていく。
怪盗に恋をした自分が愚かだったと。
そんな気持ちさえ心に浮かんでいた。
「やっぱりどこかに出かけようかしら。来ない人を待っていても仕方がないものね」
後ろ手を組んだキリカは空を見上げた。
青空に白い雲がゆったりと流れている。
少し風が出てきているようだった。
母に宛てた手紙には実家に帰省することを書いていなかったが、久しぶりに帰るのもいいかもしれない。
「ラルフ君。お願いがあるんだけど、聞いてくれないかな」
「なんですか」と、自分では冷静を装っていたはずが、声が少し震えてしまっていた。
振り向いたキリカは笑っていた。
その笑顔がラルフにとって痛々しいものだった。
「彼の忘れ物を貴方から渡してほしいの」
この言葉が何を意味するのか。
とうに正体はバレていたのだ。
同じアパートに住む青年ラルフがパリを騒がす怪盗Rだと。
いつ正体がバレたのかはわからないが、それを知った上で今まで接していたのだろうか。
考えるよりも先に感情に動かされたラルフはキリカの腕を引いた。
倒れこむ体をそのまま抱きかかえるように受け止める。
華奢な背中に両腕を回す。揺れた髪からシャンプーの香りが弾けた。
「ごめん」
そう呟いた声は消えそうなぐらい小さい。
それでもキリカの耳にはしっかりと届いていた。
瞬きを一度しただけで揺らいでいた目が大きく波立ち始める。
「君に会いたかった。本当はすぐにでも会いに行くつもりだったんだ。でも、警察が君の部屋を見張ってて……僕のせいで君を面倒なことに巻き込みたくなかった」
怪盗と接点があるとなればパリ市警は黙っていない。
根掘り葉掘りと事情聴取をされることになるだろう。
この間の夜に二人でいる所をポードワン警視にしっかりと見られている。
二度、三度となれば確実にキリカから情報を聞き出そうとする。
ラルフは首元に埋めていた顔を上げ、頬を寄せた。
息が詰まりそうなぐらい心臓が締め付けられている。
ここまで彼女を困惑させてしまったことに胸が痛い。
「でも、それは単なる言い訳にしか過ぎないよね。僕は君を嫌いになってない」
断じてない。それだけは声を大にして言えること。
愛情の方が何倍にも膨れ上がっているのだから。
夜は警察の警備が、昼間はレポートや店の手伝いで忙しかった。
それはただの言い訳に過ぎない。
自分から無意識のうちに逃げていたのだ。
怖かった。
もし、ノーと言われたらと思うと怖くて会いに行けなかった。
キリカと鉢合わせないように自然と行動していたのも事実。
自分の気持ちを押し付けて、相手のことを考えていなかったのではないか。
彼女は流されやすいと自分で言っていた。
ただあの時の雰囲気に流されていただけだとしたら。
ラルフは腕の力を緩め、体を少しだけ離した。
その手をキリカの肩に置く。
彼女の目からは涙が零れていた。
指で目元に触れると溢れた涙が頬を伝って落ちていく。
「君のことが好きだ。初めて会った時からずっと。これが僕の嘘偽りない本当の気持ち」
「……ラルフ、くん」
「だから、キリカさんの気持ち教えてくれないかな」
彼女を傷つけてしまった建前上、今更な気もするが。
それでもずっと自分の気持ちは変わっていないことを伝えたかった。
これで答えがどちらであっても後悔はしない。
しばらくの間、キリカはラルフを見つめたまま何も言わなかった。
段々と押し寄せてくる不安の波を止めたのは唇に触れた柔らかい感触。
何が起きたのか頭の整理がつかず、思考さえ止まりかけた。
やがてその意味を理解すると一気に顔に熱が集まる。
その様子にキリカはおかしそうに笑っていた。
「随分違うのね、怪盗さんの時とは」
「え、いやっ、その……つまり、今のって」
「ちゃんと忘れ物取りに来てちょうだいね」
その答えを聞いたラルフは思い切りキリカの体を抱きしめた。
そのまま体を持ち上げてくるくると回り出す。
驚いたキリカはしがみついて彼の顔を見上げたが、嬉しそうな表情に何も言えずにいた。
一通の手紙を書き終えたキリカはペンを落ち着かせた。
書き始めたのは十四時だいうのに、たった一枚の文面にだいぶ時間をかけてしまった。
元気にしているか、体調は崩していないか。
この間久々に幼馴染みと再会したことなど、差し障りのない内容を書いただけなのだが、中々文が上手くまとまらなかったようだ。
日本語で書いた手紙に変な文章がないか読み直す。
日本語を書くのも久し振りだったため、つたない文字が多い。
漢字に線が一本足りないことにきづき、つけたしたそれはなんだか歪な形をしていた。
手紙を二つに折って、桜柄の封筒に入れる。
この時期に桜とは季節外れな気もするが、母は桜を好いているからあえて選んだ。
この便箋は日本に居た時に買ったもの。
きれいだからと勿体なくて使えずにいたうちの1つだ。
他にも鮮やかな紫陽花、向日葵、紅葉などの四季折々の便箋が大事にしまわれている。
ノリで封をした手紙を先に書き終えた二通の上に重ねた。
やっと全ての手紙を書き終えた。
凝り固まった体をうんと伸ばし、壁掛け時計を見上げる。
もう十五時をまわっている。
そろそろ手紙を出しに行かなければ郵便の回収に間に合わない。
鞄を取りにコート掛けに手を伸ばそうとする。
そこに掛けてある黒いジャケットの肩に埃がついていることに気がついた。
クローゼットからブラシをとりだし、丁寧にジャケットを撫でていく。
毎日ブラッシングをかけないと、色が黒いせいで埃が目立つのだ。
ブラッシングをかけ終えたジャケットを眺めるキリカの目が一度揺れた。
指先でそっと襟に触れる。
持ち主を待つそれが悲しげに見えたのは気のせいか。
あの夜。このジャケットは証拠品として警察に押収されそうになった。
軽視の手に渡りそうになる直前に、キリカが「これは幼馴染みのものだ」と言った。
怪しまれていたが、アランも空気を察したのか話を合わせてくれたおかげで、押収されずにすんだのだ。
これは持ち主が取りに来るまで大事に保管しよう。そう決めた。
すぐに取りに来るだろう。
そう思っていたが、二日、三日、五日。
一週間経っても彼は現れなかった。
一体どうしたのか。
気まぐれな彼のことだから、気が向いた時に来るのかもしれない。
それなら、それでいい。
だが、まだあの返事をしていない。
好きだと言ってくれたが、こちらの気持ちをまだ伝えてはいない。
ここ1週間もやもやとした気分で、溜め息ばかりの毎日だった。
早くご主人が来るといいわね。
そう呼び掛けるように語りかける。
キリカは静まり返った部屋を後にした。
この時期は日本と違って過ごしやすい。
梅雨はないし、湿度も高くない。
じめじめとした空気に額に貼り付く前髪、不快感もない。
そこが気に入っているひとつでもある。
地中海の気候はとても過ごしやすい。
キリカは近くの郵便局まで足を運んでいた。
日陰を伝って歩く人が多い。
過ごしやすい気候とはいえ、直射日光は女性にとって避けたいもの。
手紙を郵便局に任せ、これで今日の大仕事を終えた。
羽を伸ばすように両腕を広げ、空を見上げる。
太陽が背の高い木に隠れん坊をしていて、葉の隙間からきらきらと輝いていた。
日の光の眩しさに目を細める。
外に出たついでにマルシェに寄って何か買っていこう。
今夜のご飯は何がいいか。さっぱりした物がいい。
そんなことをぼうっと考えていると、足元でわんと鳴き声が聞こえた。
足元に白い犬が尻尾を振りながら座っていた。
左目の周りに茶色いブチ模様があり、長い耳をピンッと立てている。
首輪の代わりに赤いスカーフをきゅっと結んでいた。
じっと見つめて来るその犬の頭を撫でてやると嬉しそうに目をつぶる。
尻尾がぶんぶんと振り子のように揺れていた。
「フォンデュ!勝手にどっか行くんじゃない!」
この犬の名前なのか、遠くからそう叫んでいた主人が駆けつけてきた。
意外なことに、その顔は随分久しぶりに見るものだった。
同じアパートに住むのにここ一週間顔を合わせてないのだ。
今までは一日に一回は顔を見ていたのだから、不思議なものだ。
お互いに相手を認識したが、すぐに挨拶が出てこないようだった。
先に声をかけたのはキリカだ。
「こんにちは」と声をかけると、思い出したようにラルフも挨拶を返した。
顔は笑っているが、口許がやや引きつっている。
それがバレないうちにとラルフは腰を屈め、フォンデュに「ダメだろ」と叱っていた。
「この子、ラルフ君の犬?」
「あ、はい。フォンデュって言うんです」
「賢そうね」
「そんなことないですよ」
賢いという単語に反応したのか、ワンッと得意気にフォンデュが鳴いた。
赤い舌を出して短い呼吸を繰り返している。
フォンデュはキリカをじっと見上げていた。
「今日は御休みなんですね」
「ええ。今ちょうど手紙を出したところ。これからマルシェに寄って帰ろうと思ってるの」
「そうですか。僕も、一緒に行ってもいいですか?」
フォンデュの頭が左右に動く。
キリカの声がすれば右へ、ラルフの声がすれば左へ。
忙しなく動かしていた。
普段ならばすぐに快く承諾してくれるのだが、今日は都合が悪いのか返事がなかった。
しかし、それはラルフの思い込みだったのかキリカはすぐに微笑みながら頷いた。
「ええ、いいわよ。でも、荷物持たせてしまうかもしれないわよ」
「荷物持ちくらい構いませんよ。な、フォンデュ……?」
ラルフがフォンデュに相槌を求めて視線を送るが、愛犬の姿は忽然と消えていた。
あたりを見渡すと遥か遠くに白い犬が見えた気がした。
「フォンデュのやつ……また勝手に」
「追いかけなくてもいいの?」
「いいですよ。猫と違ってちゃんとご飯の時間には帰ってきますし」
「ふふ。やっぱり賢いのね」
「食い意地が張ってるだけですよ。僕たちも行きましょうか」
「そうね」
影坊主が少しだけ伸びていた。
来た時よりも気持ち面積の広い木陰を二人で歩いていく。
歩道の向こう側から小さな子どもが母親の手を引いて「はやくはやく」と急かしている。
母親は笑いながら後についていた。
「なんだかラルフ君と会うの久し振りね」
「そう、ですね。最近レポートや手伝いが忙しくて」
「ああ、そろそろ夏休みだものね。それで学生さんの顔が嬉しそうだったんだわ」
「みんな予定立ててるみたいですから。キリカさんは休みにどこか行くんですか?」
フランスの夏休みは学生も社会人も長い。
日本の友達にそれを話したら目が飛び出そうなくらい驚かれたものだ。
「羨ましい!」とばかり繰り返していた。
昔は郊外の別荘で過ごしたり、遠方へ旅行に出掛けていたこともある。
今年は実家に帰る予定も特には立てていなかった。
「行かないわ。今年は家に居ようと思ってるの」
「そう、ですか」
「私、人を待ってるの。私が大好きな人」
キリカはまっすぐと前を向いたまま、呟いた。
どこか憂いを帯びたブルーの目が再び揺らぐ。
どちらが先に歩みを止めたのかわからない。
二人は遊歩道の端で、木漏れ日が漏れる木の下で静止した。
真っ直ぐと前を見据える横顔が綺麗だ。それでもどこか悲しげに見える。
「忘れ物、預かってるから。いつ取りに来てもいいように待っているの。私が出かけてしまったらすれ違ってしまうでしょう?」
そう言ってキリカは長い睫毛を伏せる。
ラルフは何も答えられずにいた。
せめて「そうですね」「はい」と相槌を打てばいいものの。
うまい言葉が見つからない。
やけに鼓動がばくばくと騒いでいた。胸騒ぎに近い。
「彼は私のことを好きだって言ってくれたの。嬉しかったわ。でも、嫌われちゃったみたい」
あの日以来、Rは姿を見せなかった。
相変わらす新聞やニュースで世間を騒がせてはいるが、キリカの前には姿を現さなかった。
誰かに話そうにも恋をしている相手は世を騒がせている怪盗。
そう簡単に話せるわけもない。
自分を姉のように慕ってくれるクロードに、とも思ったがそれは怖かった。
弄ばれたんだ、と言われそうで。
そんなことはないと信じていた。
しかし、その気持ちも時間が流れれば流れるほど薄れていく。
怪盗に恋をした自分が愚かだったと。
そんな気持ちさえ心に浮かんでいた。
「やっぱりどこかに出かけようかしら。来ない人を待っていても仕方がないものね」
後ろ手を組んだキリカは空を見上げた。
青空に白い雲がゆったりと流れている。
少し風が出てきているようだった。
母に宛てた手紙には実家に帰省することを書いていなかったが、久しぶりに帰るのもいいかもしれない。
「ラルフ君。お願いがあるんだけど、聞いてくれないかな」
「なんですか」と、自分では冷静を装っていたはずが、声が少し震えてしまっていた。
振り向いたキリカは笑っていた。
その笑顔がラルフにとって痛々しいものだった。
「彼の忘れ物を貴方から渡してほしいの」
この言葉が何を意味するのか。
とうに正体はバレていたのだ。
同じアパートに住む青年ラルフがパリを騒がす怪盗Rだと。
いつ正体がバレたのかはわからないが、それを知った上で今まで接していたのだろうか。
考えるよりも先に感情に動かされたラルフはキリカの腕を引いた。
倒れこむ体をそのまま抱きかかえるように受け止める。
華奢な背中に両腕を回す。揺れた髪からシャンプーの香りが弾けた。
「ごめん」
そう呟いた声は消えそうなぐらい小さい。
それでもキリカの耳にはしっかりと届いていた。
瞬きを一度しただけで揺らいでいた目が大きく波立ち始める。
「君に会いたかった。本当はすぐにでも会いに行くつもりだったんだ。でも、警察が君の部屋を見張ってて……僕のせいで君を面倒なことに巻き込みたくなかった」
怪盗と接点があるとなればパリ市警は黙っていない。
根掘り葉掘りと事情聴取をされることになるだろう。
この間の夜に二人でいる所をポードワン警視にしっかりと見られている。
二度、三度となれば確実にキリカから情報を聞き出そうとする。
ラルフは首元に埋めていた顔を上げ、頬を寄せた。
息が詰まりそうなぐらい心臓が締め付けられている。
ここまで彼女を困惑させてしまったことに胸が痛い。
「でも、それは単なる言い訳にしか過ぎないよね。僕は君を嫌いになってない」
断じてない。それだけは声を大にして言えること。
愛情の方が何倍にも膨れ上がっているのだから。
夜は警察の警備が、昼間はレポートや店の手伝いで忙しかった。
それはただの言い訳に過ぎない。
自分から無意識のうちに逃げていたのだ。
怖かった。
もし、ノーと言われたらと思うと怖くて会いに行けなかった。
キリカと鉢合わせないように自然と行動していたのも事実。
自分の気持ちを押し付けて、相手のことを考えていなかったのではないか。
彼女は流されやすいと自分で言っていた。
ただあの時の雰囲気に流されていただけだとしたら。
ラルフは腕の力を緩め、体を少しだけ離した。
その手をキリカの肩に置く。
彼女の目からは涙が零れていた。
指で目元に触れると溢れた涙が頬を伝って落ちていく。
「君のことが好きだ。初めて会った時からずっと。これが僕の嘘偽りない本当の気持ち」
「……ラルフ、くん」
「だから、キリカさんの気持ち教えてくれないかな」
彼女を傷つけてしまった建前上、今更な気もするが。
それでもずっと自分の気持ちは変わっていないことを伝えたかった。
これで答えがどちらであっても後悔はしない。
しばらくの間、キリカはラルフを見つめたまま何も言わなかった。
段々と押し寄せてくる不安の波を止めたのは唇に触れた柔らかい感触。
何が起きたのか頭の整理がつかず、思考さえ止まりかけた。
やがてその意味を理解すると一気に顔に熱が集まる。
その様子にキリカはおかしそうに笑っていた。
「随分違うのね、怪盗さんの時とは」
「え、いやっ、その……つまり、今のって」
「ちゃんと忘れ物取りに来てちょうだいね」
その答えを聞いたラルフは思い切りキリカの体を抱きしめた。
そのまま体を持ち上げてくるくると回り出す。
驚いたキリカはしがみついて彼の顔を見上げたが、嬉しそうな表情に何も言えずにいた。