リズム怪盗R
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恋の魔法
今日もまた清々しい朝がやってきた。
朝の空気は新鮮でとても爽やかだ。
大きく開いた窓からキリカは顔を覗かせていた。
そよそよと髪を撫でていく風は色々な匂いを運んで来る。
パンを焼く香り、珈琲の芳しい香り。一日の始まりの香りがそよいでいる。
「遅刻するわよ!」という子どもを送り出す母親の声が下から聞こえてきた。
そろそろ自分も仕事に行かなければ。
窓を閉めて、施錠がされているか確認をする。
それからお気に入りの鞄を肩に背負い、ガスの元栓を閉めた。
キッチンの水切りカゴにティーカップが二つ並んでいる。
洗ったばかりのカップから雫が弧を描いて流れ落ちた。
部屋をぐるりと見渡し、忘れ物がないことをチェック。
誰も居ない部屋に向けて「行ってきます」と心の中で呟いた。
*
花屋の開店準備を終えたキリカは店の時計を見た。
開店まであと十分ある。
店先に揃えた花は今日も機嫌が良さそうに笑っている。
昼になれば恋人を目で追うように空を見上げるだろう。
この仕事に就いてからまだ日が浅いが大体の要領は得た。
店主と二人だけなので、混みあうと大変だが特別な行事がないとそうそう混まない。
その行事が近い為にここ数日は忙しいのだが。
それでも変わらずに「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えるのが大事だ。
この店に入った時に心がけるようにと店主に言われたのだ。
今日もきっと素敵な一日になると願い、太陽を見上げた。
*
店先の花たちが真上を向き出していた。
店員が二人しか居ない為、お昼は交代で済ませている。
今日は先に店主が昼に入っていたのでキリカはこれから一時間のお昼休憩に入る。
休憩室にはラジオ、テレビ、ポットも備わっている。
TVを見ながら普段は過ごしているが、今日はそんな気分でもなかったのでラジオをつけていた。
楕円形のオレンジ色をしたプラスチック弁当箱を箸でつつく。
甘く味付けた卵焼きをもぐもぐと頬張りながらキリカはぼーっと一点を見つめていた。
ラジオから流れるパーソナリティが祭典の話をしているが、頭に入ってこない。
次にホウレンソウの胡麻和えに箸をつけたが、ふとそこで手を止めた。
仕事中は考える暇もないぐらい忙しかった。
しかし、こうして暇になるとついつい考えてしまう。
キリカはある出来事を振り返っていた。
昨夜部屋に現れた怪盗R。
あの来訪者は夢か現実か、どちらなのか。
確かにあの時は寝惚けていたかもしれない。
途中からぼんやりと夢心地にはなっていた。
それでも意識はしっかりあったはずだ。
あれから眠りにつくまでまた長い時間を要した気がする。
何度もベッドで寝返りを打ち、収まらない鼓動を落ち着けるのが大変だった。
何時に眠りについたのかは定かではないが、すこし寝不足な感じはあった。
朝を迎えて、やっぱりあれは夢だったのだろうか。
そう寝惚けた頭で考えていた。だが、確かな証拠がそこにはあった。
サイドテーブルに置かれた二つのティーカップだ。
夢じゃなく、現実だった。
今でも脳裏に去り際の台詞と手の甲の感触がリアルに再生される。
それを思い出すと火が点いた様に顔がかあっと熱くなった。
その場面を振り払うようにキリカは頭を左右に振った。
落ちてきたサイドの髪を耳にかけなおし、重いため息をほうっと吐き出した。
それを運悪く店主に見られてしまったようだ。
「おやおや。ため息なんかついちゃって、恋の魔法にでもかかったのかい」
「え、あっ……ち、違います!」
「そうかい?私はてっきり好きな人でも出来たのかと思ったよ。午前中もぼんやりしてて上の空のことが多かったし」
「す、すみません」
自分ではいつも通りに仕事をしていると思っていた。
しかし、他人から見れば夢心地でぼんやりと見えていたのか。
仕事中に夢うつつを抜かしていたことを申し訳ないと詫びたが、店主の女性は怒るどころか楽しそうに笑った。
「お姫様を射止めたのはどこの王子様かしら」
「からかわないでくださいよ。……それより、その格好どうしたんですか」
「あら、忘れたの?午後から用事があるから今日はあがるって」
そういえば今朝、そんなことを聞いた気がする。
今朝聞いたことも忘れてしまうなんて、やはり惚けていたようだ。
仕事着であるエプロンを脱いでいる店主はやれやれと腰に手を当てる。
「……そうでした。それで、午後から手伝いの方が来るんですよね」
「ええ。貴女がお昼を上がる頃には来るはずよ。彼が来たら私は行くわ」
「男の方なんですか?」
「仕入れがあるから力仕事できる方が助かると思ってね」
「私一人じゃ終わらない量だから助かります」
午前中も結構な客が来ていた。
花も飛ぶように売れている。
今が稼ぎ時だと店主もはりきっている。
「それじゃ、代理が来るまで店番してくるとしますか」
「お願いします」
手伝いが来ると言っても、仕事を知らない人間だ。それとも経験があるのだろうか。
どちらにせようつつを抜かしている暇はない。
お昼をしっかりと食べて午後に臨もう。
キリカはほうれん草のゴマ和えを箸でつまみ上げた。
*
店に来る手伝いがどんな人なのか。
期待半分、不安半分に待っていたのだが、特に待ち構える必要はなかったようだった。
店にやってきたのはよく見た顔。
こちらが驚いていると、彼はにこりと笑ってみせた。
「彼が今日の手伝い、ラルフ君よ」
「こんにちはキリカさん」
「手伝いの人ってラルフくんだったの」
「黙っていてすみません。急に呼ばれたものですから」
「二人とも知り合い?それなら話が早いわ。店番よろしくね」
「任せてください」
店主は慌しく店を出て行った。
約束まで時間があまり無いと言っていた。
キリカはラルフに仕事の内容を口で説明を始めた。
一通り簡単に説明を終え、手始めについさっき届いた生花の箱を店の奥に運んでもらうことにした。
細長いダンボール箱が店の入り口に山積みになっている。
中身が花とは言え、幅もあるし結構重いものだ。
しかし、いつも苦労して運んでいるそれをラルフは軽々と持ち上げていた。
「ラルフくん力持ちなのね」
「そうですか?随分軽いと思いますけど」
「少なくとも私や店長より力持ちよ。そんなに一度に運べないもの」
「それじゃあ今日は力仕事任せてもらっていいですよ。何でも言ってください」
「ありがとう。あ、それはこっちにお願い。薔薇の手入れを先にしてしまいたいの」
「わかりました」
箱を五箱も積み上げて、真っ直ぐに指示された場所へ歩いていく。
男手があるとこうも違うものかと妙に感動してしまう。
「ありがとう。残りはこのカウンターの裏の方へお願い」
「はい」
運搬をラルフに任せたキリカは薔薇が梱包されている箱を開けていった。
カッターナイフでテープを切り裂いていく時に中の花まで傷つけないよう注意を払う。
花に余計な傷を少しでもつけてしまうとすぐに弱ってしまうからだ。
ダンボールの箱を開くと真っ赤な薔薇が数本梱包されていた。
赤い花びらが散っている。
これ以上花を散らさないように薔薇を優しく扱い、トゲを取り除いていく。
「へえ。薔薇ってこうやってトゲを取るんですか」
「ええ。専用のトゲ取り器があるのよ。やり方を教えるからラルフくんも手伝ってくれるかしら」
「勿論ですよ」
ラルフはキリカの手元をじっと見つめた。
細くて白い指が一つずつ丁寧にトゲを取り除いていく。
その指にはよく見ると細かい傷がいくつもあった。
「最初は慣れないと思うから、ケガだけしないように気をつけてね」
「はい。これ借りますね」
綺麗な薔薇にはトゲがある。
美しいからと言って安易に近づくと痛い目を見るという諺だ。
いつしかこの言葉は人にも例えられるようになった。
ラルフは側で作業をしているキリカを盗み見た。
伏せられた優しい瞳が薔薇に向けられている。長い睫毛が瞬きをする度に揺れる。
花を扱っている時は特に優しい表情を見せているような気がしていた。
いつだったか「花は心に応えてくれる。愛情を注げば綺麗な花を咲かせるの」と言っていた。
その時の表情はまるで女神のようで、とても優しい顔をしていた。
今もその顔をしている。
本当に花が好きなんだなとこちらまで微笑ましくなる。
ところが、それに見惚れていたせいでうっかりトゲを指に刺してしまった。
鋭い痛みが左手親指に走る。思わず声をあげるとキリカが大丈夫かと訪ねてきた。
「大丈夫です。このぐらい紙で手を切ったようなものですよ」
「でも、傷口からバイ菌が入ったら化膿してしまうわ。待ってて、今絆創膏と消毒剤を持ってくるから」
このぐらいすぐ治るにと楽観的に考えているラルフとは違い、キリカはその先を危惧しているようだった。
いつ何が起きるのかわからないのだから、最善をつくすべきだと。
救急箱から消毒剤と絆創膏を用意したキリカは手際よくラルフの指を手当てしていく。
消毒剤が一瞬だけ染みた。
それよりも触れているキリカの指先が冷たい事が気になる。
素直にそう述べると「水に触れる機会が多いし、体温が高いと花が萎れちゃうの」と話していた。
触れる指先にラルフの鼓動が高鳴りつつある。
「はい、できた」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。家に帰ってから絆創膏張り替えてね」
「忘れてなければそうします」
「シャワーを浴びたら嫌でも取り替えたくなるわ」
「ああ、それもそうですね」
二人で顔を見合わせながら笑っているとドアベルがからんと音を立てた。
店に入ってきたのは若い男性だ。
忙しなくあたりをキョロキョロと見回している。
その様子を見たキリカはこっそりラルフに耳打ちをする。
「きっとこれからデートに行く人よ」
「なるほど」
さすが本職。
客を見ただけで用件がわかるのか。
「いらっしゃいませ、どのような、花をお探しですか」
自然な笑顔を見せたキリカを見て。ああやっぱりこの笑顔好きだな。
そう実感したラルフは親指に視線を移した。そっと指先でなぞる。
*
日が暮れた頃には花屋のバケツはほぼ空になっていた。
売れ残ったのは2本の赤い薔薇だけだ。
昨日から元気のなかった個体で、今日も売れずに残ってしまった。
キリカは買い手のつかなかった花を度々自分で買い取り、ドライフラワーや押し花にしていた。
手伝いのラルフは5時までの約束だったので、アルバイト代を渡して帰ってもらっている。
どうせだから最後まで手伝うと申し出てくれたのだが、学生は遊べるうちに遊んだ方がいいと丁重に断った。
今になって振り返ってみれば学生のうちにもっと遊んでおけばよかったと悔やむこともある。
だから、今の子達には自由に使える時間を謳歌してほしい。
空がだいぶ紫色に染まってきていた。
東の空がうっすら水色を残している。
街灯もぽつりぽつりと点いてきた。
切り花を入れていた空の黒いバケツを店の中にしまおうと持ち上げた時だった。
「お疲れ様」と、声をかけてきた男性がいた。
彼はにこりと笑っているが、その顔に見覚えがない。
知らない人だ。それが顔に出ていたのか男性が大袈裟に肩をすくめてみせる。
「ここには何度か来たことがあるよ」
「ごめんなさい、人の顔を覚えるのは苦手で」
「いいよ。親睦を深めるためにも今夜レストランでディナーでもどうだい?」
何の用かと思いきや、ナンパだ。
怪訝そうにキリカは顔をしかめた。
「いつもこの花屋にいる君と話がしたいと思っていたんだ。もっと君のことが知りたい」
「あの、私は」
反論する暇もなく、男はずいずいと迫ってくる。
一見大人しそうな人柄に見えたが、見た目で判断してはいけないようだった。
距離が詰められていく度にキリカの表情が強ばる。
このバケツに入っている水でも顔にかけてやろうか。しかし、逆に怒らせてしまったら怖い。
気丈な店主がいればすぐ追い払えるのだが、今日に限って直帰している。
どう追い払えばいい。
こう考えているうちにも男は迫ってくる。
近寄らないで、そう声を上げようとした。
その時、すっと視界に黒い袖が映る。
「随分と強引なお兄さんだね。そんなんじゃ女性は振り向いてくれないよ」
Rがキリカを庇うように二人の間に割って立っていた。
押さえた帽子からRの目がちらりと覗く。口許にはいつもの笑みを携えていた。
「なっなんだよお前は」
「彼女と先約がある者だよ。だから大人しく引き下がってくれないかな」
「なんだと!」
「それに嫌がる女性を無理に誘うのは紳士的じゃないね。これ以上彼女に言い寄るなら……僕も黙っちゃいないけど」
帽子のツバをトンと軽く弾いたRの目は笑ってはいなかった。
まるで蛇に睨まれているようだ。しばし恐怖に身動きがとれずにいた男に向けてRが目の前でパチンと指を鳴らす。
その音に弾かれるように男は慌てて逃げ出していってしまった。
途中、慌てすぎて転びそうになる滑稽な姿を見てRは笑みを零す。
「なんだ。口ほどにもないヤツだったな」
「R、ありがとう」
「どう致しまして。君が困っていたからつい嘘をついちゃったよ」
「Rが来なかったら私、水をかけてた所だったわ」
「ああ、それはいいアイディアだよ」
びしょ濡れになった時の反応が見てみたいと、可笑しそうに声を上げて笑う。
Rの顔を見て安心したのか、冗談めいて「バケツも被せてやるわ」とキリカは返した。
「そうだ。このあと予定は?」
「ない、わ」
「それなら都合がいい。嘘を本当に変えようか。パリの街を僕と一緒にデートしてくれないかな」
「わ、私でよければ」
「それじゃあ決まりだ。店仕舞いを手伝うよ」
キリカの持っているバケツをひょいと持ち上げ、店の中へそれを運んでいく。
荷物を取られたので、別のバケツを運んでいるとそれも取られてしまった。
バケツを受け渡す時に指先が触れ、心臓がどきりと高鳴る。
彼の親指の腹には絆創膏が巻かれていた。
その指はどうしたのかと尋ねる暇も無く、あっという間に店の片づけを終えてしまった。
しまいにはこう言われてしまったのだから、聞き返すこともできなかった。
「夜のパリをエスコートするよ。お手をどうぞ、マドモアゼル」
今日もまた清々しい朝がやってきた。
朝の空気は新鮮でとても爽やかだ。
大きく開いた窓からキリカは顔を覗かせていた。
そよそよと髪を撫でていく風は色々な匂いを運んで来る。
パンを焼く香り、珈琲の芳しい香り。一日の始まりの香りがそよいでいる。
「遅刻するわよ!」という子どもを送り出す母親の声が下から聞こえてきた。
そろそろ自分も仕事に行かなければ。
窓を閉めて、施錠がされているか確認をする。
それからお気に入りの鞄を肩に背負い、ガスの元栓を閉めた。
キッチンの水切りカゴにティーカップが二つ並んでいる。
洗ったばかりのカップから雫が弧を描いて流れ落ちた。
部屋をぐるりと見渡し、忘れ物がないことをチェック。
誰も居ない部屋に向けて「行ってきます」と心の中で呟いた。
*
花屋の開店準備を終えたキリカは店の時計を見た。
開店まであと十分ある。
店先に揃えた花は今日も機嫌が良さそうに笑っている。
昼になれば恋人を目で追うように空を見上げるだろう。
この仕事に就いてからまだ日が浅いが大体の要領は得た。
店主と二人だけなので、混みあうと大変だが特別な行事がないとそうそう混まない。
その行事が近い為にここ数日は忙しいのだが。
それでも変わらずに「いらっしゃいませ」と笑顔で迎えるのが大事だ。
この店に入った時に心がけるようにと店主に言われたのだ。
今日もきっと素敵な一日になると願い、太陽を見上げた。
*
店先の花たちが真上を向き出していた。
店員が二人しか居ない為、お昼は交代で済ませている。
今日は先に店主が昼に入っていたのでキリカはこれから一時間のお昼休憩に入る。
休憩室にはラジオ、テレビ、ポットも備わっている。
TVを見ながら普段は過ごしているが、今日はそんな気分でもなかったのでラジオをつけていた。
楕円形のオレンジ色をしたプラスチック弁当箱を箸でつつく。
甘く味付けた卵焼きをもぐもぐと頬張りながらキリカはぼーっと一点を見つめていた。
ラジオから流れるパーソナリティが祭典の話をしているが、頭に入ってこない。
次にホウレンソウの胡麻和えに箸をつけたが、ふとそこで手を止めた。
仕事中は考える暇もないぐらい忙しかった。
しかし、こうして暇になるとついつい考えてしまう。
キリカはある出来事を振り返っていた。
昨夜部屋に現れた怪盗R。
あの来訪者は夢か現実か、どちらなのか。
確かにあの時は寝惚けていたかもしれない。
途中からぼんやりと夢心地にはなっていた。
それでも意識はしっかりあったはずだ。
あれから眠りにつくまでまた長い時間を要した気がする。
何度もベッドで寝返りを打ち、収まらない鼓動を落ち着けるのが大変だった。
何時に眠りについたのかは定かではないが、すこし寝不足な感じはあった。
朝を迎えて、やっぱりあれは夢だったのだろうか。
そう寝惚けた頭で考えていた。だが、確かな証拠がそこにはあった。
サイドテーブルに置かれた二つのティーカップだ。
夢じゃなく、現実だった。
今でも脳裏に去り際の台詞と手の甲の感触がリアルに再生される。
それを思い出すと火が点いた様に顔がかあっと熱くなった。
その場面を振り払うようにキリカは頭を左右に振った。
落ちてきたサイドの髪を耳にかけなおし、重いため息をほうっと吐き出した。
それを運悪く店主に見られてしまったようだ。
「おやおや。ため息なんかついちゃって、恋の魔法にでもかかったのかい」
「え、あっ……ち、違います!」
「そうかい?私はてっきり好きな人でも出来たのかと思ったよ。午前中もぼんやりしてて上の空のことが多かったし」
「す、すみません」
自分ではいつも通りに仕事をしていると思っていた。
しかし、他人から見れば夢心地でぼんやりと見えていたのか。
仕事中に夢うつつを抜かしていたことを申し訳ないと詫びたが、店主の女性は怒るどころか楽しそうに笑った。
「お姫様を射止めたのはどこの王子様かしら」
「からかわないでくださいよ。……それより、その格好どうしたんですか」
「あら、忘れたの?午後から用事があるから今日はあがるって」
そういえば今朝、そんなことを聞いた気がする。
今朝聞いたことも忘れてしまうなんて、やはり惚けていたようだ。
仕事着であるエプロンを脱いでいる店主はやれやれと腰に手を当てる。
「……そうでした。それで、午後から手伝いの方が来るんですよね」
「ええ。貴女がお昼を上がる頃には来るはずよ。彼が来たら私は行くわ」
「男の方なんですか?」
「仕入れがあるから力仕事できる方が助かると思ってね」
「私一人じゃ終わらない量だから助かります」
午前中も結構な客が来ていた。
花も飛ぶように売れている。
今が稼ぎ時だと店主もはりきっている。
「それじゃ、代理が来るまで店番してくるとしますか」
「お願いします」
手伝いが来ると言っても、仕事を知らない人間だ。それとも経験があるのだろうか。
どちらにせようつつを抜かしている暇はない。
お昼をしっかりと食べて午後に臨もう。
キリカはほうれん草のゴマ和えを箸でつまみ上げた。
*
店に来る手伝いがどんな人なのか。
期待半分、不安半分に待っていたのだが、特に待ち構える必要はなかったようだった。
店にやってきたのはよく見た顔。
こちらが驚いていると、彼はにこりと笑ってみせた。
「彼が今日の手伝い、ラルフ君よ」
「こんにちはキリカさん」
「手伝いの人ってラルフくんだったの」
「黙っていてすみません。急に呼ばれたものですから」
「二人とも知り合い?それなら話が早いわ。店番よろしくね」
「任せてください」
店主は慌しく店を出て行った。
約束まで時間があまり無いと言っていた。
キリカはラルフに仕事の内容を口で説明を始めた。
一通り簡単に説明を終え、手始めについさっき届いた生花の箱を店の奥に運んでもらうことにした。
細長いダンボール箱が店の入り口に山積みになっている。
中身が花とは言え、幅もあるし結構重いものだ。
しかし、いつも苦労して運んでいるそれをラルフは軽々と持ち上げていた。
「ラルフくん力持ちなのね」
「そうですか?随分軽いと思いますけど」
「少なくとも私や店長より力持ちよ。そんなに一度に運べないもの」
「それじゃあ今日は力仕事任せてもらっていいですよ。何でも言ってください」
「ありがとう。あ、それはこっちにお願い。薔薇の手入れを先にしてしまいたいの」
「わかりました」
箱を五箱も積み上げて、真っ直ぐに指示された場所へ歩いていく。
男手があるとこうも違うものかと妙に感動してしまう。
「ありがとう。残りはこのカウンターの裏の方へお願い」
「はい」
運搬をラルフに任せたキリカは薔薇が梱包されている箱を開けていった。
カッターナイフでテープを切り裂いていく時に中の花まで傷つけないよう注意を払う。
花に余計な傷を少しでもつけてしまうとすぐに弱ってしまうからだ。
ダンボールの箱を開くと真っ赤な薔薇が数本梱包されていた。
赤い花びらが散っている。
これ以上花を散らさないように薔薇を優しく扱い、トゲを取り除いていく。
「へえ。薔薇ってこうやってトゲを取るんですか」
「ええ。専用のトゲ取り器があるのよ。やり方を教えるからラルフくんも手伝ってくれるかしら」
「勿論ですよ」
ラルフはキリカの手元をじっと見つめた。
細くて白い指が一つずつ丁寧にトゲを取り除いていく。
その指にはよく見ると細かい傷がいくつもあった。
「最初は慣れないと思うから、ケガだけしないように気をつけてね」
「はい。これ借りますね」
綺麗な薔薇にはトゲがある。
美しいからと言って安易に近づくと痛い目を見るという諺だ。
いつしかこの言葉は人にも例えられるようになった。
ラルフは側で作業をしているキリカを盗み見た。
伏せられた優しい瞳が薔薇に向けられている。長い睫毛が瞬きをする度に揺れる。
花を扱っている時は特に優しい表情を見せているような気がしていた。
いつだったか「花は心に応えてくれる。愛情を注げば綺麗な花を咲かせるの」と言っていた。
その時の表情はまるで女神のようで、とても優しい顔をしていた。
今もその顔をしている。
本当に花が好きなんだなとこちらまで微笑ましくなる。
ところが、それに見惚れていたせいでうっかりトゲを指に刺してしまった。
鋭い痛みが左手親指に走る。思わず声をあげるとキリカが大丈夫かと訪ねてきた。
「大丈夫です。このぐらい紙で手を切ったようなものですよ」
「でも、傷口からバイ菌が入ったら化膿してしまうわ。待ってて、今絆創膏と消毒剤を持ってくるから」
このぐらいすぐ治るにと楽観的に考えているラルフとは違い、キリカはその先を危惧しているようだった。
いつ何が起きるのかわからないのだから、最善をつくすべきだと。
救急箱から消毒剤と絆創膏を用意したキリカは手際よくラルフの指を手当てしていく。
消毒剤が一瞬だけ染みた。
それよりも触れているキリカの指先が冷たい事が気になる。
素直にそう述べると「水に触れる機会が多いし、体温が高いと花が萎れちゃうの」と話していた。
触れる指先にラルフの鼓動が高鳴りつつある。
「はい、できた」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。家に帰ってから絆創膏張り替えてね」
「忘れてなければそうします」
「シャワーを浴びたら嫌でも取り替えたくなるわ」
「ああ、それもそうですね」
二人で顔を見合わせながら笑っているとドアベルがからんと音を立てた。
店に入ってきたのは若い男性だ。
忙しなくあたりをキョロキョロと見回している。
その様子を見たキリカはこっそりラルフに耳打ちをする。
「きっとこれからデートに行く人よ」
「なるほど」
さすが本職。
客を見ただけで用件がわかるのか。
「いらっしゃいませ、どのような、花をお探しですか」
自然な笑顔を見せたキリカを見て。ああやっぱりこの笑顔好きだな。
そう実感したラルフは親指に視線を移した。そっと指先でなぞる。
*
日が暮れた頃には花屋のバケツはほぼ空になっていた。
売れ残ったのは2本の赤い薔薇だけだ。
昨日から元気のなかった個体で、今日も売れずに残ってしまった。
キリカは買い手のつかなかった花を度々自分で買い取り、ドライフラワーや押し花にしていた。
手伝いのラルフは5時までの約束だったので、アルバイト代を渡して帰ってもらっている。
どうせだから最後まで手伝うと申し出てくれたのだが、学生は遊べるうちに遊んだ方がいいと丁重に断った。
今になって振り返ってみれば学生のうちにもっと遊んでおけばよかったと悔やむこともある。
だから、今の子達には自由に使える時間を謳歌してほしい。
空がだいぶ紫色に染まってきていた。
東の空がうっすら水色を残している。
街灯もぽつりぽつりと点いてきた。
切り花を入れていた空の黒いバケツを店の中にしまおうと持ち上げた時だった。
「お疲れ様」と、声をかけてきた男性がいた。
彼はにこりと笑っているが、その顔に見覚えがない。
知らない人だ。それが顔に出ていたのか男性が大袈裟に肩をすくめてみせる。
「ここには何度か来たことがあるよ」
「ごめんなさい、人の顔を覚えるのは苦手で」
「いいよ。親睦を深めるためにも今夜レストランでディナーでもどうだい?」
何の用かと思いきや、ナンパだ。
怪訝そうにキリカは顔をしかめた。
「いつもこの花屋にいる君と話がしたいと思っていたんだ。もっと君のことが知りたい」
「あの、私は」
反論する暇もなく、男はずいずいと迫ってくる。
一見大人しそうな人柄に見えたが、見た目で判断してはいけないようだった。
距離が詰められていく度にキリカの表情が強ばる。
このバケツに入っている水でも顔にかけてやろうか。しかし、逆に怒らせてしまったら怖い。
気丈な店主がいればすぐ追い払えるのだが、今日に限って直帰している。
どう追い払えばいい。
こう考えているうちにも男は迫ってくる。
近寄らないで、そう声を上げようとした。
その時、すっと視界に黒い袖が映る。
「随分と強引なお兄さんだね。そんなんじゃ女性は振り向いてくれないよ」
Rがキリカを庇うように二人の間に割って立っていた。
押さえた帽子からRの目がちらりと覗く。口許にはいつもの笑みを携えていた。
「なっなんだよお前は」
「彼女と先約がある者だよ。だから大人しく引き下がってくれないかな」
「なんだと!」
「それに嫌がる女性を無理に誘うのは紳士的じゃないね。これ以上彼女に言い寄るなら……僕も黙っちゃいないけど」
帽子のツバをトンと軽く弾いたRの目は笑ってはいなかった。
まるで蛇に睨まれているようだ。しばし恐怖に身動きがとれずにいた男に向けてRが目の前でパチンと指を鳴らす。
その音に弾かれるように男は慌てて逃げ出していってしまった。
途中、慌てすぎて転びそうになる滑稽な姿を見てRは笑みを零す。
「なんだ。口ほどにもないヤツだったな」
「R、ありがとう」
「どう致しまして。君が困っていたからつい嘘をついちゃったよ」
「Rが来なかったら私、水をかけてた所だったわ」
「ああ、それはいいアイディアだよ」
びしょ濡れになった時の反応が見てみたいと、可笑しそうに声を上げて笑う。
Rの顔を見て安心したのか、冗談めいて「バケツも被せてやるわ」とキリカは返した。
「そうだ。このあと予定は?」
「ない、わ」
「それなら都合がいい。嘘を本当に変えようか。パリの街を僕と一緒にデートしてくれないかな」
「わ、私でよければ」
「それじゃあ決まりだ。店仕舞いを手伝うよ」
キリカの持っているバケツをひょいと持ち上げ、店の中へそれを運んでいく。
荷物を取られたので、別のバケツを運んでいるとそれも取られてしまった。
バケツを受け渡す時に指先が触れ、心臓がどきりと高鳴る。
彼の親指の腹には絆創膏が巻かれていた。
その指はどうしたのかと尋ねる暇も無く、あっという間に店の片づけを終えてしまった。
しまいにはこう言われてしまったのだから、聞き返すこともできなかった。
「夜のパリをエスコートするよ。お手をどうぞ、マドモアゼル」