リズム怪盗R
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パリの怪盗 前編
パリの市街地は夕暮れに染まっていた。
温かいオレンジ色に包まれた街の刻はゆっくりと流れている。
昼間の活気は和らぎ、夕暮れ時の人々の表情は穏やかだ。
市街地の一角にある三階建てのアパート。
その階段を昇る眼鏡をかけた赤髪の青年は腕に紙袋を抱えている。
階段を上りきった青年は廊下の一番奥の部屋のドアをノックした。
どうぞ。という返事を得て、ドアノブを回す。
「いらっしゃい、ラルフくん」
ラルフと呼ばれた少年は照れ臭そうにはにかみ、お邪魔しますと答えた。
部屋の主である女性はベージュのワンピースに薄いカーディガンを羽織り、ベッドに腰掛けている。
手には陶器のマグカップが握られていた。
「キリカさん、起きていて平気なんですか?」
「大丈夫。もう熱も下がっているから」
「それは良かった。でも無理しないでくださいね」
「うん。ありがとう」
「これお見舞いです。マルシェで美味しそうな果物があったので」
ラルフは紙袋から真っ赤なリンゴを取り出して、ほらとキリカに見せた。
他にもオレンジやラ・フランスもあると言えばキリカの顔が綻む。
「美味しそう。ありがとうラルフくん。そうだ、よかったらお茶でも飲んでいって。…あ。風邪移っちゃうから今日は止めておいた方がいいかしら」
「僕ならご心配なく。こう見えてもタフですから。もう喉がかわいて渇いてカラカラなんです、お茶を一杯頂いてもいいですか?」
「ふふ、喜んで。椅子に座って待っててくれる?」
キリカはラルフから紙袋を受け取り、キッチンでお茶の用意を始めた。
ケトルに水を足し、コンロに火をかける。
紅茶が入った瓶に手を伸ばし、「今茶葉を切らしていて、ティーパックでもいいかな」と振り向く。
「構いませんよ。お気遣いなく」と答えたラルフはキリカに笑みを返した。
ラルフはその後ろ姿を何気なく見つめていた。
腰まである長くウェーブがかった黒髪が動く度に揺れる。
ときおり見える横顔が綺麗だ。
なんて思いながらしばらくぼうっと見つめていたが、ふと我に帰り人知れず頬を赤らめる。
そして気を逸らすように部屋の中を見渡した。
間取りは自分の部屋と同じだが、家具で随分と雰囲気が変わるものだ。
初めて入るキリカの部屋を物珍しそうに見回す。
木目調で揃えてある机にテーブル、本棚。カーテンは淡いイエロー。今は白いレースカーテンが風にそよいでいた。
花瓶やキャンドルなどの置物が多いが、ごちゃごちゃとしていない。すっきりとしている。
クリーム色の壁に無造作に貼られている写真やポストカードを一枚一枚眺めていく。
それらは50cm四方の正方形の木枠に囲まれていた。
コルクボードに張り付けているのだと思いきや、どうやらちがうようだ。
写真やポストカードの隙間から何か模様のようなものが見える。
しかもガラス板が張られている。
ラルフは一枚の写真をめくり、裏に何がかくされているのか確かめようとした。
その裏には人間の顔の一部があった。ちょうど顎のラインで、首の細さから女性だろうか。
さらに他の写真を捲ろうとしたところで、キリカに声をかけられた。
「お待たせ。それ、気になる?」
「え……あ、すいません。勝手に弄ってしまって」
「いいのよ。隙間から何か見えたら誰でも気になるものだわ。もし気になるなら全部はがして見てもいいわよ。見てもなんの価値もないでしょうけど」
眉尻を下げて笑うキリカは机に二分のマグカップを置いた。
ラルフは躊躇っていたが、探求心にくすぐられ一言断ってから一枚一枚を丁寧に剥がしていった。
一枚、また一枚と剥がしていくうちに正体を現したものは女性の肖像画であった。
黒い髪に青い瞳の美しい女性が描かれている。
目元が少しあどけなさを感じさせる。
すまし顔をしている絵の女性はキリカにそっくりだ。
「なんだか恥ずかしいな」
「この女性、キリカさんですよね」
「ええ。ちょうどあなたぐらいの時に描いて頂いたのよ。私はいいって遠慮したんだけれど」
「こんなに素敵な絵なのに、どうして隠すような真似をしたんですか?」
誰もが訪ねるであろうことをラルフは聞いた。
しかし、それを聞くとキリカは物憂げに微笑んだ。
聞いてはいけないことだったか。
なにせ彼女と知り合ってからまだ日が浅い。
「私の髪の色、珍しいでしょ?真っ黒ではないけど、黒に近い焦げ茶色。でも瞳の色は空の青。私、ハーフなの。フランス人と日本人の」
「そうだったんですか」
「父がフランス人、母は日本人。どっちの血も受け継いでるからこんな容姿」
すっきりとした顔立ちは父譲りで、体質は母親に似たと言う。
確かに初めて会った時は違和感があったが、今の時勢気にするようなことでもなかった。
少なくともラルフはそう思っていた。
しかし、キリカはそうではなかったようだ。
「この髪と目の色のことで、よく苛められていたの。小さい頃の話だけど」
「そいつらは最低なやつらですよ」
「ありがとう。でも今は前向きに考えているから気にしてないわ」
口ではそう言っているが、こうしてわざわざ隠すような真似をするということはまだ自分の姿にコンプレックスを抱いているのではないか。
そういえばこの部屋に顔を映すものがない。
さすがに鏡は浴室にあるだろうが、部屋を見たところ光沢のある物がなかった。
ここにあるマグカップの表面はざらざらとした素材だ。
考えすぎか。
「さあ、お茶が冷めちゃうわ」
「はい」
キリカにお茶を促されたが、上の空で答えた。
ある模様を絵の中に見つけたのだ。
上手く服の模様に隠れているが、確かにそれはラルフが探している紋章。
よく確かめたかったが、これ以上凝視しては怪しまれる。
ラルフは名残惜しくも肖像画から目を離した。
「明日はお店に行かないと。何日も休んでいられないわ」
「キリカさんがいるあの花屋は好きですけど、無理はしないでくださいね」
「ラルフくんは優しいのね。越してきたばかりの私に温かい言葉をいっぱいかけてくれて……」
「僕はただキリカさんに笑っていて欲しいだけですよ。花屋に笑顔があると一層明るいですから」
「そうね。ありがとう」
キリカは市街地にある花屋で働いている。
ラルフとはそこで初めて会った。
彼は知り合いにお使いを頼まれたと言い、花束を見繕って欲しいと頼んだ。
その時に作った花束を「素敵ですね」と誉めてくれた笑顔を今でもしっかりと思い浮かべることができる。
お客さんの笑顔を見れるのが花屋冥利につきるもの。
それから度々訪れるようになり、話すようにもなった。
ひょんなことから同じアパートに住むことを知ってからは更に親しくなったような気がする。
この街に知り合いがいないキリカには嬉しいことだった。
独り暮らしを始めて何年も経つが、やはり寂しさはつきまとうもの。
その寂しさを埋めてくれるのがこの青年ラルフだった。
「今度は美味しい茶葉を用意しておくから、またお茶を飲みにきてくれるかしら」
「是非ともご馳走になります」
*
パリの街並みが漆黒のヴェールに包まれる頃。
照らすのは煌びやかなイルミネーション。
祭典が近いために、町中が鮮やかに彩られていた。
仕事が少し遅くなったキリカは足早にアパートへ向かっていた。
人通りが多い通りに比べてこの路地は人気がない。しかも最近は不審者の噂も耳にしている。
大通りには構えている店も多いため、明るいのだがこの辺りは人気もやや少ない。
薄暗い路地を抜けたキリカはアパートへ駆け込んだ。
その勢いのまま階段をかけ登り、二階まで上がったところで足を一度止める。
そこで息を整え、三階へ向かう。
自分の部屋まで来たキリカは薔薇のキーホルダーがついた鍵を回した。
不意に隣の部屋から笑い声が聞こえた。隣人は交友関係が広いらしくいつも賑やかだ。
ふと別の町にいる友人の顔が頭に浮かぶ。彼女たちは元気だろうか。
もう何年も会っていない。今度久しぶりに手紙でも書いてみようか。
この間雑貨屋で見かけたあの便箋がいい。
そんなことを考えながらドアを開けると肌に風を感じた。
部屋に風が吹き込んでいる。
朝出るときに窓を閉め忘れてしまったのか。
これで何回目だろうか。
いくら三階だからといえ、無用心だとラルフに注意されたこともある。
これからは気を付けなければ。
風でなびく髪を片手で押さえながらキリカは部屋の中へ入っていった。
薄暗い部屋に月明かりが差し込んでいる。
その柔らかい光が好きだったりするのだが、今日は妙な雰囲気を醸し出していた。
月明かりは部屋の家具を照らし、静かに佇んでいる。
そこに家具ではないシルエットが浮かび上がっていた。
人の姿をしたそれは丁寧にお辞儀をした。
「こんばんは、マドモアゼル」
声から察するに部屋に居るのは男。
見知らぬ男が自分の領域にいるというのに、不思議と警戒心は薄れていた。
それよりも先に興味の方が湧いていたのだ。
どきどきとキリカの心臓が脈を打ち始める。
すらっとした体型に立ち居振る舞いの美しさ。
キリカの頭にはある人物の名前が浮かんでいた。
ボーラーハットを被った男は肩をすくめた。
「一人暮らしの女性が窓を開け放しにしておくのは危険ですよ」
「ごめん、なさい。……貴方、もしかして怪盗R?」
怪盗R。今このパリを騒がせている人物だ。
有名な美術品を華麗な手口で盗み出し、数日後には元の場所へ返しているという。
それ故に愉快犯とも呼ばれていた。
「そう、僕は怪盗R」
「うそ……本当に」
「僕は嘘をつきませんよ。それよりも気をつけた方がいい、僕以外の不貞な輩が忍び込んでくるかもしれないからね。まあ、おかげで今夜は仕事が楽にいったけど」
「仕事?」
うちには有名な美術品なんてものは無い。
彼はそれ以外の物も盗むのだろうか。
いや、一つだけそれらしい物がこの部屋にもあった。
ようやく薄闇に慣れてきたキリカの目がまず捉えたのは、ベッドの上に散らばっている写真やポストカード。
壁から剥がされたのはそれらだけではなく、肖像画も忽然と消えていた。
それはRの片手に抱えられている。
「これは頂いていきます。それでは良い夢を」
Rは帽子を脱いで軽く会釈をし、窓から颯爽と飛び降りた。
一瞬の出来事に呆けていたキリカは弾かれたように窓へ駆け寄る。
ここは三階だ。飛び降りたら危ない。
しかし、その心配は必要なかったようだ。
怪盗Rは屋根から屋根を華麗に伝い跳び、闇の中へ紛れていった。
吹き込んだ夜風が火照っている顔を撫でていく。
散らばっていた写真が風に舞うように部屋の中で踊っていた。
パリの市街地は夕暮れに染まっていた。
温かいオレンジ色に包まれた街の刻はゆっくりと流れている。
昼間の活気は和らぎ、夕暮れ時の人々の表情は穏やかだ。
市街地の一角にある三階建てのアパート。
その階段を昇る眼鏡をかけた赤髪の青年は腕に紙袋を抱えている。
階段を上りきった青年は廊下の一番奥の部屋のドアをノックした。
どうぞ。という返事を得て、ドアノブを回す。
「いらっしゃい、ラルフくん」
ラルフと呼ばれた少年は照れ臭そうにはにかみ、お邪魔しますと答えた。
部屋の主である女性はベージュのワンピースに薄いカーディガンを羽織り、ベッドに腰掛けている。
手には陶器のマグカップが握られていた。
「キリカさん、起きていて平気なんですか?」
「大丈夫。もう熱も下がっているから」
「それは良かった。でも無理しないでくださいね」
「うん。ありがとう」
「これお見舞いです。マルシェで美味しそうな果物があったので」
ラルフは紙袋から真っ赤なリンゴを取り出して、ほらとキリカに見せた。
他にもオレンジやラ・フランスもあると言えばキリカの顔が綻む。
「美味しそう。ありがとうラルフくん。そうだ、よかったらお茶でも飲んでいって。…あ。風邪移っちゃうから今日は止めておいた方がいいかしら」
「僕ならご心配なく。こう見えてもタフですから。もう喉がかわいて渇いてカラカラなんです、お茶を一杯頂いてもいいですか?」
「ふふ、喜んで。椅子に座って待っててくれる?」
キリカはラルフから紙袋を受け取り、キッチンでお茶の用意を始めた。
ケトルに水を足し、コンロに火をかける。
紅茶が入った瓶に手を伸ばし、「今茶葉を切らしていて、ティーパックでもいいかな」と振り向く。
「構いませんよ。お気遣いなく」と答えたラルフはキリカに笑みを返した。
ラルフはその後ろ姿を何気なく見つめていた。
腰まである長くウェーブがかった黒髪が動く度に揺れる。
ときおり見える横顔が綺麗だ。
なんて思いながらしばらくぼうっと見つめていたが、ふと我に帰り人知れず頬を赤らめる。
そして気を逸らすように部屋の中を見渡した。
間取りは自分の部屋と同じだが、家具で随分と雰囲気が変わるものだ。
初めて入るキリカの部屋を物珍しそうに見回す。
木目調で揃えてある机にテーブル、本棚。カーテンは淡いイエロー。今は白いレースカーテンが風にそよいでいた。
花瓶やキャンドルなどの置物が多いが、ごちゃごちゃとしていない。すっきりとしている。
クリーム色の壁に無造作に貼られている写真やポストカードを一枚一枚眺めていく。
それらは50cm四方の正方形の木枠に囲まれていた。
コルクボードに張り付けているのだと思いきや、どうやらちがうようだ。
写真やポストカードの隙間から何か模様のようなものが見える。
しかもガラス板が張られている。
ラルフは一枚の写真をめくり、裏に何がかくされているのか確かめようとした。
その裏には人間の顔の一部があった。ちょうど顎のラインで、首の細さから女性だろうか。
さらに他の写真を捲ろうとしたところで、キリカに声をかけられた。
「お待たせ。それ、気になる?」
「え……あ、すいません。勝手に弄ってしまって」
「いいのよ。隙間から何か見えたら誰でも気になるものだわ。もし気になるなら全部はがして見てもいいわよ。見てもなんの価値もないでしょうけど」
眉尻を下げて笑うキリカは机に二分のマグカップを置いた。
ラルフは躊躇っていたが、探求心にくすぐられ一言断ってから一枚一枚を丁寧に剥がしていった。
一枚、また一枚と剥がしていくうちに正体を現したものは女性の肖像画であった。
黒い髪に青い瞳の美しい女性が描かれている。
目元が少しあどけなさを感じさせる。
すまし顔をしている絵の女性はキリカにそっくりだ。
「なんだか恥ずかしいな」
「この女性、キリカさんですよね」
「ええ。ちょうどあなたぐらいの時に描いて頂いたのよ。私はいいって遠慮したんだけれど」
「こんなに素敵な絵なのに、どうして隠すような真似をしたんですか?」
誰もが訪ねるであろうことをラルフは聞いた。
しかし、それを聞くとキリカは物憂げに微笑んだ。
聞いてはいけないことだったか。
なにせ彼女と知り合ってからまだ日が浅い。
「私の髪の色、珍しいでしょ?真っ黒ではないけど、黒に近い焦げ茶色。でも瞳の色は空の青。私、ハーフなの。フランス人と日本人の」
「そうだったんですか」
「父がフランス人、母は日本人。どっちの血も受け継いでるからこんな容姿」
すっきりとした顔立ちは父譲りで、体質は母親に似たと言う。
確かに初めて会った時は違和感があったが、今の時勢気にするようなことでもなかった。
少なくともラルフはそう思っていた。
しかし、キリカはそうではなかったようだ。
「この髪と目の色のことで、よく苛められていたの。小さい頃の話だけど」
「そいつらは最低なやつらですよ」
「ありがとう。でも今は前向きに考えているから気にしてないわ」
口ではそう言っているが、こうしてわざわざ隠すような真似をするということはまだ自分の姿にコンプレックスを抱いているのではないか。
そういえばこの部屋に顔を映すものがない。
さすがに鏡は浴室にあるだろうが、部屋を見たところ光沢のある物がなかった。
ここにあるマグカップの表面はざらざらとした素材だ。
考えすぎか。
「さあ、お茶が冷めちゃうわ」
「はい」
キリカにお茶を促されたが、上の空で答えた。
ある模様を絵の中に見つけたのだ。
上手く服の模様に隠れているが、確かにそれはラルフが探している紋章。
よく確かめたかったが、これ以上凝視しては怪しまれる。
ラルフは名残惜しくも肖像画から目を離した。
「明日はお店に行かないと。何日も休んでいられないわ」
「キリカさんがいるあの花屋は好きですけど、無理はしないでくださいね」
「ラルフくんは優しいのね。越してきたばかりの私に温かい言葉をいっぱいかけてくれて……」
「僕はただキリカさんに笑っていて欲しいだけですよ。花屋に笑顔があると一層明るいですから」
「そうね。ありがとう」
キリカは市街地にある花屋で働いている。
ラルフとはそこで初めて会った。
彼は知り合いにお使いを頼まれたと言い、花束を見繕って欲しいと頼んだ。
その時に作った花束を「素敵ですね」と誉めてくれた笑顔を今でもしっかりと思い浮かべることができる。
お客さんの笑顔を見れるのが花屋冥利につきるもの。
それから度々訪れるようになり、話すようにもなった。
ひょんなことから同じアパートに住むことを知ってからは更に親しくなったような気がする。
この街に知り合いがいないキリカには嬉しいことだった。
独り暮らしを始めて何年も経つが、やはり寂しさはつきまとうもの。
その寂しさを埋めてくれるのがこの青年ラルフだった。
「今度は美味しい茶葉を用意しておくから、またお茶を飲みにきてくれるかしら」
「是非ともご馳走になります」
*
パリの街並みが漆黒のヴェールに包まれる頃。
照らすのは煌びやかなイルミネーション。
祭典が近いために、町中が鮮やかに彩られていた。
仕事が少し遅くなったキリカは足早にアパートへ向かっていた。
人通りが多い通りに比べてこの路地は人気がない。しかも最近は不審者の噂も耳にしている。
大通りには構えている店も多いため、明るいのだがこの辺りは人気もやや少ない。
薄暗い路地を抜けたキリカはアパートへ駆け込んだ。
その勢いのまま階段をかけ登り、二階まで上がったところで足を一度止める。
そこで息を整え、三階へ向かう。
自分の部屋まで来たキリカは薔薇のキーホルダーがついた鍵を回した。
不意に隣の部屋から笑い声が聞こえた。隣人は交友関係が広いらしくいつも賑やかだ。
ふと別の町にいる友人の顔が頭に浮かぶ。彼女たちは元気だろうか。
もう何年も会っていない。今度久しぶりに手紙でも書いてみようか。
この間雑貨屋で見かけたあの便箋がいい。
そんなことを考えながらドアを開けると肌に風を感じた。
部屋に風が吹き込んでいる。
朝出るときに窓を閉め忘れてしまったのか。
これで何回目だろうか。
いくら三階だからといえ、無用心だとラルフに注意されたこともある。
これからは気を付けなければ。
風でなびく髪を片手で押さえながらキリカは部屋の中へ入っていった。
薄暗い部屋に月明かりが差し込んでいる。
その柔らかい光が好きだったりするのだが、今日は妙な雰囲気を醸し出していた。
月明かりは部屋の家具を照らし、静かに佇んでいる。
そこに家具ではないシルエットが浮かび上がっていた。
人の姿をしたそれは丁寧にお辞儀をした。
「こんばんは、マドモアゼル」
声から察するに部屋に居るのは男。
見知らぬ男が自分の領域にいるというのに、不思議と警戒心は薄れていた。
それよりも先に興味の方が湧いていたのだ。
どきどきとキリカの心臓が脈を打ち始める。
すらっとした体型に立ち居振る舞いの美しさ。
キリカの頭にはある人物の名前が浮かんでいた。
ボーラーハットを被った男は肩をすくめた。
「一人暮らしの女性が窓を開け放しにしておくのは危険ですよ」
「ごめん、なさい。……貴方、もしかして怪盗R?」
怪盗R。今このパリを騒がせている人物だ。
有名な美術品を華麗な手口で盗み出し、数日後には元の場所へ返しているという。
それ故に愉快犯とも呼ばれていた。
「そう、僕は怪盗R」
「うそ……本当に」
「僕は嘘をつきませんよ。それよりも気をつけた方がいい、僕以外の不貞な輩が忍び込んでくるかもしれないからね。まあ、おかげで今夜は仕事が楽にいったけど」
「仕事?」
うちには有名な美術品なんてものは無い。
彼はそれ以外の物も盗むのだろうか。
いや、一つだけそれらしい物がこの部屋にもあった。
ようやく薄闇に慣れてきたキリカの目がまず捉えたのは、ベッドの上に散らばっている写真やポストカード。
壁から剥がされたのはそれらだけではなく、肖像画も忽然と消えていた。
それはRの片手に抱えられている。
「これは頂いていきます。それでは良い夢を」
Rは帽子を脱いで軽く会釈をし、窓から颯爽と飛び降りた。
一瞬の出来事に呆けていたキリカは弾かれたように窓へ駆け寄る。
ここは三階だ。飛び降りたら危ない。
しかし、その心配は必要なかったようだ。
怪盗Rは屋根から屋根を華麗に伝い跳び、闇の中へ紛れていった。
吹き込んだ夜風が火照っている顔を撫でていく。
散らばっていた写真が風に舞うように部屋の中で踊っていた。