S・H人形劇
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One day in November
「ぼくは君たちのことが心配なんだ」
組んでいた両手を解いて、大袈裟にぼくは広げて見せた。
ローテーブルを挟んで向側に座っているキリカは不思議そうに目を瞬かせる。
つい先程のことだ。ぼくは221Bに客人として迎え入れられた。
家の主であるホームズは外出中で、彼女しかいなかった。
特に約束を取り付けていたわけでもないし、気まぐれに訪れたものだから構わなかった。
とは言え、彼女に会うのも久しぶりだ。最近あった出来事や事件を掻い摘んでぼくらは話に華を咲かせていた。
その話の流れから冒頭に戻る。
「ジョン。私たち、危ない雰囲気とかはないわよ?」
「いや、それはわかってる。もしそうだったらこんなに悠長にしてないよ」
「じゃあ、どうして?」
「君がいつか彼に愛想を尽かすんじゃないかって」
彼女は実におかしそうに笑みを零した。右手で持ち上げていたティーカップをソーサラーへ戻し、口元に手を当てる。
面白い話は一つもないはず。そもそも、当人達ではなく第三者であるぼくが危惧するのはおかしいけれど。
「ごめんなさい。だって、二人とも同じこと言うんだもの」
「二人?」
「シャーロックも前に同じことを話してたわ。私が急にいなくなるんじゃないかって」
「ああ、一応心配はしてるようだ。……ホームズは自由奔放だし、振り回される方も疲れると思って」
「そう?そんなことはないと思うけど」
「君は寛容すぎるよ。まあ、だからこそ彼と合うんだろうけど」
昔からそうだ。彼女は心が広い。
ホームズは実に気まぐれな性格の持ち主。
何日も口を聞かないこともあるし、黙っていたと思えば突然スイッチが入ったように独り言を呟く。
事件の捜査に繰り出す時は必ず連れ回されたし。それでも嫌気が差さなかったぼくも相当な変わり者か。
だが、これが男女間ともなると話は別になる。彼女は自由人の夫に苦労しているんじゃないか。
そう心配するぼくの気苦労とは裏腹に、彼女はにこにこと笑っていた。
細い指がすっと伸びて、ぼくのティーカップを指しながらこう言った。
「このハーブティー、ちょっと変わった味がするでしょう」
「ああ、うん。でも嫌いじゃない。ミントの香りが気分を良くしてくれる。変わった味だけど、美味しいよ」
素直な感想を述べると、彼女はそれが嬉しかったのか一層華やかな笑みを浮かべた。
表情を緩めたまま、ぼくに衝撃の事実を伝えてくる。
「実はね、このハーブティーの調合、シャーロックがしたのよ」
「なんだって?彼がハーブティーの調合?」
思わず聞き返した。そんな話、今まで聞いたことがなかった。
あらゆる実験の過程と結果を見てはきたけど、日常生活に実用的なものはあまりなかった。
「ええ。ふっと思い立った時にブレンドしてくれるの。その時々で味も香りも違うから、いつも楽しみにしてるわ」
「彼にそんな特技があったなんて知らなかったよ」
キリカの頬には赤みが差していて、とても嬉しそうだった。
まるで自分が誉められたように喜んでいるのだ。
ミントの香りがベースになっているハーブティーを楽しみながら、ぼくの頭に一つの考えが浮かんだ。
愛の形は人それぞれ。
彼らも少し特殊ではあるけれど、こういった関係も良いんじゃないだろうか。
無用な心配かもしれなかった。彼女がぽつりと呟いた言葉を聞くまではそう思っていたんだ。
「でも、そうね。一つだけ、ちょっと気になることがあるわ」
「遠慮なく言ってくれよ、ってぼくが言うのも変だけど。相談に乗れることなら何でも聞くさ」
「ありがとう、ジョン。その、指輪なんだけど……彼、してないでしょう。ちょっとだけ、それが気になるの」
彼女の細い指が左手の薬指に触れた。金のリングがその指を飾っている。
指輪は手入れが行き届いていて、光沢を放っていた。
「ほんの少しだけ。ほら、男の人って結婚指輪をつけない人もいるから」
そう自分に言い聞かせているキリカの顔は憂いに満ちていた。
彼女と同じ疑問を以前彼に聞いたことがある。その時、ホームズは事細かやかに理由を話してくれたんだ。
あんまり真剣にそれを話すものだから、てっきり彼女にも話しているものだとばかり思っていた。
この様子じゃ何も話していないようだ。
「キリカ、それは」
事の顛末を全て知る権利が彼女にはある。
そう思って話を切り出したものの、ちょうどそこへホームズが帰ってきてしまった。
彼は帽子とコートを脱ぎながらぼくの顔を見て「君が来ると知っていれば出掛けなかったんだが」とぼやいていた。
いいや、例えぼくが居たとしても何かあれば君は捜査に出掛けるだろ。
ホームズは空いている肘掛け椅子に腰掛けた。
それを見計らってキリカが「お茶を淹れてくるわ」とティーポットを持って席を立つ。
話のタイミングをすっかり失ってしまったぼくは仕方なくハーブティーのことを彼に振る。
すると「ああ、だいぶ前からだよ」と答えた。
「今日のは頭が冴えるような香りにしてみた。結構気に入ってる」
「毎回ブレンドが違うようだけど、今までのレシピを全部覚えているのかい」
「彼女が好きなやつは覚えている。あとは個人的に気に入ったやつを」
「君がこういうの得意だなんて知らなかったよ」
「あら、貴方がブレンドしたハーブティーどれも好きよ」
トレイにティーポットとカップを一組乗せてキリカがそう言いながら戻ってきた。
カップをホームズの前に置き、淹れたばかりのハーブティーを注ぐ。薄い緑色のお茶がミントの香りを際立たせた。
ホームズがソーサラーとカップをそれぞれの手で持ち上げ、香りを楽しむ。ちらと彼女の方へ視線をやったが、すぐに戻した。
「その中でも特にお気に入りのが三つ。ローズをベースにしてオレンジピールを加えたもの、カモミールとミント、ジャスミンにラベンダーそれと」
「君が彼女の好みをようく知っているのはわかったよ。ぼくはそろそろお暇するとしよう」
「あ、……もっとゆっくりしていけばいいのに」
「折角の水入らずの時間を邪魔しちゃ悪いからね。お茶、ご馳走様」
挨拶もそこそこにぼくはコートを羽織りながら玄関へ向かった。
リビングから出て見送りに来たのは彼女だけ。大抵いつもそうだから別に気にはならないし、今はこの方がむしろ好都合だった。
ぼくは彼女の方へそっと顔を寄せて、さっきの話の続きをしようとした。でも、あれを要約して簡潔に伝えるには少し難しい。
文章を練るのが得意なぼくでもだ。
どう纏めようか。悩んだ末にぼくは一言だけキリカに伝えることにした。
「さっきの話だけど。君の心配以上に彼の愛は深い」
「どういう意味?」
「今のぼくにはこれしか言えない。また今度、時間が出来たら話すよ。じゃあ」
あまり玄関先で長居していてはホームズに怪しまれる。
別に怪しまれて困ることは全くないけど。彼はヤキモチ焼きだから。
彼女に別れの挨拶をしてぼくは221Bのドアを閉めた。
友人のジョンを見送ったあと、私はリビングへ戻った。
彼はお茶を飲みながら窓の方に視線を向けていた。
ソファに座りなおした私は自分のティーカップの取っ手に触れる。冷たい。
カップはすっかり冷えてしまっていた。当然、喉を通るお茶も冷たくなっている。
水よりも冷たく感じたのはミントが入っているせいかもしれない。
「ワトソンとは何の話を?」
「このハーブティー、貴方がブレンドしたっていう話よ」
「それだけじゃない。じゃなきゃ君はそんな浮かない顔をしていないよ」
「私、そんな顔してるかしら」
「少なくともぼくにはそう見える」
その場に彼はいなかったのに。私たちが何を話していたのかわかっているみたいだった。
やっぱり彼には全てお見通し。それは隠し事ができない私の態度が原因。
内容まではわからないだろうけど、さっき玄関で立ち話をしたのも彼の目に留まってしまった。
「なんでもないわ」そう答えると彼の顔が曇った。
こればかりは言いにくい問題だもの。ああ、でも貴方はそれが堪らなく嫌みたい。
私はいよいよ観念して一度静かに深呼吸をした。
「シャーロックが、指輪をしていないのは何故かしら、ってジョンに聞いていたの。彼は理由を知っているみたいだけど、聞けなかったわ」
「ちょうどそこでぼくが帰ってきたから、か」
頷いた私に彼は金色の目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
彼はしばらく目を瞑っていた。やがておもむろに目を開いて、私の方を見る。
「君は問い詰めなんだな。女性なら浮気だ、不倫だと疑ってかかるものだよ。尤もぼくはどちらも全くしていないけど」
「それを聞いてちょっとだけ安心したわ」
「誓うよ。……このことをワトソンにも聞かれた事があった。君と同じように『どうして結婚指輪を外しているんだ』とね」
ジョンは私と考えていることが同じだった。それを聞いてしまったなんて、やっぱり彼はお節介の称号がお似合い。
だって、面と向かってその質問をしたんだもの。
シャーロックがジャケットの左胸、内ポケットから小さな袋を取り出した。
その袋に見覚えがある。藍色のちりめん袋で、金の糸で御守と刺繍されている。
これは二人が日本に来た時に神社で購入してた物。
彼は絞ってある紐を弛めて、御守袋をひっくり返した。彼の手の上にぽとりと金色のリングが落ちる。
私の左手にある指輪と全く同じもの。
「いつも肌身離さず持ち歩いている。ぼくが結婚指輪を外している一番の理由は君を危険な目に合わせたくないからだ。事件の捜査上、ぼくが既婚者だと知った悪人はこの情報を捨て置かないだろう。最大の弱みとしてつけ込んでくる。妻である君に危害が及ぶ可能性は限りなく高い。それだけは避けたかった。だから、極力奴らにその情報を与えたくないんだ。……最初に言っておくべきだった。そうすれば君にそんな顔をさせずにすんだというのに」
いつもの早口より少し遅い口調で彼はひとしきり喋り終えた。
彼は手の中にある指輪を見つめ、ぎゅっと握り締める。その手に私は自分の手を重ねて包み込む。
ただ、言葉が見つからなかった。自然と涙が溢れてきて、頬を濡らしていく。
友人の言葉の意味がようやく理解することができた。
彼の愛は本当に深くて、優しいものだということを。
「ぼくは君たちのことが心配なんだ」
組んでいた両手を解いて、大袈裟にぼくは広げて見せた。
ローテーブルを挟んで向側に座っているキリカは不思議そうに目を瞬かせる。
つい先程のことだ。ぼくは221Bに客人として迎え入れられた。
家の主であるホームズは外出中で、彼女しかいなかった。
特に約束を取り付けていたわけでもないし、気まぐれに訪れたものだから構わなかった。
とは言え、彼女に会うのも久しぶりだ。最近あった出来事や事件を掻い摘んでぼくらは話に華を咲かせていた。
その話の流れから冒頭に戻る。
「ジョン。私たち、危ない雰囲気とかはないわよ?」
「いや、それはわかってる。もしそうだったらこんなに悠長にしてないよ」
「じゃあ、どうして?」
「君がいつか彼に愛想を尽かすんじゃないかって」
彼女は実におかしそうに笑みを零した。右手で持ち上げていたティーカップをソーサラーへ戻し、口元に手を当てる。
面白い話は一つもないはず。そもそも、当人達ではなく第三者であるぼくが危惧するのはおかしいけれど。
「ごめんなさい。だって、二人とも同じこと言うんだもの」
「二人?」
「シャーロックも前に同じことを話してたわ。私が急にいなくなるんじゃないかって」
「ああ、一応心配はしてるようだ。……ホームズは自由奔放だし、振り回される方も疲れると思って」
「そう?そんなことはないと思うけど」
「君は寛容すぎるよ。まあ、だからこそ彼と合うんだろうけど」
昔からそうだ。彼女は心が広い。
ホームズは実に気まぐれな性格の持ち主。
何日も口を聞かないこともあるし、黙っていたと思えば突然スイッチが入ったように独り言を呟く。
事件の捜査に繰り出す時は必ず連れ回されたし。それでも嫌気が差さなかったぼくも相当な変わり者か。
だが、これが男女間ともなると話は別になる。彼女は自由人の夫に苦労しているんじゃないか。
そう心配するぼくの気苦労とは裏腹に、彼女はにこにこと笑っていた。
細い指がすっと伸びて、ぼくのティーカップを指しながらこう言った。
「このハーブティー、ちょっと変わった味がするでしょう」
「ああ、うん。でも嫌いじゃない。ミントの香りが気分を良くしてくれる。変わった味だけど、美味しいよ」
素直な感想を述べると、彼女はそれが嬉しかったのか一層華やかな笑みを浮かべた。
表情を緩めたまま、ぼくに衝撃の事実を伝えてくる。
「実はね、このハーブティーの調合、シャーロックがしたのよ」
「なんだって?彼がハーブティーの調合?」
思わず聞き返した。そんな話、今まで聞いたことがなかった。
あらゆる実験の過程と結果を見てはきたけど、日常生活に実用的なものはあまりなかった。
「ええ。ふっと思い立った時にブレンドしてくれるの。その時々で味も香りも違うから、いつも楽しみにしてるわ」
「彼にそんな特技があったなんて知らなかったよ」
キリカの頬には赤みが差していて、とても嬉しそうだった。
まるで自分が誉められたように喜んでいるのだ。
ミントの香りがベースになっているハーブティーを楽しみながら、ぼくの頭に一つの考えが浮かんだ。
愛の形は人それぞれ。
彼らも少し特殊ではあるけれど、こういった関係も良いんじゃないだろうか。
無用な心配かもしれなかった。彼女がぽつりと呟いた言葉を聞くまではそう思っていたんだ。
「でも、そうね。一つだけ、ちょっと気になることがあるわ」
「遠慮なく言ってくれよ、ってぼくが言うのも変だけど。相談に乗れることなら何でも聞くさ」
「ありがとう、ジョン。その、指輪なんだけど……彼、してないでしょう。ちょっとだけ、それが気になるの」
彼女の細い指が左手の薬指に触れた。金のリングがその指を飾っている。
指輪は手入れが行き届いていて、光沢を放っていた。
「ほんの少しだけ。ほら、男の人って結婚指輪をつけない人もいるから」
そう自分に言い聞かせているキリカの顔は憂いに満ちていた。
彼女と同じ疑問を以前彼に聞いたことがある。その時、ホームズは事細かやかに理由を話してくれたんだ。
あんまり真剣にそれを話すものだから、てっきり彼女にも話しているものだとばかり思っていた。
この様子じゃ何も話していないようだ。
「キリカ、それは」
事の顛末を全て知る権利が彼女にはある。
そう思って話を切り出したものの、ちょうどそこへホームズが帰ってきてしまった。
彼は帽子とコートを脱ぎながらぼくの顔を見て「君が来ると知っていれば出掛けなかったんだが」とぼやいていた。
いいや、例えぼくが居たとしても何かあれば君は捜査に出掛けるだろ。
ホームズは空いている肘掛け椅子に腰掛けた。
それを見計らってキリカが「お茶を淹れてくるわ」とティーポットを持って席を立つ。
話のタイミングをすっかり失ってしまったぼくは仕方なくハーブティーのことを彼に振る。
すると「ああ、だいぶ前からだよ」と答えた。
「今日のは頭が冴えるような香りにしてみた。結構気に入ってる」
「毎回ブレンドが違うようだけど、今までのレシピを全部覚えているのかい」
「彼女が好きなやつは覚えている。あとは個人的に気に入ったやつを」
「君がこういうの得意だなんて知らなかったよ」
「あら、貴方がブレンドしたハーブティーどれも好きよ」
トレイにティーポットとカップを一組乗せてキリカがそう言いながら戻ってきた。
カップをホームズの前に置き、淹れたばかりのハーブティーを注ぐ。薄い緑色のお茶がミントの香りを際立たせた。
ホームズがソーサラーとカップをそれぞれの手で持ち上げ、香りを楽しむ。ちらと彼女の方へ視線をやったが、すぐに戻した。
「その中でも特にお気に入りのが三つ。ローズをベースにしてオレンジピールを加えたもの、カモミールとミント、ジャスミンにラベンダーそれと」
「君が彼女の好みをようく知っているのはわかったよ。ぼくはそろそろお暇するとしよう」
「あ、……もっとゆっくりしていけばいいのに」
「折角の水入らずの時間を邪魔しちゃ悪いからね。お茶、ご馳走様」
挨拶もそこそこにぼくはコートを羽織りながら玄関へ向かった。
リビングから出て見送りに来たのは彼女だけ。大抵いつもそうだから別に気にはならないし、今はこの方がむしろ好都合だった。
ぼくは彼女の方へそっと顔を寄せて、さっきの話の続きをしようとした。でも、あれを要約して簡潔に伝えるには少し難しい。
文章を練るのが得意なぼくでもだ。
どう纏めようか。悩んだ末にぼくは一言だけキリカに伝えることにした。
「さっきの話だけど。君の心配以上に彼の愛は深い」
「どういう意味?」
「今のぼくにはこれしか言えない。また今度、時間が出来たら話すよ。じゃあ」
あまり玄関先で長居していてはホームズに怪しまれる。
別に怪しまれて困ることは全くないけど。彼はヤキモチ焼きだから。
彼女に別れの挨拶をしてぼくは221Bのドアを閉めた。
友人のジョンを見送ったあと、私はリビングへ戻った。
彼はお茶を飲みながら窓の方に視線を向けていた。
ソファに座りなおした私は自分のティーカップの取っ手に触れる。冷たい。
カップはすっかり冷えてしまっていた。当然、喉を通るお茶も冷たくなっている。
水よりも冷たく感じたのはミントが入っているせいかもしれない。
「ワトソンとは何の話を?」
「このハーブティー、貴方がブレンドしたっていう話よ」
「それだけじゃない。じゃなきゃ君はそんな浮かない顔をしていないよ」
「私、そんな顔してるかしら」
「少なくともぼくにはそう見える」
その場に彼はいなかったのに。私たちが何を話していたのかわかっているみたいだった。
やっぱり彼には全てお見通し。それは隠し事ができない私の態度が原因。
内容まではわからないだろうけど、さっき玄関で立ち話をしたのも彼の目に留まってしまった。
「なんでもないわ」そう答えると彼の顔が曇った。
こればかりは言いにくい問題だもの。ああ、でも貴方はそれが堪らなく嫌みたい。
私はいよいよ観念して一度静かに深呼吸をした。
「シャーロックが、指輪をしていないのは何故かしら、ってジョンに聞いていたの。彼は理由を知っているみたいだけど、聞けなかったわ」
「ちょうどそこでぼくが帰ってきたから、か」
頷いた私に彼は金色の目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。
彼はしばらく目を瞑っていた。やがておもむろに目を開いて、私の方を見る。
「君は問い詰めなんだな。女性なら浮気だ、不倫だと疑ってかかるものだよ。尤もぼくはどちらも全くしていないけど」
「それを聞いてちょっとだけ安心したわ」
「誓うよ。……このことをワトソンにも聞かれた事があった。君と同じように『どうして結婚指輪を外しているんだ』とね」
ジョンは私と考えていることが同じだった。それを聞いてしまったなんて、やっぱり彼はお節介の称号がお似合い。
だって、面と向かってその質問をしたんだもの。
シャーロックがジャケットの左胸、内ポケットから小さな袋を取り出した。
その袋に見覚えがある。藍色のちりめん袋で、金の糸で御守と刺繍されている。
これは二人が日本に来た時に神社で購入してた物。
彼は絞ってある紐を弛めて、御守袋をひっくり返した。彼の手の上にぽとりと金色のリングが落ちる。
私の左手にある指輪と全く同じもの。
「いつも肌身離さず持ち歩いている。ぼくが結婚指輪を外している一番の理由は君を危険な目に合わせたくないからだ。事件の捜査上、ぼくが既婚者だと知った悪人はこの情報を捨て置かないだろう。最大の弱みとしてつけ込んでくる。妻である君に危害が及ぶ可能性は限りなく高い。それだけは避けたかった。だから、極力奴らにその情報を与えたくないんだ。……最初に言っておくべきだった。そうすれば君にそんな顔をさせずにすんだというのに」
いつもの早口より少し遅い口調で彼はひとしきり喋り終えた。
彼は手の中にある指輪を見つめ、ぎゅっと握り締める。その手に私は自分の手を重ねて包み込む。
ただ、言葉が見つからなかった。自然と涙が溢れてきて、頬を濡らしていく。
友人の言葉の意味がようやく理解することができた。
彼の愛は本当に深くて、優しいものだということを。