S・H人形劇
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
They are sick.
休憩室の時計は十二時二十八分を指していた。
ぼくは午前中の診療を終えて、今は昼休憩中。
腹ごしらえも済んで、食後の珈琲で一服している時のことだった。
電話が鳴り出したので、マグカップを片手に受話器を持ち上げた。
「はい、ワトソンです」
『ぼくだ、ホームズ。昼休憩中にすまない』
「いや、気にしなくていいよ。急にどうしたんだ?」
彼から連絡が来る事は稀だ。と、思うのもルームメイトとして長く生活していたからそう感じるだけかもしれない。
今となっては急を要する時に電話で連絡を寄越してくるようになった。
何か急ぎの用事か、と思いきや彼の口調は珍しくも落ち着いていた。
『今すぐ来てくれないか』
「何か事件でも?」
『キリカが熱で倒れたんだ』
「なんだって!それは大変じゃないか、早く医者を呼んだ方がいい」
『一つお伺いするが君の職業はなんだい、Dr.ワトソン』
ぼくはマグカップを電話台に置いて、目頭を押さえた。
自分は何を言っているんだ。ホームズの言うとおり、ぼく自身が医者じゃないか。
親友が倒れたと聞いて気が動転したのと、日頃の疲れのせいだろう。
ふうと息をついて、冷静になった頭を再起動させた。
「ああ、すまない。君の言うとおりだ。症状は熱だけかい?」
『熱と倦怠感。それと体の節が痛い。咳はしていないし、吐き気もないようだ。食欲もある』
「わかった。今から行くよ。あと、熱を冷ますなら動脈部分を冷やした方が効率がいい。脇の下や首を」
『助言感謝するよ、ワトソン』
「じゃあ、またあとで」
受話器を置いたぼくは急いで往診の準備を始めた。
聴診器、診療簿、体温計と一通り揃えて鞄に詰め込む。
必要なものを全て持ち、コートに袖を通したぼくは妻に「往診に行ってくる」と告げて家を出た。
ベイカー街に降り立ったぼくは歩きなれた道を行く。真っ直ぐにアパートへ向かった。
221Bのドアには『本日、臨時休業』という質素な看板が釣り下がっていた。
それに構わずぼくはドアをノックする。すると「どうぞ」とホームズの声が返ってきた。
部屋に入るとホームズが氷を浮かべた洗面器を持っていた。
氷があるなら冷やしやすい。内心そう思いながら、ぼくはコートを脱いでコート掛けに引っ掛ける。
「遅くなってすまない。道が混んでいた」
「こっちこそ忙しい所すまない。一番信頼できる医者が君しかいないんだ」
「光栄だよ。キリカは?」
「寝室で横になっている。熱が高すぎて寝付けないようなんだ」
ホームズが洗面器を抱えたままぼくを二階へ案内した。
二階は元はぼくが使っていた寝室だ。今ではそこが彼女の寝室になっているのだろう。
こんこん、と彼はドアを控えめにノックする。
「キリカ、入るよ」
彼女の部屋には初めて入る。いや、当然といえば当然なんだけど。
あまり華美じゃなく、シンプルながら女性らしい部屋だった。
クローゼットに本棚、テーブル。ベッドとその横に小さなサイドテーブルがあった。
どれも木目調で全体的に調和が取れている。
コルクボードには新聞の切り抜きがピンで留められていた。日本語で書かれている。
その横には青空とヒマワリの花畑が描かれた水彩画のポストカード。
背の低いクローゼットの上には写真が飾ってある。あれはぼくたち四人がクリスマスパーティーの時に撮ったものだ。確か五年生の時だったかな。
キリカはベッドに横になっていたけれど、ぼくに気づくと体を起こそうとした。
頭の下で編んでいる三つ編みが彼女の動きに合わせて揺れる。
ここからでも彼女の顔が赤いのがわかる。目元もぼんやりとはっきりしていないようだ。
「こんな格好でゴメンナサイ。お医者さんってワトソンのことだったのね。忙しいのにわざわざありがとう」
「親友が困っていたら何があっても飛んでくるさ。具合はどうだい?」
「……とてもだるいわ。頭もぼーっとするし」
「熱は何度?」
「平熱じゃないのは確か」
どうやら測っていないようだ。そういえばこの家で体温計を見かけたことがない。
ぼくは鞄から水銀体温計を取り出して彼女に渡した。
洗面器をホームズがサイドテーブルの上に置く。
彼女から額に乗せていたであろうタオルを受け取って、水の中に浸す。
水枕の上に逆さのUの字に絞られたタオルがある。ちゃんと首の動脈を冷やしていたようだ。
「この家には相変わらず体温計がないようだね」
「今まで必要としていなかったからね。あとで買ってくるよ」
「そうしてくれ。ああ、ありがとう」
丸椅子を持ってきてくれた彼にお礼を言い、ぼくはそれに座って診察を始めた。
まず、患者自身から症状の訴えを聞き、次に視診・触診・聴診を行う。
喉は腫れていない。発熱以外の風邪によく見られる症状もない。
体温計の目盛りは39.2度まで上がっていた。
これじゃあ高熱で意識がぐらつくのも当然だ。
「いつから熱が出てたんだい?」
「今朝から少し熱っぽかったかしら……でも、気のせいだと思って」
「この体温じゃ気のせいで済まされないよ。恐らく、疲労からくる熱だと思うけど。無理せずにゆっくり休むこと。解熱剤を処方しておきます」
「ありがとうございます、ワトソン先生」
そう言ってキリカがやんわりと、力なく微笑んだ。
それが逆に痛々しく感じる。本当に、早く熱が下がることを願おう。
ホームズがぼくの傍らで口をつぐんだまま立っているのだから。
「お大事に」と彼女に声をかけ、ぼくは部屋の外へ出た。下の階で身支度を整えていた所にホームズも降りてくる。
「今日はこのまま安静に。もし症状が悪化するようならまた連絡してくれ」
「わかった」
「彼女は頑張りすぎだ。君の妻だし、色々多忙なのもわかる。気遣い疲れもあるよ」
「……君の言うとおりだ」
今日はやけに素直だった。少し気味が悪いぐらい。
会話のやりとりも大人しい。しかもぼくの話をちゃんと聞いている。
表情も暗い。一瞬、ぼくはなんて声をかけていいか戸惑ったぐらいだ。
やっぱり伴侶が体調不良だから心配なんだろう。
ホームズが白封筒をぼくに差し出した。診療代のつもりなんだろう。
ぼくはちっともそんなつもりはなかった。首を横に振る。
「親友から貰うつもりはない」
「受け取ってくれ。君が診てくれたおかげで安心できたんだ。ほんの気持ちだよ、Dr.ワトソン」
「わかった」
こうなっては意地でも自分の意思を曲げない。いくら諭しても無駄なんだ。だからこちらが折れるしかない。
ぼくは素直に封筒を受け取った。厚みがある。正直、こんなに貰ってもいいのかと戸惑ってしまう。
「君の置き土産も役に立っていることだし、その御礼も兼ねてだ」
「……」
「あれのおかげで90%の依頼人はノックもせずに帰っていく。それでも入ってくるのは目に留まらないほど急用な人だ」
玄関先に釣り下がっていた『本日、臨時休業』の看板。
そうだ、あれはぼくがこの前掛けていったやつだ。すっかり忘れていた。
だってこれを掛けてから何も音沙汰がなかったんだ。てっきり気に入ったからと思っていたけど。
どうやら彼の冷静な表情を見る限り、気に入ったという様子ではない。
「……怒ってるだろ」
「いいや。今こうして有効活用されているからね」
怒ってはいない。と、ホームズは言った。
それがぼくには遠まわしに嫌みを言われているようにしか感じない。
「ぼくは君たちが新婚らしい生活をしていないから心配なんだよ」
来る日も来る日も事件を持ち込む依頼人が訪れてくる。
中には凶悪な事件だってある。それを捜査するホームズを邪魔だと思う人だっているだろう。
考えたくもないけど、万が一ということもある。そうなったら一番悲しむのは彼女だ。
だから、あの看板だって少しは二人の時間を過ごしてほしいと思ってのこと。
二人がぼくにとって大切な親友だから、心配なんだよ。
「寝室だって別々じゃないか」
「何も変なことじゃない。普通だ」
「変だよ!普通っていうのは、もっとこう」
ぼくや一般世間にとっての普通は彼には通じない。
今までいくつも説いてきた。それが彼に三分の一も届いていればいい方だ。
ここで新婚生活についてあれこれ話しても、段々声を張り上げていくのはぼくに決まっている。
二階で休むキリカに聞こえては余計な心配をかけるだろう。
ぼくは大げさに溜息をついて見せて、この話を終わらせた。
「とにかく、お大事に」
「ありがとう」
玄関先で彼は静かに呟いた。
早く彼女の熱が下がるようもう一度ぼくは神に祈った。
彼の病を治せるのは君だけだ。
*
誰かに呼ばれたような気がして、私は目を覚ました。
目に映るのは白い天井。どうしてベッドに横になっているのか最初は思い出せなかった。
でも、そういえば今朝から体の調子が悪くて、熱っぽかった。シャーロックに寝ていた方がいいと言われて、寝室に連れてこられた。
その後の記憶はどうも曖昧。お医者さん、ジョンが来ていたような気もする。先生と呼んだのは覚えてるけど、ジョンじゃなかったかもしれない。
寝ていたおかげで、熱はすっかり引いたみたい。
水枕や額のタオルが冷たく感じる。逆に冷えて気持ちが悪いからそれを片手で取り払った。
もう片方の右手は彼に掴まれていた。ベッド脇に項垂れて、自分の腕に顔を半分埋めて静かに寝息を立てている。
彼の温もりが手の平から伝わってくる。それがとても温かく感じた。
私は彼の頭を優しく撫でた。柔らかい、癖のある髪。
「君よりもぼくの方がよほど癖っ毛だ」とシャーロックが言っていた。
私の髪は癖がつきやすくて、それが嫌だった。ちゃんとしなきゃと思っていたから、癖毛を伸ばしていた。
でも、自然な方がいいって。気にするほどじゃない。そう言ってくれたのはもうだいぶ前のこと。
今はちっとも気にしなくなった。貴方にとっては何気ない一言かもしれないけど、私にとっては魔法のことばだったわ。
そんな昔のことを思い出して、つい顔が綻んだ。
ふと、彼の長い睫毛がぴくりと動いた。ゆっくり開いた目はとても眠たそうにしていた。
でも私の顔を見るなり飛び起きて「熱は、気分は?」と聞いてくる。
「良好よ。看病してくれてありがとう」
私がそう答えると彼の表情が緩んだ。だいぶ心配をかけてしまったみたい。
「今日は一日ここで寝ていた方がいい」
「それじゃあ一人ぼっちで寂しいわ」
この寝室は文字通り、夜休む時だけ過ごす場所。日中は下の階で過ごしている。
彼と一緒に過ごせる空間だから、そこに居れないのはちょっと寂しい。
「ぼくがここに居る。それなら寂しくない」
「そうね。ありがとう」
私以上に彼は今寂しい思いをしているのかもしれない。
貴方のそんな悲しそうな顔、見たことがないもの。なんて、そんなこと本人を前にしては言えないけど。
早く元気にならなくちゃ。私の為にも、そして貴方の為にも。
休憩室の時計は十二時二十八分を指していた。
ぼくは午前中の診療を終えて、今は昼休憩中。
腹ごしらえも済んで、食後の珈琲で一服している時のことだった。
電話が鳴り出したので、マグカップを片手に受話器を持ち上げた。
「はい、ワトソンです」
『ぼくだ、ホームズ。昼休憩中にすまない』
「いや、気にしなくていいよ。急にどうしたんだ?」
彼から連絡が来る事は稀だ。と、思うのもルームメイトとして長く生活していたからそう感じるだけかもしれない。
今となっては急を要する時に電話で連絡を寄越してくるようになった。
何か急ぎの用事か、と思いきや彼の口調は珍しくも落ち着いていた。
『今すぐ来てくれないか』
「何か事件でも?」
『キリカが熱で倒れたんだ』
「なんだって!それは大変じゃないか、早く医者を呼んだ方がいい」
『一つお伺いするが君の職業はなんだい、Dr.ワトソン』
ぼくはマグカップを電話台に置いて、目頭を押さえた。
自分は何を言っているんだ。ホームズの言うとおり、ぼく自身が医者じゃないか。
親友が倒れたと聞いて気が動転したのと、日頃の疲れのせいだろう。
ふうと息をついて、冷静になった頭を再起動させた。
「ああ、すまない。君の言うとおりだ。症状は熱だけかい?」
『熱と倦怠感。それと体の節が痛い。咳はしていないし、吐き気もないようだ。食欲もある』
「わかった。今から行くよ。あと、熱を冷ますなら動脈部分を冷やした方が効率がいい。脇の下や首を」
『助言感謝するよ、ワトソン』
「じゃあ、またあとで」
受話器を置いたぼくは急いで往診の準備を始めた。
聴診器、診療簿、体温計と一通り揃えて鞄に詰め込む。
必要なものを全て持ち、コートに袖を通したぼくは妻に「往診に行ってくる」と告げて家を出た。
ベイカー街に降り立ったぼくは歩きなれた道を行く。真っ直ぐにアパートへ向かった。
221Bのドアには『本日、臨時休業』という質素な看板が釣り下がっていた。
それに構わずぼくはドアをノックする。すると「どうぞ」とホームズの声が返ってきた。
部屋に入るとホームズが氷を浮かべた洗面器を持っていた。
氷があるなら冷やしやすい。内心そう思いながら、ぼくはコートを脱いでコート掛けに引っ掛ける。
「遅くなってすまない。道が混んでいた」
「こっちこそ忙しい所すまない。一番信頼できる医者が君しかいないんだ」
「光栄だよ。キリカは?」
「寝室で横になっている。熱が高すぎて寝付けないようなんだ」
ホームズが洗面器を抱えたままぼくを二階へ案内した。
二階は元はぼくが使っていた寝室だ。今ではそこが彼女の寝室になっているのだろう。
こんこん、と彼はドアを控えめにノックする。
「キリカ、入るよ」
彼女の部屋には初めて入る。いや、当然といえば当然なんだけど。
あまり華美じゃなく、シンプルながら女性らしい部屋だった。
クローゼットに本棚、テーブル。ベッドとその横に小さなサイドテーブルがあった。
どれも木目調で全体的に調和が取れている。
コルクボードには新聞の切り抜きがピンで留められていた。日本語で書かれている。
その横には青空とヒマワリの花畑が描かれた水彩画のポストカード。
背の低いクローゼットの上には写真が飾ってある。あれはぼくたち四人がクリスマスパーティーの時に撮ったものだ。確か五年生の時だったかな。
キリカはベッドに横になっていたけれど、ぼくに気づくと体を起こそうとした。
頭の下で編んでいる三つ編みが彼女の動きに合わせて揺れる。
ここからでも彼女の顔が赤いのがわかる。目元もぼんやりとはっきりしていないようだ。
「こんな格好でゴメンナサイ。お医者さんってワトソンのことだったのね。忙しいのにわざわざありがとう」
「親友が困っていたら何があっても飛んでくるさ。具合はどうだい?」
「……とてもだるいわ。頭もぼーっとするし」
「熱は何度?」
「平熱じゃないのは確か」
どうやら測っていないようだ。そういえばこの家で体温計を見かけたことがない。
ぼくは鞄から水銀体温計を取り出して彼女に渡した。
洗面器をホームズがサイドテーブルの上に置く。
彼女から額に乗せていたであろうタオルを受け取って、水の中に浸す。
水枕の上に逆さのUの字に絞られたタオルがある。ちゃんと首の動脈を冷やしていたようだ。
「この家には相変わらず体温計がないようだね」
「今まで必要としていなかったからね。あとで買ってくるよ」
「そうしてくれ。ああ、ありがとう」
丸椅子を持ってきてくれた彼にお礼を言い、ぼくはそれに座って診察を始めた。
まず、患者自身から症状の訴えを聞き、次に視診・触診・聴診を行う。
喉は腫れていない。発熱以外の風邪によく見られる症状もない。
体温計の目盛りは39.2度まで上がっていた。
これじゃあ高熱で意識がぐらつくのも当然だ。
「いつから熱が出てたんだい?」
「今朝から少し熱っぽかったかしら……でも、気のせいだと思って」
「この体温じゃ気のせいで済まされないよ。恐らく、疲労からくる熱だと思うけど。無理せずにゆっくり休むこと。解熱剤を処方しておきます」
「ありがとうございます、ワトソン先生」
そう言ってキリカがやんわりと、力なく微笑んだ。
それが逆に痛々しく感じる。本当に、早く熱が下がることを願おう。
ホームズがぼくの傍らで口をつぐんだまま立っているのだから。
「お大事に」と彼女に声をかけ、ぼくは部屋の外へ出た。下の階で身支度を整えていた所にホームズも降りてくる。
「今日はこのまま安静に。もし症状が悪化するようならまた連絡してくれ」
「わかった」
「彼女は頑張りすぎだ。君の妻だし、色々多忙なのもわかる。気遣い疲れもあるよ」
「……君の言うとおりだ」
今日はやけに素直だった。少し気味が悪いぐらい。
会話のやりとりも大人しい。しかもぼくの話をちゃんと聞いている。
表情も暗い。一瞬、ぼくはなんて声をかけていいか戸惑ったぐらいだ。
やっぱり伴侶が体調不良だから心配なんだろう。
ホームズが白封筒をぼくに差し出した。診療代のつもりなんだろう。
ぼくはちっともそんなつもりはなかった。首を横に振る。
「親友から貰うつもりはない」
「受け取ってくれ。君が診てくれたおかげで安心できたんだ。ほんの気持ちだよ、Dr.ワトソン」
「わかった」
こうなっては意地でも自分の意思を曲げない。いくら諭しても無駄なんだ。だからこちらが折れるしかない。
ぼくは素直に封筒を受け取った。厚みがある。正直、こんなに貰ってもいいのかと戸惑ってしまう。
「君の置き土産も役に立っていることだし、その御礼も兼ねてだ」
「……」
「あれのおかげで90%の依頼人はノックもせずに帰っていく。それでも入ってくるのは目に留まらないほど急用な人だ」
玄関先に釣り下がっていた『本日、臨時休業』の看板。
そうだ、あれはぼくがこの前掛けていったやつだ。すっかり忘れていた。
だってこれを掛けてから何も音沙汰がなかったんだ。てっきり気に入ったからと思っていたけど。
どうやら彼の冷静な表情を見る限り、気に入ったという様子ではない。
「……怒ってるだろ」
「いいや。今こうして有効活用されているからね」
怒ってはいない。と、ホームズは言った。
それがぼくには遠まわしに嫌みを言われているようにしか感じない。
「ぼくは君たちが新婚らしい生活をしていないから心配なんだよ」
来る日も来る日も事件を持ち込む依頼人が訪れてくる。
中には凶悪な事件だってある。それを捜査するホームズを邪魔だと思う人だっているだろう。
考えたくもないけど、万が一ということもある。そうなったら一番悲しむのは彼女だ。
だから、あの看板だって少しは二人の時間を過ごしてほしいと思ってのこと。
二人がぼくにとって大切な親友だから、心配なんだよ。
「寝室だって別々じゃないか」
「何も変なことじゃない。普通だ」
「変だよ!普通っていうのは、もっとこう」
ぼくや一般世間にとっての普通は彼には通じない。
今までいくつも説いてきた。それが彼に三分の一も届いていればいい方だ。
ここで新婚生活についてあれこれ話しても、段々声を張り上げていくのはぼくに決まっている。
二階で休むキリカに聞こえては余計な心配をかけるだろう。
ぼくは大げさに溜息をついて見せて、この話を終わらせた。
「とにかく、お大事に」
「ありがとう」
玄関先で彼は静かに呟いた。
早く彼女の熱が下がるようもう一度ぼくは神に祈った。
彼の病を治せるのは君だけだ。
*
誰かに呼ばれたような気がして、私は目を覚ました。
目に映るのは白い天井。どうしてベッドに横になっているのか最初は思い出せなかった。
でも、そういえば今朝から体の調子が悪くて、熱っぽかった。シャーロックに寝ていた方がいいと言われて、寝室に連れてこられた。
その後の記憶はどうも曖昧。お医者さん、ジョンが来ていたような気もする。先生と呼んだのは覚えてるけど、ジョンじゃなかったかもしれない。
寝ていたおかげで、熱はすっかり引いたみたい。
水枕や額のタオルが冷たく感じる。逆に冷えて気持ちが悪いからそれを片手で取り払った。
もう片方の右手は彼に掴まれていた。ベッド脇に項垂れて、自分の腕に顔を半分埋めて静かに寝息を立てている。
彼の温もりが手の平から伝わってくる。それがとても温かく感じた。
私は彼の頭を優しく撫でた。柔らかい、癖のある髪。
「君よりもぼくの方がよほど癖っ毛だ」とシャーロックが言っていた。
私の髪は癖がつきやすくて、それが嫌だった。ちゃんとしなきゃと思っていたから、癖毛を伸ばしていた。
でも、自然な方がいいって。気にするほどじゃない。そう言ってくれたのはもうだいぶ前のこと。
今はちっとも気にしなくなった。貴方にとっては何気ない一言かもしれないけど、私にとっては魔法のことばだったわ。
そんな昔のことを思い出して、つい顔が綻んだ。
ふと、彼の長い睫毛がぴくりと動いた。ゆっくり開いた目はとても眠たそうにしていた。
でも私の顔を見るなり飛び起きて「熱は、気分は?」と聞いてくる。
「良好よ。看病してくれてありがとう」
私がそう答えると彼の表情が緩んだ。だいぶ心配をかけてしまったみたい。
「今日は一日ここで寝ていた方がいい」
「それじゃあ一人ぼっちで寂しいわ」
この寝室は文字通り、夜休む時だけ過ごす場所。日中は下の階で過ごしている。
彼と一緒に過ごせる空間だから、そこに居れないのはちょっと寂しい。
「ぼくがここに居る。それなら寂しくない」
「そうね。ありがとう」
私以上に彼は今寂しい思いをしているのかもしれない。
貴方のそんな悲しそうな顔、見たことがないもの。なんて、そんなこと本人を前にしては言えないけど。
早く元気にならなくちゃ。私の為にも、そして貴方の為にも。