S・H人形劇
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Let's study
「頼む!オレに数学を教えてくれ!」
部屋に入ってきたレストレードがいきなり頭を下げた。221Bのぼくらではなく、遊びに来ているキリカにだ。
彼が随分早口だったせいか彼女は通訳が間に合わなかったようで、ぽかんとしていた。
そして、少し間を置いてから驚きの声を上げる。
「私が、貴方に数学を?」
「頼むよ!この間の試験で点が悪かったから再試なんだ」
「確か五点だった」
「バラすなよホームズ!」
レストレードは彼女の顔色をちらちらと伺っている。
彼女は明らかに困惑した様子で、ぼくに助けを求めてきた。
親友の助けを無視するわけにもいかない。とりあえず詳しい話を聞こうとぼくは話を掘り下げた。
「レストレードは数学が苦手だったけ?」
「……真面目に授業は受けているつもりだ。でも、得意じゃない」
「うん、まあそれはわからなくもない」
「でも、私だって数学は得意じゃないわ。それに教えるほど成績が良くないし」
「そこをなんとか頼む!こんなこと君にしか頼めないんだ」
数日前にもこんな光景を見た気がする。
両手を合わせて目を潤ませるレストレード。キリカは懇願する彼に同情の念を抱いているようだった。
先日、無実の罪を背負わされた件もあるからだろう。
彼女が二つ返事で頷こうとしたら、すかさずホームズが割って入ってきた。
さっきまで出窓に張り付いてたのに、いつの間にこっちまで来たんだ。
「レストレードは先生に付きっきりで教えてもらった方がいいに決まってる。その方が間違いなく成績が上がるよ。わざわざ彼女の手を煩わせないでくれないか」
「まるで彼女の保護者みたいな言い方だなホームズ。君だって成績が良くないのに!」
「君よりはマシさ」
「ちなみに、ホームズはこの間の数学の試験、何点だったの?」
「十五点」
「たいして変わらないじゃないか!」
「十点も違う」
マシというよりも、この場合どっちもどっちだ。
キリカもこれには苦笑いを浮かべ「五十歩百歩ね」と日本の諺を口にした。
二人がぎゃあぎゃあと言い合いを始めてしまったので、部屋が一気にうるさくなった。
これを見かねた彼女が二人の間に入り、言い合いを鎮めた。
「わかったわ。出来るだけ頑張ってみる。だけど、わかりにくかったらごめんなさい」
「ありがとう!君は女神のような女性だよ!」
そう言ってレストレードがキリカの両手を取って、ぶんぶんと上下に振っていた。
ぼくがちらりとホームズの方を窺うと思った通りだ。気に入らないといった表情で腕を組み、顔を背けた。
こうして数学の出来が悪いレストレードとついでにホームズにも数学を教えることになった。ぼくたち二人で。
ぼくはそこまで成績が悪くないと自分で思っているし、彼女がわからない所をサポートするつもりだ。
古めかしい木材のテーブルを引き寄せて、ソファに二人が肩を並べる。そこに勉強道具を広げた。
再試験には似たような問題が出やすいと彼女は言った。ぼくもその意見に賛成だ。
まずはそれぞれ答案用紙を出させて、間違っている問題の説明を始めることにしたようだ。
とは言え、五点、十五点の答案だと説明する箇所が幾つもある。
「ええと……そうね、まずは二人とも間違ってる箇所をやりましょう」
「それなら二問目からだ」
「これは、公式にあてはめれば解けるわ。覚えている?」
「ええと」
キリカの問いかけにレストレードは頭を悩ませていた。
一方ホームズは羊皮紙の隅に羽ペンで公式をすらすらと書いて見せた。
その公式を見てキリカはにこりと微笑む。
「正解。二人ともこの式にあてはめてみて」
二人は彼女の言うとおりに問題を羊皮紙に解いていく。
ホームズは瞬く間に。レストレードは公式と問題を何度も見比べながら。
ホームズは学習態度は悪いけど、数学は得意そうな気もした。論理的な思考の持ち主だし。これって数式を解くのにも必要だ。
「どう?」
「問題ない。念の為に答え合わせを」
「……大丈夫、あってるわ。レストレードは?」
「ああ、解けたよ。答えもばっちりだ。今思えばどうしてこんなに簡単な問題が解けなかったのか。あの時の自分に問いただしたいよ」
「キリカ。この問題がわからないんだけど」
レストレードが話をする間、ホームズは既に次の問題を解き始めているようだった。
一応ぼくも数学の教科書を片手に待機している。でもしばらくぼくの出番は無さそうな気もした。
ホームズがレストレード側に立っていたキリカを呼びつけて、問題を指で示す。彼女は反対側の方へ回りこんで、彼の手元を覗き込んだ。
「ええと、これはね。……数式を書いてもいいかしら」
「どうぞ」
羽ペンを持った彼女の手が羊皮紙の隅っこに数式を綴っていく。
きれいで丁寧な文字だ。ホームズは頬杖をつきながらそれを目で追っていた。
今更だけど教わるような態度じゃない。
計算式を書き終わったキリカはホームズの方を不安そうに向いた。
「こういう計算式になるんだけど」
「なるほど。よくわかったよ。途中式があると実にわかりやすい」
「良かった。これ、口で説明するの難しいから……英語でなんて言えばいいか悩む所だったわ」
「ダメだ。オレにはさっぱりわからない」
レストレードはぐいぐいっと押し入るように覗き込んできた。
彼も同じ場所を間違っていたみたいで、頭を悩ませていたようだ。いや、むしろ答案用紙のそこは空欄だった。そもそも解く気がなかった。
そんな彼にホームズの突き刺さるような鋭い視線が向けられる。
「これを見れば一目瞭然じゃないか」
「君と同じような頭の作りをしていないよ」
「それは失礼」
開始早々険悪な雰囲気を醸し出していた。
主にレストレードに対するホームズの言い方に棘がある。もしやまだロイロット先生に告げ口されたのを根に持っているんだろうか。
あれに関してはぼくもカンカンに怒ったけど。それはその時だけだ。それに比べてホームズって結構根に持ちやすいタイプのようだ。意外と神経質。
彼女の教え方は上手だった。側で聞いているぼくにもわかりやすく入ってくる。
先生に向いてるんじゃないか、ってレストレードと二人でからかうと謙遜なのか頭を何度も左右に振った。
本当にそう思ったんだ。優しい教え方だし。良い教師になりそうだよ。
二人はその後も間違った、解けなかった問題に手をつけていった。
レストレードは躓いてばかりいたけど、ホームズは偶に尋ねるだけで殆どの問題を自力で解いていた。後で彼に聞いたんだけど、試験中は気が向いた時にしか解答を書かないそうだ。せっかく良い点数が取れるのに勿体ない。
レストレードは一問一問解く時間が長い。
じっくりと考えて解くタイプなのかもしれないな。だから時間がなくなって後半の問題は殆ど手つかず、というのも考えられる。
なんにせよ、ぼくの出番はもうしばらくなさそうだった。ちょっと手持無沙汰だ。
それなら明日の予習をしていた方が時間を有効に使えそうだと思い、ぼくは膝の上に教科書とノートを広げた。
彼らのやりとりを後ろ手に聞きながら、教科書に目を通す。これは中々難しそうだ。
何度か例題文章を読み、もう一度チャレンジする。その問題に夢中になっていたせいで、会話の流れはわからなかったけど、彼らが揉めていると気づいたのはレストレードの一際大きな声からだった。
「君だって成績が悪いじゃないか!」
「ぼくは学習態度が悪いから当然の結果だ。君は真面目に受けているにも関わらず試験の点が悪い。救いようがないじゃないか」
君が威張って言えるようなことじゃない。ぼくはどれだけそう言いたかったか。
ぼくの気づかないうちに二人はまた言い合いを始めていたようだ。
彼女はどうしていいかわからずにおろおろしている。二人を交互に見てる顔はものすごく困っていた。
二人の言い合いはエスカレートしていくばかり。
それもかなりの早口で、彼女には聞き取るのが難しいようだった。
「ジョン、二人はなんて言ってるの。あまり良い言葉じゃないのはわかるんだけれど」
「ああ、わからない方がいっそいいよ。まったく……ホームズが大人しく勉強しているの見た試しがないな」
本当に困った争いだ。
次第には別の教科の成績の話や天動説や地動説、哲学者の話を持ち出している。
いい加減にしろとぼくが怒鳴りつけても聞く耳持たず。キリカも二人を宥めようとしたけど、既にヒートアップしてる二人には届きそうもなかった。
彼女は泣きそうな顔でぼくに声をかけてくる。
「ジョン、私……」
「ああ、泣かないで。君はこれっぽっちも悪くないんだから。二人とも気が立ってるだけさ」
「うん」
キリカがくるりと背を向けた。制服の袖で目元を拭うような仕草が後姿からでもわかる。
話を聞いてくれない上に口論を始めるんだ。そりゃ泣きたくもなる。心から彼女に同情するよ。
騒々しかったこの部屋が急に静けさに包まれた。どちらが先に言い返すのを止めたのかはわからないけど、二人とも重々しい表情をしている。
この異変に気付いた彼女がまたこちらを振り返った。
ホームズが口を尖らせたままこう言った。
「……これ以上はよそう、レストレード。時間を無駄に過ごすだけだ」
「それにはオレも同じ意見だよホームズ。オレたちがこんな事してたら折角教えてくれてる彼女に失礼だ。ワトソンにもね」
意外や意外。熱くなりすぎていたというのに、急に二人は冷静さを取り戻した。
まるで氷水を頭から被ったみたいにだ。とは言え、二人ともひどい顔をしているけど。
仕方なく、というふて腐れた表情なのは否めない。
気持ちを改めてくれた二人にキリカはまだ目元に溜まっていた涙を払い、微笑んでいた。
やれやれ。ようやく落ち着いて勉強できる環境になりそうだった。
*
「あの時はどうなるかと思ったけど、二人とも再試で良い点が取れたみたいで良かったよ」
「二人で家庭教師した甲斐があったわね。」
「ホームズが高得点を取った時の先生の顔、面白かったなあ」
数学の再試験が行われた日。試験終了後に先生がすぐに採点をした。
彼ら以外にも再試の生徒はいたけれど、特に二人の好成績に驚きを隠せないようだった。
目を真ん丸に見開いていて、何度も自分の丸つけ間違いではないかと見直していた。
その一部始終を教室の外から伺っていた私たちはお互いに笑いあった。
ただ、シャーロックだけカンニングを疑われていたのがちょっと残念。
「だから嫌なんだ。試験でどんな点を取ってもどっちにしろ怒られる」
「あの後、私たちが二人の勉強を見てあげたんです、って言ったら先生納得してくれたから、良かったわ」
これからも二人を見てやってくれないか、なんて頼まれてしまったけど。
シャーロックが出窓から外を見たまま両手を広げて肩をすくめてみせた。
と、思ったらじっと一点を見つめる。誰か気になる人でもいたのかもしれない。
ジョンは壁新聞を一生懸命書いていた。
この間の生徒失踪事件の記事が完成したみたい。もちろん、名前は匿名。
嬉々とした表情で「できたっ!」と壁新聞を両手で持ち上げた。
「早速ストランドに見せてくるよ」
そう言って壁新聞をくるくると丸めて肩に担ぎ、足取り軽く部屋を出て行った。
内容はさっき書いてる途中に覗き見したから大体わかっている。でも、あとで貼り出されたらまた見に行こうと思っていた。
見上げながら全体を読むとまた違った見え方がするから。
シャーロックは相変わらず外を眺めていた。
さっきの気になる生徒はどこかへ行ってしまったみたい。
ぼんやりとした、どこかつまらなさそうな目をしている。
私は真紅のソファに座って本を開いた。ここが私の一番のお気に入りの場所。
彼がぼんやりとしている時も、実験に夢中になっている時も落ち着けるのがこの場所。
会話を交わさなくても、誰かがそこにいるというだけで安心できる。
それぞれがやりたいことをして過ごす放課後。この時間が私は好き。
ひとりぼっちで留守番している時はさすがに寂しいけれど。
本の頁をめくった後、何気なく彼の方を見ると緑のピロピロ笛を吹き戻していた。
物語の世界に入り込んでからどれだけの時間が経っただろう。
周りの音も気に留めないぐらい夢中になっていた。シャーロックが隣に座らなければ現実に戻ってこなかったかも。
急にソファの座面が沈んだから、私は顔をあげて横を向いた。彼が物言わずに座っている。
そして私に細長い長方形の厚紙の箱を差し出した。
「キリカ。これを、開けてみてくれないか」
彼が手渡してきたものは軽かった。一体何が入っているのかしら。
大きさ的には羽ペンが入っていそうだけど。
私は慎重に上箱を開けた。中身は薄い化粧紙が包まれている。それをそっとめくると、青い硝子のループタイが姿を現した。
丁寧に織り込まれた黒い丸紐。硝子は深い青で、所々きらきらと輝いている。朝日を受けた水面のようにも思えるし、無数に煌く星空のようにも見えた。
光に透かしたらもっと綺麗に輝きそうだった。
こんなきれいな硝子見たことがない。
私は随分と見惚れてしまっていたせいか、彼が目を細めて笑っていた。
「ぼくが前に使ってたやつなんだ。殆ど使わなかったけど。今はこのスカーフの方が気に入っている。だから、君が貰ってくれないか」
良ければだけど、と彼は控えめな言葉を付け加えた。
「嬉しいけど、こんな高価なもの、頂けないわ」
「いいんだ。ぼくにはもう無用の物だ。君が気に入ってくれたならその方がいい」
「……本当にいいの?」
「もちろん。それに、今回のことで迷惑をかけたからね」
「別に気にしなくてもいいのに」
シャーロックは肩をすくめて、首を横に振った。
「これでも反省しているんだ。ごめん」
「私は最初から怒ってないわ。二人が再試験頑張ってくれただけで充分よ」
凛とした彼の横顔は高い鼻筋を強調している。
口をへの字に曲げて、むず痒そうに目を伏せたり泳がせていた。
人と目を合わせて話すことが少ない彼だけど、気持ちはちゃんと伝わってくるのが不思議。
私はループタイを箱から取り出して、光に透かした。
それは海の底に届いた光のようにきらきらと輝いた。
「ありがとう、大切にするわね」
「頼む!オレに数学を教えてくれ!」
部屋に入ってきたレストレードがいきなり頭を下げた。221Bのぼくらではなく、遊びに来ているキリカにだ。
彼が随分早口だったせいか彼女は通訳が間に合わなかったようで、ぽかんとしていた。
そして、少し間を置いてから驚きの声を上げる。
「私が、貴方に数学を?」
「頼むよ!この間の試験で点が悪かったから再試なんだ」
「確か五点だった」
「バラすなよホームズ!」
レストレードは彼女の顔色をちらちらと伺っている。
彼女は明らかに困惑した様子で、ぼくに助けを求めてきた。
親友の助けを無視するわけにもいかない。とりあえず詳しい話を聞こうとぼくは話を掘り下げた。
「レストレードは数学が苦手だったけ?」
「……真面目に授業は受けているつもりだ。でも、得意じゃない」
「うん、まあそれはわからなくもない」
「でも、私だって数学は得意じゃないわ。それに教えるほど成績が良くないし」
「そこをなんとか頼む!こんなこと君にしか頼めないんだ」
数日前にもこんな光景を見た気がする。
両手を合わせて目を潤ませるレストレード。キリカは懇願する彼に同情の念を抱いているようだった。
先日、無実の罪を背負わされた件もあるからだろう。
彼女が二つ返事で頷こうとしたら、すかさずホームズが割って入ってきた。
さっきまで出窓に張り付いてたのに、いつの間にこっちまで来たんだ。
「レストレードは先生に付きっきりで教えてもらった方がいいに決まってる。その方が間違いなく成績が上がるよ。わざわざ彼女の手を煩わせないでくれないか」
「まるで彼女の保護者みたいな言い方だなホームズ。君だって成績が良くないのに!」
「君よりはマシさ」
「ちなみに、ホームズはこの間の数学の試験、何点だったの?」
「十五点」
「たいして変わらないじゃないか!」
「十点も違う」
マシというよりも、この場合どっちもどっちだ。
キリカもこれには苦笑いを浮かべ「五十歩百歩ね」と日本の諺を口にした。
二人がぎゃあぎゃあと言い合いを始めてしまったので、部屋が一気にうるさくなった。
これを見かねた彼女が二人の間に入り、言い合いを鎮めた。
「わかったわ。出来るだけ頑張ってみる。だけど、わかりにくかったらごめんなさい」
「ありがとう!君は女神のような女性だよ!」
そう言ってレストレードがキリカの両手を取って、ぶんぶんと上下に振っていた。
ぼくがちらりとホームズの方を窺うと思った通りだ。気に入らないといった表情で腕を組み、顔を背けた。
こうして数学の出来が悪いレストレードとついでにホームズにも数学を教えることになった。ぼくたち二人で。
ぼくはそこまで成績が悪くないと自分で思っているし、彼女がわからない所をサポートするつもりだ。
古めかしい木材のテーブルを引き寄せて、ソファに二人が肩を並べる。そこに勉強道具を広げた。
再試験には似たような問題が出やすいと彼女は言った。ぼくもその意見に賛成だ。
まずはそれぞれ答案用紙を出させて、間違っている問題の説明を始めることにしたようだ。
とは言え、五点、十五点の答案だと説明する箇所が幾つもある。
「ええと……そうね、まずは二人とも間違ってる箇所をやりましょう」
「それなら二問目からだ」
「これは、公式にあてはめれば解けるわ。覚えている?」
「ええと」
キリカの問いかけにレストレードは頭を悩ませていた。
一方ホームズは羊皮紙の隅に羽ペンで公式をすらすらと書いて見せた。
その公式を見てキリカはにこりと微笑む。
「正解。二人ともこの式にあてはめてみて」
二人は彼女の言うとおりに問題を羊皮紙に解いていく。
ホームズは瞬く間に。レストレードは公式と問題を何度も見比べながら。
ホームズは学習態度は悪いけど、数学は得意そうな気もした。論理的な思考の持ち主だし。これって数式を解くのにも必要だ。
「どう?」
「問題ない。念の為に答え合わせを」
「……大丈夫、あってるわ。レストレードは?」
「ああ、解けたよ。答えもばっちりだ。今思えばどうしてこんなに簡単な問題が解けなかったのか。あの時の自分に問いただしたいよ」
「キリカ。この問題がわからないんだけど」
レストレードが話をする間、ホームズは既に次の問題を解き始めているようだった。
一応ぼくも数学の教科書を片手に待機している。でもしばらくぼくの出番は無さそうな気もした。
ホームズがレストレード側に立っていたキリカを呼びつけて、問題を指で示す。彼女は反対側の方へ回りこんで、彼の手元を覗き込んだ。
「ええと、これはね。……数式を書いてもいいかしら」
「どうぞ」
羽ペンを持った彼女の手が羊皮紙の隅っこに数式を綴っていく。
きれいで丁寧な文字だ。ホームズは頬杖をつきながらそれを目で追っていた。
今更だけど教わるような態度じゃない。
計算式を書き終わったキリカはホームズの方を不安そうに向いた。
「こういう計算式になるんだけど」
「なるほど。よくわかったよ。途中式があると実にわかりやすい」
「良かった。これ、口で説明するの難しいから……英語でなんて言えばいいか悩む所だったわ」
「ダメだ。オレにはさっぱりわからない」
レストレードはぐいぐいっと押し入るように覗き込んできた。
彼も同じ場所を間違っていたみたいで、頭を悩ませていたようだ。いや、むしろ答案用紙のそこは空欄だった。そもそも解く気がなかった。
そんな彼にホームズの突き刺さるような鋭い視線が向けられる。
「これを見れば一目瞭然じゃないか」
「君と同じような頭の作りをしていないよ」
「それは失礼」
開始早々険悪な雰囲気を醸し出していた。
主にレストレードに対するホームズの言い方に棘がある。もしやまだロイロット先生に告げ口されたのを根に持っているんだろうか。
あれに関してはぼくもカンカンに怒ったけど。それはその時だけだ。それに比べてホームズって結構根に持ちやすいタイプのようだ。意外と神経質。
彼女の教え方は上手だった。側で聞いているぼくにもわかりやすく入ってくる。
先生に向いてるんじゃないか、ってレストレードと二人でからかうと謙遜なのか頭を何度も左右に振った。
本当にそう思ったんだ。優しい教え方だし。良い教師になりそうだよ。
二人はその後も間違った、解けなかった問題に手をつけていった。
レストレードは躓いてばかりいたけど、ホームズは偶に尋ねるだけで殆どの問題を自力で解いていた。後で彼に聞いたんだけど、試験中は気が向いた時にしか解答を書かないそうだ。せっかく良い点数が取れるのに勿体ない。
レストレードは一問一問解く時間が長い。
じっくりと考えて解くタイプなのかもしれないな。だから時間がなくなって後半の問題は殆ど手つかず、というのも考えられる。
なんにせよ、ぼくの出番はもうしばらくなさそうだった。ちょっと手持無沙汰だ。
それなら明日の予習をしていた方が時間を有効に使えそうだと思い、ぼくは膝の上に教科書とノートを広げた。
彼らのやりとりを後ろ手に聞きながら、教科書に目を通す。これは中々難しそうだ。
何度か例題文章を読み、もう一度チャレンジする。その問題に夢中になっていたせいで、会話の流れはわからなかったけど、彼らが揉めていると気づいたのはレストレードの一際大きな声からだった。
「君だって成績が悪いじゃないか!」
「ぼくは学習態度が悪いから当然の結果だ。君は真面目に受けているにも関わらず試験の点が悪い。救いようがないじゃないか」
君が威張って言えるようなことじゃない。ぼくはどれだけそう言いたかったか。
ぼくの気づかないうちに二人はまた言い合いを始めていたようだ。
彼女はどうしていいかわからずにおろおろしている。二人を交互に見てる顔はものすごく困っていた。
二人の言い合いはエスカレートしていくばかり。
それもかなりの早口で、彼女には聞き取るのが難しいようだった。
「ジョン、二人はなんて言ってるの。あまり良い言葉じゃないのはわかるんだけれど」
「ああ、わからない方がいっそいいよ。まったく……ホームズが大人しく勉強しているの見た試しがないな」
本当に困った争いだ。
次第には別の教科の成績の話や天動説や地動説、哲学者の話を持ち出している。
いい加減にしろとぼくが怒鳴りつけても聞く耳持たず。キリカも二人を宥めようとしたけど、既にヒートアップしてる二人には届きそうもなかった。
彼女は泣きそうな顔でぼくに声をかけてくる。
「ジョン、私……」
「ああ、泣かないで。君はこれっぽっちも悪くないんだから。二人とも気が立ってるだけさ」
「うん」
キリカがくるりと背を向けた。制服の袖で目元を拭うような仕草が後姿からでもわかる。
話を聞いてくれない上に口論を始めるんだ。そりゃ泣きたくもなる。心から彼女に同情するよ。
騒々しかったこの部屋が急に静けさに包まれた。どちらが先に言い返すのを止めたのかはわからないけど、二人とも重々しい表情をしている。
この異変に気付いた彼女がまたこちらを振り返った。
ホームズが口を尖らせたままこう言った。
「……これ以上はよそう、レストレード。時間を無駄に過ごすだけだ」
「それにはオレも同じ意見だよホームズ。オレたちがこんな事してたら折角教えてくれてる彼女に失礼だ。ワトソンにもね」
意外や意外。熱くなりすぎていたというのに、急に二人は冷静さを取り戻した。
まるで氷水を頭から被ったみたいにだ。とは言え、二人ともひどい顔をしているけど。
仕方なく、というふて腐れた表情なのは否めない。
気持ちを改めてくれた二人にキリカはまだ目元に溜まっていた涙を払い、微笑んでいた。
やれやれ。ようやく落ち着いて勉強できる環境になりそうだった。
*
「あの時はどうなるかと思ったけど、二人とも再試で良い点が取れたみたいで良かったよ」
「二人で家庭教師した甲斐があったわね。」
「ホームズが高得点を取った時の先生の顔、面白かったなあ」
数学の再試験が行われた日。試験終了後に先生がすぐに採点をした。
彼ら以外にも再試の生徒はいたけれど、特に二人の好成績に驚きを隠せないようだった。
目を真ん丸に見開いていて、何度も自分の丸つけ間違いではないかと見直していた。
その一部始終を教室の外から伺っていた私たちはお互いに笑いあった。
ただ、シャーロックだけカンニングを疑われていたのがちょっと残念。
「だから嫌なんだ。試験でどんな点を取ってもどっちにしろ怒られる」
「あの後、私たちが二人の勉強を見てあげたんです、って言ったら先生納得してくれたから、良かったわ」
これからも二人を見てやってくれないか、なんて頼まれてしまったけど。
シャーロックが出窓から外を見たまま両手を広げて肩をすくめてみせた。
と、思ったらじっと一点を見つめる。誰か気になる人でもいたのかもしれない。
ジョンは壁新聞を一生懸命書いていた。
この間の生徒失踪事件の記事が完成したみたい。もちろん、名前は匿名。
嬉々とした表情で「できたっ!」と壁新聞を両手で持ち上げた。
「早速ストランドに見せてくるよ」
そう言って壁新聞をくるくると丸めて肩に担ぎ、足取り軽く部屋を出て行った。
内容はさっき書いてる途中に覗き見したから大体わかっている。でも、あとで貼り出されたらまた見に行こうと思っていた。
見上げながら全体を読むとまた違った見え方がするから。
シャーロックは相変わらず外を眺めていた。
さっきの気になる生徒はどこかへ行ってしまったみたい。
ぼんやりとした、どこかつまらなさそうな目をしている。
私は真紅のソファに座って本を開いた。ここが私の一番のお気に入りの場所。
彼がぼんやりとしている時も、実験に夢中になっている時も落ち着けるのがこの場所。
会話を交わさなくても、誰かがそこにいるというだけで安心できる。
それぞれがやりたいことをして過ごす放課後。この時間が私は好き。
ひとりぼっちで留守番している時はさすがに寂しいけれど。
本の頁をめくった後、何気なく彼の方を見ると緑のピロピロ笛を吹き戻していた。
物語の世界に入り込んでからどれだけの時間が経っただろう。
周りの音も気に留めないぐらい夢中になっていた。シャーロックが隣に座らなければ現実に戻ってこなかったかも。
急にソファの座面が沈んだから、私は顔をあげて横を向いた。彼が物言わずに座っている。
そして私に細長い長方形の厚紙の箱を差し出した。
「キリカ。これを、開けてみてくれないか」
彼が手渡してきたものは軽かった。一体何が入っているのかしら。
大きさ的には羽ペンが入っていそうだけど。
私は慎重に上箱を開けた。中身は薄い化粧紙が包まれている。それをそっとめくると、青い硝子のループタイが姿を現した。
丁寧に織り込まれた黒い丸紐。硝子は深い青で、所々きらきらと輝いている。朝日を受けた水面のようにも思えるし、無数に煌く星空のようにも見えた。
光に透かしたらもっと綺麗に輝きそうだった。
こんなきれいな硝子見たことがない。
私は随分と見惚れてしまっていたせいか、彼が目を細めて笑っていた。
「ぼくが前に使ってたやつなんだ。殆ど使わなかったけど。今はこのスカーフの方が気に入っている。だから、君が貰ってくれないか」
良ければだけど、と彼は控えめな言葉を付け加えた。
「嬉しいけど、こんな高価なもの、頂けないわ」
「いいんだ。ぼくにはもう無用の物だ。君が気に入ってくれたならその方がいい」
「……本当にいいの?」
「もちろん。それに、今回のことで迷惑をかけたからね」
「別に気にしなくてもいいのに」
シャーロックは肩をすくめて、首を横に振った。
「これでも反省しているんだ。ごめん」
「私は最初から怒ってないわ。二人が再試験頑張ってくれただけで充分よ」
凛とした彼の横顔は高い鼻筋を強調している。
口をへの字に曲げて、むず痒そうに目を伏せたり泳がせていた。
人と目を合わせて話すことが少ない彼だけど、気持ちはちゃんと伝わってくるのが不思議。
私はループタイを箱から取り出して、光に透かした。
それは海の底に届いた光のようにきらきらと輝いた。
「ありがとう、大切にするわね」