S・H人形劇
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寝不足の理由
ここ数日、彼女の様子がおかしかった。
やけに眠そうにしていて、いつも欠伸をしていた。
単に寝不足なのかな、と思っていた時もあった。
でもそれが一週間以上も続くと、さすがに心配になってくる。
普段は真面目に受けている授業だって、舟を漕ぎそうになることが多くなった。
ぼくの隣の席で堂々と居眠りしているホームズはいつものことだけど。
起きていてもどこか心あらず。
「だから、一度彼女に聞いてみたんだ。最近眠れないんじゃないかって。何か悩みでもあるんじゃないって」
「彼女は『別に何もないわ。心配してくれてありがとうジョン』と答えた」
「……当たり。どうしてわかったんだい」
ホームズは自分の椅子に腰掛けて本を読んでいた。
表紙には見慣れない鳥の絵が描いてある。後ろから中を覗き込むと、たくさんの鳥の絵が載っていた。
どうやら野鳥の図鑑のようだ。でも、英語じゃなくてこれは日本語で書かれている。
「これ、どうしたの?」
「キリカに借りたんだ。日本に生息している鳥が詳しく載ってるよ」
「ホームズ、日本語が読めるんだ」
「少しはね。わからない所は彼女に聞いてる」
絵をよく見るとぼくらが見かける鳥とは微妙に違っている。尾羽の長さや顔のあたりの模様だとかが。
ホームズは小説が嫌いだけど、こういう図鑑や辞典の類は好んで読む。
彼の長い指が図鑑の次のページを捲った。白と黒の羽で、尾羽が長い鳥が描かれている。
「悩み事があるならもっと暗い顔をしているはずだよ」
「君は彼女が心配じゃないのかい?」
ぼくがそう言うと、図鑑から顔を上げたホームズが前を向いたまま喋った。ぼくの方を見ない。
「聞いたさ。最近寝つきが悪いんじゃないか、って。そうしたら彼女は、英語の勉強をしている、って答えたよ」
「勉強熱心だなあ……でも、休む時はちゃんと休まないと。頭を使いすぎても熱は出るもんだし」
「君からも言ってあげるといい」
それだけ言うと、また図鑑に目を落とした。
なんだかいつもと比べて素っ気無いような気もする。
本に没頭している時は話しかけても反応がないか、上の空で答えてくる。
それでもだ。彼女の話題には割と食いついてくるほうだったんだけど。
もうだいぶ夜も更けた。程よい睡魔がぼくに欠伸を促してくる。
すでに寝巻きに着替えているから、あとは温かい布団に包まれるだけで心地よい眠りに入れそうだ。
「ぼくはそろそろ寝るよ。君もあんまり夜更かししない方がいい。授業中寝ないようにね」
「おやすみ」
素っ気無い一言が返ってきた。
ぼくの話なんて聞いちゃいないんだ。いつものことだけど。
*
木曜日の授業が終わった放課後のことだった。
ぼくは自室で読書に耽っていた。自分の机周りを片付けた後に、図書館で借りてきた本を広げた。
物語に入り込み始めた頃、現実でドアをノックする音が聞こえた。半ば上の空で「どうぞ」と答えたぼくはキリのいい所で振り向いた。
「こんにちは」
「やあ、キリカ」
大きな紙袋を抱えたキリカがお客さんだった。
ぼくは読みかけの本に栞を挟んで、改めて椅子ごと彼女の方に向く。
キリカは部屋の中を見渡しながら歩み寄り、ぼくを見た。
「シャーロックはいないのね」
「今出かけているんだ。急に何か思い立って出て行ったよ」
「何かわかったのかしら」
「たぶんね。それ、なんだい?」
彼はついさっきまで依頼人の事件を考えていたようだった。
大事な日記をアーチャー寮の生徒に取られてしまい、それをどこかに隠されてしまったという依頼だ。
なんのことはない、ホームズに言わせれば退屈な部類に入ると思っていた。
でも、依頼人の話を聞いているうちに彼の金色の瞳がきらりと輝いて、ぼくにはわからない奇妙さを見出していたようだった。
そのことはキリカは知らないはず。ここへ来る途中、ホームズに会って話を聞いていれば別だけど。
話のあらすじを聞いていなくても、ホームズの行動は既に彼女も理解しているのだ。
キリカは抱えている紙袋に一度目を落とし、首を振りながら笑みを浮かべた。
まるで悪戯を企てている無邪気なこどものような顔に見えた。
「内緒。シャーロックが帰ってきたら教えるわ」
どうやら中身を知るにはホームズとぼくらの三人が揃わないと許されないようだ。
お預けをされると余計に興味が沸いてきてしまう。早くホームズが帰ってこないかな。
なにせ「そうか!だからあの場所に隠したんだ!」と大きな独り言を呟いて部屋を飛び出していった。
ぼくが声をかける暇もなかったから、何をしに何処へ行ったのかもわからずじまい。
でも、きっと事件が解決したんだろうから、すぐに戻ってくると思う。
「じゃあ、彼が帰ってくるまで気長に待つことにするよ。君もゆっくりしていって」
「ええ、そうするわ」
キリカはやっぱり眠たそうに見えた。でも、彼女は今まで「眠たい」なんて一言も洩らさない。
今ここでぼくが尋ねてもやっぱり「なんでもない」と返されそうだ。
ここは敢えて聞かずにいた方が良いのかもしれない。
ソファに腰掛けた彼女はテーブルに紙袋を横にして置いた。
紙袋の口はしっかりと折り曲げられている。中身は覗けそうにもない。
それから彼女は持参した分厚い表紙の本を開いた。あの表紙には見覚えがある。あれはぼくがオススメした本だ。
ぼくがこうして観察している事にも気づかず、本を読み進めていく。その合間合間に欠伸を挟んで。
*
「まったく君の言うとおりだった。彼はあの部屋に日記を隠していたんだ」
「自分の恥ずかしいことも書かれていたから、誰かに見られるのが嫌だったんだ。だから、」
歩きながら部屋に入ったホームズは急に立ち止まった。その背中に顔をぶつけそうになる。
さっきまで続けていたお喋りもぴたりと止んだので、ぼくは彼の背中から部屋を覗き込む。
地面に積み上げられた本に囲まれたソファ。さっきまでそこで本を読んでいた彼女が、ソファの隅で丸くなって寝ていた。
その姿はまるで猫みたいだ。やっぱり眠たくて寝ちゃったんだ。
それにこの部屋には大きな窓から西日が差し込んでいる。とても暖かくて、まどろむのも無理はない。
ホームズがこちらを見て、不満そうに呟いた。
「彼女が来てるとどうして言ってくれなかったんだ」
「言ったよ。部屋で君が戻ってくるのを待ってるって。君はそれも聞こえないぐらい事件に夢中になっていたみたいだけどね」
確かにぼくは彼にそう教えた。
少し前のことだ。ホームズの帰りが遅いので、ぼくは彼を探しに行ったんだ。
彼を二階校舎で見つけたはいいけど、ぼくを見るなり「ワトソン!いい所に来てくれた」と今の今まで連れ回されていた。
おかげで彼のお気に入り奇妙な事件が解決したのは喜ばしいことだ。でも、彼女を一人部屋に残してきてしまった。
待ちくたびれてもう帰ってしまったかもしれない。そう思っていた。
「どうする?起こすかい」
「いや、止めておこう。睡眠不足なんだ、このまま寝かせておくべきだ」
「でも」
テーブルの上にある紙袋にちらと目線を送った。彼女が置いたままの形だ。
ホームズがもう一度首を横に振った。それがなんであるのか、中身をもう知っているかのような口振りだった。
「彼女自身の口から真相を聞いた方がいいに決まってる。だから彼女が起きるまで待つべきだよ」
「そうだね」
紙袋の中身が気になるけど、ぼくたちが勝手に見ちゃいけないものだ。
キリカは静かに寝息を立てて寝ている。肩から垂れた髪が光に透かされて、栗色に輝いていた。
ロフトの寝室スペースからホームズがブランケットを持ってきて彼女にかけた。
ソファの反対側にホームズが腰掛けて、この前見ていた野鳥の図鑑を開いた。
寝ている人がいるから、お喋りをするわけにもいかない。ぼくも自分の机に向かって、さっきの事件の詳細を日記帳に綴ることにした。
今回の事件に関わった人たちの人物像を記録していた。
あの細長い顔でひょろっとした体型の男子生徒の癖は、と羽ペンが休むことなく動く。
一通り纏め終わった後、ぼくは椅子の背に仰け反った。木の軋む古い音が静かな部屋に響く。
ふと、なんとなくソファの方を振り向いた。ホームズの横顔が目に留まる。
彼は優しげな眼差しでキリカを見ていた。けど、ぼくの視線に気がつくとすぐに手元の本に目を落とした。
ぼくは何も見なかったふりをすることにして、机に向き直った。
たっぷり一時間くらいは経っただろうか。
日は暮れる寸前で、眩しいオレンジ色の光が空いっぱいに広がっていた。
日記帳に今回の事件の内容を纏め終えたので表紙を閉じた。
ちょうどその時、ソファの方で動きがあった。
キリカが眠そうに目をこすりながら体を起こす。肩からブランケットがずり落ちた。
しばらくぼーっとしていて、ホームズに声をかけられるまでそのままだった。
「おはよう。よく眠れたようだね」
「……おはよう、シャーロック。おかえりなさい……あれ、わたし」
「一時間ほど寝ていたよ。そろそろ灯りを点ける時間だ」
ホームズの机のランプに火が灯った。
薄暗かった部屋に暖かいオレンジ色の光が揺れる。
ぼくも自分のランプを灯した。二つ分の火が揺らめき、ぼくらの影を作った。
キリカはぱっと目を開ける。よほど慌てているのか、彼女の口から日本語と英語が両方出ていた。
「ご、ゴメンナサイ。寝るつもりはなかったんだけど」
「君がゆっくり睡眠を取れたならそれでいい。ぼくらは気にしてない」
「うん。君が寝不足で倒れてしまうよりよっぽどいいよ」
「……ありがとう、二人とも。そう、私これを二人に渡しに来たのよ」
キリカの手が紙袋に伸びた。がさがさと紙が擦れる音。
いよいよ紙袋の中身が明かされる時がきた。
一体何が入っているんだろう。ぼくの胸はなぜかどきどきしていた。
そんなぼくとは違って、ホームズの表情は一変しない。
紙袋から姿を現したのは、ふわふわのマフラーだった。
暗めの赤と黒の毛糸で編まれた縦縞模様のマフラー。それを隣にいるシャーロックに手渡した。
「これはシャーロックに。こっちはジョンに」
もう一つのマフラーは落ち着いたオレンジ色の毛糸で編まれていた。
元気が出そうな温かい色。ぼくは見ただけでそのマフラーが気に入った。
「ありがとう!……もしかして、これを編む為に」
「毎日眠そうにしてたでしょ、私。こっそり編むには寝る前の時間しかなかったの」
「ああ……嬉しいよ。本当にありがとう」
感動のあまり、ぼくは言葉がうまく出てこなかった。
毎晩これを編んでいたから寝不足だったなんて。夢にも思わなかった。
ホームズは自分の首にぐるぐるとマフラーを巻きつけた。機嫌が良さそうで、笑みを浮かべている。
彼のマフラーの先端に白い糸でイニシャルのS・Hが刺繍されていた。
ぼくのにも黒いイニシャルの刺繍があった。
マフラーを編むだけでも特技に思えるのに、刺繍まで施されてる。彼女はとても器用だ。
「気に入ってもらえて良かった。ほら、二人にはとてもお世話になってるから……なにか恩返しがしたくて」
「すごく気に入ったよ。この色もセンスがいい」
存外、ホームズは嬉しそうだった。
「あ、そうだわ……私、この後ハドソン夫人と約束しているの。そろそろ行かなきゃ」
「わかった。じゃあ、また夕食の時に」
「ええ」
キリカは空になった紙袋と本を持ってぼくらの部屋から出て行った。
都合がいいことに、これでホームズに今回の件を詳しく聞く事ができそうだ。
「それで、君は最初から知ってたんだろ?」
「なにを?」
「とぼけないでくれよ。彼女の寝不足の理由も、あの紙袋の中身も君は最初から知っていた。そうだろ?」
ぼくがそう問いただすとホームズは微笑を携えたまま「その通り」と言わんばかりに頷いてみせた。
仮説が正しければ、今までの彼の言動にも辻褄があってくるんだ。
それを確かめる為にさらにぼくは話を続けた。
「ああ、ぼくは知っていたよ。別に本人から聞いたわけじゃない。結構期間があったし、さすがに君も気づいてると思ってた」
「あいにく、君みたいに頭が働かないんだ。よければどうしてわかったのか教えてくれないか」
彼はソファに背をもたれて、空を見つめながら経緯を話し始めた。
ぼくにもわかりやすいようにと要約してくれているのか、少し間が空く。
「まず、彼女の制服に毛糸の繊維が付着していることがよくあった。それは日によって赤、黒、オレンジと様々だ。つまり、制服のままで定期的に毛糸に触れていた。女性はこの寒い時期、毛糸で編み物をすることが多い。ハドソン夫人が前にそうしていたのを見たことがある」
「……見事な推理だよ。たった細い毛糸の繊維からそこまでわかるなんて。でも、同室の女子には編んでることがばれるんじゃない?」
「女性は秘密をつい口にしてしまうこともあるが、頑なに口を閉ざすこともある。今回は後者のパターンだった」
「なるほど。同室の子は口が堅かったんだね」
キリカが編み物をしている、なんていう話を道理で聞かないはずだ。
「朝はいつもの時間に起きて、昼間は授業を受けていた。そして放課後はぼくらの部屋に遊びに来る。彼女の行動パターンは以前とほぼ変わらなかった。となると、編み物をする時間を確保できるのは夜しかない。だから寝不足になっていたんだ」
「それを知っていた上でずっと黙ってたのか。君も人が悪いよ」
きっとキリカはバレないように必死だったと思う。
ぼくは気づくことがなかったけど、ホームズにはバレバレだった訳だ。
見事な観察眼と推理力で見抜かれていた。彼には隠し事ができそうにもないな。
それにしても真実を知っていながら普段通り変わらない態度を取るなんてぼくには無理だろう。
ただ、今回ばかりは僅かにホームズの態度が変だったことにぼくは気づいていたんだ。
「ぼくは手編みのマフラーが誰の手に渡るのか、純粋に見届けてみたかった。それだけ」
「それがぼくたちだったから、君はほっとしている。そうだね?」
どうやら図星のようだ。
反論の声もなく、ただぼくの視線から逃れるようにそっぽを向いてしまった。
彼はマフラーに顔をうずめて隠しているつもりだけど、耳が赤いよホームズ。
素直に「そうだよ」って言えばいいだけなのに。
今年の冬は急に寒い地方に来たから、どうしようかと思っていたんだ。
彼女のおかげで久しぶりのイギリスの冬を温かく過ごすことができそうだよ。
ここ数日、彼女の様子がおかしかった。
やけに眠そうにしていて、いつも欠伸をしていた。
単に寝不足なのかな、と思っていた時もあった。
でもそれが一週間以上も続くと、さすがに心配になってくる。
普段は真面目に受けている授業だって、舟を漕ぎそうになることが多くなった。
ぼくの隣の席で堂々と居眠りしているホームズはいつものことだけど。
起きていてもどこか心あらず。
「だから、一度彼女に聞いてみたんだ。最近眠れないんじゃないかって。何か悩みでもあるんじゃないって」
「彼女は『別に何もないわ。心配してくれてありがとうジョン』と答えた」
「……当たり。どうしてわかったんだい」
ホームズは自分の椅子に腰掛けて本を読んでいた。
表紙には見慣れない鳥の絵が描いてある。後ろから中を覗き込むと、たくさんの鳥の絵が載っていた。
どうやら野鳥の図鑑のようだ。でも、英語じゃなくてこれは日本語で書かれている。
「これ、どうしたの?」
「キリカに借りたんだ。日本に生息している鳥が詳しく載ってるよ」
「ホームズ、日本語が読めるんだ」
「少しはね。わからない所は彼女に聞いてる」
絵をよく見るとぼくらが見かける鳥とは微妙に違っている。尾羽の長さや顔のあたりの模様だとかが。
ホームズは小説が嫌いだけど、こういう図鑑や辞典の類は好んで読む。
彼の長い指が図鑑の次のページを捲った。白と黒の羽で、尾羽が長い鳥が描かれている。
「悩み事があるならもっと暗い顔をしているはずだよ」
「君は彼女が心配じゃないのかい?」
ぼくがそう言うと、図鑑から顔を上げたホームズが前を向いたまま喋った。ぼくの方を見ない。
「聞いたさ。最近寝つきが悪いんじゃないか、って。そうしたら彼女は、英語の勉強をしている、って答えたよ」
「勉強熱心だなあ……でも、休む時はちゃんと休まないと。頭を使いすぎても熱は出るもんだし」
「君からも言ってあげるといい」
それだけ言うと、また図鑑に目を落とした。
なんだかいつもと比べて素っ気無いような気もする。
本に没頭している時は話しかけても反応がないか、上の空で答えてくる。
それでもだ。彼女の話題には割と食いついてくるほうだったんだけど。
もうだいぶ夜も更けた。程よい睡魔がぼくに欠伸を促してくる。
すでに寝巻きに着替えているから、あとは温かい布団に包まれるだけで心地よい眠りに入れそうだ。
「ぼくはそろそろ寝るよ。君もあんまり夜更かししない方がいい。授業中寝ないようにね」
「おやすみ」
素っ気無い一言が返ってきた。
ぼくの話なんて聞いちゃいないんだ。いつものことだけど。
*
木曜日の授業が終わった放課後のことだった。
ぼくは自室で読書に耽っていた。自分の机周りを片付けた後に、図書館で借りてきた本を広げた。
物語に入り込み始めた頃、現実でドアをノックする音が聞こえた。半ば上の空で「どうぞ」と答えたぼくはキリのいい所で振り向いた。
「こんにちは」
「やあ、キリカ」
大きな紙袋を抱えたキリカがお客さんだった。
ぼくは読みかけの本に栞を挟んで、改めて椅子ごと彼女の方に向く。
キリカは部屋の中を見渡しながら歩み寄り、ぼくを見た。
「シャーロックはいないのね」
「今出かけているんだ。急に何か思い立って出て行ったよ」
「何かわかったのかしら」
「たぶんね。それ、なんだい?」
彼はついさっきまで依頼人の事件を考えていたようだった。
大事な日記をアーチャー寮の生徒に取られてしまい、それをどこかに隠されてしまったという依頼だ。
なんのことはない、ホームズに言わせれば退屈な部類に入ると思っていた。
でも、依頼人の話を聞いているうちに彼の金色の瞳がきらりと輝いて、ぼくにはわからない奇妙さを見出していたようだった。
そのことはキリカは知らないはず。ここへ来る途中、ホームズに会って話を聞いていれば別だけど。
話のあらすじを聞いていなくても、ホームズの行動は既に彼女も理解しているのだ。
キリカは抱えている紙袋に一度目を落とし、首を振りながら笑みを浮かべた。
まるで悪戯を企てている無邪気なこどものような顔に見えた。
「内緒。シャーロックが帰ってきたら教えるわ」
どうやら中身を知るにはホームズとぼくらの三人が揃わないと許されないようだ。
お預けをされると余計に興味が沸いてきてしまう。早くホームズが帰ってこないかな。
なにせ「そうか!だからあの場所に隠したんだ!」と大きな独り言を呟いて部屋を飛び出していった。
ぼくが声をかける暇もなかったから、何をしに何処へ行ったのかもわからずじまい。
でも、きっと事件が解決したんだろうから、すぐに戻ってくると思う。
「じゃあ、彼が帰ってくるまで気長に待つことにするよ。君もゆっくりしていって」
「ええ、そうするわ」
キリカはやっぱり眠たそうに見えた。でも、彼女は今まで「眠たい」なんて一言も洩らさない。
今ここでぼくが尋ねてもやっぱり「なんでもない」と返されそうだ。
ここは敢えて聞かずにいた方が良いのかもしれない。
ソファに腰掛けた彼女はテーブルに紙袋を横にして置いた。
紙袋の口はしっかりと折り曲げられている。中身は覗けそうにもない。
それから彼女は持参した分厚い表紙の本を開いた。あの表紙には見覚えがある。あれはぼくがオススメした本だ。
ぼくがこうして観察している事にも気づかず、本を読み進めていく。その合間合間に欠伸を挟んで。
*
「まったく君の言うとおりだった。彼はあの部屋に日記を隠していたんだ」
「自分の恥ずかしいことも書かれていたから、誰かに見られるのが嫌だったんだ。だから、」
歩きながら部屋に入ったホームズは急に立ち止まった。その背中に顔をぶつけそうになる。
さっきまで続けていたお喋りもぴたりと止んだので、ぼくは彼の背中から部屋を覗き込む。
地面に積み上げられた本に囲まれたソファ。さっきまでそこで本を読んでいた彼女が、ソファの隅で丸くなって寝ていた。
その姿はまるで猫みたいだ。やっぱり眠たくて寝ちゃったんだ。
それにこの部屋には大きな窓から西日が差し込んでいる。とても暖かくて、まどろむのも無理はない。
ホームズがこちらを見て、不満そうに呟いた。
「彼女が来てるとどうして言ってくれなかったんだ」
「言ったよ。部屋で君が戻ってくるのを待ってるって。君はそれも聞こえないぐらい事件に夢中になっていたみたいだけどね」
確かにぼくは彼にそう教えた。
少し前のことだ。ホームズの帰りが遅いので、ぼくは彼を探しに行ったんだ。
彼を二階校舎で見つけたはいいけど、ぼくを見るなり「ワトソン!いい所に来てくれた」と今の今まで連れ回されていた。
おかげで彼のお気に入り奇妙な事件が解決したのは喜ばしいことだ。でも、彼女を一人部屋に残してきてしまった。
待ちくたびれてもう帰ってしまったかもしれない。そう思っていた。
「どうする?起こすかい」
「いや、止めておこう。睡眠不足なんだ、このまま寝かせておくべきだ」
「でも」
テーブルの上にある紙袋にちらと目線を送った。彼女が置いたままの形だ。
ホームズがもう一度首を横に振った。それがなんであるのか、中身をもう知っているかのような口振りだった。
「彼女自身の口から真相を聞いた方がいいに決まってる。だから彼女が起きるまで待つべきだよ」
「そうだね」
紙袋の中身が気になるけど、ぼくたちが勝手に見ちゃいけないものだ。
キリカは静かに寝息を立てて寝ている。肩から垂れた髪が光に透かされて、栗色に輝いていた。
ロフトの寝室スペースからホームズがブランケットを持ってきて彼女にかけた。
ソファの反対側にホームズが腰掛けて、この前見ていた野鳥の図鑑を開いた。
寝ている人がいるから、お喋りをするわけにもいかない。ぼくも自分の机に向かって、さっきの事件の詳細を日記帳に綴ることにした。
今回の事件に関わった人たちの人物像を記録していた。
あの細長い顔でひょろっとした体型の男子生徒の癖は、と羽ペンが休むことなく動く。
一通り纏め終わった後、ぼくは椅子の背に仰け反った。木の軋む古い音が静かな部屋に響く。
ふと、なんとなくソファの方を振り向いた。ホームズの横顔が目に留まる。
彼は優しげな眼差しでキリカを見ていた。けど、ぼくの視線に気がつくとすぐに手元の本に目を落とした。
ぼくは何も見なかったふりをすることにして、机に向き直った。
たっぷり一時間くらいは経っただろうか。
日は暮れる寸前で、眩しいオレンジ色の光が空いっぱいに広がっていた。
日記帳に今回の事件の内容を纏め終えたので表紙を閉じた。
ちょうどその時、ソファの方で動きがあった。
キリカが眠そうに目をこすりながら体を起こす。肩からブランケットがずり落ちた。
しばらくぼーっとしていて、ホームズに声をかけられるまでそのままだった。
「おはよう。よく眠れたようだね」
「……おはよう、シャーロック。おかえりなさい……あれ、わたし」
「一時間ほど寝ていたよ。そろそろ灯りを点ける時間だ」
ホームズの机のランプに火が灯った。
薄暗かった部屋に暖かいオレンジ色の光が揺れる。
ぼくも自分のランプを灯した。二つ分の火が揺らめき、ぼくらの影を作った。
キリカはぱっと目を開ける。よほど慌てているのか、彼女の口から日本語と英語が両方出ていた。
「ご、ゴメンナサイ。寝るつもりはなかったんだけど」
「君がゆっくり睡眠を取れたならそれでいい。ぼくらは気にしてない」
「うん。君が寝不足で倒れてしまうよりよっぽどいいよ」
「……ありがとう、二人とも。そう、私これを二人に渡しに来たのよ」
キリカの手が紙袋に伸びた。がさがさと紙が擦れる音。
いよいよ紙袋の中身が明かされる時がきた。
一体何が入っているんだろう。ぼくの胸はなぜかどきどきしていた。
そんなぼくとは違って、ホームズの表情は一変しない。
紙袋から姿を現したのは、ふわふわのマフラーだった。
暗めの赤と黒の毛糸で編まれた縦縞模様のマフラー。それを隣にいるシャーロックに手渡した。
「これはシャーロックに。こっちはジョンに」
もう一つのマフラーは落ち着いたオレンジ色の毛糸で編まれていた。
元気が出そうな温かい色。ぼくは見ただけでそのマフラーが気に入った。
「ありがとう!……もしかして、これを編む為に」
「毎日眠そうにしてたでしょ、私。こっそり編むには寝る前の時間しかなかったの」
「ああ……嬉しいよ。本当にありがとう」
感動のあまり、ぼくは言葉がうまく出てこなかった。
毎晩これを編んでいたから寝不足だったなんて。夢にも思わなかった。
ホームズは自分の首にぐるぐるとマフラーを巻きつけた。機嫌が良さそうで、笑みを浮かべている。
彼のマフラーの先端に白い糸でイニシャルのS・Hが刺繍されていた。
ぼくのにも黒いイニシャルの刺繍があった。
マフラーを編むだけでも特技に思えるのに、刺繍まで施されてる。彼女はとても器用だ。
「気に入ってもらえて良かった。ほら、二人にはとてもお世話になってるから……なにか恩返しがしたくて」
「すごく気に入ったよ。この色もセンスがいい」
存外、ホームズは嬉しそうだった。
「あ、そうだわ……私、この後ハドソン夫人と約束しているの。そろそろ行かなきゃ」
「わかった。じゃあ、また夕食の時に」
「ええ」
キリカは空になった紙袋と本を持ってぼくらの部屋から出て行った。
都合がいいことに、これでホームズに今回の件を詳しく聞く事ができそうだ。
「それで、君は最初から知ってたんだろ?」
「なにを?」
「とぼけないでくれよ。彼女の寝不足の理由も、あの紙袋の中身も君は最初から知っていた。そうだろ?」
ぼくがそう問いただすとホームズは微笑を携えたまま「その通り」と言わんばかりに頷いてみせた。
仮説が正しければ、今までの彼の言動にも辻褄があってくるんだ。
それを確かめる為にさらにぼくは話を続けた。
「ああ、ぼくは知っていたよ。別に本人から聞いたわけじゃない。結構期間があったし、さすがに君も気づいてると思ってた」
「あいにく、君みたいに頭が働かないんだ。よければどうしてわかったのか教えてくれないか」
彼はソファに背をもたれて、空を見つめながら経緯を話し始めた。
ぼくにもわかりやすいようにと要約してくれているのか、少し間が空く。
「まず、彼女の制服に毛糸の繊維が付着していることがよくあった。それは日によって赤、黒、オレンジと様々だ。つまり、制服のままで定期的に毛糸に触れていた。女性はこの寒い時期、毛糸で編み物をすることが多い。ハドソン夫人が前にそうしていたのを見たことがある」
「……見事な推理だよ。たった細い毛糸の繊維からそこまでわかるなんて。でも、同室の女子には編んでることがばれるんじゃない?」
「女性は秘密をつい口にしてしまうこともあるが、頑なに口を閉ざすこともある。今回は後者のパターンだった」
「なるほど。同室の子は口が堅かったんだね」
キリカが編み物をしている、なんていう話を道理で聞かないはずだ。
「朝はいつもの時間に起きて、昼間は授業を受けていた。そして放課後はぼくらの部屋に遊びに来る。彼女の行動パターンは以前とほぼ変わらなかった。となると、編み物をする時間を確保できるのは夜しかない。だから寝不足になっていたんだ」
「それを知っていた上でずっと黙ってたのか。君も人が悪いよ」
きっとキリカはバレないように必死だったと思う。
ぼくは気づくことがなかったけど、ホームズにはバレバレだった訳だ。
見事な観察眼と推理力で見抜かれていた。彼には隠し事ができそうにもないな。
それにしても真実を知っていながら普段通り変わらない態度を取るなんてぼくには無理だろう。
ただ、今回ばかりは僅かにホームズの態度が変だったことにぼくは気づいていたんだ。
「ぼくは手編みのマフラーが誰の手に渡るのか、純粋に見届けてみたかった。それだけ」
「それがぼくたちだったから、君はほっとしている。そうだね?」
どうやら図星のようだ。
反論の声もなく、ただぼくの視線から逃れるようにそっぽを向いてしまった。
彼はマフラーに顔をうずめて隠しているつもりだけど、耳が赤いよホームズ。
素直に「そうだよ」って言えばいいだけなのに。
今年の冬は急に寒い地方に来たから、どうしようかと思っていたんだ。
彼女のおかげで久しぶりのイギリスの冬を温かく過ごすことができそうだよ。