鋼の錬金術師
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等価交換
キリカの頭はずきずきと痛んでいた。
激しい頭痛に眩暈と吐き気すら覚えている。
その痛みが続く間、目を開けることすらできなかった。
こめかみの血管がどくどくと脈打つ。
今にも皮膚を破って血管が飛び出すのではないか、そう思うぐらい脈を打っている。
だが、激しい痛みもゆっくりと落ち着いていった。
要した時間が長かったのか、短かったのかはわからない。
痛みは引いたがまだ頭がぼんやりとした感覚が残る。
キリカはゆっくりと目を開けた。
霞んでいた視界は次第に明瞭に映り、彼女の目に一つのドアが映った。
何の変哲もないドアだ。
作りは丁寧だが、見たところおかしな場所は何もない。
ドアの中央に銀色のプレートがかかっている。
『執務室』と黒い文字で書かれていた。
キリカは書類の束と厚みのある封筒を腕に抱えていることに気づいた。
服装は落ち着いた色味の青い洋服。
サイズがぴったりのこの制服は何年も着慣れたものであった。
肩には三本線と星が一つの肩章。
襟に手を触れると冷たい金属の感触。国家徽章が取り付けられている。
この軍服に身を包んだ時のことが頭をよぎった。
その出来事を思い出したのを境に、自分が置かれている現状が当たり前だと感じられた。
すんなりとそれを受け入れたのは何故か。まるで催眠術にかかっている気持ちさえしていた。
部屋の中からは話し声が聞こえる。
複数人の談笑すら聞こえるので、難い話はしていないのだろう。
キリカはドアノブへ手を伸ばしかけて止めた。ノックをするのが先だ。
右手を握り拳に変えて、二回、ドアをノックする。
話し声が止み、「入れ」という男の声が返ってきた。
ドアノブをゆっくりとキリカはひねった。
執務室の中に居た人間達はドアの方に顔を向けた。
誰が来たのかと注意を払うも、それが見知った顔だと知ればその警戒心もすぐに解かれる。
ただ一人、この部屋の主であるロイ・マスタングを除いて。
彼はキリカの姿を見るなり幽霊でも見たような目をしていた。
表情は強張り、大きく見開かれた目。
呼吸をすることさえ忘れたまま、勢いよく椅子から立ち上がった。
机についた手が大きな音を立てる。
ロイの反応に何事かと彼らの注目の的が変わった。
「なぜ、……なぜ君がここにいる!」
怒りに満ちたような声色。
いや、それよりも緊迫状態に近い声だった。
彼女がここに居るはずがない。
何年も前にこの世界から消えたはずだ。
ロイの脳裏に数年前の記憶が蘇っていた。
もう忘れかけていた彼女の記憶が波のように押し寄せてくる。
キリカはロイに怒鳴られ、面を食らっていた。
怒られるようなことは身に覚えが無い。
質問の意図はわかるようで、理解できていなかった。
睨むロイに何か答えようと考えるが、上手い言葉が出てこない。
そこへ助け舟を出すかのように金髪の若い男が沈黙をあっさりと破った。
「なーに寝ぼけてんすか、大佐」
「私は寝ぼけてなどいない」
「おいおい、そんなに葉月少佐を追い出したいのか。お前らしくないな、ロイ」
「そうですよ大佐。彼女がここを去るにはまだ少し早いです」
ロイは室内にいた彼らに苛々とした様子で答えていたが。
次々と否定する言葉が返ってきてさすがにたじろいでしまう。
自分は何もおかしいことを言っていない。
昨日まで目の前にいる女性はこの世界に存在していなかったはずだ。
しかし、周囲の部下はこぞって彼女の存在を認めている。
ここで反論を続けようとしたならば、頭がおかしいと思われるに違いない。
間違っているのは私なのだろうか。ロイはそう不安すら覚えた。
「キリカ、気にしないで。ここの所、立て続けに事件が起きているから。少し頭がおかしくなっているのよ」
「ホークアイ中尉、少し言いすぎじゃないかね」
「朝から呆けていらっしゃいますし。書類の山に手がついていない理由が他におありですか?」
「……む」
ロイの机には山積みになっている書類がある。
ホークアイの言うとおり、朝から手付かずのものだ。
その山を見るのもうんざりで脇に寄せて置いてある。
書類に手が付かない理由はちゃんとある。
国家錬金術師殺しの件や治安維持、その他諸々の報告や指示で忙しかったのだ。
しかし、それを訴えてみても彼女に効果はない。
鋭い目で「仕事してください」と切り捨てられる。
ロイは昂ぶっていた感情を落ち着かせ、椅子に腰を下ろした。
両腕を顔の前で組み、まだ入り口に佇んでいるキリカを見る。
彼女の姿を上から下まで眺めた。
「あの」
「彼女に話がある。すまないが、ハボック達は席を外してくれないか」
名を呼ばれた金髪の若い男、ハボックは側にいたヒューズと顔を見合わせた。
「了解。名残惜しいからって手出さないでくださいよ」
「ハボック少尉。お前にもあとで話がある、仕事のな」
「へーい」
「んじゃ、また後でな」
「失礼します」
ハボックの後に続き、二人も部屋を出て行った。
ホークアイはすれ違いざまにキリカの肩を叩き、微笑んだ。
ドアがぱたりとを音を立てて閉まる。
一瞬にして部屋は静けさに包まれた。
ロイはキリカに声をかけて座るように促した。
「適当に座ってくれ」
「はい」
壁に寄せられていた椅子を机と向かい合わせに置く。
そこへ腰掛けたキリカは「まるで一対一の面接のようだ」と感じた。
そう思った瞬間から妙な緊張感が身を包む。
静けさの中にロイの溜息が聞こえた。
「私の前に居る君は幽霊か。それとも幻覚でも見ているのか?」
「……失礼ですが、仰っている意味がよくわかりません」
「意味がわからないのはこちらの方だよ。最近どうも疲れが取れなくてね、そのせいかもしれんな」
目頭を指でぐっと押さえ、疲れを揉み解す。
ロイのその発言と仕草。それは目の前の現実を認めようとしていなかった。
自分の存在意義を否定されている。だが、それは当然のことかもしれないとキリカは納得している。
突然現れた人間をすんなりと受け入れる方がおかしい。
初めから此処に居たという設定に疑問を抱く者がいても良いはずだと。
「……私の記憶違いでなければ、君はこの世界から消えたはずだ。それともアスナ、また戻ってきたというのか」
予想を反した答え。さらにロイの口から思わぬ名前が出たことに驚きを隠せずにいた。
腕に抱えている資料をキリカはぎゅっと抱きしめた。
心臓の鼓動が速まるのを感じていた。
「母をご存知なんですか」
「知っているもなにも、君は……今、なんて言った」
「私の母のことを知っているんですか、と」
ロイは仰天したまま表情を固まらせた。
それも束の間、キリカに詰め寄り、穴が空きそうなほどキリカを見始める。
この部屋に入って来た時にはわからなかった違いを見つけた。
かつての同期と酷似しているが、顔つきがどことなく違う。
彼女は凛々しい、どちらかというと釣り目だったが、目の前にいるキリカは優しげな印象が全面に出ている。
「……アスナの、娘?」
「はい」
いよいよ持ってロイの頭は悩まされていた。
頭を両手で抱え、その場にしゃがみ込んでしまった。
自分の考えをまとめようとするが、堂々巡りにしかならない。
まずは落ち着くことだ。何事もそれからだ。
落ち着いた結果、ロイはある物を思い出して立ち上がった。
書棚の前で忙しなくそれを探す。
二段目に収めてある分厚いファイルを取り出した。
軍人名簿を机の上で開き、乱暴に頁をめくっていく。
キリカ・葉月。
彼女の名前を見つけたロイはその頁をくまなく読み上げていった。
キリカ・葉月。現二十歳。
士官学校を卒業後、軍に志願し配属される。
その直後、国家錬金術師の資格を取得。
慈悲の錬金術師の二つ名を与えられる。
淡々と読み上げるロイの声をキリカは黙って聞いていた。
「……そして、明後日をもって国家資格を返還。軍を退役」
「はい」
そこまではキリカの頭の中にある情報と一致していた。
経歴はまごうことなく、自分のもの。そうすり込まれることに抵抗は無い。
まだふわふわとした心地だが、眼差しは真っ直ぐと前を向いている。
だが、その経歴の中に一つだけ違和感を覚えていた。
それはどうやらロイも同じらしい。
「あの、一つだけおかしい点があります。年齢……わ、私もっと年とってるはずです」
「そうだな。でなければ、色々とおかしい。……だが、恐らく時間の歪みとやらの影響だろう」
「信じてくださるんですか、私のことを」
「軍人名簿に細工をすることは不可能に近い。それも昨日今日の話でだ。アスナのことは私以外の人間は覚えていない。瓜二つに似せてからかう、ということも考えにくい」
ロイは改めてキリカを見つめた。
彼女と怖いぐらいに似ている。その理由も母娘だというのなら納得がいく。
あの頃のアスナを見ているようだ。
ロイは静かに笑みを浮かべた。遠い記憶が鮮明に蘇るような気さえする。
「母親にそっくりだな、君は。経歴も殆ど彼女と一緒だ。少し違う面はあるだろうがな」
「……そのせいでしょうか。頭の中が少し、ごちゃごちゃしています」
「大方そうだろう。時間が経てばこの世界の記憶が馴染むのではないか」
「そう、ですね」
「……君はなぜ、こちらに。どうやって来た」
アスナはこの世界が嫌だと言って、旅立った。
彼女の娘もまた自分の世界に嫌気がさして、こちらにやって来たのか。
きっとどの世界も同じようなものなのだろう。
嫌なこと、苦しいことが存在しない世界はない。
「確実とは言い切れませんが」
そう言ってキリカは手元の封筒から一冊の本を取り出した。
それを目にしたロイの表情が一変した。
「その本は」
「この本が此処へ繋いでくれたのかはわかりません。でも、関係はあると思います」
キリカは慣れた手つきで本の頁を開き、そのままロイに差し出した。
ずらりと並んだ名前のリスト。最後に見覚えのある名前が二つ記入されている。
ロイ・マスタングと書かれた筆跡は自分のものであった。
「ここに母の名前と大佐の名前が書かれていました」
「……さしずめこのリストは世界から世界を渡った者の名だろう」
ロイは懐かしそうに本をめくっていた。
アスナとの会話の一部が頭に聞こえてきた気がした。
母娘ゆえに当然のことだろうが、声も似ていた。
「母はこの世界の人間だったんですね」
「ああ。君の住んでいた世界とはさほど変わりはない、この世界でな。ちょうど君くらいの時に、彼女はこの世界から跡形もなく消えた。周囲の人間は彼女の存在すら覚えていなかった。皮肉なことに私だけが彼女のことを覚えていたがね」
年月が過ぎれば忘れるだろう。
そう思い込んでいたが、彼女が居たという記憶は頭の隅に残されていた。
「母はこの世界での自分と引き換えに、私がいた世界に来たんですね」
「今一度問うが、君は何故こちらに来た。よもや愛する男でも追いかけてきたのかね」
冗談のつもりでロイはそう尋ねた。
しかし、満更でもないキリカの反応につい顔を引きつらせてしまう。
それを裏付けるかのように、彼女の左手に光る指輪が目に留まる。
顔を赤らめたキリカは目を泳がせた後に伏せた。
ロイはわざとらしく咳払いをした。
「人を探しに来たんです。探しにというか、会いに来たというべきか」
「それならば、少しは力になれるかもしれんぞ。他の誰でもない、アスナの娘の頼みだ」
「ありがとうございます」
「うむ。これでも私は顔が広い、知っている人間かもしれん。その者の名前は?」
「……エド、エドワード・エルリックです」
同期であり、友人の娘。その手助けになるならば。
そう考えていたのだが。
探し人の名前を聞いた途端にロイの顔がさらに引きつった。
知っているもなにも、つい先日までここを訪れていた者だ。
「そ、そうか。君は運が良い。彼ならあと数日もすればここへ戻ってくるだろう」
「本当ですか」
キリカは嬉しそうに目を輝かせていた。
その反応から本当に彼が目当てなのだとロイは知る。
ロイはがっくりと肩を落とした。
彼女は私に会いに来た。
心の隅でそう期待をしていたわけではない、と自分に言い聞かせる。
「それまではこの司令部に居るといい」
「ありがとうございます。でも、私はあと二日で軍を退役しますから」
「構わん。ここを統括しているのは私だ。彼が戻ってくるまでは居られるようにしておく」
「……ありがとうございます」
「明日、明後日は有給消化のようだが……外を一人で出歩かないように」
「何故、ですか」
ロイの頭を悩ませていた一つの事件が一週間前に起きていた。
一連の国家錬金術師殺し。その事件にエドワード・エルリックも巻き込まれたとはさすがに言いにくい。
彼自身は無事だが、右腕を直しにリゼンブールへ行っている。
そう伝えれば彼女は飛び出してしまうかもしれない。
なにせ、愛する者を追ってこちらの世界に来てしまうほどの行動力。
このことは言わない方がいい。ロイはそう考えていた。
「国家錬金術師を狙った殺人が相次いでいるのは、君も知っているはずだ」
「……はい。知って、います」
「その犯人がつい先日、この町に姿を現した。まだ近くに潜んでいる可能性が高い。君は国家資格を返上するとはいえ、リスクは避けた方がいい」
「わかりました。おとなしく部屋の片づけでもすることにします」
聞き分けが良いのは母譲りではない。
素直に従ったキリカにロイは思わず笑いをこぼした。
「どうしたんですか?」
「いや、君の母親だったら素直に聞かないと思ってね。……ところで、アスナは元気にしているかね」
「おそらくは」
その質問にキリカの表情が曇っていた。
何かを思い出すような仕草を見せるが、はっきりとした答えは返ってこない。
それから思い出すことを諦めたのか、首を小さく左右に振った。
「私、向こうでの記憶がないんです」
「……記憶を代価にこちらへ来た、というわけか」
「はい」
「家族のことすら忘れて、か。大胆な所は母親譲りだな」
あの本を読んでいた直前のことまでは微かにだが覚えていた。
電話で誰かと話をして、何かを言われたような気もする。
しかし、それが母親だったのかは定かじゃない。
内容も覚えていなかった。
ぼやけた頭の中にはっきりと存在しているのは、彼の名前。
向こうでの世界のことは殆ど覚えていないが、エドワードが関連した出来事だけは鮮明に残っている。
「……あいつが願っていた事とは逆になってしまったな」
「なにか、仰いましたか?」
「いや、ただの独り言だよ」
かつて彼女が望んでいたこと。
「自分の娘には平凡な人生を送ってほしい」
それを思い出したロイは「この世は皮肉なものだ」と嘲笑った。
エドワードと出会えば彼女は一緒に旅に出るのだろう。
それが平凡な人生とは言い切れない。
波乱に満ちたものとなることぐらい、容易い予想だ。
それでも本人の意思を尊重し、背中を押してやることはできる。
それがこの世界から消えた友人へ向けた餞だ。
キリカの頭はずきずきと痛んでいた。
激しい頭痛に眩暈と吐き気すら覚えている。
その痛みが続く間、目を開けることすらできなかった。
こめかみの血管がどくどくと脈打つ。
今にも皮膚を破って血管が飛び出すのではないか、そう思うぐらい脈を打っている。
だが、激しい痛みもゆっくりと落ち着いていった。
要した時間が長かったのか、短かったのかはわからない。
痛みは引いたがまだ頭がぼんやりとした感覚が残る。
キリカはゆっくりと目を開けた。
霞んでいた視界は次第に明瞭に映り、彼女の目に一つのドアが映った。
何の変哲もないドアだ。
作りは丁寧だが、見たところおかしな場所は何もない。
ドアの中央に銀色のプレートがかかっている。
『執務室』と黒い文字で書かれていた。
キリカは書類の束と厚みのある封筒を腕に抱えていることに気づいた。
服装は落ち着いた色味の青い洋服。
サイズがぴったりのこの制服は何年も着慣れたものであった。
肩には三本線と星が一つの肩章。
襟に手を触れると冷たい金属の感触。国家徽章が取り付けられている。
この軍服に身を包んだ時のことが頭をよぎった。
その出来事を思い出したのを境に、自分が置かれている現状が当たり前だと感じられた。
すんなりとそれを受け入れたのは何故か。まるで催眠術にかかっている気持ちさえしていた。
部屋の中からは話し声が聞こえる。
複数人の談笑すら聞こえるので、難い話はしていないのだろう。
キリカはドアノブへ手を伸ばしかけて止めた。ノックをするのが先だ。
右手を握り拳に変えて、二回、ドアをノックする。
話し声が止み、「入れ」という男の声が返ってきた。
ドアノブをゆっくりとキリカはひねった。
執務室の中に居た人間達はドアの方に顔を向けた。
誰が来たのかと注意を払うも、それが見知った顔だと知ればその警戒心もすぐに解かれる。
ただ一人、この部屋の主であるロイ・マスタングを除いて。
彼はキリカの姿を見るなり幽霊でも見たような目をしていた。
表情は強張り、大きく見開かれた目。
呼吸をすることさえ忘れたまま、勢いよく椅子から立ち上がった。
机についた手が大きな音を立てる。
ロイの反応に何事かと彼らの注目の的が変わった。
「なぜ、……なぜ君がここにいる!」
怒りに満ちたような声色。
いや、それよりも緊迫状態に近い声だった。
彼女がここに居るはずがない。
何年も前にこの世界から消えたはずだ。
ロイの脳裏に数年前の記憶が蘇っていた。
もう忘れかけていた彼女の記憶が波のように押し寄せてくる。
キリカはロイに怒鳴られ、面を食らっていた。
怒られるようなことは身に覚えが無い。
質問の意図はわかるようで、理解できていなかった。
睨むロイに何か答えようと考えるが、上手い言葉が出てこない。
そこへ助け舟を出すかのように金髪の若い男が沈黙をあっさりと破った。
「なーに寝ぼけてんすか、大佐」
「私は寝ぼけてなどいない」
「おいおい、そんなに葉月少佐を追い出したいのか。お前らしくないな、ロイ」
「そうですよ大佐。彼女がここを去るにはまだ少し早いです」
ロイは室内にいた彼らに苛々とした様子で答えていたが。
次々と否定する言葉が返ってきてさすがにたじろいでしまう。
自分は何もおかしいことを言っていない。
昨日まで目の前にいる女性はこの世界に存在していなかったはずだ。
しかし、周囲の部下はこぞって彼女の存在を認めている。
ここで反論を続けようとしたならば、頭がおかしいと思われるに違いない。
間違っているのは私なのだろうか。ロイはそう不安すら覚えた。
「キリカ、気にしないで。ここの所、立て続けに事件が起きているから。少し頭がおかしくなっているのよ」
「ホークアイ中尉、少し言いすぎじゃないかね」
「朝から呆けていらっしゃいますし。書類の山に手がついていない理由が他におありですか?」
「……む」
ロイの机には山積みになっている書類がある。
ホークアイの言うとおり、朝から手付かずのものだ。
その山を見るのもうんざりで脇に寄せて置いてある。
書類に手が付かない理由はちゃんとある。
国家錬金術師殺しの件や治安維持、その他諸々の報告や指示で忙しかったのだ。
しかし、それを訴えてみても彼女に効果はない。
鋭い目で「仕事してください」と切り捨てられる。
ロイは昂ぶっていた感情を落ち着かせ、椅子に腰を下ろした。
両腕を顔の前で組み、まだ入り口に佇んでいるキリカを見る。
彼女の姿を上から下まで眺めた。
「あの」
「彼女に話がある。すまないが、ハボック達は席を外してくれないか」
名を呼ばれた金髪の若い男、ハボックは側にいたヒューズと顔を見合わせた。
「了解。名残惜しいからって手出さないでくださいよ」
「ハボック少尉。お前にもあとで話がある、仕事のな」
「へーい」
「んじゃ、また後でな」
「失礼します」
ハボックの後に続き、二人も部屋を出て行った。
ホークアイはすれ違いざまにキリカの肩を叩き、微笑んだ。
ドアがぱたりとを音を立てて閉まる。
一瞬にして部屋は静けさに包まれた。
ロイはキリカに声をかけて座るように促した。
「適当に座ってくれ」
「はい」
壁に寄せられていた椅子を机と向かい合わせに置く。
そこへ腰掛けたキリカは「まるで一対一の面接のようだ」と感じた。
そう思った瞬間から妙な緊張感が身を包む。
静けさの中にロイの溜息が聞こえた。
「私の前に居る君は幽霊か。それとも幻覚でも見ているのか?」
「……失礼ですが、仰っている意味がよくわかりません」
「意味がわからないのはこちらの方だよ。最近どうも疲れが取れなくてね、そのせいかもしれんな」
目頭を指でぐっと押さえ、疲れを揉み解す。
ロイのその発言と仕草。それは目の前の現実を認めようとしていなかった。
自分の存在意義を否定されている。だが、それは当然のことかもしれないとキリカは納得している。
突然現れた人間をすんなりと受け入れる方がおかしい。
初めから此処に居たという設定に疑問を抱く者がいても良いはずだと。
「……私の記憶違いでなければ、君はこの世界から消えたはずだ。それともアスナ、また戻ってきたというのか」
予想を反した答え。さらにロイの口から思わぬ名前が出たことに驚きを隠せずにいた。
腕に抱えている資料をキリカはぎゅっと抱きしめた。
心臓の鼓動が速まるのを感じていた。
「母をご存知なんですか」
「知っているもなにも、君は……今、なんて言った」
「私の母のことを知っているんですか、と」
ロイは仰天したまま表情を固まらせた。
それも束の間、キリカに詰め寄り、穴が空きそうなほどキリカを見始める。
この部屋に入って来た時にはわからなかった違いを見つけた。
かつての同期と酷似しているが、顔つきがどことなく違う。
彼女は凛々しい、どちらかというと釣り目だったが、目の前にいるキリカは優しげな印象が全面に出ている。
「……アスナの、娘?」
「はい」
いよいよ持ってロイの頭は悩まされていた。
頭を両手で抱え、その場にしゃがみ込んでしまった。
自分の考えをまとめようとするが、堂々巡りにしかならない。
まずは落ち着くことだ。何事もそれからだ。
落ち着いた結果、ロイはある物を思い出して立ち上がった。
書棚の前で忙しなくそれを探す。
二段目に収めてある分厚いファイルを取り出した。
軍人名簿を机の上で開き、乱暴に頁をめくっていく。
キリカ・葉月。
彼女の名前を見つけたロイはその頁をくまなく読み上げていった。
キリカ・葉月。現二十歳。
士官学校を卒業後、軍に志願し配属される。
その直後、国家錬金術師の資格を取得。
慈悲の錬金術師の二つ名を与えられる。
淡々と読み上げるロイの声をキリカは黙って聞いていた。
「……そして、明後日をもって国家資格を返還。軍を退役」
「はい」
そこまではキリカの頭の中にある情報と一致していた。
経歴はまごうことなく、自分のもの。そうすり込まれることに抵抗は無い。
まだふわふわとした心地だが、眼差しは真っ直ぐと前を向いている。
だが、その経歴の中に一つだけ違和感を覚えていた。
それはどうやらロイも同じらしい。
「あの、一つだけおかしい点があります。年齢……わ、私もっと年とってるはずです」
「そうだな。でなければ、色々とおかしい。……だが、恐らく時間の歪みとやらの影響だろう」
「信じてくださるんですか、私のことを」
「軍人名簿に細工をすることは不可能に近い。それも昨日今日の話でだ。アスナのことは私以外の人間は覚えていない。瓜二つに似せてからかう、ということも考えにくい」
ロイは改めてキリカを見つめた。
彼女と怖いぐらいに似ている。その理由も母娘だというのなら納得がいく。
あの頃のアスナを見ているようだ。
ロイは静かに笑みを浮かべた。遠い記憶が鮮明に蘇るような気さえする。
「母親にそっくりだな、君は。経歴も殆ど彼女と一緒だ。少し違う面はあるだろうがな」
「……そのせいでしょうか。頭の中が少し、ごちゃごちゃしています」
「大方そうだろう。時間が経てばこの世界の記憶が馴染むのではないか」
「そう、ですね」
「……君はなぜ、こちらに。どうやって来た」
アスナはこの世界が嫌だと言って、旅立った。
彼女の娘もまた自分の世界に嫌気がさして、こちらにやって来たのか。
きっとどの世界も同じようなものなのだろう。
嫌なこと、苦しいことが存在しない世界はない。
「確実とは言い切れませんが」
そう言ってキリカは手元の封筒から一冊の本を取り出した。
それを目にしたロイの表情が一変した。
「その本は」
「この本が此処へ繋いでくれたのかはわかりません。でも、関係はあると思います」
キリカは慣れた手つきで本の頁を開き、そのままロイに差し出した。
ずらりと並んだ名前のリスト。最後に見覚えのある名前が二つ記入されている。
ロイ・マスタングと書かれた筆跡は自分のものであった。
「ここに母の名前と大佐の名前が書かれていました」
「……さしずめこのリストは世界から世界を渡った者の名だろう」
ロイは懐かしそうに本をめくっていた。
アスナとの会話の一部が頭に聞こえてきた気がした。
母娘ゆえに当然のことだろうが、声も似ていた。
「母はこの世界の人間だったんですね」
「ああ。君の住んでいた世界とはさほど変わりはない、この世界でな。ちょうど君くらいの時に、彼女はこの世界から跡形もなく消えた。周囲の人間は彼女の存在すら覚えていなかった。皮肉なことに私だけが彼女のことを覚えていたがね」
年月が過ぎれば忘れるだろう。
そう思い込んでいたが、彼女が居たという記憶は頭の隅に残されていた。
「母はこの世界での自分と引き換えに、私がいた世界に来たんですね」
「今一度問うが、君は何故こちらに来た。よもや愛する男でも追いかけてきたのかね」
冗談のつもりでロイはそう尋ねた。
しかし、満更でもないキリカの反応につい顔を引きつらせてしまう。
それを裏付けるかのように、彼女の左手に光る指輪が目に留まる。
顔を赤らめたキリカは目を泳がせた後に伏せた。
ロイはわざとらしく咳払いをした。
「人を探しに来たんです。探しにというか、会いに来たというべきか」
「それならば、少しは力になれるかもしれんぞ。他の誰でもない、アスナの娘の頼みだ」
「ありがとうございます」
「うむ。これでも私は顔が広い、知っている人間かもしれん。その者の名前は?」
「……エド、エドワード・エルリックです」
同期であり、友人の娘。その手助けになるならば。
そう考えていたのだが。
探し人の名前を聞いた途端にロイの顔がさらに引きつった。
知っているもなにも、つい先日までここを訪れていた者だ。
「そ、そうか。君は運が良い。彼ならあと数日もすればここへ戻ってくるだろう」
「本当ですか」
キリカは嬉しそうに目を輝かせていた。
その反応から本当に彼が目当てなのだとロイは知る。
ロイはがっくりと肩を落とした。
彼女は私に会いに来た。
心の隅でそう期待をしていたわけではない、と自分に言い聞かせる。
「それまではこの司令部に居るといい」
「ありがとうございます。でも、私はあと二日で軍を退役しますから」
「構わん。ここを統括しているのは私だ。彼が戻ってくるまでは居られるようにしておく」
「……ありがとうございます」
「明日、明後日は有給消化のようだが……外を一人で出歩かないように」
「何故、ですか」
ロイの頭を悩ませていた一つの事件が一週間前に起きていた。
一連の国家錬金術師殺し。その事件にエドワード・エルリックも巻き込まれたとはさすがに言いにくい。
彼自身は無事だが、右腕を直しにリゼンブールへ行っている。
そう伝えれば彼女は飛び出してしまうかもしれない。
なにせ、愛する者を追ってこちらの世界に来てしまうほどの行動力。
このことは言わない方がいい。ロイはそう考えていた。
「国家錬金術師を狙った殺人が相次いでいるのは、君も知っているはずだ」
「……はい。知って、います」
「その犯人がつい先日、この町に姿を現した。まだ近くに潜んでいる可能性が高い。君は国家資格を返上するとはいえ、リスクは避けた方がいい」
「わかりました。おとなしく部屋の片づけでもすることにします」
聞き分けが良いのは母譲りではない。
素直に従ったキリカにロイは思わず笑いをこぼした。
「どうしたんですか?」
「いや、君の母親だったら素直に聞かないと思ってね。……ところで、アスナは元気にしているかね」
「おそらくは」
その質問にキリカの表情が曇っていた。
何かを思い出すような仕草を見せるが、はっきりとした答えは返ってこない。
それから思い出すことを諦めたのか、首を小さく左右に振った。
「私、向こうでの記憶がないんです」
「……記憶を代価にこちらへ来た、というわけか」
「はい」
「家族のことすら忘れて、か。大胆な所は母親譲りだな」
あの本を読んでいた直前のことまでは微かにだが覚えていた。
電話で誰かと話をして、何かを言われたような気もする。
しかし、それが母親だったのかは定かじゃない。
内容も覚えていなかった。
ぼやけた頭の中にはっきりと存在しているのは、彼の名前。
向こうでの世界のことは殆ど覚えていないが、エドワードが関連した出来事だけは鮮明に残っている。
「……あいつが願っていた事とは逆になってしまったな」
「なにか、仰いましたか?」
「いや、ただの独り言だよ」
かつて彼女が望んでいたこと。
「自分の娘には平凡な人生を送ってほしい」
それを思い出したロイは「この世は皮肉なものだ」と嘲笑った。
エドワードと出会えば彼女は一緒に旅に出るのだろう。
それが平凡な人生とは言い切れない。
波乱に満ちたものとなることぐらい、容易い予想だ。
それでも本人の意思を尊重し、背中を押してやることはできる。
それがこの世界から消えた友人へ向けた餞だ。