鋼の錬金術師
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等身大の愛を君に残して
まだ頭が寝ぼけていた。
平日より少しだけ遅いけど、休日も朝早く起きる習慣がついていた。
低血圧でも一度起き上がれば身体は動かせる。
ただ、頭の方は少し鈍くて、物事を正常に考えられるまで時間がかかった。
それまでは相槌を打つだけ。よく「話聞いてるのか」と言われることもある。
話はちゃんと聞いている。理解もして、頭の中で整理をしてそこで自己完結。
だから相槌だけになってしまう。
朝食を食べ終えた私たちはいつもの場所でくつろいでいた。
テレビから今日の天気予報を告げた後に占いが流れ始めた。
占いはその時だけ気にするけれど、すぐに忘れてしまう。
隣の彼は「占いなんて非科学的だ」と鼻で笑っていた。
その台詞をどこかで聞いたことがある。そうだ、科学者がよく言う台詞。
錬金術師はこの世界で言う科学者と等しいのかもしれない。
考え方がとても似ているもの。
私は科学者でも錬金術師でもないから、一応占いは見ていた。
さっきも言ったとおり、すぐ忘れてしまうけど。
今日の占いが始まった。
残念なことにトップ3に私の星座はない。
次に4位から6位までが映し出される。
そこにもなかった。次の順位が流れる、その三秒くらい前だった。
「なあ。あの、さ」
エドが話しかけてきた。
私はテレビの画面と音声から斜め向かいに座っている彼に注意を向ける。
おかげで私の運勢が何位かは見損ねてしまった。
「うん。どうしたの?」
私がそう尋ね返してもなかなか次の言葉が返ってこない。
エドは私の方を向いているけど、頬杖をついている視線は下を向いていた。
ずっと黙ったまま。話を切り出そうとしなかった。
まるでバツが悪そうで、苦しそうな表情をしている。
そんな彼を私は放っておけなかった。
「エド」
私が彼の名前を呼ぶと肩を震わせた。
視線をゆっくりとこっちに向ける。今まで見たことが無い、怯えているような目だった。
今から叱られに職員室に行く高校生みたいに。
それに私は自然と笑いかけていた。
「自分の世界に帰らなきゃいけない。そう、なんでしょ」
「っ……どうして、わかったんだ」
「なんとなく。私、自分のことには疎いのに人のことには敏感、都合がいい勘よね、まったく」
数日前から気づいていた。彼に異変があること。
毎日駅まで迎えに来てくれた。
彼は用事がある、だなんて言っていたけど。
一週間前に借りた本の量が少なくなった。
私一人で返しに行くときに、重くないように。きっとそう考えていたんだろう。
本を読む時間も減っていた。
私と話をしていることの方が多くなった。
彼なりのその気遣いが嬉しかった。
「軽蔑しないのか」
「どうして?」
「勝手すぎるだろ。あんたを振り回した挙げ句、自分のことしか考えないで、はいさよなら、なんて」
「貴方は自分勝手じゃないわ。本当に勝手な人なら無視したり、それこそ何も言わずに居なくなると思う。エドはちゃんとこうして言ってくれたじゃない」
だから、貴方は身勝手な人じゃない。
優しい人。
あの夜、貴方は自分の世界のことを話してくれた。
弟がいること。やり遂げなきゃいけないこと。
その為に兄弟で旅を続けていると。
平穏無事な生活を送ってきた私にはとても想像がつかない。
想像もつかない、大きなものを彼は背負っている。
彼に何かしてあげられることはないだろうか。
私にもしてあげられることがあるはずだ。そう、一つだけある。
彼を応援してあげることだ。
「私、エドを応援してる。生きてる場所が違っても、声が届かなくても……例え世界が繋がっていなくても、此処から声援を送るわ」
「……さんきゅ。オレさ、良かったと思ってるんだ。この世界でキリカに逢えて」
苦笑いを見せるエド。彼も一生懸命笑おうとしている。
そんなコト言われたら、私、泣いてしまいそう。
ここで泣いてしまったら彼を困らせてしまう。それは嫌だった。
涙の素をぐっと飲み込んで、笑い返す。でもきっと上手く笑えてない。
「……すぐ、行かなきゃいけないの?」
「いや、昼ぐらいに。まだ時間、ある」
「良かった。昨日作ったシチュー、食べていって。私ひとりじゃ食べきれないもの」
彼のことが好きだから応援していたい。
彼ら兄弟の旅がうまくいきますように。
そう願うだけならバチは当たらないでしょう。
*
二人でいる時間はあっという間に過ぎていった。
ムリに笑おう、なんて考えてはいなかったけど。
エドと一緒にいる時ぐらい、笑っていたかった。
他愛もない話を繰り返して過ごす時間が本当に幸せだった。
時計の針が十二時を示した頃。
エドは黒の長袖とスラックスを履いて、真っ赤なコートに袖を通した。
髪は一本結びじゃなく、きっちりと三つに編まれている。
初めて会った時と同じ格好。その時のことが今じゃもう懐かしい気さえする。
「やっぱりエドは赤が似合うね」
「ん……そうか?」
「うん」
私にとって赤はエドのイメージカラー。
この色を見るたびに彼を思い出していた。
これからは見るたびにちょっと寂しい気持ちになるかもしれない。
不意に足元が揺れた。地震でもない、眩暈でもない。
エドもその揺れを感じたのか、周りを見回していた。
揺れはすぐにおさまり、足元に違和感を覚える。
私たちの足元に白いドアが現れていた。
二人でそのドアを踏んづけていたから、もし急に開いてしまったら真っ逆さまに落ちてしまう。
同じことを危惧していたのか、エドと二人でそのドアの上から飛び退いた。
ああ、そろそろお別れの時間みたい。
このドアの向こう側に彼の世界がある。
「なんでドアが真下に出てくんだよ。ドアってのはフツー地面から垂直の壁に作るもんだろ」
なんて、エドは口を尖らせて文句を言っていた。
ドアを睨みつけるように両腕を組んでいる。
「エド。元気でね」
彼の姿が目の前から消えてしまう前に見送りたい。
いつ消えてしまうかわからないし、それからでは遅い。後悔したくなかった。
伝えられるうちに伝えておきたい。
お別れの言葉すら言えないのは嫌だもの。
ワガママを一つ叶えてくれるなら、私の目から涙が零れないうちに。
そう密かに願っていた。でも。気がつけば私はエドの腕に抱かれていた。
目頭が熱くて、今にも涙が溢れそう。
ねえ、お願いだから。笑って別れを告げさせて。
「キリカ」
そんな優しい声で私を呼ばないで。
心がぐらぐらに揺らいでしまう。
躊躇していた私の腕は彼の肩に回されていた。
今何か喋ろうとしたら、私の声は震えて言葉にならなさそう。
小さな溜息が耳元で聞こえた。
「やっぱムリ。……キリカに渡しておきたいもんがあるんだ」
彼はやっとそう言うと、私の肩をそっと掴んだ。
眉が八の字になっていて、困ったような様子。
エドは片手をポケットに入れて、何かを探っていた。
すぐに探し物は見つかったみたいで、その手が私の左手を取った。
指にすっと何かがはめられた。薬指に銀色の指輪が光っている。
「あー……ほら、ホワイトデーのお返しもまだだったしな?その、だからつまり」
私がぼうっと自分の左手を眺めていると、エドは言い訳じみた喋りをしていた。
それがおかしくて、おかしくて。だって、顔が真っ赤になってる。
胸がいっぱいに満たされた気がした。
「これ、エドが造ったの?」
「お、おう。結構苦労したんだぜ、色々と」
「うん。見たことがない、素敵なデザイン」
銀色に光りを放つシルバーリング。
表面は平らだけど、石が何種類か埋め込まれていた。
普通、宝石や装飾の類は凹凸を作るのに、この指輪はそれがない。
赤い石を中心に薄い水色と七色に光る石が二対の羽の形を作っている。
何の石かはわからない。シンプルだけど、私にはとても素敵な指輪だった。
「渡そうかどうか迷ってた。……けど、決めた。やっぱ諦めきれねえ」
「エド」
「だから、絶対に迎えに来る」
「……う、んっ」
涙が頬を伝っていった。
私の目からはもう涙が溢れていて、大粒の涙が次々と零れ落ちてくる。
瞬きを繰り返すたびに落ちる。下を向くとそれこそ止まらなくなっていた。
エドの指先が私の涙を払ってくれた。白い手袋に吸い込まれて染みができる。
「ほら、泣くなよ。……つーかそれ、男避けだから。ちゃんとしとけよ」
「ん……わかった。エドって、独占欲強いんだね。意外」
「ったりめーだろ。好きな女、オレの知らないうちに易々と盗られてたまるかよ」
「ふふっ」
「やっと笑ったな。泣いてるよりずっといい。オレの一番好きな表情」
「もう。誰のせいで泣いてると思ってるの」
「はは、わりいわりい」
お互いの笑い声が静かに響いた。
心の底から笑顔にはなれないけど、やっぱり笑っていた方が別れの辛さも少し和らぐ。
エドもきっとそう考えていたんだと思う。
ばたんっ。
大きな音が急に響いた。
下を見ると白いドアが内側に開いている。
ドアの中はもやのようなものが漂っていた。
景色のようなものを映している。それがぐねぐねとうねっていた。なんだか少し気味が悪い。
それを憎たらしげにエドが睨んだ。
「ったく……空気読めっつーの。でも、そろそろ時間みたいだな」
「そうね」
いざその時が訪れても、うまく言葉が出てこなかった。
たくさん考えておいたはずなのに、いざという時に限って探しても見つからない。
でも、さっきみたいに強い不安はなかった。
エドが少し寂しげに笑っていた。
「んじゃ、行くわ」
「うん。……エド、」
言葉じゃきっと伝えきれない。
そう思ったから、私はエドにキスをした。
私の想いが全部伝わりますように。そう願いをこめて。
「待ってるね」
彼は意外なほど驚いていた。
目を泳がせて、かなり挙動不審。
彼は赤らめた顔のままドアの中に飛び降りた。
溶けるように彼の姿は見えなくなり、やがてドア自体も存在自体が揺らいで、消えた。
もうそこには絨毯しかない。
静まりかえった部屋は物寂しかった。
一人分の生活音がもうないんだ。
左手の薬指にそっと触れる。
指先でなぞり、ゆっくり引き抜いた。
指輪のサイズはジャストで、他の指には小さくて合わない。
いつ指のサイズを知ったんだろう。
指輪の内側に文字が刻まれているのを見つけた。
エドワード to キリカ その反対側にはI love you.そう刻まれていた。
私は床に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
こみ上げてくる涙としゃっくり。
その指輪を抱きしめて涙が枯れるまでずっと、ひとりで泣いていた。
エドワードは気だるそうに目を覚ました。
身体全体が鉛のように重い。
左手には開いた本。もう片方の腕は椅子の手すりに預けていた。
「おはよう兄さん」
自分が今どこにいるのか。それすらも危うい、ふわふわとした気持ちに包まれていた。
だが、エドワードにかけられたその一言が彼を引っ張りあげるように意識を持ち上げる。
その声に振り向くと、二メートルほどの鎧が本の山を片付けているところだった。
「……アル」
「ずいぶん長い昼寝だったね」
「ひる、ね。……オレ、寝てたのか」
「まだ寝ぼけてるの?もうすぐ夕飯の時間だよ」
鎧の彼、アルフォンスは可笑しそうな声でエドワードに早く起きるよう促した。
がしゃん、がしゃんと鎧の関節部分がぶつかりあう音がする。
どうやら本を読んでいる間に居眠りをしてしまったようだった。
くだらない内容だと思いながら目を通しているうちに、夢の中へ。
所々穴が空いたように抜け落ちた記憶が頭にある。
それらは夢だったのだろうか。随分長い、断片的な夢だ。
エドワードはそう思い込みそうになった。
だが、不意に女性の顔が浮かんだ。
エドワードは急に何かを思い出したのか、口元を左手で覆い隠す。
にやけるような、それでいて恥ずかしさがこみ上げてくるような。そんな表情だ。
弟のアルフォンスはちょうど部屋を出ている。この場に居るのが自分ひとりで本当に良かったと思っていた。
こんな顔を見られたら何を言われるかわかったもんじゃない。
逸る気持ちを落ち着かせ、その手をポケットへ。
そこには指輪が確かに存在していた。
そのシルバーリングは表面が滑らかで何の装飾もない。
だが、内側に三種類の宝石が埋め込まれていた。
ガーネットを中心に左右に二対ずつターコイズとムーンストーンが羽のように埋め込まれている。
その装飾を避けるように、日付が刻まれていた。
この日付を目にしたエドワードの口角がゆっくりと上がっていく。
自分は確かにあの世界に居た。その証拠がここにある。
そう確信を得たとたんに、抜け落ちていた記憶のピースが全て埋められた。
「夢オチだった。……なんて、言わせねーからな。オレは確かにあの場所に居た」
指輪を握り締めたエドワードは勝ち誇ったようにそう呟いた。
まだ頭が寝ぼけていた。
平日より少しだけ遅いけど、休日も朝早く起きる習慣がついていた。
低血圧でも一度起き上がれば身体は動かせる。
ただ、頭の方は少し鈍くて、物事を正常に考えられるまで時間がかかった。
それまでは相槌を打つだけ。よく「話聞いてるのか」と言われることもある。
話はちゃんと聞いている。理解もして、頭の中で整理をしてそこで自己完結。
だから相槌だけになってしまう。
朝食を食べ終えた私たちはいつもの場所でくつろいでいた。
テレビから今日の天気予報を告げた後に占いが流れ始めた。
占いはその時だけ気にするけれど、すぐに忘れてしまう。
隣の彼は「占いなんて非科学的だ」と鼻で笑っていた。
その台詞をどこかで聞いたことがある。そうだ、科学者がよく言う台詞。
錬金術師はこの世界で言う科学者と等しいのかもしれない。
考え方がとても似ているもの。
私は科学者でも錬金術師でもないから、一応占いは見ていた。
さっきも言ったとおり、すぐ忘れてしまうけど。
今日の占いが始まった。
残念なことにトップ3に私の星座はない。
次に4位から6位までが映し出される。
そこにもなかった。次の順位が流れる、その三秒くらい前だった。
「なあ。あの、さ」
エドが話しかけてきた。
私はテレビの画面と音声から斜め向かいに座っている彼に注意を向ける。
おかげで私の運勢が何位かは見損ねてしまった。
「うん。どうしたの?」
私がそう尋ね返してもなかなか次の言葉が返ってこない。
エドは私の方を向いているけど、頬杖をついている視線は下を向いていた。
ずっと黙ったまま。話を切り出そうとしなかった。
まるでバツが悪そうで、苦しそうな表情をしている。
そんな彼を私は放っておけなかった。
「エド」
私が彼の名前を呼ぶと肩を震わせた。
視線をゆっくりとこっちに向ける。今まで見たことが無い、怯えているような目だった。
今から叱られに職員室に行く高校生みたいに。
それに私は自然と笑いかけていた。
「自分の世界に帰らなきゃいけない。そう、なんでしょ」
「っ……どうして、わかったんだ」
「なんとなく。私、自分のことには疎いのに人のことには敏感、都合がいい勘よね、まったく」
数日前から気づいていた。彼に異変があること。
毎日駅まで迎えに来てくれた。
彼は用事がある、だなんて言っていたけど。
一週間前に借りた本の量が少なくなった。
私一人で返しに行くときに、重くないように。きっとそう考えていたんだろう。
本を読む時間も減っていた。
私と話をしていることの方が多くなった。
彼なりのその気遣いが嬉しかった。
「軽蔑しないのか」
「どうして?」
「勝手すぎるだろ。あんたを振り回した挙げ句、自分のことしか考えないで、はいさよなら、なんて」
「貴方は自分勝手じゃないわ。本当に勝手な人なら無視したり、それこそ何も言わずに居なくなると思う。エドはちゃんとこうして言ってくれたじゃない」
だから、貴方は身勝手な人じゃない。
優しい人。
あの夜、貴方は自分の世界のことを話してくれた。
弟がいること。やり遂げなきゃいけないこと。
その為に兄弟で旅を続けていると。
平穏無事な生活を送ってきた私にはとても想像がつかない。
想像もつかない、大きなものを彼は背負っている。
彼に何かしてあげられることはないだろうか。
私にもしてあげられることがあるはずだ。そう、一つだけある。
彼を応援してあげることだ。
「私、エドを応援してる。生きてる場所が違っても、声が届かなくても……例え世界が繋がっていなくても、此処から声援を送るわ」
「……さんきゅ。オレさ、良かったと思ってるんだ。この世界でキリカに逢えて」
苦笑いを見せるエド。彼も一生懸命笑おうとしている。
そんなコト言われたら、私、泣いてしまいそう。
ここで泣いてしまったら彼を困らせてしまう。それは嫌だった。
涙の素をぐっと飲み込んで、笑い返す。でもきっと上手く笑えてない。
「……すぐ、行かなきゃいけないの?」
「いや、昼ぐらいに。まだ時間、ある」
「良かった。昨日作ったシチュー、食べていって。私ひとりじゃ食べきれないもの」
彼のことが好きだから応援していたい。
彼ら兄弟の旅がうまくいきますように。
そう願うだけならバチは当たらないでしょう。
*
二人でいる時間はあっという間に過ぎていった。
ムリに笑おう、なんて考えてはいなかったけど。
エドと一緒にいる時ぐらい、笑っていたかった。
他愛もない話を繰り返して過ごす時間が本当に幸せだった。
時計の針が十二時を示した頃。
エドは黒の長袖とスラックスを履いて、真っ赤なコートに袖を通した。
髪は一本結びじゃなく、きっちりと三つに編まれている。
初めて会った時と同じ格好。その時のことが今じゃもう懐かしい気さえする。
「やっぱりエドは赤が似合うね」
「ん……そうか?」
「うん」
私にとって赤はエドのイメージカラー。
この色を見るたびに彼を思い出していた。
これからは見るたびにちょっと寂しい気持ちになるかもしれない。
不意に足元が揺れた。地震でもない、眩暈でもない。
エドもその揺れを感じたのか、周りを見回していた。
揺れはすぐにおさまり、足元に違和感を覚える。
私たちの足元に白いドアが現れていた。
二人でそのドアを踏んづけていたから、もし急に開いてしまったら真っ逆さまに落ちてしまう。
同じことを危惧していたのか、エドと二人でそのドアの上から飛び退いた。
ああ、そろそろお別れの時間みたい。
このドアの向こう側に彼の世界がある。
「なんでドアが真下に出てくんだよ。ドアってのはフツー地面から垂直の壁に作るもんだろ」
なんて、エドは口を尖らせて文句を言っていた。
ドアを睨みつけるように両腕を組んでいる。
「エド。元気でね」
彼の姿が目の前から消えてしまう前に見送りたい。
いつ消えてしまうかわからないし、それからでは遅い。後悔したくなかった。
伝えられるうちに伝えておきたい。
お別れの言葉すら言えないのは嫌だもの。
ワガママを一つ叶えてくれるなら、私の目から涙が零れないうちに。
そう密かに願っていた。でも。気がつけば私はエドの腕に抱かれていた。
目頭が熱くて、今にも涙が溢れそう。
ねえ、お願いだから。笑って別れを告げさせて。
「キリカ」
そんな優しい声で私を呼ばないで。
心がぐらぐらに揺らいでしまう。
躊躇していた私の腕は彼の肩に回されていた。
今何か喋ろうとしたら、私の声は震えて言葉にならなさそう。
小さな溜息が耳元で聞こえた。
「やっぱムリ。……キリカに渡しておきたいもんがあるんだ」
彼はやっとそう言うと、私の肩をそっと掴んだ。
眉が八の字になっていて、困ったような様子。
エドは片手をポケットに入れて、何かを探っていた。
すぐに探し物は見つかったみたいで、その手が私の左手を取った。
指にすっと何かがはめられた。薬指に銀色の指輪が光っている。
「あー……ほら、ホワイトデーのお返しもまだだったしな?その、だからつまり」
私がぼうっと自分の左手を眺めていると、エドは言い訳じみた喋りをしていた。
それがおかしくて、おかしくて。だって、顔が真っ赤になってる。
胸がいっぱいに満たされた気がした。
「これ、エドが造ったの?」
「お、おう。結構苦労したんだぜ、色々と」
「うん。見たことがない、素敵なデザイン」
銀色に光りを放つシルバーリング。
表面は平らだけど、石が何種類か埋め込まれていた。
普通、宝石や装飾の類は凹凸を作るのに、この指輪はそれがない。
赤い石を中心に薄い水色と七色に光る石が二対の羽の形を作っている。
何の石かはわからない。シンプルだけど、私にはとても素敵な指輪だった。
「渡そうかどうか迷ってた。……けど、決めた。やっぱ諦めきれねえ」
「エド」
「だから、絶対に迎えに来る」
「……う、んっ」
涙が頬を伝っていった。
私の目からはもう涙が溢れていて、大粒の涙が次々と零れ落ちてくる。
瞬きを繰り返すたびに落ちる。下を向くとそれこそ止まらなくなっていた。
エドの指先が私の涙を払ってくれた。白い手袋に吸い込まれて染みができる。
「ほら、泣くなよ。……つーかそれ、男避けだから。ちゃんとしとけよ」
「ん……わかった。エドって、独占欲強いんだね。意外」
「ったりめーだろ。好きな女、オレの知らないうちに易々と盗られてたまるかよ」
「ふふっ」
「やっと笑ったな。泣いてるよりずっといい。オレの一番好きな表情」
「もう。誰のせいで泣いてると思ってるの」
「はは、わりいわりい」
お互いの笑い声が静かに響いた。
心の底から笑顔にはなれないけど、やっぱり笑っていた方が別れの辛さも少し和らぐ。
エドもきっとそう考えていたんだと思う。
ばたんっ。
大きな音が急に響いた。
下を見ると白いドアが内側に開いている。
ドアの中はもやのようなものが漂っていた。
景色のようなものを映している。それがぐねぐねとうねっていた。なんだか少し気味が悪い。
それを憎たらしげにエドが睨んだ。
「ったく……空気読めっつーの。でも、そろそろ時間みたいだな」
「そうね」
いざその時が訪れても、うまく言葉が出てこなかった。
たくさん考えておいたはずなのに、いざという時に限って探しても見つからない。
でも、さっきみたいに強い不安はなかった。
エドが少し寂しげに笑っていた。
「んじゃ、行くわ」
「うん。……エド、」
言葉じゃきっと伝えきれない。
そう思ったから、私はエドにキスをした。
私の想いが全部伝わりますように。そう願いをこめて。
「待ってるね」
彼は意外なほど驚いていた。
目を泳がせて、かなり挙動不審。
彼は赤らめた顔のままドアの中に飛び降りた。
溶けるように彼の姿は見えなくなり、やがてドア自体も存在自体が揺らいで、消えた。
もうそこには絨毯しかない。
静まりかえった部屋は物寂しかった。
一人分の生活音がもうないんだ。
左手の薬指にそっと触れる。
指先でなぞり、ゆっくり引き抜いた。
指輪のサイズはジャストで、他の指には小さくて合わない。
いつ指のサイズを知ったんだろう。
指輪の内側に文字が刻まれているのを見つけた。
エドワード to キリカ その反対側にはI love you.そう刻まれていた。
私は床に崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
こみ上げてくる涙としゃっくり。
その指輪を抱きしめて涙が枯れるまでずっと、ひとりで泣いていた。
エドワードは気だるそうに目を覚ました。
身体全体が鉛のように重い。
左手には開いた本。もう片方の腕は椅子の手すりに預けていた。
「おはよう兄さん」
自分が今どこにいるのか。それすらも危うい、ふわふわとした気持ちに包まれていた。
だが、エドワードにかけられたその一言が彼を引っ張りあげるように意識を持ち上げる。
その声に振り向くと、二メートルほどの鎧が本の山を片付けているところだった。
「……アル」
「ずいぶん長い昼寝だったね」
「ひる、ね。……オレ、寝てたのか」
「まだ寝ぼけてるの?もうすぐ夕飯の時間だよ」
鎧の彼、アルフォンスは可笑しそうな声でエドワードに早く起きるよう促した。
がしゃん、がしゃんと鎧の関節部分がぶつかりあう音がする。
どうやら本を読んでいる間に居眠りをしてしまったようだった。
くだらない内容だと思いながら目を通しているうちに、夢の中へ。
所々穴が空いたように抜け落ちた記憶が頭にある。
それらは夢だったのだろうか。随分長い、断片的な夢だ。
エドワードはそう思い込みそうになった。
だが、不意に女性の顔が浮かんだ。
エドワードは急に何かを思い出したのか、口元を左手で覆い隠す。
にやけるような、それでいて恥ずかしさがこみ上げてくるような。そんな表情だ。
弟のアルフォンスはちょうど部屋を出ている。この場に居るのが自分ひとりで本当に良かったと思っていた。
こんな顔を見られたら何を言われるかわかったもんじゃない。
逸る気持ちを落ち着かせ、その手をポケットへ。
そこには指輪が確かに存在していた。
そのシルバーリングは表面が滑らかで何の装飾もない。
だが、内側に三種類の宝石が埋め込まれていた。
ガーネットを中心に左右に二対ずつターコイズとムーンストーンが羽のように埋め込まれている。
その装飾を避けるように、日付が刻まれていた。
この日付を目にしたエドワードの口角がゆっくりと上がっていく。
自分は確かにあの世界に居た。その証拠がここにある。
そう確信を得たとたんに、抜け落ちていた記憶のピースが全て埋められた。
「夢オチだった。……なんて、言わせねーからな。オレは確かにあの場所に居た」
指輪を握り締めたエドワードは勝ち誇ったようにそう呟いた。