鋼の錬金術師
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存在する世界
『荒れた天気は明け方まで続くでしょう』
テレビのニュースキャスターが季節外れの嵐を伝えていた。
外はごうごうと風が唸るように吹いている。
歩道の雪もだいぶ解け始め、春の陽気がちらほら見え隠れしていた矢先のこと。
発達した低気圧が北日本を包み込んだ。
外気温は氷点下になるかならないかの微妙な数値を示している。
乾いた雪ではなく、重たく湿った雪が一日中降り続いていた。
ニュースキャスターは警報を告げ、引き続き注意するようにと呼びかける。
その後、すぐにCMに移り変わった。
同時にコンロにかけていたヤカンが鳴り始める。
何秒も鳴らないうちにその火は止められた。
それぞれ背丈の違うマグカップにインスタントコーヒーを二杯ずつ、そこにお湯を注いだ。
キリカがテレビに目を向けた時はガムのCMが流れていた。
「こんなに暖かくなったのに。急に荒れるなんて思ってもなかった」
「低気圧があんだけ重なってりゃあな」
「電車、私が乗ってきたので最後だったみたい。その後は運休ばかり。今も殆ど動いてないみたいよ」
「ほんと、タッチの差だったよな」
エドワードは読んでいた本に栞を挟めた。
本をテーブルの隅に置き、凝り固まった肩を左右に鳴らす。
つい二時間前にエドワードはキリカを迎えに行っていた。
駅には電車を待つ人々で溢れ返っていた。
夕方になるにつれて天気が悪化していることに、エドワードは嫌な予感を覚えた。
案の定、電車は遅れて到着した。
ホーム側の改札から人が波のように流れてくる。
押し合いへし合いしながらやっとのことで彼女の姿を見つけたエドワードは必死に手を伸ばして振り続けた。
その手に気づいたキリカは波に逆らうように人混みから抜け出してきた。
キリカはぐったりとした顔で「ただいま」と笑った。
「明日もダイヤが乱れそうだわ。早めに起きた方がよさそうね」
「そうだな」
テレビの映像が切り替わり、九州地方では桜が咲いたというニュースが流れた。
こちらは季節外れの大雪で、南は天気が悪くとも桜が開花するほど暖かい。
画面には五分咲きの桜が鮮やかな色を映していた。枝は花の房を重そうにして頭を垂れている。
「こっちじゃ桜は五月に入ってから咲くのに」
「きれいな花だな」
「そっか、エドの居た世界ではないんだっけ」
「んー。あるかもしれないけど、直接は見たことない」
「写真でよかったら携帯に入ってるから見る?」
エドワードがその問いかけに答えようとした時であった。
部屋の全ての照明が落ちた。
蛍光灯、テレビ、レコーダー、炊飯器、暖房機器。電気を使う家電が一斉に止まってしまった。
珈琲のマグカップを両手に持っていたキリカはゆっくりとそれをキッチンのテーブルに戻した。
予期せぬ暗闇と訪れた静寂。
うろたえているのはキリカではなく、エドワードの方であった。
「なっ、なんだ」
「ブレーカーが落ちたのかも。懐中電灯……あった。ブレーカー見てくるね」
落ち着いた様子でキリカは懐中電灯を探し出し、スイッチを入れた。
こういうこともあろうかと、キッチン周りに非常用の小さい懐中電灯を用意してあったのだ。
豆電球のオレンジ色の光が狭い範囲を照らしている。
それで足元を照らし、ゆっくりと玄関へ歩いていく。
玄関の天井付近を照らしてはみるが、配電盤のブレーカーは落ちていなかった。
これはおかしい。ブレーカーが落ちてないということは、送電に問題があるのだろうか。
「どうやらブレーカーじゃないみたいだぜ。他の家も電気消えてる」
「停電ね。この湿った雪、しかも吹雪だから仕方ないのかも」
「文明が発達しても自然の摂理には敵わないみてーだな」
「そうね。人間もその自然の一部だし」
エドワードはカーテンをめくっていた手を下ろした。
二人の目はだいぶ暗闇に慣れ始めていた。
光で眩んでいた目は周囲の様子をぼんやりとだが捉えることができるようになっている。
「復旧までしばらくかかりそうね」
「まあ、仕方ないよな」
「うん」
暗いせいだろうか。
テレビの音さえしない部屋は静か過ぎる気がしていた。
聞こえるのは壁掛け時計の秒針が刻む音。それと二人が動いたときに聞こえる衣擦れの音のみ。
互いの呼吸音がやけに強調されて聞こえる。
このまま静まり返った部屋で過ごすのも気まずい。
いっそもう床についてしまった方が利口かもしれないが、このまま眠るのも勿体無いと二人は思っていた。
「テレビはつかないし……そうだ、ラジオがあったはずだから持ってくるね」
「わかった。足元気をつけろよ」
「自分の家だもの、どこに何があるのかぐらいわかるわ。懐中電灯、置いていくね」
手に持っていた小ぶりの懐中電灯を上に向けてセンターテーブルに置いた。
しかし、それはすぐにキリカの手に握り返されてしまう。
「探し物するなら明かりがあった方がいいだろ。オレはここから動かないし、持っていってくれ」
「……わかった。すぐ持ってくるね」
キリカは足元がおぼつきながらも自室へ戻っていった。
やはり懐中電灯を持たせて正解だった。その姿を見ていたエドワードは苦笑いを浮かべた。
間もなくしてキリカが戻ってきた。
懐中電灯を脇に抱えているせいか、明かりが不規則にゆらゆらと揺れる。
右手に携帯用ラジオ、左手にはアロマキャンドルを持っていた。
「お待たせ。使ってないキャンドルがあったから明かりの代わりにしましょう」
「使っちまっていいのか?それ、部屋に飾ってたやつだろ」
ガラスの器に薄いピンク色の蝋が詰められている。
芯は真新しく、使った形跡が一度もない。
これはキリカの自室に飾ってあるアロマキャンドルだ。
友人から誕生日のお祝いにともらったもの。エドワードは以前そう聞いていた。
大事なものだから使わずに飾ってあるのではないか。
「いいのよ。こういう時に使わなきゃ。いつまで経っても埃を被ったままだもの」
センターテーブルの真ん中にキャンドルを置き、マッチを擦る。
小さな火が先端に灯り、その火をキャンドルに移した。
懐中電灯のスイッチを切ると、辺りがオレンジ色の暖かい光に包まれているのがはっきりとした。
次にキリカはラジオのスイッチを入れた。
雑音がざあざあと流れる。チューナーをゆっくりと回していくと不鮮明だった音が次第にはっきりと聞こえてきた。
ラジオから女性の歌声が流れていた。
優しい歌声。切ない歌詞がその声にぴったりだ。
「今の時間は歌番組が多いかも。他の局にする?」
「これでいーんじゃねえか。ニュースもやってないんだろうし」
「ローカルだから天気や停電の情報は途中で入ってくるかも」
「じゃ、ここで決まりだな」
「珈琲、持ってくるね」
「さんきゅ」
キッチンに珈琲を置きっぱなしにしていた事を思い出し、キリカはエドワードの隣から席を立った。
向かう途中で足先を家具にぶつけそうになった。
いつも通る道順を探るように歩き、キッチンまで辿りつく。
キッチンの台の上にマグカップのシルエットが二つ見える。
持ち手を両手で一つずつ掴み、今度は来た時よりも慎重に歩いていく。
キャンドルの光が届く範囲に入ると自然と気が緩む。
「お待たせ。まだ温かいわ。熱すぎもせず飲み頃かも」
「ん。そりゃ丁度よかった」
片方の背が高いマグカップをエドワードに手渡し、キリカは腰を下ろした。
それから膝を折り曲げて体育座りをするように膝を腕で抱える。
マグカップを両手で包み込むと、じんわりと熱が伝わってきた。
そのまま一口珈琲を飲み、またマグカップをカイロ代わりにした。
「たまにはこういうのもいいかもな」
エドワードがぽつりと呟いた。
キャンドルの火を見つめる目は寂しげだが、口元には笑みを携えている。
「うん。キャンドルの火って不思議と落ち着くから」
キリカはマグカップをテーブルの上に手放す。
手持ち無沙汰になった両手の平を自分の首に巻きつけるように当てた。
首と手の温度差に一瞬身体を震わせるが、すぐに熱に馴染んでいく。
その様子を見ていたエドワードはソファに置いてある毛布を掴んで引き寄せた。
それを広げてキリカを包む。
「エド」
「暖房だって切れてんだし、こうしてた方があったかいだろ」
「……ありがとう。でも、エドだって寒いでしょ?」
一人で毛布を占領するのは忍びない。
片側の毛布をエドワードの肩にかける。
その為にはもう少し距離を縮めなければならず、必然的に二人の肩が触れ合った。
「い、いいって」
「私がそうしたいから。ただのわがままだと思って聞いて」
「……わかった」
「わがまま聞いてくれてありがと。……あったかい」
エドワードの肩に頭をもたれ、目を瞑る。
ラジオの音があるとはいえ、いつもより速く脈打つ心臓の音が外に聞こえてしまいそうな静けさ。
一度目を閉じたキリカはゆっくりとその目を開き、キャンドルを見つめた。
テーブルの上にはマグカップが二つ。ゆらゆらと影が伸びたり縮んだりしている。
「暖炉でも練成できりゃいいんだけどな」
「いいアイディアだけど、大家さんに怒られちゃうかも」
「やっぱそうだよな。仕方ないからコレで我慢してくれ」
「いいよ。エドの方があったかいもの」
「ばっ、バカやろ。何言って……!」
「私、変なこと言った?」
エドワードの表情が急に崩れ、百面相のように変わる。
一方で話の筋が見えないと首を傾げてくるキリカに「もういい」と力なく答えた。
ゆらり、ゆらり。二人の僅かな挙動に合わせてキャンドルの火が揺れる。
「こういう時に電気のありがたみがわかるわ」
「人間が発明した物はすごいよな。……電気だけじゃない、機械や色んな生活に役立つものが造られてる。錬金術が発達しなくても豊かな暮らしを送れる」
「全ての原点は工夫だと思うの。行き詰ったら別の見方で考える。道は一つだけじゃない、答えは複数あるものだから」
「道は一つだけじゃない、か」
エドワードは右手に力を入れて指先を軽く握り締めた。
長袖から剥き出しになっている機械鎧の手首と手の甲。鈍い鉛色が光に反射していた。
「なんて。数学の先生に怒られるわね。私、文系だからそういう考え方なの。正しい答えが導き出せないから、言い訳ね」
「数式はそうかもしんねーけど。考え方とかはいいんじゃないのか。その方が、救われる気がする」
俯いたエドワードの顔が長い前髪に隠れ、表情が見えなかった。
彼が何か重いものを背負っていることにキリカは薄々感づいていた。
しかし、そう簡単に踏み入っていいものか。
極力触れずにきたが、今となっては放っておくこともできない。
元からお節介というのもあるが、好きな人が辛そうにしているのを黙って見ていられない。
「……エド?」
「世の中にはワケわかんねーもんが一杯あるってコトだよ」
ぱっと明るい声、歯を見せて笑う顔が振り向いた。
先ほどの深刻そうな雰囲気は何だったのか。
思わず拍子抜けしてしまう。
だが、それ以上にお互いの顔が至近距離にあったせいで、キリカは赤面した。
顔色は薄暗いおかげでバレることはないが、目の動きが不審になる。
「ん?どうしたんだ」
「な、なんでもない。こことエドの居る世界はだいぶ違うの?」
「いや、あまり変わらない。文明はこっちの方が発達してるけど、基本的な暮らし方は同じだし」
「そうなんだ。……きっとおんなじような歴史を辿っていくのかもね」
「ああ。戦争、大気汚染、資源枯渇……色んな問題を抱えてる。どこの世界も変わらないのかもな」
たったの三日、一週間では世界の一部すらわからない。
そう言っていた男の言葉をエドワードは思い出していた。
確かに一ヶ月近く過ごしていても、何億何千年の歴史を理解することは不可能だ。
「ねえ、エド。聞いてもいい、かな」
「なに、急に改まって」
「私、エドの世界のことあまり聞こうとしてなかった。信じてないとか、そういうわけじゃないんだけど」
聞いちゃいけないような気がしていた。
続けようとしたその言葉をキリカは飲み込んだ。
尋ねればエドワードが困った顔をするかもしれない。
そう心配していたが、彼は逆に嬉しそうな反応を見せた。
「なんだよ、水くさいな~。オレは色々キリカに聞いてんだし、キリカだってオレに聞いていいに決まってんだろ」
「いいの?」
「もちろん。今まで興味ないのかと思って話してなかったんだ。これで等価交換成立だな」
エドワードは度々『等価交換』という言葉を口にする。
まずはそれがどういう意味合いで使われるのかキリカは尋ねた。
錬金術の理論から始まり、構築式の考え方、質量の法則。難しい話ばかりだった。
しかし、エドワードの話し方が上手いのか、文系であるキリカの頭にもすっと入っていく。
自分の世界のことを話しているエドワードの顔は眩しく輝いているように見えた。
キャンドルの蝋が三分の一も減った頃。
熱弁をふるうエドワードに悪いと思いながらも、キリカはこくりこくりと舟を漕いでいた。
エドワードはそれを咎めることもせず、肩からずり落ちている毛布を彼女に掛けなおす。
キリカは毛布の端を掴んで体をくるりと包み、そのままエドワードの胸に身体を預けた。
急に触れた柔らかい感触。急激に体温が上がるのは必然で、エドワードは行き場のない両腕を宙に浮かせていた。
もうすでに彼女は眠りに落ちているようで、小さな寝息が聞こえてきた。
エドワードはギリギリまで肺に留めていた息を吐き出した。
空っぽになった肺に今度は新鮮な空気を送り込む。
自分の心境は露知らず。すぐ側で寝息を立てている彼女は安らかな顔をしていた。
「……ったく。オレがどういう気持ちかも知らねーで」
口ではそう愚痴っているが、エドワードの目は優しげなものであった。
手持ち無沙汰だった両腕をキリカの背に回し、添える程度の力で抱きしめた。
まるで壊れやすいガラス細工を扱うように、そっと。
『荒れた天気は明け方まで続くでしょう』
テレビのニュースキャスターが季節外れの嵐を伝えていた。
外はごうごうと風が唸るように吹いている。
歩道の雪もだいぶ解け始め、春の陽気がちらほら見え隠れしていた矢先のこと。
発達した低気圧が北日本を包み込んだ。
外気温は氷点下になるかならないかの微妙な数値を示している。
乾いた雪ではなく、重たく湿った雪が一日中降り続いていた。
ニュースキャスターは警報を告げ、引き続き注意するようにと呼びかける。
その後、すぐにCMに移り変わった。
同時にコンロにかけていたヤカンが鳴り始める。
何秒も鳴らないうちにその火は止められた。
それぞれ背丈の違うマグカップにインスタントコーヒーを二杯ずつ、そこにお湯を注いだ。
キリカがテレビに目を向けた時はガムのCMが流れていた。
「こんなに暖かくなったのに。急に荒れるなんて思ってもなかった」
「低気圧があんだけ重なってりゃあな」
「電車、私が乗ってきたので最後だったみたい。その後は運休ばかり。今も殆ど動いてないみたいよ」
「ほんと、タッチの差だったよな」
エドワードは読んでいた本に栞を挟めた。
本をテーブルの隅に置き、凝り固まった肩を左右に鳴らす。
つい二時間前にエドワードはキリカを迎えに行っていた。
駅には電車を待つ人々で溢れ返っていた。
夕方になるにつれて天気が悪化していることに、エドワードは嫌な予感を覚えた。
案の定、電車は遅れて到着した。
ホーム側の改札から人が波のように流れてくる。
押し合いへし合いしながらやっとのことで彼女の姿を見つけたエドワードは必死に手を伸ばして振り続けた。
その手に気づいたキリカは波に逆らうように人混みから抜け出してきた。
キリカはぐったりとした顔で「ただいま」と笑った。
「明日もダイヤが乱れそうだわ。早めに起きた方がよさそうね」
「そうだな」
テレビの映像が切り替わり、九州地方では桜が咲いたというニュースが流れた。
こちらは季節外れの大雪で、南は天気が悪くとも桜が開花するほど暖かい。
画面には五分咲きの桜が鮮やかな色を映していた。枝は花の房を重そうにして頭を垂れている。
「こっちじゃ桜は五月に入ってから咲くのに」
「きれいな花だな」
「そっか、エドの居た世界ではないんだっけ」
「んー。あるかもしれないけど、直接は見たことない」
「写真でよかったら携帯に入ってるから見る?」
エドワードがその問いかけに答えようとした時であった。
部屋の全ての照明が落ちた。
蛍光灯、テレビ、レコーダー、炊飯器、暖房機器。電気を使う家電が一斉に止まってしまった。
珈琲のマグカップを両手に持っていたキリカはゆっくりとそれをキッチンのテーブルに戻した。
予期せぬ暗闇と訪れた静寂。
うろたえているのはキリカではなく、エドワードの方であった。
「なっ、なんだ」
「ブレーカーが落ちたのかも。懐中電灯……あった。ブレーカー見てくるね」
落ち着いた様子でキリカは懐中電灯を探し出し、スイッチを入れた。
こういうこともあろうかと、キッチン周りに非常用の小さい懐中電灯を用意してあったのだ。
豆電球のオレンジ色の光が狭い範囲を照らしている。
それで足元を照らし、ゆっくりと玄関へ歩いていく。
玄関の天井付近を照らしてはみるが、配電盤のブレーカーは落ちていなかった。
これはおかしい。ブレーカーが落ちてないということは、送電に問題があるのだろうか。
「どうやらブレーカーじゃないみたいだぜ。他の家も電気消えてる」
「停電ね。この湿った雪、しかも吹雪だから仕方ないのかも」
「文明が発達しても自然の摂理には敵わないみてーだな」
「そうね。人間もその自然の一部だし」
エドワードはカーテンをめくっていた手を下ろした。
二人の目はだいぶ暗闇に慣れ始めていた。
光で眩んでいた目は周囲の様子をぼんやりとだが捉えることができるようになっている。
「復旧までしばらくかかりそうね」
「まあ、仕方ないよな」
「うん」
暗いせいだろうか。
テレビの音さえしない部屋は静か過ぎる気がしていた。
聞こえるのは壁掛け時計の秒針が刻む音。それと二人が動いたときに聞こえる衣擦れの音のみ。
互いの呼吸音がやけに強調されて聞こえる。
このまま静まり返った部屋で過ごすのも気まずい。
いっそもう床についてしまった方が利口かもしれないが、このまま眠るのも勿体無いと二人は思っていた。
「テレビはつかないし……そうだ、ラジオがあったはずだから持ってくるね」
「わかった。足元気をつけろよ」
「自分の家だもの、どこに何があるのかぐらいわかるわ。懐中電灯、置いていくね」
手に持っていた小ぶりの懐中電灯を上に向けてセンターテーブルに置いた。
しかし、それはすぐにキリカの手に握り返されてしまう。
「探し物するなら明かりがあった方がいいだろ。オレはここから動かないし、持っていってくれ」
「……わかった。すぐ持ってくるね」
キリカは足元がおぼつきながらも自室へ戻っていった。
やはり懐中電灯を持たせて正解だった。その姿を見ていたエドワードは苦笑いを浮かべた。
間もなくしてキリカが戻ってきた。
懐中電灯を脇に抱えているせいか、明かりが不規則にゆらゆらと揺れる。
右手に携帯用ラジオ、左手にはアロマキャンドルを持っていた。
「お待たせ。使ってないキャンドルがあったから明かりの代わりにしましょう」
「使っちまっていいのか?それ、部屋に飾ってたやつだろ」
ガラスの器に薄いピンク色の蝋が詰められている。
芯は真新しく、使った形跡が一度もない。
これはキリカの自室に飾ってあるアロマキャンドルだ。
友人から誕生日のお祝いにともらったもの。エドワードは以前そう聞いていた。
大事なものだから使わずに飾ってあるのではないか。
「いいのよ。こういう時に使わなきゃ。いつまで経っても埃を被ったままだもの」
センターテーブルの真ん中にキャンドルを置き、マッチを擦る。
小さな火が先端に灯り、その火をキャンドルに移した。
懐中電灯のスイッチを切ると、辺りがオレンジ色の暖かい光に包まれているのがはっきりとした。
次にキリカはラジオのスイッチを入れた。
雑音がざあざあと流れる。チューナーをゆっくりと回していくと不鮮明だった音が次第にはっきりと聞こえてきた。
ラジオから女性の歌声が流れていた。
優しい歌声。切ない歌詞がその声にぴったりだ。
「今の時間は歌番組が多いかも。他の局にする?」
「これでいーんじゃねえか。ニュースもやってないんだろうし」
「ローカルだから天気や停電の情報は途中で入ってくるかも」
「じゃ、ここで決まりだな」
「珈琲、持ってくるね」
「さんきゅ」
キッチンに珈琲を置きっぱなしにしていた事を思い出し、キリカはエドワードの隣から席を立った。
向かう途中で足先を家具にぶつけそうになった。
いつも通る道順を探るように歩き、キッチンまで辿りつく。
キッチンの台の上にマグカップのシルエットが二つ見える。
持ち手を両手で一つずつ掴み、今度は来た時よりも慎重に歩いていく。
キャンドルの光が届く範囲に入ると自然と気が緩む。
「お待たせ。まだ温かいわ。熱すぎもせず飲み頃かも」
「ん。そりゃ丁度よかった」
片方の背が高いマグカップをエドワードに手渡し、キリカは腰を下ろした。
それから膝を折り曲げて体育座りをするように膝を腕で抱える。
マグカップを両手で包み込むと、じんわりと熱が伝わってきた。
そのまま一口珈琲を飲み、またマグカップをカイロ代わりにした。
「たまにはこういうのもいいかもな」
エドワードがぽつりと呟いた。
キャンドルの火を見つめる目は寂しげだが、口元には笑みを携えている。
「うん。キャンドルの火って不思議と落ち着くから」
キリカはマグカップをテーブルの上に手放す。
手持ち無沙汰になった両手の平を自分の首に巻きつけるように当てた。
首と手の温度差に一瞬身体を震わせるが、すぐに熱に馴染んでいく。
その様子を見ていたエドワードはソファに置いてある毛布を掴んで引き寄せた。
それを広げてキリカを包む。
「エド」
「暖房だって切れてんだし、こうしてた方があったかいだろ」
「……ありがとう。でも、エドだって寒いでしょ?」
一人で毛布を占領するのは忍びない。
片側の毛布をエドワードの肩にかける。
その為にはもう少し距離を縮めなければならず、必然的に二人の肩が触れ合った。
「い、いいって」
「私がそうしたいから。ただのわがままだと思って聞いて」
「……わかった」
「わがまま聞いてくれてありがと。……あったかい」
エドワードの肩に頭をもたれ、目を瞑る。
ラジオの音があるとはいえ、いつもより速く脈打つ心臓の音が外に聞こえてしまいそうな静けさ。
一度目を閉じたキリカはゆっくりとその目を開き、キャンドルを見つめた。
テーブルの上にはマグカップが二つ。ゆらゆらと影が伸びたり縮んだりしている。
「暖炉でも練成できりゃいいんだけどな」
「いいアイディアだけど、大家さんに怒られちゃうかも」
「やっぱそうだよな。仕方ないからコレで我慢してくれ」
「いいよ。エドの方があったかいもの」
「ばっ、バカやろ。何言って……!」
「私、変なこと言った?」
エドワードの表情が急に崩れ、百面相のように変わる。
一方で話の筋が見えないと首を傾げてくるキリカに「もういい」と力なく答えた。
ゆらり、ゆらり。二人の僅かな挙動に合わせてキャンドルの火が揺れる。
「こういう時に電気のありがたみがわかるわ」
「人間が発明した物はすごいよな。……電気だけじゃない、機械や色んな生活に役立つものが造られてる。錬金術が発達しなくても豊かな暮らしを送れる」
「全ての原点は工夫だと思うの。行き詰ったら別の見方で考える。道は一つだけじゃない、答えは複数あるものだから」
「道は一つだけじゃない、か」
エドワードは右手に力を入れて指先を軽く握り締めた。
長袖から剥き出しになっている機械鎧の手首と手の甲。鈍い鉛色が光に反射していた。
「なんて。数学の先生に怒られるわね。私、文系だからそういう考え方なの。正しい答えが導き出せないから、言い訳ね」
「数式はそうかもしんねーけど。考え方とかはいいんじゃないのか。その方が、救われる気がする」
俯いたエドワードの顔が長い前髪に隠れ、表情が見えなかった。
彼が何か重いものを背負っていることにキリカは薄々感づいていた。
しかし、そう簡単に踏み入っていいものか。
極力触れずにきたが、今となっては放っておくこともできない。
元からお節介というのもあるが、好きな人が辛そうにしているのを黙って見ていられない。
「……エド?」
「世の中にはワケわかんねーもんが一杯あるってコトだよ」
ぱっと明るい声、歯を見せて笑う顔が振り向いた。
先ほどの深刻そうな雰囲気は何だったのか。
思わず拍子抜けしてしまう。
だが、それ以上にお互いの顔が至近距離にあったせいで、キリカは赤面した。
顔色は薄暗いおかげでバレることはないが、目の動きが不審になる。
「ん?どうしたんだ」
「な、なんでもない。こことエドの居る世界はだいぶ違うの?」
「いや、あまり変わらない。文明はこっちの方が発達してるけど、基本的な暮らし方は同じだし」
「そうなんだ。……きっとおんなじような歴史を辿っていくのかもね」
「ああ。戦争、大気汚染、資源枯渇……色んな問題を抱えてる。どこの世界も変わらないのかもな」
たったの三日、一週間では世界の一部すらわからない。
そう言っていた男の言葉をエドワードは思い出していた。
確かに一ヶ月近く過ごしていても、何億何千年の歴史を理解することは不可能だ。
「ねえ、エド。聞いてもいい、かな」
「なに、急に改まって」
「私、エドの世界のことあまり聞こうとしてなかった。信じてないとか、そういうわけじゃないんだけど」
聞いちゃいけないような気がしていた。
続けようとしたその言葉をキリカは飲み込んだ。
尋ねればエドワードが困った顔をするかもしれない。
そう心配していたが、彼は逆に嬉しそうな反応を見せた。
「なんだよ、水くさいな~。オレは色々キリカに聞いてんだし、キリカだってオレに聞いていいに決まってんだろ」
「いいの?」
「もちろん。今まで興味ないのかと思って話してなかったんだ。これで等価交換成立だな」
エドワードは度々『等価交換』という言葉を口にする。
まずはそれがどういう意味合いで使われるのかキリカは尋ねた。
錬金術の理論から始まり、構築式の考え方、質量の法則。難しい話ばかりだった。
しかし、エドワードの話し方が上手いのか、文系であるキリカの頭にもすっと入っていく。
自分の世界のことを話しているエドワードの顔は眩しく輝いているように見えた。
キャンドルの蝋が三分の一も減った頃。
熱弁をふるうエドワードに悪いと思いながらも、キリカはこくりこくりと舟を漕いでいた。
エドワードはそれを咎めることもせず、肩からずり落ちている毛布を彼女に掛けなおす。
キリカは毛布の端を掴んで体をくるりと包み、そのままエドワードの胸に身体を預けた。
急に触れた柔らかい感触。急激に体温が上がるのは必然で、エドワードは行き場のない両腕を宙に浮かせていた。
もうすでに彼女は眠りに落ちているようで、小さな寝息が聞こえてきた。
エドワードはギリギリまで肺に留めていた息を吐き出した。
空っぽになった肺に今度は新鮮な空気を送り込む。
自分の心境は露知らず。すぐ側で寝息を立てている彼女は安らかな顔をしていた。
「……ったく。オレがどういう気持ちかも知らねーで」
口ではそう愚痴っているが、エドワードの目は優しげなものであった。
手持ち無沙汰だった両腕をキリカの背に回し、添える程度の力で抱きしめた。
まるで壊れやすいガラス細工を扱うように、そっと。