がんばれゴエモン
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攫われた娘
橙色の空の端が薄い紫に染まっていた。その色はゆっくりと手前に流れており、空を紫と紺青色に染めていく。
薄く伸びた雲の先端が風に吹かれ、ゆっくりと千切れていく。その雲は形を少しずつ変え、丸みを帯びて風の吹くまま流れていった。
長屋の外には長椅子が幾つか置かれている。以前住んでいた大工が自ら木でこしらえたものだ。それもだいぶ前の話であり、木の風合いが良い具合に古びてきている。
その長椅子は本来の役割を果たしているものもあれば、いつしか物置に利用されているものもある。
仮住まいの近くにある長椅子にゴエモンは腰を下ろしていた。
羅宇煙管の吸口を放し、煙を噴出す。雲のような煙は細く立ち上り、空へ届く前に消える。火皿に乗せた刻み煙草がじじっと音を立てた。
空全体が濃い紫色に包まれる。夕闇はもうそこまで迫ってきていた。
雁首を軽く人差し指で叩き、灰を煙草盆に落とす。
もう一服と刻み煙草を丸めて火皿に詰めようとした。
不意に隣家から騒々しい音が聞こえ、戸が荒々しく開け放たれる。
中から姿を現したのは血相を変えたサスケ。手には一枚の紙が握られていた。
「大変でござるゴエモン殿!」
「なんでい、やぶから棒に」
「隣がもぬけの空で置手紙が…!」
サスケに手渡された紙に書かれている字を目で追う。
"小娘を返して欲しければ ほろほろ寺に来い"
雑な字でそう書かれていた。ゴエモンの表情が一変し、奥歯をぎりりと噛みしめた。
入り口付近では怪しい者は見かけなかった。居たとすれば、必ず目に入るはず。
「一体いつの間に…!」
「奴ら、裏口から逃げたようでござる」
「通りで気づかなかったはずだぜ」
表側ではなく裏口から侵入してキリカを攫い、逃走したのであろう。
それに気づけずにいた己への不甲斐無さか、はたまた顔のわからぬ悪人共を憎んだせいか。
手にある紙をぐしゃりと握りつぶし、煙管を片付け、駆け出した。
「キリカを助けに行くぜサスケ!」
「合点承知!」
*
夕闇に覆われた空の端が僅かに橙色を残していた。だが、それは物の数分のうちに闇に呑まれた。
長屋を飛び出した彼らは町を走り行く。町人達は慌しく走り去る彼らを振り返るだけ。
欄干橋を渡る足音が橋の中央で止んだ。ゴエモンは前方を見据える。サスケが背をゴエモンに預け、後方を睨みつけた。
暗がりに浮かぶ複数の人影。それらは橋の出入り口を塞ぐように立ち塞がる。
「なんだおめえらは退きやがれ!」
「ここを通すわけにはいかねえなあ」
立ち塞がる男達は厭らしい笑みを浮かべ、じりじりと二人に滲み寄る。
互いに一歩後退り、背中がとんと触れた。サスケは辺りをぐるりと見渡してからゴエモンに小声で話し掛ける。
「こやつ等は恐らくキリカ殿を攫った者の仲間。狙いは拙者達の体力を消耗させることでござろう」
「ちっ…姑息な真似しやがって」
「ここは拙者が奴等を引き付けるでござる。ゴエモン殿は先にほろほろ寺へ!」
サスケは両手にクナイを構え、踏み込んだ足で高く飛び上がった。くるりと身を反転させ、前方に飛び込んで行く。
橋のど真ん中に立つ男を薙ぎ払う。不意を突かれた男はその場にどさりと倒れた。
それを境に男達が前後から襲い掛かる。ゴエモンは欄干に飛び移り、サスケの方を向いた。
背後を取られたサスケが振り返った刹那、けたたましい轟音が当たりに響く。濛々と煙が上がり、男は倒れこんだ。
橋の反対側に赤紫色の忍び装束を着た、緑髪のくのいちが一人。肩には小型のバズーカを担いでいる。
「ヤエちゃん!」
「ここは私達に任せて、早く!」
「すまねえ!」
欄干を伝い、橋を渡りきる。追っ手が二人ばかり居たが、すぐにサスケの手によって沈められた。
ゴエモンが橋を振り返ると二人の周りをぐるりと男達が囲んでいるのが見えた。
ここは二人に任せ、後ろ髪を引かれながらもゴエモンはほろほろ寺へ急いだ。
襲い掛かる男達をヤエの忍び刀が次々と薙ぎ払う。銀色の刃に月光が反射した。
反対側ではクナイが四方八方に飛び散る。
「ヤエ殿かたじけないでござる」
「仲間のピンチには駆けつけなくちゃね」
再びバズーカを担ぎ、一撃を前方に撃ち込んだ。
立ち込める煙に気を取られる男達は、煙の中に紛れて向かってくる二つの人影を見たきり、意識を手放した。
*
朽ちかけた石段を駆け上がっていく。途中、足元が崩れ落ちたがその前に上の段へ飛び移った。
ほろほろ寺とは幽霊が出るという噂の寺。町の者は好んで近寄ろうとはしない。
それ故手入れも行き届かず、雑草が好き放題に伸びている。
今にも屋根が朽ちて崩れそうな廃寺がゴエモンの目に映った。
静まり返った境内から虫の声が聞こえる。誰も居ないように思えたが、木の影に溶け込んでいた大柄な男が姿を現した。
月光に照らされたその顔には見覚えがある。祭りの夜、キリカに文句をつけていた男だ。
キリカを連れ去った犯人はこの男か。ゴエモンは小刀にも似た金色の煙管をその男に向けた。
「キリカを攫ったのはてめえか。一体何が目的でい!」
「目的?貴様に復讐するために決まっておろう!貴様にやられてからというもの…俺は町の笑い者だ!」
「そんなの知ったこっちゃねえ。とにかく、キリカを返してもらうぜ」
「この俺に勝ったら教えてやらんでもない。まあ、生きているかどうかは保障せんがなあ」
それは単なる挑発か、それとも事実か。確かめる術が今は無い。
この挑発に乗せられてしまったゴエモンは素早く男の懐に飛び込んだ。その一撃は小刀によって受け止められた。
薙ぎ払われる前に後方へ飛び退く。相手は大柄な為、素早い動きは出来ないだろうと思っていた。だが、予想以上に動きが細かく、素早い。
相手を侮るなかれ。以前忠告された言葉が頭によぎった。
鈍い音を立て、男の小刀と煙管が交わった。相手の馬鹿力に押され気味になるが、負けじと押し返す。
ぎりぎりと音を立てる互いの獲物。引く瞬間を誤れば傷を負ってしまう。
不意に男はにたりと笑った。気色の悪い奴だとゴエモンは更に小刀を押し返す力を込める。
「そんなにあの小娘が大事か?もっと可愛がってやりゃあ良かったぜ」
ゴエモンの瞳孔が見開かれる。それに満足したかのような笑みを浮かべる男。
鋭く高い音を立て、小刀を弾き返し、素早く退いて間合いを取った。
追撃の手を緩めない男に防戦一方のゴエモン。動揺が表れているせいか、次の手に移ることが出来ずにいた。
顔面を狙う払い斬りにゴエモンは大きく飛び退いた。乱れた息を整えるべく、肩での呼吸を繰り返す。
刹那、右頬に鋭い痛みを感じた。一筋の傷から血が滲み出し、頬を伝い、地面へと落ちる。
しかしその痛みに気を取られている暇など無い。ゴエモンは相手目掛けて走り出した。
右手の煙管を真横に構え、男の懐へ飛び込む。一見してそのまま突っ込んでくるのかと思いきや。
その場で足を踏み込んで、高く高く飛び上がり、背後から男の首元を強く叩き込んだ。
蛙が潰れたような声を上げ、男の巨体がずうんと倒れた。砂埃が舞い上がる。
傍に着地したゴエモンはしばらく様子を窺っていた。男が立ち上がる気配は無い。
相手を倒したはいいが、キリカの居場所を問い詰めることが出来なかった。この付近に居るだろうかと思い、声を張り上げる。
「キリカー!」
返事は無い。虫の音が響くだけだ。
何か嫌なものが背筋を伝い走った。その予感を振り払い、境内を通り抜けて寺を目指す。
斜面と化した石段を上り、破れてぼろぼろの障子戸を開けようとする。歪んだ枠に圧がかかっているせいか、思うように開けられない。がたがたと音を立て、やっとのことで戸を開けた。
寺の内部は暗く、外の月明かりがところどころ入り込んでいた。そのうちの一つの明かりが人間と思わしき足を照らしている。
ゴエモンはその人影に駆け寄り、体を支え起こす。青白い光に照らされた顔は気を失っているキリカであった。
「おい、キリカ!しっかりしろ!」
白い首元に手を当てて脈を確かめる。脈は静かに波打っていた。
キリカの頬に手を添えて軽く叩き、名前を呼び続ける。やがて苦しげな息を漏らし、目を薄っすらと開けた。
しばらくの間キリカは焦点の合わない瞳で前方を見つめていた。ゆっくりと視線を動かし、ゴエモンの顔を捉える。
「キリカ、大丈夫か?」
「ゴエモンさん…わたし。…っ痛」
痛みで顔を歪めたキリカを心配そうに覗き込む。
ぼんやりとしている意識を失わないように気を持とうとした。それでも頭が重く、鈍い痛みがある。
「だいじょうぶ、ちょっと頭が痛いだけです」
「…悪い。こんな目に遭わせちまって」
もう少し周囲に気を配っていれば、未然に防げたかもしれない。
そうすれば危険な目にも遭わせることはなかった。自分の情けなさにゴエモンは俯いていた。
気に病むことは無いと言いたげに、キリカは頬に添えてある手の上に重ねた。その冷たい手の感触にゴエモンは一層眉をしかめる。
「そんなに落ち込まないで下さい。だってゴエモンさん、来てくれたじゃない」
「キリカ」
氷の様に冷たいその手を握り返し、熱を分け与える。温かいと呟いたキリカは目を細めた。
天井の破片が床に落ちた。このままここに居ては危険だ。今にも崩れるかもしれない。
ゴエモンはキリカをゆっくりと抱き上げ、振動を与えないように外へ出た。
歩いては帰れそうにない。そう判断したのはキリカの足首の怪我を見たからだ。
足袋が黒く滲んでいる。彼女は一言も痛いとは口にしない。心配をかけまいとしているのだろう。
その怪我に気づいたゴエモンも口には出さず、境内で倒れている男を鋭く睨みつけた。
石段を下りる際も、極力負担がかからない様にと気を使う。
群青の空には幾つも星が瞬いている。揺られながらその星をキリカは見上げていた。
星空を見たのはキャンプに行ったきりだった。住んでいた都会では周りの電灯が邪魔をして、星が霞んで見えない。
きれいだ。久しぶりに見た星空にその言葉しか見当たらなかった。
「…重く、ないですか?」
「全然。もう少しゆっくり歩いた方がいいかい」
「大丈夫。ゴエモンさんって、優しい人ですよね」
「なっなんでい藪から棒に」
星空からちらと視界に入れたゴエモンの表情は照れて緩んでいた。
それを可笑しそうにくすりと笑い、胸に頭を寄せた。微かな煙草の匂いが鼻をくすぐる。
心地よい揺れに段々と眠気が押し寄せてきた。うとうとと舟を漕ぎ、眠りにつこうとする。
眠りに落ちる前、何かを口にしたような気がしていた。いや、もしかしたら相手が喋ったことかもしれない。
どちらが喋ったのかあやふやなまま、キリカは眠りに落ちた。
橙色の空の端が薄い紫に染まっていた。その色はゆっくりと手前に流れており、空を紫と紺青色に染めていく。
薄く伸びた雲の先端が風に吹かれ、ゆっくりと千切れていく。その雲は形を少しずつ変え、丸みを帯びて風の吹くまま流れていった。
長屋の外には長椅子が幾つか置かれている。以前住んでいた大工が自ら木でこしらえたものだ。それもだいぶ前の話であり、木の風合いが良い具合に古びてきている。
その長椅子は本来の役割を果たしているものもあれば、いつしか物置に利用されているものもある。
仮住まいの近くにある長椅子にゴエモンは腰を下ろしていた。
羅宇煙管の吸口を放し、煙を噴出す。雲のような煙は細く立ち上り、空へ届く前に消える。火皿に乗せた刻み煙草がじじっと音を立てた。
空全体が濃い紫色に包まれる。夕闇はもうそこまで迫ってきていた。
雁首を軽く人差し指で叩き、灰を煙草盆に落とす。
もう一服と刻み煙草を丸めて火皿に詰めようとした。
不意に隣家から騒々しい音が聞こえ、戸が荒々しく開け放たれる。
中から姿を現したのは血相を変えたサスケ。手には一枚の紙が握られていた。
「大変でござるゴエモン殿!」
「なんでい、やぶから棒に」
「隣がもぬけの空で置手紙が…!」
サスケに手渡された紙に書かれている字を目で追う。
"小娘を返して欲しければ ほろほろ寺に来い"
雑な字でそう書かれていた。ゴエモンの表情が一変し、奥歯をぎりりと噛みしめた。
入り口付近では怪しい者は見かけなかった。居たとすれば、必ず目に入るはず。
「一体いつの間に…!」
「奴ら、裏口から逃げたようでござる」
「通りで気づかなかったはずだぜ」
表側ではなく裏口から侵入してキリカを攫い、逃走したのであろう。
それに気づけずにいた己への不甲斐無さか、はたまた顔のわからぬ悪人共を憎んだせいか。
手にある紙をぐしゃりと握りつぶし、煙管を片付け、駆け出した。
「キリカを助けに行くぜサスケ!」
「合点承知!」
*
夕闇に覆われた空の端が僅かに橙色を残していた。だが、それは物の数分のうちに闇に呑まれた。
長屋を飛び出した彼らは町を走り行く。町人達は慌しく走り去る彼らを振り返るだけ。
欄干橋を渡る足音が橋の中央で止んだ。ゴエモンは前方を見据える。サスケが背をゴエモンに預け、後方を睨みつけた。
暗がりに浮かぶ複数の人影。それらは橋の出入り口を塞ぐように立ち塞がる。
「なんだおめえらは退きやがれ!」
「ここを通すわけにはいかねえなあ」
立ち塞がる男達は厭らしい笑みを浮かべ、じりじりと二人に滲み寄る。
互いに一歩後退り、背中がとんと触れた。サスケは辺りをぐるりと見渡してからゴエモンに小声で話し掛ける。
「こやつ等は恐らくキリカ殿を攫った者の仲間。狙いは拙者達の体力を消耗させることでござろう」
「ちっ…姑息な真似しやがって」
「ここは拙者が奴等を引き付けるでござる。ゴエモン殿は先にほろほろ寺へ!」
サスケは両手にクナイを構え、踏み込んだ足で高く飛び上がった。くるりと身を反転させ、前方に飛び込んで行く。
橋のど真ん中に立つ男を薙ぎ払う。不意を突かれた男はその場にどさりと倒れた。
それを境に男達が前後から襲い掛かる。ゴエモンは欄干に飛び移り、サスケの方を向いた。
背後を取られたサスケが振り返った刹那、けたたましい轟音が当たりに響く。濛々と煙が上がり、男は倒れこんだ。
橋の反対側に赤紫色の忍び装束を着た、緑髪のくのいちが一人。肩には小型のバズーカを担いでいる。
「ヤエちゃん!」
「ここは私達に任せて、早く!」
「すまねえ!」
欄干を伝い、橋を渡りきる。追っ手が二人ばかり居たが、すぐにサスケの手によって沈められた。
ゴエモンが橋を振り返ると二人の周りをぐるりと男達が囲んでいるのが見えた。
ここは二人に任せ、後ろ髪を引かれながらもゴエモンはほろほろ寺へ急いだ。
襲い掛かる男達をヤエの忍び刀が次々と薙ぎ払う。銀色の刃に月光が反射した。
反対側ではクナイが四方八方に飛び散る。
「ヤエ殿かたじけないでござる」
「仲間のピンチには駆けつけなくちゃね」
再びバズーカを担ぎ、一撃を前方に撃ち込んだ。
立ち込める煙に気を取られる男達は、煙の中に紛れて向かってくる二つの人影を見たきり、意識を手放した。
*
朽ちかけた石段を駆け上がっていく。途中、足元が崩れ落ちたがその前に上の段へ飛び移った。
ほろほろ寺とは幽霊が出るという噂の寺。町の者は好んで近寄ろうとはしない。
それ故手入れも行き届かず、雑草が好き放題に伸びている。
今にも屋根が朽ちて崩れそうな廃寺がゴエモンの目に映った。
静まり返った境内から虫の声が聞こえる。誰も居ないように思えたが、木の影に溶け込んでいた大柄な男が姿を現した。
月光に照らされたその顔には見覚えがある。祭りの夜、キリカに文句をつけていた男だ。
キリカを連れ去った犯人はこの男か。ゴエモンは小刀にも似た金色の煙管をその男に向けた。
「キリカを攫ったのはてめえか。一体何が目的でい!」
「目的?貴様に復讐するために決まっておろう!貴様にやられてからというもの…俺は町の笑い者だ!」
「そんなの知ったこっちゃねえ。とにかく、キリカを返してもらうぜ」
「この俺に勝ったら教えてやらんでもない。まあ、生きているかどうかは保障せんがなあ」
それは単なる挑発か、それとも事実か。確かめる術が今は無い。
この挑発に乗せられてしまったゴエモンは素早く男の懐に飛び込んだ。その一撃は小刀によって受け止められた。
薙ぎ払われる前に後方へ飛び退く。相手は大柄な為、素早い動きは出来ないだろうと思っていた。だが、予想以上に動きが細かく、素早い。
相手を侮るなかれ。以前忠告された言葉が頭によぎった。
鈍い音を立て、男の小刀と煙管が交わった。相手の馬鹿力に押され気味になるが、負けじと押し返す。
ぎりぎりと音を立てる互いの獲物。引く瞬間を誤れば傷を負ってしまう。
不意に男はにたりと笑った。気色の悪い奴だとゴエモンは更に小刀を押し返す力を込める。
「そんなにあの小娘が大事か?もっと可愛がってやりゃあ良かったぜ」
ゴエモンの瞳孔が見開かれる。それに満足したかのような笑みを浮かべる男。
鋭く高い音を立て、小刀を弾き返し、素早く退いて間合いを取った。
追撃の手を緩めない男に防戦一方のゴエモン。動揺が表れているせいか、次の手に移ることが出来ずにいた。
顔面を狙う払い斬りにゴエモンは大きく飛び退いた。乱れた息を整えるべく、肩での呼吸を繰り返す。
刹那、右頬に鋭い痛みを感じた。一筋の傷から血が滲み出し、頬を伝い、地面へと落ちる。
しかしその痛みに気を取られている暇など無い。ゴエモンは相手目掛けて走り出した。
右手の煙管を真横に構え、男の懐へ飛び込む。一見してそのまま突っ込んでくるのかと思いきや。
その場で足を踏み込んで、高く高く飛び上がり、背後から男の首元を強く叩き込んだ。
蛙が潰れたような声を上げ、男の巨体がずうんと倒れた。砂埃が舞い上がる。
傍に着地したゴエモンはしばらく様子を窺っていた。男が立ち上がる気配は無い。
相手を倒したはいいが、キリカの居場所を問い詰めることが出来なかった。この付近に居るだろうかと思い、声を張り上げる。
「キリカー!」
返事は無い。虫の音が響くだけだ。
何か嫌なものが背筋を伝い走った。その予感を振り払い、境内を通り抜けて寺を目指す。
斜面と化した石段を上り、破れてぼろぼろの障子戸を開けようとする。歪んだ枠に圧がかかっているせいか、思うように開けられない。がたがたと音を立て、やっとのことで戸を開けた。
寺の内部は暗く、外の月明かりがところどころ入り込んでいた。そのうちの一つの明かりが人間と思わしき足を照らしている。
ゴエモンはその人影に駆け寄り、体を支え起こす。青白い光に照らされた顔は気を失っているキリカであった。
「おい、キリカ!しっかりしろ!」
白い首元に手を当てて脈を確かめる。脈は静かに波打っていた。
キリカの頬に手を添えて軽く叩き、名前を呼び続ける。やがて苦しげな息を漏らし、目を薄っすらと開けた。
しばらくの間キリカは焦点の合わない瞳で前方を見つめていた。ゆっくりと視線を動かし、ゴエモンの顔を捉える。
「キリカ、大丈夫か?」
「ゴエモンさん…わたし。…っ痛」
痛みで顔を歪めたキリカを心配そうに覗き込む。
ぼんやりとしている意識を失わないように気を持とうとした。それでも頭が重く、鈍い痛みがある。
「だいじょうぶ、ちょっと頭が痛いだけです」
「…悪い。こんな目に遭わせちまって」
もう少し周囲に気を配っていれば、未然に防げたかもしれない。
そうすれば危険な目にも遭わせることはなかった。自分の情けなさにゴエモンは俯いていた。
気に病むことは無いと言いたげに、キリカは頬に添えてある手の上に重ねた。その冷たい手の感触にゴエモンは一層眉をしかめる。
「そんなに落ち込まないで下さい。だってゴエモンさん、来てくれたじゃない」
「キリカ」
氷の様に冷たいその手を握り返し、熱を分け与える。温かいと呟いたキリカは目を細めた。
天井の破片が床に落ちた。このままここに居ては危険だ。今にも崩れるかもしれない。
ゴエモンはキリカをゆっくりと抱き上げ、振動を与えないように外へ出た。
歩いては帰れそうにない。そう判断したのはキリカの足首の怪我を見たからだ。
足袋が黒く滲んでいる。彼女は一言も痛いとは口にしない。心配をかけまいとしているのだろう。
その怪我に気づいたゴエモンも口には出さず、境内で倒れている男を鋭く睨みつけた。
石段を下りる際も、極力負担がかからない様にと気を使う。
群青の空には幾つも星が瞬いている。揺られながらその星をキリカは見上げていた。
星空を見たのはキャンプに行ったきりだった。住んでいた都会では周りの電灯が邪魔をして、星が霞んで見えない。
きれいだ。久しぶりに見た星空にその言葉しか見当たらなかった。
「…重く、ないですか?」
「全然。もう少しゆっくり歩いた方がいいかい」
「大丈夫。ゴエモンさんって、優しい人ですよね」
「なっなんでい藪から棒に」
星空からちらと視界に入れたゴエモンの表情は照れて緩んでいた。
それを可笑しそうにくすりと笑い、胸に頭を寄せた。微かな煙草の匂いが鼻をくすぐる。
心地よい揺れに段々と眠気が押し寄せてきた。うとうとと舟を漕ぎ、眠りにつこうとする。
眠りに落ちる前、何かを口にしたような気がしていた。いや、もしかしたら相手が喋ったことかもしれない。
どちらが喋ったのかあやふやなまま、キリカは眠りに落ちた。