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いつもの季節がやってきた
早朝の冷え込みが厳しくなり、日中の任務も寒いと感じる日が多くなってきた。
いよいよ冬の到来かと思いきや、寒さの緩んだ日が続く。さらにその翌日に気温がガクッと下がることもあって、気温差が実に激しい。こういった気温差に弱い人間にとっては、体調を崩しやすいシーズンに突入したともいえる。
その該当者に心当たりがあった俺は、今日の任務を終えた後にその相手に連絡を一本入れることにした。
電話の呼び出しを待つ間、吐き出した息が白く曇って消えていく。コールが五回聞こえた後、熱っぽくて怠そうな声の穂香が「もしもし」と応じてきた。
「予想通り、風邪引いてたみたいだな。…もうそんな時期になるのか」
『……人の体調不良を年中行事みたいに言わないでよ』
「ははっ…そんな冗談が言えるならまだマシな方か?」
穂香は毎年この寒暖差が浮き彫りになる頃に体調を崩す。
色付いた秋から冬枯れの景色に変わるこの季節と、殺風景な街路樹に花や緑が綻び始めた頃だ。気温の差に身体がついていかないとかで、風邪の症状をよく引き起こしている。酷い時は咳が止まらなくて眠れない日が続いたとか。
でも、電話越しの声を聴く限りそこまで酷い症状じゃなさそうだ。本当に酷い時は「しんどい」の一言しか返ってこないからな。
『…だいぶ良くはなったから。熱はまだ下がんないけど。症状は治まったし』
「酷くないようで安心したぜ」
『私だって気をつけてるのよ。寝不足にならないよう夜更かしは控えたり、ビタミンミネラル摂ったり、乾燥も注意したり』
「…あぁ。それ、今年の春先にも聞いた気がするな」
この間も気をつけろと言ったばかりだ。嫌みを言ったつもりじゃないが、そう指摘したら無言になっちまった。
自分なりに健康に気遣った対策をしていると、数ヶ月前に同じ内容を聞かされている。本人は頑張ってるのに、報われないのは正直可哀想だな。
「今日の任務終わったし、何か必要なもんあれば買ってくぜ」
『いい。うつすといけないし、熱と喉の痛みだけだもの。治りかけよ』
「この時間帯に電話に出られるってことは、しんどいから休んで家にいるんだろ。そうやって遠慮した時は長引かせてたよな。それに、治りかけなら尚更だ」
少し口調を強めれば、また無言。すぐに言い返してこないあたり、やっぱり本調子じゃない。決して小言を並べたいわけじゃない。心配だからだ。
暫く続いた無音の後、渋々「わかった」とぽつりと返ってきた。
『……解熱剤。あと、スポーツドリンク』
「食欲は?」
『微妙』
「分かった。適当にゼリーとか食べれそうなもん見繕ってくる。着いたらまた連絡するけど……ちゃんと寝てろよ?」
念のために釘を刺しておく。いつだったか見舞いに行った時、寝てるのも飽きたからと言って赤い顔したままデザイン画描いてたり、試作品の布を裁断していることがあった。その時は流石にベッドに引きずり戻して、無理やり寝かしつけたっけ。
日本人はワーカーホリックだとどっかで聞いたけど、まさか病気の時までこうだとは思いもしない。休まないと体調良くならないし、どう考えても効率が悪い。
俺の念押しに対して、穂香は曖昧な返事しかしなかった。これはもしかしたら、またフラフラしながら起きている可能性があるな。
◇◆◇
事情を話してレンに今日の報告書を任せ、俺はイーストヴィレッジのスーパーマーケットで頼まれた物、すぐ食べられそうな食品と食材を購入。適当なサイズのエコバッグにそれらを詰め込んで店を出た。
ここから郊外にある穂香の住むアパートまでそう時間は掛からない。先に連絡を入れようかとも思ったけど、何度も連絡をするのも気が引けていた。寝ていたらドアノブに引っ掛けて帰ろうとも考えてるし。部屋の前についてから連絡すればいいか。
郊外の住宅地に向かうにつれて静けさが増していく。街路灯、車や人通りも多いから治安は悪くないと聞いている。
他のエリアでもそうだけど、此処に来ると色んな言語が聞こえてくるんだよな。簡単な挨拶や単語なら聞き取れるし、意味も分かる。でも話の全体像はぼんやりとしか浮かばない。
昔、穂香に日本語を習って覚えようとした時期があった。でも、結局中途半端になっちまった。なんだかんだ忙しかったのもあるし、意思疎通が英語で出来ることに甘えていたせいだ。なんでそんなに拘るのかって聞かれたこともある。好きな子の話す母国語はそりゃ、気になるだろ。
「寒くなってきたねー」
「ねー」
冷たい風が吹き抜けていく。
すれ違い様に聞こえた言語。女性二人組が寒い、寒いと笑い合いながらそう話していた。
アパートの前に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。インターホンを鳴らす前に、電話を掛ける。すぐに電話に出た相手の第一声が「もう着いたの?」と驚いていた。
ちょっと待つように指示を出され、電話を切ってドアの前で待つこと五分。中でバタバタと慌ただしい音が聞こえてくる。予想通り、証拠隠滅中ってか。
じっとしてると結構寒くなってきた。両手をコートのポケットに突っ込み、マフラーに顔を埋める。
不意に目の前のドアが開いて、ラフな部屋着姿の穂香が出てくる。
「…ノースから来るの早くない?」
俺を見るなり不満そうに顔を顰めた。熱を含んだ暗褐色の瞳はぼんやりとしている。頬も上気しているし、呼吸も苦しそうだ。思いの外、具合悪そうだな。見舞いに来て不機嫌そうな態度を取られるのは今までに穂香以外に思いつかない。
穂香は俺がブルーノースにいると思い込んでいたんだろう。だからのんびりと構えて、到着の連絡に慌てて片付けたってところか。
「今日はこっちのエリアをパトロールしてたからな。近くのスーパーマーケット寄ってきたぜ」
手持ちの袋を持ち上げて見せる。この袋と俺の顔を不思議そうに交互に眺め、それから首を横へ捻った。意味が分からないといった風にクエスチョンマークを頭に浮かべている。
「……もう三年も経った?イースト担当になったの?」
「俺が【HELIOS】に入所してからまだ半年も経ってないだろ。担当エリア以外もたまにパトロールするんだよ」
「……なるほど」
「上がっても大丈夫か?」
「たぶん」
多分ってなんだ。そうツッコミを入れるも、ぼうっとしているのかスルーされる。部屋に上がってから、すぐその理由が分かった。
室内はいつもと変わらない様子だが、慌てて片付けた感が満載だ。さっきの物音が動かぬ証拠。スケッチブックがテーブルに雑に積まれた雑誌の間からはみ出ている。短時間では色鉛筆とかの画材が片付けきれなかったようで、ローテーブルの隅に寄せ集められていた。やっぱり何か描いてたな。
調子が悪いなら寝てろと言ったはずだ。そう叱るより先に、ダイニングテーブルに置いた袋の中身をざっくりと確認していた穂香が嬉しそうな声を上げた。
「このチョコレート美味しいんだよね。ありがと」
「……それが一番美味いって前に言ってただろ。あとはいつも買ってきてるやつと、適当に食材見繕ってきた」
「あっ。豆腐だ!」
解熱剤。ゼリー、ヨーグルト。スポーツドリンク、フルーツ、野菜。袋の底に豆腐を見つけた時のテンションが明らかに違っていた。
「ショウガ乗せて、しょう油かけて食うのが好きなんだろ?」
「うん。湯豆腐にする。こんなに買ってきてくれたの、なんか申し訳ない」
「気にすんなって。今さら遠慮するような仲でもないんだし。それに、無理にでも押し掛けないといつも悪化させてるからな。…熱があるってのに寝てなかったみたいだしな?」
軽く睨みつけてもどこ吹く風だ。まったく。にこにこしながら「ほんと、とても感謝してます。いつも」と礼を言ってきた。それはいいんだが、なんかさっきから言い回しが妙だな。熱で頭が回ってないのか。穂香の額に手を当てる。熱い。微熱どころじゃないだろこれ。
「熱、結構あるな。目玉焼き焼けちまいそうだ」
「……」
「穂香?」
「ガスト、体温低すぎない?大丈夫?」
額に触れた俺の手が冷たすぎて、まるで氷のようだと逆に心配された。外が冷え込んできたとは言え、そこまで冷たくなってないぞ。
「そっちが熱高すぎるんだ。大人しく寝てないから熱が上がるんだろ。…またデザイン画描いてたみたいだし」
体調が良くないのに、安静にしないで活動するのは良くない。呆れた目をテーブルに向ける。誤魔化そうとせずに「だって、ずっと寝てるの暇なんだもん」と拗ねていた。それが次の瞬間にはころっと表情を変えて、笑みを浮かべる。
「いいデザインが浮かんだの。見る?見る?」
小さい子が絵を上手く描けたから見てほしいといった風に。無邪気に笑っていて、可愛いとは思うけど。今はそんなこと考えてる場合じゃない。
「はいはい。穂香が元気になってからな」
「私は元気よ。熱があるだけで」
「それは万全とは言えない。薬は飲んだのか」
「飲んだ。さっき最後の分」
「じゃあさっさと寝た方がいい。頭とか冷やすものは?」
「冷蔵庫に保冷剤入ってる。お昼に冷やしといた」
冷蔵庫に向かおうとした穂香の身体がふらっと左右に揺れた。慌てて支えにいったが、この様子だとどっかに頭ぶつけちまうぞ。そうなる前に、強制送還だな。
俺は穂香の背中と膝の裏を支えて抱えあげる。目を丸くしてこっちを見つめてくるもんだから、無駄にドキドキしてくる。顔が近い。でもこうしないと自力でベッドに戻らないだろうし。
抱えて運んでる途中、穂香が俺のマフラーを掴んで引っ張ってきた。
「って…こら、引っ張るな」
「これ、似合ってる。色が好き」
「……そりゃどーも。暴れるなよ、落っことしちまう」
そんなヘマは絶対にしないけどな。万が一暴れられたら危ない。俺に抱えられても、嫌がる素振りもなく大人しく身体を預けてくれているから、その心配は不要みたいだ。触れた体温は随分と高い。
いざベッドルームに足を踏み入れるも、結構緊張していた。こうして風邪拗らせた穂香を寝かしつけたことは何度かあるものの、俺自身がこの部屋借りてからまだ日は浅い。余計な緊張感に縛られそうだった。
「…因みに、冷やしてるのは冷凍庫の方であってるよな?」
聞き間違いでなければ、さっき冷蔵庫って聞こえた。そこだと凍るはずがない。このぼんやり具合だと間違って入れた可能性も否定できない。
ベッドに横になった穂香の肩まで掛け布団を被せる。ぼんやりした目をしながら、間延びした声を出した。呼びかけに対して反応が遅れてきている。
「あー……うん。冷凍庫」
「オーケー。取ってくる。…だいぶ英語が雑になってきてるぞ」
「……正直、自分で何言ってるかわからないし、ガストの言ってることも半分くらい理解が遅れてる」
「頼むからちゃんと休んでくれ。意思疎通できなくなったらそれこそ困る」
寒気はないかと聞いて「ない」とはっきり返ってきたので保冷剤だけを取りに戻った。そのまま放置されていた袋の中身を冷蔵庫へ適当にしまい、スポーツドリンクだけ残しておく。
冷凍庫には冷却用のジェル枕と保冷剤が角に納まっていた。いい感じに凍っている。
それらを取り出してからバスルームへ。タオルが入ってそうな棚を開けて、薄手のタオルを拝借。今さらだけど、一応ここもプライベートゾーンだ。踏み入るのは気が引ける。あんまジロジロ見るのは良くないと分かっていながら、ランドリーバスケットに溜まってる洗濯物が目に留まってしまった。変なものは見てないぞ。麻で編んだバスケットで中は透けてないし、フタがしまりきってなくてシャツの袖が見えただけだ。
そそくさとバスルームを出て、冷却用のジェル枕をタオルに包む。
ベッドルームに戻る前に、マフラーとコートを脱いで椅子の背に掛けさせてもらった。
「ほら、枕と保冷剤。熱高い時は一緒に動脈冷やした方がいいんだろ」
「物知りね」
「これ、穂香が前に言ってたことだぞ」
「……そうだっけ。あー…気持ちいい」
冷たい枕に頭を乗せた穂香が目を閉じた。とりあえずこれで大人しく寝てくれそうだな。
しかし、ホッとしたのも束の間。閉じていた目をパチっと開き、俺の方を見上げてきた。熱のせいで少し涙目になっている。
「ありがと。帰っていいよガスト」
「……ははっ。つれない仕打ちだな」
「あー……違う。ほら、私が寝ちゃったら帰れなくなるでしょ。家のカギ。だから、寝る前に帰って」
熱で朦朧として、英語での言葉選びが上手く出来ないことは分かっている。見返りを求めてるワケでもない。ただ、ストレートにそう言われると流石に突き放された感があって少し寂しかった。
それに帰れと言われてもなぁ。こんあ状態の穂香を残していくのは心配だ。今は大人しく横になってるけど、また暇だからと部屋の中をウロウロしそうだし。それじゃあいつまで経っても体調が良くならない。
「いいって。明日オフだし、少し帰り遅くなっても問題ないからな。なんか作って起きるの待ってるよ。それまで適当に寛がせてもらうし」
「でも」
「具合が悪い時って誰か居た方が安心できるだろ?」
穂香は交友関係広いし、俺以外にも見舞いに来たダチはいるだろう。それでも一人暮らしで体調を崩した時とかは頼れる相手が限られてくる。遠慮なくワガママ言ったり、思ったことそのまま口に出せたりするうちの一人だと俺は思いたい。
「……そうだね。いつもありがと」
「どういたしまして。スポーツドリンクここに置いとく。ちゃんと水分補給しろよ。俺は隣の部屋に居るから、なんかあったら呼んでくれ。それじゃ、おやすみ」
「ん……ガスト」
ベッドから離れようとした時だ。呼び止められたので振り返る。じっとこちらを見て、何か訴えているような表情。何か持ってきてほしい物でもあるのか、そう聞き返したら予想外過ぎる答えが返ってきた。
「おやすみのキスは」
今、何て言った。今度こそ聞き間違いか。おやすみのキスとか聞こえたんだけど。ちょっと待て、なんでそんな発想になるんだ。確かにおやすみとは言った。家族間でそりゃするけどさ、男女間の友達でもそういうのってするもんなのか。いや、友達枠で収まりたいワケじゃない。この場合、どうするのが正解なんだ。
動けずに固まっていた俺に向けられていた視線。それがふいっと寝返りと共に逸れた。
「まあ、いいや。おやすみ」
いやいや、俺にとっては全然良くないんですけど。何だったんだよさっきの発言は。真意を探ろうにも、眠ろうとしているとこ邪魔したらまた起きてきそうだし。
なんか最近の俺、振り回されてないか。本人はそんなつもりじゃないんだろうけどな。
早朝の冷え込みが厳しくなり、日中の任務も寒いと感じる日が多くなってきた。
いよいよ冬の到来かと思いきや、寒さの緩んだ日が続く。さらにその翌日に気温がガクッと下がることもあって、気温差が実に激しい。こういった気温差に弱い人間にとっては、体調を崩しやすいシーズンに突入したともいえる。
その該当者に心当たりがあった俺は、今日の任務を終えた後にその相手に連絡を一本入れることにした。
電話の呼び出しを待つ間、吐き出した息が白く曇って消えていく。コールが五回聞こえた後、熱っぽくて怠そうな声の穂香が「もしもし」と応じてきた。
「予想通り、風邪引いてたみたいだな。…もうそんな時期になるのか」
『……人の体調不良を年中行事みたいに言わないでよ』
「ははっ…そんな冗談が言えるならまだマシな方か?」
穂香は毎年この寒暖差が浮き彫りになる頃に体調を崩す。
色付いた秋から冬枯れの景色に変わるこの季節と、殺風景な街路樹に花や緑が綻び始めた頃だ。気温の差に身体がついていかないとかで、風邪の症状をよく引き起こしている。酷い時は咳が止まらなくて眠れない日が続いたとか。
でも、電話越しの声を聴く限りそこまで酷い症状じゃなさそうだ。本当に酷い時は「しんどい」の一言しか返ってこないからな。
『…だいぶ良くはなったから。熱はまだ下がんないけど。症状は治まったし』
「酷くないようで安心したぜ」
『私だって気をつけてるのよ。寝不足にならないよう夜更かしは控えたり、ビタミンミネラル摂ったり、乾燥も注意したり』
「…あぁ。それ、今年の春先にも聞いた気がするな」
この間も気をつけろと言ったばかりだ。嫌みを言ったつもりじゃないが、そう指摘したら無言になっちまった。
自分なりに健康に気遣った対策をしていると、数ヶ月前に同じ内容を聞かされている。本人は頑張ってるのに、報われないのは正直可哀想だな。
「今日の任務終わったし、何か必要なもんあれば買ってくぜ」
『いい。うつすといけないし、熱と喉の痛みだけだもの。治りかけよ』
「この時間帯に電話に出られるってことは、しんどいから休んで家にいるんだろ。そうやって遠慮した時は長引かせてたよな。それに、治りかけなら尚更だ」
少し口調を強めれば、また無言。すぐに言い返してこないあたり、やっぱり本調子じゃない。決して小言を並べたいわけじゃない。心配だからだ。
暫く続いた無音の後、渋々「わかった」とぽつりと返ってきた。
『……解熱剤。あと、スポーツドリンク』
「食欲は?」
『微妙』
「分かった。適当にゼリーとか食べれそうなもん見繕ってくる。着いたらまた連絡するけど……ちゃんと寝てろよ?」
念のために釘を刺しておく。いつだったか見舞いに行った時、寝てるのも飽きたからと言って赤い顔したままデザイン画描いてたり、試作品の布を裁断していることがあった。その時は流石にベッドに引きずり戻して、無理やり寝かしつけたっけ。
日本人はワーカーホリックだとどっかで聞いたけど、まさか病気の時までこうだとは思いもしない。休まないと体調良くならないし、どう考えても効率が悪い。
俺の念押しに対して、穂香は曖昧な返事しかしなかった。これはもしかしたら、またフラフラしながら起きている可能性があるな。
◇◆◇
事情を話してレンに今日の報告書を任せ、俺はイーストヴィレッジのスーパーマーケットで頼まれた物、すぐ食べられそうな食品と食材を購入。適当なサイズのエコバッグにそれらを詰め込んで店を出た。
ここから郊外にある穂香の住むアパートまでそう時間は掛からない。先に連絡を入れようかとも思ったけど、何度も連絡をするのも気が引けていた。寝ていたらドアノブに引っ掛けて帰ろうとも考えてるし。部屋の前についてから連絡すればいいか。
郊外の住宅地に向かうにつれて静けさが増していく。街路灯、車や人通りも多いから治安は悪くないと聞いている。
他のエリアでもそうだけど、此処に来ると色んな言語が聞こえてくるんだよな。簡単な挨拶や単語なら聞き取れるし、意味も分かる。でも話の全体像はぼんやりとしか浮かばない。
昔、穂香に日本語を習って覚えようとした時期があった。でも、結局中途半端になっちまった。なんだかんだ忙しかったのもあるし、意思疎通が英語で出来ることに甘えていたせいだ。なんでそんなに拘るのかって聞かれたこともある。好きな子の話す母国語はそりゃ、気になるだろ。
「寒くなってきたねー」
「ねー」
冷たい風が吹き抜けていく。
すれ違い様に聞こえた言語。女性二人組が寒い、寒いと笑い合いながらそう話していた。
アパートの前に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。インターホンを鳴らす前に、電話を掛ける。すぐに電話に出た相手の第一声が「もう着いたの?」と驚いていた。
ちょっと待つように指示を出され、電話を切ってドアの前で待つこと五分。中でバタバタと慌ただしい音が聞こえてくる。予想通り、証拠隠滅中ってか。
じっとしてると結構寒くなってきた。両手をコートのポケットに突っ込み、マフラーに顔を埋める。
不意に目の前のドアが開いて、ラフな部屋着姿の穂香が出てくる。
「…ノースから来るの早くない?」
俺を見るなり不満そうに顔を顰めた。熱を含んだ暗褐色の瞳はぼんやりとしている。頬も上気しているし、呼吸も苦しそうだ。思いの外、具合悪そうだな。見舞いに来て不機嫌そうな態度を取られるのは今までに穂香以外に思いつかない。
穂香は俺がブルーノースにいると思い込んでいたんだろう。だからのんびりと構えて、到着の連絡に慌てて片付けたってところか。
「今日はこっちのエリアをパトロールしてたからな。近くのスーパーマーケット寄ってきたぜ」
手持ちの袋を持ち上げて見せる。この袋と俺の顔を不思議そうに交互に眺め、それから首を横へ捻った。意味が分からないといった風にクエスチョンマークを頭に浮かべている。
「……もう三年も経った?イースト担当になったの?」
「俺が【HELIOS】に入所してからまだ半年も経ってないだろ。担当エリア以外もたまにパトロールするんだよ」
「……なるほど」
「上がっても大丈夫か?」
「たぶん」
多分ってなんだ。そうツッコミを入れるも、ぼうっとしているのかスルーされる。部屋に上がってから、すぐその理由が分かった。
室内はいつもと変わらない様子だが、慌てて片付けた感が満載だ。さっきの物音が動かぬ証拠。スケッチブックがテーブルに雑に積まれた雑誌の間からはみ出ている。短時間では色鉛筆とかの画材が片付けきれなかったようで、ローテーブルの隅に寄せ集められていた。やっぱり何か描いてたな。
調子が悪いなら寝てろと言ったはずだ。そう叱るより先に、ダイニングテーブルに置いた袋の中身をざっくりと確認していた穂香が嬉しそうな声を上げた。
「このチョコレート美味しいんだよね。ありがと」
「……それが一番美味いって前に言ってただろ。あとはいつも買ってきてるやつと、適当に食材見繕ってきた」
「あっ。豆腐だ!」
解熱剤。ゼリー、ヨーグルト。スポーツドリンク、フルーツ、野菜。袋の底に豆腐を見つけた時のテンションが明らかに違っていた。
「ショウガ乗せて、しょう油かけて食うのが好きなんだろ?」
「うん。湯豆腐にする。こんなに買ってきてくれたの、なんか申し訳ない」
「気にすんなって。今さら遠慮するような仲でもないんだし。それに、無理にでも押し掛けないといつも悪化させてるからな。…熱があるってのに寝てなかったみたいだしな?」
軽く睨みつけてもどこ吹く風だ。まったく。にこにこしながら「ほんと、とても感謝してます。いつも」と礼を言ってきた。それはいいんだが、なんかさっきから言い回しが妙だな。熱で頭が回ってないのか。穂香の額に手を当てる。熱い。微熱どころじゃないだろこれ。
「熱、結構あるな。目玉焼き焼けちまいそうだ」
「……」
「穂香?」
「ガスト、体温低すぎない?大丈夫?」
額に触れた俺の手が冷たすぎて、まるで氷のようだと逆に心配された。外が冷え込んできたとは言え、そこまで冷たくなってないぞ。
「そっちが熱高すぎるんだ。大人しく寝てないから熱が上がるんだろ。…またデザイン画描いてたみたいだし」
体調が良くないのに、安静にしないで活動するのは良くない。呆れた目をテーブルに向ける。誤魔化そうとせずに「だって、ずっと寝てるの暇なんだもん」と拗ねていた。それが次の瞬間にはころっと表情を変えて、笑みを浮かべる。
「いいデザインが浮かんだの。見る?見る?」
小さい子が絵を上手く描けたから見てほしいといった風に。無邪気に笑っていて、可愛いとは思うけど。今はそんなこと考えてる場合じゃない。
「はいはい。穂香が元気になってからな」
「私は元気よ。熱があるだけで」
「それは万全とは言えない。薬は飲んだのか」
「飲んだ。さっき最後の分」
「じゃあさっさと寝た方がいい。頭とか冷やすものは?」
「冷蔵庫に保冷剤入ってる。お昼に冷やしといた」
冷蔵庫に向かおうとした穂香の身体がふらっと左右に揺れた。慌てて支えにいったが、この様子だとどっかに頭ぶつけちまうぞ。そうなる前に、強制送還だな。
俺は穂香の背中と膝の裏を支えて抱えあげる。目を丸くしてこっちを見つめてくるもんだから、無駄にドキドキしてくる。顔が近い。でもこうしないと自力でベッドに戻らないだろうし。
抱えて運んでる途中、穂香が俺のマフラーを掴んで引っ張ってきた。
「って…こら、引っ張るな」
「これ、似合ってる。色が好き」
「……そりゃどーも。暴れるなよ、落っことしちまう」
そんなヘマは絶対にしないけどな。万が一暴れられたら危ない。俺に抱えられても、嫌がる素振りもなく大人しく身体を預けてくれているから、その心配は不要みたいだ。触れた体温は随分と高い。
いざベッドルームに足を踏み入れるも、結構緊張していた。こうして風邪拗らせた穂香を寝かしつけたことは何度かあるものの、俺自身がこの部屋借りてからまだ日は浅い。余計な緊張感に縛られそうだった。
「…因みに、冷やしてるのは冷凍庫の方であってるよな?」
聞き間違いでなければ、さっき冷蔵庫って聞こえた。そこだと凍るはずがない。このぼんやり具合だと間違って入れた可能性も否定できない。
ベッドに横になった穂香の肩まで掛け布団を被せる。ぼんやりした目をしながら、間延びした声を出した。呼びかけに対して反応が遅れてきている。
「あー……うん。冷凍庫」
「オーケー。取ってくる。…だいぶ英語が雑になってきてるぞ」
「……正直、自分で何言ってるかわからないし、ガストの言ってることも半分くらい理解が遅れてる」
「頼むからちゃんと休んでくれ。意思疎通できなくなったらそれこそ困る」
寒気はないかと聞いて「ない」とはっきり返ってきたので保冷剤だけを取りに戻った。そのまま放置されていた袋の中身を冷蔵庫へ適当にしまい、スポーツドリンクだけ残しておく。
冷凍庫には冷却用のジェル枕と保冷剤が角に納まっていた。いい感じに凍っている。
それらを取り出してからバスルームへ。タオルが入ってそうな棚を開けて、薄手のタオルを拝借。今さらだけど、一応ここもプライベートゾーンだ。踏み入るのは気が引ける。あんまジロジロ見るのは良くないと分かっていながら、ランドリーバスケットに溜まってる洗濯物が目に留まってしまった。変なものは見てないぞ。麻で編んだバスケットで中は透けてないし、フタがしまりきってなくてシャツの袖が見えただけだ。
そそくさとバスルームを出て、冷却用のジェル枕をタオルに包む。
ベッドルームに戻る前に、マフラーとコートを脱いで椅子の背に掛けさせてもらった。
「ほら、枕と保冷剤。熱高い時は一緒に動脈冷やした方がいいんだろ」
「物知りね」
「これ、穂香が前に言ってたことだぞ」
「……そうだっけ。あー…気持ちいい」
冷たい枕に頭を乗せた穂香が目を閉じた。とりあえずこれで大人しく寝てくれそうだな。
しかし、ホッとしたのも束の間。閉じていた目をパチっと開き、俺の方を見上げてきた。熱のせいで少し涙目になっている。
「ありがと。帰っていいよガスト」
「……ははっ。つれない仕打ちだな」
「あー……違う。ほら、私が寝ちゃったら帰れなくなるでしょ。家のカギ。だから、寝る前に帰って」
熱で朦朧として、英語での言葉選びが上手く出来ないことは分かっている。見返りを求めてるワケでもない。ただ、ストレートにそう言われると流石に突き放された感があって少し寂しかった。
それに帰れと言われてもなぁ。こんあ状態の穂香を残していくのは心配だ。今は大人しく横になってるけど、また暇だからと部屋の中をウロウロしそうだし。それじゃあいつまで経っても体調が良くならない。
「いいって。明日オフだし、少し帰り遅くなっても問題ないからな。なんか作って起きるの待ってるよ。それまで適当に寛がせてもらうし」
「でも」
「具合が悪い時って誰か居た方が安心できるだろ?」
穂香は交友関係広いし、俺以外にも見舞いに来たダチはいるだろう。それでも一人暮らしで体調を崩した時とかは頼れる相手が限られてくる。遠慮なくワガママ言ったり、思ったことそのまま口に出せたりするうちの一人だと俺は思いたい。
「……そうだね。いつもありがと」
「どういたしまして。スポーツドリンクここに置いとく。ちゃんと水分補給しろよ。俺は隣の部屋に居るから、なんかあったら呼んでくれ。それじゃ、おやすみ」
「ん……ガスト」
ベッドから離れようとした時だ。呼び止められたので振り返る。じっとこちらを見て、何か訴えているような表情。何か持ってきてほしい物でもあるのか、そう聞き返したら予想外過ぎる答えが返ってきた。
「おやすみのキスは」
今、何て言った。今度こそ聞き間違いか。おやすみのキスとか聞こえたんだけど。ちょっと待て、なんでそんな発想になるんだ。確かにおやすみとは言った。家族間でそりゃするけどさ、男女間の友達でもそういうのってするもんなのか。いや、友達枠で収まりたいワケじゃない。この場合、どうするのが正解なんだ。
動けずに固まっていた俺に向けられていた視線。それがふいっと寝返りと共に逸れた。
「まあ、いいや。おやすみ」
いやいや、俺にとっては全然良くないんですけど。何だったんだよさっきの発言は。真意を探ろうにも、眠ろうとしているとこ邪魔したらまた起きてきそうだし。
なんか最近の俺、振り回されてないか。本人はそんなつもりじゃないんだろうけどな。