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小さなファン
甲高い、耳をつんざくような鋭い鳥の鳴き声が澄んだ空に響いた。ヒヨドリが木の梢でしきりに鳴いている。
グリーンイーストのとある公園。ここでは様々な野鳥を観察することができる。リトルトーキョーにほど近い場所にあり、棲息する野鳥も日本由来が多く見られた。ヒヨドリ、スズメ、エナガ、シジュウカラ、ヤマガラ、メジロといった小鳥がそれぞれ縄張りを持っている。
バードウォッチングを楽しむ場として市民に提供されており、鳥の餌をワゴンで販売している。餌台やバードバスもあちこちに設置されており、野鳥の姿を間近で観察できると人気の場所だ。
休日にこの公園に訪れたガストと穂香は貸し出された双眼鏡を首に引っ掛け、広い公園を散策していた。
「バードウォッチングできる場所がイーストにあるなんて知らなかったわ」
「こういう施設って気にしないと案外知らないままだよな。それこそ趣味でもないと自分で調べないし」
先日、ガストはメジロについて調べていた。その際に偶然この公園の記事をネットニュースで目にしたのだ。
山で鳥の声を聞くことがあっても、その姿を捉えるのは中々に難しい。元々警戒心が強い種は人前に姿を見せないが、山で餌を取ることができない冬場に人里へ降りてくる種もいる。この公園がその一箇所となっていた。
「野鳥保護地区なだけあって、色んな鳥がいるみたいだな」
「ええ。鳥の声が冬空に響いて綺麗ね」
エリア毎に観察できる野鳥が異なり、先程訪れたエリアではヒヨドリが縄張りを主張していた。
乾いた遊歩道の上をちょこちょこと歩く尾羽が長い小鳥。白と黒のツートンカラーの身体をしたハクセキレイだ。彼は時折タタタッと走り出し、急ブレーキをかけた様にぴたりと立ち止まる。長い尾羽を上下にぴょこぴょこと振り、また思い出したように走り出す。彼らは人間が餌をくれる生き物だと学んでいるようで、一定の距離を保ちながらうろちょろしていた。
細い木の枝に止まったシジュウカラが「ツーツー」と仲間に呼びかけている。その姿を見つけ、双眼鏡のピントを合わせるのだが、その間にどこかへ飛んでいってしまう。小鳥が集まる場所とはいえ、バードウォッチングはそう簡単にはいかないようだ。
「このエリアはすばしっこい小鳥が多いみたいだな。見つけたと思ったらもうどっかいっちまってるし」
「……素人だと双眼鏡のピント合わせるのも時間かかっちゃうものね。バードバスがこの先にあるみたいだし、そっちに行ってみましょ」
「そうだな」
バードバスと小鳥が描かれた看板。そちらに歩いていくと、雑木を柵で囲った場所に辿り着いた。
低い金物の柵で囲われており、人の手が届かない中央に広めのバードバスが設置されている。入れ物に白と黒の玉石が敷き詰められており、水深は浅め。循環装置により水は常に新しいものが注がれている。
柵の外側から小鳥の様子を静かに窺う二組のカップル。どちらもつがいのように寄り添っていた。
二人は開いているスペースに立ち、柵に寄りかかって奥を覗き込んだ。そこでは小鳥たちがバードバスでかわるがわるに水浴びをしている。小さな両翼を少し広げ、小刻みに震わせる。姿勢を低くし、水しぶきをあげてそれを繰り返す。シジュウカラの姿が特に目立つようだ。
愛らしい小鳥たちの姿に穂香は頬を緩める。
「ふふっ、可愛い。この距離なら双眼鏡は使わなくてもよく見えるわね」
素手で双眼鏡の調整リングを回し、ピントを合わせようとしていた手を放す。穂香は冷えたその手を擦り合わせ、息を吹きかけた。吐息が白く曇り、消えていく。
それを見ていたガストは穂香の両手を自分の手で包み込んだ。指先が氷の様に冷たい。あかぎれも目立って痛々しく、思わず眉を顰めた。
「冷え切ってる。手荒れも酷くなってないか?見てて痛々しい」
「冬場はどうしても、ね。布を扱うから静電気も酷くて。ハンドクリーム塗っても塗っても治らないから、仕方ないのよ」
「……これは穂香が頑張ってる証だとは思うけどさ。今日の水仕事は全部俺が引き受ける。細かい傷があると洗剤とか沁みて痛いだろ」
「別にそこまでじゃないから大丈夫よ」
「俺がいる時くらいは頼ってくれていいんだぞ。むしろ頼ってほしい。それに今日は作ってみたいモンがあってさ。この間、美味そうなレシピ見つけたんだ」
寒い冬にぴったりのあったかレシピ。その中からラタトゥイユを見つけた。ナスやズッキーニ、パプリカをトマト缶で煮込む。隠し味に味噌を使ったレシピがあったので、それに挑戦してみたいとガストはウキウキしている。張り切っているところに水を差すのもどうか。お言葉に甘えて今日の晩御飯担当をガストに任せることにしよう。
「ラタトゥイユの材料はイーストのマーケットで揃うと思う。……自分で作ったことないし、作り方覚えたいからガストの隣でサポートしてもいい?」
「ああ、頼む。あとでそのレシピが載ってたサイトも教える」
「ありがと。……そろそろ移動しない?バードウォッチングしに来てるんだし、別のエリアにも行ってみましょうよ」
気がつけば野鳥を観察せずに手を取り合って見つめ合っている。他人の目が痛くならないうちに。穂香がそう気を使うと、ガストは気恥ずかしそうに笑った。彼にもその意図はどうやら伝わったようだ。
「そろそろ休憩挟むか。向こうで温かいモンでも飲もうぜ」
彼女の片手だけを繋ぎ直し、外気に晒されないようチェスターコートのポケットへ。二人は自然と互いに寄り添う形で歩き出した。
彼方でヒヨドリの声が聞こえる。
ヒヨドリのナワバリから外れたこのエリアでは、カラ系やエナガなどの小鳥たちが自由に飛び回っていた。
整備された散策路の脇に小ぶりのレトロなワゴン車。サンドイッチ、トルティーヤなどの軽食と各種ソフトドリンクを販売。
飲食を扱うコーナーとは別のカウンターにケーキスタンドが置かれているが、乗せられているのは小鳥の餌。小さなプラケースにぎゅっと詰められた木の実やみかんの輪切り。小鳥の専用餌台に設置できるものだ。
木の実や果実と一緒に並ぶ細長い虫。当然、昆虫が主食の鳥もいる。プラケースの中でウネウネと蠢く芋虫から穂香は目を反らした。
休憩スペースの近くに小さな川が流れている。水深はごく浅く、雨が少ない年には干上がることも少なくない。川岸に沿って細い桜の木が連なっており、春には見事な薄紅色の花を咲かせる。今は花も葉も全く見られず、冬枯れの姿でひっそりとしていた。そのどこかの枝で羽を休めている小鳥がいるようで、チィチィと可愛らしい鳴き声を上げていた。
春に桜を見に来ようか。小鳥たちの囀りが聞こえる頃に。
二人は抹茶ラテで冷えた手と身体を温めながら、少し先の春を待ち侘びた。
「この抹茶ラテ美味いな。ミルクが濃くて飲みやすい」
「苦味を抑えてるからまろやかね。……私はもう少し抹茶感がある方が好きかも」
「穂香はコーヒーも日本茶も割とストレートで飲むもんな。あの苦い抹茶も涼しい顔で飲んでたし」
昨年の春、日本に訪れたガストは彼女と共に抹茶を点てるお茶会を体験。茶道の先生が隣で作法をあれこれ教えてくれたのだが、茶道具の扱い方に戸惑った。抹茶を掬うための茶杓を持ちながら茶筒を開ける。その動作が上手く行えずに指が攣りそうに。当然の如くきっちりと正座した足も痺れて自由が利かなくなってしまった。
初めて自分で点てた抹茶はそれはもう苦いもので。渋く淹れた緑茶の何倍も苦く。複雑な表情で「結構なお点前でした」と片言に発したガストを穂香は笑ったのである。
「すごく複雑な表情してたわね、ガスト」
「抹茶の菓子ぐらいだと思ってたのにめちゃくちゃ苦かったからな。あまりの苦さに美味いのか何なのかよくわからなかったぜ。穂香はなんか様になってたよな、お茶を点ててる時も飲んでる時も」
その姿はさながら和服を身に纏った大和撫子。つい、見惚れてしまったものだ。
「ハイスクールの友達が茶道部だったの。文化祭の時に遊びに行ってたから、見様見真似ってやつ。……あら」
ベンチに座る二人の前に「チチッ」と鳴きながらハクセキレイが一羽降りてきた。
ハクセキレイは波線を描くように飛ぶ。その際、白と黒のコントラストが一層美しく際立つ。早足で穂香の足元に近づき、小さな頭を左右に傾げながら顔を見上げてくる。長い尾羽をピョコピョコと振りながら。
「私が木の実セットとみかん買ったところ見てたのかしら」
「鳥は目がいいからな。人の行動を結構見てるとこある。でも、コイツらはミミズや昆虫が主食なんだけど」
「……昆虫のセットは買ってないのよ。ちょっと、見た目がアレで」
あとで餌台に設置しようと購入した木の実とみかんの輪切り。それぞれ一ケースずつ所持しているが、昆虫セットにはどうしても手を伸ばせなかった。
「悪いな。お前が食えそうなモンは無さそうだ」
ガストの足元でちょろちょろしていたハクセキレイは小首を傾げ、タタタッと離れていく。薄灰色の翼を広げ、空へ飛び去っていった。
「今のハクセキレイ、オスだったな」
「えっ。あの一瞬でわかったの?」
「頭が黒かっただろ。ハクセキレイのオスは冬毛でも頭が黒い。メスは灰色なんだ。そこが見分けポイントだな」
今さっき飛び立ったハクセキレイの特徴を思い出せば、確かに小さな頭は黒かった。それよりも、随分と博識なことに穂香は驚いていた。
「随分詳しいのね」
「メジロのこと調べてたら他の鳥のことも出てきてさ。ついでに目を通したんだ」
ガストが何故メジロのことを調べていたのかというと、それは昨年の【サブスタンス】騒動まで話が遡る。グリーンイーストをパトロール中、道端で寒さに凍えて縮こまっていたメジロを助けた。その際、偶然にも【サブスタンス】の影響を受けたガスト。鳥の好む周波数が発生し、大小様々な野鳥の止まり木に利用されてしまう。その後ノースチームのおかげで事なきを得て、手の平で丸くなっていたメジロも元気に羽ばたいていった。
それから数日後、小さな桜の房を銜えて恩返しに来たのはまた別の話になる。それをきっかけにメジロとはどんな鳥なのか興味を持って調べたという訳だ。
「この間ガストが助けてあげた子よね。恩返しに桜の花銜えて持ってきたっていう」
「ああ。律儀にお裾分けしに来てくれたんだ」
彼は季節外れの春を届けに来た。このまま枯らすには勿体ないと考え、ガストは穂香に相談を持ちかける。
一般的な保存方法は押し花、ドライフラワーが挙げられる。それならば花を散りばめたポストカードはどうだろうか。名案だと手を打ち、ポストカードとフレームを用意した。
市販で手に入る赤や青のドライフラワーを組み合わせ、小さなキャンバスに花のアートを描く。やがて真っ白なキャンバスに桜が咲いた。
フレームに収めたそれはガストの部屋で一足先に春を迎えている。
「穂香のお陰でいい感じのポストカードに仕上がった。俺じゃ思いつかないようなデザインが次々浮かんでくるから、ホントすごいよなぁ。尊敬しちまうぜ」
「服のデザインとはちょっと勝手が違ったけど……気に入ってもらえて良かった。その子の話聞いた時はびっくりしたけどね。鶴の恩返しならぬメジロの恩返しだなんて」
俄かには信じ難いこの話。穂香は実際にその場に居合わせた訳ではないが、ガストが嘘を吐いているとは思わない。あの時のメジロが恩返しで桜の花を運んできた。そんな嘘を吐いて何の得になるのか。証拠は彼が悩ましい顔で相談を持ち掛けてきた桜の花で充分に事足りる。
噂をすれば、金木犀の小枝から「チィーチィー」と間延びした小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「そういえばこの辺りじゃないかしら。メジロが観察できるエリア」
「ああ。さっきからそれっぽい鳴き声も聞こえてるな」
「メジロのオスメス見分け方もさっきのハクセキレイみたいに特徴あるのかしら」
「一応、これだっていう目安はある」
「例えば?」
鳥の話に夢中になっている二人の背後に忍び寄る小さな影。それは音もなくベンチの背に降り立った。黄緑色の小鳥――メジロが一羽、ちょんちょんと跳ねながらガストの肩にやってくきた。
「オスは首元と下尾筒の黄色い部分が鮮やかなんだ。あと、腹の中央に縦の線が入ってて……そう、こんな風にだな」
ガストの肩に止まったメジロは腕を伝い降りてきた。手首に止まったもこもこのメジロ。寒さを凌ぐ為に冬毛でまん丸となっている。ガストは全く戸惑う様子を見せず、むしろ説明に丁度いいとメジロの首元を指で示した。
突然現れたメジロに驚くのは穂香だけ。まさかまた【サブスタンス】の影響かと考えもした。
「あとは鳴き声だな。メスの気を引くのに綺麗な声で歌うんだ」
「チィチィッ。チュイー」
「地鳴きはこんな感じだ。そうそう、目の周りが白く縁どられてるけど一箇所切れてる所があるだろ? これは正面から威嚇する時に……」
「ガスト」
「ん?」
「近い。メジロが近いわ」
「え?」
穂香はガストの手首を指差した。そこに目を向けたガストは今初めてメジロが止まっていることに気がついた。ガストの目が冬毛の鳥の様にまん丸に見開かれる。
「チィ、チィ」
「……この辺もお前のナワバリなのか?」
メジロを驚かせないよう、静かに問いかける。すると、返事をするようにまた「チュイ」と鳴いた。
「もしかしてこの子、ガストの知り合い……っていうのも変ね。あの時の子?」
「みたいだな。嘴の付け根あたりに白い筋が入ってるし、同じヤツだ」
「チィヨ、チュイー」
「ははっ……すっかり懐かれちまったみたいだ。実はこの間もパトロールの休憩中に寄ってきてさ」
小さな鈴を転がしたような可愛らしい声で歌うメジロ。小鳥が懐いた人間を相手に甘えた声で鳴く様子とよく似ていた。チヨチヨ鳴きながらガストの後をついてくる光景を想像すると実に微笑ましい。
「ガストに小さなファンができたわね」
「……野生はどうしたって訊きたくもなるけどな。チヨスケ、誰彼構わず人間についていくんじゃないぞ」
「名前つけたの?」
「あぁ。チヨチヨ鳴くから」
「チィーヨ」
ガストが手の平を上に向けると、メジロのチヨスケがそこにぴょいと飛び乗った。そこにお腹をぺたんとつけて座る。その様子を隣で見ていた穂香は「ホント、警戒心無さすぎね」と笑った。
和やかな雰囲気の中、不意にベンチの背もたれにもう一羽メジロが降りてきた。このメジロは体を大きく膨らませ、両翼の先を小刻みに震わせている。
「……ガスト。メジロがもう一羽いるんだけど」
「え? ……ホントだ。って、なんか威嚇してないかコイツ」
両翼を震わせたメジロは嘴を大きく開け、真正面からガスト睨みつけている。その剣幕は今にも飛び掛かってきそうなほどだ。鳥が相手とはいえ、これにはガストもたじろぐ。
「な、なんでコイツ怒ってるんだ。……チヨスケにじゃなくっ?!」
その次の瞬間、怒りを顕わにしたメジロがガストに襲い掛かる。小さくても鋭い爪を光らせ、ガストの顔面に体当たり。空中で身を翻して翼を羽ばたかせ、もう一度体当たりをしてきた。
「いっ……! ちょ、待ってくれ! 俺は何もしてないぞ?!」
「チィー!」
「落ち着けって……!」
バサバサと羽ばたきながら果敢に向かってくるメジロ。ガストがそれを片腕だけでガードしていると、チヨスケがそのメジロに「チー!」と呼びかけた。すると、攻撃をピタリと止めた。ぎゅんっと体を翻し、ベンチの手摺に羽を休める。乱れた毛並みを整えるように翼を広げ、羽繕いを始めた。
「び、びっくりした……。大丈夫、ガスト?」
「まぁ、大事は無いから大丈夫だ。いてて……」
小鳥一羽の体当たりは大したことがないが、爪で引っ掻かれた痛々しい爪痕が頬に。この傷を見たチヨスケはガストに「チィ」と小さく鳴いた。それからもう一羽のメジロがいる所にパタパタと飛んでいく。
チヨスケが近づく気配を感じ取ったメジロは羽繕いを止め、じっとチヨスケを見ていた。
「チィーチィー」
何かを訴えるようにチヨスケが相手に語り掛ける。それはまるで「この人間は悪い人間じゃないよ」といった風にだ。しかし、プイッとそっぽを向いたメジロ。距離を詰めてくるチヨスケに対して威嚇を示し、ぴょんと跳ねて距離を取ってしまう。
これにショックを受けたのか、チヨスケは情けない声で鳴き、しゅんと項垂れてしまった。ガストの目にはそう映っている。
「……あの子、メスのメジロっぽいな」
「ということは、チヨスケのパートナー?」
「かもな。メジロは番で行動することが多いらしいし。……もしかして、チヨスケが俺に捕まってると思ったんじゃ。それで助けようとして……それなら人間相手に立ち向かってきた理由も頷ける」
「でも、チヨスケにも威嚇してたわよ、あの子。……自分の旦那を盗られそうになったから『何してるのよアンタ!』って具合な気もする。浮気現場発見したって感じに」
穂香の推測は強ち間違いではなかった。
実はさっきまでチヨスケとパートナーは近くの木で仲睦まじく身を寄せ合っていた。目白押しという言葉があるように、メジロは樹上で押し合うように止まることがある。この二羽もぴったりと寄り添い、互いに羽繕いをしていたのだ。
そこで聞こえてきたガストの声。チヨスケはガストの姿を見掛けるなり、囀りながら一目散に飛んでいった。最愛の彼が知らない人間の元へ飛んでいくものだから、嫉妬したのである。ガストには自慢の毛並みを犠牲にしてまで体当たりで襲い掛かり、チヨスケには「この浮気者!」と腹を立てている真っ最中なのだ。
「……チィー」
「なんか、ホントにそう見えてきた。大丈夫か、チヨスケ」
今も情けない声で鳴くチヨスケにガストは優しく声を掛ける。こちらも顔の傷はヒリヒリとするが、彼の傷心度はこんなものではないだろう。
「元気出せって。まだフラれたワケじゃないんだし。……ほら、その証拠にまだそこでお前を待っててくれてるだろ。諦めちまうのか? お前が頑張って口説いた子なんだろ」
「チィ」
ガストは小さな彼をじっと見つめた。臆病腰でいては何も変わらない。ガストはそう語り掛けた。
真摯なその思いがチヨスケに届いたのか、彼はピョンピョンと跳ねてまたガストの腕に止まった。そこで片方の翼をぐっと伸ばし、綺麗に畳む。そして嘴を大きく開けた。
辺り一帯に冴え渡るメジロの囀り。美しい鳥の歌声が高く、遠くまで響いていく。
チヨスケは体全身を震わせて、意中の子に向けたラブソングを歌い続けた。これが心に響いたのか、じっとチヨスケを見つめる。
「小さな鈴が鳴る様な、綺麗な囀りね。こんなに近くでメジロの囀りを聴くのは初めてだわ」
「……ちょっと近すぎて、俺は耳が痛いけどな。でも、ホントに綺麗な鳴き声だ。……おっ」
その場に留まっていたメジロに動きが見られた。小首を何度も傾げ、周囲の様子を窺う。それから姿勢をぐっと低く構え、チヨスケの元へ飛び移った。ちょんちょんと歩み寄り、ぴったりと寄り添うようにくっつく。
「チィ」
「良かったな、チヨスケ。お前の想いがこの子に伝わったみたいだ」
ガストの腕に並んだ二羽のメジロ。彼らはそこでお互いの羽繕いを始めた。自分の嘴では届かない目の縁を繕う。気持ち良さそうにチヨスケは目を瞑っていた。そんな二羽にガストは目を細める。
「仲良しね。見てるこっちが照れちゃう」
「だな。……俺の腕は完全に止まり木状態だし。身動き取れねぇ」
「あ、それなら。ちょっと待ってて」
さっき購入したみかんの輪切り。それを餌台に設置すれば釣られてくるだろう。穂香は少し離れた場所にある餌台へ行き、針金を曲げてみかんの輪切りを固定した。
ベンチから見えるその場所にみかんが出現。それを目聡く先に捉えたのはチヨスケのパートナー。彼女はパタパタと飛んでいき、みかんの手前に降り立つ。首を忙しなく右へ、左へと傾ける。みかんの縁に足を掛け、周囲を警戒しながら細い嘴を差し込む。果肉を啄み、また辺りを警戒。それを繰り返しながらみかんを味わっている。
「チヨスケは食べに行かないのか?」
遠慮しなくていいぞとチヨスケに声を掛けてみるが、彼はガストの腕でぴょん、ぴょんと小さく跳ねて様子を窺っていた。
メジロの番は片方が餌を食べている時、もう片方が見張り役を務める。ヒヨドリなどの自分より大きな鳥を警戒しているのだ。
暫くして、チヨスケの彼女が近くの木に飛び移った。それを確認したチヨスケが待ってましたと言わんばかりにみかん目掛けて飛んでいく。
夢中でみかんを啄む様子を眺める二人に自然と笑みが浮かぶ。
「みかんの味が気に入ったみたいだな」
「メジロは甘党だもんね。それに桜や梅の蜜を吸うのに枝から枝を飛び移るし、軽いから細い枝先にも平気でぶら下がってること多いわ」
「軽業師みたいだよなぁ」
「チーィチーィ!」
みかんを啄んでいたチヨスケが急に高く鋭い声で鳴き出した。
すると、どこに身を潜めていたのか次々とメジロが餌台に降りてきた。十羽近いメジロがチィチィ鳴き交わしている。一つのみかんを仲良く分け合ってとはいかないようで、時々小競り合いをしていた。
どうやら先程力強く鳴いたのは仲間に呼び掛ける為だったようだ。
「……チヨスケ。お前、仲間が沢山いるんだな」
「ガストみたいね。……それにしても、もうどれがチヨスケか私には見分けがつかないわ。……あの子かしら」
この距離から肉眼で特定の個体を判断するのは難しい。しかもじっとしていないので、目で追うのも大変だ。
「急に大所帯になっちまったもんな。みかん、もう何個か買ってくるか」
輪切り一つでは到底足りそうにない。折角集まってくれた彼らの為にと、ワゴンでみかんの輪切りを四個調達。それらを設置しに餌台にガストが近づくと、二羽を残して一斉に飛び立つ。
果肉が半分以上減ったみかんの側でチヨスケたちが早く早くと催促をする。
「ちょっと待ってろよ。……これでよしっと」
全てのみかんを設置した直後、退いていたメジロたちが戻ってきた。ガストがまだその場から離れていないのにだ。これには流石にガストも驚いている。
彼は元々鳥に好かれやすいのかもしれない。それは【ナイトホーク】の影響か、はたまた彼の性格か。
メジロに懐かれた『ヒーロー』は後にも先にもガスト以外にはいないだろう。穂香はこの瞬間を逃さないようスマホで動画を撮り始めた。
メジロの保育園のようだ。これも良い思い出になるだろう。
しかし、思い出どころか数年単位の付き合いになる未来が待っていることを二人はまだ知らない。
甲高い、耳をつんざくような鋭い鳥の鳴き声が澄んだ空に響いた。ヒヨドリが木の梢でしきりに鳴いている。
グリーンイーストのとある公園。ここでは様々な野鳥を観察することができる。リトルトーキョーにほど近い場所にあり、棲息する野鳥も日本由来が多く見られた。ヒヨドリ、スズメ、エナガ、シジュウカラ、ヤマガラ、メジロといった小鳥がそれぞれ縄張りを持っている。
バードウォッチングを楽しむ場として市民に提供されており、鳥の餌をワゴンで販売している。餌台やバードバスもあちこちに設置されており、野鳥の姿を間近で観察できると人気の場所だ。
休日にこの公園に訪れたガストと穂香は貸し出された双眼鏡を首に引っ掛け、広い公園を散策していた。
「バードウォッチングできる場所がイーストにあるなんて知らなかったわ」
「こういう施設って気にしないと案外知らないままだよな。それこそ趣味でもないと自分で調べないし」
先日、ガストはメジロについて調べていた。その際に偶然この公園の記事をネットニュースで目にしたのだ。
山で鳥の声を聞くことがあっても、その姿を捉えるのは中々に難しい。元々警戒心が強い種は人前に姿を見せないが、山で餌を取ることができない冬場に人里へ降りてくる種もいる。この公園がその一箇所となっていた。
「野鳥保護地区なだけあって、色んな鳥がいるみたいだな」
「ええ。鳥の声が冬空に響いて綺麗ね」
エリア毎に観察できる野鳥が異なり、先程訪れたエリアではヒヨドリが縄張りを主張していた。
乾いた遊歩道の上をちょこちょこと歩く尾羽が長い小鳥。白と黒のツートンカラーの身体をしたハクセキレイだ。彼は時折タタタッと走り出し、急ブレーキをかけた様にぴたりと立ち止まる。長い尾羽を上下にぴょこぴょこと振り、また思い出したように走り出す。彼らは人間が餌をくれる生き物だと学んでいるようで、一定の距離を保ちながらうろちょろしていた。
細い木の枝に止まったシジュウカラが「ツーツー」と仲間に呼びかけている。その姿を見つけ、双眼鏡のピントを合わせるのだが、その間にどこかへ飛んでいってしまう。小鳥が集まる場所とはいえ、バードウォッチングはそう簡単にはいかないようだ。
「このエリアはすばしっこい小鳥が多いみたいだな。見つけたと思ったらもうどっかいっちまってるし」
「……素人だと双眼鏡のピント合わせるのも時間かかっちゃうものね。バードバスがこの先にあるみたいだし、そっちに行ってみましょ」
「そうだな」
バードバスと小鳥が描かれた看板。そちらに歩いていくと、雑木を柵で囲った場所に辿り着いた。
低い金物の柵で囲われており、人の手が届かない中央に広めのバードバスが設置されている。入れ物に白と黒の玉石が敷き詰められており、水深は浅め。循環装置により水は常に新しいものが注がれている。
柵の外側から小鳥の様子を静かに窺う二組のカップル。どちらもつがいのように寄り添っていた。
二人は開いているスペースに立ち、柵に寄りかかって奥を覗き込んだ。そこでは小鳥たちがバードバスでかわるがわるに水浴びをしている。小さな両翼を少し広げ、小刻みに震わせる。姿勢を低くし、水しぶきをあげてそれを繰り返す。シジュウカラの姿が特に目立つようだ。
愛らしい小鳥たちの姿に穂香は頬を緩める。
「ふふっ、可愛い。この距離なら双眼鏡は使わなくてもよく見えるわね」
素手で双眼鏡の調整リングを回し、ピントを合わせようとしていた手を放す。穂香は冷えたその手を擦り合わせ、息を吹きかけた。吐息が白く曇り、消えていく。
それを見ていたガストは穂香の両手を自分の手で包み込んだ。指先が氷の様に冷たい。あかぎれも目立って痛々しく、思わず眉を顰めた。
「冷え切ってる。手荒れも酷くなってないか?見てて痛々しい」
「冬場はどうしても、ね。布を扱うから静電気も酷くて。ハンドクリーム塗っても塗っても治らないから、仕方ないのよ」
「……これは穂香が頑張ってる証だとは思うけどさ。今日の水仕事は全部俺が引き受ける。細かい傷があると洗剤とか沁みて痛いだろ」
「別にそこまでじゃないから大丈夫よ」
「俺がいる時くらいは頼ってくれていいんだぞ。むしろ頼ってほしい。それに今日は作ってみたいモンがあってさ。この間、美味そうなレシピ見つけたんだ」
寒い冬にぴったりのあったかレシピ。その中からラタトゥイユを見つけた。ナスやズッキーニ、パプリカをトマト缶で煮込む。隠し味に味噌を使ったレシピがあったので、それに挑戦してみたいとガストはウキウキしている。張り切っているところに水を差すのもどうか。お言葉に甘えて今日の晩御飯担当をガストに任せることにしよう。
「ラタトゥイユの材料はイーストのマーケットで揃うと思う。……自分で作ったことないし、作り方覚えたいからガストの隣でサポートしてもいい?」
「ああ、頼む。あとでそのレシピが載ってたサイトも教える」
「ありがと。……そろそろ移動しない?バードウォッチングしに来てるんだし、別のエリアにも行ってみましょうよ」
気がつけば野鳥を観察せずに手を取り合って見つめ合っている。他人の目が痛くならないうちに。穂香がそう気を使うと、ガストは気恥ずかしそうに笑った。彼にもその意図はどうやら伝わったようだ。
「そろそろ休憩挟むか。向こうで温かいモンでも飲もうぜ」
彼女の片手だけを繋ぎ直し、外気に晒されないようチェスターコートのポケットへ。二人は自然と互いに寄り添う形で歩き出した。
彼方でヒヨドリの声が聞こえる。
ヒヨドリのナワバリから外れたこのエリアでは、カラ系やエナガなどの小鳥たちが自由に飛び回っていた。
整備された散策路の脇に小ぶりのレトロなワゴン車。サンドイッチ、トルティーヤなどの軽食と各種ソフトドリンクを販売。
飲食を扱うコーナーとは別のカウンターにケーキスタンドが置かれているが、乗せられているのは小鳥の餌。小さなプラケースにぎゅっと詰められた木の実やみかんの輪切り。小鳥の専用餌台に設置できるものだ。
木の実や果実と一緒に並ぶ細長い虫。当然、昆虫が主食の鳥もいる。プラケースの中でウネウネと蠢く芋虫から穂香は目を反らした。
休憩スペースの近くに小さな川が流れている。水深はごく浅く、雨が少ない年には干上がることも少なくない。川岸に沿って細い桜の木が連なっており、春には見事な薄紅色の花を咲かせる。今は花も葉も全く見られず、冬枯れの姿でひっそりとしていた。そのどこかの枝で羽を休めている小鳥がいるようで、チィチィと可愛らしい鳴き声を上げていた。
春に桜を見に来ようか。小鳥たちの囀りが聞こえる頃に。
二人は抹茶ラテで冷えた手と身体を温めながら、少し先の春を待ち侘びた。
「この抹茶ラテ美味いな。ミルクが濃くて飲みやすい」
「苦味を抑えてるからまろやかね。……私はもう少し抹茶感がある方が好きかも」
「穂香はコーヒーも日本茶も割とストレートで飲むもんな。あの苦い抹茶も涼しい顔で飲んでたし」
昨年の春、日本に訪れたガストは彼女と共に抹茶を点てるお茶会を体験。茶道の先生が隣で作法をあれこれ教えてくれたのだが、茶道具の扱い方に戸惑った。抹茶を掬うための茶杓を持ちながら茶筒を開ける。その動作が上手く行えずに指が攣りそうに。当然の如くきっちりと正座した足も痺れて自由が利かなくなってしまった。
初めて自分で点てた抹茶はそれはもう苦いもので。渋く淹れた緑茶の何倍も苦く。複雑な表情で「結構なお点前でした」と片言に発したガストを穂香は笑ったのである。
「すごく複雑な表情してたわね、ガスト」
「抹茶の菓子ぐらいだと思ってたのにめちゃくちゃ苦かったからな。あまりの苦さに美味いのか何なのかよくわからなかったぜ。穂香はなんか様になってたよな、お茶を点ててる時も飲んでる時も」
その姿はさながら和服を身に纏った大和撫子。つい、見惚れてしまったものだ。
「ハイスクールの友達が茶道部だったの。文化祭の時に遊びに行ってたから、見様見真似ってやつ。……あら」
ベンチに座る二人の前に「チチッ」と鳴きながらハクセキレイが一羽降りてきた。
ハクセキレイは波線を描くように飛ぶ。その際、白と黒のコントラストが一層美しく際立つ。早足で穂香の足元に近づき、小さな頭を左右に傾げながら顔を見上げてくる。長い尾羽をピョコピョコと振りながら。
「私が木の実セットとみかん買ったところ見てたのかしら」
「鳥は目がいいからな。人の行動を結構見てるとこある。でも、コイツらはミミズや昆虫が主食なんだけど」
「……昆虫のセットは買ってないのよ。ちょっと、見た目がアレで」
あとで餌台に設置しようと購入した木の実とみかんの輪切り。それぞれ一ケースずつ所持しているが、昆虫セットにはどうしても手を伸ばせなかった。
「悪いな。お前が食えそうなモンは無さそうだ」
ガストの足元でちょろちょろしていたハクセキレイは小首を傾げ、タタタッと離れていく。薄灰色の翼を広げ、空へ飛び去っていった。
「今のハクセキレイ、オスだったな」
「えっ。あの一瞬でわかったの?」
「頭が黒かっただろ。ハクセキレイのオスは冬毛でも頭が黒い。メスは灰色なんだ。そこが見分けポイントだな」
今さっき飛び立ったハクセキレイの特徴を思い出せば、確かに小さな頭は黒かった。それよりも、随分と博識なことに穂香は驚いていた。
「随分詳しいのね」
「メジロのこと調べてたら他の鳥のことも出てきてさ。ついでに目を通したんだ」
ガストが何故メジロのことを調べていたのかというと、それは昨年の【サブスタンス】騒動まで話が遡る。グリーンイーストをパトロール中、道端で寒さに凍えて縮こまっていたメジロを助けた。その際、偶然にも【サブスタンス】の影響を受けたガスト。鳥の好む周波数が発生し、大小様々な野鳥の止まり木に利用されてしまう。その後ノースチームのおかげで事なきを得て、手の平で丸くなっていたメジロも元気に羽ばたいていった。
それから数日後、小さな桜の房を銜えて恩返しに来たのはまた別の話になる。それをきっかけにメジロとはどんな鳥なのか興味を持って調べたという訳だ。
「この間ガストが助けてあげた子よね。恩返しに桜の花銜えて持ってきたっていう」
「ああ。律儀にお裾分けしに来てくれたんだ」
彼は季節外れの春を届けに来た。このまま枯らすには勿体ないと考え、ガストは穂香に相談を持ちかける。
一般的な保存方法は押し花、ドライフラワーが挙げられる。それならば花を散りばめたポストカードはどうだろうか。名案だと手を打ち、ポストカードとフレームを用意した。
市販で手に入る赤や青のドライフラワーを組み合わせ、小さなキャンバスに花のアートを描く。やがて真っ白なキャンバスに桜が咲いた。
フレームに収めたそれはガストの部屋で一足先に春を迎えている。
「穂香のお陰でいい感じのポストカードに仕上がった。俺じゃ思いつかないようなデザインが次々浮かんでくるから、ホントすごいよなぁ。尊敬しちまうぜ」
「服のデザインとはちょっと勝手が違ったけど……気に入ってもらえて良かった。その子の話聞いた時はびっくりしたけどね。鶴の恩返しならぬメジロの恩返しだなんて」
俄かには信じ難いこの話。穂香は実際にその場に居合わせた訳ではないが、ガストが嘘を吐いているとは思わない。あの時のメジロが恩返しで桜の花を運んできた。そんな嘘を吐いて何の得になるのか。証拠は彼が悩ましい顔で相談を持ち掛けてきた桜の花で充分に事足りる。
噂をすれば、金木犀の小枝から「チィーチィー」と間延びした小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
「そういえばこの辺りじゃないかしら。メジロが観察できるエリア」
「ああ。さっきからそれっぽい鳴き声も聞こえてるな」
「メジロのオスメス見分け方もさっきのハクセキレイみたいに特徴あるのかしら」
「一応、これだっていう目安はある」
「例えば?」
鳥の話に夢中になっている二人の背後に忍び寄る小さな影。それは音もなくベンチの背に降り立った。黄緑色の小鳥――メジロが一羽、ちょんちょんと跳ねながらガストの肩にやってくきた。
「オスは首元と下尾筒の黄色い部分が鮮やかなんだ。あと、腹の中央に縦の線が入ってて……そう、こんな風にだな」
ガストの肩に止まったメジロは腕を伝い降りてきた。手首に止まったもこもこのメジロ。寒さを凌ぐ為に冬毛でまん丸となっている。ガストは全く戸惑う様子を見せず、むしろ説明に丁度いいとメジロの首元を指で示した。
突然現れたメジロに驚くのは穂香だけ。まさかまた【サブスタンス】の影響かと考えもした。
「あとは鳴き声だな。メスの気を引くのに綺麗な声で歌うんだ」
「チィチィッ。チュイー」
「地鳴きはこんな感じだ。そうそう、目の周りが白く縁どられてるけど一箇所切れてる所があるだろ? これは正面から威嚇する時に……」
「ガスト」
「ん?」
「近い。メジロが近いわ」
「え?」
穂香はガストの手首を指差した。そこに目を向けたガストは今初めてメジロが止まっていることに気がついた。ガストの目が冬毛の鳥の様にまん丸に見開かれる。
「チィ、チィ」
「……この辺もお前のナワバリなのか?」
メジロを驚かせないよう、静かに問いかける。すると、返事をするようにまた「チュイ」と鳴いた。
「もしかしてこの子、ガストの知り合い……っていうのも変ね。あの時の子?」
「みたいだな。嘴の付け根あたりに白い筋が入ってるし、同じヤツだ」
「チィヨ、チュイー」
「ははっ……すっかり懐かれちまったみたいだ。実はこの間もパトロールの休憩中に寄ってきてさ」
小さな鈴を転がしたような可愛らしい声で歌うメジロ。小鳥が懐いた人間を相手に甘えた声で鳴く様子とよく似ていた。チヨチヨ鳴きながらガストの後をついてくる光景を想像すると実に微笑ましい。
「ガストに小さなファンができたわね」
「……野生はどうしたって訊きたくもなるけどな。チヨスケ、誰彼構わず人間についていくんじゃないぞ」
「名前つけたの?」
「あぁ。チヨチヨ鳴くから」
「チィーヨ」
ガストが手の平を上に向けると、メジロのチヨスケがそこにぴょいと飛び乗った。そこにお腹をぺたんとつけて座る。その様子を隣で見ていた穂香は「ホント、警戒心無さすぎね」と笑った。
和やかな雰囲気の中、不意にベンチの背もたれにもう一羽メジロが降りてきた。このメジロは体を大きく膨らませ、両翼の先を小刻みに震わせている。
「……ガスト。メジロがもう一羽いるんだけど」
「え? ……ホントだ。って、なんか威嚇してないかコイツ」
両翼を震わせたメジロは嘴を大きく開け、真正面からガスト睨みつけている。その剣幕は今にも飛び掛かってきそうなほどだ。鳥が相手とはいえ、これにはガストもたじろぐ。
「な、なんでコイツ怒ってるんだ。……チヨスケにじゃなくっ?!」
その次の瞬間、怒りを顕わにしたメジロがガストに襲い掛かる。小さくても鋭い爪を光らせ、ガストの顔面に体当たり。空中で身を翻して翼を羽ばたかせ、もう一度体当たりをしてきた。
「いっ……! ちょ、待ってくれ! 俺は何もしてないぞ?!」
「チィー!」
「落ち着けって……!」
バサバサと羽ばたきながら果敢に向かってくるメジロ。ガストがそれを片腕だけでガードしていると、チヨスケがそのメジロに「チー!」と呼びかけた。すると、攻撃をピタリと止めた。ぎゅんっと体を翻し、ベンチの手摺に羽を休める。乱れた毛並みを整えるように翼を広げ、羽繕いを始めた。
「び、びっくりした……。大丈夫、ガスト?」
「まぁ、大事は無いから大丈夫だ。いてて……」
小鳥一羽の体当たりは大したことがないが、爪で引っ掻かれた痛々しい爪痕が頬に。この傷を見たチヨスケはガストに「チィ」と小さく鳴いた。それからもう一羽のメジロがいる所にパタパタと飛んでいく。
チヨスケが近づく気配を感じ取ったメジロは羽繕いを止め、じっとチヨスケを見ていた。
「チィーチィー」
何かを訴えるようにチヨスケが相手に語り掛ける。それはまるで「この人間は悪い人間じゃないよ」といった風にだ。しかし、プイッとそっぽを向いたメジロ。距離を詰めてくるチヨスケに対して威嚇を示し、ぴょんと跳ねて距離を取ってしまう。
これにショックを受けたのか、チヨスケは情けない声で鳴き、しゅんと項垂れてしまった。ガストの目にはそう映っている。
「……あの子、メスのメジロっぽいな」
「ということは、チヨスケのパートナー?」
「かもな。メジロは番で行動することが多いらしいし。……もしかして、チヨスケが俺に捕まってると思ったんじゃ。それで助けようとして……それなら人間相手に立ち向かってきた理由も頷ける」
「でも、チヨスケにも威嚇してたわよ、あの子。……自分の旦那を盗られそうになったから『何してるのよアンタ!』って具合な気もする。浮気現場発見したって感じに」
穂香の推測は強ち間違いではなかった。
実はさっきまでチヨスケとパートナーは近くの木で仲睦まじく身を寄せ合っていた。目白押しという言葉があるように、メジロは樹上で押し合うように止まることがある。この二羽もぴったりと寄り添い、互いに羽繕いをしていたのだ。
そこで聞こえてきたガストの声。チヨスケはガストの姿を見掛けるなり、囀りながら一目散に飛んでいった。最愛の彼が知らない人間の元へ飛んでいくものだから、嫉妬したのである。ガストには自慢の毛並みを犠牲にしてまで体当たりで襲い掛かり、チヨスケには「この浮気者!」と腹を立てている真っ最中なのだ。
「……チィー」
「なんか、ホントにそう見えてきた。大丈夫か、チヨスケ」
今も情けない声で鳴くチヨスケにガストは優しく声を掛ける。こちらも顔の傷はヒリヒリとするが、彼の傷心度はこんなものではないだろう。
「元気出せって。まだフラれたワケじゃないんだし。……ほら、その証拠にまだそこでお前を待っててくれてるだろ。諦めちまうのか? お前が頑張って口説いた子なんだろ」
「チィ」
ガストは小さな彼をじっと見つめた。臆病腰でいては何も変わらない。ガストはそう語り掛けた。
真摯なその思いがチヨスケに届いたのか、彼はピョンピョンと跳ねてまたガストの腕に止まった。そこで片方の翼をぐっと伸ばし、綺麗に畳む。そして嘴を大きく開けた。
辺り一帯に冴え渡るメジロの囀り。美しい鳥の歌声が高く、遠くまで響いていく。
チヨスケは体全身を震わせて、意中の子に向けたラブソングを歌い続けた。これが心に響いたのか、じっとチヨスケを見つめる。
「小さな鈴が鳴る様な、綺麗な囀りね。こんなに近くでメジロの囀りを聴くのは初めてだわ」
「……ちょっと近すぎて、俺は耳が痛いけどな。でも、ホントに綺麗な鳴き声だ。……おっ」
その場に留まっていたメジロに動きが見られた。小首を何度も傾げ、周囲の様子を窺う。それから姿勢をぐっと低く構え、チヨスケの元へ飛び移った。ちょんちょんと歩み寄り、ぴったりと寄り添うようにくっつく。
「チィ」
「良かったな、チヨスケ。お前の想いがこの子に伝わったみたいだ」
ガストの腕に並んだ二羽のメジロ。彼らはそこでお互いの羽繕いを始めた。自分の嘴では届かない目の縁を繕う。気持ち良さそうにチヨスケは目を瞑っていた。そんな二羽にガストは目を細める。
「仲良しね。見てるこっちが照れちゃう」
「だな。……俺の腕は完全に止まり木状態だし。身動き取れねぇ」
「あ、それなら。ちょっと待ってて」
さっき購入したみかんの輪切り。それを餌台に設置すれば釣られてくるだろう。穂香は少し離れた場所にある餌台へ行き、針金を曲げてみかんの輪切りを固定した。
ベンチから見えるその場所にみかんが出現。それを目聡く先に捉えたのはチヨスケのパートナー。彼女はパタパタと飛んでいき、みかんの手前に降り立つ。首を忙しなく右へ、左へと傾ける。みかんの縁に足を掛け、周囲を警戒しながら細い嘴を差し込む。果肉を啄み、また辺りを警戒。それを繰り返しながらみかんを味わっている。
「チヨスケは食べに行かないのか?」
遠慮しなくていいぞとチヨスケに声を掛けてみるが、彼はガストの腕でぴょん、ぴょんと小さく跳ねて様子を窺っていた。
メジロの番は片方が餌を食べている時、もう片方が見張り役を務める。ヒヨドリなどの自分より大きな鳥を警戒しているのだ。
暫くして、チヨスケの彼女が近くの木に飛び移った。それを確認したチヨスケが待ってましたと言わんばかりにみかん目掛けて飛んでいく。
夢中でみかんを啄む様子を眺める二人に自然と笑みが浮かぶ。
「みかんの味が気に入ったみたいだな」
「メジロは甘党だもんね。それに桜や梅の蜜を吸うのに枝から枝を飛び移るし、軽いから細い枝先にも平気でぶら下がってること多いわ」
「軽業師みたいだよなぁ」
「チーィチーィ!」
みかんを啄んでいたチヨスケが急に高く鋭い声で鳴き出した。
すると、どこに身を潜めていたのか次々とメジロが餌台に降りてきた。十羽近いメジロがチィチィ鳴き交わしている。一つのみかんを仲良く分け合ってとはいかないようで、時々小競り合いをしていた。
どうやら先程力強く鳴いたのは仲間に呼び掛ける為だったようだ。
「……チヨスケ。お前、仲間が沢山いるんだな」
「ガストみたいね。……それにしても、もうどれがチヨスケか私には見分けがつかないわ。……あの子かしら」
この距離から肉眼で特定の個体を判断するのは難しい。しかもじっとしていないので、目で追うのも大変だ。
「急に大所帯になっちまったもんな。みかん、もう何個か買ってくるか」
輪切り一つでは到底足りそうにない。折角集まってくれた彼らの為にと、ワゴンでみかんの輪切りを四個調達。それらを設置しに餌台にガストが近づくと、二羽を残して一斉に飛び立つ。
果肉が半分以上減ったみかんの側でチヨスケたちが早く早くと催促をする。
「ちょっと待ってろよ。……これでよしっと」
全てのみかんを設置した直後、退いていたメジロたちが戻ってきた。ガストがまだその場から離れていないのにだ。これには流石にガストも驚いている。
彼は元々鳥に好かれやすいのかもしれない。それは【ナイトホーク】の影響か、はたまた彼の性格か。
メジロに懐かれた『ヒーロー』は後にも先にもガスト以外にはいないだろう。穂香はこの瞬間を逃さないようスマホで動画を撮り始めた。
メジロの保育園のようだ。これも良い思い出になるだろう。
しかし、思い出どころか数年単位の付き合いになる未来が待っていることを二人はまだ知らない。