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Stay by my side forever.
各地で雪解けが進み、茶色い土が見え始めて間もなく。春を待ち侘びていた雪割りの花が顔を見せた。厳しい寒さを耐え忍ぶ季節は過ぎ去り、動植物の活動が始まりを迎える。
セントラルパークはぽかぽかとした陽気に包まれており、小鳥たちの囀りをあちこちで耳にすることができた。鳥だけではなく、人々もこの陽気に浮かれて短い芝生の上で子どもたちが駆け回っていた。ボールを投げ合い、きゃあきゃあと実に楽しそうだ。
そんな子どもたちを横目に散策路を歩いていた穂香がやんわりと微笑む。
「子どもたちが元気に遊んでるわね」
「やっとジャケットなしで遊べる気候になってきたもんな。……ははっ、気合い入りすぎて暴投しちまってる」
「セントラルパークは広いから思い切り投げれていいじゃない。他所の窓ガラスを割る心配もないし」
「だよな。こんだけ広くて何もなけりゃ軒先の植木鉢や商品壊して怒られる心配もなさそうだ」
「その言い方、さては前科があるわね?」
穂香の問い掛けにガストはバツが悪そうに乾いた笑みを返した。
「あー……そういや、そろそろ日本でも桜が咲き始めるんじゃないか?」
「そうね。私達が行く頃には丁度見頃かも。あの場所、また連れて行ってあげる」
「ああ、楽しみだな。あの桜吹雪、ホントに綺麗でさ。見応えあった」
ガストはそっと瞼を閉じた。瞼の裏に焼き付いたように今でもその場面を鮮明に思い出す事ができる。桜の花びらが辺り一面を舞い、視界を覆い尽くす。「映画のワンシーンみたい」と喜びはしゃぐ穂香の姿。
あの景色をもう一度再現し、フレームに収めたい。最高の想い出に残したいとガストは願っていた。
とある事情で過去の日本にタイムトラベルした際、ガストは十代の穂香と遭遇した。それが偶然によるものか、はたまた必然であったのかは分からない。どちらにせよ過去に干渉した事が引き金となり、その先の未来が変わってしまうのではという不安を抱きもした。ここで結論を述べるならば、二人の縁は切れずに現代まで続くことになる。
ガストは幻想的な情景を思い返した後にふっと笑みを零した。
「なんか、おかしな話だよなぁって。まだ行ってもいない、これから行く場所が想い出の場所みたいになってるのがさ」
「そうね。……ガストと会ってから不思議な事が起き続けてる。最初は一つ、二つだったのに。それこそ数え切れなくなってきた」
「完全に【サブスタンス】絡みで巻き込んじまってるよな……悪ィ。こればっかりは俺にはどうにも」
いつかどこかで交わした憶えのある会話。それが夢の中でか、現実でしたかの境界線がもはやあやふやだった。だが、どちらにせよ穂香の答えは変わらない。彼女は眉尻を下げるガストに対し、首を横に振って肩を小さく竦めてみせる。その顔に笑みを浮かべた。
「今さら気にしてないわ。もう慣れたとか、仕方がないとかじゃない。ガストと一緒なら何が起きても大丈夫だろうって思ってるから」
「穂香。……サンキュ。俺もどんなことがあっても穂香のこと守る」
ガストは繋いでいた穂香の手をきゅっと握り返し柔らかく微笑んだ。その表情は春風の様に暖かく、ふわりとした心地良いものに思えた。俄かに頬に熱を帯びた穂香は少しだけ目を逸らしながらも「ありがとう」と口にした。はにかんで顔を赤らめた彼女に釣られる様にして、ガストの頬も桜色にほんのりと染まった。
◇
二人はパーク内に設置されたベンチで寛いでいた。柔らかい陽光を浴びながらカップスリーブのついたコーヒーを片手に話を咲かせる。
お互いの近況、最近ハマっているアーティストやコミック、気になるブランドの新店舗。話の内容はいつもと然程変わらない、笑顔が溢れるのも。どんなに些細な事、くだらない事でも二人で過ごす時間としてかけがえのないものとなるのだ。
『不思議の国のアリス』の続編となる『鏡の国のアリス』を通勤中に読み進めていると話す穂香。不意に芝生を横切るリスに注意を引かれた。灰褐色の体毛に覆われたふくよかなリスが脱兎のごとく駆け抜け、茂みに姿を消す。すると、今度はチチチッという鳥の声が聞こえたので頭上に注意を向けた。
小動物をじっと観察する彼女の横顔。その側でガストは愛らしい恋人を見守るような眼差しを携えていた。
「いい題材は見つかりそうか?」
彼女が視線を下げたタイミングでガストは話し掛けた。振り向いた穂香は僅かに眉を寄せている。その表情から察するに未だ良いものは見つかっていないようであった。
デザインの参考になるものを探しにミリオンパーク辺りに行きたいという彼女の要望で此処へやってきたのだ。
「中々見つからないものね」
「いるのはハイイロリスや小鳥ぐらいだもんなぁ。具体的にこういうのってイメージはあるのか。大きさとか、色とか」
「来年の春に出すものだから、春を連想させる生き物が良いと思って。ミリオンパークなら色々いると思ってたんだけど……さっきの横切っていったリスは年中見かける気もするし」
「あー……ハイイロリスか。アイツらは年中いるし、ニューミリオン中にいる。この辺のはまだ大人しい方だな。サウスの田舎辺りに行くと気性が荒いヤツばっかりでさ。作物を荒らしまくるから大変なんだって知り合いがボヤいてたぜ。だからあんまりいいイメージはねぇかも。それにしても、今からもう来年のデザイン考えてんのか?」
「ええ。企画から試作まで時間に余裕を持っておかないと。それに夏や秋に春物考えてもイメージ湧かないもの」
「なるほど。大変なんだなデザイン系の仕事ってヤツは」
穂香はブルーノースシティに店舗を構える『Blue bell』という日本企業のデザイナーだ。およそ三年前の夏にニューミリオンに赴任。語学、対人スキルにも恵まれており、単身で夢を叶えに来た。
その夢を応援したい、見守りたいと思ったガストはずっとその背中を支えてきた。良き友として。やがて捨てきれない焦がれた想いを叶えることができたが、友達から恋人の境界線を越えるまでの道程は相当苦労したというもの。それも今となっては良い思い出だ。
「【HELIOS】のデザイン部も大変だと思うけどね。だって、各『ヒーロー』に合わせた最適な衣装を短期間でデザイン、縫製して期日まで間に合わせるんだもの。それだけ卓越した技術を持つ人が多いんでしょうね」
「……だよなぁ。毎回衣装を用意してくれるデザイン部には文句言えねぇよ」
「この間の衣装もとても似合ってたわ。次の衣装も楽しみにしてる」
「おぅ。楽しみにしててくれよ。……で、春を告げる動物だよな。イースター関連だとウサギだけど、ありきたりかもな。日本だとどんな動物が春っぽいんだ?」
「こっちで春を告げる動物……鳥はメジロ、ウグイスとか。熊が冬眠から目覚めるのも春ならではかも」
小鳥はともかく、熊をデザインに用いるとなれば力強いものが出来上がりそうだ。ガストの頭にはジャケットの背面に施された雄々しい熊の刺繍が思い浮かぶ。川で捕らえた鮭を丸ごと咥えている。流石にそれはブランドのイメージとかけ離れているか。ガストは軽く頭を振り、その考えを払拭した。
「……スズメは春と関係ないのか?」
「スズメは年中いるわね。年々数が減ってるとは聞くけど。ウグイスが春告げ鳥って言われてる理由は先駆けて囀るからなんだって」
「へぇ。じゃあ、あの時に見た鳥はウグイスかもしれねぇな。桜の枝をピョンピョン飛び移ってた」
細い枝から枝をちょこまかと飛び移り「チィー」と鳴きながら飛んでいった黄緑色の小鳥。それを思い出しながらガストはこのくらいのサイズだったと親指と人差し指で大きさを表した。
しかし、穂香はうーんと唸る。
「あくまで聞いた話なんだけど、ウグイスって警戒心が強いから人前に滅多に姿を現さないらしいの。言われてみれば私も鳴き声だけしか聞いたことなくて。遠くでホーホケキョって。……もしかしたら、ガストが見かけたのこっちの鳥じゃない?」
穂香が差し出したスマホの液晶画面には小鳥の写真が表示されていた。さらにピンチアウトで写真を拡大する。桜の枝と一羽の黄緑色の小鳥。それは目の周りが白く縁取られているのが特徴的なメジロという鳥だ。
この鳥を見たガストは「コイツだ」と顔を綻ばせた。
「梅や桜の木によく止まってるのがこのメジロ。よく春の風景として紹介されてるわ。黄緑色の体でお腹が白い。特徴的なのは目の周りが白いからメジロって言われてるのよ」
「なるほど。分かりやすいし、覚えやすい。それによく見ると愛嬌ある顔してんな。春をイメージするならメジロでもいいんじゃないか?」
穂香はまたうーんと唸った。それもそのはず。彼女はニューミリオンでの春らしいものを探しているのだ。メジロでは日本らしいものになってしまう。ガストは単純に良いんじゃないかと口にした後、それを察した。彼女が求めているのはニューミリオンで春らしい動物だ。もう一度考え直そうかとガストが頭を悩ませようとした時、隣からぶつぶつと呟く声が聞こえてきた。
「……オーソドックスな和風にしてもいいし、敢えて洋風のデザインにしてもいいかも。アーモンドの花と併せて。ガスト、メジロいいかも」
「え、いいのか?」
意外な返答を受けたガストは目をパチパチとさせる。それに対し、顔を上げた穂香は口元に笑みを浮かべ、頷いてみせた。
「ええ。良いデザイン浮かびそう」
「そっか。それなら良かった。『Blue bell』の来年の新作楽しみにしてるぜ」
「目指すは予約完売。ガストなら特別に今から予約受け付けるわよ」
あどけないこの笑顔はあの頃からひとつも変わらない。彼女の夢を応援したいというガストの気持ちも何一つ変わらずにいた。この笑顔を曇らせることなく、これから先も守っていきたいとその度に強く誓う。
コーヒーはすっかり温くなっていた。
会話の中に溢れる笑顔、笑い声。話に夢中になるあまり、二人は時間が過ぎることを忘れてしまっていた。喉がカラカラになってからようやく飲み物が手元にあることを思い出すほど。
「私も今年で四年目になるのね。なんだか感慨深いわ。ガストのおかげですっかりこの土地に慣れちゃったし」
「あちこちエスコートした甲斐があるってもんだ。そう言ってもらえるとさ」
「これからもよろしくね」
「おう。任せてくれ」
ひゅっと冷たい風が通り過ぎた。一枚の小さな花びらを運んできたその風は足元の芝を揺らし、消えていく。
空はいつしか陽が陰り、薄曇りの空に包まれていた。気温が少し下がったようで、じっとしていると肌寒さすら感じる。
「そろそろ移動しようか」どちらからともなく、そう声を掛けようとした時であった。
ふと、ガストの視線が前方を捉える。
そこには対峙する少年が四人。そのうち二人はガストにとっての弟分――ロイとチャックだ。彼らは相手二人を睨むようにしている。声を荒げて争う様子こそはないものの、険悪な雰囲気は充分に感じ取ることができた。
ガストはコーヒーをベンチの上に置くとすっと立ち上がり、穂香の方に少しだけ顔を向けて口を開く。
「穂香、悪ぃ。ちょっと待っててくれないか。すぐ戻ってくる」
「……ええ。気を付けてね」
小走りで彼らの元に向かうガストの背中を穂香は眺めていた。不穏な空気には彼女も気づいていた。口論しているであろう彼らの姿を見つけた際、陽光の様な眼差しが一転して鋭い鷹の目に変わったのだ。
人通りのある開けた場所で大事にはならないだろう。しかし、どうにも逆上すると場所を弁えずに暴れる者もいる。
微かな不安を胸に抱きながらも穂香はその行く末を見守ることにした。
ガストが彼らの元に着くと、双方が驚いていた。彼を慕う二人はその中に歓喜を潜ませ、敵対する相手は焦りの色を滲ませる。
数多の修羅場をくぐり抜けてきた彼ならば、話も聞かずに出会い頭で殴りつける様なことはしないだろう。人が少なからず集まってきてもいる。
ガストは状況を把握すべく話を両者から聞き出しているようだ。
それは本当に何気なく、集まってきたギャラリーにちらりと穂香が視線を向けた時であった。
穂香は息を呑んだ。
彼らを遠巻きに見ている野次馬の中に、ある姿を見つけてしまったのだ。かつての恋人の姿を。
何故、此処にいるのか。ああ、そういえば仕事でこっちに来ると言っていた。最後にその姿を見たのはいつだったか。この広いニューミリオンで出逢うことはないだろう。そう思っていたのだが。
様々な感情が穂香の中にどっと押し寄せてきた。懐かしさ、悲しみ、怒り、哀しみ。それらから逃れようと穂香はベンチの裏に身を潜めるようにしてしゃがんだ。幸い相手は穂香に気づいておらず、一触即発の少年たちに気を取られているようだった。
未練はとっくのとうに海の彼方に捨ててきたはずだった。
自分を遠ざけさせ、離れ、そして振り払われた。未練などないはずなのに、それでも目頭が熱くなるのはどうしてだろうか。渦巻いた感情の波に攫われそうになる。
穂香は膝を抱え、顔を伏せてじっとその場でうずくまっていた。
ベンチにゆっくりと近づいてくる足音。芝を踏む音はすぐそこで止まった。
論争を一先ず収めて戻って来たガストは待っているはずの穂香の姿がなかったので、おかしいと首を捻る。だが、ベンチのすぐ裏でしゃがみ込んでいる彼女を見つけたので「穂香?」と声を掛けた。
びくりと穂香の肩が震えた。ゆっくりと上げられた彼女の顔はどこか怯えており、様子がおかしい。ガストは僅かに顔を顰め「どうしたんだ」と優しく声を掛けた。
「……ガスト」
「何かあったのか」
「なんでもない。なんでも……ただ、蜂が飛んできて怖くて」
「蜂って、刺されちまったのか? 大丈夫か」
「大丈夫。……そっちは解決したの?」
穂香はしゃがんだその体勢のままガストに訊ねた。ちらりとベンチの向こう側を気にしながら。
「ああ。大したことじゃなかったからな」
「そう。周りにいたギャラリーも、どっかに行った?」
「え? ……ああ、そういや野次馬っぽいヤツらがいた気もするけど。もうどっかに行っちまったみたいだぜ」
「……そう。ガスト、場所移動しない?」
穂香はベンチの背に手を掛け、その場にゆっくりと立ち上がった。スカートの裾についた土埃を掃い、徐に目を前方へ向ける。先程までいたギャラリーの姿はひとつもない。
ベンチの背を掴む手に僅かに力が込められていた。それに気づいたガストではあったが、振り向いた穂香があくまで普段通りに振舞っていたので深追いが出来ずにいた。
「久し振りにダーツがやりたい気分。サウスのダーツバーに行かない?」
「おお、いいぜ。いつもの場所でいいか? 久しぶりに勝負でもするか」
「いいわね。でも、久し振りだからフォームがおかしくなってるかも。ガストのフォームをじっくり見させてもらうわ」
「それこそ変なフォームになっちまいそうだな。……じっくり見られると恥ずかしいし」
「今さら何言ってるのよ」
「何って……恋人の前ではカッコいい姿を見せときたいモンだろ?」
そう言いながら首の裏に左手を当てるガスト。その顔は少し照れ臭そうにしていた。
◇◇
暗闇に視界を奪われていた。自分の輪郭だけが白くぼんやりと浮かび上がり、周囲は完全に闇に包まれている。一人、その中でただぽつんと立ち尽くしていた。
それも束の間。目に映る場面は薄暗い路地裏に転換。色のついた煉瓦造りの建物が整然と並び、弱く儚い月明かりで照らされていた。
路地裏の中央に男が一人、こちらに背を見せて佇んでいる。見覚えのある背格好の男に声を掛けようと、一歩足を踏み出す。しかし、それ以上は進むことが出来なかった。
青白い月明かりを纏うその背に責務が重く負い被さる。刹那見えた横顔は暗く、悲愴に満ちていた。透輝石の目は伏せられ、ゆっくりと拳が握られる。男が、歩き出した。
「待って。待って! 行かないで!」
叫んだその呼び掛けは闇に吸い込まれるように消えていき、男に届くことはなかった。
追い掛ける為の足はぴくりとも動かない。穂香の目に大粒の涙が浮かび、頬を伝っていく。
起きた時には両目からぽろぽろと涙が零れ落ちていた。手の甲でそれを拭おうとした穂香は右手が動かないことに気づく。上半身を起こしたガストが穂香の手をしっかりと掴んでいた。彼は酷く心配そうな表情で「大丈夫か」と訊ねた。薄暗がりの中ですぐ側にある顔を見た穂香は肺に溜まっていた息を短く吐き出した。
「……ガスト」
「すげぇ魘されてたから、起こした。……嫌な夢でも見たのか」
涙の粒を掃うガストの指先は確かに温かい。それが嬉しいことのはずなのに、余計に涙が止まらずにいる。繋がれた方の手を穂香はぎゅっと握り返した。
「うん。ごめん、起こしちゃって」
「いいって。……穂香、ちょっと起きて話さないか。何か温かいモンでも飲みながら」
「でも」
深夜一時を過ぎた時間帯。もう昨日の話にはなるが、セントラルとレッドサウスを経由してグリーンイーストに戻ってきた。昼中遊び回ってきたのだから、疲労は少なからず溜まっているはずだ。悪夢を見て寝つき難くなった自分に付き合わせるのは気が引ける。
目にかかる前髪を長い指がそっとはらう。ガストは口角を持ち上げて笑っていた。
「嫌な夢見た時は誰かに話しちまった方が楽になる。そう言ってくれたの、穂香だろ。あの時、穂香が話に付き合ってくれたおかげでマジで助かった。だから、今度は俺が聞く番だ。ああ、でも無理に話したくないなら……」
「ううん。ありがと、ガスト。じゃあ、ちょっとだけ聞いてもらってもいい?」
「おう。暗いから足元、気を付けろよ。それと何か羽織った方がいいぜ。カーディガン、リビングだったよな」
ベッドから下りて寝室からリビングへ移動する間、ガストは穂香の手を離そうとはしなかった。
甘くて香ばしい匂いが湯気と共にマグカップから揺らめく。口にした黄金色の透き通ったお茶は優しい味わいで、すっと身体に沁みていく。
これは「このメーカーのが美味いんだ。ホットでもコールドでもいける」とガストが勧めたものだ。レッドサウスの畑で収穫したトウモロコシを使用していると売り場で話していた。
照明を絞ったリビングのソファにぴったりと肩をつけて並ぶ二人。色違いで揃いのマグカップを手に抱え、ぽつりぽつりと会話を交わし始めた。
「お茶、美味しい。ほんのり甘くて癒される」
「だろ。気に入ってもらえて何よりだ」
「それに、ガストらしい」
「え? 何がだ」
「なんでもない。ありがと」
恋人に対する慰め方があまりにも優しいもので、実に彼らしい。その優しい所が好きだと穂香は静かに笑う。何に対して笑われたのか理解できずにガストは軽く首を傾げていた。
「昼間、ガストがあの子たちの対応に行ってたでしょ。セントラルパークで」
「ああ。あの後も特に連絡なかったし、落ち着いたと思ってる」
「それなら良かった。あの時、ね。野次馬ギャラリーの中に、彼がいたの」
「彼って……もしかして、アイツが」
ガストの表情が一瞬にして険しいものへと変わる。
昨年の冬によりを戻そうとしてきた穂香の元カレ。電話口で釘を刺したつもりだったが、この期に及んでコンタクトを取ってきたのかと、顔を顰めた。
「そいつに何かされたのか」
「なにも。すぐベンチの裏に隠れたから。向こうは気づいてなかったみたい」
「それであんなトコにいたのか。……俺がちょっと離れたばかりに。悪い、ホントに」
「ガストは何も悪くない。ただ、私が色々昔のこと思い出しちゃって。……それでさっきの嫌な夢、見たんだと思う」
「アイツ絡みの夢だったのか」
ゆっくりと穂香が首を横へ振った。
揺れる水面に視線を落としたまま、眉根を寄せて言葉を選ぶように口を開く。
「ガストがどこかに行ってしまう夢だった。私、行かないでって引き止めたかった。でも、足が動かなくて。私の声も届かなくて。それで」
落ち着いていた感情がまた昂り始め、段々と涙声に変わっていく。目頭に熱を帯びる。再度訪れた哀しみで涙が流れ落ちないよう、ガストは穂香の頭を優しく抱き寄せた。
「穂香を置いてどっかに行ったりしない。絶対に」
「うん」
「どんな立場や環境になっても」
「うん」
「側に居る。……いや、居てくれないか」
穂香を優しく包むように抱きしめるガストの目が微かに揺れる。その目を閉じた直後、自身の背に回された温かい腕の感触。彼女を胸に引き寄せ、強く抱きしめた。
「穂香はさ、どんな俺だったとしても受け入れてくれるか」
「例えば、どんな」
「……例えば、俺が」
ガストはそこで言い淀んだ。自分から切り出した話だというのにだ。僅かに顔を横に二度振り、穂香の髪を優しく撫でる。
「……俺の本性見たら愛想尽かして、離れていっちまうんじゃないかってたまに考えることあるんだ。俺は大事なモン傷つけられたら、相手の話聞く前に間違いなく手が出ちまう。当然の報いだって理由つけて。弟分のヤツらには無鉄砲になるな、落ち着け、こっちからは手ぇ出すなって言うくせにだ。いざ自分のことになると……感情的になっちまう」
「それは大切なものを守りたい気持ちが強いからよ。それだけガストにとって掛け替えのないものだから」
顔を上げた穂香の目には恐怖や畏怖の色は見えない。真っ直ぐに見据えてくるその眼差しが痛いほどに愛おしく、眩しいと感じられた。
「誰だって大切なものを踏みにじられたら怒るわよ。ガストはそれにちゃんと向き合ってる。解決法は人それぞれ。だからって暴力を肯定したりもしないし、ガストを否定したりもしないわ。……この数年でガストの色んな面は見てきたつもり。でもまだ知らない面があって当たり前。実際、女の子苦手って知ったのも最近だったし。他にも何かあるなら、受け入れられるかどうかはその時になってみないと分からない」
「……そう、だよな」
「実はホラー映画が三度の飯よりも大好きで、常にそのスリルを求めてるっていうのなら……ちょっと考えさせて」
「ははっ、それはねぇから安心してくれよ」
ホラーに対する耐性が極度に低い穂香。逆に言えばそれ以外であれば受け入れられると言っているようなものであった。険しい表情をする彼女の瞼にそっと口づけを贈る。
どうやら陰っていた空は晴れ間を見せたようだ。ガストは煌めくものを見るかのように目を細め、口元に緩く弧を描く。
「どうしたの?」
「なんか、穂香は太陽みたいだなって思ってさ。初めて会って、二度目に会った時もキラキラ輝いてた。「新天地でやってくぞ!」って気合いがすげぇ出てたし。その姿が眩しくて、ひた向きに突き進んでく穂香をずっと追いかけてた。手が届かないと分かった後も、ずっと。なんかこう言うとヒマワリみたいだな、俺」
太陽に憧れ、恋焦がれてずっとその姿を追いかけ続けた。夏に大輪を咲かせるヒマワリの様に。自らをそう例えたガスト。今でこそ手が届く存在となったが、彼女から目を離すことはないだろう。
「ガストの方が太陽よ。……だって、ずっと見守っててくれたんでしょ。どんな時も温かく、優しく支えてくれた。さっきだってずっと手を繋いでてくれた」
「行かないでって目覚ます前に言ってたんだ。だから、何処にも行かないってのを伝えたくてだな」
「すごく嬉しかった。本当に、ありがとう」
「こっちこそ」
どちらも失うわけにはいかない。
太陽という存在はお互いにとって掛け替えのないものなのだから。
各地で雪解けが進み、茶色い土が見え始めて間もなく。春を待ち侘びていた雪割りの花が顔を見せた。厳しい寒さを耐え忍ぶ季節は過ぎ去り、動植物の活動が始まりを迎える。
セントラルパークはぽかぽかとした陽気に包まれており、小鳥たちの囀りをあちこちで耳にすることができた。鳥だけではなく、人々もこの陽気に浮かれて短い芝生の上で子どもたちが駆け回っていた。ボールを投げ合い、きゃあきゃあと実に楽しそうだ。
そんな子どもたちを横目に散策路を歩いていた穂香がやんわりと微笑む。
「子どもたちが元気に遊んでるわね」
「やっとジャケットなしで遊べる気候になってきたもんな。……ははっ、気合い入りすぎて暴投しちまってる」
「セントラルパークは広いから思い切り投げれていいじゃない。他所の窓ガラスを割る心配もないし」
「だよな。こんだけ広くて何もなけりゃ軒先の植木鉢や商品壊して怒られる心配もなさそうだ」
「その言い方、さては前科があるわね?」
穂香の問い掛けにガストはバツが悪そうに乾いた笑みを返した。
「あー……そういや、そろそろ日本でも桜が咲き始めるんじゃないか?」
「そうね。私達が行く頃には丁度見頃かも。あの場所、また連れて行ってあげる」
「ああ、楽しみだな。あの桜吹雪、ホントに綺麗でさ。見応えあった」
ガストはそっと瞼を閉じた。瞼の裏に焼き付いたように今でもその場面を鮮明に思い出す事ができる。桜の花びらが辺り一面を舞い、視界を覆い尽くす。「映画のワンシーンみたい」と喜びはしゃぐ穂香の姿。
あの景色をもう一度再現し、フレームに収めたい。最高の想い出に残したいとガストは願っていた。
とある事情で過去の日本にタイムトラベルした際、ガストは十代の穂香と遭遇した。それが偶然によるものか、はたまた必然であったのかは分からない。どちらにせよ過去に干渉した事が引き金となり、その先の未来が変わってしまうのではという不安を抱きもした。ここで結論を述べるならば、二人の縁は切れずに現代まで続くことになる。
ガストは幻想的な情景を思い返した後にふっと笑みを零した。
「なんか、おかしな話だよなぁって。まだ行ってもいない、これから行く場所が想い出の場所みたいになってるのがさ」
「そうね。……ガストと会ってから不思議な事が起き続けてる。最初は一つ、二つだったのに。それこそ数え切れなくなってきた」
「完全に【サブスタンス】絡みで巻き込んじまってるよな……悪ィ。こればっかりは俺にはどうにも」
いつかどこかで交わした憶えのある会話。それが夢の中でか、現実でしたかの境界線がもはやあやふやだった。だが、どちらにせよ穂香の答えは変わらない。彼女は眉尻を下げるガストに対し、首を横に振って肩を小さく竦めてみせる。その顔に笑みを浮かべた。
「今さら気にしてないわ。もう慣れたとか、仕方がないとかじゃない。ガストと一緒なら何が起きても大丈夫だろうって思ってるから」
「穂香。……サンキュ。俺もどんなことがあっても穂香のこと守る」
ガストは繋いでいた穂香の手をきゅっと握り返し柔らかく微笑んだ。その表情は春風の様に暖かく、ふわりとした心地良いものに思えた。俄かに頬に熱を帯びた穂香は少しだけ目を逸らしながらも「ありがとう」と口にした。はにかんで顔を赤らめた彼女に釣られる様にして、ガストの頬も桜色にほんのりと染まった。
◇
二人はパーク内に設置されたベンチで寛いでいた。柔らかい陽光を浴びながらカップスリーブのついたコーヒーを片手に話を咲かせる。
お互いの近況、最近ハマっているアーティストやコミック、気になるブランドの新店舗。話の内容はいつもと然程変わらない、笑顔が溢れるのも。どんなに些細な事、くだらない事でも二人で過ごす時間としてかけがえのないものとなるのだ。
『不思議の国のアリス』の続編となる『鏡の国のアリス』を通勤中に読み進めていると話す穂香。不意に芝生を横切るリスに注意を引かれた。灰褐色の体毛に覆われたふくよかなリスが脱兎のごとく駆け抜け、茂みに姿を消す。すると、今度はチチチッという鳥の声が聞こえたので頭上に注意を向けた。
小動物をじっと観察する彼女の横顔。その側でガストは愛らしい恋人を見守るような眼差しを携えていた。
「いい題材は見つかりそうか?」
彼女が視線を下げたタイミングでガストは話し掛けた。振り向いた穂香は僅かに眉を寄せている。その表情から察するに未だ良いものは見つかっていないようであった。
デザインの参考になるものを探しにミリオンパーク辺りに行きたいという彼女の要望で此処へやってきたのだ。
「中々見つからないものね」
「いるのはハイイロリスや小鳥ぐらいだもんなぁ。具体的にこういうのってイメージはあるのか。大きさとか、色とか」
「来年の春に出すものだから、春を連想させる生き物が良いと思って。ミリオンパークなら色々いると思ってたんだけど……さっきの横切っていったリスは年中見かける気もするし」
「あー……ハイイロリスか。アイツらは年中いるし、ニューミリオン中にいる。この辺のはまだ大人しい方だな。サウスの田舎辺りに行くと気性が荒いヤツばっかりでさ。作物を荒らしまくるから大変なんだって知り合いがボヤいてたぜ。だからあんまりいいイメージはねぇかも。それにしても、今からもう来年のデザイン考えてんのか?」
「ええ。企画から試作まで時間に余裕を持っておかないと。それに夏や秋に春物考えてもイメージ湧かないもの」
「なるほど。大変なんだなデザイン系の仕事ってヤツは」
穂香はブルーノースシティに店舗を構える『Blue bell』という日本企業のデザイナーだ。およそ三年前の夏にニューミリオンに赴任。語学、対人スキルにも恵まれており、単身で夢を叶えに来た。
その夢を応援したい、見守りたいと思ったガストはずっとその背中を支えてきた。良き友として。やがて捨てきれない焦がれた想いを叶えることができたが、友達から恋人の境界線を越えるまでの道程は相当苦労したというもの。それも今となっては良い思い出だ。
「【HELIOS】のデザイン部も大変だと思うけどね。だって、各『ヒーロー』に合わせた最適な衣装を短期間でデザイン、縫製して期日まで間に合わせるんだもの。それだけ卓越した技術を持つ人が多いんでしょうね」
「……だよなぁ。毎回衣装を用意してくれるデザイン部には文句言えねぇよ」
「この間の衣装もとても似合ってたわ。次の衣装も楽しみにしてる」
「おぅ。楽しみにしててくれよ。……で、春を告げる動物だよな。イースター関連だとウサギだけど、ありきたりかもな。日本だとどんな動物が春っぽいんだ?」
「こっちで春を告げる動物……鳥はメジロ、ウグイスとか。熊が冬眠から目覚めるのも春ならではかも」
小鳥はともかく、熊をデザインに用いるとなれば力強いものが出来上がりそうだ。ガストの頭にはジャケットの背面に施された雄々しい熊の刺繍が思い浮かぶ。川で捕らえた鮭を丸ごと咥えている。流石にそれはブランドのイメージとかけ離れているか。ガストは軽く頭を振り、その考えを払拭した。
「……スズメは春と関係ないのか?」
「スズメは年中いるわね。年々数が減ってるとは聞くけど。ウグイスが春告げ鳥って言われてる理由は先駆けて囀るからなんだって」
「へぇ。じゃあ、あの時に見た鳥はウグイスかもしれねぇな。桜の枝をピョンピョン飛び移ってた」
細い枝から枝をちょこまかと飛び移り「チィー」と鳴きながら飛んでいった黄緑色の小鳥。それを思い出しながらガストはこのくらいのサイズだったと親指と人差し指で大きさを表した。
しかし、穂香はうーんと唸る。
「あくまで聞いた話なんだけど、ウグイスって警戒心が強いから人前に滅多に姿を現さないらしいの。言われてみれば私も鳴き声だけしか聞いたことなくて。遠くでホーホケキョって。……もしかしたら、ガストが見かけたのこっちの鳥じゃない?」
穂香が差し出したスマホの液晶画面には小鳥の写真が表示されていた。さらにピンチアウトで写真を拡大する。桜の枝と一羽の黄緑色の小鳥。それは目の周りが白く縁取られているのが特徴的なメジロという鳥だ。
この鳥を見たガストは「コイツだ」と顔を綻ばせた。
「梅や桜の木によく止まってるのがこのメジロ。よく春の風景として紹介されてるわ。黄緑色の体でお腹が白い。特徴的なのは目の周りが白いからメジロって言われてるのよ」
「なるほど。分かりやすいし、覚えやすい。それによく見ると愛嬌ある顔してんな。春をイメージするならメジロでもいいんじゃないか?」
穂香はまたうーんと唸った。それもそのはず。彼女はニューミリオンでの春らしいものを探しているのだ。メジロでは日本らしいものになってしまう。ガストは単純に良いんじゃないかと口にした後、それを察した。彼女が求めているのはニューミリオンで春らしい動物だ。もう一度考え直そうかとガストが頭を悩ませようとした時、隣からぶつぶつと呟く声が聞こえてきた。
「……オーソドックスな和風にしてもいいし、敢えて洋風のデザインにしてもいいかも。アーモンドの花と併せて。ガスト、メジロいいかも」
「え、いいのか?」
意外な返答を受けたガストは目をパチパチとさせる。それに対し、顔を上げた穂香は口元に笑みを浮かべ、頷いてみせた。
「ええ。良いデザイン浮かびそう」
「そっか。それなら良かった。『Blue bell』の来年の新作楽しみにしてるぜ」
「目指すは予約完売。ガストなら特別に今から予約受け付けるわよ」
あどけないこの笑顔はあの頃からひとつも変わらない。彼女の夢を応援したいというガストの気持ちも何一つ変わらずにいた。この笑顔を曇らせることなく、これから先も守っていきたいとその度に強く誓う。
コーヒーはすっかり温くなっていた。
会話の中に溢れる笑顔、笑い声。話に夢中になるあまり、二人は時間が過ぎることを忘れてしまっていた。喉がカラカラになってからようやく飲み物が手元にあることを思い出すほど。
「私も今年で四年目になるのね。なんだか感慨深いわ。ガストのおかげですっかりこの土地に慣れちゃったし」
「あちこちエスコートした甲斐があるってもんだ。そう言ってもらえるとさ」
「これからもよろしくね」
「おう。任せてくれ」
ひゅっと冷たい風が通り過ぎた。一枚の小さな花びらを運んできたその風は足元の芝を揺らし、消えていく。
空はいつしか陽が陰り、薄曇りの空に包まれていた。気温が少し下がったようで、じっとしていると肌寒さすら感じる。
「そろそろ移動しようか」どちらからともなく、そう声を掛けようとした時であった。
ふと、ガストの視線が前方を捉える。
そこには対峙する少年が四人。そのうち二人はガストにとっての弟分――ロイとチャックだ。彼らは相手二人を睨むようにしている。声を荒げて争う様子こそはないものの、険悪な雰囲気は充分に感じ取ることができた。
ガストはコーヒーをベンチの上に置くとすっと立ち上がり、穂香の方に少しだけ顔を向けて口を開く。
「穂香、悪ぃ。ちょっと待っててくれないか。すぐ戻ってくる」
「……ええ。気を付けてね」
小走りで彼らの元に向かうガストの背中を穂香は眺めていた。不穏な空気には彼女も気づいていた。口論しているであろう彼らの姿を見つけた際、陽光の様な眼差しが一転して鋭い鷹の目に変わったのだ。
人通りのある開けた場所で大事にはならないだろう。しかし、どうにも逆上すると場所を弁えずに暴れる者もいる。
微かな不安を胸に抱きながらも穂香はその行く末を見守ることにした。
ガストが彼らの元に着くと、双方が驚いていた。彼を慕う二人はその中に歓喜を潜ませ、敵対する相手は焦りの色を滲ませる。
数多の修羅場をくぐり抜けてきた彼ならば、話も聞かずに出会い頭で殴りつける様なことはしないだろう。人が少なからず集まってきてもいる。
ガストは状況を把握すべく話を両者から聞き出しているようだ。
それは本当に何気なく、集まってきたギャラリーにちらりと穂香が視線を向けた時であった。
穂香は息を呑んだ。
彼らを遠巻きに見ている野次馬の中に、ある姿を見つけてしまったのだ。かつての恋人の姿を。
何故、此処にいるのか。ああ、そういえば仕事でこっちに来ると言っていた。最後にその姿を見たのはいつだったか。この広いニューミリオンで出逢うことはないだろう。そう思っていたのだが。
様々な感情が穂香の中にどっと押し寄せてきた。懐かしさ、悲しみ、怒り、哀しみ。それらから逃れようと穂香はベンチの裏に身を潜めるようにしてしゃがんだ。幸い相手は穂香に気づいておらず、一触即発の少年たちに気を取られているようだった。
未練はとっくのとうに海の彼方に捨ててきたはずだった。
自分を遠ざけさせ、離れ、そして振り払われた。未練などないはずなのに、それでも目頭が熱くなるのはどうしてだろうか。渦巻いた感情の波に攫われそうになる。
穂香は膝を抱え、顔を伏せてじっとその場でうずくまっていた。
ベンチにゆっくりと近づいてくる足音。芝を踏む音はすぐそこで止まった。
論争を一先ず収めて戻って来たガストは待っているはずの穂香の姿がなかったので、おかしいと首を捻る。だが、ベンチのすぐ裏でしゃがみ込んでいる彼女を見つけたので「穂香?」と声を掛けた。
びくりと穂香の肩が震えた。ゆっくりと上げられた彼女の顔はどこか怯えており、様子がおかしい。ガストは僅かに顔を顰め「どうしたんだ」と優しく声を掛けた。
「……ガスト」
「何かあったのか」
「なんでもない。なんでも……ただ、蜂が飛んできて怖くて」
「蜂って、刺されちまったのか? 大丈夫か」
「大丈夫。……そっちは解決したの?」
穂香はしゃがんだその体勢のままガストに訊ねた。ちらりとベンチの向こう側を気にしながら。
「ああ。大したことじゃなかったからな」
「そう。周りにいたギャラリーも、どっかに行った?」
「え? ……ああ、そういや野次馬っぽいヤツらがいた気もするけど。もうどっかに行っちまったみたいだぜ」
「……そう。ガスト、場所移動しない?」
穂香はベンチの背に手を掛け、その場にゆっくりと立ち上がった。スカートの裾についた土埃を掃い、徐に目を前方へ向ける。先程までいたギャラリーの姿はひとつもない。
ベンチの背を掴む手に僅かに力が込められていた。それに気づいたガストではあったが、振り向いた穂香があくまで普段通りに振舞っていたので深追いが出来ずにいた。
「久し振りにダーツがやりたい気分。サウスのダーツバーに行かない?」
「おお、いいぜ。いつもの場所でいいか? 久しぶりに勝負でもするか」
「いいわね。でも、久し振りだからフォームがおかしくなってるかも。ガストのフォームをじっくり見させてもらうわ」
「それこそ変なフォームになっちまいそうだな。……じっくり見られると恥ずかしいし」
「今さら何言ってるのよ」
「何って……恋人の前ではカッコいい姿を見せときたいモンだろ?」
そう言いながら首の裏に左手を当てるガスト。その顔は少し照れ臭そうにしていた。
◇◇
暗闇に視界を奪われていた。自分の輪郭だけが白くぼんやりと浮かび上がり、周囲は完全に闇に包まれている。一人、その中でただぽつんと立ち尽くしていた。
それも束の間。目に映る場面は薄暗い路地裏に転換。色のついた煉瓦造りの建物が整然と並び、弱く儚い月明かりで照らされていた。
路地裏の中央に男が一人、こちらに背を見せて佇んでいる。見覚えのある背格好の男に声を掛けようと、一歩足を踏み出す。しかし、それ以上は進むことが出来なかった。
青白い月明かりを纏うその背に責務が重く負い被さる。刹那見えた横顔は暗く、悲愴に満ちていた。透輝石の目は伏せられ、ゆっくりと拳が握られる。男が、歩き出した。
「待って。待って! 行かないで!」
叫んだその呼び掛けは闇に吸い込まれるように消えていき、男に届くことはなかった。
追い掛ける為の足はぴくりとも動かない。穂香の目に大粒の涙が浮かび、頬を伝っていく。
起きた時には両目からぽろぽろと涙が零れ落ちていた。手の甲でそれを拭おうとした穂香は右手が動かないことに気づく。上半身を起こしたガストが穂香の手をしっかりと掴んでいた。彼は酷く心配そうな表情で「大丈夫か」と訊ねた。薄暗がりの中ですぐ側にある顔を見た穂香は肺に溜まっていた息を短く吐き出した。
「……ガスト」
「すげぇ魘されてたから、起こした。……嫌な夢でも見たのか」
涙の粒を掃うガストの指先は確かに温かい。それが嬉しいことのはずなのに、余計に涙が止まらずにいる。繋がれた方の手を穂香はぎゅっと握り返した。
「うん。ごめん、起こしちゃって」
「いいって。……穂香、ちょっと起きて話さないか。何か温かいモンでも飲みながら」
「でも」
深夜一時を過ぎた時間帯。もう昨日の話にはなるが、セントラルとレッドサウスを経由してグリーンイーストに戻ってきた。昼中遊び回ってきたのだから、疲労は少なからず溜まっているはずだ。悪夢を見て寝つき難くなった自分に付き合わせるのは気が引ける。
目にかかる前髪を長い指がそっとはらう。ガストは口角を持ち上げて笑っていた。
「嫌な夢見た時は誰かに話しちまった方が楽になる。そう言ってくれたの、穂香だろ。あの時、穂香が話に付き合ってくれたおかげでマジで助かった。だから、今度は俺が聞く番だ。ああ、でも無理に話したくないなら……」
「ううん。ありがと、ガスト。じゃあ、ちょっとだけ聞いてもらってもいい?」
「おう。暗いから足元、気を付けろよ。それと何か羽織った方がいいぜ。カーディガン、リビングだったよな」
ベッドから下りて寝室からリビングへ移動する間、ガストは穂香の手を離そうとはしなかった。
甘くて香ばしい匂いが湯気と共にマグカップから揺らめく。口にした黄金色の透き通ったお茶は優しい味わいで、すっと身体に沁みていく。
これは「このメーカーのが美味いんだ。ホットでもコールドでもいける」とガストが勧めたものだ。レッドサウスの畑で収穫したトウモロコシを使用していると売り場で話していた。
照明を絞ったリビングのソファにぴったりと肩をつけて並ぶ二人。色違いで揃いのマグカップを手に抱え、ぽつりぽつりと会話を交わし始めた。
「お茶、美味しい。ほんのり甘くて癒される」
「だろ。気に入ってもらえて何よりだ」
「それに、ガストらしい」
「え? 何がだ」
「なんでもない。ありがと」
恋人に対する慰め方があまりにも優しいもので、実に彼らしい。その優しい所が好きだと穂香は静かに笑う。何に対して笑われたのか理解できずにガストは軽く首を傾げていた。
「昼間、ガストがあの子たちの対応に行ってたでしょ。セントラルパークで」
「ああ。あの後も特に連絡なかったし、落ち着いたと思ってる」
「それなら良かった。あの時、ね。野次馬ギャラリーの中に、彼がいたの」
「彼って……もしかして、アイツが」
ガストの表情が一瞬にして険しいものへと変わる。
昨年の冬によりを戻そうとしてきた穂香の元カレ。電話口で釘を刺したつもりだったが、この期に及んでコンタクトを取ってきたのかと、顔を顰めた。
「そいつに何かされたのか」
「なにも。すぐベンチの裏に隠れたから。向こうは気づいてなかったみたい」
「それであんなトコにいたのか。……俺がちょっと離れたばかりに。悪い、ホントに」
「ガストは何も悪くない。ただ、私が色々昔のこと思い出しちゃって。……それでさっきの嫌な夢、見たんだと思う」
「アイツ絡みの夢だったのか」
ゆっくりと穂香が首を横へ振った。
揺れる水面に視線を落としたまま、眉根を寄せて言葉を選ぶように口を開く。
「ガストがどこかに行ってしまう夢だった。私、行かないでって引き止めたかった。でも、足が動かなくて。私の声も届かなくて。それで」
落ち着いていた感情がまた昂り始め、段々と涙声に変わっていく。目頭に熱を帯びる。再度訪れた哀しみで涙が流れ落ちないよう、ガストは穂香の頭を優しく抱き寄せた。
「穂香を置いてどっかに行ったりしない。絶対に」
「うん」
「どんな立場や環境になっても」
「うん」
「側に居る。……いや、居てくれないか」
穂香を優しく包むように抱きしめるガストの目が微かに揺れる。その目を閉じた直後、自身の背に回された温かい腕の感触。彼女を胸に引き寄せ、強く抱きしめた。
「穂香はさ、どんな俺だったとしても受け入れてくれるか」
「例えば、どんな」
「……例えば、俺が」
ガストはそこで言い淀んだ。自分から切り出した話だというのにだ。僅かに顔を横に二度振り、穂香の髪を優しく撫でる。
「……俺の本性見たら愛想尽かして、離れていっちまうんじゃないかってたまに考えることあるんだ。俺は大事なモン傷つけられたら、相手の話聞く前に間違いなく手が出ちまう。当然の報いだって理由つけて。弟分のヤツらには無鉄砲になるな、落ち着け、こっちからは手ぇ出すなって言うくせにだ。いざ自分のことになると……感情的になっちまう」
「それは大切なものを守りたい気持ちが強いからよ。それだけガストにとって掛け替えのないものだから」
顔を上げた穂香の目には恐怖や畏怖の色は見えない。真っ直ぐに見据えてくるその眼差しが痛いほどに愛おしく、眩しいと感じられた。
「誰だって大切なものを踏みにじられたら怒るわよ。ガストはそれにちゃんと向き合ってる。解決法は人それぞれ。だからって暴力を肯定したりもしないし、ガストを否定したりもしないわ。……この数年でガストの色んな面は見てきたつもり。でもまだ知らない面があって当たり前。実際、女の子苦手って知ったのも最近だったし。他にも何かあるなら、受け入れられるかどうかはその時になってみないと分からない」
「……そう、だよな」
「実はホラー映画が三度の飯よりも大好きで、常にそのスリルを求めてるっていうのなら……ちょっと考えさせて」
「ははっ、それはねぇから安心してくれよ」
ホラーに対する耐性が極度に低い穂香。逆に言えばそれ以外であれば受け入れられると言っているようなものであった。険しい表情をする彼女の瞼にそっと口づけを贈る。
どうやら陰っていた空は晴れ間を見せたようだ。ガストは煌めくものを見るかのように目を細め、口元に緩く弧を描く。
「どうしたの?」
「なんか、穂香は太陽みたいだなって思ってさ。初めて会って、二度目に会った時もキラキラ輝いてた。「新天地でやってくぞ!」って気合いがすげぇ出てたし。その姿が眩しくて、ひた向きに突き進んでく穂香をずっと追いかけてた。手が届かないと分かった後も、ずっと。なんかこう言うとヒマワリみたいだな、俺」
太陽に憧れ、恋焦がれてずっとその姿を追いかけ続けた。夏に大輪を咲かせるヒマワリの様に。自らをそう例えたガスト。今でこそ手が届く存在となったが、彼女から目を離すことはないだろう。
「ガストの方が太陽よ。……だって、ずっと見守っててくれたんでしょ。どんな時も温かく、優しく支えてくれた。さっきだってずっと手を繋いでてくれた」
「行かないでって目覚ます前に言ってたんだ。だから、何処にも行かないってのを伝えたくてだな」
「すごく嬉しかった。本当に、ありがとう」
「こっちこそ」
どちらも失うわけにはいかない。
太陽という存在はお互いにとって掛け替えのないものなのだから。