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ふたりの子ども
晩夏を迎えたグリーンイーストヴィレッジ。夏の陽射しが和らぎ、過ごしやすい日が続く中で秋の足音も次第に近づいてきていた。
イースト近郊に構えた一戸建て。その家にはウッドフェンスで囲われた庭がある。青竹色の芝が広がり、花壇には季節に応じた花が咲き誇る。低木の寒椿やツツジが春を報せ、背の高いみかんの木は秋から冬にかけて楽しめるのだ。
陽射しがたっぷりと入るこの庭に目立つ物が一つ。ガラス張りの屋外温室が設置されていた。白いアルミ材のフレームを使用した三角屋根の温室で、片側にドアがついており天窓も開くようになっている。その中に鉢植えの花が二段に並べられている。ストロベリーツリーやセントポーリア、ベゴニアなど。どれも小鳥にとって安全な植物ばかりであった。
その理由はこの温室にメジロたちが天窓から出入りしているから。止まり木も中に設置されており、雨風を凌いだりちょっと休憩する場となっていた。
少年は散水ホースの先端に繋がる手元のレバーを緩めた。ミスト状に散っていた飛沫が消える。
庭一面が水滴でキラキラと輝いていた。庭の水遣りを終えた少年は額の汗を手の甲で拭い、今度はリールレバーをくるくると回してホースを収納する。
水を僅かに含んだ少年の髪。黄褐色の毛先はワントーン落ち着いた色、べっ甲の様な色になっていた。
少年は収納したホースの箱を両手で懸命に持ち上げ、ウッドデッキの側まで運ぶ。いつか自分も父親の様に片手でひょいと持ち上げられるだろうか。
ホースの片付けが終わると、それを見計らったかのように一羽の小鳥がチチチッと鳴きながら少年の肩に降りてきた。水遣りをしている様子をずっとみかんの木から眺めていたようだ。
「チィ、チュイ」
「もうちょっと待って。父さんが今用意してる」
「チィー。チュイ、チィー」
「うちのみかんはまだ食べられないよ。ほら、緑色だし」
少年は威光茶色の目を頭上に向けた。
青空に伸びた枝に小ぶりの蜜柑が幾つもぶら下がっている。青々とした実をつけてはいるが、食べ頃になるまでにはまだ時間がかかりそうだ。
「チィー」
「うちのみかん、そんなに好きなの」
「チィ!」
「今年は表年だって母さんが言ってたから、たくさん食べられるよ」
そう少年が伝えると、メジロはご機嫌に囀った。くる、くると体の向きを変えるので短い尾羽が首筋に当たって、くすぐったい。穏やかな色をした目を細め、少年は笑った。
間もなくして、テラスに通じる窓の開く音がした。
振り向いた少年はウッドデッキから降りてくる父親と目が合った。少年の父親――ガスト・アドラーは浅めのボウル皿を抱えている。そこにはみかんの輪切りが盛られていた。ガストの長い襟足が真っ赤な花柄のシュシュで括られている。理由あって朝からこの髪型であった。
彼は「水遣り手伝ってくれて助かった。サンキュー」と息子に笑顔を向けた。
すると、大人しく肩に止まっていたメジロはきらんと目を輝かせた。ガストに向けて。大好物のみかんが白く縁どられた目に映っている。もうこれは居ても立っても居られない。
「チィッ!」
「お、目敏いな。今置いてやるからちょっと待ってろよ。……って、落ち着けって。ちゃんとみんなの分、用意してきたんだからよ」
メジロはぐっと前のめりに体を傾け、ガストが持つ器に飛び移った。器の縁に止まると、みかんをつまみ食いしようと身を乗り出す。
みかんの木が立つ側にメジロ専用の餌台が用意されている。高い位置に吊るしたバードケージ、その中にガストはみかんの輪切りを並べた。
皿の縁に止まっていたメジロは我先にと一番乗りでバードケージの中へ。
すると、何処からともなく「待ってました!」とメジロが一羽、二羽と集まってきた。バードケージの隙間を潜り抜け、みかんを一斉に啄み始める。
メジロたちがみかんを啄む様子を親子揃って見守る。バードケージとの距離は僅か一メートルもない。
そこへバササッと降りてきた一羽のメジロがガストの腕に止まった。
「あ、チヨスケも来た」
「チィッ! チュイーチュイー」
「よう。今日も元気そうだなチヨスケ。今日はリトルトーキョーで買ってきたみかんだ。さっき摘んできたけど、甘くて美味かったぜ」
「うん。甘くて美味しかったよ。シロップ漬けよりも美味しかった」
「チィー♪」
「……あれ、彼女はどうした? 一緒じゃないのか」
「あっちにいるよ」
いつも番で行動しているチヨスケの愛しのパートナーが見当たらない。しかし、息子が直ぐにバードケージを示した。そこにはちゃっかりとみかんを堪能している彼女の姿が。一度ガストの方をちらりと見た気がした。
「お前は見張り役ってとこか。いつもお疲れさん」
「チュイー」
ガストの家は彼らにとって安全な場所だと認識されている。庭に天敵や大きな鳥もやってこない。それでも念の為にと群れの中で交代の見張りを立てている。まあ、このチヨスケは特別に懐いているので、ガストの姿を見掛けると一目散に飛んでくるのである。
「チィー。チュイッ、チィー」
ふと、バードケージの方からこちらに向かって鳴くメジロが一羽。息子の方をじっと見つめて何かを訴えていた。どうしたのかとガストは首を傾げる。
「ん?」
「みかんが落ちたから拾ってほしいって。オレ、拾ってくる」
芝の上に滑り落ちたみかんの輪切りがひとつ。拾ってくれと声を上げた子以外も芝の方を見つめていた。みかんは魅力的だけれど、地面の上に降りることを躊躇っているような仕草を繰り返す。
だから拾って元の場所に置いてほしいんだ。そう訴えていると息子が通訳し、落ちたみかんを拾い上げに行った。バードケージの中に戻す間、メジロたちは逃げたり警戒したりする素振りをひとつも見せない。それどころか体の小さいメジロがひょいと彼の指に乗って「チィ、チィ」と少年に話し掛けた。
小鳥たちに柔らかい声と態度で接する息子。ガストは口角に笑みを浮かべた。脳裏に過るのは自分がチヨスケと初めて出会った時のこと。冬の寒い日に道端で小さな体を丸めて蹲っていた。もう何年も前の話だ。それから数々の思い出を自分だけではなく、穂香とも共有してきた。
それが少なからず関係しているのか、ガストの息子は生まれた時からメジロの言葉を理解していた。
家の周囲、庭にメジロの群れがよく訪れる。
朝は澄んだ鳴き声を響かせ、花が咲く時期は蜜を求めてちょこまかと飛び回る。子育てに奮闘している時は雛鳥が餌をねだる声に忙しなく巣を行き来する。巣立った幼鳥たちがぴったりと体を寄せている姿はとても愛らしいものだった。いつ見ても可愛いと穂香と娘も頬を緩ませる。
メジロたちが日常にすっかり溶け込んでいる。幼い息子の周りに集まる数羽のメジロ。その光景をよく目撃していた両親は「この家の人間は害がないと学んでいるんだろう」と。なにやら楽しそうに会話をする場面もあり「子ども特有の想像力だろう」と思っていたのだ。
しかし、どうやらそうでもないようで。決定打は物心ついて間もない息子のとある発言だった。
「チヨスケ、パパのこといまでもオンジンだっていってるよ。さむくて、くらくらしてるときにたすけてくれたからって。……オンジンってなに?」
ガストたちはチヨスケの話を息子にしたことがない。だが、幼い息子が話す事は的確であった。グリーン―ストの道端にうずくまっていた所をガストが偶然見つけ、助けてくれた。その直後に【サブスタンス】の影響により野鳥に集られる。場所や状況までも言い当てたのだ。どうして知っているのかと訊ねれば「チヨスケがはなしてくれた」と。
また、こんなことも話していた。
「ママのおなかにいるときママとパパのこえきこえたよ。あと、チヨチヨうたってた。みんなたのしそうだった」
胎内記憶。母親のお腹の中で過ごしていた時の記憶を拙い言葉で二人に伝えてきた。ガストの腕に止まるチヨスケを見ながら。
そんな環境で八年間を過ごしてきたガストの息子。メジロと楽しくお喋りをするのは成長した今も変わらない。優しい子に育ったものだ。ガストはこの数年間を感慨深く思い、笑みを零した。そんな彼を不思議に思いチヨスケが「チィーヨ。チィー?」と呼び掛けた。
「優しい子に育って良かったなぁ。って思ってたとこだ」
「チュイッ」
父親であるガストはメジロに懐かれてはいるものの、言葉までは理解出来ていない。何となくのニュアンスで返している。それで何となく通じているから良しとしていた。
「シロスケ、クチバシに花粉ついてる」
色素が少しだけ薄い羽を持つ若いメジロ。群れと行動を共にすると一際目立つ個体だが、仲間とケンカをしていることはない。仲睦まじく兄弟たちと羽繕いし合う姿をよく見る。
そのメジロにシロスケと命名したのはガストの愛娘。見た目が白っぽいからだそうだ。
シロスケの嘴周りに付着した黄色い花粉。どこか近所の花が咲く庭に寄り道をしてきたのだろう。
彼らの声に耳を傾けた後、ガストの元へ戻ってきた息子。父親はにこにこと笑っていた。
「どうしたの」
「いや。お前たちもメジロと仲良くなったよなぁって」
「父さんほどじゃないよ。友だちにいつもメジロいるけど飼ってんのかって聞かれることはあるけど」
「んー……飼ってるワケじゃねぇんだよなぁ。餌が少なくなる冬場にメシが食えて、水浴びができる場所を作ってやっただけで。まぁ、結局小さな温室も作っちまったけど」
最初は小さな餌場とバードバスを設けるだけであった。庭に訪れるメジロはチヨスケ一家だけだったかだ。それが日を追う毎に来鳥が増え、今ではバードバスも満員御礼。水浴びをするメジロたちを見て「カワイイ!」と三歳の娘は喜んでいる。
そして、いつかの様に突然の雨で濡れないように雨宿りができる場所を。そう考えたのがガラス張りの温室であった。天窓から自由に出入りができるので、休憩所として活用されている。日向ぼっこが気持ちよく、うとうとする姿も観察できた。
「冬どころか通年で入り浸ってるよ。ここは過ごしやすい場所だからって。来年もここで巣を作りたいって言ってる子もいるし」
「そう言ってくれてんなら作った甲斐があるってもんだ」
「チィー、チィー?」
チヨスケが鳴いた。その言葉を聞き取った彼は振り返る。向いた視線は建物の二階、子ども部屋がある窓へ。
「妹なら母さんに手紙書いてる」
「チュイー。チィ、チィ」
「手紙? それで子ども部屋にいたのか。クレヨン握りしめて真剣な顔で何か描いてると思ったら」
ガストがテラスに出る前、庭の餌場にメジロ用のみかんを用意するから一緒にどうか。そう声を掛けようとしたのだが、娘は振り向きもせずに「いそがしーからあとで!」とぴしゃりと言い放った。その小さな手にはオレンジのクレヨンが握りしめられており、一生懸命動かしていた。ままごとテーブルには黄緑の折り紙で作った鳥。黒目がぐりぐりと描かれており、白いクレヨンで縁どられている。ガストは断られたことよりも、手先が器用な所は母親譲りだなぁと感心したのであった。
「母さんの風邪が早く治りますようにって」
「そっか。ちょっと長引いてるもんな」
「ねぇ、父さん。……母さん治るよね。死なないよね」
ぽつりと吐かれた言葉。不安げに揺れる瞳に影が差す。
穂香はここ三日ほど体調を崩していた。季節の変わり目によるいつもの体調不良によるものなのだが、子どもたちにとっては初めてのこと。穂香は子どもたちに移さないようにと部屋から出る時間を減らし、療養に専念している。だがそれが逆に母親と会える時間が減ってしまったので、不安となっていた。
今は熱もすっかり下がり、空咳が続く程度で落ち着いてはいる。
「……風邪を拗らせて死ぬ人がいるって、アカデミーで教わったから」
その声は微かに震えていた。
ただの風邪と侮るなかれ。授業でそう学んできた彼の表情が急激に沈んでいく。
チヨスケが彼を気遣う様に優しい声で「チィ、チィ」と話し掛ける。ガストは落ち込む息子の頭を優しくぽんっと撫でてあげた。
「大丈夫だ」
「……ほんと?」
「ああ。さっき様子見てきたけど、起きて本読んでたし。熱も下がって、あとは咳だけって感じだな。食欲も戻ってきてる。母さん、昔から季節の変わり目に風邪を引きやすいんだ。でもちゃんといつも治ってる。だから、大丈夫だ」
「うん」
返事をした彼の表情は曇ったままであった。
面倒見が良く、弱音をあまり吐かない息子。これは相当参っているようだ。どうにかして元気づけてやれないだろうか。ガストの腕でチヨスケが心配そうに鳴いている。
「そうだ」とガストは名案を思い付いたかのように手を打った。その反動でバランスを崩しそうになるチヨスケが羽を広げ、パタつかせる。
「二人で手紙を書いてみたらどうだ」
「手紙?」
「ああ。二人が書いてくれた手紙を読めばきっと母さん元気になるぞ。お前も一緒に書いてきたらどうだ?」
「チィ、チュイーチュイッ、チィ!」
「……うん!」
父親の顔を見て安心した彼は二人に今度は元気の良い返事をした。
母親譲りの目元にパッと咲いた屈託のない笑顔。急いで妹のいる部屋を目指し、芝の上を駆けていく。
そんな我が子の小さな背中を見送るガストの口元も綻びた。
◇◇◇
喉の渇きに目を覚ました穂香は怠い身体をゆっくりと起こした。
どれくらい眠っていたのか。カーテンの隙間から見える外の光は薄暗い。
枕元にあるスマホを手繰り寄せ、時刻を表示。正午を過ぎていた。天気が悪くて薄暗いのだろう。
喉の渇きに加え、空腹も感じているような気がした。張り付きそうな喉に潤いを与えるのが先だ。穂香はサイドボードに手を伸ばし、スポーツドリンクを掴もうとする。しかし、そこにあるはずのペットボトルが消えていた。ぼんやりとした記憶を辿ってみても、飲みきった憶えはない。
「あ……悪ぃ。起こしちまったか?」
不意に現れた男性の声と姿。寝室の入口に立っている人物に向かって穂香は「ガスト」と声を出した。掠れた声ほ腫れぼったく、喉から無理やり発音されたものに近い。ガストの耳に届いたかどうかも危うい。
ガストは眉尻を下げ、心配そうな顔を見せた。
「まだ喉腫れてるっぽいな。ドリンク持ってきたけど、飲めそうか」
「うん。ありがと、ガスト」
「さっき買ってきた食材を冷蔵庫にしまってたら、上の方に入れてたドリンク掴み損ねて落としちまってさ。結構デカい音したし、起こしちまったかも……って」
「そんなに大きな音しなかった気がする。ガストの手、冷たくて気持ちいい」
額に触れた大きな手の平の温度が心地よい。じわじわと熱を吸収する。
目を細める穂香に今度は顔を顰めた。
「まだ少し熱、あるみたいだな」
「だいぶ下がったと思うんだけど。寒気も治まってきたし」
「だからってふらふらしないでくれよ。治りかけが肝心なんだし。食欲はどんな感じだ?」
「お腹ペコペコよ。なんでも食べたい気分。でも、まだガストが作ったスープが飲みたい。こんな時ぐらいしか食べられないし」
日本で風邪に効く栄養食はお粥や雑炊が主流だ。変わってこの国では肉や野菜が沢山入った栄養満点のスープがある。家庭によって味付けが異なるもので、穂香はガストが作るスープを大層気に入っていた。
「じゃあ昼もそれにするか」
「うん。ありがと。あと、ごめんね。仕事休ませちゃって。……泊まりでお見舞いに来てくれたし」
「穂香が具合悪くて辛い思いしてんのに、おちおち仕事してられねぇって」
マットレスが深く沈み込む。ベッド脇に腰を下ろしたガストは穂香の頭に手を伸ばし、優しく髪を撫でた。愛しい人に向ける眼差しを携えて。
「それに遠慮はなしだぜ。これからもずっとな。……家族になるんだし」
左手薬指に光るエンゲージリング。大切なあの夏の想い出も重ね付けされている。ペアリングは今も色褪せない輝きを放ち続けていた。
ああ、懐かしい夢だ。ベッドの中で寝返りを打つ。幸せのヴェールに包まれ、微睡みながら穂香は口元を緩ませた。
◇
「こうしてシンデレラは王子様と末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめてたし」
大円団で幕を閉じた物語。ガストは英語で書かれた絵本のページをゆっくりと閉じた。父親のガストにぴったりとくっついて横になった小さな女の子。三歳の女の子はお喋りが大好きで、甘えん坊だ。
ガストは愛娘を寝かしつけるため、ゆっくりと絵本の読み聞かせをしていた。しかし、物語がクライマックスを迎えても緑色の小さな目は爛々と輝くばかり。これは次の物語をねだられそうだな。そう予想した通り、小さな手がベッド脇にある絵本を掴み、表紙を見せてきた。
「つぎこれよんで!」
「んー……まだ眠くならないのか?」
「うん。だからよんで」
これは十分前に開催した人形劇が余計だったようだ。ベッドに入る前、どうしてもとせがまれた観客参加型の人形劇。娘が大事に可愛がっている人形やぬいぐるみで即興の『不思議の国のアリス』を演じたガスト。夢から覚めたのはアリスだけではなく、娘の目も覚めてしまった。優しい声で絵本を読み聞かせても、その目は次の冒険を求めるばかり。
きらきらとした目でねだられては断れない。つい先日、同期に息子と娘の話をしたところ「相変わらず親バカだな」と呆れ顔で返されてしまった。甘やかし過ぎは良くない。わかってはいる。だが、可愛いから仕方がないのである。
とはいえ、夜通し絵本を読み続ける訳にもいかない。ガストは次の一冊で必ず寝かしつけると気合いを入れ、ふにふにとした愛らしい手から絵本を受け取った。
「パパ、にほんごでよんで」
「難易度のハードルが急に上がったな。うーん……このお話だとちょっと難しいかもなぁ」
突然の注文にガストは思わず呟いた。
表紙に描かれた大きな白く美しい鳥。細長い首、翼の先が黒く、長い嘴と頭頂部が赤いのが特徴の鶴。その隣に美しい人間の娘のイラストが載っていた。
『鶴の恩返し』の話はガストも知っている。但し、それを正しい日本語に訳して喋ることが出来るかどうか。接続詞が怪しいのだ。片言の日本語になってしまうだろう。都度悩みながら喋ることが出来たとしても、それでは余計に娘の睡魔を邪魔してしまいそうだ。
そんな父親に対し、娘は不思議そうにきょとんとしていた。
「ママはよめるよ」
「ママはバイリンガルだからな」
「ばいりんがる?」
娘は初めて聞いた単語をオウム返しで訊ねた。
彼の家は日常生活を英語を主軸にして過ごし、同時に日本語での意味も教えながら子どもたちに接するようにしていた。これは息子が生まれる少し前に「どちらの言語も理解出来た方が役に立つ時がくると思う」という穂香の意見から生まれたもの。近年、便利な翻訳機能があるとはいえ、才能として個々が備えている方があらゆる場面で発揮出来る。ふたりの未来の為にそうしよう。ガストもその考えに快く首を縦に振ったのだ。
「ママは英語も日本語も喋れて、読めたり書けたりするだろ? ママみたいにスゴイ人のことをバイリンガルって言うんだ」
「ふーん。じゃあママもパパもすごいひとなんだね。まえにね、ママがいってたの。ママのにほんごぜんぜんわかんないのに、がんばっておぼえてくれたって。それにママいっつもいってるよ。パパはすごいひとだよって」
にこにこと笑う顔が穂香とよく似ていた。
金髪に近い柔らかな髪も年月が経つにつれ、彼女の髪色に近づくだろう。グリーンの瞳は綺麗な宝石のようだ。その目に映るガストは頬を緩ませ、愛おしそうに微笑んでいる。
「ねぇねぇ、パパとママはどこであったの? シンデレラみたいに、おしろのぶとーかいでママをみつけたの?」
「舞踏会じゃないけど、ママを見つけたのはパパだよ」
「ママはうんめーのひとだったんでしょ?」
「そうだな。運命の人だな」
自分で改めて口にするのも少し照れる。邂逅を重ね、数々の困難を乗り越えた暁に現在がある。運命と形容しても違わないだろうとガストは思っていた。
「ステキ! わたしもせかいでいっちばんカッコいいおうじさまとケッコンする!」
ガストは固まった。まだ幼い愛娘が笑いながらそう言ったものなので。まさか、まさか三歳の子どもから結婚というワードが出てくるとは夢にも思わない。いや、この年頃の女の子は憧れたものを言葉にしたがるもの。今の発言も物語に出てくるお姫様に憧れたからだ。
だが、ここは普通「ケッコンするならパパがいい!」と言ってくれるものではなかろうか。もしや、既に好きな男の子がいるのかもしれない。女の子の初恋は早いと聞く。しかし、どこの馬の骨かもわからないヤツに娘をやるわけにはいかない。
ガストは長々と頭の中で、ぐるぐると考えていた。まだまだ先の話だと言うのに。
「……ぱ、パパじゃダメなのかなぁ?」
「だめ」
ぐさり。追い討ちをかけるように見えない矢がガストの胸に追突き刺さった。愛娘にハッキリとそう言われてしまったのだ。二ヶ月は立ち直れないだろう。
こう話せばまた元メンターと同期に「大袈裟だ」と口を揃えるだろう。
「だって、パパはママのおうじさまだもん」
目の前が真っ暗になりかけたところへ救いの光が差し込んだ。
それと同時に、娘の意外な言葉に目を見開いた。
「パパはママのおうじさま、ママはパパのおひめさま。ちがうの?」
子どもは幼い頃から親のことをよく見ている。ふたりの子どもたちも両親の仲睦まじい姿を見て育っていた。だからこその発言なのだろう。
ガストは柔らかく目を細め、娘の頭を撫でた。
「……ああ、そうだよ。パパにとってママはたったひとりのお姫様だ」
それだけは今も昔も、未来永劫変わらない。心の底から愛する女性なのだから。
「あれ、まだ寝てないの」
と、愛娘に惚気けていたところへ息子が顔をひょこっと覗かせた。すると「おにーちゃん!」と嬉しそうな声を上げる。眠気の欠片もない妹の声色に兄は眉を下げて笑い返す。父の寝かしつけが上手くいっていないことを瞬時に察したのだ。
「父さん、母さんが呼んでたよ」
「え? 起こしちまったかな」
「オレが読み聞かせるから、母さんのトコ行ってあげて」
「ああ、頼むよ。良い子で寝るんだぞ、おやすみ」
ガストはふたりの小さなおでこにおやすみのキスをして、優しく頭を撫でた。
「兄ちゃんも一緒に寝るから、羊数えような」
「おにーちゃん。パパのぶゆーでんききたい」
「羊にしなさい」
部屋を出る際に聞こえてきた兄妹の会話。それを耳にしたガストは部屋の入口で足を止め、子どもたちの方へ振り返って釘を刺した。
ガストの息子はアキラに可愛がられている。彼は「ガストそっくりだなー」と笑いながら頭をよく撫でた。どうやらそのアキラが昔の話をちらほらと聞かせている様子。本人は「大したこと話してねーよ」と悪気無く言うのだが、ガストとしては気が気じゃない。チヨスケも度々ふたりに何か話しているようだが、内容は大抵「君のパパはいい人! かっこいいよ!」というものなので特に心配はしていなかった。
ふたりで潜り込むのに丁度良い子ども用のベッド。枕元には妹の大好きなぬいぐるみたちが並んでいる。それぞれ体格にあったお洋服で着飾っていた。アリス役を任されたふわふわのクマは可愛らしいワンピースを着ている。
起き上がっていた妹を寝かせ、毛布を肩まで引き上げる。ところが、しゅんと沈んだ顔をしていたので「どうした」と優しく訊ねた。
「おにーちゃん。ママのかぜ、なおるよね?」
「大丈夫だって。良くなってるって父さんも言ってた。それに、二人でお手紙書いただろ。それ読んだら母さんすぐに元気になるよ」
「はやくいっしょにごはんたべたい。パパがおうちにずっといるのうれしーけど、ママがいないとさみしい」
「うん」
「にちようび、ママもいっしょにゆうえんちいけるよね?」
「うん。きっと行ける」
「ほんと?」
「あぁ、ほんと。だから早く寝て、明日もパパのお手伝いしような」
「うん。たくさんおてつだいする。おにーちゃんといっしょに」
この兄妹は仲が良い。ふたりは年が五つ離れているが、兄は父親譲りで面倒見がとても良い。一緒に遊んでくれる兄に妹も慕い懐いていた。
兄妹仲良く過ごしてほしい。娘が生まれた時、両親はそう願った。勿論、ケンカすることもある。そんな時は兄だから、妹だからと差別はしない。生まれた順は関係なく、平等に。大きくなってからもお互いを尊重して支え合う関係を築いてほしい。ふたりはそう願ったのだ。
「おにーちゃん」
「ん?」
「ひつじじゃなくて、メジロがいい」
兄は笑った。かつて幼かった自分もそうやって両親に言った記憶が薄っすらとある。
ふたりは頭に黄緑色の小鳥を思い浮かべ、ゆっくりと数え始めた。
◇
ガストは子どもたちの部屋を離れ、二階の一番奥にある寝室に向かった。控えめなノックをした後、返事を待ってから寝室のドアを開ける。
室内に入るなり、ガストは眉を顰めた。
ベッドで横になっているはずの妻が寝間着のままでうろついていた。目が合った彼女の手には写真立て。どうやらサイドボードの上を片付けていたようだ。写真立てや小物の位置が今朝と異なっている。
「穂香……寝てなきゃダメだろ」
「さっきまで寝てたわ。もう寝過ぎて飽きるぐらい。昼夜逆転しちゃいそう」
「まぁ、声もだいぶ良くなってきてるみたいだけどさ」
「みんなの手厚い看病のおかげよ」
「ここまで拗らせたのかなり久しぶりだったもんな。……ってそうじゃない。そんな格好してたら冷えちまうだろ」
ガストは椅子に引っ掛けてある厚手のカーディガンを手に取り、穂香の肩にふわりと羽織らせる。その上から華奢な背中を包み込むようにして抱きしめた。ひんやりと穂香の身体は冷えていた。
「そういえば何かあったの?」
「穂香が呼んでるって言ってたから。さっき寝かしつける前に人形劇やりたいって頼まれて。それが結構盛り上がっちまってさ。だから起こしちまったかなーと」
「そうなの? 全然気づかなかった。起きたの本当についさっきだし、ガストのことも呼んでないわよ」
「え?」
そこでようやく気がついた。息子に気を使われていたのだと。妹のことは自分に任せ、ゆっくり話してくるといいと。
確かにここ数日は家族どころか夫婦間で会話もまともにできていない。風邪を移さないように気を使っていたからだ。部屋を訪れる際は食事、様子を見にいく程度。そういえば今朝は「パパさびしそう」と娘にも言われていた。しょんぼりしていたのが顔に出ていたのだろう。まさかさり気なく気を使われてしまうとは思わなかった。
「変な気ぃ使いやがって。誰に似たんだか」
「ガストね。間違いないわ」
そう言ってくすくすと笑う穂香。
ガストの手に左手を重ね、サイドボードの上を示した。そこにはフレームに飾られた写真が幾つも並んでいる。
恋人時代を共に過ごした写真、結婚式で仲間と一緒に写したもの。真っ白なウェディングドレスに身を包んだ穂香をお姫様抱っこしているのが娘のお気に入りの写真だ。息子が生まれてからは家族揃ったものが自然と増えていった。日常、記念の一部を切り取った思い出がこの場所に溢れている。
「そろそろ新しい写真増やそうと思って。ガストはどれがいい?」
穂香はスマホ内のアルバムを開き、ガストに画面を見せた。アルバムには四人の思い出が沢山詰まっている。メジロのチヨスケたちを羨ましがった娘のリクエストで、目白押しを真似した写真。四人でぎゅうぎゅうにくっついて笑っているのも捨てがたい。
「お、これとかいいんじゃないか。湖に遊びに行った時の」
「それなら、これは?」
「おお、いいな。デカイ魚釣って大喜びしてた時のだ。結局逃げられちまったけどな」
「魚に引っ張られて湖に落ちそうになったから焦ったわ」
「大物過ぎて抱えきれなかったもんなぁ。今度またチャレンジするって意気込んでたぜ。湖の主を絶対に釣ってやるってな」
湖に生息する巨大な魚を親子二人がかりで釣り上げ、両腕にぴちぴちと暴れる魚を抱えて顔いっぱいに笑顔を浮かべたのも束の間。大魚は尾ビレを大きく振り動かし、体をくねらせた。その反動に負けてよろよろと体勢を崩し、水際で転びそうになったのをガストが慌てて抱える。その隙に跳ね上がった魚はポチャンと水の中に消えてしまった。
大物を逃がしてしまい、暫く落ち込んでいた兄に妹が「おにーちゃん。おさかなあげる!」と折り紙で作った魚をプレゼントする姿。小さな可愛らしい紙のおさかなを受け取った兄は目をくしゃりと細めた。それから顔いっぱいに笑顔を浮かべ、妹の頭を撫でた。「ありがとな」と言いながら。
娘は小さな手で器用に正方形の紙を折り畳み、様々な形を生み出すのが得意だ。その時々でハマっているものは違うが、今はメジロを折るのに夢中になっている。
昼間に命が吹き込まれた一羽のメジロが穂香の手元に舞い降りた。
「このメジロちゃんも一緒に飾ろうと思ってるの。あの子たち器用よね。物覚えも早いし」
「あぁ。折り紙で色んな形作ってるよ。穂香譲りで手先が器用だし、センスもいいんだ。今日も「パパの今日のオススメのコーディネートは差し色に赤!」って赤いシュシュで髪結んでくれたんだぜ。将来有望だな」
「あら、だから一日中シュシュで髪括ってたのね。てっきりいつものヘアゴムがどっかにいったのかと思ってた」
今朝、朝食を届けに来たガストの後ろ姿を見て、穂香は首を傾げたのである。彼の長い襟足が赤の可愛らしいシュシュで一つにまとめられていた。娘のお気に入りのシュシュだ。話を聞けばなるほど、そういうことかと頷く。娘が着飾ってくれたのだからと今日一日その髪型でいたと言う。
娘は幼いなりにも母親の穂香をよく見ていた。仕草や口調を真似る場面があり、その度にふふっと笑みを零すふたり。服のコーディネートもそのうちのひとつであった。
「あの子たち折り紙のメジロちゃんと一緒にお手紙書いてくれたの。早く元気になってねって。……嬉しくて泣いちゃうところだったわ」
「みんな穂香がいなくて寂しがってるからな。同じ家にいるとはいえ、風邪移っちまうから気軽に行かせるワケにもいかねぇし」
「あの子たちもだけど、ガストも寂しがってるから明日はリビングに行くわ」
「確かに寂しいけどよ。でもあんまり無理すんなよ」
「わかってる。次の休みはみんなでイエローウエストのテーマパークに行くんだし、そろそろ身体慣らしとかないと遊んでる間にバテちゃうわ。……ガスト。仕事休ませてごめんなさいね」
喉が痛い。穂香がそう訴えた翌日、発熱。大したことないから大丈夫だと彼女は言ったのだが、ガストは午後から有休を取って帰ってきた。食料品といつもの療養セットを大量に買い込んで。
いつものパターンでいけばこれから体調が悪くなるだろうというガストの予想。的中した際には「なんで私が体調悪化させることわかったのよ」と訊けば「何年一緒にいると思ってるんだ」と苦笑いを返した。
「家族が具合悪い時は看病する為に休むに決まってんだろ。だから、気にするのはナシだ」
「うん。……ガスト、ありがと」
とんっと穂香はガストに寄りかかった。それから思い出し笑いをひとつ。何かを懐かしむように。
「さっきね、昔の夢を見たの。結婚する前、私が体調崩したことあったでしょ。私が体調悪いって言ったらガストが泊まり込みで看病しに来てくれた。その時、もうすぐ家族になるんだから遠慮はなしだ、って言ってくれたの憶えてる? ガストは昔も今も変わらずに優しい人よ。私ね、ガストと付き合い始めてから幸せを沢山もらってる。そりゃ、ケンカもするけどそれすら些細なことに思える」
「俺はケンカする度に無茶苦茶焦ってたけどな。未だにガキの頃のトラウマが消えないというか……。ヤバイ、怒らせちまったどうしようってなる」
「ガストがいつも先に折れてくれるから助かってる。私意地っ張りだから」
このふたりが口喧嘩することは滅多にない。ただ、恋人時代に一度、ガストが「深刻な事態になった」と同期やチームメンバーに迷惑をかけたことがあった。コーヒーに砂糖と塩を間違えて入れたり、Tシャツが前後ろ逆だったり。レンに「大丈夫か」と心配されるほどであった。
しかし、深刻な事態と思っていたのはガストひとりだけであり、この時は穂香の方から「ちょっと言い過ぎた」と折れてきた。何のことは無い、ガストが大袈裟に捉えてしまっただけのことであった。
「意地っ張りなところも全部ひっくるめて穂香のいい所だ。愛してる」
「わたしも。愛してるわ、ガスト」
愛する人たちと共に過ごせる時間はこの上なく幸せなもの。
年を重ねれば変化するものもあるだろう。だが、それでも変わらぬ愛を紡いでいく。
誓いは既に立てているのだから。
晩夏を迎えたグリーンイーストヴィレッジ。夏の陽射しが和らぎ、過ごしやすい日が続く中で秋の足音も次第に近づいてきていた。
イースト近郊に構えた一戸建て。その家にはウッドフェンスで囲われた庭がある。青竹色の芝が広がり、花壇には季節に応じた花が咲き誇る。低木の寒椿やツツジが春を報せ、背の高いみかんの木は秋から冬にかけて楽しめるのだ。
陽射しがたっぷりと入るこの庭に目立つ物が一つ。ガラス張りの屋外温室が設置されていた。白いアルミ材のフレームを使用した三角屋根の温室で、片側にドアがついており天窓も開くようになっている。その中に鉢植えの花が二段に並べられている。ストロベリーツリーやセントポーリア、ベゴニアなど。どれも小鳥にとって安全な植物ばかりであった。
その理由はこの温室にメジロたちが天窓から出入りしているから。止まり木も中に設置されており、雨風を凌いだりちょっと休憩する場となっていた。
少年は散水ホースの先端に繋がる手元のレバーを緩めた。ミスト状に散っていた飛沫が消える。
庭一面が水滴でキラキラと輝いていた。庭の水遣りを終えた少年は額の汗を手の甲で拭い、今度はリールレバーをくるくると回してホースを収納する。
水を僅かに含んだ少年の髪。黄褐色の毛先はワントーン落ち着いた色、べっ甲の様な色になっていた。
少年は収納したホースの箱を両手で懸命に持ち上げ、ウッドデッキの側まで運ぶ。いつか自分も父親の様に片手でひょいと持ち上げられるだろうか。
ホースの片付けが終わると、それを見計らったかのように一羽の小鳥がチチチッと鳴きながら少年の肩に降りてきた。水遣りをしている様子をずっとみかんの木から眺めていたようだ。
「チィ、チュイ」
「もうちょっと待って。父さんが今用意してる」
「チィー。チュイ、チィー」
「うちのみかんはまだ食べられないよ。ほら、緑色だし」
少年は威光茶色の目を頭上に向けた。
青空に伸びた枝に小ぶりの蜜柑が幾つもぶら下がっている。青々とした実をつけてはいるが、食べ頃になるまでにはまだ時間がかかりそうだ。
「チィー」
「うちのみかん、そんなに好きなの」
「チィ!」
「今年は表年だって母さんが言ってたから、たくさん食べられるよ」
そう少年が伝えると、メジロはご機嫌に囀った。くる、くると体の向きを変えるので短い尾羽が首筋に当たって、くすぐったい。穏やかな色をした目を細め、少年は笑った。
間もなくして、テラスに通じる窓の開く音がした。
振り向いた少年はウッドデッキから降りてくる父親と目が合った。少年の父親――ガスト・アドラーは浅めのボウル皿を抱えている。そこにはみかんの輪切りが盛られていた。ガストの長い襟足が真っ赤な花柄のシュシュで括られている。理由あって朝からこの髪型であった。
彼は「水遣り手伝ってくれて助かった。サンキュー」と息子に笑顔を向けた。
すると、大人しく肩に止まっていたメジロはきらんと目を輝かせた。ガストに向けて。大好物のみかんが白く縁どられた目に映っている。もうこれは居ても立っても居られない。
「チィッ!」
「お、目敏いな。今置いてやるからちょっと待ってろよ。……って、落ち着けって。ちゃんとみんなの分、用意してきたんだからよ」
メジロはぐっと前のめりに体を傾け、ガストが持つ器に飛び移った。器の縁に止まると、みかんをつまみ食いしようと身を乗り出す。
みかんの木が立つ側にメジロ専用の餌台が用意されている。高い位置に吊るしたバードケージ、その中にガストはみかんの輪切りを並べた。
皿の縁に止まっていたメジロは我先にと一番乗りでバードケージの中へ。
すると、何処からともなく「待ってました!」とメジロが一羽、二羽と集まってきた。バードケージの隙間を潜り抜け、みかんを一斉に啄み始める。
メジロたちがみかんを啄む様子を親子揃って見守る。バードケージとの距離は僅か一メートルもない。
そこへバササッと降りてきた一羽のメジロがガストの腕に止まった。
「あ、チヨスケも来た」
「チィッ! チュイーチュイー」
「よう。今日も元気そうだなチヨスケ。今日はリトルトーキョーで買ってきたみかんだ。さっき摘んできたけど、甘くて美味かったぜ」
「うん。甘くて美味しかったよ。シロップ漬けよりも美味しかった」
「チィー♪」
「……あれ、彼女はどうした? 一緒じゃないのか」
「あっちにいるよ」
いつも番で行動しているチヨスケの愛しのパートナーが見当たらない。しかし、息子が直ぐにバードケージを示した。そこにはちゃっかりとみかんを堪能している彼女の姿が。一度ガストの方をちらりと見た気がした。
「お前は見張り役ってとこか。いつもお疲れさん」
「チュイー」
ガストの家は彼らにとって安全な場所だと認識されている。庭に天敵や大きな鳥もやってこない。それでも念の為にと群れの中で交代の見張りを立てている。まあ、このチヨスケは特別に懐いているので、ガストの姿を見掛けると一目散に飛んでくるのである。
「チィー。チュイッ、チィー」
ふと、バードケージの方からこちらに向かって鳴くメジロが一羽。息子の方をじっと見つめて何かを訴えていた。どうしたのかとガストは首を傾げる。
「ん?」
「みかんが落ちたから拾ってほしいって。オレ、拾ってくる」
芝の上に滑り落ちたみかんの輪切りがひとつ。拾ってくれと声を上げた子以外も芝の方を見つめていた。みかんは魅力的だけれど、地面の上に降りることを躊躇っているような仕草を繰り返す。
だから拾って元の場所に置いてほしいんだ。そう訴えていると息子が通訳し、落ちたみかんを拾い上げに行った。バードケージの中に戻す間、メジロたちは逃げたり警戒したりする素振りをひとつも見せない。それどころか体の小さいメジロがひょいと彼の指に乗って「チィ、チィ」と少年に話し掛けた。
小鳥たちに柔らかい声と態度で接する息子。ガストは口角に笑みを浮かべた。脳裏に過るのは自分がチヨスケと初めて出会った時のこと。冬の寒い日に道端で小さな体を丸めて蹲っていた。もう何年も前の話だ。それから数々の思い出を自分だけではなく、穂香とも共有してきた。
それが少なからず関係しているのか、ガストの息子は生まれた時からメジロの言葉を理解していた。
家の周囲、庭にメジロの群れがよく訪れる。
朝は澄んだ鳴き声を響かせ、花が咲く時期は蜜を求めてちょこまかと飛び回る。子育てに奮闘している時は雛鳥が餌をねだる声に忙しなく巣を行き来する。巣立った幼鳥たちがぴったりと体を寄せている姿はとても愛らしいものだった。いつ見ても可愛いと穂香と娘も頬を緩ませる。
メジロたちが日常にすっかり溶け込んでいる。幼い息子の周りに集まる数羽のメジロ。その光景をよく目撃していた両親は「この家の人間は害がないと学んでいるんだろう」と。なにやら楽しそうに会話をする場面もあり「子ども特有の想像力だろう」と思っていたのだ。
しかし、どうやらそうでもないようで。決定打は物心ついて間もない息子のとある発言だった。
「チヨスケ、パパのこといまでもオンジンだっていってるよ。さむくて、くらくらしてるときにたすけてくれたからって。……オンジンってなに?」
ガストたちはチヨスケの話を息子にしたことがない。だが、幼い息子が話す事は的確であった。グリーン―ストの道端にうずくまっていた所をガストが偶然見つけ、助けてくれた。その直後に【サブスタンス】の影響により野鳥に集られる。場所や状況までも言い当てたのだ。どうして知っているのかと訊ねれば「チヨスケがはなしてくれた」と。
また、こんなことも話していた。
「ママのおなかにいるときママとパパのこえきこえたよ。あと、チヨチヨうたってた。みんなたのしそうだった」
胎内記憶。母親のお腹の中で過ごしていた時の記憶を拙い言葉で二人に伝えてきた。ガストの腕に止まるチヨスケを見ながら。
そんな環境で八年間を過ごしてきたガストの息子。メジロと楽しくお喋りをするのは成長した今も変わらない。優しい子に育ったものだ。ガストはこの数年間を感慨深く思い、笑みを零した。そんな彼を不思議に思いチヨスケが「チィーヨ。チィー?」と呼び掛けた。
「優しい子に育って良かったなぁ。って思ってたとこだ」
「チュイッ」
父親であるガストはメジロに懐かれてはいるものの、言葉までは理解出来ていない。何となくのニュアンスで返している。それで何となく通じているから良しとしていた。
「シロスケ、クチバシに花粉ついてる」
色素が少しだけ薄い羽を持つ若いメジロ。群れと行動を共にすると一際目立つ個体だが、仲間とケンカをしていることはない。仲睦まじく兄弟たちと羽繕いし合う姿をよく見る。
そのメジロにシロスケと命名したのはガストの愛娘。見た目が白っぽいからだそうだ。
シロスケの嘴周りに付着した黄色い花粉。どこか近所の花が咲く庭に寄り道をしてきたのだろう。
彼らの声に耳を傾けた後、ガストの元へ戻ってきた息子。父親はにこにこと笑っていた。
「どうしたの」
「いや。お前たちもメジロと仲良くなったよなぁって」
「父さんほどじゃないよ。友だちにいつもメジロいるけど飼ってんのかって聞かれることはあるけど」
「んー……飼ってるワケじゃねぇんだよなぁ。餌が少なくなる冬場にメシが食えて、水浴びができる場所を作ってやっただけで。まぁ、結局小さな温室も作っちまったけど」
最初は小さな餌場とバードバスを設けるだけであった。庭に訪れるメジロはチヨスケ一家だけだったかだ。それが日を追う毎に来鳥が増え、今ではバードバスも満員御礼。水浴びをするメジロたちを見て「カワイイ!」と三歳の娘は喜んでいる。
そして、いつかの様に突然の雨で濡れないように雨宿りができる場所を。そう考えたのがガラス張りの温室であった。天窓から自由に出入りができるので、休憩所として活用されている。日向ぼっこが気持ちよく、うとうとする姿も観察できた。
「冬どころか通年で入り浸ってるよ。ここは過ごしやすい場所だからって。来年もここで巣を作りたいって言ってる子もいるし」
「そう言ってくれてんなら作った甲斐があるってもんだ」
「チィー、チィー?」
チヨスケが鳴いた。その言葉を聞き取った彼は振り返る。向いた視線は建物の二階、子ども部屋がある窓へ。
「妹なら母さんに手紙書いてる」
「チュイー。チィ、チィ」
「手紙? それで子ども部屋にいたのか。クレヨン握りしめて真剣な顔で何か描いてると思ったら」
ガストがテラスに出る前、庭の餌場にメジロ用のみかんを用意するから一緒にどうか。そう声を掛けようとしたのだが、娘は振り向きもせずに「いそがしーからあとで!」とぴしゃりと言い放った。その小さな手にはオレンジのクレヨンが握りしめられており、一生懸命動かしていた。ままごとテーブルには黄緑の折り紙で作った鳥。黒目がぐりぐりと描かれており、白いクレヨンで縁どられている。ガストは断られたことよりも、手先が器用な所は母親譲りだなぁと感心したのであった。
「母さんの風邪が早く治りますようにって」
「そっか。ちょっと長引いてるもんな」
「ねぇ、父さん。……母さん治るよね。死なないよね」
ぽつりと吐かれた言葉。不安げに揺れる瞳に影が差す。
穂香はここ三日ほど体調を崩していた。季節の変わり目によるいつもの体調不良によるものなのだが、子どもたちにとっては初めてのこと。穂香は子どもたちに移さないようにと部屋から出る時間を減らし、療養に専念している。だがそれが逆に母親と会える時間が減ってしまったので、不安となっていた。
今は熱もすっかり下がり、空咳が続く程度で落ち着いてはいる。
「……風邪を拗らせて死ぬ人がいるって、アカデミーで教わったから」
その声は微かに震えていた。
ただの風邪と侮るなかれ。授業でそう学んできた彼の表情が急激に沈んでいく。
チヨスケが彼を気遣う様に優しい声で「チィ、チィ」と話し掛ける。ガストは落ち込む息子の頭を優しくぽんっと撫でてあげた。
「大丈夫だ」
「……ほんと?」
「ああ。さっき様子見てきたけど、起きて本読んでたし。熱も下がって、あとは咳だけって感じだな。食欲も戻ってきてる。母さん、昔から季節の変わり目に風邪を引きやすいんだ。でもちゃんといつも治ってる。だから、大丈夫だ」
「うん」
返事をした彼の表情は曇ったままであった。
面倒見が良く、弱音をあまり吐かない息子。これは相当参っているようだ。どうにかして元気づけてやれないだろうか。ガストの腕でチヨスケが心配そうに鳴いている。
「そうだ」とガストは名案を思い付いたかのように手を打った。その反動でバランスを崩しそうになるチヨスケが羽を広げ、パタつかせる。
「二人で手紙を書いてみたらどうだ」
「手紙?」
「ああ。二人が書いてくれた手紙を読めばきっと母さん元気になるぞ。お前も一緒に書いてきたらどうだ?」
「チィ、チュイーチュイッ、チィ!」
「……うん!」
父親の顔を見て安心した彼は二人に今度は元気の良い返事をした。
母親譲りの目元にパッと咲いた屈託のない笑顔。急いで妹のいる部屋を目指し、芝の上を駆けていく。
そんな我が子の小さな背中を見送るガストの口元も綻びた。
◇◇◇
喉の渇きに目を覚ました穂香は怠い身体をゆっくりと起こした。
どれくらい眠っていたのか。カーテンの隙間から見える外の光は薄暗い。
枕元にあるスマホを手繰り寄せ、時刻を表示。正午を過ぎていた。天気が悪くて薄暗いのだろう。
喉の渇きに加え、空腹も感じているような気がした。張り付きそうな喉に潤いを与えるのが先だ。穂香はサイドボードに手を伸ばし、スポーツドリンクを掴もうとする。しかし、そこにあるはずのペットボトルが消えていた。ぼんやりとした記憶を辿ってみても、飲みきった憶えはない。
「あ……悪ぃ。起こしちまったか?」
不意に現れた男性の声と姿。寝室の入口に立っている人物に向かって穂香は「ガスト」と声を出した。掠れた声ほ腫れぼったく、喉から無理やり発音されたものに近い。ガストの耳に届いたかどうかも危うい。
ガストは眉尻を下げ、心配そうな顔を見せた。
「まだ喉腫れてるっぽいな。ドリンク持ってきたけど、飲めそうか」
「うん。ありがと、ガスト」
「さっき買ってきた食材を冷蔵庫にしまってたら、上の方に入れてたドリンク掴み損ねて落としちまってさ。結構デカい音したし、起こしちまったかも……って」
「そんなに大きな音しなかった気がする。ガストの手、冷たくて気持ちいい」
額に触れた大きな手の平の温度が心地よい。じわじわと熱を吸収する。
目を細める穂香に今度は顔を顰めた。
「まだ少し熱、あるみたいだな」
「だいぶ下がったと思うんだけど。寒気も治まってきたし」
「だからってふらふらしないでくれよ。治りかけが肝心なんだし。食欲はどんな感じだ?」
「お腹ペコペコよ。なんでも食べたい気分。でも、まだガストが作ったスープが飲みたい。こんな時ぐらいしか食べられないし」
日本で風邪に効く栄養食はお粥や雑炊が主流だ。変わってこの国では肉や野菜が沢山入った栄養満点のスープがある。家庭によって味付けが異なるもので、穂香はガストが作るスープを大層気に入っていた。
「じゃあ昼もそれにするか」
「うん。ありがと。あと、ごめんね。仕事休ませちゃって。……泊まりでお見舞いに来てくれたし」
「穂香が具合悪くて辛い思いしてんのに、おちおち仕事してられねぇって」
マットレスが深く沈み込む。ベッド脇に腰を下ろしたガストは穂香の頭に手を伸ばし、優しく髪を撫でた。愛しい人に向ける眼差しを携えて。
「それに遠慮はなしだぜ。これからもずっとな。……家族になるんだし」
左手薬指に光るエンゲージリング。大切なあの夏の想い出も重ね付けされている。ペアリングは今も色褪せない輝きを放ち続けていた。
ああ、懐かしい夢だ。ベッドの中で寝返りを打つ。幸せのヴェールに包まれ、微睡みながら穂香は口元を緩ませた。
◇
「こうしてシンデレラは王子様と末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめてたし」
大円団で幕を閉じた物語。ガストは英語で書かれた絵本のページをゆっくりと閉じた。父親のガストにぴったりとくっついて横になった小さな女の子。三歳の女の子はお喋りが大好きで、甘えん坊だ。
ガストは愛娘を寝かしつけるため、ゆっくりと絵本の読み聞かせをしていた。しかし、物語がクライマックスを迎えても緑色の小さな目は爛々と輝くばかり。これは次の物語をねだられそうだな。そう予想した通り、小さな手がベッド脇にある絵本を掴み、表紙を見せてきた。
「つぎこれよんで!」
「んー……まだ眠くならないのか?」
「うん。だからよんで」
これは十分前に開催した人形劇が余計だったようだ。ベッドに入る前、どうしてもとせがまれた観客参加型の人形劇。娘が大事に可愛がっている人形やぬいぐるみで即興の『不思議の国のアリス』を演じたガスト。夢から覚めたのはアリスだけではなく、娘の目も覚めてしまった。優しい声で絵本を読み聞かせても、その目は次の冒険を求めるばかり。
きらきらとした目でねだられては断れない。つい先日、同期に息子と娘の話をしたところ「相変わらず親バカだな」と呆れ顔で返されてしまった。甘やかし過ぎは良くない。わかってはいる。だが、可愛いから仕方がないのである。
とはいえ、夜通し絵本を読み続ける訳にもいかない。ガストは次の一冊で必ず寝かしつけると気合いを入れ、ふにふにとした愛らしい手から絵本を受け取った。
「パパ、にほんごでよんで」
「難易度のハードルが急に上がったな。うーん……このお話だとちょっと難しいかもなぁ」
突然の注文にガストは思わず呟いた。
表紙に描かれた大きな白く美しい鳥。細長い首、翼の先が黒く、長い嘴と頭頂部が赤いのが特徴の鶴。その隣に美しい人間の娘のイラストが載っていた。
『鶴の恩返し』の話はガストも知っている。但し、それを正しい日本語に訳して喋ることが出来るかどうか。接続詞が怪しいのだ。片言の日本語になってしまうだろう。都度悩みながら喋ることが出来たとしても、それでは余計に娘の睡魔を邪魔してしまいそうだ。
そんな父親に対し、娘は不思議そうにきょとんとしていた。
「ママはよめるよ」
「ママはバイリンガルだからな」
「ばいりんがる?」
娘は初めて聞いた単語をオウム返しで訊ねた。
彼の家は日常生活を英語を主軸にして過ごし、同時に日本語での意味も教えながら子どもたちに接するようにしていた。これは息子が生まれる少し前に「どちらの言語も理解出来た方が役に立つ時がくると思う」という穂香の意見から生まれたもの。近年、便利な翻訳機能があるとはいえ、才能として個々が備えている方があらゆる場面で発揮出来る。ふたりの未来の為にそうしよう。ガストもその考えに快く首を縦に振ったのだ。
「ママは英語も日本語も喋れて、読めたり書けたりするだろ? ママみたいにスゴイ人のことをバイリンガルって言うんだ」
「ふーん。じゃあママもパパもすごいひとなんだね。まえにね、ママがいってたの。ママのにほんごぜんぜんわかんないのに、がんばっておぼえてくれたって。それにママいっつもいってるよ。パパはすごいひとだよって」
にこにこと笑う顔が穂香とよく似ていた。
金髪に近い柔らかな髪も年月が経つにつれ、彼女の髪色に近づくだろう。グリーンの瞳は綺麗な宝石のようだ。その目に映るガストは頬を緩ませ、愛おしそうに微笑んでいる。
「ねぇねぇ、パパとママはどこであったの? シンデレラみたいに、おしろのぶとーかいでママをみつけたの?」
「舞踏会じゃないけど、ママを見つけたのはパパだよ」
「ママはうんめーのひとだったんでしょ?」
「そうだな。運命の人だな」
自分で改めて口にするのも少し照れる。邂逅を重ね、数々の困難を乗り越えた暁に現在がある。運命と形容しても違わないだろうとガストは思っていた。
「ステキ! わたしもせかいでいっちばんカッコいいおうじさまとケッコンする!」
ガストは固まった。まだ幼い愛娘が笑いながらそう言ったものなので。まさか、まさか三歳の子どもから結婚というワードが出てくるとは夢にも思わない。いや、この年頃の女の子は憧れたものを言葉にしたがるもの。今の発言も物語に出てくるお姫様に憧れたからだ。
だが、ここは普通「ケッコンするならパパがいい!」と言ってくれるものではなかろうか。もしや、既に好きな男の子がいるのかもしれない。女の子の初恋は早いと聞く。しかし、どこの馬の骨かもわからないヤツに娘をやるわけにはいかない。
ガストは長々と頭の中で、ぐるぐると考えていた。まだまだ先の話だと言うのに。
「……ぱ、パパじゃダメなのかなぁ?」
「だめ」
ぐさり。追い討ちをかけるように見えない矢がガストの胸に追突き刺さった。愛娘にハッキリとそう言われてしまったのだ。二ヶ月は立ち直れないだろう。
こう話せばまた元メンターと同期に「大袈裟だ」と口を揃えるだろう。
「だって、パパはママのおうじさまだもん」
目の前が真っ暗になりかけたところへ救いの光が差し込んだ。
それと同時に、娘の意外な言葉に目を見開いた。
「パパはママのおうじさま、ママはパパのおひめさま。ちがうの?」
子どもは幼い頃から親のことをよく見ている。ふたりの子どもたちも両親の仲睦まじい姿を見て育っていた。だからこその発言なのだろう。
ガストは柔らかく目を細め、娘の頭を撫でた。
「……ああ、そうだよ。パパにとってママはたったひとりのお姫様だ」
それだけは今も昔も、未来永劫変わらない。心の底から愛する女性なのだから。
「あれ、まだ寝てないの」
と、愛娘に惚気けていたところへ息子が顔をひょこっと覗かせた。すると「おにーちゃん!」と嬉しそうな声を上げる。眠気の欠片もない妹の声色に兄は眉を下げて笑い返す。父の寝かしつけが上手くいっていないことを瞬時に察したのだ。
「父さん、母さんが呼んでたよ」
「え? 起こしちまったかな」
「オレが読み聞かせるから、母さんのトコ行ってあげて」
「ああ、頼むよ。良い子で寝るんだぞ、おやすみ」
ガストはふたりの小さなおでこにおやすみのキスをして、優しく頭を撫でた。
「兄ちゃんも一緒に寝るから、羊数えような」
「おにーちゃん。パパのぶゆーでんききたい」
「羊にしなさい」
部屋を出る際に聞こえてきた兄妹の会話。それを耳にしたガストは部屋の入口で足を止め、子どもたちの方へ振り返って釘を刺した。
ガストの息子はアキラに可愛がられている。彼は「ガストそっくりだなー」と笑いながら頭をよく撫でた。どうやらそのアキラが昔の話をちらほらと聞かせている様子。本人は「大したこと話してねーよ」と悪気無く言うのだが、ガストとしては気が気じゃない。チヨスケも度々ふたりに何か話しているようだが、内容は大抵「君のパパはいい人! かっこいいよ!」というものなので特に心配はしていなかった。
ふたりで潜り込むのに丁度良い子ども用のベッド。枕元には妹の大好きなぬいぐるみたちが並んでいる。それぞれ体格にあったお洋服で着飾っていた。アリス役を任されたふわふわのクマは可愛らしいワンピースを着ている。
起き上がっていた妹を寝かせ、毛布を肩まで引き上げる。ところが、しゅんと沈んだ顔をしていたので「どうした」と優しく訊ねた。
「おにーちゃん。ママのかぜ、なおるよね?」
「大丈夫だって。良くなってるって父さんも言ってた。それに、二人でお手紙書いただろ。それ読んだら母さんすぐに元気になるよ」
「はやくいっしょにごはんたべたい。パパがおうちにずっといるのうれしーけど、ママがいないとさみしい」
「うん」
「にちようび、ママもいっしょにゆうえんちいけるよね?」
「うん。きっと行ける」
「ほんと?」
「あぁ、ほんと。だから早く寝て、明日もパパのお手伝いしような」
「うん。たくさんおてつだいする。おにーちゃんといっしょに」
この兄妹は仲が良い。ふたりは年が五つ離れているが、兄は父親譲りで面倒見がとても良い。一緒に遊んでくれる兄に妹も慕い懐いていた。
兄妹仲良く過ごしてほしい。娘が生まれた時、両親はそう願った。勿論、ケンカすることもある。そんな時は兄だから、妹だからと差別はしない。生まれた順は関係なく、平等に。大きくなってからもお互いを尊重して支え合う関係を築いてほしい。ふたりはそう願ったのだ。
「おにーちゃん」
「ん?」
「ひつじじゃなくて、メジロがいい」
兄は笑った。かつて幼かった自分もそうやって両親に言った記憶が薄っすらとある。
ふたりは頭に黄緑色の小鳥を思い浮かべ、ゆっくりと数え始めた。
◇
ガストは子どもたちの部屋を離れ、二階の一番奥にある寝室に向かった。控えめなノックをした後、返事を待ってから寝室のドアを開ける。
室内に入るなり、ガストは眉を顰めた。
ベッドで横になっているはずの妻が寝間着のままでうろついていた。目が合った彼女の手には写真立て。どうやらサイドボードの上を片付けていたようだ。写真立てや小物の位置が今朝と異なっている。
「穂香……寝てなきゃダメだろ」
「さっきまで寝てたわ。もう寝過ぎて飽きるぐらい。昼夜逆転しちゃいそう」
「まぁ、声もだいぶ良くなってきてるみたいだけどさ」
「みんなの手厚い看病のおかげよ」
「ここまで拗らせたのかなり久しぶりだったもんな。……ってそうじゃない。そんな格好してたら冷えちまうだろ」
ガストは椅子に引っ掛けてある厚手のカーディガンを手に取り、穂香の肩にふわりと羽織らせる。その上から華奢な背中を包み込むようにして抱きしめた。ひんやりと穂香の身体は冷えていた。
「そういえば何かあったの?」
「穂香が呼んでるって言ってたから。さっき寝かしつける前に人形劇やりたいって頼まれて。それが結構盛り上がっちまってさ。だから起こしちまったかなーと」
「そうなの? 全然気づかなかった。起きたの本当についさっきだし、ガストのことも呼んでないわよ」
「え?」
そこでようやく気がついた。息子に気を使われていたのだと。妹のことは自分に任せ、ゆっくり話してくるといいと。
確かにここ数日は家族どころか夫婦間で会話もまともにできていない。風邪を移さないように気を使っていたからだ。部屋を訪れる際は食事、様子を見にいく程度。そういえば今朝は「パパさびしそう」と娘にも言われていた。しょんぼりしていたのが顔に出ていたのだろう。まさかさり気なく気を使われてしまうとは思わなかった。
「変な気ぃ使いやがって。誰に似たんだか」
「ガストね。間違いないわ」
そう言ってくすくすと笑う穂香。
ガストの手に左手を重ね、サイドボードの上を示した。そこにはフレームに飾られた写真が幾つも並んでいる。
恋人時代を共に過ごした写真、結婚式で仲間と一緒に写したもの。真っ白なウェディングドレスに身を包んだ穂香をお姫様抱っこしているのが娘のお気に入りの写真だ。息子が生まれてからは家族揃ったものが自然と増えていった。日常、記念の一部を切り取った思い出がこの場所に溢れている。
「そろそろ新しい写真増やそうと思って。ガストはどれがいい?」
穂香はスマホ内のアルバムを開き、ガストに画面を見せた。アルバムには四人の思い出が沢山詰まっている。メジロのチヨスケたちを羨ましがった娘のリクエストで、目白押しを真似した写真。四人でぎゅうぎゅうにくっついて笑っているのも捨てがたい。
「お、これとかいいんじゃないか。湖に遊びに行った時の」
「それなら、これは?」
「おお、いいな。デカイ魚釣って大喜びしてた時のだ。結局逃げられちまったけどな」
「魚に引っ張られて湖に落ちそうになったから焦ったわ」
「大物過ぎて抱えきれなかったもんなぁ。今度またチャレンジするって意気込んでたぜ。湖の主を絶対に釣ってやるってな」
湖に生息する巨大な魚を親子二人がかりで釣り上げ、両腕にぴちぴちと暴れる魚を抱えて顔いっぱいに笑顔を浮かべたのも束の間。大魚は尾ビレを大きく振り動かし、体をくねらせた。その反動に負けてよろよろと体勢を崩し、水際で転びそうになったのをガストが慌てて抱える。その隙に跳ね上がった魚はポチャンと水の中に消えてしまった。
大物を逃がしてしまい、暫く落ち込んでいた兄に妹が「おにーちゃん。おさかなあげる!」と折り紙で作った魚をプレゼントする姿。小さな可愛らしい紙のおさかなを受け取った兄は目をくしゃりと細めた。それから顔いっぱいに笑顔を浮かべ、妹の頭を撫でた。「ありがとな」と言いながら。
娘は小さな手で器用に正方形の紙を折り畳み、様々な形を生み出すのが得意だ。その時々でハマっているものは違うが、今はメジロを折るのに夢中になっている。
昼間に命が吹き込まれた一羽のメジロが穂香の手元に舞い降りた。
「このメジロちゃんも一緒に飾ろうと思ってるの。あの子たち器用よね。物覚えも早いし」
「あぁ。折り紙で色んな形作ってるよ。穂香譲りで手先が器用だし、センスもいいんだ。今日も「パパの今日のオススメのコーディネートは差し色に赤!」って赤いシュシュで髪結んでくれたんだぜ。将来有望だな」
「あら、だから一日中シュシュで髪括ってたのね。てっきりいつものヘアゴムがどっかにいったのかと思ってた」
今朝、朝食を届けに来たガストの後ろ姿を見て、穂香は首を傾げたのである。彼の長い襟足が赤の可愛らしいシュシュで一つにまとめられていた。娘のお気に入りのシュシュだ。話を聞けばなるほど、そういうことかと頷く。娘が着飾ってくれたのだからと今日一日その髪型でいたと言う。
娘は幼いなりにも母親の穂香をよく見ていた。仕草や口調を真似る場面があり、その度にふふっと笑みを零すふたり。服のコーディネートもそのうちのひとつであった。
「あの子たち折り紙のメジロちゃんと一緒にお手紙書いてくれたの。早く元気になってねって。……嬉しくて泣いちゃうところだったわ」
「みんな穂香がいなくて寂しがってるからな。同じ家にいるとはいえ、風邪移っちまうから気軽に行かせるワケにもいかねぇし」
「あの子たちもだけど、ガストも寂しがってるから明日はリビングに行くわ」
「確かに寂しいけどよ。でもあんまり無理すんなよ」
「わかってる。次の休みはみんなでイエローウエストのテーマパークに行くんだし、そろそろ身体慣らしとかないと遊んでる間にバテちゃうわ。……ガスト。仕事休ませてごめんなさいね」
喉が痛い。穂香がそう訴えた翌日、発熱。大したことないから大丈夫だと彼女は言ったのだが、ガストは午後から有休を取って帰ってきた。食料品といつもの療養セットを大量に買い込んで。
いつものパターンでいけばこれから体調が悪くなるだろうというガストの予想。的中した際には「なんで私が体調悪化させることわかったのよ」と訊けば「何年一緒にいると思ってるんだ」と苦笑いを返した。
「家族が具合悪い時は看病する為に休むに決まってんだろ。だから、気にするのはナシだ」
「うん。……ガスト、ありがと」
とんっと穂香はガストに寄りかかった。それから思い出し笑いをひとつ。何かを懐かしむように。
「さっきね、昔の夢を見たの。結婚する前、私が体調崩したことあったでしょ。私が体調悪いって言ったらガストが泊まり込みで看病しに来てくれた。その時、もうすぐ家族になるんだから遠慮はなしだ、って言ってくれたの憶えてる? ガストは昔も今も変わらずに優しい人よ。私ね、ガストと付き合い始めてから幸せを沢山もらってる。そりゃ、ケンカもするけどそれすら些細なことに思える」
「俺はケンカする度に無茶苦茶焦ってたけどな。未だにガキの頃のトラウマが消えないというか……。ヤバイ、怒らせちまったどうしようってなる」
「ガストがいつも先に折れてくれるから助かってる。私意地っ張りだから」
このふたりが口喧嘩することは滅多にない。ただ、恋人時代に一度、ガストが「深刻な事態になった」と同期やチームメンバーに迷惑をかけたことがあった。コーヒーに砂糖と塩を間違えて入れたり、Tシャツが前後ろ逆だったり。レンに「大丈夫か」と心配されるほどであった。
しかし、深刻な事態と思っていたのはガストひとりだけであり、この時は穂香の方から「ちょっと言い過ぎた」と折れてきた。何のことは無い、ガストが大袈裟に捉えてしまっただけのことであった。
「意地っ張りなところも全部ひっくるめて穂香のいい所だ。愛してる」
「わたしも。愛してるわ、ガスト」
愛する人たちと共に過ごせる時間はこの上なく幸せなもの。
年を重ねれば変化するものもあるだろう。だが、それでも変わらぬ愛を紡いでいく。
誓いは既に立てているのだから。