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メジロ一家の雨宿り
ざぁざぁと雨が降っていた。天気予報では快晴のマークだったはずが、バケツをひっくり返したような雨が数分前から降り出してきたのだ。
予報外れもいいところ。ガストは部屋の中から窓の外を見上げ、手元のスマホをチェックする。今のところ【サブスタンス】による一時的な異常気象や事故の報せはない。
「出動要請?」
雨空の様子を窺うガストにそう訊ねたのは穂香。風はそこまで強くないが、とにかく雨足が強い。突然の豪雨に彼女も【サブスタンス】の影響かと考えたようだ。
裾の長いマタニティウェアを揺らし、ガストの隣へやってきて同じ様に窓の外を眺めた。
「いや、司令部から特に連絡はきてないな。……すげえ雨だけど、ただの通り雨だと思う」
「そう。……昨日庭木に水やりしたばかりなのに、根腐れしないかしら」
「長雨じゃなけりゃ大丈夫だろ。それよりも穂香、寒くないか?」
「ええ。ガストが買ってきてくれたもこもこのルームソックスも履いてるし、あったかいわ」
彼女の細い足はもこもこでふわふわの素材で編んだソックスで包まれている。しかし、ガストは顔を顰めた。マタニティウェアのみの彼女が薄着だと感じたのだ。
「何か羽織ってた方がいいんじゃないか。一時的な雨って言っても気温が下がるし、冷えてくる」
「大丈夫よ」
「いいや、ダメだ。カーディガン取ってくる」
そう言うが早いかガストはカーディガンを取りに二階の寝室へ向かった。その後ろ姿を見ながら穂香は頬に笑みを浮かべ、自身の丸みを帯びたお腹を優しく撫でる。
「身体を冷やすことは良くない」季節の変わり目に体調を崩しやすくなる彼女に対して日頃からそう口にしてきたガスト。子を宿してからは更に加速する気配り。母体と赤ん坊が健やかに、ストレスなく過ごせるようにと。特に穂香の体調面を気にしており、室温の設定や食事の栄養バランスにも抜け目がなかった。「何でも頼ってくれ」という兼ねてからの口癖に偽りはなく、家事の殆どをガストが引き受けていた。しかしこれでは運動不足になると穂香が口を尖らせたので、重労働に値するものや体調が優れない時に代わりを引き受けるという形で話が落ち着いた。
キッズルームにはベビーベッド、大きなクマのぬいぐるみ、ラタンの揺り籠、カラフルな鳥の布製ラトル。ベッドの真上には飛行機と鳥のモビールが吊り下がっている。新生児用の肌着や必要な日用品も過不足なく揃えられていた。更に絵本も必要だと言うガストに「読み聞かせできる年になったらね」と流石にストップをかける場面も。
これらを買い揃える際、日本にいる穂香の両親からアドバイスを貰っていたのだが、いざ売り場を前にするとあれもいい、これもいいとテンションが上がってしまったようで。妹が赤ん坊の時はこれで喜んで遊んでいたと懐かしい話も交え、我が子への贈り物を選ぶガストの表情は実に楽しそうでいて、幸せに満ちていた。
ただ、気が早すぎる点と行き過ぎた気配りが原因で途中でバテてしまわないか。それが些か心配にもなる。
「お待たせ」
「ありがと」
寝室から戻って来たガストはカーディガンを穂香の肩に羽織らせる。その上からさらに大判ストールでふわりと穂香の身体を包み込んだ。
顔を覗き込んできたガストに穂香は笑みをくすりと向ける。
「どうした?」
「ガストは子煩悩になりそうだなぁって。さっき考えてた」
「……同じこと言われたぜ。ついこの間な」
「鳳くん辺りに?」
「あぁ。親バカになりそうだってな。……って、なんでアキラに言われたってわかったんだ」
「言いそうだもの。あと如月くん辺りにも言われてそう」
これにはガストも驚いてしまった。同期のアキラに「ガストってぜってー親バカになりそうだよな」と言われた同日の別時刻に「もうその時点で既に親バカになっているだろ」とレンに言われたのだ。まるで示し合わせたかのように。それを当人たちに「お前ら仲がいいよな」とでも口にしたものなら、双方から否定の嵐となる。
あの二人なら言うと思った。そう穂香が可笑しそうに笑うのに対し、ガストは笑みを崩さずに眉尻を下げる。どうやら他の人間にも言われたようだ。
「レンにもだけど、マリオンにも言われちまってさ。でも、マリオンも人のこと言えねぇと思うんだよなぁ。ジャクリーンに甘すぎるとこあるし……ってのを言ったら無茶苦茶怒られた」
それはつい先日のこと。ガストは第13期ヒーローズのメンバーと顔を合わせる機会があり、そこで同期や当時のメンターたちと和やかに談笑。ジュニアが属するバンドの話。ノヴァが研究室のコーヒーメーカーの前で寝落ちしていた話。進化した必殺技をルーキーに披露したらベタ褒めされたなど。それらの話を経て、ふとしたことからガストの話に焦点が合うことに。
奥さんのこと、もうすぐ生まれてくる赤ん坊のこと。その話題を振られたガストは「エコー写真で見た手がこんなに小さかったんだ」「名前はもう決めてあるんだぜ。穂香と二人で考えたんだ」「スマッシュケーキはどんなのがいいか迷っちまうよな」「遊園地、スタジアム、水族館。三人で行きたい場所がありすぎるんだ」と、あまりにもニコニコと話す。周りにぽんぽんと花を飛ばしそうな勢いで。先に挙げたマリオンの怒りを買ってすらもそうであったので、彼の話を聞いていた者は一同「幸せそうで何よりだ」と思っていたそうだ。
「ガストが色々してくれるのは本当に助かってる。でも、ちょっと張り切りすぎてるというか。途中でバテないか心配なのよ」
「あはは……やっぱ、そこまで張り切ってるように見えてんだな」
テラスに通じる窓。その窓を叩く雨音が静かに響く。
庭の草木はすっかり雨に濡れていた。みかんの青々とした葉から雫がぽたぽたと落ちていく。
外を眺めていたガストの視線が少しだけ俯いた。
「不安、なのかもしれねぇな」ぽつりと漏れる言葉。
「前にも話した通り、俺のトコはちょっとばかし複雑な家庭環境だった。……そんな環境にいた俺がちゃんとした父親になってやれんのかなって。そう考えること結構あってさ。俺みたいにガキの頃にグレて家飛び出していったらどうしようとかな」
自身の経験を振り返る度、似た人生を息子に歩ませてしまうかもしれない。その環境を作り出してしまうかもしれない。そんな不安が圧し掛かっていた。
頬にひやりとした手の平の感触。添えられた穂香の右手、彼女の褐色の目は真剣な眼差しでガストを捉えていた。
「不安であれこれ考えちゃうのは無理もないわ。……でもね、ひとりで抱え込まなくていいのよ? ガストがひとりで子育てするわけじゃないんだし。私だって初めての子育てで色々不安ばかり。さっきは張り切り過ぎとか言っちゃったけど、ガストがショッピングモールでこの子の為にって選んでる時の表情、本当に楽しそうで……ううん、愛おしいって気持ちが溢れてた。それがすごく嬉しい」
「穂香」
「未来を幸せにする為に悩むのよ。困ったことがあればふたりで一緒に考えましょ。それに、ずっと一緒に過ごしてきたガストとなら心配ないと思ってる」
俯き、憂いがちであった両目を瞑る。ガストは頬に触れる手を包み込むようにして自身の手を重ねた。少しひんやりとした愛妻の手。守りたいものがもうすぐ増える。
ガストはそっと目を開いた。その顔に柔らかい笑みを浮かべて。
「あぁ。……過去を言い訳にするのは止めた。俺は俺なりに家族を守っていく。穂香と一緒に」
「うん。あと、夫婦仲が良ければ家庭は上手くいくって聞く。……この手がしわくちゃになるまで、一緒にいてねガスト」
あの日、晴天の下で交わした誓い。互いの左手に輝く指輪、その手を取り合う。いつまでも幸せを紡いでいこうと。
雨脚が次第に遠退いていく。
ふたりは静かに降る雨の音を聞きながら互いに寄り添っていた。雨が止むまでこうしていたい気もするが、身体が冷えては大変だ。ガストが穂香の手を取り、リビングの暖かい場所に連れて行こうとした時であった。
さぁさぁと降る雨に交ざる、微かな音。それを耳聡く拾い上げたガストはぴたりと動きを止めた。
チィチィと鳴く鳥の声がどこかから聞こえる。頻りに鳴くその声。穂香もその鳴き声に気がつき、窓の外を見渡した。
「ガスト、窓の下」
「……チヨスケ?」
正面にある窓の下へ目を向けると、そこには四羽の小鳥がちょこんと座っていた。窓枠ぎりぎりにまで小さな体を寄せている。鮮やかな黄緑色の羽が特徴のメジロ。愛らしい鈴の様な声で鳴く鳥だ。
そのうちの一羽が雨にすっかり濡れてしまい、濃い灰色の体に色変わりしてしまっている。一番濡れてしまっているそのメジロがチィチィと鳴いていた。まるでガストに訴えかけるように。
ガストは直ぐさま窓の鍵を開け、その場に膝をついて手を差し出した。
「ずぶ濡れじゃないか。……突然降り出したからな。雨を凌げる場所探す暇なかったか」
「チィ。……チィーチィー。チィ」
「ガスト。このままだと雨に濡れてチヨスケくんたち冷え切っちゃうわ。雨宿りしてもらいましょ」
「そうだな。お前が一番色わかんねぇぐらい濡れてるし。みんな休んでいってくれ」
「チュイッ」
チヨスケが明るい声でそう返事をする。そしてその場で体をぶるぶると震わせた。部屋にお邪魔する前に水滴を掃おうとしたのだ。しかし、それが逆にガストの顔面に狙ったように飛んでいった。水浴びの量を遥かに超えた雫がぽたぽたと頬を伝う。チヨスケのパートナーはその雫から小さい二羽のメジロを庇う様に自身の翼を広げた。一回り小さな体のメジロたちもぷるぷると体を揺すって雨粒を掃う。
二回、三回と豪快に水しぶきを掃った後、チヨスケは翼を丁寧に畳んでからちょんちょんと跳ね歩いてリビングに入っていく。
まるで、ウォーター系アトラクションに乗った直後。若しくはシャチやイルカの豪快なジャンプ後に受けた水しぶきの洗礼のようであった。水も滴るイイ男。そんな言葉が似合うガスト・アドラー。彼は特段怒る様子を見せず、苦笑いのまま袖で水滴を拭った。
一部始終を見ていた穂香は笑いを堪えつつ、ガストに薄水色のハンカチを差し出した。
「チヨスケくん、バケツで水被ったぐらい濡れてたのね。ガスト、これ使って」
「サンキュ。少しでも羽が乾きやすいように暖炉に火入れてくる」
「じゃあ私はチヨスケくんたちを暖かくなる場所に誘導しておくわ」
この家のリビングにはレンガの暖炉が組み込まれている。ガストは暖炉の中に手際よく薪をくべて、着火剤に火を点けた。少し経てば放射熱でじわじわと部屋が暖まってくるだろう。
リビングの中を跳ねて移動するチヨスケ。彼は少し離れた地点で窓の方を振り返り、パートナーと雛たちに呼び掛けた。
二羽の雛は初めて見る場所に戸惑っている様子で、忙しなく頭を左右に動かしている。黄緑色の羽毛がもう少しで生えそろう巣立ち雛。嘴の縁がまだ黄色い。
暖炉の火が届く場所まで誘導すると言ったはいいが、チヨスケはガストに懐いている。彼のパートナーやその雛たちも自分の言うことを素直に聞いてくれるだろうか。穂香が悩んでいると「チィ」と鳴き声を発したメジロが彼女の腕に飛び移った。穂香の腕に落ち着いた様子で止まっている。
「チィ。チィー」
「……あら」
「チィー」
「気にしなくていいわよ。ゆっくり休んでいって」
まるで「お世話になります」と挨拶をしにきたようだ。彼女はくるりと体の向きを変え、我が子たちを「おいで」と呼び寄せる。母鳥の声を聞いた雛たちはすぐさま穂香の腕に飛び移り、お互いに体を寄せ合った。
この思いがけない出来事に穂香は目を丸くする。こんなにも近い距離で目白押しを見られるとは思ってもいない。
穂香は彼女たちを驚かせないよう、そろりとリビングの中央に連れていった。
暖炉の火が赤々と燃える。パチ、パチと爆ぜる音が耳に心地よく残る。
新聞紙を広げたローテーブルの上でチヨスケたちは羽を伸ばしていた。ぼわぼわになっていた羽毛を丹念に嘴で繕い、整えていく。乾いた羽毛は鮮やかな色彩を順次取り戻しつつある。
雛たちも「此処は安全な場所だよ」と両親に教わったので、のびのびと過ごしている様子。
ガストたちは寄り添うようにソファに並んで座り、お揃いのマグを手にする。マシュマロを浮かべたホットココアを味わいながら、メジロ一家を微笑ましく見守っていた。
番の彼らを見掛けるようになったのは数年前のこと。チヨスケのパートナーとはグリーンイーストの公園で出逢った。その時はガストの顔面に体当たりをしてくるような子であったが、今ではすっかり和解した。
それから年に一度、雛を連れ歩く姿をセクター内のあちこちで目撃。寒くなり餌が少なくなる冬には給餌場としてみかんの輪切りやバードケーキを用意し、バードバスを設置したところよく訪れるようになった。
毎年こうして可愛い雛を見せにきてくれるのだ。
「チヨスケくんたち、この辺りに巣を作ってるのかしらね」
「かもな。この辺はデカい鳥もいないみたいだし、安全に飛び回れる縄張りになってそうだ」
「恩人のガストもいることだし、ね」
「チィーヨチィヨ」
呼応するかのようにチヨスケが鳴く。パタパタと小さな翼を羽ばたかせ、ガストの膝頭に止まった。そこから軽やかな足取りで跳ね、距離を詰めてくる。まるでよく懐いた飼い鳥のように。
彼は日頃のトレーニングで無駄なく鍛えられた大腿の上でチィチィ鳴く。
「チヨスケたちさえよければ、うちの庭に巣作ってもいいんだぞ」
「チィ」
「緑も周りに多いから子育て中の採餌も困らないだろうし。チヨスケたちなら大歓迎だ」
「チュイッ!」
「なんだかそう話してるとホントに来年からうちの庭で子育てしそう。……あら」
穂香の腹部がとんっと内側から動いた。その箇所を手の平で優しく撫で、「起きたみたい」と微笑んだ。
チヨスケはその小さな頭を傾げ、ガストと穂香の顔を交互に見る。ふたりは慈愛に満ちた目をこれから生まれてくる我が子に注いでいた。
「チィ?」
「もうすぐ俺もお前と同じで親になるんだ」
「チィ。チィーチィッ、チュイッ!」
「応援してくれるのか? サンキュー。チヨスケはもう子育てベテランみたいなもんだよな」
「チィッ」
その言葉を受けたチヨスケは心なしか誇らしげに胸を張っているようであった。黄色のふわふわの綿毛も艶々としている。
褒められて上機嫌なチヨスケを横でじっと見ている彼のパートナー。かと思えば、首をぐるりと後ろに回して背中の羽繕いを始めた。それを見ていた雛たちが真似をするように嘴を背中へ持っていく。
チヨスケはというと、ガストの膝から穂香のお腹にちょいと飛び移り、そこで囀り始めた。唐突にゴキゲンな歌声を披露するチヨスケにふたりも最初は目を瞬かせる。
「……もしかして、子守唄のつもりか?」
「そうかも。綺麗な歌声を聴かせてくれて有難う。きっとこの子も鳥や動物に優しい子に育ってくれるわ。仲良くしてあげてねチヨスケくん」
「チィ! チィーヨヨッチュィー」
なんと微笑ましい光景だろうか。
ガストはそう思いながら、母鳥と雛たちに視線を向ける。雛鳥たちは互いに身をぎゅっと寄せ合い、ちょこんと座っていた。時々思い出したように羽繕いをするが、目を瞑る時間が多くなってきた。此処に長居する気配が感じられる。
いい父親になれるかどうかは正直自信がない。だが、それは初めて母親になる穂香も同じこと。
ひとりで考え込む必要はない。いつだって彼女の言葉に支えられてきたではないか。
悩むのはそろそろ止めて、何倍もの幸せを享受する為にも、ふたりで。いや、家族で歩んでいこう。
暖かい、橙色の火が燃える暖炉の前でガストは微笑む。
そして不意の来客に振舞うデザートを用意する為、ソファからガストは立ち上がった。
ざぁざぁと雨が降っていた。天気予報では快晴のマークだったはずが、バケツをひっくり返したような雨が数分前から降り出してきたのだ。
予報外れもいいところ。ガストは部屋の中から窓の外を見上げ、手元のスマホをチェックする。今のところ【サブスタンス】による一時的な異常気象や事故の報せはない。
「出動要請?」
雨空の様子を窺うガストにそう訊ねたのは穂香。風はそこまで強くないが、とにかく雨足が強い。突然の豪雨に彼女も【サブスタンス】の影響かと考えたようだ。
裾の長いマタニティウェアを揺らし、ガストの隣へやってきて同じ様に窓の外を眺めた。
「いや、司令部から特に連絡はきてないな。……すげえ雨だけど、ただの通り雨だと思う」
「そう。……昨日庭木に水やりしたばかりなのに、根腐れしないかしら」
「長雨じゃなけりゃ大丈夫だろ。それよりも穂香、寒くないか?」
「ええ。ガストが買ってきてくれたもこもこのルームソックスも履いてるし、あったかいわ」
彼女の細い足はもこもこでふわふわの素材で編んだソックスで包まれている。しかし、ガストは顔を顰めた。マタニティウェアのみの彼女が薄着だと感じたのだ。
「何か羽織ってた方がいいんじゃないか。一時的な雨って言っても気温が下がるし、冷えてくる」
「大丈夫よ」
「いいや、ダメだ。カーディガン取ってくる」
そう言うが早いかガストはカーディガンを取りに二階の寝室へ向かった。その後ろ姿を見ながら穂香は頬に笑みを浮かべ、自身の丸みを帯びたお腹を優しく撫でる。
「身体を冷やすことは良くない」季節の変わり目に体調を崩しやすくなる彼女に対して日頃からそう口にしてきたガスト。子を宿してからは更に加速する気配り。母体と赤ん坊が健やかに、ストレスなく過ごせるようにと。特に穂香の体調面を気にしており、室温の設定や食事の栄養バランスにも抜け目がなかった。「何でも頼ってくれ」という兼ねてからの口癖に偽りはなく、家事の殆どをガストが引き受けていた。しかしこれでは運動不足になると穂香が口を尖らせたので、重労働に値するものや体調が優れない時に代わりを引き受けるという形で話が落ち着いた。
キッズルームにはベビーベッド、大きなクマのぬいぐるみ、ラタンの揺り籠、カラフルな鳥の布製ラトル。ベッドの真上には飛行機と鳥のモビールが吊り下がっている。新生児用の肌着や必要な日用品も過不足なく揃えられていた。更に絵本も必要だと言うガストに「読み聞かせできる年になったらね」と流石にストップをかける場面も。
これらを買い揃える際、日本にいる穂香の両親からアドバイスを貰っていたのだが、いざ売り場を前にするとあれもいい、これもいいとテンションが上がってしまったようで。妹が赤ん坊の時はこれで喜んで遊んでいたと懐かしい話も交え、我が子への贈り物を選ぶガストの表情は実に楽しそうでいて、幸せに満ちていた。
ただ、気が早すぎる点と行き過ぎた気配りが原因で途中でバテてしまわないか。それが些か心配にもなる。
「お待たせ」
「ありがと」
寝室から戻って来たガストはカーディガンを穂香の肩に羽織らせる。その上からさらに大判ストールでふわりと穂香の身体を包み込んだ。
顔を覗き込んできたガストに穂香は笑みをくすりと向ける。
「どうした?」
「ガストは子煩悩になりそうだなぁって。さっき考えてた」
「……同じこと言われたぜ。ついこの間な」
「鳳くん辺りに?」
「あぁ。親バカになりそうだってな。……って、なんでアキラに言われたってわかったんだ」
「言いそうだもの。あと如月くん辺りにも言われてそう」
これにはガストも驚いてしまった。同期のアキラに「ガストってぜってー親バカになりそうだよな」と言われた同日の別時刻に「もうその時点で既に親バカになっているだろ」とレンに言われたのだ。まるで示し合わせたかのように。それを当人たちに「お前ら仲がいいよな」とでも口にしたものなら、双方から否定の嵐となる。
あの二人なら言うと思った。そう穂香が可笑しそうに笑うのに対し、ガストは笑みを崩さずに眉尻を下げる。どうやら他の人間にも言われたようだ。
「レンにもだけど、マリオンにも言われちまってさ。でも、マリオンも人のこと言えねぇと思うんだよなぁ。ジャクリーンに甘すぎるとこあるし……ってのを言ったら無茶苦茶怒られた」
それはつい先日のこと。ガストは第13期ヒーローズのメンバーと顔を合わせる機会があり、そこで同期や当時のメンターたちと和やかに談笑。ジュニアが属するバンドの話。ノヴァが研究室のコーヒーメーカーの前で寝落ちしていた話。進化した必殺技をルーキーに披露したらベタ褒めされたなど。それらの話を経て、ふとしたことからガストの話に焦点が合うことに。
奥さんのこと、もうすぐ生まれてくる赤ん坊のこと。その話題を振られたガストは「エコー写真で見た手がこんなに小さかったんだ」「名前はもう決めてあるんだぜ。穂香と二人で考えたんだ」「スマッシュケーキはどんなのがいいか迷っちまうよな」「遊園地、スタジアム、水族館。三人で行きたい場所がありすぎるんだ」と、あまりにもニコニコと話す。周りにぽんぽんと花を飛ばしそうな勢いで。先に挙げたマリオンの怒りを買ってすらもそうであったので、彼の話を聞いていた者は一同「幸せそうで何よりだ」と思っていたそうだ。
「ガストが色々してくれるのは本当に助かってる。でも、ちょっと張り切りすぎてるというか。途中でバテないか心配なのよ」
「あはは……やっぱ、そこまで張り切ってるように見えてんだな」
テラスに通じる窓。その窓を叩く雨音が静かに響く。
庭の草木はすっかり雨に濡れていた。みかんの青々とした葉から雫がぽたぽたと落ちていく。
外を眺めていたガストの視線が少しだけ俯いた。
「不安、なのかもしれねぇな」ぽつりと漏れる言葉。
「前にも話した通り、俺のトコはちょっとばかし複雑な家庭環境だった。……そんな環境にいた俺がちゃんとした父親になってやれんのかなって。そう考えること結構あってさ。俺みたいにガキの頃にグレて家飛び出していったらどうしようとかな」
自身の経験を振り返る度、似た人生を息子に歩ませてしまうかもしれない。その環境を作り出してしまうかもしれない。そんな不安が圧し掛かっていた。
頬にひやりとした手の平の感触。添えられた穂香の右手、彼女の褐色の目は真剣な眼差しでガストを捉えていた。
「不安であれこれ考えちゃうのは無理もないわ。……でもね、ひとりで抱え込まなくていいのよ? ガストがひとりで子育てするわけじゃないんだし。私だって初めての子育てで色々不安ばかり。さっきは張り切り過ぎとか言っちゃったけど、ガストがショッピングモールでこの子の為にって選んでる時の表情、本当に楽しそうで……ううん、愛おしいって気持ちが溢れてた。それがすごく嬉しい」
「穂香」
「未来を幸せにする為に悩むのよ。困ったことがあればふたりで一緒に考えましょ。それに、ずっと一緒に過ごしてきたガストとなら心配ないと思ってる」
俯き、憂いがちであった両目を瞑る。ガストは頬に触れる手を包み込むようにして自身の手を重ねた。少しひんやりとした愛妻の手。守りたいものがもうすぐ増える。
ガストはそっと目を開いた。その顔に柔らかい笑みを浮かべて。
「あぁ。……過去を言い訳にするのは止めた。俺は俺なりに家族を守っていく。穂香と一緒に」
「うん。あと、夫婦仲が良ければ家庭は上手くいくって聞く。……この手がしわくちゃになるまで、一緒にいてねガスト」
あの日、晴天の下で交わした誓い。互いの左手に輝く指輪、その手を取り合う。いつまでも幸せを紡いでいこうと。
雨脚が次第に遠退いていく。
ふたりは静かに降る雨の音を聞きながら互いに寄り添っていた。雨が止むまでこうしていたい気もするが、身体が冷えては大変だ。ガストが穂香の手を取り、リビングの暖かい場所に連れて行こうとした時であった。
さぁさぁと降る雨に交ざる、微かな音。それを耳聡く拾い上げたガストはぴたりと動きを止めた。
チィチィと鳴く鳥の声がどこかから聞こえる。頻りに鳴くその声。穂香もその鳴き声に気がつき、窓の外を見渡した。
「ガスト、窓の下」
「……チヨスケ?」
正面にある窓の下へ目を向けると、そこには四羽の小鳥がちょこんと座っていた。窓枠ぎりぎりにまで小さな体を寄せている。鮮やかな黄緑色の羽が特徴のメジロ。愛らしい鈴の様な声で鳴く鳥だ。
そのうちの一羽が雨にすっかり濡れてしまい、濃い灰色の体に色変わりしてしまっている。一番濡れてしまっているそのメジロがチィチィと鳴いていた。まるでガストに訴えかけるように。
ガストは直ぐさま窓の鍵を開け、その場に膝をついて手を差し出した。
「ずぶ濡れじゃないか。……突然降り出したからな。雨を凌げる場所探す暇なかったか」
「チィ。……チィーチィー。チィ」
「ガスト。このままだと雨に濡れてチヨスケくんたち冷え切っちゃうわ。雨宿りしてもらいましょ」
「そうだな。お前が一番色わかんねぇぐらい濡れてるし。みんな休んでいってくれ」
「チュイッ」
チヨスケが明るい声でそう返事をする。そしてその場で体をぶるぶると震わせた。部屋にお邪魔する前に水滴を掃おうとしたのだ。しかし、それが逆にガストの顔面に狙ったように飛んでいった。水浴びの量を遥かに超えた雫がぽたぽたと頬を伝う。チヨスケのパートナーはその雫から小さい二羽のメジロを庇う様に自身の翼を広げた。一回り小さな体のメジロたちもぷるぷると体を揺すって雨粒を掃う。
二回、三回と豪快に水しぶきを掃った後、チヨスケは翼を丁寧に畳んでからちょんちょんと跳ね歩いてリビングに入っていく。
まるで、ウォーター系アトラクションに乗った直後。若しくはシャチやイルカの豪快なジャンプ後に受けた水しぶきの洗礼のようであった。水も滴るイイ男。そんな言葉が似合うガスト・アドラー。彼は特段怒る様子を見せず、苦笑いのまま袖で水滴を拭った。
一部始終を見ていた穂香は笑いを堪えつつ、ガストに薄水色のハンカチを差し出した。
「チヨスケくん、バケツで水被ったぐらい濡れてたのね。ガスト、これ使って」
「サンキュ。少しでも羽が乾きやすいように暖炉に火入れてくる」
「じゃあ私はチヨスケくんたちを暖かくなる場所に誘導しておくわ」
この家のリビングにはレンガの暖炉が組み込まれている。ガストは暖炉の中に手際よく薪をくべて、着火剤に火を点けた。少し経てば放射熱でじわじわと部屋が暖まってくるだろう。
リビングの中を跳ねて移動するチヨスケ。彼は少し離れた地点で窓の方を振り返り、パートナーと雛たちに呼び掛けた。
二羽の雛は初めて見る場所に戸惑っている様子で、忙しなく頭を左右に動かしている。黄緑色の羽毛がもう少しで生えそろう巣立ち雛。嘴の縁がまだ黄色い。
暖炉の火が届く場所まで誘導すると言ったはいいが、チヨスケはガストに懐いている。彼のパートナーやその雛たちも自分の言うことを素直に聞いてくれるだろうか。穂香が悩んでいると「チィ」と鳴き声を発したメジロが彼女の腕に飛び移った。穂香の腕に落ち着いた様子で止まっている。
「チィ。チィー」
「……あら」
「チィー」
「気にしなくていいわよ。ゆっくり休んでいって」
まるで「お世話になります」と挨拶をしにきたようだ。彼女はくるりと体の向きを変え、我が子たちを「おいで」と呼び寄せる。母鳥の声を聞いた雛たちはすぐさま穂香の腕に飛び移り、お互いに体を寄せ合った。
この思いがけない出来事に穂香は目を丸くする。こんなにも近い距離で目白押しを見られるとは思ってもいない。
穂香は彼女たちを驚かせないよう、そろりとリビングの中央に連れていった。
暖炉の火が赤々と燃える。パチ、パチと爆ぜる音が耳に心地よく残る。
新聞紙を広げたローテーブルの上でチヨスケたちは羽を伸ばしていた。ぼわぼわになっていた羽毛を丹念に嘴で繕い、整えていく。乾いた羽毛は鮮やかな色彩を順次取り戻しつつある。
雛たちも「此処は安全な場所だよ」と両親に教わったので、のびのびと過ごしている様子。
ガストたちは寄り添うようにソファに並んで座り、お揃いのマグを手にする。マシュマロを浮かべたホットココアを味わいながら、メジロ一家を微笑ましく見守っていた。
番の彼らを見掛けるようになったのは数年前のこと。チヨスケのパートナーとはグリーンイーストの公園で出逢った。その時はガストの顔面に体当たりをしてくるような子であったが、今ではすっかり和解した。
それから年に一度、雛を連れ歩く姿をセクター内のあちこちで目撃。寒くなり餌が少なくなる冬には給餌場としてみかんの輪切りやバードケーキを用意し、バードバスを設置したところよく訪れるようになった。
毎年こうして可愛い雛を見せにきてくれるのだ。
「チヨスケくんたち、この辺りに巣を作ってるのかしらね」
「かもな。この辺はデカい鳥もいないみたいだし、安全に飛び回れる縄張りになってそうだ」
「恩人のガストもいることだし、ね」
「チィーヨチィヨ」
呼応するかのようにチヨスケが鳴く。パタパタと小さな翼を羽ばたかせ、ガストの膝頭に止まった。そこから軽やかな足取りで跳ね、距離を詰めてくる。まるでよく懐いた飼い鳥のように。
彼は日頃のトレーニングで無駄なく鍛えられた大腿の上でチィチィ鳴く。
「チヨスケたちさえよければ、うちの庭に巣作ってもいいんだぞ」
「チィ」
「緑も周りに多いから子育て中の採餌も困らないだろうし。チヨスケたちなら大歓迎だ」
「チュイッ!」
「なんだかそう話してるとホントに来年からうちの庭で子育てしそう。……あら」
穂香の腹部がとんっと内側から動いた。その箇所を手の平で優しく撫で、「起きたみたい」と微笑んだ。
チヨスケはその小さな頭を傾げ、ガストと穂香の顔を交互に見る。ふたりは慈愛に満ちた目をこれから生まれてくる我が子に注いでいた。
「チィ?」
「もうすぐ俺もお前と同じで親になるんだ」
「チィ。チィーチィッ、チュイッ!」
「応援してくれるのか? サンキュー。チヨスケはもう子育てベテランみたいなもんだよな」
「チィッ」
その言葉を受けたチヨスケは心なしか誇らしげに胸を張っているようであった。黄色のふわふわの綿毛も艶々としている。
褒められて上機嫌なチヨスケを横でじっと見ている彼のパートナー。かと思えば、首をぐるりと後ろに回して背中の羽繕いを始めた。それを見ていた雛たちが真似をするように嘴を背中へ持っていく。
チヨスケはというと、ガストの膝から穂香のお腹にちょいと飛び移り、そこで囀り始めた。唐突にゴキゲンな歌声を披露するチヨスケにふたりも最初は目を瞬かせる。
「……もしかして、子守唄のつもりか?」
「そうかも。綺麗な歌声を聴かせてくれて有難う。きっとこの子も鳥や動物に優しい子に育ってくれるわ。仲良くしてあげてねチヨスケくん」
「チィ! チィーヨヨッチュィー」
なんと微笑ましい光景だろうか。
ガストはそう思いながら、母鳥と雛たちに視線を向ける。雛鳥たちは互いに身をぎゅっと寄せ合い、ちょこんと座っていた。時々思い出したように羽繕いをするが、目を瞑る時間が多くなってきた。此処に長居する気配が感じられる。
いい父親になれるかどうかは正直自信がない。だが、それは初めて母親になる穂香も同じこと。
ひとりで考え込む必要はない。いつだって彼女の言葉に支えられてきたではないか。
悩むのはそろそろ止めて、何倍もの幸せを享受する為にも、ふたりで。いや、家族で歩んでいこう。
暖かい、橙色の火が燃える暖炉の前でガストは微笑む。
そして不意の来客に振舞うデザートを用意する為、ソファからガストは立ち上がった。