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晩メシは部屋でのんびりと食べることが出来ると聞き、その時間が来るまで部屋で寛いでいた。レストランでビュッフェスタイルを楽しむのもいいけど、周りに気を使わずに食事ができるのもいい。
時間が来ると、部屋に案内をしてくれた仲居さんが料理を運んできた。座卓を拭いたり、配膳が結構大変そうだったから手伝いたい気持ちも沸く。「お客様はお寛ぎください」と言われた挙句、穂香には「今日の主役は庭でも眺めて待ってて」と広縁に押しやられてしまった。「準備が終わるまで振り向くの禁止」とまで言われる
自分だけ何もしない居心地の悪さもあるけど、下手に手伝えば反感を買うだろうし。
俺は窓に面した小さな日本庭園を眺めることにした。夕焼けに影を落とす松の木、濃さを増した池もまた風情がある。窓には網戸も付いているから、開けたら虫の声も聴けそうだ。
じっと庭園を眺めていたいところだが、後ろで聞こえてくる会話にどうしても気を取られる。「それはこっちで、徳利と猪口はここでお願いします」と話しているので思い出した。あれ持ってきてたんだ。先に出しておくかと荷物の方に振り向こうとした瞬間「こっち見ちゃダメ!」と怒られてしまった。慌てて庭の方に向き直る。まぁ、ガラス窓に映った様子が何となく見えてるんだけどな。でも我慢だ。穂香と仲居さんが張り切って用意してくれてるんだし。
一本の通知がスマホに届いた。今日は全くと言っていいほど鳴らなかったから、随分久しぶりな気さえする。
『ガストさん!お誕生日おめでとうございます!』
弟分たちとのグループトークに表示された一文。それを皮切りに次々と祝いのメッセージが投稿されていく。今日もいつもの場所に集まってるんだろう。
今年は彼女と旅行に行くからって前もって伝えたら「意中の彼女と旅行!楽しんできてくださいっ」と笑顔を向けてくれた。いつもは日中にメッセージが飛んできてたけど、今年は気を使われていたようだ。
ちょっとだけ寂しい気もしてたから、こうしてアイツらのメッセージを見れて素直に嬉しい。
温かいバースデーメッセージに頬を緩ませながら返事を打ち込んだ。
『サンキュー。今日は集まりに行けなくて悪ぃ』
『気にしないでください!』
『俺らなりに、ガストさん不在時の祝い方を編み出したんすよ!』
不在時の祝い方。疑問に思う間も無く、一枚の写真が贈られてきた。それを見て一瞬固まりかける。
誕生日っぽい感じにペイントされたテーブル、その中央にはホールケーキと飲み物。乾杯用のグラスを持ってる弟分たちがカメラ目線でいい顔で笑っている。そこまではいい。問題はその奥に飾られてるものだ。俺のポスターがでかでかと貼ってあるし、公式グッズがそこらに並べられている。いやいや、いくら本人がいないからってやりすぎだろ。ポスターの上部には『Happy Birthday!』のガーランド。
『これならガストさんを祝ってることになるだろって言い出したヤツがいて!』
『ナイスアイディアすぎて、気合入れて飾っちまいました!』
いや、度が過ぎるだろこれ。なんか立派な花も飾られてるし。
「ガスト」
「うおっ!?」
どう返事をしたものか。一思案巡らせているところに、突然声を掛けられて飛び上がりそうになるし、スマホを落としそうになった。心臓がバクバクしてる。
顔を引き攣らせながら「な、なんだ?」と答えた。
「何見て…」
俺の手元を覗き込んだ穂香が黙る。いや、そうなるよな。うん。
「……ガストの信者?」
「いや、これはその、あいつらが勝手に…俺がいないから代わりにって…」
「祀られてるみたい。…それだけ慕われてるんだろうけど。まぁ、気持ちは分からなくもないわ」
「…え?」
「私の友達、ブラッドさん推しの。彼女も似たようなことしてるから」
「…三年ごとに居住地変えてるっていう」
「そ、彼女。毎年ブラッドさんの誕生日にケーキ買って、こんな風に飾り付けてお祝いしてる」
「そうなのか…意外と普通なのか、こういうのって」
祝いの言葉を贈るだけじゃなく、本人が居なくてもパーティーみたいなの開くもんなんだな。まさか自分が対象になるとは考えもしなかった。ブラッドなら慣れたモンで「市民が祝ってくれた気持ちに感謝すべきだ」とか言いそうだな。
「それはそうと準備整ったから、乾杯したいんだけど。大丈夫?」
「ああ、今行く」
仲居さんの姿はいつの間にか無く、座卓の上がご馳走で一杯になっていた。
俺は盛り上がっているグループトークに「他所のシマのヤツらに見られねぇようにな」と送った。変な誤解と新たな黒歴史が生まれかねない。
テレビや雑誌で見掛けた懐石料理目の前に広がっている。とても二人分とは思えないぐらいの皿や小鉢が並んでいて、小さい土鍋の下には丸型のコンロが付いていた。天ぷらの盛り合わせ、刺身、お吸い物。他にも見たことない上手そうな料理が。
そして座卓の中央にホールケーキ。四号サイズ程の大きさで、白い生クリームベースに色とりどりのフルーツが飾り付けられている。四角いチョコプレートに『Gast Happy Birthday!』とお祝いのメッセージが書かれていた。
「懐石料理にケーキはちょーっと異色かなぁ…と思ったんだけど、やっぱり誕生日にケーキは欠かせないから」
「すげぇって感想しか浮かばないぜ…これ、ホントに二人分の量なのか?」
「ええ。多く見えるけど、一品一品は少なめ。ガストが苦手そうな食べ物は省いてもらったから、大体食べられると思うわ。…そして、もう一つ本日の目玉がこちら!」
よいしょと穂香が持ち上げたのは日本酒の一升瓶。ラベルの文字は達筆過ぎて読めないが、一級品の雰囲気が漂っている。
「この旅館おススメの日本酒を用意してもらいました。さっき徳利に移してもらったから、猪口で乾杯しましょ」
「あっ、ちょっと待った。実はさ、用意してきたものがあって」
徳利から猪口に日本酒を注ごうとする穂香に待ったをかけ、俺はボストンバッグから化粧箱を取り出す。割れないように緩衝材で覆ってきたから、中身も無事だ。
化粧箱から取り出した富士山の姿を模った二つの猪口。二年前、穂香が俺にプレゼントしてくれたもの。
「それ、私が誕生日にプレゼントした…わざわざ持ってきたの?」
「ああ。温泉旅行だし、日本酒飲むだろうと思ってさ。…実はこれ、初めて使うんだ。今軽く洗ってくる」
緩衝材の一部に利用した布巾と一緒に洗面台へ。猪口を軽くゆすいでから、水気を拭きとった。それを穂香の所まで持っていく。少しくすぐったそうな表情で俺を見上げてくる。あの時の事、思い出してるのかもしれなかった。
「そんなに大事にされてたのね、それ」
「そりゃ、好きな子がくれたプレゼントだし。穂香に貰ったもの、全部大事にさせてもらってる」
「…ありがと。あの時、ガストがご飯奢ってやるからって引かなかったのよね」
「穂香落ち込んでたみたいだし、何とか元気づけてやりたいな…って考えてたからなそん時は」
二年前の今日、元カレが休みに来れなくなったとかで。結構凹んでいた。気分が乗らないにもかかわらず、俺の誕生日を祝ってくれた。今思えば俺も結構穂香に気を使われているのかもしれない。
徳利からお互いに猪口に日本酒を注いで、軽く持ち上げて乾杯。この作法は【ニューイヤー・ヒーローズ】の時に教わった。器が小さいから乾杯でぶつけると酒が零れてしまう。
一口含んだ日本酒はフルーティーで口当たりが良いものだった。鼻に一瞬抜ける辛さと喉を通る熱。美味いけどけっこうきつめの度数だ。
「…美味いな、これ。癖が無くて飲みやすいし」
「熱燗でも美味しいですって言ってた。改めて、ガスト。誕生日おめでとう」
「ああ、サンキュー。今年も穂香に祝ってもらえてすげぇ嬉しい」
「なんだかんだ、毎年祝えたわね。それじゃ、お夕飯頂きましょ。好きな物から食べていいわよ。あ、鍋のやつは火が消えた頃に蓋を開けてね」
「オーケー。…この天ぷらの側にある塩は何に使うんだ?」
竹の器に盛り合わせた天ぷら。天ぷらはだし汁につけて食べると知ってはいるが、だし汁の他に塩だけ入った小皿がある。これはだし汁に入れるのか、それとも別の料理に使うのか。昔、初めて食べたソバでえらい目にあったから、迂闊に手が出せない。
「それは天ぷらにつけて食べるの」
「…だし汁に混ぜるのか?」
「ううん、混ぜない。お好みでどちらでもって感じね。天ぷらはだし汁で食べるのが定番だけど、塩で食べても美味しいのよ。こんな風に少しだけ塩をつけて」
穂香は塗り箸でかぼちゃの天ぷらを摘まみ、塩にワンバウンド。サクッとそれに噛り付いた。穂香の顔が綻む。
「美味しい…!天ぷら食べるの久しぶりだし、すごく美味しい。揚げ立ては最高ね」
「穂香って美味そうにメシ食うよなぁ。…じゃあ俺はナスを」
黄金色に揚がったナスの天ぷらを摘まみ、真似るように塩をつけて口へ運ぶ。歯に当たった途端にサクッと噛み切れた。まだアツアツの状態だったそれを口の中で転がしながら食べる。ナスの柔らかい果肉が解けるようにとろけていった。塩をつけることでサクサク感が引き立ってる。
「…美味っ。天ぷらに塩って合うんだな」
「意外でしょ?私も初めて塩で食べた時はあまりの感動に今のガストみたいに驚いてた」
「美味すぎてハマりそうだぜ、これ。天ぷらって言えばだし汁だったし、この食べ方知ってたら自慢できそうだな」
天ぷらの作り方も覚えて、ノースのヤツらに振舞うってのもいいかもな。アキラやウィルも呼んで天ぷらパーティーするのも良さそうだ。ディノは頻繁にピザパーティーやってるっていうし、アリだろ。
湯呑みを覆っている蓋を持ち上げると、淡黄色のプリンみたいな料理が入っていた。三つ葉とカマボコが表面に浮き上がっている。卵液を蒸して作った茶碗蒸しってヤツだ。
「茶碗蒸しは私のリクエストで追加してもらったの。…んーやっぱりこういう所で食べる本格的な茶碗蒸し美味しい」
「和食って手間がかかる料理が多いって聞いたけど、茶碗蒸しはどうなんだ?」
「ものすごーく手間がかかる。卵液を濾したり、スが入らないように気を使ったり…昔母さんがチャレンジしたんだけど、私と父さんが微妙な反応したらそれ以降作ってくれなくなったのよね」
どうせ美味しくないんでしょ、と拗ねてしまったらしい。
使われていない茶碗蒸しの器だけが食器棚にしまわれているそうだ。
「穂香の母さん穏やかそうな感じだったけどなぁ」
「そう?よく父さんには「お前は母さんそっくりでお転婆だ」って言われるけどね」
顔を二回合わせた程度だけど、ニコニコ笑う可愛らしい人だった。笑った時の目元とかが穂香と似ていて、年齢を重ねたらこんな風に素敵な人になるのかもと思った。
親父さんとも最初はギクシャクしていたけど、空港で見送ってくれた時には「また来なさい」ってぎこちない英語で言ってくれた。次に会う時は歓迎のハグとかしてくれるかもな。
「そうだ、二人で撮った写真後で送ってもいい?」
「ああ、いいぜ」
「ガストが酔ってご機嫌になった写真も撮って送ろうかしら」
「それは止めてくれ…折角上がった株が下がりかねる」
「冗談よ。…あ、刺身のワサビは好みの量で溶かして。あと、箸使うのしんどくなったら言って。フォーク用意してもらってるから」
「その心配は要らねぇぜ?…俺の箸さばきもだいぶ様になってきただろ?」
箸で一口サイズに切った冷奴を持ち上げてみせた。少し角が欠けちまったが、柔らかい豆腐を掴めるまでになった。箸の熟練度もかなりのモンだろ。こう、箸先に伝える絶妙な力加減とバランスが必要だ。コツを掴むまで時間かかったけど、今じゃ自信を持って扱える気がするぜ。
「手先の器用さには自信あったけど…いやぁここまでの道程はきつかったなぁ。穂香がいなきゃここまで苦労して習得することは無かっただろうし」
掴み上げていた豆腐が滑り落ちる前に口の中へ。この醤油、美味いな。豆腐も舌触りが滑らかだし、薬味のネギとすりおろしたショウガのアクセントが良い。
「私、ガストのそういう所が好きなのよね。相手に寄り添ってくれるっていうか…気持ちを理解しようとしてくれる所。他にも沢山いい所あるし」
もう一口、と冷奴を摘まもうとした。そこで不意にいい笑顔を向けてくるから、指先に力が入りすぎて豆腐が真っ二つになっちまった。豆腐は細かくなればなるほど、難易度が上がる。偉そうに言った手前、きれいに掬い取ってみせないとな。
そう気合を入れた矢先に今度は丸型コンロの燃料がちょうど燃え尽きて「あ、煮えたみたいね。何の料理かなぁ」と布巾をミトン代わりに蓋を持ち上げる穂香。和食ってこんなに忙しい料理だったか。
あたふたしていたのがバレた後に「ゆっくりでいいわよ。時間たっぷりあるんだし」と更に笑われてしまった。
◇
時間に追われることなく晩メシを食べ、食休みした後にもう一度温泉に入ってきた。通は一日に何度も温泉に浸かるらしいけど、真似したら皮膚がふやけて大変なことになりそうだ。
日はすっかりと暮れて、夜空に月が浮かんでいる。露天風呂から見えた月がこの広縁からも眺めることができた。
「いい月夜だな」
煌々と輝く月を仰ぎ、口角を僅かに持ち上げる。誰に向けたわけでもない独り言は彼女の耳に届いていた。俺の隣に来て空へ目を向ける。
「ほんと。…月が綺麗ですね」
「なんで改まった言い方なんだ?」
「内緒。気が向いたら調べてみて」
俺の問いにそう返した穂香は朗らかに目を細めていた。
二人掛けの椅子に座るように促し、華奢な腕が丸い小さなテーブルを手前に引き寄せる。それから一度部屋の方へ引っ込んで、すぐにお盆を抱えて戻って来た。徳利と猪口が二つ乗っている。
「昼間、フロントに熱燗をお願いしておいたの。夜の天気良さそうだったし、月見で一杯もいいかなぁって」
「あぁ、いいなそれ」
その矢先、薄い雲が月にヴェールをかけていった。雲の切れ目から月の光が見え隠れしている。折角だからと窓を開けて、網戸を引いた。秋を報せる虫の声が静けさに響く。
「雲間から月が覗くのを待つのもいいよな。穂香と一緒なら退屈しないし」
酒を注いだ猪口を持ち上げ、乾杯しようとすると月明かりに照らされた彼女の顔が、ふわりとまた微笑む。月明かりみたいに優しい。そう感じた。
「私も。むしろガストと一緒にいて退屈って感じたことないかも」
「そりゃ良かった。…俺たち、相性良いよな」
「うん」
口をつけた日本酒は香りの強さが一段と増していた。味もがらりと変わっているし、喉を伝う感覚も違う。コクがあって美味い。熱燗にすると表情がこんなにも変わるんだな。
熱燗は酔いが抜けやすいらしいけど、これは飲みすぎに注意した方がいい。甘い酒には苦い思い出があるし。
雲がすっと横へ流れていき、月が姿を現した。虫の声と風が草木を揺らす音。良い静けさだ。
「明日は卓球しない?遊技場に卓球台設置してあるんだって」
「お、いいねぇ。そういや案内書きに昔の遊びコーナーがあるって書いてあった。そこにも行ってみようぜ」
「昔の遊びって言ったら…竹馬とか独楽やけん玉かしら。ガストならどれもすぐ覚えそうね」
「おぅ。その期待に応えねぇとな」
「あとは…周辺施設で立体迷路もあるんだって。そこも行ってみましょ」
「立体迷路かぁ…今は謎解き脱出系がブームなんだっけか。その要素も含まれてんのかな」
「……みたいね。ほら」
取り出したスマホで検索をかけた穂香はその場所を表示、画面をこっちに傾けてみせた。『囚われた坂本龍馬を助け出せ!』っていうテーマらしい。坂本龍馬は江戸時代の偉人だったか。幕末、だったかな。うろ覚えだ。
「面白そうだな」
「ね。明日が楽しみ」
そう言いながら穂香が俺の肩に寄りかかってきた。メシの時も結構飲んでたみたいだし、だいぶ酔いが回ってるんじゃないだろうか。ふにゃりとした笑い方。いつもの傾向だな、これは。
「…ちょっと飲みすぎてるんじゃないか?これ結構度数高いみたいだし」
「そう?まだ余裕だけど」
「穂香がそう言ってる時は大抵酔ってるだろ。水持ってくる」
「ん…ありがと」
ご機嫌なほろ酔い気分。「ほんとにまだ酔ってないんだけど」と口を尖らせるが、それは酔っ払いの常套句だからな。まぁ、あの時みたいにヤケ酒されるよりは幾分もマシだ。
俺は水を注いだコップを二人分持ってくるついでに、ボストンバッグから取り出した小さな箱を袂に忍ばせた。
「ガストはもう飲まないの?」
「んー…この辺にしとく。こんなにいい誕生日を過ごせてるんだし、酔いつぶれたら勿体ないからな」
まだ飲むなら常温でよければ用意する。そう言ってはくれるが、そんな状態で一升瓶を持たせられるわけない。ちょうど一合空になったし、今日はこの辺にしとくのが妥当だ。
それにしても、毎年なんだかんだで賑やかな誕生日を迎えてきた。クラッカーの鳴り響く音、次々と祝いの言葉を掛けてくる弟分たちの声、一晩中騒いでた年もあった。
あの頃は静かに過ごせる誕生日が来るだなんて、思いもしなかったな。穂香と一緒に過ごしたいっていう夢は見ていたけど。まさか現実になるなんて。長い間見ている夢、とかじゃないよな。
ふと不安を抱いた所に「ガスト」と呼ばれた。俺は肩にある温もりの方に顔を傾ける。彼女に呼ばれる度に胸が温かくなるんだから、これは夢じゃない。
俺の髪に触れてきた穂香は徐に襟足を引っ張ってきた。
「髪、伸びたよね」
「…この間切ってきたばかりなんだけど、もう伸びたのか」
「あー…そうじゃなくて、昔と髪型違うでしょ?」
髪を梳く指先が首筋に触れるのがくすぐったくて、その指を絡めとるように握る。ぎゅっと握り返してくる穂香が無邪気に笑っていた。
「確かに昔は短かったかもな。なんとなく伸ばしてきたけど…たまには髪型変えてみようかっていう時もある。でもあまり冒険するのもなぁ…切ったら暫くは元に戻せないし、って感じでずっと悩んでる」
あんまり鏡と睨めっこしてると、マリオンの圧が掛かってくる。だからもう少しセットしやすい髪型に変えたい気もするんだが。昔みたいに短くしてみるか。そうすりゃ寝惚けたレンにも俺だって認識してもらえるかも。
「髪が短かった頃は爽やかな少年って感じだったわ」
「今は?」
「爽やかな青年」
「って、それ歳取っただけじゃないか」
「それだけガストのイメージは変わってないのよ。昔から」
俺の指で遊んでいた穂香が顔を上げて笑う。俺も、彼女の笑い方は昔から変わってないとふと思った。
彼女を独り占めできているっていうのを改めて実感できる夜だ。この幸せを一人で噛みしめていると、不思議そうに首を傾げてきた。
「ほら、毎年俺の誕生日を祝ってくれたワケだけど…二年前、この猪口買ってくれた時。夕方まで買い物に付き合ってくれただろ?あれは俺のワガママっていうか…穂香を引き止めてた」
「そういえば…やけに暇アピールしてくるなぁとは思ってた」
「しょんぼりしてる穂香を放っておけなかったのは本当だぜ。少しでも気分を晴らしてやりたいなって。…なんて、どう考えても一緒にいたいだけの口実に過ぎねぇよな。あの時は俺のワガママに付き合ってくれて、ありがとな」
穂香の視線が少しだけ落ちた。「私のワガママに比べたら、可愛らしいものよ」と。俺から見ればそっちの方が可愛らしいモンなんだけど。お互い様ってヤツかもな。
俺は穂香の左手を包み込むように握りしめ、彼女の名前を口にする。
「あの、さ。…もう一つだけワガママ聞いて欲しいんだ」
「なに?」
「えーと……少しの間、目瞑っててくれないか」
「うん」
面と向かって渡すには照れてしまう。穂香が目を瞑った後、握っていた手をそっと放す。さっき袂に忍ばせたベルベットの小箱を右手で取り出した。
箱の中に収めたサイズ違いのリング二つ。月の光に反射して、煌めいた。そのうちの一つを穂香の左手指に嵌める。サイズは寸分違わず、だ。良かった。自分も同じ指にリングを嵌めた。
「もう開けてもいいぜ。……夏祭りで話してたサプライズ。お揃いっていうか…その、ペアリングってヤツで」
ゆっくり目を開けた穂香の視線が薬指に向く。僅かにその目が見開かれて、何やら言葉を探しているようだった。嫌がってる様子ではない。でも内心これを用意してる間も、ある不安がずっと拭えずにいた。
「あー…ほら、穂香声掛けられやすいだろ、男に。だから、男避けみたいな意味で…捉えてもらえればと思って」
「…いいの?貰っても」
「勿論。嫌じゃなければ…だけど」
「嫌なんかじゃない。…嬉しい」
目を潤ませながら自身の左手をぎゅっと胸の前で握りしめていた。その様子に俺はほっと胸を撫でおろす。
これは喜んでくれてるんだよな。それにしても、ここまで喜んでくれたのもなんか意外というか。俺は全く逆の予想をしていたから、そう感じるのかも。
「…穂香、今までこういうのしてなかっただろ?だから俺も彼氏いないんだなって思っちまったし。…だから、嫌いなのかなぁって」
懸念材料はこれだった。穂香がこっちに来てから一度も指輪を嵌めている所を見たことがなかったんだ。わざと外すような性格でもないし、あれだけ惚気てたんだ。相手から貰ってたら当然してるだろうと思って。そこで行き着いた結論はそもそもこういうのが嫌いということ。贈られても困るっていうケースだ。そう心配していた。
穂香が首を何度も横へ振ったことから、そうじゃないらしい。
「…彼がそういうの嫌いだったから。今思えばそういう理由だったんだって分かる。…指輪の跡が残っていたら、他の子に声掛けられないものね」
そう話した穂香は憂い気に目を伏せた。アイツのことで悲しむ表情を見る度に、苛立ちが募る。こんなに一途な子を弄んでいたのかと思うと、今でも腸が煮えくり返りそうだ。
「…俺はずっと身に着ける。肌身離さず、ずっと」
「ありがと。…その気持ちだけで嬉しい。これ、素敵なデザインね」
頬を緩めた穂香に笑みが絶えない。手をひらひらと傾けて、月明かりに照らしてその表情を楽しんでいた。リングの外側に留めた一粒のダイヤモンドがキラキラと輝いていた。
デザインも気に入ってくれたみたいで、こっちも嬉しくなってくる。
「気に入ってくれたか?」
「うん。羽が彫ってある…風の象徴ね」
「ああ。これ、こうやって二つ並べると…一対の翼になるんだ。こだわりポイントの一つ。あと、リングの内側にも石を留めた。お互いの誕生石にしたんだ。穂香のには濃いペリドット、俺の方には穂香の誕生石を入れてもらってる」
「…流石に月明かりじゃ色は分かんないわね」
細い指から一度リングを外し、月明かりにそれを照らす。実はリングの内側にメッセージが刻印してある。それにもきっと明日の朝気づいてくれるだろう。
「明日の朝に楽しみが一つ増えたわ。ガスト、本当に素敵な物をありがと」
「こっちこそ。そこまで喜んでくれてこっちも作った甲斐があるってもんだぜ」
「ガストが作ったの?」
「知り合いの工房で頼んでやってもらったんだ。俺はデザイン考えたのと…石や言葉選んで、刻印した……あ」
先にネタバレを口にしてしまった。リングの内側を見ようと覗き込む穂香の指先を慌てて握りしめる。
「い、今見られるのはちょっと…その、恥ずかしいっつーか…明日の朝見てほしいなぁ」
穂香の視線がじっと突き刺さってくる。どれだけ訴えられてもこれは譲れないぞ。頬に熱が帯びてきてもだ。
次第に拗ねた子どもみたいになった穂香は一度目を瞑り、渋々頷く。ようやく折れてくれた。
俺は穂香の指先からリングを受け取り、薬指にもう一度嵌め直した。
「朝一番に見てやるんだから」
「ああ、そうしてくれよ」
「…じゃあ、私も」
「ん?」
「明日の朝、ガストに一つワクワクをお届けするわ。こっちならではのね」
そう言ってニコニコと笑う。それが何なのか聞いても「ナイショ」と笑って誤魔化してくる。お互い明日の朝にならないと分からないってことか。もどかしさのお裾分けされちまったな。
俺の胸元に頬を寄せてきた穂香を両腕で抱きしめる。この温もりを腕に閉じ込められる。これだけで今は満足している。でも、これから先のことを少しずつ望むようになってきた。
今だけじゃなく、この先もずっと。独占できたらいいのに。でも迂闊に結婚しようなんて言葉を口にして、平手打ちくらうような事態は絶対に避けたい。ガキの頃から何も学んでないってことになる。
自分たちのペースで。その言葉がとても嬉しかった。焦った所でいい関係は築けない。ゆっくり互いの時間を共有していけたらいい。そしていつか。
いつか、二人で一緒に暮らせる夢を見ながら今夜は抱きしめていたい。
◇
翌朝。
朝日の眩しさに俺は目を覚ました。いつもと違うマットの感触と掛け布団の重み。そうだ、イーストの温泉旅館に穂香と泊まりに来ていた。夢心地のまま昨日を思い出すが、両腕に抱きしめていたはずの穂香がいない。
彼女は既に寝床を抜け出して、広縁で朝日を浴びていた。リングを掲げながら。
俺の枕元に何か置いてある。ラッピングが施された大きめの箱。寝る前には何もなかったはずだ。
振り向いた彼女の笑顔は最高に輝いていた。「おはよ。日本式サンタさんからの贈り物、一足早く来てくれたみたいね」と枕元の箱に目を向ける。
箱の中身は、ロットナンバーがゼロと刻印されたバングルとネックレス。カードには贈り主である穂香の名前。このプレゼントの話はまた別の機会にでもできたらいいと思う。
時間が来ると、部屋に案内をしてくれた仲居さんが料理を運んできた。座卓を拭いたり、配膳が結構大変そうだったから手伝いたい気持ちも沸く。「お客様はお寛ぎください」と言われた挙句、穂香には「今日の主役は庭でも眺めて待ってて」と広縁に押しやられてしまった。「準備が終わるまで振り向くの禁止」とまで言われる
自分だけ何もしない居心地の悪さもあるけど、下手に手伝えば反感を買うだろうし。
俺は窓に面した小さな日本庭園を眺めることにした。夕焼けに影を落とす松の木、濃さを増した池もまた風情がある。窓には網戸も付いているから、開けたら虫の声も聴けそうだ。
じっと庭園を眺めていたいところだが、後ろで聞こえてくる会話にどうしても気を取られる。「それはこっちで、徳利と猪口はここでお願いします」と話しているので思い出した。あれ持ってきてたんだ。先に出しておくかと荷物の方に振り向こうとした瞬間「こっち見ちゃダメ!」と怒られてしまった。慌てて庭の方に向き直る。まぁ、ガラス窓に映った様子が何となく見えてるんだけどな。でも我慢だ。穂香と仲居さんが張り切って用意してくれてるんだし。
一本の通知がスマホに届いた。今日は全くと言っていいほど鳴らなかったから、随分久しぶりな気さえする。
『ガストさん!お誕生日おめでとうございます!』
弟分たちとのグループトークに表示された一文。それを皮切りに次々と祝いのメッセージが投稿されていく。今日もいつもの場所に集まってるんだろう。
今年は彼女と旅行に行くからって前もって伝えたら「意中の彼女と旅行!楽しんできてくださいっ」と笑顔を向けてくれた。いつもは日中にメッセージが飛んできてたけど、今年は気を使われていたようだ。
ちょっとだけ寂しい気もしてたから、こうしてアイツらのメッセージを見れて素直に嬉しい。
温かいバースデーメッセージに頬を緩ませながら返事を打ち込んだ。
『サンキュー。今日は集まりに行けなくて悪ぃ』
『気にしないでください!』
『俺らなりに、ガストさん不在時の祝い方を編み出したんすよ!』
不在時の祝い方。疑問に思う間も無く、一枚の写真が贈られてきた。それを見て一瞬固まりかける。
誕生日っぽい感じにペイントされたテーブル、その中央にはホールケーキと飲み物。乾杯用のグラスを持ってる弟分たちがカメラ目線でいい顔で笑っている。そこまではいい。問題はその奥に飾られてるものだ。俺のポスターがでかでかと貼ってあるし、公式グッズがそこらに並べられている。いやいや、いくら本人がいないからってやりすぎだろ。ポスターの上部には『Happy Birthday!』のガーランド。
『これならガストさんを祝ってることになるだろって言い出したヤツがいて!』
『ナイスアイディアすぎて、気合入れて飾っちまいました!』
いや、度が過ぎるだろこれ。なんか立派な花も飾られてるし。
「ガスト」
「うおっ!?」
どう返事をしたものか。一思案巡らせているところに、突然声を掛けられて飛び上がりそうになるし、スマホを落としそうになった。心臓がバクバクしてる。
顔を引き攣らせながら「な、なんだ?」と答えた。
「何見て…」
俺の手元を覗き込んだ穂香が黙る。いや、そうなるよな。うん。
「……ガストの信者?」
「いや、これはその、あいつらが勝手に…俺がいないから代わりにって…」
「祀られてるみたい。…それだけ慕われてるんだろうけど。まぁ、気持ちは分からなくもないわ」
「…え?」
「私の友達、ブラッドさん推しの。彼女も似たようなことしてるから」
「…三年ごとに居住地変えてるっていう」
「そ、彼女。毎年ブラッドさんの誕生日にケーキ買って、こんな風に飾り付けてお祝いしてる」
「そうなのか…意外と普通なのか、こういうのって」
祝いの言葉を贈るだけじゃなく、本人が居なくてもパーティーみたいなの開くもんなんだな。まさか自分が対象になるとは考えもしなかった。ブラッドなら慣れたモンで「市民が祝ってくれた気持ちに感謝すべきだ」とか言いそうだな。
「それはそうと準備整ったから、乾杯したいんだけど。大丈夫?」
「ああ、今行く」
仲居さんの姿はいつの間にか無く、座卓の上がご馳走で一杯になっていた。
俺は盛り上がっているグループトークに「他所のシマのヤツらに見られねぇようにな」と送った。変な誤解と新たな黒歴史が生まれかねない。
テレビや雑誌で見掛けた懐石料理目の前に広がっている。とても二人分とは思えないぐらいの皿や小鉢が並んでいて、小さい土鍋の下には丸型のコンロが付いていた。天ぷらの盛り合わせ、刺身、お吸い物。他にも見たことない上手そうな料理が。
そして座卓の中央にホールケーキ。四号サイズ程の大きさで、白い生クリームベースに色とりどりのフルーツが飾り付けられている。四角いチョコプレートに『Gast Happy Birthday!』とお祝いのメッセージが書かれていた。
「懐石料理にケーキはちょーっと異色かなぁ…と思ったんだけど、やっぱり誕生日にケーキは欠かせないから」
「すげぇって感想しか浮かばないぜ…これ、ホントに二人分の量なのか?」
「ええ。多く見えるけど、一品一品は少なめ。ガストが苦手そうな食べ物は省いてもらったから、大体食べられると思うわ。…そして、もう一つ本日の目玉がこちら!」
よいしょと穂香が持ち上げたのは日本酒の一升瓶。ラベルの文字は達筆過ぎて読めないが、一級品の雰囲気が漂っている。
「この旅館おススメの日本酒を用意してもらいました。さっき徳利に移してもらったから、猪口で乾杯しましょ」
「あっ、ちょっと待った。実はさ、用意してきたものがあって」
徳利から猪口に日本酒を注ごうとする穂香に待ったをかけ、俺はボストンバッグから化粧箱を取り出す。割れないように緩衝材で覆ってきたから、中身も無事だ。
化粧箱から取り出した富士山の姿を模った二つの猪口。二年前、穂香が俺にプレゼントしてくれたもの。
「それ、私が誕生日にプレゼントした…わざわざ持ってきたの?」
「ああ。温泉旅行だし、日本酒飲むだろうと思ってさ。…実はこれ、初めて使うんだ。今軽く洗ってくる」
緩衝材の一部に利用した布巾と一緒に洗面台へ。猪口を軽くゆすいでから、水気を拭きとった。それを穂香の所まで持っていく。少しくすぐったそうな表情で俺を見上げてくる。あの時の事、思い出してるのかもしれなかった。
「そんなに大事にされてたのね、それ」
「そりゃ、好きな子がくれたプレゼントだし。穂香に貰ったもの、全部大事にさせてもらってる」
「…ありがと。あの時、ガストがご飯奢ってやるからって引かなかったのよね」
「穂香落ち込んでたみたいだし、何とか元気づけてやりたいな…って考えてたからなそん時は」
二年前の今日、元カレが休みに来れなくなったとかで。結構凹んでいた。気分が乗らないにもかかわらず、俺の誕生日を祝ってくれた。今思えば俺も結構穂香に気を使われているのかもしれない。
徳利からお互いに猪口に日本酒を注いで、軽く持ち上げて乾杯。この作法は【ニューイヤー・ヒーローズ】の時に教わった。器が小さいから乾杯でぶつけると酒が零れてしまう。
一口含んだ日本酒はフルーティーで口当たりが良いものだった。鼻に一瞬抜ける辛さと喉を通る熱。美味いけどけっこうきつめの度数だ。
「…美味いな、これ。癖が無くて飲みやすいし」
「熱燗でも美味しいですって言ってた。改めて、ガスト。誕生日おめでとう」
「ああ、サンキュー。今年も穂香に祝ってもらえてすげぇ嬉しい」
「なんだかんだ、毎年祝えたわね。それじゃ、お夕飯頂きましょ。好きな物から食べていいわよ。あ、鍋のやつは火が消えた頃に蓋を開けてね」
「オーケー。…この天ぷらの側にある塩は何に使うんだ?」
竹の器に盛り合わせた天ぷら。天ぷらはだし汁につけて食べると知ってはいるが、だし汁の他に塩だけ入った小皿がある。これはだし汁に入れるのか、それとも別の料理に使うのか。昔、初めて食べたソバでえらい目にあったから、迂闊に手が出せない。
「それは天ぷらにつけて食べるの」
「…だし汁に混ぜるのか?」
「ううん、混ぜない。お好みでどちらでもって感じね。天ぷらはだし汁で食べるのが定番だけど、塩で食べても美味しいのよ。こんな風に少しだけ塩をつけて」
穂香は塗り箸でかぼちゃの天ぷらを摘まみ、塩にワンバウンド。サクッとそれに噛り付いた。穂香の顔が綻む。
「美味しい…!天ぷら食べるの久しぶりだし、すごく美味しい。揚げ立ては最高ね」
「穂香って美味そうにメシ食うよなぁ。…じゃあ俺はナスを」
黄金色に揚がったナスの天ぷらを摘まみ、真似るように塩をつけて口へ運ぶ。歯に当たった途端にサクッと噛み切れた。まだアツアツの状態だったそれを口の中で転がしながら食べる。ナスの柔らかい果肉が解けるようにとろけていった。塩をつけることでサクサク感が引き立ってる。
「…美味っ。天ぷらに塩って合うんだな」
「意外でしょ?私も初めて塩で食べた時はあまりの感動に今のガストみたいに驚いてた」
「美味すぎてハマりそうだぜ、これ。天ぷらって言えばだし汁だったし、この食べ方知ってたら自慢できそうだな」
天ぷらの作り方も覚えて、ノースのヤツらに振舞うってのもいいかもな。アキラやウィルも呼んで天ぷらパーティーするのも良さそうだ。ディノは頻繁にピザパーティーやってるっていうし、アリだろ。
湯呑みを覆っている蓋を持ち上げると、淡黄色のプリンみたいな料理が入っていた。三つ葉とカマボコが表面に浮き上がっている。卵液を蒸して作った茶碗蒸しってヤツだ。
「茶碗蒸しは私のリクエストで追加してもらったの。…んーやっぱりこういう所で食べる本格的な茶碗蒸し美味しい」
「和食って手間がかかる料理が多いって聞いたけど、茶碗蒸しはどうなんだ?」
「ものすごーく手間がかかる。卵液を濾したり、スが入らないように気を使ったり…昔母さんがチャレンジしたんだけど、私と父さんが微妙な反応したらそれ以降作ってくれなくなったのよね」
どうせ美味しくないんでしょ、と拗ねてしまったらしい。
使われていない茶碗蒸しの器だけが食器棚にしまわれているそうだ。
「穂香の母さん穏やかそうな感じだったけどなぁ」
「そう?よく父さんには「お前は母さんそっくりでお転婆だ」って言われるけどね」
顔を二回合わせた程度だけど、ニコニコ笑う可愛らしい人だった。笑った時の目元とかが穂香と似ていて、年齢を重ねたらこんな風に素敵な人になるのかもと思った。
親父さんとも最初はギクシャクしていたけど、空港で見送ってくれた時には「また来なさい」ってぎこちない英語で言ってくれた。次に会う時は歓迎のハグとかしてくれるかもな。
「そうだ、二人で撮った写真後で送ってもいい?」
「ああ、いいぜ」
「ガストが酔ってご機嫌になった写真も撮って送ろうかしら」
「それは止めてくれ…折角上がった株が下がりかねる」
「冗談よ。…あ、刺身のワサビは好みの量で溶かして。あと、箸使うのしんどくなったら言って。フォーク用意してもらってるから」
「その心配は要らねぇぜ?…俺の箸さばきもだいぶ様になってきただろ?」
箸で一口サイズに切った冷奴を持ち上げてみせた。少し角が欠けちまったが、柔らかい豆腐を掴めるまでになった。箸の熟練度もかなりのモンだろ。こう、箸先に伝える絶妙な力加減とバランスが必要だ。コツを掴むまで時間かかったけど、今じゃ自信を持って扱える気がするぜ。
「手先の器用さには自信あったけど…いやぁここまでの道程はきつかったなぁ。穂香がいなきゃここまで苦労して習得することは無かっただろうし」
掴み上げていた豆腐が滑り落ちる前に口の中へ。この醤油、美味いな。豆腐も舌触りが滑らかだし、薬味のネギとすりおろしたショウガのアクセントが良い。
「私、ガストのそういう所が好きなのよね。相手に寄り添ってくれるっていうか…気持ちを理解しようとしてくれる所。他にも沢山いい所あるし」
もう一口、と冷奴を摘まもうとした。そこで不意にいい笑顔を向けてくるから、指先に力が入りすぎて豆腐が真っ二つになっちまった。豆腐は細かくなればなるほど、難易度が上がる。偉そうに言った手前、きれいに掬い取ってみせないとな。
そう気合を入れた矢先に今度は丸型コンロの燃料がちょうど燃え尽きて「あ、煮えたみたいね。何の料理かなぁ」と布巾をミトン代わりに蓋を持ち上げる穂香。和食ってこんなに忙しい料理だったか。
あたふたしていたのがバレた後に「ゆっくりでいいわよ。時間たっぷりあるんだし」と更に笑われてしまった。
◇
時間に追われることなく晩メシを食べ、食休みした後にもう一度温泉に入ってきた。通は一日に何度も温泉に浸かるらしいけど、真似したら皮膚がふやけて大変なことになりそうだ。
日はすっかりと暮れて、夜空に月が浮かんでいる。露天風呂から見えた月がこの広縁からも眺めることができた。
「いい月夜だな」
煌々と輝く月を仰ぎ、口角を僅かに持ち上げる。誰に向けたわけでもない独り言は彼女の耳に届いていた。俺の隣に来て空へ目を向ける。
「ほんと。…月が綺麗ですね」
「なんで改まった言い方なんだ?」
「内緒。気が向いたら調べてみて」
俺の問いにそう返した穂香は朗らかに目を細めていた。
二人掛けの椅子に座るように促し、華奢な腕が丸い小さなテーブルを手前に引き寄せる。それから一度部屋の方へ引っ込んで、すぐにお盆を抱えて戻って来た。徳利と猪口が二つ乗っている。
「昼間、フロントに熱燗をお願いしておいたの。夜の天気良さそうだったし、月見で一杯もいいかなぁって」
「あぁ、いいなそれ」
その矢先、薄い雲が月にヴェールをかけていった。雲の切れ目から月の光が見え隠れしている。折角だからと窓を開けて、網戸を引いた。秋を報せる虫の声が静けさに響く。
「雲間から月が覗くのを待つのもいいよな。穂香と一緒なら退屈しないし」
酒を注いだ猪口を持ち上げ、乾杯しようとすると月明かりに照らされた彼女の顔が、ふわりとまた微笑む。月明かりみたいに優しい。そう感じた。
「私も。むしろガストと一緒にいて退屈って感じたことないかも」
「そりゃ良かった。…俺たち、相性良いよな」
「うん」
口をつけた日本酒は香りの強さが一段と増していた。味もがらりと変わっているし、喉を伝う感覚も違う。コクがあって美味い。熱燗にすると表情がこんなにも変わるんだな。
熱燗は酔いが抜けやすいらしいけど、これは飲みすぎに注意した方がいい。甘い酒には苦い思い出があるし。
雲がすっと横へ流れていき、月が姿を現した。虫の声と風が草木を揺らす音。良い静けさだ。
「明日は卓球しない?遊技場に卓球台設置してあるんだって」
「お、いいねぇ。そういや案内書きに昔の遊びコーナーがあるって書いてあった。そこにも行ってみようぜ」
「昔の遊びって言ったら…竹馬とか独楽やけん玉かしら。ガストならどれもすぐ覚えそうね」
「おぅ。その期待に応えねぇとな」
「あとは…周辺施設で立体迷路もあるんだって。そこも行ってみましょ」
「立体迷路かぁ…今は謎解き脱出系がブームなんだっけか。その要素も含まれてんのかな」
「……みたいね。ほら」
取り出したスマホで検索をかけた穂香はその場所を表示、画面をこっちに傾けてみせた。『囚われた坂本龍馬を助け出せ!』っていうテーマらしい。坂本龍馬は江戸時代の偉人だったか。幕末、だったかな。うろ覚えだ。
「面白そうだな」
「ね。明日が楽しみ」
そう言いながら穂香が俺の肩に寄りかかってきた。メシの時も結構飲んでたみたいだし、だいぶ酔いが回ってるんじゃないだろうか。ふにゃりとした笑い方。いつもの傾向だな、これは。
「…ちょっと飲みすぎてるんじゃないか?これ結構度数高いみたいだし」
「そう?まだ余裕だけど」
「穂香がそう言ってる時は大抵酔ってるだろ。水持ってくる」
「ん…ありがと」
ご機嫌なほろ酔い気分。「ほんとにまだ酔ってないんだけど」と口を尖らせるが、それは酔っ払いの常套句だからな。まぁ、あの時みたいにヤケ酒されるよりは幾分もマシだ。
俺は水を注いだコップを二人分持ってくるついでに、ボストンバッグから取り出した小さな箱を袂に忍ばせた。
「ガストはもう飲まないの?」
「んー…この辺にしとく。こんなにいい誕生日を過ごせてるんだし、酔いつぶれたら勿体ないからな」
まだ飲むなら常温でよければ用意する。そう言ってはくれるが、そんな状態で一升瓶を持たせられるわけない。ちょうど一合空になったし、今日はこの辺にしとくのが妥当だ。
それにしても、毎年なんだかんだで賑やかな誕生日を迎えてきた。クラッカーの鳴り響く音、次々と祝いの言葉を掛けてくる弟分たちの声、一晩中騒いでた年もあった。
あの頃は静かに過ごせる誕生日が来るだなんて、思いもしなかったな。穂香と一緒に過ごしたいっていう夢は見ていたけど。まさか現実になるなんて。長い間見ている夢、とかじゃないよな。
ふと不安を抱いた所に「ガスト」と呼ばれた。俺は肩にある温もりの方に顔を傾ける。彼女に呼ばれる度に胸が温かくなるんだから、これは夢じゃない。
俺の髪に触れてきた穂香は徐に襟足を引っ張ってきた。
「髪、伸びたよね」
「…この間切ってきたばかりなんだけど、もう伸びたのか」
「あー…そうじゃなくて、昔と髪型違うでしょ?」
髪を梳く指先が首筋に触れるのがくすぐったくて、その指を絡めとるように握る。ぎゅっと握り返してくる穂香が無邪気に笑っていた。
「確かに昔は短かったかもな。なんとなく伸ばしてきたけど…たまには髪型変えてみようかっていう時もある。でもあまり冒険するのもなぁ…切ったら暫くは元に戻せないし、って感じでずっと悩んでる」
あんまり鏡と睨めっこしてると、マリオンの圧が掛かってくる。だからもう少しセットしやすい髪型に変えたい気もするんだが。昔みたいに短くしてみるか。そうすりゃ寝惚けたレンにも俺だって認識してもらえるかも。
「髪が短かった頃は爽やかな少年って感じだったわ」
「今は?」
「爽やかな青年」
「って、それ歳取っただけじゃないか」
「それだけガストのイメージは変わってないのよ。昔から」
俺の指で遊んでいた穂香が顔を上げて笑う。俺も、彼女の笑い方は昔から変わってないとふと思った。
彼女を独り占めできているっていうのを改めて実感できる夜だ。この幸せを一人で噛みしめていると、不思議そうに首を傾げてきた。
「ほら、毎年俺の誕生日を祝ってくれたワケだけど…二年前、この猪口買ってくれた時。夕方まで買い物に付き合ってくれただろ?あれは俺のワガママっていうか…穂香を引き止めてた」
「そういえば…やけに暇アピールしてくるなぁとは思ってた」
「しょんぼりしてる穂香を放っておけなかったのは本当だぜ。少しでも気分を晴らしてやりたいなって。…なんて、どう考えても一緒にいたいだけの口実に過ぎねぇよな。あの時は俺のワガママに付き合ってくれて、ありがとな」
穂香の視線が少しだけ落ちた。「私のワガママに比べたら、可愛らしいものよ」と。俺から見ればそっちの方が可愛らしいモンなんだけど。お互い様ってヤツかもな。
俺は穂香の左手を包み込むように握りしめ、彼女の名前を口にする。
「あの、さ。…もう一つだけワガママ聞いて欲しいんだ」
「なに?」
「えーと……少しの間、目瞑っててくれないか」
「うん」
面と向かって渡すには照れてしまう。穂香が目を瞑った後、握っていた手をそっと放す。さっき袂に忍ばせたベルベットの小箱を右手で取り出した。
箱の中に収めたサイズ違いのリング二つ。月の光に反射して、煌めいた。そのうちの一つを穂香の左手指に嵌める。サイズは寸分違わず、だ。良かった。自分も同じ指にリングを嵌めた。
「もう開けてもいいぜ。……夏祭りで話してたサプライズ。お揃いっていうか…その、ペアリングってヤツで」
ゆっくり目を開けた穂香の視線が薬指に向く。僅かにその目が見開かれて、何やら言葉を探しているようだった。嫌がってる様子ではない。でも内心これを用意してる間も、ある不安がずっと拭えずにいた。
「あー…ほら、穂香声掛けられやすいだろ、男に。だから、男避けみたいな意味で…捉えてもらえればと思って」
「…いいの?貰っても」
「勿論。嫌じゃなければ…だけど」
「嫌なんかじゃない。…嬉しい」
目を潤ませながら自身の左手をぎゅっと胸の前で握りしめていた。その様子に俺はほっと胸を撫でおろす。
これは喜んでくれてるんだよな。それにしても、ここまで喜んでくれたのもなんか意外というか。俺は全く逆の予想をしていたから、そう感じるのかも。
「…穂香、今までこういうのしてなかっただろ?だから俺も彼氏いないんだなって思っちまったし。…だから、嫌いなのかなぁって」
懸念材料はこれだった。穂香がこっちに来てから一度も指輪を嵌めている所を見たことがなかったんだ。わざと外すような性格でもないし、あれだけ惚気てたんだ。相手から貰ってたら当然してるだろうと思って。そこで行き着いた結論はそもそもこういうのが嫌いということ。贈られても困るっていうケースだ。そう心配していた。
穂香が首を何度も横へ振ったことから、そうじゃないらしい。
「…彼がそういうの嫌いだったから。今思えばそういう理由だったんだって分かる。…指輪の跡が残っていたら、他の子に声掛けられないものね」
そう話した穂香は憂い気に目を伏せた。アイツのことで悲しむ表情を見る度に、苛立ちが募る。こんなに一途な子を弄んでいたのかと思うと、今でも腸が煮えくり返りそうだ。
「…俺はずっと身に着ける。肌身離さず、ずっと」
「ありがと。…その気持ちだけで嬉しい。これ、素敵なデザインね」
頬を緩めた穂香に笑みが絶えない。手をひらひらと傾けて、月明かりに照らしてその表情を楽しんでいた。リングの外側に留めた一粒のダイヤモンドがキラキラと輝いていた。
デザインも気に入ってくれたみたいで、こっちも嬉しくなってくる。
「気に入ってくれたか?」
「うん。羽が彫ってある…風の象徴ね」
「ああ。これ、こうやって二つ並べると…一対の翼になるんだ。こだわりポイントの一つ。あと、リングの内側にも石を留めた。お互いの誕生石にしたんだ。穂香のには濃いペリドット、俺の方には穂香の誕生石を入れてもらってる」
「…流石に月明かりじゃ色は分かんないわね」
細い指から一度リングを外し、月明かりにそれを照らす。実はリングの内側にメッセージが刻印してある。それにもきっと明日の朝気づいてくれるだろう。
「明日の朝に楽しみが一つ増えたわ。ガスト、本当に素敵な物をありがと」
「こっちこそ。そこまで喜んでくれてこっちも作った甲斐があるってもんだぜ」
「ガストが作ったの?」
「知り合いの工房で頼んでやってもらったんだ。俺はデザイン考えたのと…石や言葉選んで、刻印した……あ」
先にネタバレを口にしてしまった。リングの内側を見ようと覗き込む穂香の指先を慌てて握りしめる。
「い、今見られるのはちょっと…その、恥ずかしいっつーか…明日の朝見てほしいなぁ」
穂香の視線がじっと突き刺さってくる。どれだけ訴えられてもこれは譲れないぞ。頬に熱が帯びてきてもだ。
次第に拗ねた子どもみたいになった穂香は一度目を瞑り、渋々頷く。ようやく折れてくれた。
俺は穂香の指先からリングを受け取り、薬指にもう一度嵌め直した。
「朝一番に見てやるんだから」
「ああ、そうしてくれよ」
「…じゃあ、私も」
「ん?」
「明日の朝、ガストに一つワクワクをお届けするわ。こっちならではのね」
そう言ってニコニコと笑う。それが何なのか聞いても「ナイショ」と笑って誤魔化してくる。お互い明日の朝にならないと分からないってことか。もどかしさのお裾分けされちまったな。
俺の胸元に頬を寄せてきた穂香を両腕で抱きしめる。この温もりを腕に閉じ込められる。これだけで今は満足している。でも、これから先のことを少しずつ望むようになってきた。
今だけじゃなく、この先もずっと。独占できたらいいのに。でも迂闊に結婚しようなんて言葉を口にして、平手打ちくらうような事態は絶対に避けたい。ガキの頃から何も学んでないってことになる。
自分たちのペースで。その言葉がとても嬉しかった。焦った所でいい関係は築けない。ゆっくり互いの時間を共有していけたらいい。そしていつか。
いつか、二人で一緒に暮らせる夢を見ながら今夜は抱きしめていたい。
◇
翌朝。
朝日の眩しさに俺は目を覚ました。いつもと違うマットの感触と掛け布団の重み。そうだ、イーストの温泉旅館に穂香と泊まりに来ていた。夢心地のまま昨日を思い出すが、両腕に抱きしめていたはずの穂香がいない。
彼女は既に寝床を抜け出して、広縁で朝日を浴びていた。リングを掲げながら。
俺の枕元に何か置いてある。ラッピングが施された大きめの箱。寝る前には何もなかったはずだ。
振り向いた彼女の笑顔は最高に輝いていた。「おはよ。日本式サンタさんからの贈り物、一足早く来てくれたみたいね」と枕元の箱に目を向ける。
箱の中身は、ロットナンバーがゼロと刻印されたバングルとネックレス。カードには贈り主である穂香の名前。このプレゼントの話はまた別の機会にでもできたらいいと思う。