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Your are my sunshine for life.
『ニューミリオンで最高の日本を体験できます』
そう謳われた広告をどこかで見かけたことがあった。雑誌か、それとも駅構内の広告かは思い出せない。リトルトーキョーの郊外に建てられているおかげで、温泉旅館までの交通機関が整備されていた。観光客にも人気の場所らしく、歴史も古くて温泉と庭園、料理も自慢だとか。
俺たちは夏の名残を感じる時季にそこに訪れていた。
いざその旅館を前にした時は老舗旅館の風貌に感動して、思わずため息が出た。テレビや雑誌でしか見たことがない建物が目の前にあるんだ。周辺の庭木もしっかり手入れが行き届いているし、余念が無い。ウィルがこの風景見たら同じように感動するかも。俺は旅館全体の写真を一枚収めておいた。土産話が早速一つ出来たな。
「穂香。あとで旅館の前で一緒に撮ろうぜ」
「いいわよ。浴衣着てからにしよっか、折角だから」
旅館のフロントでチェックインを済ませ、板張りの廊下を渡っていく。所々軋む音を立てながら角を曲がると、途中でデカい石をメインにレイアウトを組んだ庭が見えてきた。半紙に墨で『Do not enter』と書かれた張り紙が柱に貼られていた。達筆だ。どうやらこの庭は目で見て楽しむだけのものらしい。確か、枯山水っていう名称だったかな。白砂が敷き詰められていて、そこに水面の様子が描かれている。水を使わずに表現した一種のアートみたいなもんだよな。どことなく厳かな雰囲気が漂う。
その枯山水を横切り、仲居さんに案内されたのは松の間と名前がついた部屋。
真新しい畳の匂い。和で統一された家具と装飾。床の間に掛軸もある。部屋の壁は白壁で、柱や窓のフレームも日本家屋っぽい造りになっていた。雑誌で見たまんまの光景だ。
部屋の広さはノースの共用リビングほどあって、部屋の中央に低めの四角いテーブルと座布団が二枚向かい合わせに置かれていた。
光が差し込んでくる大きな窓の前に小さなテーブルと二人掛けの椅子。このスペースは広縁だと仲居さんが室内の説明と一緒に教えてくれた。小さな日本庭園をそこで楽しめるそうだ。
仲居さんが一通り説明を終えた後も、室内をウロウロとしていた。掛軸に涼し気な清流と金魚が三匹描かれている。
「そこまではしゃいでもらえると、連れてきた甲斐があるわ」と穂香に笑われてしまった。これじゃあお上りさんだな。俺は首に軽く手を当て、照れ笑いを浮かべてみせる。
「フロントで先に用事済ませてくるから、部屋で寛いでて」と穂香が俺に声を掛けて部屋を後にした。
一人部屋に残された俺は改めて和室を見渡す。これだけ広々とした部屋ならのびのび過ごせそうだ。天井も高いから頭をぶつける心配も要らないな。日本の家屋は日本人に合わせた造りになっていたから、天井が低かった。なんなら玄関で額をぶつけたし。うっかりいつもの調子で部屋を移動しようとすると、その度にぶつかりそうになったから、中腰でいるのが結構辛かったな。
座布団に腰を下ろし、テーブルに両肘を置く。前方の壁際に行灯があった。あれがランプの代わりだな。床の間の掛軸と活けられた季節の花が調和されてるというか、いい感じだな。この部屋には日本文化がぎゅっと詰め込まれていた。
視界に入る物全てが新鮮で、異国に旅に出た感じがして気分も上がってくる。
漆塗りのお盆に急須と湯呑み、茶葉が入った筒。その傍らに茶色い温泉饅頭が二つ添えられている。饅頭は温泉に行く前にお召し上がりくださいという説明。数日前にジェイから聞いた話と一致していた。
旅館の部屋に置かれているお菓子は言わばウエルカムスイーツというヤツで、日本での呼び方が「お着き菓子」だ。温泉に入る前に血糖値を上げておかないと、失神や立ち眩みを引き起こしてしまう可能性がある。だから、旅館に着いたらまず甘い物を食べておいた方がいいらしい。
穂香が戻ってきたら先ずはお茶で一服しよう。今日と明日、時間はたっぷりあるんだし。ゆっくり過ごして日常の疲れを癒すってのも悪くないだろう。誕生日なら尚更だ。
そうとなればお湯を沸かさないとな。黒い電気ケトルに水を入れてセットし、急須や湯呑みを出してお茶の準備を整えておいた。
室内の置時計が静かに時を刻む。
フロントがチェックインで混雑する時間帯になってきたのか、穂香が中々戻って来ない。いよいよ手持無沙汰になった俺は部屋の中をまたうろつくことにした。
襖のお洒落な透かし引手に指を引っ掛けて中を覗く。畳んだ布団と予備の座布団が積んであった。青い猫型ロボットはここで寝ていたんだっけか。押し入れで寝るっていう発想がロマン溢れてるよなぁ。
次にその隣にある木戸を手前に引いた。そこはクローゼットになっていて、ハンガーラックと麻のカゴが置いてある。中にはきっちりと畳まれた浴衣が入っていた。旅館の近辺施設までなら浴衣を着て出歩いていいって言ってたし、先に浴衣を着て待ってるのもアリだな。浴衣を着るのは二回目だし、男物なら着付けも簡単なはず。
俺は早速浴衣に着替えることにした。落ち着いた灰色の浴衣を広げ、両袖を通す。左右の前見頃を身体に巻き付けるようにして、紺色の帯をぐるっと腰に回して後ろでそれとなく結ぶ。夏祭りで着付けて貰った時はこんな感じだったはず。クローゼットの扉裏側の鏡に全身を映し出して、偏った衿を引っ張って直し、後ろ髪をヘアゴムで括る。暑さで蒸れていた首筋がこれで快適になった。
早く穂香戻って来ねぇかな。「一人で着付け出来るようになったの?すごいわね」と驚く彼女を思い浮かべていた。その時にドアロック解除の音が聞こえたから、入口まで軽い足取りで出迎えにいった。
靴を脱ぐ途中、浴衣姿に気づいた穂香が目を丸める。
「お帰り」
「ただいま…って、もう浴衣に着替えてたの」
「あぁ。何となく着付けも分かってたし、自分でやってみたんだけど。どうだ?」
腕を組んだ時に袖で両手が隠れた。こういう部分も浴衣は粋だよな。
穂香の視線が俺の首元から膝下まで動く。「ホント、何色着せても似合うわよね」と呟いた声が聞こえてきた。が、その目は仕事モードに思えたのは気のせいじゃない。僅か数秒、俺の首元に目が留まった。
「似合ってるし、サイズも丁度いいんだけど…」
「…けど?」
「衿の合わせが縁起でもないことになってる。直してもいい?」
穂香が両手で自分の衿もとをなぞるように示す。どうやら変な所はそこだけらしい。でも、縁起でもないってどういうことだ。
クローゼットの鏡前に立たされ、隣に並んだ穂香と鏡越しに目が合った。
「今の状態だと左の衿が下になってるでしょ?これだと死んだ人が着る死装束になっちゃうの」
「…そいつは笑えないぐらい縁起でもねぇな。衿の合わせ方が違うだけで意味が変わっちまうのか?」
「パッと見じゃ分かりにくいわよね。そこが和服の難しい所。帯、一旦解くわね」
うっかりこの格好で出歩いてたら恥をかくところだった。穂香が指摘してくれたのはいいけど、割と苦労して結んだ帯があっけなく解かれてしまう。その解いた帯を腕に引っ掛け、浴衣の衿をピッと伸ばす。ここまで顔色一つ変えずに直していくモンだから、仕事モードのスイッチ入ってるんだろうなぁ。こっちは肌着の状態だってのに。
穂香が浴衣の前身頃を持ちながら俺の顔を見上げてきた。
「浴衣や着物の衿は自分から見て右側が下、左側が上にくるようにする。右とか左とかややこしいって顔してるわね」
「ややこしいよな」
「右手がすっと懐に入る形になってればオーケー。これならどう?」
「…なるほど!」
「私もお正月に手伝った時にそう教わったの。それと、こういう旅館で着る浴衣の帯は前で結んでもいいのよ」
衿を正しく合わせた後に帯をぐるっと腰に回して、斜め前できゅっと蝶々結びにされた。前の方で結んでいいなら簡単で助かる。
「はい完成」と胸元をポンっと触れる程度に叩かれた。にっこりと笑う彼女に釣られ、俺の口角も自然に持ち上がる。
「ありがとな、穂香。おかげで恥かかずに済んだし、浴衣の着付けはこれでバッチリ覚えたぜ」
「どう致しまして。私も着替えちゃおうかな」
「ああ、いいと思うぜ。俺はその間にお茶を淹れておくからさ。お湯も沸いたみたいだし、お着き菓子で一服してから温泉に行こうぜ」
女性用の浴衣をクローゼットから取り広げた穂香が「お着き菓子?」と首を傾げた。座卓に用意された饅頭を見て、それのことかと訊いてくる。これはお着き菓子と言って、旅館からのおもてなしだとジェイからの受け売りを話した。
「へぇ…それ、お着き菓子って言うのね。初めて正式名称聞いた。なんだか最近はガストの方が日本文化に詳しい気がしてきた」
「受け売りの知識も多いけどな。でも知らないからこそ、詳しく調べたり聞いたりしようって感じだったな。好きな子の故郷のことなら特に」
穂香と出逢ったばかりの頃、共通の話題が欲しくて日本のことをよく調べていたっけ。必死になっていたあの頃も懐かしいけど、今も知らないことを一つ知る度に勉強になっている。おかげで、話題の引き出しが多いって言われるし。
昨日あったことを話のネタに、雑談を交えながらお茶の準備を進めることにした。ケトルからお湯を急須に注いで、じんわりと温まるのを待つ。湯呑みにそのお湯を注ぎ回そうとした所で、浴衣に着替え終えた穂香が隣に座ってきた。
「こだわった淹れ方知ってるのね」
「こうすることで急須と湯呑みが温まるし、お湯の温度も丁度良くなるんだよな。それに緑茶の甘みが増す…って話だ」
「へぇ…ガストなら緑茶カフェも開けそう。イケメンウェイターで一躍人気者に…ってもうなってたわね」
「…あはは。女性客への対応がまだ自信ねぇからなぁ」
「そういえばこの間のうっかり投稿、大丈夫だったの?」
「……大変だった」
先々週、ダーツバーに集合っていう仲間宛てのメッセージを全体公開にしてしまったばかりに、各方面からお叱りが飛んでくる始末になった。メンターリーダーからは説教を受けるし、マリオンからは自分で丁重に対応しろって言うし。馴染みのダーツバーに迷惑かけちまったし、押し寄せてきた女性ファンの対応が一言で表せないぐらい大変だった。一緒にいた仲間にも手伝ってもらって、なんとかその場を治められたから良かったけど。写真撮ってもいいですか、サインくださいとか、ダーツ投げる所見ててもいいですかとか。その日のスコアがボロボロだったのは言うまでもない。
「今日はファンに目付けられないといいわね。誕生日くらいゆっくり過ごしたいだろうし」
「…イーストだし、多分大丈夫だろ。囲まれるのは勘弁だ…それに穂香に迷惑かけちまうのだけは避けたい」
「私は別に、いいけど。…まぁ、少し焼いちゃうかも」
そう言って、茶葉の筒を掴んだ彼女の口元はへの字に少し曲がっている。それに対して急に愛おしいというか、キュンっとなったというか。焼いてくれたのが嬉しくて、顔が緩んでいった。
「…何笑ってるのよ。余所見してると火傷するわよ」
「焼いてくれたのが嬉しくて…つい。そうだ、一服して温泉入った後はどうする?」
茶葉を淹れた急須に湯呑みのお湯を戻し、蓋をする。因みに、お茶の美味い淹れ方はブラッドが直々に教えてくれた。他にも色々と作法を教えてくれたから、この旅行で活かす場面が出てくるかも。
「庭園の散歩にでも行かない?自慢の日本庭園だって言ってたし」
「いいな。確か旅館の近くにカフェみたいな場所あったよな。そこにも行ってみようぜ」
「うん。今日は散策メインでもいいかもね。でもガストの希望は勿論聞くわよ。本日の主役なんだし」
急須の蓋に手を添えて緑茶を注ぐ。香しく、透き通るグリーンの水面に茶柱が立った。吉兆の現れに俺は目を細め、茶柱の立った湯呑を穂香の前に置く。
「ありがと。…あ、茶柱立ってる」
「お、縁起が良いなぁ。何か良いことあるかも。…俺は穂香と一緒ならどこでもいいぜ。二人でならなんだって楽しめるから」
こうして喋りながらお茶を飲む時間もずっと続けばいいのにって思うぐらいだ。いっそ時が止まってしまえばいい。そう考えることもあるけど、それだとこの先にある楽しみが無くなっちまう。だから、一緒に過ごす時間を大事にしていきたいと考えていた。
◇
広々とした湯船がこんなにいいモンだとは考えたことも無かった。特に露天風呂の開放感は最高だ。
少し熱めの湯、サラッとした湯触り、温泉独特の匂い。揺らめく白い湯煙の間から眺める緑と、顔に受ける風が気持ち良かった。
露天風呂から見える庭園には添水がどこかにあるらしく、石を叩くコンッという小気味よい響きも聞こえてくる。一足早く秋の虫も鳴いているようだ。
湯船に浸かると身体の疲れが解れるぞって言ってたのは本当だった。溶けるように疲れが抜けていく気がする。普段はシャワーで済ませることが多い。週一くらいで湯船に浸かるのも悪くないかもなぁ。それか、日帰りで来るのも良さそうだ。ここじゃなくても、アキラが前にサウスのヤツらと行った所でもいいかも。
自然の音に耳を傾けているうちに目を瞑っていた。寝落ちしないように気を付けねぇと。そんな心地良い感覚に浸っていると、湯面の揺れと人の気配を感じた。
その方向を見ると、十歳くらいの男の子がじーっと俺の顔を見つめていた。何か用があるでもなく、ただこっちを見てくる。
「どうしたんだ?」
「……」
「俺の顔に何かついてるか?」
俺の方から話しかけてやると、その子がずいっと距離を詰めてきた。穴が空きそうなぐらいに青い目で見てくる。「やっぱりそうだ」とようやく口を開いた。
「あんた、ヒーローだろ」
「あ、あぁ…そうだけど。……サインなら後で」
「いらない」
「要らないのかよ」
俺にもちびっ子のファンが増えたのかと思いきや、即答で断られちまった。
「だってオレの推しヒーロー、ジェイだし」
「…そっかぁ。やっぱすげぇなぁジェイは。俺なんか足元にも及ばないぜ」
「あったり前だろ!ジェイはすごいんだぜ」
ジェイの武勇伝を突如語り始めた少年の目はキラキラと輝いていた。この感じ、なんだか昔のアキラに良く似ている。
俺はその子の話をうんうんと頷きながら聞いていた。
「ジェイのことよく知ってるんだな。流石ファンだ。でも、それならなんで俺のことなんか知ってたんだ?」
「オレの母さんが兄ちゃんのファンなんだ。カッコいいって言ってた。あんまり夢中になってるから父さんがヤキモチやいてる。オレはジェイの方がカッコいいと思うんだけどな」
「なるほどな。じゃあ、俺と会ったことは内緒にしておいた方がいいかも。親父さんが焼いちまうだろうし」
「うん。ぜったい言わない」
六月に実施したノース観光誘致の影響がやっぱり出ている。女性ファンが急激に増え始めたのもあの頃からだし。ファンが増えるのは喜ばしいけど、熱い視線を向けられるとどうにも困ってしまう。パトロール中やオフの日でも声掛けられることが増えた。マリオンやフェイス、ウィルを見習って上手く対応が出来るようになりたいとは思ってる。でも過去のトラウマがちらついてしまって。女性ファンの前じゃ未だに顔が引き攣っちまう。
そう考えると、穂香と付き合ってるのが奇跡なんじゃないかと思えてくる。
「兄ちゃん、なんでイーストにいるんだ?ノース担当だろ」
「お、その辺も母さんから聞いたのか?今日はオフでここに泊まりに来たんだ」
「ふーん。一人で?」
「一人じゃないぞ。彼女と一緒だ」
「へー。ラブラブってやつ?オレは母さんと父さん、それに妹と一緒」
家族でイースト旅行をしていると話してくれた。よく喋る子で、次から次へと話題が尽きない。大半がジェイの話だったけどな。【サブスタンス】の被害を受けた時に助けてもらったのがきっかけでファンになったとか。貰ったサインを大事に飾ってるとか。ジェイに憧れて将来はヒーローを目指すとも語ってくれた。
「なぁ、兄ちゃんはなんでヒーローになったんだ?」
「え…俺?……そうだなぁ。守りたい人がいるから、かな」
純粋な理由がある少年にまさか「元々ヒーローになるつもりなんてなかった」とは流石に答えられない。そんなこと言ったら夢を壊しちまうだろうし。
「それって、さっき言ってた彼女?」
「あぁ。俺にとって一番大事な人だ」
「美人?」
「美人で可愛いし、手先が器用で何でも出来ちまう」
「ふーん。オレ、知ってるよ。それってノロケってやつだろ」
こっちが素直に答えると、真顔でそう返されてしまった。俺は惚気たつもりは一切ねぇんだけどな。少年の視線が刺さるように痛い。レンにも似たような視線を向けられたことがある。もしかしたら、俺が気づかないで周囲に惚気ちまってるのかもしれない。
「ヒーローもノロケるんだな」
「そりゃあ、人間だからな。惚気けもするし、ヤキモチだって焼く。泣いたり笑ったり、怒ったり…普通の人間と変わらねぇよ」
どうもヒーローは特別な存在だと思われがちだ。もしかすると、最年少メンターの肩書きを持つマリオンみたいなイメージが強いのかもしれない。現にこの少年もそう思っているらしく、俺が言ったことに対して意外だと顔に書いてあった。
俺たちヒーローは【サブスタンス】の能力があるだけで、一般的な感情は誰でも持ち合わせてる。感情的になってぶつかり合うこともあるし。って、当事者じゃないとそういう風に思われがちなのかもな。
「そっか。…じゃあさ、泣き虫なヒーローっている?」
少し躊躇いがちに、不安そうな表情を抱えてそう訊ねてきた。青い目がどこか気まずそうに左右に揺れる。そこで俺はピンときた。
その項垂れた小さな頭に手を伸ばし、二度優しく叩いてやる。
「泣いたり怒ったりするのは相手の感情が理解できて、寄り添ってやれるってことだ。だから泣き虫でも怒りっぽくて意地っ張りでもヒーローになれるさ。大事なのは困ってる人を放っておかないってことだな。まぁ、これはヒーローに限らずだけど」
俺が教えてやれることってのはこれぐらいだ。ジェイならもう少し気の利いた励まし方をするんだろうな。
まだ少年には難しい言い回しだったのか、短い眉をぎゅっと眉間に寄せていた。と、次の瞬間には「ガキ扱いすんなっ!」ってお湯をかけられちまった。
勢いよく頭の上から結構な量のお湯を被った俺は垂れてきた前髪を片手で掻き上げる。それから口の端を上げてにやりと少年に笑いかけた。勘が良いな。報復を察知したのか、俺から距離を取り始める。そこ目掛けて掬い上げたお湯をかけてやった。加減したつもりが、ちょっと上手くいかなかったようだ。プールに飛び込んだ後みたいになってる。
「むやみやたらに悪戯を仕掛けると、やり返されるぜ……っ!?」
さっきよりも倍の湯量が波のように俺に襲い掛かってきた。派手な水音を立て、湯面が波立つ。
雫が毛先からぽたぽたと落ちていった。土砂降りに遭遇した時みたいな状況だ。両手で前髪を後ろに掻き上げ、距離を取った少年の方を見る。愉快だと言わんばかりに笑っていやがる。
「倍返しっていうセリフがあるんだぜ!」
「…倍って量じゃねぇだろこれ。……っつーことは、俺は更に倍で返してもいいってことだな?」
「なっ…大人げねぇぞ兄ちゃん!」
「最初に仕掛けてきたのはそっちだしなぁ…言い訳にはならねぇぜ?お、逃げるなら足元気をつけろよ。石でデコボコしてるし」
「にっ、逃げねぇよ!ヒーローは逃げねぇし!」
「その立ち向かう姿勢ってのは度胸があっていいな。…よーし、それじゃあコイツでどこまで飛ばせるか勝負しようぜ」
負けん気が強い性格らしい少年に俺は一つ投げかけた。その勝負を受けて立ってくれるようで、ゆっくりと警戒しながらも俺の方にすーっと近づいてくる。
俺は両手を握手の形に組んで、湯面に近づけてポンプの様にお湯を送り出す。人のいない方向に水鉄砲として飛ばして見せた。道具が無くても簡単に水を飛ばせる手法だ。これなら他の客に迷惑をかけにくい。さっきみたいにバシャバシャしてたら、露天風呂に入りたいヤツらが来られないだろうし。
ちょっと子どもっぽすぎる勝負方法だったか。またバカにすんなって怒るかなぁと少年の顔を窺うと、満更でもなかったようだ。
◇
温泉から戻って来た俺たちは旅館の周囲を散策していた。
先ずは旅館に併設された茶屋と呼ばれる和風カフェに立ち寄り、箱型の長椅子に腰掛けて外の景色を眺めながら三食団子を頂く。喉を潤す香ばしい玄米茶も苦みが少なくて飲みやすい。
茶屋の装いはまるで時代劇に出てきそうな造りそのもので、舞台セットからそのまま持ってきたんじゃないかって思うほどのクオリティだ。古びた感じも情緒があっていい。
「時代劇に出てくるお茶屋さんみたいで本格的よね」
「ああ。まるで自分が役者にでもなった気分がするし、テンション上がってくるな」
「…そういえば、露天風呂でだいぶ盛り上がってたみたいね」
さっき露天風呂で少年とはしゃいでいた声がどうやら隣にまで響いていたようだ。水鉄砲合戦が思いの外白熱しちまって、上せる直前まで遊んでいた。俺の顔に当ててきたり、必殺技を編み出したりとかで楽しそうにしてたなぁ。
こっちはワイワイ楽しんでたわけだけど、その声がうるさかったんじゃないかと訊けば穂香は首を横に振ってみせた。
「随分楽しそうだなぁって。他のお客さんも怒ってなかったし。ガストって年下の子に好かれやすいわよね」
「んー…なんでだろうなぁ。昔からそんな感じだ。妙に懐かれるというか」
「面倒見が良いからよ、きっと。私もガストみたいなお兄ちゃんいたらなぁ…って思ったことあるもの。優しいからついつい甘えちゃう。こっち来てから世話かけっぱなしだったし」
穂香は「世話焼きのガストね」と笑った。湯呑みの玄米茶を啜り、その手を膝に下ろす。
風邪を引いて体調を崩した時や、遊びに行きたいから遠出に付き合ってくれとか、ご機嫌に酔ってフラフラな時は家まで送っていったこともある。デザインのラフ画を見せられて、品評を頼まれたこともあったな。言われてみれば確かに世話焼きな気がしてきた。無意識に手を差し伸べちまうんだよなぁ。
「私が困ってたら必ず手を差し伸べてくれて、その度に頼りになる人だなぁって思ってた。欲しい言葉をくれたのもガストだけだったし…ホントにありがと」
「これからも頼ってくれよ。むしろ全力で甘えてくれていいぜ」
「…これ以上甘えたらガスト依存症になりそう」
「俺はそれでも構わないんだけどな?…俺はとっくに穂香に依存してるし、掛け替えのない存在だ。正直ここまでのめり込むとは自分でも思ってなかった」
好きって気持ちが溢れすぎて、どうしようもない時が日々増えていく。
朝が来ても腕にずっと抱きしめていたい日もあるし、買い物に行ってもあれ穂香が好きそうだなぁとか、似合うだろうなぁとかばっかり考えてしまう。
それでも、任務中はしっかり気持ちを切り替えているつもりだ。そうじゃなきゃマリオンから鞭が飛んでくる。
この間なんかはラテアートが上手くいったヤツを写真に撮って送って、褒められて上機嫌でいた所を「随分とご機嫌ですね」と普段は突っ込んでこないドクターに笑われたし。
こんな風になってんの、俺だけかと話していたら。そうでもないようだ。
「私もつい考えちゃうのよね。新しいデザイン考えてる時、方向性もジャンルも全く違うのにガストに合いそうな形や色で描いちゃう。それでボツになったデザイン結構あるのよ」
「そ、それは…なんか仕事にまで影響出てて悪ぃ気がするな」
「大丈夫よ。いいデザインはそのまま企画に上がるし、駄目だったやつも今後の参考にしてるから」
お茶を飲み干した穂香は空になった皿と湯呑みをお盆に乗せ、茶屋の奥に下げに行った。
間もなくして戻って来た彼女はどこか上機嫌。俺の手を取って「向こうの方に行ってみましょ」と庭園の方に誘う。俺はその手を繋ぎ直して、砂利道をざくざくと進んでいった。
少し歩いていくと、四方が濃い緑に囲まれた。日向よりもひんやりと涼しくて気持ちがいい。
松や椿の低木、見たことがない赤い花も咲いてる。日本に自生する雑木が植えられている。竹も生えてるし、ここいら一帯も手入れが行き届いていた。流石、自慢だと言っていただけあるな。
ふと、小鳥の鳴き声がしたからそっちに目を向けると、小柄な鳥が枝にとまっていた。枝から枝をピョンピョンと跳び移っていく。俺の視線に気づくと慌てて飛び立っていった。
「自慢って言ってただけあるなぁ。ホントに日本に来たのかと錯覚しちまいそうだ」
「ええ。静かで鳥や水の音も心地が良い」
流れが緩やかな川に架かったアーチ形の石橋。そこを渡る途中、川から繋がった池を覗き込んだ穂香が「コイがいる」と明るい声を上げた。
「うぉ…デカいコイだな。何食ったらこんなにデカくなるんだ」
「観光客に餌沢山貰ってるのかも」
「日帰りオッケーだもんな、ここ。それだけ人も来るってことだし、食いっぱぐれる心配がねぇってことか」
白い体に赤や黒の斑模様。大きなコイは尾びれを左右にくねらせて、ゆったりと泳いでいた。予想通り腹が膨れているからか、俺たちには見向きもせずに橋の下をくぐっていく。
石橋の上から池を覗き込む俺たちの並んだ顔が水面に映りこんでいた。
水の流れる音、鳥や虫の声。俺たちは暫くの間、草木の囁く声に目を閉じて耳を傾けていた。心地よい風が吹いている。
風の流れを気にするようになったのは、いつからだったか。会得した【サブスタンス】の影響もあり、風向きや気圧の変化を読めるようになった。風を感じることが出来る。いつかそう話したら「風使いは伊達じゃないわね」と褒められてくすぐったかったな。
それでも自分で風を自由に操られても、やっぱり自然に吹く風を肌に感じるのが好きだ。
「ガストの側はいつもいい風が吹いている気がする」
「俺が風の【サブスタンス】持ってるせいだろうな。無意識に風を集めちまってるのかも」
石橋の手摺に手を置いていた穂香は向こう側の水面を眺めていた。
コイが一匹、尾びれをパシャと水面に叩きつける。波紋がじわじわと広がっていく。
「んー…そうかしら。ずっと前からな気がする。いつだったか、日陰にいるガストの側に立ったらとても涼しい風が吹いてきたことがあったし。いつも風を纏っている気がして。そのせいか、ガストが側にいて暑苦しいって感じたことなかったかも」
ふわりと微笑んできた表情につい、見惚れた。何度見ても慣れないというか、ドキドキする。笑った顔はどれも好きだけど、特にこの表情が好きだ。きっと何年経っても胸に刺さるんだろうな、この感情。
「不思議よね。夏は涼しいと感じるし、冬はほんのり温かい気がする。いつも丁度良い温度で接してくれた。ガストの人となりがそうしてるのかも。だから、気の置ける友達としてずっといられたのかもね」
「俺としてはいつも高めの熱量向けてたはずなんだけどなぁ…丁度いい温度かぁ」
空回りし続けていたあの頃。俺にとっては精一杯の主張だった。やっぱ人間、言葉にしないと伝わらないモンなんだと痛感した。
俺が大袈裟なまでに溜息をついてみせると、ふいっと気まずそうに目を逸らされる。意外と気にしてることだったのかもな。
「…だからゴメンって。私、好きな物に一点集中して夢中になっちゃうのよ」
「分かってるって。穂香は集中すると周りが見えなくなるタイプだってこと。でも、それは良く言えば一途ってことだし…つまりだ、今は俺にそれが全部向いてるってことだろ?独り占めできてるってのは結構いい気分だ」
「……嬉しそうに笑っちゃって」
「ああ、嬉しいに決まってる。…自分の誕生日に最愛の彼女と二人きりで過ごせてるんだ。この上なく幸せだぜ」
伸ばした指先に触れた髪がほんの少し湿っていた。頬に触れたくて、指を滑らせると湯上りの時みたいに紅が差す。
顔を近づけようとした時だ。何処からか、声が聞こえてきた。しくしくと泣く、子どもの泣き声が。
「な、泣き声……聞こえる、よな?」
「…うん。女の子の」
涼風が一転、嫌な冷たさに変った気さえした。俺たち以外に他の客の姿は見ていない。それでも軽く辺りを見渡しみる。石橋を渡った先に古びた井戸を見つけてしまった。途端にあるホラー映画のシーンが思い出される。白い着物姿の女の人が、長い黒髪を垂らして井戸から這い上がってくるヤツだ。それの子どものパターンなのかと固唾を飲む。
「……井戸から出てくるとか?」
「ちょ、ちょっと…怖いこと言わないでよ。そんな噂、何も聞いてない」
俺の袖をぎゅっと掴んできた穂香の顔が曇っていく。
すすり泣いていた女の子の声が、泣き叫ぶものに変わった。わんわんと泣くその声は紛れもなく人間のものだ。幽霊とかお化けの類じゃない。多分。
俺はその声を頼りに、穂香の手を引きながら橋の向こう側を探し歩く。すると、井戸の側にある大木の裏側に小さな女の子がうずくまっていた。両膝を抱えて泣き続けるその子の側に俺はしゃがみ込んだ。
「どうしたんだ?転んでケガしちまったか」
「っ…ひっく……にーちゃ」
大きな目にこれまた大粒の涙を溜めて、何かを訴えてくる。膝や腕とかに擦りむいた形跡は無い。と、なると子どもが泣き叫ぶ理由に思い当たるのはあれだ。
「迷子になっちゃったのか?」
小さな頭を縦に振った。迷子だと自分で認めてくれる。この素直さを同期にも少し分けてほしいぐらいだ。
泣きじゃくっていた女の子の頭を穂香が優しく撫でていた。少し落ち着いたのか、小さな手で涙を拭おうとする。
「どっちから歩いてきたか、わかるか?」
「……あっち。トンボ、おいかけてたら…おにーちゃんいなくて」
俺の側でトンボが一匹、空中で静止していた。かと思えばそいつはすぃーっと池の方に飛んでいく。小さい子って蝶やトンボを夢中で追いかけることがあるからなぁ。余所見してたら、いつの間にかいなくなっちまうことも多い。俺も目をちょっと離した隙に妹がいなくなることあったから、手が離せずにいた。
「お兄ちゃんとはぐれちゃったのね。ガスト、一緒に探してあげましょ」
「ああ。この子が来た道を辿ってけば兄貴か親がいるだろうし。よし、兄ちゃんたちが連れてってやるからな。怖がらなくていいぞ」
わしゃわしゃと柔らかい髪を撫で、女の子に笑いかける。この深い青い目、どこか見覚えがある気もした。ついさっき見たような。
「このお兄ちゃん、ヒーローだから安心していいわよ」
「ヒーロー…?…ジェイ?」
「んー…残念ながらジェイじゃないんだよなぁ」
今日はやけにジェイの話題が出てくる。それだけ子どもたちのヒーロー像なんだろう。
手を差し出すと、小さな手が重ねられた。その手を掴んで、ゆっくり立ち上がらせる。そして女の子が来たという方向に歩き出した。
一人ぼっちで相当心細かったんだろう。ぎゅっと手を握ってくる。
「ジェイが好きなヒーローなのか?」
「……おにいちゃんが、すき」
「そっかぁ。兄ちゃんがジェイ好きなんだな」
もしかしてとさっきの少年の顔が過った。妹がいるって言ってたし、この子がそうなんじゃないだろうか。名前聞いておけばよかったな。そうすりゃ探しやすかったかもしれないし。
歩き出してそう何分も経たずに、前方から子どもが何かを叫ぶ声が聞こえてきた。名前を叫んでる。その声を聞いた女の子がバッと顔を上げて「おにーちゃん!」と大きな声で応えた。
その少年の姿が見えると、俺の手を振り払って一目散に走り寄る。途中で躓いて、転びそうになったのを間一髪の所で少年が受け止めた。やっぱり、さっき露天風呂で会った子だ。
浴衣がだいぶ乱れているし、髪もぼさぼさだ。走り回って妹を必死に探していたんだろうな。
「…ばかっ!勝手にどっか行ったらダメだろ!」
「っ…ごめんなさい…」
「池に落っこちたらどうするんだ!おぼれちゃうんだぞ!」
妹をぎゅっと抱きしめながら、𠮟りつけている。叱られた妹の方はまた涙ぐみそうになっていた。でも、それだけ心配されている。兄貴なりの優しさなんだよな。
無事に迷子を送り届けられて、俺たちもほっとしていた。
「良かったな、兄ちゃんと会えて」
「もう一人で歩き回っちゃだめよ。ちゃんとお兄ちゃんについていかなきゃ」
女の子は大きく頷いて、少年の浴衣の衿にしがみついていた。
少年がこっちに目を向けるが、どことなくバツが悪そうだ。さっき露天風呂で騒いでたせいで親に怒られちまったのかもな。
「…妹、助けてくれてサンキュー。…ほんとに、ありがと」
「おぅ。気にするなって。小さい子はすぐどっか行っちまうから、気をつけろよ」
「わかった」
少年は女の子の手をぎゅっと握り、頭を一度下げてから踵を返した。そのまま真っすぐ行くのかと思えば、急にこっちに振り返ってこう叫んでくる。
「あんたのこと、ジェイの次に推してやってもいいぜ!」
一番は譲らないという意思が強く込められていた台詞。ランク外だった順位が一気に二番まで上がったんだから、言うことなしだ。
小さな兄妹の後ろ姿を微笑ましく見守っていた穂香がくすりと笑った。
「やっぱり年下に好かれてる。お兄ちゃん気質よね」
「それもよく言われる。…小さくなくてもすぐどっか行っちまうヤツがいるから。気が抜けないんだよなぁ」
「世話焼きお兄ちゃんね。今日は疲れを取るためにもゆっくり過ごしましょ」
暮れゆく空が茜色に染まり始めていた。完全に日が落ちてしまう前に、部屋に戻ろうかと手を繋ぎ直す。
◇
『ニューミリオンで最高の日本を体験できます』
そう謳われた広告をどこかで見かけたことがあった。雑誌か、それとも駅構内の広告かは思い出せない。リトルトーキョーの郊外に建てられているおかげで、温泉旅館までの交通機関が整備されていた。観光客にも人気の場所らしく、歴史も古くて温泉と庭園、料理も自慢だとか。
俺たちは夏の名残を感じる時季にそこに訪れていた。
いざその旅館を前にした時は老舗旅館の風貌に感動して、思わずため息が出た。テレビや雑誌でしか見たことがない建物が目の前にあるんだ。周辺の庭木もしっかり手入れが行き届いているし、余念が無い。ウィルがこの風景見たら同じように感動するかも。俺は旅館全体の写真を一枚収めておいた。土産話が早速一つ出来たな。
「穂香。あとで旅館の前で一緒に撮ろうぜ」
「いいわよ。浴衣着てからにしよっか、折角だから」
旅館のフロントでチェックインを済ませ、板張りの廊下を渡っていく。所々軋む音を立てながら角を曲がると、途中でデカい石をメインにレイアウトを組んだ庭が見えてきた。半紙に墨で『Do not enter』と書かれた張り紙が柱に貼られていた。達筆だ。どうやらこの庭は目で見て楽しむだけのものらしい。確か、枯山水っていう名称だったかな。白砂が敷き詰められていて、そこに水面の様子が描かれている。水を使わずに表現した一種のアートみたいなもんだよな。どことなく厳かな雰囲気が漂う。
その枯山水を横切り、仲居さんに案内されたのは松の間と名前がついた部屋。
真新しい畳の匂い。和で統一された家具と装飾。床の間に掛軸もある。部屋の壁は白壁で、柱や窓のフレームも日本家屋っぽい造りになっていた。雑誌で見たまんまの光景だ。
部屋の広さはノースの共用リビングほどあって、部屋の中央に低めの四角いテーブルと座布団が二枚向かい合わせに置かれていた。
光が差し込んでくる大きな窓の前に小さなテーブルと二人掛けの椅子。このスペースは広縁だと仲居さんが室内の説明と一緒に教えてくれた。小さな日本庭園をそこで楽しめるそうだ。
仲居さんが一通り説明を終えた後も、室内をウロウロとしていた。掛軸に涼し気な清流と金魚が三匹描かれている。
「そこまではしゃいでもらえると、連れてきた甲斐があるわ」と穂香に笑われてしまった。これじゃあお上りさんだな。俺は首に軽く手を当て、照れ笑いを浮かべてみせる。
「フロントで先に用事済ませてくるから、部屋で寛いでて」と穂香が俺に声を掛けて部屋を後にした。
一人部屋に残された俺は改めて和室を見渡す。これだけ広々とした部屋ならのびのび過ごせそうだ。天井も高いから頭をぶつける心配も要らないな。日本の家屋は日本人に合わせた造りになっていたから、天井が低かった。なんなら玄関で額をぶつけたし。うっかりいつもの調子で部屋を移動しようとすると、その度にぶつかりそうになったから、中腰でいるのが結構辛かったな。
座布団に腰を下ろし、テーブルに両肘を置く。前方の壁際に行灯があった。あれがランプの代わりだな。床の間の掛軸と活けられた季節の花が調和されてるというか、いい感じだな。この部屋には日本文化がぎゅっと詰め込まれていた。
視界に入る物全てが新鮮で、異国に旅に出た感じがして気分も上がってくる。
漆塗りのお盆に急須と湯呑み、茶葉が入った筒。その傍らに茶色い温泉饅頭が二つ添えられている。饅頭は温泉に行く前にお召し上がりくださいという説明。数日前にジェイから聞いた話と一致していた。
旅館の部屋に置かれているお菓子は言わばウエルカムスイーツというヤツで、日本での呼び方が「お着き菓子」だ。温泉に入る前に血糖値を上げておかないと、失神や立ち眩みを引き起こしてしまう可能性がある。だから、旅館に着いたらまず甘い物を食べておいた方がいいらしい。
穂香が戻ってきたら先ずはお茶で一服しよう。今日と明日、時間はたっぷりあるんだし。ゆっくり過ごして日常の疲れを癒すってのも悪くないだろう。誕生日なら尚更だ。
そうとなればお湯を沸かさないとな。黒い電気ケトルに水を入れてセットし、急須や湯呑みを出してお茶の準備を整えておいた。
室内の置時計が静かに時を刻む。
フロントがチェックインで混雑する時間帯になってきたのか、穂香が中々戻って来ない。いよいよ手持無沙汰になった俺は部屋の中をまたうろつくことにした。
襖のお洒落な透かし引手に指を引っ掛けて中を覗く。畳んだ布団と予備の座布団が積んであった。青い猫型ロボットはここで寝ていたんだっけか。押し入れで寝るっていう発想がロマン溢れてるよなぁ。
次にその隣にある木戸を手前に引いた。そこはクローゼットになっていて、ハンガーラックと麻のカゴが置いてある。中にはきっちりと畳まれた浴衣が入っていた。旅館の近辺施設までなら浴衣を着て出歩いていいって言ってたし、先に浴衣を着て待ってるのもアリだな。浴衣を着るのは二回目だし、男物なら着付けも簡単なはず。
俺は早速浴衣に着替えることにした。落ち着いた灰色の浴衣を広げ、両袖を通す。左右の前見頃を身体に巻き付けるようにして、紺色の帯をぐるっと腰に回して後ろでそれとなく結ぶ。夏祭りで着付けて貰った時はこんな感じだったはず。クローゼットの扉裏側の鏡に全身を映し出して、偏った衿を引っ張って直し、後ろ髪をヘアゴムで括る。暑さで蒸れていた首筋がこれで快適になった。
早く穂香戻って来ねぇかな。「一人で着付け出来るようになったの?すごいわね」と驚く彼女を思い浮かべていた。その時にドアロック解除の音が聞こえたから、入口まで軽い足取りで出迎えにいった。
靴を脱ぐ途中、浴衣姿に気づいた穂香が目を丸める。
「お帰り」
「ただいま…って、もう浴衣に着替えてたの」
「あぁ。何となく着付けも分かってたし、自分でやってみたんだけど。どうだ?」
腕を組んだ時に袖で両手が隠れた。こういう部分も浴衣は粋だよな。
穂香の視線が俺の首元から膝下まで動く。「ホント、何色着せても似合うわよね」と呟いた声が聞こえてきた。が、その目は仕事モードに思えたのは気のせいじゃない。僅か数秒、俺の首元に目が留まった。
「似合ってるし、サイズも丁度いいんだけど…」
「…けど?」
「衿の合わせが縁起でもないことになってる。直してもいい?」
穂香が両手で自分の衿もとをなぞるように示す。どうやら変な所はそこだけらしい。でも、縁起でもないってどういうことだ。
クローゼットの鏡前に立たされ、隣に並んだ穂香と鏡越しに目が合った。
「今の状態だと左の衿が下になってるでしょ?これだと死んだ人が着る死装束になっちゃうの」
「…そいつは笑えないぐらい縁起でもねぇな。衿の合わせ方が違うだけで意味が変わっちまうのか?」
「パッと見じゃ分かりにくいわよね。そこが和服の難しい所。帯、一旦解くわね」
うっかりこの格好で出歩いてたら恥をかくところだった。穂香が指摘してくれたのはいいけど、割と苦労して結んだ帯があっけなく解かれてしまう。その解いた帯を腕に引っ掛け、浴衣の衿をピッと伸ばす。ここまで顔色一つ変えずに直していくモンだから、仕事モードのスイッチ入ってるんだろうなぁ。こっちは肌着の状態だってのに。
穂香が浴衣の前身頃を持ちながら俺の顔を見上げてきた。
「浴衣や着物の衿は自分から見て右側が下、左側が上にくるようにする。右とか左とかややこしいって顔してるわね」
「ややこしいよな」
「右手がすっと懐に入る形になってればオーケー。これならどう?」
「…なるほど!」
「私もお正月に手伝った時にそう教わったの。それと、こういう旅館で着る浴衣の帯は前で結んでもいいのよ」
衿を正しく合わせた後に帯をぐるっと腰に回して、斜め前できゅっと蝶々結びにされた。前の方で結んでいいなら簡単で助かる。
「はい完成」と胸元をポンっと触れる程度に叩かれた。にっこりと笑う彼女に釣られ、俺の口角も自然に持ち上がる。
「ありがとな、穂香。おかげで恥かかずに済んだし、浴衣の着付けはこれでバッチリ覚えたぜ」
「どう致しまして。私も着替えちゃおうかな」
「ああ、いいと思うぜ。俺はその間にお茶を淹れておくからさ。お湯も沸いたみたいだし、お着き菓子で一服してから温泉に行こうぜ」
女性用の浴衣をクローゼットから取り広げた穂香が「お着き菓子?」と首を傾げた。座卓に用意された饅頭を見て、それのことかと訊いてくる。これはお着き菓子と言って、旅館からのおもてなしだとジェイからの受け売りを話した。
「へぇ…それ、お着き菓子って言うのね。初めて正式名称聞いた。なんだか最近はガストの方が日本文化に詳しい気がしてきた」
「受け売りの知識も多いけどな。でも知らないからこそ、詳しく調べたり聞いたりしようって感じだったな。好きな子の故郷のことなら特に」
穂香と出逢ったばかりの頃、共通の話題が欲しくて日本のことをよく調べていたっけ。必死になっていたあの頃も懐かしいけど、今も知らないことを一つ知る度に勉強になっている。おかげで、話題の引き出しが多いって言われるし。
昨日あったことを話のネタに、雑談を交えながらお茶の準備を進めることにした。ケトルからお湯を急須に注いで、じんわりと温まるのを待つ。湯呑みにそのお湯を注ぎ回そうとした所で、浴衣に着替え終えた穂香が隣に座ってきた。
「こだわった淹れ方知ってるのね」
「こうすることで急須と湯呑みが温まるし、お湯の温度も丁度良くなるんだよな。それに緑茶の甘みが増す…って話だ」
「へぇ…ガストなら緑茶カフェも開けそう。イケメンウェイターで一躍人気者に…ってもうなってたわね」
「…あはは。女性客への対応がまだ自信ねぇからなぁ」
「そういえばこの間のうっかり投稿、大丈夫だったの?」
「……大変だった」
先々週、ダーツバーに集合っていう仲間宛てのメッセージを全体公開にしてしまったばかりに、各方面からお叱りが飛んでくる始末になった。メンターリーダーからは説教を受けるし、マリオンからは自分で丁重に対応しろって言うし。馴染みのダーツバーに迷惑かけちまったし、押し寄せてきた女性ファンの対応が一言で表せないぐらい大変だった。一緒にいた仲間にも手伝ってもらって、なんとかその場を治められたから良かったけど。写真撮ってもいいですか、サインくださいとか、ダーツ投げる所見ててもいいですかとか。その日のスコアがボロボロだったのは言うまでもない。
「今日はファンに目付けられないといいわね。誕生日くらいゆっくり過ごしたいだろうし」
「…イーストだし、多分大丈夫だろ。囲まれるのは勘弁だ…それに穂香に迷惑かけちまうのだけは避けたい」
「私は別に、いいけど。…まぁ、少し焼いちゃうかも」
そう言って、茶葉の筒を掴んだ彼女の口元はへの字に少し曲がっている。それに対して急に愛おしいというか、キュンっとなったというか。焼いてくれたのが嬉しくて、顔が緩んでいった。
「…何笑ってるのよ。余所見してると火傷するわよ」
「焼いてくれたのが嬉しくて…つい。そうだ、一服して温泉入った後はどうする?」
茶葉を淹れた急須に湯呑みのお湯を戻し、蓋をする。因みに、お茶の美味い淹れ方はブラッドが直々に教えてくれた。他にも色々と作法を教えてくれたから、この旅行で活かす場面が出てくるかも。
「庭園の散歩にでも行かない?自慢の日本庭園だって言ってたし」
「いいな。確か旅館の近くにカフェみたいな場所あったよな。そこにも行ってみようぜ」
「うん。今日は散策メインでもいいかもね。でもガストの希望は勿論聞くわよ。本日の主役なんだし」
急須の蓋に手を添えて緑茶を注ぐ。香しく、透き通るグリーンの水面に茶柱が立った。吉兆の現れに俺は目を細め、茶柱の立った湯呑を穂香の前に置く。
「ありがと。…あ、茶柱立ってる」
「お、縁起が良いなぁ。何か良いことあるかも。…俺は穂香と一緒ならどこでもいいぜ。二人でならなんだって楽しめるから」
こうして喋りながらお茶を飲む時間もずっと続けばいいのにって思うぐらいだ。いっそ時が止まってしまえばいい。そう考えることもあるけど、それだとこの先にある楽しみが無くなっちまう。だから、一緒に過ごす時間を大事にしていきたいと考えていた。
◇
広々とした湯船がこんなにいいモンだとは考えたことも無かった。特に露天風呂の開放感は最高だ。
少し熱めの湯、サラッとした湯触り、温泉独特の匂い。揺らめく白い湯煙の間から眺める緑と、顔に受ける風が気持ち良かった。
露天風呂から見える庭園には添水がどこかにあるらしく、石を叩くコンッという小気味よい響きも聞こえてくる。一足早く秋の虫も鳴いているようだ。
湯船に浸かると身体の疲れが解れるぞって言ってたのは本当だった。溶けるように疲れが抜けていく気がする。普段はシャワーで済ませることが多い。週一くらいで湯船に浸かるのも悪くないかもなぁ。それか、日帰りで来るのも良さそうだ。ここじゃなくても、アキラが前にサウスのヤツらと行った所でもいいかも。
自然の音に耳を傾けているうちに目を瞑っていた。寝落ちしないように気を付けねぇと。そんな心地良い感覚に浸っていると、湯面の揺れと人の気配を感じた。
その方向を見ると、十歳くらいの男の子がじーっと俺の顔を見つめていた。何か用があるでもなく、ただこっちを見てくる。
「どうしたんだ?」
「……」
「俺の顔に何かついてるか?」
俺の方から話しかけてやると、その子がずいっと距離を詰めてきた。穴が空きそうなぐらいに青い目で見てくる。「やっぱりそうだ」とようやく口を開いた。
「あんた、ヒーローだろ」
「あ、あぁ…そうだけど。……サインなら後で」
「いらない」
「要らないのかよ」
俺にもちびっ子のファンが増えたのかと思いきや、即答で断られちまった。
「だってオレの推しヒーロー、ジェイだし」
「…そっかぁ。やっぱすげぇなぁジェイは。俺なんか足元にも及ばないぜ」
「あったり前だろ!ジェイはすごいんだぜ」
ジェイの武勇伝を突如語り始めた少年の目はキラキラと輝いていた。この感じ、なんだか昔のアキラに良く似ている。
俺はその子の話をうんうんと頷きながら聞いていた。
「ジェイのことよく知ってるんだな。流石ファンだ。でも、それならなんで俺のことなんか知ってたんだ?」
「オレの母さんが兄ちゃんのファンなんだ。カッコいいって言ってた。あんまり夢中になってるから父さんがヤキモチやいてる。オレはジェイの方がカッコいいと思うんだけどな」
「なるほどな。じゃあ、俺と会ったことは内緒にしておいた方がいいかも。親父さんが焼いちまうだろうし」
「うん。ぜったい言わない」
六月に実施したノース観光誘致の影響がやっぱり出ている。女性ファンが急激に増え始めたのもあの頃からだし。ファンが増えるのは喜ばしいけど、熱い視線を向けられるとどうにも困ってしまう。パトロール中やオフの日でも声掛けられることが増えた。マリオンやフェイス、ウィルを見習って上手く対応が出来るようになりたいとは思ってる。でも過去のトラウマがちらついてしまって。女性ファンの前じゃ未だに顔が引き攣っちまう。
そう考えると、穂香と付き合ってるのが奇跡なんじゃないかと思えてくる。
「兄ちゃん、なんでイーストにいるんだ?ノース担当だろ」
「お、その辺も母さんから聞いたのか?今日はオフでここに泊まりに来たんだ」
「ふーん。一人で?」
「一人じゃないぞ。彼女と一緒だ」
「へー。ラブラブってやつ?オレは母さんと父さん、それに妹と一緒」
家族でイースト旅行をしていると話してくれた。よく喋る子で、次から次へと話題が尽きない。大半がジェイの話だったけどな。【サブスタンス】の被害を受けた時に助けてもらったのがきっかけでファンになったとか。貰ったサインを大事に飾ってるとか。ジェイに憧れて将来はヒーローを目指すとも語ってくれた。
「なぁ、兄ちゃんはなんでヒーローになったんだ?」
「え…俺?……そうだなぁ。守りたい人がいるから、かな」
純粋な理由がある少年にまさか「元々ヒーローになるつもりなんてなかった」とは流石に答えられない。そんなこと言ったら夢を壊しちまうだろうし。
「それって、さっき言ってた彼女?」
「あぁ。俺にとって一番大事な人だ」
「美人?」
「美人で可愛いし、手先が器用で何でも出来ちまう」
「ふーん。オレ、知ってるよ。それってノロケってやつだろ」
こっちが素直に答えると、真顔でそう返されてしまった。俺は惚気たつもりは一切ねぇんだけどな。少年の視線が刺さるように痛い。レンにも似たような視線を向けられたことがある。もしかしたら、俺が気づかないで周囲に惚気ちまってるのかもしれない。
「ヒーローもノロケるんだな」
「そりゃあ、人間だからな。惚気けもするし、ヤキモチだって焼く。泣いたり笑ったり、怒ったり…普通の人間と変わらねぇよ」
どうもヒーローは特別な存在だと思われがちだ。もしかすると、最年少メンターの肩書きを持つマリオンみたいなイメージが強いのかもしれない。現にこの少年もそう思っているらしく、俺が言ったことに対して意外だと顔に書いてあった。
俺たちヒーローは【サブスタンス】の能力があるだけで、一般的な感情は誰でも持ち合わせてる。感情的になってぶつかり合うこともあるし。って、当事者じゃないとそういう風に思われがちなのかもな。
「そっか。…じゃあさ、泣き虫なヒーローっている?」
少し躊躇いがちに、不安そうな表情を抱えてそう訊ねてきた。青い目がどこか気まずそうに左右に揺れる。そこで俺はピンときた。
その項垂れた小さな頭に手を伸ばし、二度優しく叩いてやる。
「泣いたり怒ったりするのは相手の感情が理解できて、寄り添ってやれるってことだ。だから泣き虫でも怒りっぽくて意地っ張りでもヒーローになれるさ。大事なのは困ってる人を放っておかないってことだな。まぁ、これはヒーローに限らずだけど」
俺が教えてやれることってのはこれぐらいだ。ジェイならもう少し気の利いた励まし方をするんだろうな。
まだ少年には難しい言い回しだったのか、短い眉をぎゅっと眉間に寄せていた。と、次の瞬間には「ガキ扱いすんなっ!」ってお湯をかけられちまった。
勢いよく頭の上から結構な量のお湯を被った俺は垂れてきた前髪を片手で掻き上げる。それから口の端を上げてにやりと少年に笑いかけた。勘が良いな。報復を察知したのか、俺から距離を取り始める。そこ目掛けて掬い上げたお湯をかけてやった。加減したつもりが、ちょっと上手くいかなかったようだ。プールに飛び込んだ後みたいになってる。
「むやみやたらに悪戯を仕掛けると、やり返されるぜ……っ!?」
さっきよりも倍の湯量が波のように俺に襲い掛かってきた。派手な水音を立て、湯面が波立つ。
雫が毛先からぽたぽたと落ちていった。土砂降りに遭遇した時みたいな状況だ。両手で前髪を後ろに掻き上げ、距離を取った少年の方を見る。愉快だと言わんばかりに笑っていやがる。
「倍返しっていうセリフがあるんだぜ!」
「…倍って量じゃねぇだろこれ。……っつーことは、俺は更に倍で返してもいいってことだな?」
「なっ…大人げねぇぞ兄ちゃん!」
「最初に仕掛けてきたのはそっちだしなぁ…言い訳にはならねぇぜ?お、逃げるなら足元気をつけろよ。石でデコボコしてるし」
「にっ、逃げねぇよ!ヒーローは逃げねぇし!」
「その立ち向かう姿勢ってのは度胸があっていいな。…よーし、それじゃあコイツでどこまで飛ばせるか勝負しようぜ」
負けん気が強い性格らしい少年に俺は一つ投げかけた。その勝負を受けて立ってくれるようで、ゆっくりと警戒しながらも俺の方にすーっと近づいてくる。
俺は両手を握手の形に組んで、湯面に近づけてポンプの様にお湯を送り出す。人のいない方向に水鉄砲として飛ばして見せた。道具が無くても簡単に水を飛ばせる手法だ。これなら他の客に迷惑をかけにくい。さっきみたいにバシャバシャしてたら、露天風呂に入りたいヤツらが来られないだろうし。
ちょっと子どもっぽすぎる勝負方法だったか。またバカにすんなって怒るかなぁと少年の顔を窺うと、満更でもなかったようだ。
◇
温泉から戻って来た俺たちは旅館の周囲を散策していた。
先ずは旅館に併設された茶屋と呼ばれる和風カフェに立ち寄り、箱型の長椅子に腰掛けて外の景色を眺めながら三食団子を頂く。喉を潤す香ばしい玄米茶も苦みが少なくて飲みやすい。
茶屋の装いはまるで時代劇に出てきそうな造りそのもので、舞台セットからそのまま持ってきたんじゃないかって思うほどのクオリティだ。古びた感じも情緒があっていい。
「時代劇に出てくるお茶屋さんみたいで本格的よね」
「ああ。まるで自分が役者にでもなった気分がするし、テンション上がってくるな」
「…そういえば、露天風呂でだいぶ盛り上がってたみたいね」
さっき露天風呂で少年とはしゃいでいた声がどうやら隣にまで響いていたようだ。水鉄砲合戦が思いの外白熱しちまって、上せる直前まで遊んでいた。俺の顔に当ててきたり、必殺技を編み出したりとかで楽しそうにしてたなぁ。
こっちはワイワイ楽しんでたわけだけど、その声がうるさかったんじゃないかと訊けば穂香は首を横に振ってみせた。
「随分楽しそうだなぁって。他のお客さんも怒ってなかったし。ガストって年下の子に好かれやすいわよね」
「んー…なんでだろうなぁ。昔からそんな感じだ。妙に懐かれるというか」
「面倒見が良いからよ、きっと。私もガストみたいなお兄ちゃんいたらなぁ…って思ったことあるもの。優しいからついつい甘えちゃう。こっち来てから世話かけっぱなしだったし」
穂香は「世話焼きのガストね」と笑った。湯呑みの玄米茶を啜り、その手を膝に下ろす。
風邪を引いて体調を崩した時や、遊びに行きたいから遠出に付き合ってくれとか、ご機嫌に酔ってフラフラな時は家まで送っていったこともある。デザインのラフ画を見せられて、品評を頼まれたこともあったな。言われてみれば確かに世話焼きな気がしてきた。無意識に手を差し伸べちまうんだよなぁ。
「私が困ってたら必ず手を差し伸べてくれて、その度に頼りになる人だなぁって思ってた。欲しい言葉をくれたのもガストだけだったし…ホントにありがと」
「これからも頼ってくれよ。むしろ全力で甘えてくれていいぜ」
「…これ以上甘えたらガスト依存症になりそう」
「俺はそれでも構わないんだけどな?…俺はとっくに穂香に依存してるし、掛け替えのない存在だ。正直ここまでのめり込むとは自分でも思ってなかった」
好きって気持ちが溢れすぎて、どうしようもない時が日々増えていく。
朝が来ても腕にずっと抱きしめていたい日もあるし、買い物に行ってもあれ穂香が好きそうだなぁとか、似合うだろうなぁとかばっかり考えてしまう。
それでも、任務中はしっかり気持ちを切り替えているつもりだ。そうじゃなきゃマリオンから鞭が飛んでくる。
この間なんかはラテアートが上手くいったヤツを写真に撮って送って、褒められて上機嫌でいた所を「随分とご機嫌ですね」と普段は突っ込んでこないドクターに笑われたし。
こんな風になってんの、俺だけかと話していたら。そうでもないようだ。
「私もつい考えちゃうのよね。新しいデザイン考えてる時、方向性もジャンルも全く違うのにガストに合いそうな形や色で描いちゃう。それでボツになったデザイン結構あるのよ」
「そ、それは…なんか仕事にまで影響出てて悪ぃ気がするな」
「大丈夫よ。いいデザインはそのまま企画に上がるし、駄目だったやつも今後の参考にしてるから」
お茶を飲み干した穂香は空になった皿と湯呑みをお盆に乗せ、茶屋の奥に下げに行った。
間もなくして戻って来た彼女はどこか上機嫌。俺の手を取って「向こうの方に行ってみましょ」と庭園の方に誘う。俺はその手を繋ぎ直して、砂利道をざくざくと進んでいった。
少し歩いていくと、四方が濃い緑に囲まれた。日向よりもひんやりと涼しくて気持ちがいい。
松や椿の低木、見たことがない赤い花も咲いてる。日本に自生する雑木が植えられている。竹も生えてるし、ここいら一帯も手入れが行き届いていた。流石、自慢だと言っていただけあるな。
ふと、小鳥の鳴き声がしたからそっちに目を向けると、小柄な鳥が枝にとまっていた。枝から枝をピョンピョンと跳び移っていく。俺の視線に気づくと慌てて飛び立っていった。
「自慢って言ってただけあるなぁ。ホントに日本に来たのかと錯覚しちまいそうだ」
「ええ。静かで鳥や水の音も心地が良い」
流れが緩やかな川に架かったアーチ形の石橋。そこを渡る途中、川から繋がった池を覗き込んだ穂香が「コイがいる」と明るい声を上げた。
「うぉ…デカいコイだな。何食ったらこんなにデカくなるんだ」
「観光客に餌沢山貰ってるのかも」
「日帰りオッケーだもんな、ここ。それだけ人も来るってことだし、食いっぱぐれる心配がねぇってことか」
白い体に赤や黒の斑模様。大きなコイは尾びれを左右にくねらせて、ゆったりと泳いでいた。予想通り腹が膨れているからか、俺たちには見向きもせずに橋の下をくぐっていく。
石橋の上から池を覗き込む俺たちの並んだ顔が水面に映りこんでいた。
水の流れる音、鳥や虫の声。俺たちは暫くの間、草木の囁く声に目を閉じて耳を傾けていた。心地よい風が吹いている。
風の流れを気にするようになったのは、いつからだったか。会得した【サブスタンス】の影響もあり、風向きや気圧の変化を読めるようになった。風を感じることが出来る。いつかそう話したら「風使いは伊達じゃないわね」と褒められてくすぐったかったな。
それでも自分で風を自由に操られても、やっぱり自然に吹く風を肌に感じるのが好きだ。
「ガストの側はいつもいい風が吹いている気がする」
「俺が風の【サブスタンス】持ってるせいだろうな。無意識に風を集めちまってるのかも」
石橋の手摺に手を置いていた穂香は向こう側の水面を眺めていた。
コイが一匹、尾びれをパシャと水面に叩きつける。波紋がじわじわと広がっていく。
「んー…そうかしら。ずっと前からな気がする。いつだったか、日陰にいるガストの側に立ったらとても涼しい風が吹いてきたことがあったし。いつも風を纏っている気がして。そのせいか、ガストが側にいて暑苦しいって感じたことなかったかも」
ふわりと微笑んできた表情につい、見惚れた。何度見ても慣れないというか、ドキドキする。笑った顔はどれも好きだけど、特にこの表情が好きだ。きっと何年経っても胸に刺さるんだろうな、この感情。
「不思議よね。夏は涼しいと感じるし、冬はほんのり温かい気がする。いつも丁度良い温度で接してくれた。ガストの人となりがそうしてるのかも。だから、気の置ける友達としてずっといられたのかもね」
「俺としてはいつも高めの熱量向けてたはずなんだけどなぁ…丁度いい温度かぁ」
空回りし続けていたあの頃。俺にとっては精一杯の主張だった。やっぱ人間、言葉にしないと伝わらないモンなんだと痛感した。
俺が大袈裟なまでに溜息をついてみせると、ふいっと気まずそうに目を逸らされる。意外と気にしてることだったのかもな。
「…だからゴメンって。私、好きな物に一点集中して夢中になっちゃうのよ」
「分かってるって。穂香は集中すると周りが見えなくなるタイプだってこと。でも、それは良く言えば一途ってことだし…つまりだ、今は俺にそれが全部向いてるってことだろ?独り占めできてるってのは結構いい気分だ」
「……嬉しそうに笑っちゃって」
「ああ、嬉しいに決まってる。…自分の誕生日に最愛の彼女と二人きりで過ごせてるんだ。この上なく幸せだぜ」
伸ばした指先に触れた髪がほんの少し湿っていた。頬に触れたくて、指を滑らせると湯上りの時みたいに紅が差す。
顔を近づけようとした時だ。何処からか、声が聞こえてきた。しくしくと泣く、子どもの泣き声が。
「な、泣き声……聞こえる、よな?」
「…うん。女の子の」
涼風が一転、嫌な冷たさに変った気さえした。俺たち以外に他の客の姿は見ていない。それでも軽く辺りを見渡しみる。石橋を渡った先に古びた井戸を見つけてしまった。途端にあるホラー映画のシーンが思い出される。白い着物姿の女の人が、長い黒髪を垂らして井戸から這い上がってくるヤツだ。それの子どものパターンなのかと固唾を飲む。
「……井戸から出てくるとか?」
「ちょ、ちょっと…怖いこと言わないでよ。そんな噂、何も聞いてない」
俺の袖をぎゅっと掴んできた穂香の顔が曇っていく。
すすり泣いていた女の子の声が、泣き叫ぶものに変わった。わんわんと泣くその声は紛れもなく人間のものだ。幽霊とかお化けの類じゃない。多分。
俺はその声を頼りに、穂香の手を引きながら橋の向こう側を探し歩く。すると、井戸の側にある大木の裏側に小さな女の子がうずくまっていた。両膝を抱えて泣き続けるその子の側に俺はしゃがみ込んだ。
「どうしたんだ?転んでケガしちまったか」
「っ…ひっく……にーちゃ」
大きな目にこれまた大粒の涙を溜めて、何かを訴えてくる。膝や腕とかに擦りむいた形跡は無い。と、なると子どもが泣き叫ぶ理由に思い当たるのはあれだ。
「迷子になっちゃったのか?」
小さな頭を縦に振った。迷子だと自分で認めてくれる。この素直さを同期にも少し分けてほしいぐらいだ。
泣きじゃくっていた女の子の頭を穂香が優しく撫でていた。少し落ち着いたのか、小さな手で涙を拭おうとする。
「どっちから歩いてきたか、わかるか?」
「……あっち。トンボ、おいかけてたら…おにーちゃんいなくて」
俺の側でトンボが一匹、空中で静止していた。かと思えばそいつはすぃーっと池の方に飛んでいく。小さい子って蝶やトンボを夢中で追いかけることがあるからなぁ。余所見してたら、いつの間にかいなくなっちまうことも多い。俺も目をちょっと離した隙に妹がいなくなることあったから、手が離せずにいた。
「お兄ちゃんとはぐれちゃったのね。ガスト、一緒に探してあげましょ」
「ああ。この子が来た道を辿ってけば兄貴か親がいるだろうし。よし、兄ちゃんたちが連れてってやるからな。怖がらなくていいぞ」
わしゃわしゃと柔らかい髪を撫で、女の子に笑いかける。この深い青い目、どこか見覚えがある気もした。ついさっき見たような。
「このお兄ちゃん、ヒーローだから安心していいわよ」
「ヒーロー…?…ジェイ?」
「んー…残念ながらジェイじゃないんだよなぁ」
今日はやけにジェイの話題が出てくる。それだけ子どもたちのヒーロー像なんだろう。
手を差し出すと、小さな手が重ねられた。その手を掴んで、ゆっくり立ち上がらせる。そして女の子が来たという方向に歩き出した。
一人ぼっちで相当心細かったんだろう。ぎゅっと手を握ってくる。
「ジェイが好きなヒーローなのか?」
「……おにいちゃんが、すき」
「そっかぁ。兄ちゃんがジェイ好きなんだな」
もしかしてとさっきの少年の顔が過った。妹がいるって言ってたし、この子がそうなんじゃないだろうか。名前聞いておけばよかったな。そうすりゃ探しやすかったかもしれないし。
歩き出してそう何分も経たずに、前方から子どもが何かを叫ぶ声が聞こえてきた。名前を叫んでる。その声を聞いた女の子がバッと顔を上げて「おにーちゃん!」と大きな声で応えた。
その少年の姿が見えると、俺の手を振り払って一目散に走り寄る。途中で躓いて、転びそうになったのを間一髪の所で少年が受け止めた。やっぱり、さっき露天風呂で会った子だ。
浴衣がだいぶ乱れているし、髪もぼさぼさだ。走り回って妹を必死に探していたんだろうな。
「…ばかっ!勝手にどっか行ったらダメだろ!」
「っ…ごめんなさい…」
「池に落っこちたらどうするんだ!おぼれちゃうんだぞ!」
妹をぎゅっと抱きしめながら、𠮟りつけている。叱られた妹の方はまた涙ぐみそうになっていた。でも、それだけ心配されている。兄貴なりの優しさなんだよな。
無事に迷子を送り届けられて、俺たちもほっとしていた。
「良かったな、兄ちゃんと会えて」
「もう一人で歩き回っちゃだめよ。ちゃんとお兄ちゃんについていかなきゃ」
女の子は大きく頷いて、少年の浴衣の衿にしがみついていた。
少年がこっちに目を向けるが、どことなくバツが悪そうだ。さっき露天風呂で騒いでたせいで親に怒られちまったのかもな。
「…妹、助けてくれてサンキュー。…ほんとに、ありがと」
「おぅ。気にするなって。小さい子はすぐどっか行っちまうから、気をつけろよ」
「わかった」
少年は女の子の手をぎゅっと握り、頭を一度下げてから踵を返した。そのまま真っすぐ行くのかと思えば、急にこっちに振り返ってこう叫んでくる。
「あんたのこと、ジェイの次に推してやってもいいぜ!」
一番は譲らないという意思が強く込められていた台詞。ランク外だった順位が一気に二番まで上がったんだから、言うことなしだ。
小さな兄妹の後ろ姿を微笑ましく見守っていた穂香がくすりと笑った。
「やっぱり年下に好かれてる。お兄ちゃん気質よね」
「それもよく言われる。…小さくなくてもすぐどっか行っちまうヤツがいるから。気が抜けないんだよなぁ」
「世話焼きお兄ちゃんね。今日は疲れを取るためにもゆっくり過ごしましょ」
暮れゆく空が茜色に染まり始めていた。完全に日が落ちてしまう前に、部屋に戻ろうかと手を繋ぎ直す。
◇