sub story
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
It's just a piece of the story
「穂香っ!」
彼の叫び声が吸い込まれるように消えていった。
視界が一瞬にして暗闇に閉ざされて、何も聞こえなかった。自分の鼓動だけが内側から響いているようで、気持ちが悪い。どうしてか重力を感じないから、余計に気分が優れなかった。
真っ暗な視界に光の帯が見え始めた。それは赤や青のネオンサインみたいに、ゆっくりチカチカと点滅を繰り返している。オーロラの様に波打ち始めたそれを見ていると、ものすごく具合が悪くなってきた。船酔いみたいな感覚。どれだけ続くか分からないこの状況、私は目を瞑って耐えることしかできずにいた。
どれだけの時間が経過したのかは分からない。あれは数分の出来事だったのか、それとも何十分もそうしていたのか。とにかく、次に目を開けた時にはあの不可思議な空間から抜け出していた。
肌に冷たいコンクリートの感触。地面と平行になっていた私は身体を起こし、ゆっくりとその場に立ち上がった。
アーチ状になった天井、明かりを取るための窓が等間隔で並んでいる。足元には錆びた線路が前後ずっと奥まで続いていた。私が倒れていた所は偶々砂利が無かったようで、線路の回りにそれらが敷き詰められている。背の低い雑草が所々生えていた。
外からの光が眩しい。外は雪が降っていて、その雪明りが差し込んでいた。白いふわふわとした雪がしきりに降り続いていた。有り得ない。だって、今の季節は春よ。雪解けはとっくに終わって、春の花が咲き始めたってニュースで今朝聞いたばかり。それなのに、季節外れの寒気がニューミリオンの上空を覆いでもしたのかしら。
吐き出した息は白く曇って、消える。相当気温が下がっているんだろう。冷静になった頭がそう理解すると、急に寒さを感じてきた。それもそうね。私は春のコーデで出勤したんだもの。パンツスタイルなのがせめてもの救い。
とりあえず、落ち着こう。それが先決ね。
さっきまで私は乾いたアスファルトの路を歩いていた。そう、ノースシティの。出先から事務所に戻る途中で、パトロール中の彼を反対側の歩道で見掛けた。離れていたし、声を掛けようか迷っていた。その時に、私の前に【サブスタンス】が現れて。そう、危険を感じて離れようとしたら、何かに吸い込まれた。黒い、ブラックホールのようなものに。
それで、変な空間から抜け出せたと思ったら、ここにいた。一体どこなんだろう。
私は腕をさすりながら、辺りを見渡す。風が吹き込んできて、じっとしていると凍り付いてしまいそうだった。
そういえば前にガストが空間移動の力を持つ【サブスタンス】に弄ばれたって話を聞いた。サウスのストリートを歩いていたかと思えば、瞬時にノースシティの地面に足を着けていて、その次はイエローウエストに。点々と飛ばされて参ったと笑いながら話していたっけ。
私もその【サブスタンス】に巻き込まれたのかしら。でも、ただ単に別の場所へ飛ばされたという感じがしない。気象異常をもたらす【サブスタンス】の影響で雪が降り始めたのかもしれないけど、妙な違和感が胸の辺りをざわつかせていた。
ここでじっとしていても、氷漬けになるだけ。とりあえず、ここが何処なのかを把握しないといけない。トンネルの外に出るにはリスクが高い。パンプスで歩き回ったら足が霜焼けどころか壊死してしまいそう。
私はここが廃線であることを祈りながら、砂利道の上を歩き始めた。
寒い。冷たい空気が全身を包み込む。スカートじゃなくて本当に良かった。風向きが気まぐれにころころしているおかげで吹き込んでくる雪が少ないのも幸い。
このトンネル、どこまで続いているんだろう。ヒールの低いパンプスでも、砂利に足を取られてよろめきそうになる。
前方の視界が開けてきた。続いていた線路が分岐している。どっちに進もう。風が通った道は右手側。せめて風のない方へ行こうと考えて、私は左側に足を向けた。
その道はすぐに行き止まる。線路もそこで途切れていて、続いていたであろう向こう側も人の手で塞がれていた。
雪明りが届かない場所。ここだけ少し暖かい。誰かが火を焚いているようで、ドラム缶から赤い火がゆらゆらと見えた。焚火をしたまま無人になるワケがないし、誰か側にいるだろうと人の姿を探した。そのドラム缶の影に隠れていたであろう人が、私の気配を察したのか急に立ち上がって「誰だ」と鋭い声を発した。
僅かに反響した聞き覚えのある声。声だけじゃない、その姿に私は驚いてしまった。
彼、ガストがいた。でも、その背丈は今よりもだいぶ低くて、私と並んだら同じぐらいだ。後ろ髪も少し短い。顔つきも厳つくて、怪しい人間を見るような目つきで、とても冷めた様子だった。私を見る碧色の瞳は鉱石の様に冷たい。
ファー付きのモッズコートを羽織っていて、ポケットに両手を深々と突っ込んでいた。どう見てもそれは春物のコートじゃないし、彼の容姿は二十歳以上に見えない。青年と呼ぶには若すぎる。
私は目を疑っていた。驚きすぎて声も出ない。彼にとっては訝しい点が幾つもあったんだろう。白く短い吐息と共に抑揚のない声を発した。
「…言葉、分かんないのか」
「あ、いや……分かるわよ。えーと……ちょっと、迷いこんじゃったみたいで。雪も酷いし……そう、雪宿りさせてもらおうと思って」
「あんたみたいな人間が来るような場所じゃない」
「ご、ごめん…」
愛想の欠片も感じられなくて、少し怖かった。言葉にも棘が含まれている。咄嗟に私はそう謝っていた。
風向きがまた気まぐれに変わったのか、ひゅっと吹き抜けていった。
「迷ったついでに…そこの火にあたらせてくれない?雪が止むまでの間でいいから」
そう訊ねても、答えは返ってこなかった。彼は僅かに眉を顰めるだけ。普段と真逆の反応ばかりで、これは結構傷つくかも。でも無理もない。私のこと、知らないんだろうから。
少年は元の場所へ腰を下ろした。返事も無いし、どうしようかと立ち往生していると「寒いんだろ」と目くばせで対角線上の木箱を示してくれた。暖を取るならそこに座ればいいっていう感じで。
私は厚意に甘えて、その木箱に腰掛けた。手を火にかざすと、じわりと熱を感じてきた。温かい。
恐らく、此処はやんちゃな少年たちの溜まり場なんだろう。トンネルの壁にはスプレーで描かれたストリートアートが複数描かれている。椅子代わりの木箱も幾つかあるし、空き瓶が何本も壁際に転がっていた。
「あんたどっから来たんだ」
暫く火にあたっていると、急に少年が口を開いた。
その質問に上手く答えられる気がしない。此処はきっと、過去の世界だ。あの【サブスタンス】は対象者を過去に飛ばすことができる。それに巻き込まれてしまった私は何年か前にタイムスリップした。これをそのまま正直に話したところで、信じてもらえないと思う。私だって半信半疑だもの。いっそ夢ならいいのにと目を瞑っても、このリアルな感覚がそうさせてくれない。
「……ええと、遠いところから。…うん、イーストから。仕事で挨拶回りしてたんだけど…まだ、慣れてないのよこの土地に。それで、道に迷っちゃって」
どこから来たのか。当たり障りのない答えを返しても、少年の反応は薄かった。前屈みになって膝上に両肘を乗せている。少年は射貫く様な鋭い目を私に向けた。怪しい人間だって思われているに違いない。
私の顔からも取り繕った笑みが消えそうだった。
「土地勘無いからって、季節外れすぎる」
「そ、そうね。天気予報見るの忘れてたから…今朝は忙しくて」
「サウスは午後からずっと雪だぜ」
そんな日にコートも羽織らずにうろついているのか、と言いたげだった。
時間帯はどうやら午後を回っているらしい。今は何年なんだろう。少なくとも、彼がやんちゃしてた時代のようだし五、六年ぐらい前かな。あんまり昔のことに言及されたくないみたいだから、深く聞いたことはなかった。声変わりはしているようだけど、こっちの人って大人びてるから見た目だけじゃ正確な年齢が分からない。
少年が顔を傾けた時、彼の耳元がきらりと光った。炎の灯りに反射した左耳のピアス。三角形をしたそれは同じものだった。
「なに」
それに目を取られていた私は、聞こえてきた不機嫌な声に慌てた。
「あ、えっと……左耳のピアスは勇気の印、よね。その…私の好きな人も同じようにピアスつけてたから、ちょっと思い出したの」
私がそう答えても、返事は無かった。
迂闊に喋らない方がいいのかもしれない。無闇に話し続けたら、ぼろが出そう。私の発言や行動一つで未来が変わってしまう恐れだってある。相手は会話をする気がないようだし、それが救いだと今は思いたい。
私、元の時代に帰れるのかしら。【サブスタンス】関連ならガストたちが何とかしてくれるだろうか。でも、私が過去の世界に飛ばされてるなんて分かるのかな。
ふと過った不安。寒い風がまた通り抜けていったから、そのせいで身体が震えたんだと思った。
両手に息を吹きかけて、冷えた指先を擦り合わせる。伏せていた私の視界の隅に歪なカップが映り込んだ。少年が無言で差し出していた。受け取ったそれは随分と乱暴に扱われてきたようで、ステンレスマグがぼこぼこに凹んで、傷だらけだ。温かいミルクが入っている。
「ありがとう」
少年はカップを渡した後、何も言わずに自分の席へ戻っていく。
こんなに気まずくて、居心地の悪い空気は初めてだった。ピリピリした空気を纏っているし、雰囲気も全然違う。でも、愛想が無くて取っ付きにくそうに見えても性根は優しい。そこは私の知っている彼と変わらないみたいだ。
口にしたホットミルクは思いの外熱くて、舌を火傷した。冷ましながらそれを飲む間、視線がこっちに向いていた気がするけど、私が顔を上げるとすぐに逸らしていた。炎に照らされた緑色の瞳はまるで赤いエメラルドが燃えているように思えた。
焚火がドラム缶の内側でパチパチと爆ぜている。
身体の中から温まったのも一瞬で、熱はすぐに引いてしまった。身体が寒いと訴えるから、膝を引き寄せて木箱に足を乗せる。お腹にくっつけた膝頭に顔を伏せた。
少し眠くなってきた。昨日、夜更かししたせいで睡眠時間が足りていない。こんな所で居眠りしたらそれこそ凍え死んでしまうかも。
暖を取る体勢を取っていたら、布擦れの音が聞こえた。その直後、肩に重みと暖かさを感じて、顔を上げる。私の肩にコートが被さっていた。少年が羽織っていたモッズコートだ。
「え、あの…」
「そんな格好してたら風邪引く」
「少年の方こそ風邪引くわよ。私のことはいいから」
「寒いんだろ」
物凄く突き放した言い方。だけど、優しさがそこから滲み出ていた。コートにはまだ温もりが残っていて、優しい暖かさを感じる。つい、口元が緩んだ。そうしたら、何がおかしいんだって目をされる。
「……少年は優しいなぁと思って。だって、そうでしょ?見ず知らずの人に暖を分けてあげて、ホットミルクをくれて、おまけにこうしてコートまで貸してくれた」
──困ってるヤツは放っておけないんだよな。
口角を上げて笑う彼の声が聞こえた気がした。
こうやって、いつもガストに助けられていた。私が初めてニューミリオンに来た時も、仕事に行き詰って落ち込んだ時も、恋人にフラれて大泣きした日も。いつだってそうだ。私が困ってる時にはいつも手を差し伸べてくれる。頑張れよって背中を押してくれる時もあったし、行くなって引き止めてもくれた。
私はその優しさを頼りにしていた。
「君は優しいね」
肩から落ちそうになるコートを手で掴みながら、私は笑いかけた。その瞬間、バッと目を逸らされてしまう。それを見てなんとなく素っ気ない理由が分かった気がする。女の子苦手って言ってたし。これは後から聞いたことだけど、職場の後輩がハロウィンの時に声掛けたらしくて、オドオドしてたって言ってた。
振り返ってみれば、そうだったかもしれない。何かある毎に顔赤くしてたから。女の子苦手なのに、よく私と三年以上も友達付き合いできたわよね。やっぱり、女と思われてなかったのかもしれない。前にそう聞いた時は否定されたけど。
「少年はよくここに来てるの?」
「……ああ」
「そっか。雨風凌げるからいいね。…見たところ、少年以外にも来てるみたいだけど」
「ガスト」
「え?」
「少年じゃない。ガストって名前がある」
会話が繋がったと思いきや、口をへの字にしてそう言ってきた。少年呼びが気に喰わなかったんだろう。
名前を教えてくれたけど、とっくに知ってるよ。なんて言えるはずもなく、良い名前だねと私は返した。
「あんたは」
「え、私?」
こっちが名乗ったんだから、当然教えてくれるよなっていう圧を感じた。どうしようかと悩んだ末に、私は危惧の念を抱いた。私を見てくる目は相変わらず鋭くて冷たいけど、さっきよりは少しだけ感情が浮かんでいる。
「教えない」
「はぁ?……なんで」
「なんでって言われても、ね」
「…お前には関係ないって言いたいのか」
「そこまで強く言ってないでしょ…そのうち、分かるわよ」
「それじゃ遅い」
何が遅いんだろう。彼はどうしてか困った表情をしていた。その困り方、同じだった。その眉の寄せ方とか、拗ねてる感じとか。人の仕草って歳月を重ねてもあまり変わらないものなんだ。
「ガストくん、今いくつ?」
「教えない」
「…おっと。仕返しされちゃった。…ま、いっか」
突っぱねた彼は「そっちが名前と歳を教えてくれたら」みたいに交換条件で聞き出そうとしていた。でも、その手には乗らないわよ。
「女性に歳を聞くのは失礼ってことだけ覚えとくといいわ。私はそんなに気にしないけど、世の中の大半の女性はそうだから」
私がそうはぐらかすと、不満そうに顔を歪めた。この表情、前にどっかで見た気がする。ガストが酔いつぶれた時だったかな。
「そんなに不貞腐れた顔してたら、イケメンが台無しよ。……君がお人好しのままでいれば、またどっかで会えるよ。多分ね」
一抹の不安が過る。この会話がきっかけになって、ずっと先の未来に影響が出てしまうんじゃないかと。未来は些細なことで変わってしまう。試験の問いでマルかバツで悩んで、その選択が合格点数に響く。それぐらい、ほんの些細なことで結果が変わるんだから。
あの時の進路、悩んだけれど私は後悔していない。そう思いたい。
コートの温かさが身体を包んだせいか、なんだかうとうとしてきた。
強い眠気が瞼を下げる。眠い。とてもじゃないけど開けていられない。ガスト少年の声が聞こえていた気がするけど、何を喋っていたのか分からない。私はそのまま眠りにストンと落ちていった。
◇◆◇
「穂香、…穂香っ!」
強い呼びかけに私は目を開けた。眩しい。頭が重い。頭どころか、全身に怠さを感じていた。長時間眠っていたみたいに、身体の節々も痛かった。
呼びかけてきた彼、ガストが私の正面にいた。夢うつつのまま彼の名前を呟くと、心配そうにしていたその顔が安堵で緩んだ。
「良かった…帰ってきた」
「帰って………あれ、私……元の時代に」
雪が降りしきる中、トンネルの中で焚火にあたっていた。そこで少年時代のガストと話をしていて。椅子に座った状態の私はぼんやりと辺りを見渡した。白と黒を基調とした室内の家具。棚にはビーカーや試験管、器械が並んでいる。側面の壁に「02研究所」と書かれていた。
暖と飲み物を分けてくれた少年が一瞬にして大人に成長した気がして、違和感が拭えずにいる。でも、帰ってきたみたいで本当に良かった。
「エリオスタワー内にある研究所だよ。憶えてるか?ノースの街路で【サブスタンス】に巻き込まれたんだ」
「……なんとなく。そういえば、目の前にブラックホールみたいなのが現れて、光がチカチカして…う…思い出すと気持ち悪い」
「大丈夫か」
目を瞑ると、あのネオンサインみたいな光が目の奥でチラついて、胸がムカムカしてきた。
ガストの後ろからチェアの軋む音が聞こえた。デスクの前に座っていた人物がゆっくりとこちらを振り返る。白衣を羽織った男の人。長い銀髪を肩に寄せていて、眼鏡を中指でくいと押し上げた。
「恐らく【サブスタンス】の能力により、貴女は別の時代に移動していたと思われます。身体の不調は移動時に負荷がかかったせいでしょう。…あの【サブスタンス】が作り出した次元の狭間に吸い込まれ、時を移動したと言えば理解しやすいでしょうか」
淡々と語る男の人に私は見覚えがあった。確か、ノースセクター所属のメジャーヒーローのはず。
彼は「貴女は運がいい」と目を細めて私に笑いかけてきた。
「私も偶然ではありましたが、貴女がワームホールに吸い込まれたのを彼と共に目撃しました。すぐさま【サブスタンス】を回収し、分析した結果…時の流れに切れ目を入れる能力を持ち合わせていることを突き止めました。周囲の生物を吸い寄せ、次元の狭間に囚える。そして、別の切れ目から対象物を吐き出す。……詰まる所、貴女はごく僅かな時間旅行を経験した」
「時間旅行…?そんな、SFみたいな話が…本当に実在するっていうの」
「私も最初は半信半疑でしたが、分析結果はそう出ていますし、なによりもそれを体感した被験者が私の目の前にいる。論より証拠、というものですね」
時間旅行。映画や小説、空想の中でしか存在しない言葉だと思っていた。でも、あの時感じた寒さや温かさは確かに残っている。
「貴女が実際に体験してきたお話を詳しく伺いたいのですが……どうやら叶わないようですね」
その人はふうと短い息を吐いた。諦めにも近い溜息の直後、外からパタパタと駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
研究室のドアがスッと開いて、転がり込むように白衣を着た黒髪の男が現れた。情けない声を上げながら助けを求めている。
「ヴィク~!助けてくれ~」
「どうしたんですかノヴァ。私は今取り込み中ですよ」
「こっちも大変なんだよ~。猫の手を十本は借りたいぐらいなんだ。でも、ヴィクが手を貸してくれたら猫の手五十本分になるよ」
「奇妙な例えをしないでください。……分かりました。今行きます。申し訳ありませんが、私は少々席を外しますのでここで暫くお待ちください。気分が優れなければ奥に仮眠用のベッドもありますし、飲み物もご自由にどうぞ」
彼が席を立った時「あれ、来客中だった?ガストくんもいるし」と今さら私たちの存在に気が付いたようだった。それに構わず、ノヴァと呼ばれた男の人を連れて研究室を出ていく。彼らが去った後、室内はしんと静まり返った。
さっきのデスクには鉱石のような物が幾つも飾られている。ガラスのショーケースに大事に飾られたそれらは黄色やピンクの光を宿している。歪な形をしているけど、呼吸をするようにゆっくりと光が点滅している。
「ドクターの趣味兼研究ってとこだ」
「へぇ……ヒーローっていうよりは研究者っぽい人よね。白衣が似合ってたし」
「間違っちゃいないかもな。本人も【サブスタンス】を回収してたらいつの間にかヒーローになってたって言うし。…何か飲むか?」
「ん…お願いしようかな」
「オーケー。ちょっと待っててくれ」
私に笑いかけてきたガストは優しい表情をしていた。さっきの少年とは雰囲気が全然違う。ギャップが激しすぎて、同一人物なのかと困惑しそう。
研究所にはコーヒーメーカーも備え付けてあるみたいだ。ガストが傾けたデカンタからコーヒーの香りが漂う。マグカップに注がれたそれを私に手渡してくれた。
「ありがと」
「…気分、大丈夫か?」
「うん。…だいぶ良くなった」
「そっか。コーヒー、火傷するほど熱くはないはずだから。安心して飲めよ」
マグカップに口をつけようとした私は、そのセリフに顔を上げた。私が不思議に思っていたのが相手に伝わったのか、後頭部を掻く様にして苦笑いを浮かべる。
「あの時、気ぃ利かせてホットミルク作ったけど……火加減強すぎたのか、舌火傷するぐらい熱かったんだよな?…見るからに沸騰してたし、ヤバいと思ったんだ。でも、寒そうにしてたから」
「……憶えてるの?私が…過去のガストに会ったこと」
デスクの前に残されたチェアにガストが腰を下ろした。私を見る碧の瞳はいつもの、優しい眼差し。心のどこかで私は安心していた。
短く頷いた彼は組んだ手元に視線を落としながら、ぽつりと話し始める。
「あの日は、午後から雪がずっと降ってた。……なんかさ、急に割り込んできたんだよ。記憶に…取って付けたように。しかも、昨日の出来事みたいに鮮明に憶えてるんだ。実際は六年も前だってのに…不思議だよな」
ああ、やっぱり過去に介入したことになってるんだ。彼の記憶にはっきりと私のことが残されている。
私は苦いコーヒーを一口だけ飲んで、脇のテーブルにそれを静かに置いた。
「ねぇ、一応確認したいんだけど。……私たちの関係性、変わってない…よね」
「……やっぱお友達でいましょう、って言われたら立ち直れないかもな」
怪訝に眉を顰めた彼の表情と言葉から、私たちの関係は何一つ変わっていないことが窺えた。良かった。
「急にどうしたんだ。らしくないな」
「……ほら、私が過去のガストにコンタクトを取ったことで、未来に変化が生じているんじゃないかって思ったの」
「たかが一時間くらい顔合わせただけだってのにか。名前だって教えてくれなかったし……そのうち分かるって。まぁ、今回の件が【サブスタンス】が影響してるなら、その理由も今なら分かる。でも、歳はともかく名前くらいはいいだろ。こっちだって名乗ったんだし」
「……その名前の記憶を頼りにして、同名の別人と出逢ったら?ああ、この人があの時に会った人だ。それで、もしかしたらそこから恋が芽生えているかもしれない。……私とガストはただの友達だったかもしれない。会ってすらいないかもしれない。ほんの些細なことで未来は変わっていくのよ。コーヒーかココア、どっちを選ぶかみたいに…些細なことで。だから、過去から戻って来た時にお互いが他人同士だったら、どうしようって…考えてた」
たった一時間でも未来が塗り替えられる可能性は充分にある。私以外は誰もそのことに気づかないだろうし、それが当たり前だと受け入れる。私だけの記憶が上書きされなくて、時の流れに置き忘れられてしまう。違和感を抱きながらずっと過ごしていくのかと思うと、震えが止まらなくなりそうだった。
「やだ……今頃になって震えてきた」
もしかしたら元の時代に戻って来られなかったかもしれない。そう考えた瞬間に恐怖で身が竦み、身体が小刻みに震えてきた。
「貴女は運がいい」本当にその通りだ。何の前触れも心構えもなく過去に飛ばされて、帰れる補償なんて一つも無かった。
両腕で震える自分の身体を抱きしめる。震えが止まらない。そんな私をガストの腕が優しく包み込んでくれた。彼の纏う香水がどうしてか懐かしいとすら思えて、涙が溢れそうになる。
「絶対に穂香を見つける。何処にいたって、必ずだ。それに、間違えたりもしない」
「……私が、日本にいても?」
「ああ。迎えに行く」
視界が、涙で滲んでいく。瞬き一つでその涙は雫になって、頬を伝っていった。
縋るようにその背に腕を回して、彼の胸に顔を寄せる。しっかりと抱きしめてくれた彼の吐息が耳元で聞こえた。肺に留めていた息をゆっくりと吐き出している。
「……俺が伸ばした手、届かなかったんだ。あと少し、指先が掴めそうってところで……ドクターがいなきゃ、正気でいられなかったかもしれねぇ。他の誰かを巻き込む前に【サブスタンス】を回収したけど、話聞いてる間も気が気じゃなくてさ。……もし、穂香が帰って来なかったら。そんな不安ばかり頭に浮かんじまって。だから、本当に……良かった」
ガストの声は震えていた。少し痛いくらいの抱擁が今の私には丁度良くて、腕の中が心地よかった。私の身体の震えはいつの間にか溶けるように消えていた。
彼の胸に手を当てて、顔を上げる。柔らかい笑顔を浮かべたガストがどうしたのかと訊いてくる。
「ガストの表情、今と全然違ってた。荒れてたから…なのかなって」
「あぁ…あれは、だな」
彼はまるで昨日の出来事を振り返るように、あの日を思い返していた。私の好きな色をした目が軽く伏せられて、静かに語り始める。
「あの年、自殺者が多かったんだ。俺らよりも上の世代で特にな。社会に嫌気がさしたとか、職を失ったとか、恋人に裏切られたとか…理由は様々だ。連日悪いニュースばっか耳にしてる中、真冬だってのに春先みたいな薄着の格好した女の人が現れたんだ。不良がたむろするような場所に一人で、バッグも何も持たずに。思いつめたような表情してたし、もしかしたら…って勘ぐっちまった。だから、何とか踏み留まらせないと思ったんだ。でも、下手に刺激したら逆効果だし、どうすりゃいいのか……そんなことばっか考えてたな」
彼の口が語った理由は女の人が苦手とか、大人と関わるのが嫌な思春期とかそういったものじゃなかった。人の良さが根底から滲み出た行動だったという。
私の名前を知りたがったのも、気を紛らわせるためにコミュニケーションを取ろうとした一環。翌朝のニュースで報道されてからでは遅い、そう言いたかったんだと。
「私、寝不足だったから……余計に疲れた表情してたのかもね。変な迷惑かけてごめんなさい」
「六年越しにそうじゃないって分かって、今更ながら安心したよ。…あの後、雪みたいに解けて消えたんだ。マジで焦った。俺のコートだけそこに落ちてたし、ちょっと目を離した隙にどっか行ったのかって。後から来た仲間にも周り探してもらってさ。……でも、足跡が無かった。寒さのあまり幻覚でも見たんじゃないのかとも言われたっけ」
「……そうだ、あのコート。良かったこっちに持ってきてなくて。…もしこっちに持って帰ってきてたら、ガスト少年に風邪引かせるところだったわ」
自分だって寒いはずなのに、私の肩にコートを掛けてくれた。悩みながら真摯に向き合ってくれていたのだと思うと、少しこそばゆい気持ちになる。
「もう、寒くないか」
「うん。…おかげで寒さも震えも止まった。ありがとう、ガスト」
彼はふわりと微笑んで、私の頬に手を添える。透き通るようなこの眼差しに見つめられると、俄かに胸がドキドキしてきた。
そのまま吸い寄せられるように軽い口づけを交わす。触れるだけのキスに何度も応じた後、名残惜しそうに彼の顔が離れた。息を少し上げながら「これ以上は抑えが利かなくなる」と言い、ぎゅっと私を抱きしめた。いつさっきの人が戻ってくるか分からないからと。
耳元で囁かれた言葉に顔どころか身体が火照りそうにもなった。
「穂香っ!」
彼の叫び声が吸い込まれるように消えていった。
視界が一瞬にして暗闇に閉ざされて、何も聞こえなかった。自分の鼓動だけが内側から響いているようで、気持ちが悪い。どうしてか重力を感じないから、余計に気分が優れなかった。
真っ暗な視界に光の帯が見え始めた。それは赤や青のネオンサインみたいに、ゆっくりチカチカと点滅を繰り返している。オーロラの様に波打ち始めたそれを見ていると、ものすごく具合が悪くなってきた。船酔いみたいな感覚。どれだけ続くか分からないこの状況、私は目を瞑って耐えることしかできずにいた。
どれだけの時間が経過したのかは分からない。あれは数分の出来事だったのか、それとも何十分もそうしていたのか。とにかく、次に目を開けた時にはあの不可思議な空間から抜け出していた。
肌に冷たいコンクリートの感触。地面と平行になっていた私は身体を起こし、ゆっくりとその場に立ち上がった。
アーチ状になった天井、明かりを取るための窓が等間隔で並んでいる。足元には錆びた線路が前後ずっと奥まで続いていた。私が倒れていた所は偶々砂利が無かったようで、線路の回りにそれらが敷き詰められている。背の低い雑草が所々生えていた。
外からの光が眩しい。外は雪が降っていて、その雪明りが差し込んでいた。白いふわふわとした雪がしきりに降り続いていた。有り得ない。だって、今の季節は春よ。雪解けはとっくに終わって、春の花が咲き始めたってニュースで今朝聞いたばかり。それなのに、季節外れの寒気がニューミリオンの上空を覆いでもしたのかしら。
吐き出した息は白く曇って、消える。相当気温が下がっているんだろう。冷静になった頭がそう理解すると、急に寒さを感じてきた。それもそうね。私は春のコーデで出勤したんだもの。パンツスタイルなのがせめてもの救い。
とりあえず、落ち着こう。それが先決ね。
さっきまで私は乾いたアスファルトの路を歩いていた。そう、ノースシティの。出先から事務所に戻る途中で、パトロール中の彼を反対側の歩道で見掛けた。離れていたし、声を掛けようか迷っていた。その時に、私の前に【サブスタンス】が現れて。そう、危険を感じて離れようとしたら、何かに吸い込まれた。黒い、ブラックホールのようなものに。
それで、変な空間から抜け出せたと思ったら、ここにいた。一体どこなんだろう。
私は腕をさすりながら、辺りを見渡す。風が吹き込んできて、じっとしていると凍り付いてしまいそうだった。
そういえば前にガストが空間移動の力を持つ【サブスタンス】に弄ばれたって話を聞いた。サウスのストリートを歩いていたかと思えば、瞬時にノースシティの地面に足を着けていて、その次はイエローウエストに。点々と飛ばされて参ったと笑いながら話していたっけ。
私もその【サブスタンス】に巻き込まれたのかしら。でも、ただ単に別の場所へ飛ばされたという感じがしない。気象異常をもたらす【サブスタンス】の影響で雪が降り始めたのかもしれないけど、妙な違和感が胸の辺りをざわつかせていた。
ここでじっとしていても、氷漬けになるだけ。とりあえず、ここが何処なのかを把握しないといけない。トンネルの外に出るにはリスクが高い。パンプスで歩き回ったら足が霜焼けどころか壊死してしまいそう。
私はここが廃線であることを祈りながら、砂利道の上を歩き始めた。
寒い。冷たい空気が全身を包み込む。スカートじゃなくて本当に良かった。風向きが気まぐれにころころしているおかげで吹き込んでくる雪が少ないのも幸い。
このトンネル、どこまで続いているんだろう。ヒールの低いパンプスでも、砂利に足を取られてよろめきそうになる。
前方の視界が開けてきた。続いていた線路が分岐している。どっちに進もう。風が通った道は右手側。せめて風のない方へ行こうと考えて、私は左側に足を向けた。
その道はすぐに行き止まる。線路もそこで途切れていて、続いていたであろう向こう側も人の手で塞がれていた。
雪明りが届かない場所。ここだけ少し暖かい。誰かが火を焚いているようで、ドラム缶から赤い火がゆらゆらと見えた。焚火をしたまま無人になるワケがないし、誰か側にいるだろうと人の姿を探した。そのドラム缶の影に隠れていたであろう人が、私の気配を察したのか急に立ち上がって「誰だ」と鋭い声を発した。
僅かに反響した聞き覚えのある声。声だけじゃない、その姿に私は驚いてしまった。
彼、ガストがいた。でも、その背丈は今よりもだいぶ低くて、私と並んだら同じぐらいだ。後ろ髪も少し短い。顔つきも厳つくて、怪しい人間を見るような目つきで、とても冷めた様子だった。私を見る碧色の瞳は鉱石の様に冷たい。
ファー付きのモッズコートを羽織っていて、ポケットに両手を深々と突っ込んでいた。どう見てもそれは春物のコートじゃないし、彼の容姿は二十歳以上に見えない。青年と呼ぶには若すぎる。
私は目を疑っていた。驚きすぎて声も出ない。彼にとっては訝しい点が幾つもあったんだろう。白く短い吐息と共に抑揚のない声を発した。
「…言葉、分かんないのか」
「あ、いや……分かるわよ。えーと……ちょっと、迷いこんじゃったみたいで。雪も酷いし……そう、雪宿りさせてもらおうと思って」
「あんたみたいな人間が来るような場所じゃない」
「ご、ごめん…」
愛想の欠片も感じられなくて、少し怖かった。言葉にも棘が含まれている。咄嗟に私はそう謝っていた。
風向きがまた気まぐれに変わったのか、ひゅっと吹き抜けていった。
「迷ったついでに…そこの火にあたらせてくれない?雪が止むまでの間でいいから」
そう訊ねても、答えは返ってこなかった。彼は僅かに眉を顰めるだけ。普段と真逆の反応ばかりで、これは結構傷つくかも。でも無理もない。私のこと、知らないんだろうから。
少年は元の場所へ腰を下ろした。返事も無いし、どうしようかと立ち往生していると「寒いんだろ」と目くばせで対角線上の木箱を示してくれた。暖を取るならそこに座ればいいっていう感じで。
私は厚意に甘えて、その木箱に腰掛けた。手を火にかざすと、じわりと熱を感じてきた。温かい。
恐らく、此処はやんちゃな少年たちの溜まり場なんだろう。トンネルの壁にはスプレーで描かれたストリートアートが複数描かれている。椅子代わりの木箱も幾つかあるし、空き瓶が何本も壁際に転がっていた。
「あんたどっから来たんだ」
暫く火にあたっていると、急に少年が口を開いた。
その質問に上手く答えられる気がしない。此処はきっと、過去の世界だ。あの【サブスタンス】は対象者を過去に飛ばすことができる。それに巻き込まれてしまった私は何年か前にタイムスリップした。これをそのまま正直に話したところで、信じてもらえないと思う。私だって半信半疑だもの。いっそ夢ならいいのにと目を瞑っても、このリアルな感覚がそうさせてくれない。
「……ええと、遠いところから。…うん、イーストから。仕事で挨拶回りしてたんだけど…まだ、慣れてないのよこの土地に。それで、道に迷っちゃって」
どこから来たのか。当たり障りのない答えを返しても、少年の反応は薄かった。前屈みになって膝上に両肘を乗せている。少年は射貫く様な鋭い目を私に向けた。怪しい人間だって思われているに違いない。
私の顔からも取り繕った笑みが消えそうだった。
「土地勘無いからって、季節外れすぎる」
「そ、そうね。天気予報見るの忘れてたから…今朝は忙しくて」
「サウスは午後からずっと雪だぜ」
そんな日にコートも羽織らずにうろついているのか、と言いたげだった。
時間帯はどうやら午後を回っているらしい。今は何年なんだろう。少なくとも、彼がやんちゃしてた時代のようだし五、六年ぐらい前かな。あんまり昔のことに言及されたくないみたいだから、深く聞いたことはなかった。声変わりはしているようだけど、こっちの人って大人びてるから見た目だけじゃ正確な年齢が分からない。
少年が顔を傾けた時、彼の耳元がきらりと光った。炎の灯りに反射した左耳のピアス。三角形をしたそれは同じものだった。
「なに」
それに目を取られていた私は、聞こえてきた不機嫌な声に慌てた。
「あ、えっと……左耳のピアスは勇気の印、よね。その…私の好きな人も同じようにピアスつけてたから、ちょっと思い出したの」
私がそう答えても、返事は無かった。
迂闊に喋らない方がいいのかもしれない。無闇に話し続けたら、ぼろが出そう。私の発言や行動一つで未来が変わってしまう恐れだってある。相手は会話をする気がないようだし、それが救いだと今は思いたい。
私、元の時代に帰れるのかしら。【サブスタンス】関連ならガストたちが何とかしてくれるだろうか。でも、私が過去の世界に飛ばされてるなんて分かるのかな。
ふと過った不安。寒い風がまた通り抜けていったから、そのせいで身体が震えたんだと思った。
両手に息を吹きかけて、冷えた指先を擦り合わせる。伏せていた私の視界の隅に歪なカップが映り込んだ。少年が無言で差し出していた。受け取ったそれは随分と乱暴に扱われてきたようで、ステンレスマグがぼこぼこに凹んで、傷だらけだ。温かいミルクが入っている。
「ありがとう」
少年はカップを渡した後、何も言わずに自分の席へ戻っていく。
こんなに気まずくて、居心地の悪い空気は初めてだった。ピリピリした空気を纏っているし、雰囲気も全然違う。でも、愛想が無くて取っ付きにくそうに見えても性根は優しい。そこは私の知っている彼と変わらないみたいだ。
口にしたホットミルクは思いの外熱くて、舌を火傷した。冷ましながらそれを飲む間、視線がこっちに向いていた気がするけど、私が顔を上げるとすぐに逸らしていた。炎に照らされた緑色の瞳はまるで赤いエメラルドが燃えているように思えた。
焚火がドラム缶の内側でパチパチと爆ぜている。
身体の中から温まったのも一瞬で、熱はすぐに引いてしまった。身体が寒いと訴えるから、膝を引き寄せて木箱に足を乗せる。お腹にくっつけた膝頭に顔を伏せた。
少し眠くなってきた。昨日、夜更かししたせいで睡眠時間が足りていない。こんな所で居眠りしたらそれこそ凍え死んでしまうかも。
暖を取る体勢を取っていたら、布擦れの音が聞こえた。その直後、肩に重みと暖かさを感じて、顔を上げる。私の肩にコートが被さっていた。少年が羽織っていたモッズコートだ。
「え、あの…」
「そんな格好してたら風邪引く」
「少年の方こそ風邪引くわよ。私のことはいいから」
「寒いんだろ」
物凄く突き放した言い方。だけど、優しさがそこから滲み出ていた。コートにはまだ温もりが残っていて、優しい暖かさを感じる。つい、口元が緩んだ。そうしたら、何がおかしいんだって目をされる。
「……少年は優しいなぁと思って。だって、そうでしょ?見ず知らずの人に暖を分けてあげて、ホットミルクをくれて、おまけにこうしてコートまで貸してくれた」
──困ってるヤツは放っておけないんだよな。
口角を上げて笑う彼の声が聞こえた気がした。
こうやって、いつもガストに助けられていた。私が初めてニューミリオンに来た時も、仕事に行き詰って落ち込んだ時も、恋人にフラれて大泣きした日も。いつだってそうだ。私が困ってる時にはいつも手を差し伸べてくれる。頑張れよって背中を押してくれる時もあったし、行くなって引き止めてもくれた。
私はその優しさを頼りにしていた。
「君は優しいね」
肩から落ちそうになるコートを手で掴みながら、私は笑いかけた。その瞬間、バッと目を逸らされてしまう。それを見てなんとなく素っ気ない理由が分かった気がする。女の子苦手って言ってたし。これは後から聞いたことだけど、職場の後輩がハロウィンの時に声掛けたらしくて、オドオドしてたって言ってた。
振り返ってみれば、そうだったかもしれない。何かある毎に顔赤くしてたから。女の子苦手なのに、よく私と三年以上も友達付き合いできたわよね。やっぱり、女と思われてなかったのかもしれない。前にそう聞いた時は否定されたけど。
「少年はよくここに来てるの?」
「……ああ」
「そっか。雨風凌げるからいいね。…見たところ、少年以外にも来てるみたいだけど」
「ガスト」
「え?」
「少年じゃない。ガストって名前がある」
会話が繋がったと思いきや、口をへの字にしてそう言ってきた。少年呼びが気に喰わなかったんだろう。
名前を教えてくれたけど、とっくに知ってるよ。なんて言えるはずもなく、良い名前だねと私は返した。
「あんたは」
「え、私?」
こっちが名乗ったんだから、当然教えてくれるよなっていう圧を感じた。どうしようかと悩んだ末に、私は危惧の念を抱いた。私を見てくる目は相変わらず鋭くて冷たいけど、さっきよりは少しだけ感情が浮かんでいる。
「教えない」
「はぁ?……なんで」
「なんでって言われても、ね」
「…お前には関係ないって言いたいのか」
「そこまで強く言ってないでしょ…そのうち、分かるわよ」
「それじゃ遅い」
何が遅いんだろう。彼はどうしてか困った表情をしていた。その困り方、同じだった。その眉の寄せ方とか、拗ねてる感じとか。人の仕草って歳月を重ねてもあまり変わらないものなんだ。
「ガストくん、今いくつ?」
「教えない」
「…おっと。仕返しされちゃった。…ま、いっか」
突っぱねた彼は「そっちが名前と歳を教えてくれたら」みたいに交換条件で聞き出そうとしていた。でも、その手には乗らないわよ。
「女性に歳を聞くのは失礼ってことだけ覚えとくといいわ。私はそんなに気にしないけど、世の中の大半の女性はそうだから」
私がそうはぐらかすと、不満そうに顔を歪めた。この表情、前にどっかで見た気がする。ガストが酔いつぶれた時だったかな。
「そんなに不貞腐れた顔してたら、イケメンが台無しよ。……君がお人好しのままでいれば、またどっかで会えるよ。多分ね」
一抹の不安が過る。この会話がきっかけになって、ずっと先の未来に影響が出てしまうんじゃないかと。未来は些細なことで変わってしまう。試験の問いでマルかバツで悩んで、その選択が合格点数に響く。それぐらい、ほんの些細なことで結果が変わるんだから。
あの時の進路、悩んだけれど私は後悔していない。そう思いたい。
コートの温かさが身体を包んだせいか、なんだかうとうとしてきた。
強い眠気が瞼を下げる。眠い。とてもじゃないけど開けていられない。ガスト少年の声が聞こえていた気がするけど、何を喋っていたのか分からない。私はそのまま眠りにストンと落ちていった。
◇◆◇
「穂香、…穂香っ!」
強い呼びかけに私は目を開けた。眩しい。頭が重い。頭どころか、全身に怠さを感じていた。長時間眠っていたみたいに、身体の節々も痛かった。
呼びかけてきた彼、ガストが私の正面にいた。夢うつつのまま彼の名前を呟くと、心配そうにしていたその顔が安堵で緩んだ。
「良かった…帰ってきた」
「帰って………あれ、私……元の時代に」
雪が降りしきる中、トンネルの中で焚火にあたっていた。そこで少年時代のガストと話をしていて。椅子に座った状態の私はぼんやりと辺りを見渡した。白と黒を基調とした室内の家具。棚にはビーカーや試験管、器械が並んでいる。側面の壁に「02研究所」と書かれていた。
暖と飲み物を分けてくれた少年が一瞬にして大人に成長した気がして、違和感が拭えずにいる。でも、帰ってきたみたいで本当に良かった。
「エリオスタワー内にある研究所だよ。憶えてるか?ノースの街路で【サブスタンス】に巻き込まれたんだ」
「……なんとなく。そういえば、目の前にブラックホールみたいなのが現れて、光がチカチカして…う…思い出すと気持ち悪い」
「大丈夫か」
目を瞑ると、あのネオンサインみたいな光が目の奥でチラついて、胸がムカムカしてきた。
ガストの後ろからチェアの軋む音が聞こえた。デスクの前に座っていた人物がゆっくりとこちらを振り返る。白衣を羽織った男の人。長い銀髪を肩に寄せていて、眼鏡を中指でくいと押し上げた。
「恐らく【サブスタンス】の能力により、貴女は別の時代に移動していたと思われます。身体の不調は移動時に負荷がかかったせいでしょう。…あの【サブスタンス】が作り出した次元の狭間に吸い込まれ、時を移動したと言えば理解しやすいでしょうか」
淡々と語る男の人に私は見覚えがあった。確か、ノースセクター所属のメジャーヒーローのはず。
彼は「貴女は運がいい」と目を細めて私に笑いかけてきた。
「私も偶然ではありましたが、貴女がワームホールに吸い込まれたのを彼と共に目撃しました。すぐさま【サブスタンス】を回収し、分析した結果…時の流れに切れ目を入れる能力を持ち合わせていることを突き止めました。周囲の生物を吸い寄せ、次元の狭間に囚える。そして、別の切れ目から対象物を吐き出す。……詰まる所、貴女はごく僅かな時間旅行を経験した」
「時間旅行…?そんな、SFみたいな話が…本当に実在するっていうの」
「私も最初は半信半疑でしたが、分析結果はそう出ていますし、なによりもそれを体感した被験者が私の目の前にいる。論より証拠、というものですね」
時間旅行。映画や小説、空想の中でしか存在しない言葉だと思っていた。でも、あの時感じた寒さや温かさは確かに残っている。
「貴女が実際に体験してきたお話を詳しく伺いたいのですが……どうやら叶わないようですね」
その人はふうと短い息を吐いた。諦めにも近い溜息の直後、外からパタパタと駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
研究室のドアがスッと開いて、転がり込むように白衣を着た黒髪の男が現れた。情けない声を上げながら助けを求めている。
「ヴィク~!助けてくれ~」
「どうしたんですかノヴァ。私は今取り込み中ですよ」
「こっちも大変なんだよ~。猫の手を十本は借りたいぐらいなんだ。でも、ヴィクが手を貸してくれたら猫の手五十本分になるよ」
「奇妙な例えをしないでください。……分かりました。今行きます。申し訳ありませんが、私は少々席を外しますのでここで暫くお待ちください。気分が優れなければ奥に仮眠用のベッドもありますし、飲み物もご自由にどうぞ」
彼が席を立った時「あれ、来客中だった?ガストくんもいるし」と今さら私たちの存在に気が付いたようだった。それに構わず、ノヴァと呼ばれた男の人を連れて研究室を出ていく。彼らが去った後、室内はしんと静まり返った。
さっきのデスクには鉱石のような物が幾つも飾られている。ガラスのショーケースに大事に飾られたそれらは黄色やピンクの光を宿している。歪な形をしているけど、呼吸をするようにゆっくりと光が点滅している。
「ドクターの趣味兼研究ってとこだ」
「へぇ……ヒーローっていうよりは研究者っぽい人よね。白衣が似合ってたし」
「間違っちゃいないかもな。本人も【サブスタンス】を回収してたらいつの間にかヒーローになってたって言うし。…何か飲むか?」
「ん…お願いしようかな」
「オーケー。ちょっと待っててくれ」
私に笑いかけてきたガストは優しい表情をしていた。さっきの少年とは雰囲気が全然違う。ギャップが激しすぎて、同一人物なのかと困惑しそう。
研究所にはコーヒーメーカーも備え付けてあるみたいだ。ガストが傾けたデカンタからコーヒーの香りが漂う。マグカップに注がれたそれを私に手渡してくれた。
「ありがと」
「…気分、大丈夫か?」
「うん。…だいぶ良くなった」
「そっか。コーヒー、火傷するほど熱くはないはずだから。安心して飲めよ」
マグカップに口をつけようとした私は、そのセリフに顔を上げた。私が不思議に思っていたのが相手に伝わったのか、後頭部を掻く様にして苦笑いを浮かべる。
「あの時、気ぃ利かせてホットミルク作ったけど……火加減強すぎたのか、舌火傷するぐらい熱かったんだよな?…見るからに沸騰してたし、ヤバいと思ったんだ。でも、寒そうにしてたから」
「……憶えてるの?私が…過去のガストに会ったこと」
デスクの前に残されたチェアにガストが腰を下ろした。私を見る碧の瞳はいつもの、優しい眼差し。心のどこかで私は安心していた。
短く頷いた彼は組んだ手元に視線を落としながら、ぽつりと話し始める。
「あの日は、午後から雪がずっと降ってた。……なんかさ、急に割り込んできたんだよ。記憶に…取って付けたように。しかも、昨日の出来事みたいに鮮明に憶えてるんだ。実際は六年も前だってのに…不思議だよな」
ああ、やっぱり過去に介入したことになってるんだ。彼の記憶にはっきりと私のことが残されている。
私は苦いコーヒーを一口だけ飲んで、脇のテーブルにそれを静かに置いた。
「ねぇ、一応確認したいんだけど。……私たちの関係性、変わってない…よね」
「……やっぱお友達でいましょう、って言われたら立ち直れないかもな」
怪訝に眉を顰めた彼の表情と言葉から、私たちの関係は何一つ変わっていないことが窺えた。良かった。
「急にどうしたんだ。らしくないな」
「……ほら、私が過去のガストにコンタクトを取ったことで、未来に変化が生じているんじゃないかって思ったの」
「たかが一時間くらい顔合わせただけだってのにか。名前だって教えてくれなかったし……そのうち分かるって。まぁ、今回の件が【サブスタンス】が影響してるなら、その理由も今なら分かる。でも、歳はともかく名前くらいはいいだろ。こっちだって名乗ったんだし」
「……その名前の記憶を頼りにして、同名の別人と出逢ったら?ああ、この人があの時に会った人だ。それで、もしかしたらそこから恋が芽生えているかもしれない。……私とガストはただの友達だったかもしれない。会ってすらいないかもしれない。ほんの些細なことで未来は変わっていくのよ。コーヒーかココア、どっちを選ぶかみたいに…些細なことで。だから、過去から戻って来た時にお互いが他人同士だったら、どうしようって…考えてた」
たった一時間でも未来が塗り替えられる可能性は充分にある。私以外は誰もそのことに気づかないだろうし、それが当たり前だと受け入れる。私だけの記憶が上書きされなくて、時の流れに置き忘れられてしまう。違和感を抱きながらずっと過ごしていくのかと思うと、震えが止まらなくなりそうだった。
「やだ……今頃になって震えてきた」
もしかしたら元の時代に戻って来られなかったかもしれない。そう考えた瞬間に恐怖で身が竦み、身体が小刻みに震えてきた。
「貴女は運がいい」本当にその通りだ。何の前触れも心構えもなく過去に飛ばされて、帰れる補償なんて一つも無かった。
両腕で震える自分の身体を抱きしめる。震えが止まらない。そんな私をガストの腕が優しく包み込んでくれた。彼の纏う香水がどうしてか懐かしいとすら思えて、涙が溢れそうになる。
「絶対に穂香を見つける。何処にいたって、必ずだ。それに、間違えたりもしない」
「……私が、日本にいても?」
「ああ。迎えに行く」
視界が、涙で滲んでいく。瞬き一つでその涙は雫になって、頬を伝っていった。
縋るようにその背に腕を回して、彼の胸に顔を寄せる。しっかりと抱きしめてくれた彼の吐息が耳元で聞こえた。肺に留めていた息をゆっくりと吐き出している。
「……俺が伸ばした手、届かなかったんだ。あと少し、指先が掴めそうってところで……ドクターがいなきゃ、正気でいられなかったかもしれねぇ。他の誰かを巻き込む前に【サブスタンス】を回収したけど、話聞いてる間も気が気じゃなくてさ。……もし、穂香が帰って来なかったら。そんな不安ばかり頭に浮かんじまって。だから、本当に……良かった」
ガストの声は震えていた。少し痛いくらいの抱擁が今の私には丁度良くて、腕の中が心地よかった。私の身体の震えはいつの間にか溶けるように消えていた。
彼の胸に手を当てて、顔を上げる。柔らかい笑顔を浮かべたガストがどうしたのかと訊いてくる。
「ガストの表情、今と全然違ってた。荒れてたから…なのかなって」
「あぁ…あれは、だな」
彼はまるで昨日の出来事を振り返るように、あの日を思い返していた。私の好きな色をした目が軽く伏せられて、静かに語り始める。
「あの年、自殺者が多かったんだ。俺らよりも上の世代で特にな。社会に嫌気がさしたとか、職を失ったとか、恋人に裏切られたとか…理由は様々だ。連日悪いニュースばっか耳にしてる中、真冬だってのに春先みたいな薄着の格好した女の人が現れたんだ。不良がたむろするような場所に一人で、バッグも何も持たずに。思いつめたような表情してたし、もしかしたら…って勘ぐっちまった。だから、何とか踏み留まらせないと思ったんだ。でも、下手に刺激したら逆効果だし、どうすりゃいいのか……そんなことばっか考えてたな」
彼の口が語った理由は女の人が苦手とか、大人と関わるのが嫌な思春期とかそういったものじゃなかった。人の良さが根底から滲み出た行動だったという。
私の名前を知りたがったのも、気を紛らわせるためにコミュニケーションを取ろうとした一環。翌朝のニュースで報道されてからでは遅い、そう言いたかったんだと。
「私、寝不足だったから……余計に疲れた表情してたのかもね。変な迷惑かけてごめんなさい」
「六年越しにそうじゃないって分かって、今更ながら安心したよ。…あの後、雪みたいに解けて消えたんだ。マジで焦った。俺のコートだけそこに落ちてたし、ちょっと目を離した隙にどっか行ったのかって。後から来た仲間にも周り探してもらってさ。……でも、足跡が無かった。寒さのあまり幻覚でも見たんじゃないのかとも言われたっけ」
「……そうだ、あのコート。良かったこっちに持ってきてなくて。…もしこっちに持って帰ってきてたら、ガスト少年に風邪引かせるところだったわ」
自分だって寒いはずなのに、私の肩にコートを掛けてくれた。悩みながら真摯に向き合ってくれていたのだと思うと、少しこそばゆい気持ちになる。
「もう、寒くないか」
「うん。…おかげで寒さも震えも止まった。ありがとう、ガスト」
彼はふわりと微笑んで、私の頬に手を添える。透き通るようなこの眼差しに見つめられると、俄かに胸がドキドキしてきた。
そのまま吸い寄せられるように軽い口づけを交わす。触れるだけのキスに何度も応じた後、名残惜しそうに彼の顔が離れた。息を少し上げながら「これ以上は抑えが利かなくなる」と言い、ぎゅっと私を抱きしめた。いつさっきの人が戻ってくるか分からないからと。
耳元で囁かれた言葉に顔どころか身体が火照りそうにもなった。