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少しずつ君に近づく
深夜零時過ぎ。
エリオスタワーに戻って来たフェイスは薄暗い廊下を進んでいた。消灯時間はとうに過ぎており、静寂がフロア全体を包み込んでいる。この居住フロアで生活している者たちは既に寝静まっている様子。そこにフェイスの足音だけが寂しく響いた。
自室へ向かう途中、フェイスは自販機の前に人影を見つけた。自分の様に夜遊びから帰ってきた人間だろうか。それとも夜間トレーニングを終えた熱心な者か。
フェイスは足音を忍ばせた。甘い物で喉の渇きを潤したかったので、そこの自販機を利用しようと考えていたのだが。後者で顔見知りだった場合、小言を被る可能性も考えられる。ただでさえ今夜は疲れているのだ、気分をこれ以上害したくない。確か共用冷蔵庫に飲み物を買って入れておいたはず。今飲みたいものではないが、それで妥協するとしよう。
そうとなればと足早に自販機の前を通り過ぎようとした時だ。運悪く相手がフェイスに気づいたようで「よぅ、フェイス」と声を掛けられてしまった。しかし、声の主が気を使う必要の無い同期だと分かれば話は別だ。
自販機の前でスポーツドリンクを手にしたガストがフェイスに笑いかけた。
「お前も今帰りなのか」
「まぁね。そっちは集まりの帰り?」
「そんなとこだな。相談したいことがあるって言われてたから、ちょっとな。…結構話が長引いちまった。日付変わる前には戻ってくる予定だったんだけどな」
ガスト・アドラーという男はよく喋る。頼みもしないのにあれこれ語り始めるのだ。元よりお喋りが好きなのか、若しくはこれが彼なりのコミュニケーション方法なのか。どちらにせよ、面倒見が良い為に年下から好かれる性格をしている。午前様になる前にと話していたが、弟分たちの話を途中で切り上げることが出来ずにいたのだろう。
この性格が裏目に出ることもあり、他の同期からは鬱陶しいと煙たがれてもいるようだ。
「へぇ…兄貴分は大変みたいだね」
「うーん…大変とかは特に考えたことねぇかも。慕ってくれてるヤツらだし、頼られるのは嫌いじゃないしな」
ガストが浮かべたその笑みにお世辞や嘘は含まれていないように思えた。彼は誰に対しても人当たりが良い、というよりも単にお人好しだ。少なくともフェイスの目にはそう映っていた。
この二人は第13期ヒーローの中でも注目を集めていた。特に容姿に関して。女性市民からの評判がとても良い。
ウエストセクター所属のフェイスは愛嬌も良く、異性との交遊関係も幅広い。クラブのDJを興じる関係もあり、若い女性からの人気が厚い。
フェイスは女性の扱い方、と言えば聞こえは悪いかもしれないがかなり慣れている。一方、ガストは全くと言っていいほど女性に対する免疫が無い。顔が良い為にパトロール中も声を掛けられる機会が多いのだが、素っ気ない態度を取りがちだ。対応の仕方が分からないといった風に。以前パトロールを共にした際、さり気なくフェイスに助けを求めたことも。
そんな彼のある噂を一つフェイスは思い出した。
「そういえば、彼女できたんだって?」
自販機の前に立っていたガストはフェイスに譲るように横へ避けた。ペットボトルのキャップに掛けた手をぴたりと止める。自販機のコーナー一角を照らす薄ぼんやりとした照明。その下で照れ笑いが浮かび上がった。彼は否定することなく、頷いて見せた。
「オメデトウ。良かったね。女の子苦手みたいな感じだったし、てっきり興味ないのかと思ってたけど」
「はは…同じようなことレンのヤツにも言われた。まぁ、彼女は特別っていうか…ずっと好きだった子なんだ」
「ふーん。付き合ってどのくらいなの」
自販機のドリンクを眺めながらフェイスは訊ねる。数種類の甘い飲み物からココアかミルクティーのどちらかに絞り始めた。隣からキャップを捻る音が聞こえた。
ガストの恋愛模様は三年来の片思いから始まっていた。昨年の雪が降り始める頃にようやく想いを打ち明けることができ、今に至る。諸事情により友人としての関係が長いのだが、今の所特に問題も無い。
ペットボトルに口を近づけたガストは宙を見上げ、もう三か月も経つのかと感慨深く浸る。
「んー…三か月くらい、だな。クリスマスやニューイヤーのカウントダウン、バレンタインも一緒に過ごせたし。イイ感じだと思うぜ」
自分で言うのもなんだけど。あくまで控えめに笑うガストの顔は実に幸せそうなものだった。初めて彼女が出来て浮かれている、そんな風にも捉えられる。お揃いのマグカップを使ってるんだと惚気てもいた。
当人は悪気なんてものは一切無いのだろうが、フェイスの片眉がぴくりと動いた。バレンタインに甘い思い出を得たガストとは違い、フェイスは苦い思いを抱えた。
バレンタイン間近に両想いチョコを口にしてしまったせいで、問題が色々と発生。イベントリーグ戦の難局は乗り超えたが、実兄の前であんなことを口にしてしまったのだ。例え自分の意思と関係なくとも、兄の無反応といい居心地の悪さは半端なものではなかった。
あの澄ました涼しい顔を思い出すだけで、虫の居所が悪くなるというもの。
「順調そうだけど、どこまでいったの?」
「まだあんまり遠出はしてないんだ。あ、でも付き合う前に一番遠い所だとサウスの麦畑を見に行った。……そうだな、たまには遠出するのも悪くないよなぁ」
彼女と休みを合わせて一泊二日の小旅行も良さそうだと旅行プランを考え始めるガスト。無邪気な表情で。それを聞いたフェイスは「いやそうじゃない」と思わず心の中でツッコミを入れてしまった。彼らしいと言えば、らしいのだが。
「距離じゃなくて、関係」
「…距離じゃない、関係…?」
何の謎かけか。本気で理解していないガストが首を傾げる。これはもどかしい。表現をぼかしたところで、一ミリも相手には伝わらない。そう確信したフェイスはスマホを端末にかざし、自販機のボタンをグッと指で押し込んだ。
「体の関係」
ピッと電子音が鳴り、自販機の取り出し口にホットココアの缶が音を立てて落ちてきた。
フェイスが腰を屈めてそれを拾い上げる間、ガストの時が僅かに止まる。刹那、突然火が点いたように顔を赤らめた。周囲が薄暗い為、フェイスからは彼の顔色を窺えない。
「い、いやっ……それは、その…なんつーか」
どうやらこの動揺ぶりからして、恋人としてはまだまだ序の口のようだ。恐らく彼は茹蛸の様になっているのだろう。それを想像すると堪らなく面白く思えてきたフェイスの口元がにやりと笑う。喉の奥から笑いが溢れてきそうにもなる。
「三か月も付き合ってるなら、それなりに進んでると思ってたんだけど。その様子じゃ、キスもまだしてあげてないんじゃないの?」
フェイスの問い掛けに押し黙った相手は平行にすーっと目を逸らした。図星のようだ。
女性に苦手意識を持つ理由を詳しくは知らないが、距離を詰められただけで表情筋が強張るような男だ。これではせっかく実った恋が熟れる前に朽ちてしまうのでは。
「ガストの彼女がどんな子かは知らないけど、人によってはちゃんとしてあげないと。愛想尽かされるかもね」
「えっ」とガストは不安そうな声を発した。表情も同じ色に染められている。
「シャイなのも個性って言うけどさ、あまりに消極的なのも呆れられちゃうかもね」
「う…」
「ガストはさ、手に入れてハイそれで満足ってタイプなわけ?」
「そ、そんなワケないだろ。俺だって…」
「じゃあ尚更。ちゃんと構ってあげないと自分には魅力が無いとか、ただの友達としてか見てないんだとか思われるよ」
フェイスが放つ言葉の矢がグサグサとガストに突き刺さっていく。彼の言い分は何とも弱々しいもので「そんな風には思ってない」などと消え入りそうな声で返していた。
「……まだ早いんじゃないかなーって、思って」
「まだ早いって言い続けて、ずるずる引き延ばしていきそうだよねガストの場合。それに、そんなつもりはないって自分で思ってても、相手には伝わらないモンだよ。……とまぁ、そんな感じでさっき俺もフラれてきたとこ」
「い…嫌な実例すぎる」
フラれたと言っても、相手が勝手に彼女気取りでいたのだ。こうした思い込みの激しい子がたまにいる。そういう子に限っていつも通りの接し方にも拘わらず、勝手にヒートアップしてしまう。そしてつい先刻「キスの一つもしてくれない!」と一方的に喚かれ、嘆かれ、別れを告げられた。
フェイスにとっては右から左に流せる話ではあるが、怒鳴り散らされたことに気分を害していたのだ。
「好きなら態度で示してあげないと。不安になってるかもね」
他人に説教など、らしくない。そう思いながらもフェイスは口を開いていた。ガストの初心な反応が面白く、つい揶揄ってしまう。
少し意地悪が過ぎただろうか。だが、このぐらい発破をかけなければ進展はいつまで経っても無い。この方がお互いの為だろう。
同期のしどろもどろになる様子を見ていたフェイスの腹の虫はすっかり収まっていた。
「頑張って」
口の端をにぃと持ち上げて笑うフェイスの表情。ガストの目にはそれがまるで小悪魔的なものに映っていた。
◇◆◇
数日後。ガストは穂香の部屋に訪れていた。
グリーンイーストの郊外で行われるイベントに赴く予定が生憎の雨。雨天決行とはならずに、残念ながらも中止になってしまった。小雨程度ならば開催すると記載されていたが、雨粒が傘をバチバチと弾くほどの雨だ。イーストの駅でその情報を得た二人は目的地を穂香のアパートに変更。無理に出歩かずに室内でのんびりと過ごそうという話になったのだ。
「おススメの面白いドラマがあるからそれを見よう」という彼女の提案を受け入れ、その視聴に付き合うことになったガスト。
ソファで肩を並べることに緊張するのはいつぶりだ。その距離は以前よりもずっと縮まっている。肩が触れ合うことにようやく慣れてきたというのに、先日のフェイスの話に翻弄されていた。
マグカップを受け取る際に指先が触れたり、スマホに表示された情報を共有する為に顔が近づいたり。やわらかな褐色の瞳と視線が合っただけで心臓が破裂してしまいそうになる。
これじゃあ逆戻りじゃないか。過剰に意識し過ぎていると何度もガストは心を落ち着かせようとしていた。
事前に穂香から聞いたドラマのあらすじはこうだ。
主人公の女性が異世界に飛ばされ、その世界で出逢う人々との生活を描いたもの。原作が漫画という情報も得た。コミカルで話の流れもテンポよく進んでいき、男女の恋愛模様も色濃い。今売れている俳優も出ている。しかし、気がそぞろなせいで話の内容はガストの頭に殆ど入ってこなかった。気が付けば新しく登場した人物と言い争いをしている。揉め事の原因がさっぱりだ。
これではドラマの感想を求められても、適当な相槌しか打てそうにない。少しでも平常心を取り戻し、ストーリーを理解しなくては。ガストは温くなったアールグレイを喉に流し込んだ。
「そろそろ休憩にしましょ」
「…え?」
「同じところ集中してずっと見てたら具合悪くならない?映画館の上映が終わった後みたいに」
「あ、あぁ……そうだな」
「四時間以上も見てたのね」
どうやら時間は瞬く間に過ぎていたようで、フィルム一本の上映時間よりもじっとしていた。身体も凝り固まるはずだと言いながら腕を伸ばす穂香。考え事をしていたガストは画面に集中できず、差ほど眼精疲労は感じていない。
「お茶、淹れる?」
「ん…もらう」
「ダージリンもあるけど、そっち淹れる?」
「あー…いや、同じのでいいよ」
「…オーケー。アールグレイにするわね」
気落ちしたような返事とぎこちない笑み。ガストの様子がどうもおかしい。
薄々そう感じていた穂香は電気ケトルに水を入れながら、ちらりと彼の様子を盗み見る。ガストは手元のスマホを弄っていたが、その横顔はどこか思い詰めているような表情と捉えることができた。
今日に限って口数も少ない。いつもならば「こんなことがあった」と楽しそうに話してくるのだが。いくらイベントが流れて残念とはいえ、気持ちをすぐに切り替えてしまうのが彼の性分。
視聴中のドラマが気に入らなかったのだろうか。彼は自分の主張を抑えがちだ。いつも相手に合わせようと、言葉や感情を選んでいる。こちらの考えを真っ向から否定することもなく、受け止めてくれる。その優しさに甘えてきた。しかし、少しは自分のことを大事にしてもらいたい。
それにしてもだ。随分と上の空である。先述した件は関係ないのか。お湯が沸くまで穂香はあれこれと思案していた。
ふと、一抹の不安が過る。この状況下はあの時と酷似していた。二年前、ニューミリオンから帰省した際に対面した元カレとのやり取りと。愛情が冷め始めていると気づいてしまった日。
途端に穂香の胸中がざわついた。
カチリとレバーが下がったケトルを傾け、お湯をマグカップに注ぐ。アールグレイのティーバッグを一つずつ浮かべる。不織布に少しずつお湯が浸透し、ゆっくりと沈んでいく様を穂香は俯きがちに眺めていた。
「お待たせ」
「ん、サンキュー。この紅茶、結構美味いよな。英国産、だったか?」
「うん。輸入物産展で買ってきたの」
穂香はマグカップを手渡さずに直接テーブルの上に置いた。先程よりもガストから少しだけ距離を取り、ソファに腰を下ろす。
並んだ色違いのマグカップから湯気と茶葉の香りが揺らいでいる。
「ねぇ、ガスト」
「ん?」
「話、あるなら聞くわ」
「え…話って、いや…特にあるワケじゃないけど」
「……」
改まって話すような内容は無い。先日から抱えている悩みはあれども、彼女に話すのも気が引けていた。過去のトラウマから女性に対して臆病だと打ち明けてまだ半年も経っていない。情けない男だとこれ以上思われるのはどうにも耐えられない。
この問題はもう少し煮詰めてからと考えを纏めていた。だが、穂香の俯いた表情があまりにも曇っていることにガストは気づく。今さっきまではドラマを楽しんでいたというのに。
「…どうしたんだ?」
もしかすると、だいぶ前から彼女の様子がおかしかったのかもしれない。不覚にも今それに気がついた。彼女を気遣い、そう訊ねる。ゆっくりと持ち上げられた穂香の瞳は揺れていた。
これを見たガストはいよいよ慌て始める。何があったのかはまだ汲み取れていないが、悲しみに暮れている表情を見るのはどうにも辛い。
マグカップに手を伸ばし掛けたガストはその手を引っ込め、穂香と向き合った。
「ごめん。…俺、ちょっと考え事しててさ。そのせいで色々気が散ってて…穂香が何か悩んでることに気づけなかった。悪い。…今更かもしれねぇけど、俺が聞けることなら何でも聞く」
その声色からはガストの優しさが滲み出ていた。こうして真っ直ぐに向き合い、どうしたのかと訊ねてくれる。そこが以前のカレとは違うパターンだった。
「話したいことがあるなら聞く」と受け入れる態勢を見せたところで、煮え切らない曖昧な態度を取られたのだ。気のせいか、思い違いかもしれないと相手を信じてきた結果。電話越しに別れを告げられた。
思いがすれ違い始めたならば、早めに終止符を打った方がいい。その方がお互いの為だ。
「…その考え事、話してくれていいのよ。ちゃんと聞くし、受け入れる。傷は浅いうちの方がいいもの」
「ちょ、待ってくれ…話の全体像が見えてこねぇんだけど…?」
自分の悩みをまだ話していない。例え感づいたとしても、傷が浅いうちにというのは何やらおかしい。一体何がどうなっているのか。
「友達のままの方が良かった。そう、思い始めたんじゃないの?……その話、いつ切り出そうかって考えてたんじゃ…やけに上の空だったし。それに、何となく避けられてる気がしたから」
穂香はこの短時間に抱いた違和感を正直に打ち明けた。
それを聞いたガストはあまりにも驚いてしまい、双眼を見開いた。そして首をぶんぶんと横へ振り続ける。
「いやいや、全然違う!って、なんでいつの間にそんな話になってんだ?!」
ドラマ以上に予想外の展開だ。どこからどう曲解したのか。いや、そうなった原因は自分の態度だとガストは直ぐに気づいた。
悩みがどうあれ、いつもと違う態度を示したせいで不安にさせてしまったのだ。
膝の上で握りしめている小さな手。ガストは自分の手の平をそこに重ね合わせた。温度は普段よりも少し低い。
俯きがちに下唇を噛んでいた穂香は顔を少し上げた。真っ直ぐに見つめてくる深いグリーンの瞳が項垂れている。
「…俺の態度がおかしいから、変に勘繰っちまったんだよな。ごめん」
一筋、涙が穂香の瞳から零れ落ちた。片手で雫を払う姿にガストは胸を痛めていた。好きな子を泣かせまいと決めていたのに、自分のせいで涙を零している。彼女は気丈に見えても、臆病だ。想いを告げたあの日にそう話してくれた。そんな彼女を泣かせてしまったのは紛れもなく自分だ。
「……ごめん、ホントに」
「こっちこそ、ごめんなさい。……前、元カレの時もこんな風に様子がおかしいって感じて、どうしたのって聞いても何でもないってはぐらかされて。……大丈夫だって信じてた結果、ああなってしまったから」
以前の恋人のことを話す声は微かに震えていた。俯いた頬に涙がまた伝っていく。この涙を止めるにはどうしたらいいのだろうか。頬に手を添えて、涙を拭うだけでは止まりそうにないとガストは感じていた。
幼い子どもの宥め方は心得ているが、恋人の泣き止ませ方は未だに掴めていない。頭を撫でて優しい声を掛け続ける、抱きしめて背中をさするのもどこか的外れだ。
『好きなら態度で示してあげないと』
ふと、数日前に不安を煽ってきた同期の言葉が聞こえた。
「穂香」と優しい声で呼びかけたガストはゆっくりと顔を近づけた。頬に添えていた手を滑らせ、顎先を支える。目を閉じて、桜色の唇に自身のそれを重ねた。触れるだけの口づけを一つ。
十センチにも満たない距離を保つ二人は互いに見つめ合っていた。すると、真面目な表情をしていたガストの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。ついには目を合わせていられなくなり、顔を片手で覆い伏せてしまった。髪の毛隙間から覗く耳も真っ赤だ。
そんな彼の様子に呆気に取られてしまい、穂香はきょとんとしていた。ここまで赤面するのも珍しい。
「ガスト……大丈夫?」
「……見ないでくれ。カッコ悪ぃ…」
たかがキスの一つくらいで、ここまで恥ずかしがってどうする。顔は元より、全身が熱くなりすぎて火傷をしてしまいそうだ。
笑う声がガストの耳に聞こえてきた。穂香がくすくすと可笑しそうに、目を細めて笑っている。その姿を見たガストは恥ずかしさよりも、彼女が涙を止めてくれたことの嬉しさの方が上回った。
彼女の朗らかな笑い声につられ、ガストの口元もやんわりと緩む。
「…涙、止まったか?」
「うん。笑い過ぎて今度は別の涙が出てきそう」
「悲しいよりもそっちの方が断然いいって」
「ええ…ありがと、ガスト」
穂香は細い指先を絡めてくる。その指先と手の平を重ね合わせて、ガストはぎゅっと握り返した。微笑んだ彼女の表情が堪らなく愛おしい。今はこうしているだけで胸一杯に幸せが満たされる。
先程の件、一人で悩みを抱えているよりも正直に打ち明けてしまった方がいいのでは。そう思い始めたガスト。その方がこの先誤解を招かなくて済むだろう。
「穂香。あのさ、さっき話は無いって言ったけど…悩みはあるっつーか…これ、俺一人でどうにかなるモンでもないし。どうしようかって…悩んでたせいでこんなことになっちまったな」
「私の方こそ変に誤解してた。…聞いても大丈夫な悩みなら、相談に乗るわ」
「あぁ…むしろ、俺たちのことっていうか。だからって、別れ話とかじゃないからな?思いつく不満とかもねぇし。逆に穂香が俺に不満とか、不快に思ってるんじゃないか…って思って」
眉根を寄せたガストの目が伏せられた。
恋人としてスキンシップをはかりたいのは山々。だが、過去のトラウマを未だに引きずっているせいで、幼い自分が腕を掴んで引き止める。「嫌われてもいいのか」と。初恋の子に思い切り引っ叩かれた、苦い思い出をずっと抱えてきた。自分の気持ちを軽々しく表に出してしまっては相手を不快にさせる。そう学んだのもその時だ。
「不満なんてないわよ。あったら言ってる」穂香がそう返した。私の性格を知ってるでしょうと。その言葉が優しくガストの胸に響く。
「サンキュ。その優しさは嬉しいんだけどさ、いつまでも甘えてたらダメだって…考えさせられることがあって。…ほら、俺スキンシップが苦手だろ。だから、その…愛想尽かされるんじゃないかっていう不安がだな」
「…それで意識し過ぎてぎくしゃくしてたってわけね。ガストが女の子苦手だっていうの知ってるもの。自分たちのペースで行こうって言ったじゃない。私はそれで構わないわ」
「俺からすれば穂香の方が優しさの塊に思えてきた。……もっと触れたいとか、一緒にいたいとか。そういう願望はあるんだけどな。今はこれくらいで精一杯だ」
ガストは繋いだ手と手に視線を向けてから、はにかんだ顔を上げてみせる。
「でも、これだけは言える。俺が穂香を好きだっていう気持ちはいつも溢れそうなぐらいにあるし、今も昔も穂香に夢中なんだ」
優しく微笑んだその瞳に思わず穂香の胸が高鳴った。
何度も見てきたはずの温かくて優しい光を宿した瞳。いつも落ち着きと安らぎを与えてくれたそれは、友人を見る眼差しから愛しい人に向けるものへと変わっていた。
甘い紅茶の味がしたキス。今頃になって穂香の頬を薄紅色に染めた。
深夜零時過ぎ。
エリオスタワーに戻って来たフェイスは薄暗い廊下を進んでいた。消灯時間はとうに過ぎており、静寂がフロア全体を包み込んでいる。この居住フロアで生活している者たちは既に寝静まっている様子。そこにフェイスの足音だけが寂しく響いた。
自室へ向かう途中、フェイスは自販機の前に人影を見つけた。自分の様に夜遊びから帰ってきた人間だろうか。それとも夜間トレーニングを終えた熱心な者か。
フェイスは足音を忍ばせた。甘い物で喉の渇きを潤したかったので、そこの自販機を利用しようと考えていたのだが。後者で顔見知りだった場合、小言を被る可能性も考えられる。ただでさえ今夜は疲れているのだ、気分をこれ以上害したくない。確か共用冷蔵庫に飲み物を買って入れておいたはず。今飲みたいものではないが、それで妥協するとしよう。
そうとなればと足早に自販機の前を通り過ぎようとした時だ。運悪く相手がフェイスに気づいたようで「よぅ、フェイス」と声を掛けられてしまった。しかし、声の主が気を使う必要の無い同期だと分かれば話は別だ。
自販機の前でスポーツドリンクを手にしたガストがフェイスに笑いかけた。
「お前も今帰りなのか」
「まぁね。そっちは集まりの帰り?」
「そんなとこだな。相談したいことがあるって言われてたから、ちょっとな。…結構話が長引いちまった。日付変わる前には戻ってくる予定だったんだけどな」
ガスト・アドラーという男はよく喋る。頼みもしないのにあれこれ語り始めるのだ。元よりお喋りが好きなのか、若しくはこれが彼なりのコミュニケーション方法なのか。どちらにせよ、面倒見が良い為に年下から好かれる性格をしている。午前様になる前にと話していたが、弟分たちの話を途中で切り上げることが出来ずにいたのだろう。
この性格が裏目に出ることもあり、他の同期からは鬱陶しいと煙たがれてもいるようだ。
「へぇ…兄貴分は大変みたいだね」
「うーん…大変とかは特に考えたことねぇかも。慕ってくれてるヤツらだし、頼られるのは嫌いじゃないしな」
ガストが浮かべたその笑みにお世辞や嘘は含まれていないように思えた。彼は誰に対しても人当たりが良い、というよりも単にお人好しだ。少なくともフェイスの目にはそう映っていた。
この二人は第13期ヒーローの中でも注目を集めていた。特に容姿に関して。女性市民からの評判がとても良い。
ウエストセクター所属のフェイスは愛嬌も良く、異性との交遊関係も幅広い。クラブのDJを興じる関係もあり、若い女性からの人気が厚い。
フェイスは女性の扱い方、と言えば聞こえは悪いかもしれないがかなり慣れている。一方、ガストは全くと言っていいほど女性に対する免疫が無い。顔が良い為にパトロール中も声を掛けられる機会が多いのだが、素っ気ない態度を取りがちだ。対応の仕方が分からないといった風に。以前パトロールを共にした際、さり気なくフェイスに助けを求めたことも。
そんな彼のある噂を一つフェイスは思い出した。
「そういえば、彼女できたんだって?」
自販機の前に立っていたガストはフェイスに譲るように横へ避けた。ペットボトルのキャップに掛けた手をぴたりと止める。自販機のコーナー一角を照らす薄ぼんやりとした照明。その下で照れ笑いが浮かび上がった。彼は否定することなく、頷いて見せた。
「オメデトウ。良かったね。女の子苦手みたいな感じだったし、てっきり興味ないのかと思ってたけど」
「はは…同じようなことレンのヤツにも言われた。まぁ、彼女は特別っていうか…ずっと好きだった子なんだ」
「ふーん。付き合ってどのくらいなの」
自販機のドリンクを眺めながらフェイスは訊ねる。数種類の甘い飲み物からココアかミルクティーのどちらかに絞り始めた。隣からキャップを捻る音が聞こえた。
ガストの恋愛模様は三年来の片思いから始まっていた。昨年の雪が降り始める頃にようやく想いを打ち明けることができ、今に至る。諸事情により友人としての関係が長いのだが、今の所特に問題も無い。
ペットボトルに口を近づけたガストは宙を見上げ、もう三か月も経つのかと感慨深く浸る。
「んー…三か月くらい、だな。クリスマスやニューイヤーのカウントダウン、バレンタインも一緒に過ごせたし。イイ感じだと思うぜ」
自分で言うのもなんだけど。あくまで控えめに笑うガストの顔は実に幸せそうなものだった。初めて彼女が出来て浮かれている、そんな風にも捉えられる。お揃いのマグカップを使ってるんだと惚気てもいた。
当人は悪気なんてものは一切無いのだろうが、フェイスの片眉がぴくりと動いた。バレンタインに甘い思い出を得たガストとは違い、フェイスは苦い思いを抱えた。
バレンタイン間近に両想いチョコを口にしてしまったせいで、問題が色々と発生。イベントリーグ戦の難局は乗り超えたが、実兄の前であんなことを口にしてしまったのだ。例え自分の意思と関係なくとも、兄の無反応といい居心地の悪さは半端なものではなかった。
あの澄ました涼しい顔を思い出すだけで、虫の居所が悪くなるというもの。
「順調そうだけど、どこまでいったの?」
「まだあんまり遠出はしてないんだ。あ、でも付き合う前に一番遠い所だとサウスの麦畑を見に行った。……そうだな、たまには遠出するのも悪くないよなぁ」
彼女と休みを合わせて一泊二日の小旅行も良さそうだと旅行プランを考え始めるガスト。無邪気な表情で。それを聞いたフェイスは「いやそうじゃない」と思わず心の中でツッコミを入れてしまった。彼らしいと言えば、らしいのだが。
「距離じゃなくて、関係」
「…距離じゃない、関係…?」
何の謎かけか。本気で理解していないガストが首を傾げる。これはもどかしい。表現をぼかしたところで、一ミリも相手には伝わらない。そう確信したフェイスはスマホを端末にかざし、自販機のボタンをグッと指で押し込んだ。
「体の関係」
ピッと電子音が鳴り、自販機の取り出し口にホットココアの缶が音を立てて落ちてきた。
フェイスが腰を屈めてそれを拾い上げる間、ガストの時が僅かに止まる。刹那、突然火が点いたように顔を赤らめた。周囲が薄暗い為、フェイスからは彼の顔色を窺えない。
「い、いやっ……それは、その…なんつーか」
どうやらこの動揺ぶりからして、恋人としてはまだまだ序の口のようだ。恐らく彼は茹蛸の様になっているのだろう。それを想像すると堪らなく面白く思えてきたフェイスの口元がにやりと笑う。喉の奥から笑いが溢れてきそうにもなる。
「三か月も付き合ってるなら、それなりに進んでると思ってたんだけど。その様子じゃ、キスもまだしてあげてないんじゃないの?」
フェイスの問い掛けに押し黙った相手は平行にすーっと目を逸らした。図星のようだ。
女性に苦手意識を持つ理由を詳しくは知らないが、距離を詰められただけで表情筋が強張るような男だ。これではせっかく実った恋が熟れる前に朽ちてしまうのでは。
「ガストの彼女がどんな子かは知らないけど、人によってはちゃんとしてあげないと。愛想尽かされるかもね」
「えっ」とガストは不安そうな声を発した。表情も同じ色に染められている。
「シャイなのも個性って言うけどさ、あまりに消極的なのも呆れられちゃうかもね」
「う…」
「ガストはさ、手に入れてハイそれで満足ってタイプなわけ?」
「そ、そんなワケないだろ。俺だって…」
「じゃあ尚更。ちゃんと構ってあげないと自分には魅力が無いとか、ただの友達としてか見てないんだとか思われるよ」
フェイスが放つ言葉の矢がグサグサとガストに突き刺さっていく。彼の言い分は何とも弱々しいもので「そんな風には思ってない」などと消え入りそうな声で返していた。
「……まだ早いんじゃないかなーって、思って」
「まだ早いって言い続けて、ずるずる引き延ばしていきそうだよねガストの場合。それに、そんなつもりはないって自分で思ってても、相手には伝わらないモンだよ。……とまぁ、そんな感じでさっき俺もフラれてきたとこ」
「い…嫌な実例すぎる」
フラれたと言っても、相手が勝手に彼女気取りでいたのだ。こうした思い込みの激しい子がたまにいる。そういう子に限っていつも通りの接し方にも拘わらず、勝手にヒートアップしてしまう。そしてつい先刻「キスの一つもしてくれない!」と一方的に喚かれ、嘆かれ、別れを告げられた。
フェイスにとっては右から左に流せる話ではあるが、怒鳴り散らされたことに気分を害していたのだ。
「好きなら態度で示してあげないと。不安になってるかもね」
他人に説教など、らしくない。そう思いながらもフェイスは口を開いていた。ガストの初心な反応が面白く、つい揶揄ってしまう。
少し意地悪が過ぎただろうか。だが、このぐらい発破をかけなければ進展はいつまで経っても無い。この方がお互いの為だろう。
同期のしどろもどろになる様子を見ていたフェイスの腹の虫はすっかり収まっていた。
「頑張って」
口の端をにぃと持ち上げて笑うフェイスの表情。ガストの目にはそれがまるで小悪魔的なものに映っていた。
◇◆◇
数日後。ガストは穂香の部屋に訪れていた。
グリーンイーストの郊外で行われるイベントに赴く予定が生憎の雨。雨天決行とはならずに、残念ながらも中止になってしまった。小雨程度ならば開催すると記載されていたが、雨粒が傘をバチバチと弾くほどの雨だ。イーストの駅でその情報を得た二人は目的地を穂香のアパートに変更。無理に出歩かずに室内でのんびりと過ごそうという話になったのだ。
「おススメの面白いドラマがあるからそれを見よう」という彼女の提案を受け入れ、その視聴に付き合うことになったガスト。
ソファで肩を並べることに緊張するのはいつぶりだ。その距離は以前よりもずっと縮まっている。肩が触れ合うことにようやく慣れてきたというのに、先日のフェイスの話に翻弄されていた。
マグカップを受け取る際に指先が触れたり、スマホに表示された情報を共有する為に顔が近づいたり。やわらかな褐色の瞳と視線が合っただけで心臓が破裂してしまいそうになる。
これじゃあ逆戻りじゃないか。過剰に意識し過ぎていると何度もガストは心を落ち着かせようとしていた。
事前に穂香から聞いたドラマのあらすじはこうだ。
主人公の女性が異世界に飛ばされ、その世界で出逢う人々との生活を描いたもの。原作が漫画という情報も得た。コミカルで話の流れもテンポよく進んでいき、男女の恋愛模様も色濃い。今売れている俳優も出ている。しかし、気がそぞろなせいで話の内容はガストの頭に殆ど入ってこなかった。気が付けば新しく登場した人物と言い争いをしている。揉め事の原因がさっぱりだ。
これではドラマの感想を求められても、適当な相槌しか打てそうにない。少しでも平常心を取り戻し、ストーリーを理解しなくては。ガストは温くなったアールグレイを喉に流し込んだ。
「そろそろ休憩にしましょ」
「…え?」
「同じところ集中してずっと見てたら具合悪くならない?映画館の上映が終わった後みたいに」
「あ、あぁ……そうだな」
「四時間以上も見てたのね」
どうやら時間は瞬く間に過ぎていたようで、フィルム一本の上映時間よりもじっとしていた。身体も凝り固まるはずだと言いながら腕を伸ばす穂香。考え事をしていたガストは画面に集中できず、差ほど眼精疲労は感じていない。
「お茶、淹れる?」
「ん…もらう」
「ダージリンもあるけど、そっち淹れる?」
「あー…いや、同じのでいいよ」
「…オーケー。アールグレイにするわね」
気落ちしたような返事とぎこちない笑み。ガストの様子がどうもおかしい。
薄々そう感じていた穂香は電気ケトルに水を入れながら、ちらりと彼の様子を盗み見る。ガストは手元のスマホを弄っていたが、その横顔はどこか思い詰めているような表情と捉えることができた。
今日に限って口数も少ない。いつもならば「こんなことがあった」と楽しそうに話してくるのだが。いくらイベントが流れて残念とはいえ、気持ちをすぐに切り替えてしまうのが彼の性分。
視聴中のドラマが気に入らなかったのだろうか。彼は自分の主張を抑えがちだ。いつも相手に合わせようと、言葉や感情を選んでいる。こちらの考えを真っ向から否定することもなく、受け止めてくれる。その優しさに甘えてきた。しかし、少しは自分のことを大事にしてもらいたい。
それにしてもだ。随分と上の空である。先述した件は関係ないのか。お湯が沸くまで穂香はあれこれと思案していた。
ふと、一抹の不安が過る。この状況下はあの時と酷似していた。二年前、ニューミリオンから帰省した際に対面した元カレとのやり取りと。愛情が冷め始めていると気づいてしまった日。
途端に穂香の胸中がざわついた。
カチリとレバーが下がったケトルを傾け、お湯をマグカップに注ぐ。アールグレイのティーバッグを一つずつ浮かべる。不織布に少しずつお湯が浸透し、ゆっくりと沈んでいく様を穂香は俯きがちに眺めていた。
「お待たせ」
「ん、サンキュー。この紅茶、結構美味いよな。英国産、だったか?」
「うん。輸入物産展で買ってきたの」
穂香はマグカップを手渡さずに直接テーブルの上に置いた。先程よりもガストから少しだけ距離を取り、ソファに腰を下ろす。
並んだ色違いのマグカップから湯気と茶葉の香りが揺らいでいる。
「ねぇ、ガスト」
「ん?」
「話、あるなら聞くわ」
「え…話って、いや…特にあるワケじゃないけど」
「……」
改まって話すような内容は無い。先日から抱えている悩みはあれども、彼女に話すのも気が引けていた。過去のトラウマから女性に対して臆病だと打ち明けてまだ半年も経っていない。情けない男だとこれ以上思われるのはどうにも耐えられない。
この問題はもう少し煮詰めてからと考えを纏めていた。だが、穂香の俯いた表情があまりにも曇っていることにガストは気づく。今さっきまではドラマを楽しんでいたというのに。
「…どうしたんだ?」
もしかすると、だいぶ前から彼女の様子がおかしかったのかもしれない。不覚にも今それに気がついた。彼女を気遣い、そう訊ねる。ゆっくりと持ち上げられた穂香の瞳は揺れていた。
これを見たガストはいよいよ慌て始める。何があったのかはまだ汲み取れていないが、悲しみに暮れている表情を見るのはどうにも辛い。
マグカップに手を伸ばし掛けたガストはその手を引っ込め、穂香と向き合った。
「ごめん。…俺、ちょっと考え事しててさ。そのせいで色々気が散ってて…穂香が何か悩んでることに気づけなかった。悪い。…今更かもしれねぇけど、俺が聞けることなら何でも聞く」
その声色からはガストの優しさが滲み出ていた。こうして真っ直ぐに向き合い、どうしたのかと訊ねてくれる。そこが以前のカレとは違うパターンだった。
「話したいことがあるなら聞く」と受け入れる態勢を見せたところで、煮え切らない曖昧な態度を取られたのだ。気のせいか、思い違いかもしれないと相手を信じてきた結果。電話越しに別れを告げられた。
思いがすれ違い始めたならば、早めに終止符を打った方がいい。その方がお互いの為だ。
「…その考え事、話してくれていいのよ。ちゃんと聞くし、受け入れる。傷は浅いうちの方がいいもの」
「ちょ、待ってくれ…話の全体像が見えてこねぇんだけど…?」
自分の悩みをまだ話していない。例え感づいたとしても、傷が浅いうちにというのは何やらおかしい。一体何がどうなっているのか。
「友達のままの方が良かった。そう、思い始めたんじゃないの?……その話、いつ切り出そうかって考えてたんじゃ…やけに上の空だったし。それに、何となく避けられてる気がしたから」
穂香はこの短時間に抱いた違和感を正直に打ち明けた。
それを聞いたガストはあまりにも驚いてしまい、双眼を見開いた。そして首をぶんぶんと横へ振り続ける。
「いやいや、全然違う!って、なんでいつの間にそんな話になってんだ?!」
ドラマ以上に予想外の展開だ。どこからどう曲解したのか。いや、そうなった原因は自分の態度だとガストは直ぐに気づいた。
悩みがどうあれ、いつもと違う態度を示したせいで不安にさせてしまったのだ。
膝の上で握りしめている小さな手。ガストは自分の手の平をそこに重ね合わせた。温度は普段よりも少し低い。
俯きがちに下唇を噛んでいた穂香は顔を少し上げた。真っ直ぐに見つめてくる深いグリーンの瞳が項垂れている。
「…俺の態度がおかしいから、変に勘繰っちまったんだよな。ごめん」
一筋、涙が穂香の瞳から零れ落ちた。片手で雫を払う姿にガストは胸を痛めていた。好きな子を泣かせまいと決めていたのに、自分のせいで涙を零している。彼女は気丈に見えても、臆病だ。想いを告げたあの日にそう話してくれた。そんな彼女を泣かせてしまったのは紛れもなく自分だ。
「……ごめん、ホントに」
「こっちこそ、ごめんなさい。……前、元カレの時もこんな風に様子がおかしいって感じて、どうしたのって聞いても何でもないってはぐらかされて。……大丈夫だって信じてた結果、ああなってしまったから」
以前の恋人のことを話す声は微かに震えていた。俯いた頬に涙がまた伝っていく。この涙を止めるにはどうしたらいいのだろうか。頬に手を添えて、涙を拭うだけでは止まりそうにないとガストは感じていた。
幼い子どもの宥め方は心得ているが、恋人の泣き止ませ方は未だに掴めていない。頭を撫でて優しい声を掛け続ける、抱きしめて背中をさするのもどこか的外れだ。
『好きなら態度で示してあげないと』
ふと、数日前に不安を煽ってきた同期の言葉が聞こえた。
「穂香」と優しい声で呼びかけたガストはゆっくりと顔を近づけた。頬に添えていた手を滑らせ、顎先を支える。目を閉じて、桜色の唇に自身のそれを重ねた。触れるだけの口づけを一つ。
十センチにも満たない距離を保つ二人は互いに見つめ合っていた。すると、真面目な表情をしていたガストの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。ついには目を合わせていられなくなり、顔を片手で覆い伏せてしまった。髪の毛隙間から覗く耳も真っ赤だ。
そんな彼の様子に呆気に取られてしまい、穂香はきょとんとしていた。ここまで赤面するのも珍しい。
「ガスト……大丈夫?」
「……見ないでくれ。カッコ悪ぃ…」
たかがキスの一つくらいで、ここまで恥ずかしがってどうする。顔は元より、全身が熱くなりすぎて火傷をしてしまいそうだ。
笑う声がガストの耳に聞こえてきた。穂香がくすくすと可笑しそうに、目を細めて笑っている。その姿を見たガストは恥ずかしさよりも、彼女が涙を止めてくれたことの嬉しさの方が上回った。
彼女の朗らかな笑い声につられ、ガストの口元もやんわりと緩む。
「…涙、止まったか?」
「うん。笑い過ぎて今度は別の涙が出てきそう」
「悲しいよりもそっちの方が断然いいって」
「ええ…ありがと、ガスト」
穂香は細い指先を絡めてくる。その指先と手の平を重ね合わせて、ガストはぎゅっと握り返した。微笑んだ彼女の表情が堪らなく愛おしい。今はこうしているだけで胸一杯に幸せが満たされる。
先程の件、一人で悩みを抱えているよりも正直に打ち明けてしまった方がいいのでは。そう思い始めたガスト。その方がこの先誤解を招かなくて済むだろう。
「穂香。あのさ、さっき話は無いって言ったけど…悩みはあるっつーか…これ、俺一人でどうにかなるモンでもないし。どうしようかって…悩んでたせいでこんなことになっちまったな」
「私の方こそ変に誤解してた。…聞いても大丈夫な悩みなら、相談に乗るわ」
「あぁ…むしろ、俺たちのことっていうか。だからって、別れ話とかじゃないからな?思いつく不満とかもねぇし。逆に穂香が俺に不満とか、不快に思ってるんじゃないか…って思って」
眉根を寄せたガストの目が伏せられた。
恋人としてスキンシップをはかりたいのは山々。だが、過去のトラウマを未だに引きずっているせいで、幼い自分が腕を掴んで引き止める。「嫌われてもいいのか」と。初恋の子に思い切り引っ叩かれた、苦い思い出をずっと抱えてきた。自分の気持ちを軽々しく表に出してしまっては相手を不快にさせる。そう学んだのもその時だ。
「不満なんてないわよ。あったら言ってる」穂香がそう返した。私の性格を知ってるでしょうと。その言葉が優しくガストの胸に響く。
「サンキュ。その優しさは嬉しいんだけどさ、いつまでも甘えてたらダメだって…考えさせられることがあって。…ほら、俺スキンシップが苦手だろ。だから、その…愛想尽かされるんじゃないかっていう不安がだな」
「…それで意識し過ぎてぎくしゃくしてたってわけね。ガストが女の子苦手だっていうの知ってるもの。自分たちのペースで行こうって言ったじゃない。私はそれで構わないわ」
「俺からすれば穂香の方が優しさの塊に思えてきた。……もっと触れたいとか、一緒にいたいとか。そういう願望はあるんだけどな。今はこれくらいで精一杯だ」
ガストは繋いだ手と手に視線を向けてから、はにかんだ顔を上げてみせる。
「でも、これだけは言える。俺が穂香を好きだっていう気持ちはいつも溢れそうなぐらいにあるし、今も昔も穂香に夢中なんだ」
優しく微笑んだその瞳に思わず穂香の胸が高鳴った。
何度も見てきたはずの温かくて優しい光を宿した瞳。いつも落ち着きと安らぎを与えてくれたそれは、友人を見る眼差しから愛しい人に向けるものへと変わっていた。
甘い紅茶の味がしたキス。今頃になって穂香の頬を薄紅色に染めた。