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Happy Valentine
街のメインストリートに先取りのバレンタイン広告が打ち出されて早ひと月。各ショッピングモールにはバレンタイン向けの商品で溢れていた。キャンディやチョコレートを始めとして、女性向けのアクセサリーや小物売り場から『バレンタインの贈り物に』『愛する恋人に贈りませんか』と強調された宣伝文句が目に飛び込んでくる時季だ。
クリスマスが家族で過ごすイベントなら、バレンタインは恋人たちの祭典。大切な人に気持ちを伝える日だ。俺には去年まで縁がそれほどなかったが、今年は違う。カードやチョコレートだけじゃなく、バラの花束を渡す恋人がいる。
グリーンイースト駅で降りてリトルトーキョーに向かう途中、俺と同じ様なヤツを何人も見かけた。緊張した面持ちで真っ赤な花束を抱えて歩くヤツや、自分と同じぐらいのテディベアを運んでいるヤツも。毛並みがもふもふで、抱えてるだけで気持ちが良さそうだった。
あれよりはだいぶ小さいけれど、喜んでくれるといいな。そう思いながら腕に提げた紙袋の中身を除いた。肌を刺す冷たい風でバラの花が萎れてしまわないうちに、穂香が待つアパートへ急ぐ。
去年のクリスマスはリーグ戦とかでディナーを楽しむ時間が取れなかったから、その代わりに街中のイルミネーションを見に行った。冷えた手と手を結びながら、冬の街路を並んで歩く。真新しいその思い出は光に照らされた新雪みたいにまだキラキラしていた。
こういった特別なイベントだけじゃなくて、何気ない日常も一緒に時を刻んでいきたい。その気持ちも強いけど、今日みたいなイベントもそれなりに過ごしたいわけで。今度こそと意気込んでディナーの話を切り出した時だ。
「クッキー焼いたあと、夕飯も作ろうと考えてたんだけど…。その方がゆっくり過ごせると思ってたから」
そう提案されたら一択しかない。彼女の手料理の方が気取った高級ディナーよりも、何倍もいいに決まってる。当初はブルーノースのレストランでもと考えていた。でも、二人でゆっくり気兼ねなく過ごしたい意見には同感だ。洒落たディナーはまた今度、それこそ特別な時の為に取っておこう。いつの話になるか分からねぇけどな。
そんなやりとりを少しばかり思い出して、人知れず笑みを一つ零していた。
彼女のアパートに到着した俺は弾む息を整えるどころか、緊張で息が止まりそうになっていた。風で乱れた髪を直すよりも、花が萎れたり散っていないかが気になっていたし。本数は六本揃っている、花びらも散った様子はない。良かった。
それにしても、贈る本数で伝えたい言葉の意味が変わってくるってのには驚いたな。数が多ければいいとかじゃなく、適当な本数だと悪い言葉にもなる。花屋の店先で店員が声掛けてくれなかったら、とんでもない意味になってたかもしれない。綺麗に咲いてる赤いバラを選んでくれたし、丁寧に包んでくれた。花は定番過ぎないかって不安を漏らした時にも「好きな人から貰う花束なら喜んでくれますよ」って勇気を貰えた。
今まで穂香に花束を贈ったことは流石にない。もっと気軽に贈ればいいアイテムなんだろうけど、俺にとっては気軽に渡せるものじゃないんだよな。こう、特別な日にプレゼントする意味合いが強いから。
深呼吸を一つ。それから花束を抱え直し、インターホンを鳴らす。その指先が僅かに震えていた。慣れないことをしようとするとこれだ。初めてだし、仕方ない。うん。
自分にそう言い聞かせたすぐ後に玄関のドアが外側に開いた。甘く、香ばしい焼き菓子の匂いを連れた穂香が「いらっしゃい」と笑顔で出迎えてくれる。直後、柔らかな褐色の目が花束に向けられる。意外な物を見たって感じだ。
「Happy Valentine, 穂香」
こっちも柔らかく微笑んで、バラの花束を差し出す。すると、戸惑いながらもこれを受け取ってくれた。何度も花束と俺の顔を見比べる。次第にその頬がバラ色に染まっていく。
「え……バレンタインに花束貰うの初めて…いいの?」
「勿論。穂香の為に用意したんだ。……喜んでもらえたみたいだな」
「ええ!ありがとう、ガスト。素敵な贈り物だわ」
可憐な花が咲いたような笑みを浮かべてくれた。予想以上の反応にこっちも嬉しいし、選んだ甲斐があるってもんだ。まぁ、まだまだ渡すプレゼントはあるんだけど。
緊張で強張っていた表情も自然と解れていた。彼女の笑顔はまるで魔法みたいなんだ。どんな緊張も解してくれて、自然体に導いてくれる。
「そりゃ良かった。…ほら、こっちじゃバレンタインに花束って定番中の定番だからさ。…気に入ってくれるか心配だった」
「私にとっては人生初。…ガストから貰うのも初めてよね。ふふ…嬉しい」
「そこまで喜んでくれると思わなかったぜ…なんか、花束を贈るのって照れくさいな」
バラの花言葉には敢えて触れずにおいた。自分の口から言うのも気恥ずかしい。それにこんなに喜んでくれたし、もうかなり満たされている。
六本の赤いバラは『あなたに夢中』という花言葉を持つらしい。この本数を選んだ理由はこの間のネクタイの返事みたいなもの。お互い夢中だよってことだ。
◇
暖かい室内に迎え入れられた俺の目にまず飛び込んできたのは低い本棚の上。俺のぬいぐるみがロッキングチェアにちょこんと座らされている。ダークネイビーのジャケットで決めていた。
そいつの前には木製の洒落たテーブルとティーセット、その脇にミニダーツ盤が設置されていた。テーブルとロッキングチェアの話は聞いていたが、まさかダーツ盤まで用意されていたなんて。手先が器用なヤツが作製したんだろうけど、かなり精巧な作りだ。「スイッチ入れると枠が光るのよ」と聞かされて更に驚いた。試しにダーツ盤裏のスイッチをオンにしてみると、得点の文字盤が点滅。
すごいな。何がすごいって、待遇の良さが。そのうちガストくんコーナーがこの部屋の一角に出来上がりそうだな。あいつも満更じゃないって顔をしてるような気がする。
穂香は折角だからとバラの花を四角い花瓶に飾っていた。それがローテーブルの中央に置かれ、部屋の中を華やかに演出してくれるアイテムに早変わりする。その上にはチョコレートの箱、白い皿に盛られたチョコチップクッキーが用意されていた。甘くていい匂いの正体はこれだ。
「コーヒー淹れるけど…ガストはどうする?チョコもクッキーも甘いから、ブラックでも合うわよ。それともカフェオレの方がいい?」
「んー……じゃあ、ブラックにしとこうかな」
「ブラックやエスプレッソ苦手って前に言ってたけど……飲むときは飲むよね」
「それは、だな……食べられるけど苦手だっていうのと一緒だよ。特に嫌いってわけじゃないし、シーンに合わせて飲んでる」
結構前にエスプレッソを御馳走になって、その時に「苦手なの?」と訊かれたことがあった。どうしてかと訊ね返したら、俺が無茶苦茶渋い表情をしていたらしい。苦手なら主張してよって言われたっけな。
キッチンに立つ穂香に「俺も手伝う」と声を掛けて彼女の隣へ。
俺は豆を挽くためのコーヒーミル、ドリッパーを棚から取り出した。コーヒー豆は二種類、それぞれコクや酸味に特徴があるからブレンドすればいい味が出そうだ。
食器棚からマグカップを持ってきた穂香は「これに淹れよう」と笑顔を浮かべた。そのマグカップには見覚えがある。
「これ、もしかして」
「気づいた?この間、ショッピングモールの雑貨屋で見てたやつよ」
ツートンカラーのマグカップ。一つはカーキ系で、もう一つはオレンジ系のシンプルなもので、色違いで揃えられていた。
それは先月の話だ。ショッピングモールをぶらついていた時に、雑貨屋でこれに目が留まった。『二人で使えるペアのマグカップ』というよりも、イニシャル入りのエスプレッソカップのことを思い出していたんだ。
ノースの同期と形からでも仲良くなりたくて、レンの分と揃えて買っていったことがあった。その結果は言うまでもない。
お揃いはむやみやたらにするもんじゃないな。そう笑い話で終わらせたんだ。だから、見つけたマグカップには手を触れずに立ち去った。それが今俺の目の前にある。驚きというよりも、嬉しさが胸に溢れていた。
「ガストが物欲しそうに見つめてたから、次の休みに行って買っておいたの」
「…そんなに物欲しそうな目してたか?」
「というよりは哀愁に満ちてた。カーキの方はガスト、オレンジは私が使うわ」
「…これ、ここに置いてもらえるんだな」
「勿論。家に来た時はこれ使って」
「ああ……サンキュー、穂香」
お揃いといえば、テーマパークの景品としてゲットした色違いのテディベアストラップもそうだ。穂香はバッグにぶら下げて連れ歩いているらしいが、俺は自室のデスクに飾っていた。埃が被らないように気も遣っている。デカい任務が終わった後とか、疲れてヘトヘトになってる時はそれを見るだけで癒される。特別な日の思い出だから余計に。
友達関係から恋人にシフトして日はまだ浅いけど、こうして一つずつらしくなっていく。それを一つ見つける度に胸が温まる。
マグカップを大事に包み込むようにしていたら、隣で微笑まれた。随分嬉しそうって。ああ、うん。物凄く嬉しい。
「いや、なんかこう…仲良しというか、恋人らしい感じがして嬉しいんだ。…よし、コーヒー淹れるなら俺がブレンドする」
「うん、オススメのブレンドお願いしようかな。お湯、沸かすわね」
ケトルのお湯が沸く前にこっちの準備を終わらせないとな。コーヒー豆の産地とコクや酸味の数値をそれぞれ参考にして、手挽きミルの目盛りを調整。
ブレンドしたコーヒー豆をミルに投入し、レバーに手をかける。力を入れて回すとガリガリと音を立てて、芳しい香りがキッチンに広がっていった。
「流石ね。手慣れてる」
「カフェでバイトしてた頃の感覚がまだ残ってるからなぁ。あ、そうだ。今度ラテアート作ってやるよ。簡単なものなら出来るし」
「ガストこそ何でも卒なくできてるわ。ラテアート楽しみにしてる」
レバーが軽くなった頃にケトルが鳴きだしたので火を止める。マグカップを先にお湯で温めている間、ドリッパーにフィルターと挽いた粉をセット。マグカップが温まったのを見計らい、中のお湯を捨ててドリッパーを乗せた。
「……私、やること無くなったわね」
「流れで全部やっちまったな。久々だったし無意識に手が動いてたぽい。座って待っててくれよ」
「はーい」
挽いた粉に少量のお湯を含ませて蒸らす。コーヒーの香りが際立つ瞬間だ。今は機械で全部やってくれるものが主流になっている。その方が楽には違いないけど、手挽きミルは味わいがあるんだよな。
カフェのバイトに入ったばかりの頃、ラテアートの練習に夢中になったことがある。気づいたらカップがずらっと並んでて。先輩や同期バイトのヤツらに飲んでもらったな。一番上手く描けたと思っていたラテアートを見ないですぐに飲まれたことも。その後に「えーと…花だっけ?いやーすごかった!上出来だったぜ!」と適当に褒められた。描いたのは雪の結晶だったんだけどな。まぁ、悪気があったわけじゃないだろうから、怒らなかったけど。アイツら元気にしてるかな。
俺はコーヒーが抽出される様子を見守りながら、カフェでバイトしていた頃の思い出に浸っていた。
◇
「お待たせしました。特製ブレンドコーヒーです」
淹れたてのコーヒーをソファ席で待つお客様の元へ。「ありがとう」と感謝された言葉がなんかくすぐったい。こうして並べたマグカップも特別な物に思えてくる。
「……美味しい。ガストが淹れてくれたから尚更」
「ははっ、それは嬉しいな。ブレンドはその日の気分で決めるトコもあるし、今日しか飲めないぜ。日替わりブレンドってヤツだ」
「なんかどっかで聞いたような台詞ね。…じゃあ、次に飲む時のブレンドも楽しみにしてる」
「おう、任せてくれよ。…そうだ。これ、いつものチョコレート。限定フレーバーのヤツ」
俺はコーヒーを味わう前に持参した紙袋から赤いチョコレートの箱を取り出す。毎年同じメーカーのチョコレートを穂香に贈っていた。このメーカーが美味くて好きだって言ってたから。トリュフは滑らかで口溶けもいいから気に入ってるんだろうな。
「ありがと!私からも、はい。今年はカカオの配分量がそれぞれ違うチョコレートにしてみた」
「サンキュー。……えっと、実はさ。さっきの花束とコレ以外にもプレゼントがあるんだ」
「え?」
受け取ったチョコレートを満足そうに眺めていた穂香が顔を上げた。
俺は紙袋からチョコレートブラウンのテディベアを取り出す。腕には赤いハートのクッションが抱えられていて、取り外し可能になっているんだ。ふわふわのコイツを見た途端に穂香は目を丸くしていた。
「え……これ、バレンタイン限定で販売してるベアでしょ。ウエストのアミューズメントパークでしか買えない」
「お、流石に知ってたみたいだな」
「毛並みがフワフワ…でも、いいの?」
「ああ。バレンタインと言えばテディベアだしな。それと、こっちは…」
「ちょ、ちょっと待って!誕生日でもクリスマスでもないのよ」
四つ目のプレゼントを取り出そうとしたら、待ったをかけられた。
正方形の平たい箱の中身は細身のチェーンブレスレット。透輝石っていう緑の石がついている。
まぁ、確かに自分でも買いすぎだなとは思っていた。俺は箱を持たない方の指先で頬をかき、目を細めてみせる。
「何がいいか悩んじまってさ。あれもいいし、これも良さそうだ…って見てたら、色々手元に集まってた」
「…嬉しいけど、こっちはチョコレートとクッキーしか用意してないのよ」
「まぁ、その辺は気にしなくてもいいって。今までの分の気持ちってことで、受け取ってもらえたら嬉しい。それに、穂香だってマグカップ揃えてくれたし」
穂香は腑に落ちない表情のまま、抱えていたテディベアをぎゅっと抱きしめていた。ギブアンドテイクの考え方を否定するつもりはない。俺も基本そうだしな。それでも、偶に気持ちの方が上回ることがある。なんていうか、溢れる気持ちを形にするとこうなったわけで。
迷惑だったかと思い始めた時、穂香の口元に笑みが薄っすらと浮かんだ。
「…そんな不安そうな表情しないでよ。ただ、こんなにプレゼント貰って申し訳ないなって思ってるだけ。ガストの気持ちは勿論嬉しい。…今度何かでお礼するわね。この子もありがとう」
そう言って、頬ずりしそうな勢いでテディベアを抱きしめた。この様子だと俺のぬいぐるみ同様に可愛がってくれるんだろう。ダチができて良かったな。ベアだけど。
これからはちゃんと考えてプレゼント用意しよう。多ければいいってもんじゃないんだ。反省を頭に叩き込んだ所で「ガスト」と呼ばれて彼女の方に振り向こうとした。頬に温かいものが触れる。それは一瞬だったし、何があったのか直ぐには脳が理解できず、追いつかなかった。
フリーズしかけた俺に穂香が「今はこれで」と頬を緩ませる。
「ほら、クッキー食べよ。焼き立ては今しか味わえないわ」
「………あぁ」
今のキスでお釣りがくる、とは口にしないでおこう。絶対顔赤くなってる。手繋いだり、肩寄せ合ったり、軽くハグすることはだいぶ慣れてはきたけど。いつかこれにも慣れるんだろうか。いや、慣れないとな。
俺はクッキーを摘むより先にコーヒーを口に含んだ。このままじゃ、クッキーもチョコレートも味が分からなくなりそうだから。
街のメインストリートに先取りのバレンタイン広告が打ち出されて早ひと月。各ショッピングモールにはバレンタイン向けの商品で溢れていた。キャンディやチョコレートを始めとして、女性向けのアクセサリーや小物売り場から『バレンタインの贈り物に』『愛する恋人に贈りませんか』と強調された宣伝文句が目に飛び込んでくる時季だ。
クリスマスが家族で過ごすイベントなら、バレンタインは恋人たちの祭典。大切な人に気持ちを伝える日だ。俺には去年まで縁がそれほどなかったが、今年は違う。カードやチョコレートだけじゃなく、バラの花束を渡す恋人がいる。
グリーンイースト駅で降りてリトルトーキョーに向かう途中、俺と同じ様なヤツを何人も見かけた。緊張した面持ちで真っ赤な花束を抱えて歩くヤツや、自分と同じぐらいのテディベアを運んでいるヤツも。毛並みがもふもふで、抱えてるだけで気持ちが良さそうだった。
あれよりはだいぶ小さいけれど、喜んでくれるといいな。そう思いながら腕に提げた紙袋の中身を除いた。肌を刺す冷たい風でバラの花が萎れてしまわないうちに、穂香が待つアパートへ急ぐ。
去年のクリスマスはリーグ戦とかでディナーを楽しむ時間が取れなかったから、その代わりに街中のイルミネーションを見に行った。冷えた手と手を結びながら、冬の街路を並んで歩く。真新しいその思い出は光に照らされた新雪みたいにまだキラキラしていた。
こういった特別なイベントだけじゃなくて、何気ない日常も一緒に時を刻んでいきたい。その気持ちも強いけど、今日みたいなイベントもそれなりに過ごしたいわけで。今度こそと意気込んでディナーの話を切り出した時だ。
「クッキー焼いたあと、夕飯も作ろうと考えてたんだけど…。その方がゆっくり過ごせると思ってたから」
そう提案されたら一択しかない。彼女の手料理の方が気取った高級ディナーよりも、何倍もいいに決まってる。当初はブルーノースのレストランでもと考えていた。でも、二人でゆっくり気兼ねなく過ごしたい意見には同感だ。洒落たディナーはまた今度、それこそ特別な時の為に取っておこう。いつの話になるか分からねぇけどな。
そんなやりとりを少しばかり思い出して、人知れず笑みを一つ零していた。
彼女のアパートに到着した俺は弾む息を整えるどころか、緊張で息が止まりそうになっていた。風で乱れた髪を直すよりも、花が萎れたり散っていないかが気になっていたし。本数は六本揃っている、花びらも散った様子はない。良かった。
それにしても、贈る本数で伝えたい言葉の意味が変わってくるってのには驚いたな。数が多ければいいとかじゃなく、適当な本数だと悪い言葉にもなる。花屋の店先で店員が声掛けてくれなかったら、とんでもない意味になってたかもしれない。綺麗に咲いてる赤いバラを選んでくれたし、丁寧に包んでくれた。花は定番過ぎないかって不安を漏らした時にも「好きな人から貰う花束なら喜んでくれますよ」って勇気を貰えた。
今まで穂香に花束を贈ったことは流石にない。もっと気軽に贈ればいいアイテムなんだろうけど、俺にとっては気軽に渡せるものじゃないんだよな。こう、特別な日にプレゼントする意味合いが強いから。
深呼吸を一つ。それから花束を抱え直し、インターホンを鳴らす。その指先が僅かに震えていた。慣れないことをしようとするとこれだ。初めてだし、仕方ない。うん。
自分にそう言い聞かせたすぐ後に玄関のドアが外側に開いた。甘く、香ばしい焼き菓子の匂いを連れた穂香が「いらっしゃい」と笑顔で出迎えてくれる。直後、柔らかな褐色の目が花束に向けられる。意外な物を見たって感じだ。
「Happy Valentine, 穂香」
こっちも柔らかく微笑んで、バラの花束を差し出す。すると、戸惑いながらもこれを受け取ってくれた。何度も花束と俺の顔を見比べる。次第にその頬がバラ色に染まっていく。
「え……バレンタインに花束貰うの初めて…いいの?」
「勿論。穂香の為に用意したんだ。……喜んでもらえたみたいだな」
「ええ!ありがとう、ガスト。素敵な贈り物だわ」
可憐な花が咲いたような笑みを浮かべてくれた。予想以上の反応にこっちも嬉しいし、選んだ甲斐があるってもんだ。まぁ、まだまだ渡すプレゼントはあるんだけど。
緊張で強張っていた表情も自然と解れていた。彼女の笑顔はまるで魔法みたいなんだ。どんな緊張も解してくれて、自然体に導いてくれる。
「そりゃ良かった。…ほら、こっちじゃバレンタインに花束って定番中の定番だからさ。…気に入ってくれるか心配だった」
「私にとっては人生初。…ガストから貰うのも初めてよね。ふふ…嬉しい」
「そこまで喜んでくれると思わなかったぜ…なんか、花束を贈るのって照れくさいな」
バラの花言葉には敢えて触れずにおいた。自分の口から言うのも気恥ずかしい。それにこんなに喜んでくれたし、もうかなり満たされている。
六本の赤いバラは『あなたに夢中』という花言葉を持つらしい。この本数を選んだ理由はこの間のネクタイの返事みたいなもの。お互い夢中だよってことだ。
◇
暖かい室内に迎え入れられた俺の目にまず飛び込んできたのは低い本棚の上。俺のぬいぐるみがロッキングチェアにちょこんと座らされている。ダークネイビーのジャケットで決めていた。
そいつの前には木製の洒落たテーブルとティーセット、その脇にミニダーツ盤が設置されていた。テーブルとロッキングチェアの話は聞いていたが、まさかダーツ盤まで用意されていたなんて。手先が器用なヤツが作製したんだろうけど、かなり精巧な作りだ。「スイッチ入れると枠が光るのよ」と聞かされて更に驚いた。試しにダーツ盤裏のスイッチをオンにしてみると、得点の文字盤が点滅。
すごいな。何がすごいって、待遇の良さが。そのうちガストくんコーナーがこの部屋の一角に出来上がりそうだな。あいつも満更じゃないって顔をしてるような気がする。
穂香は折角だからとバラの花を四角い花瓶に飾っていた。それがローテーブルの中央に置かれ、部屋の中を華やかに演出してくれるアイテムに早変わりする。その上にはチョコレートの箱、白い皿に盛られたチョコチップクッキーが用意されていた。甘くていい匂いの正体はこれだ。
「コーヒー淹れるけど…ガストはどうする?チョコもクッキーも甘いから、ブラックでも合うわよ。それともカフェオレの方がいい?」
「んー……じゃあ、ブラックにしとこうかな」
「ブラックやエスプレッソ苦手って前に言ってたけど……飲むときは飲むよね」
「それは、だな……食べられるけど苦手だっていうのと一緒だよ。特に嫌いってわけじゃないし、シーンに合わせて飲んでる」
結構前にエスプレッソを御馳走になって、その時に「苦手なの?」と訊かれたことがあった。どうしてかと訊ね返したら、俺が無茶苦茶渋い表情をしていたらしい。苦手なら主張してよって言われたっけな。
キッチンに立つ穂香に「俺も手伝う」と声を掛けて彼女の隣へ。
俺は豆を挽くためのコーヒーミル、ドリッパーを棚から取り出した。コーヒー豆は二種類、それぞれコクや酸味に特徴があるからブレンドすればいい味が出そうだ。
食器棚からマグカップを持ってきた穂香は「これに淹れよう」と笑顔を浮かべた。そのマグカップには見覚えがある。
「これ、もしかして」
「気づいた?この間、ショッピングモールの雑貨屋で見てたやつよ」
ツートンカラーのマグカップ。一つはカーキ系で、もう一つはオレンジ系のシンプルなもので、色違いで揃えられていた。
それは先月の話だ。ショッピングモールをぶらついていた時に、雑貨屋でこれに目が留まった。『二人で使えるペアのマグカップ』というよりも、イニシャル入りのエスプレッソカップのことを思い出していたんだ。
ノースの同期と形からでも仲良くなりたくて、レンの分と揃えて買っていったことがあった。その結果は言うまでもない。
お揃いはむやみやたらにするもんじゃないな。そう笑い話で終わらせたんだ。だから、見つけたマグカップには手を触れずに立ち去った。それが今俺の目の前にある。驚きというよりも、嬉しさが胸に溢れていた。
「ガストが物欲しそうに見つめてたから、次の休みに行って買っておいたの」
「…そんなに物欲しそうな目してたか?」
「というよりは哀愁に満ちてた。カーキの方はガスト、オレンジは私が使うわ」
「…これ、ここに置いてもらえるんだな」
「勿論。家に来た時はこれ使って」
「ああ……サンキュー、穂香」
お揃いといえば、テーマパークの景品としてゲットした色違いのテディベアストラップもそうだ。穂香はバッグにぶら下げて連れ歩いているらしいが、俺は自室のデスクに飾っていた。埃が被らないように気も遣っている。デカい任務が終わった後とか、疲れてヘトヘトになってる時はそれを見るだけで癒される。特別な日の思い出だから余計に。
友達関係から恋人にシフトして日はまだ浅いけど、こうして一つずつらしくなっていく。それを一つ見つける度に胸が温まる。
マグカップを大事に包み込むようにしていたら、隣で微笑まれた。随分嬉しそうって。ああ、うん。物凄く嬉しい。
「いや、なんかこう…仲良しというか、恋人らしい感じがして嬉しいんだ。…よし、コーヒー淹れるなら俺がブレンドする」
「うん、オススメのブレンドお願いしようかな。お湯、沸かすわね」
ケトルのお湯が沸く前にこっちの準備を終わらせないとな。コーヒー豆の産地とコクや酸味の数値をそれぞれ参考にして、手挽きミルの目盛りを調整。
ブレンドしたコーヒー豆をミルに投入し、レバーに手をかける。力を入れて回すとガリガリと音を立てて、芳しい香りがキッチンに広がっていった。
「流石ね。手慣れてる」
「カフェでバイトしてた頃の感覚がまだ残ってるからなぁ。あ、そうだ。今度ラテアート作ってやるよ。簡単なものなら出来るし」
「ガストこそ何でも卒なくできてるわ。ラテアート楽しみにしてる」
レバーが軽くなった頃にケトルが鳴きだしたので火を止める。マグカップを先にお湯で温めている間、ドリッパーにフィルターと挽いた粉をセット。マグカップが温まったのを見計らい、中のお湯を捨ててドリッパーを乗せた。
「……私、やること無くなったわね」
「流れで全部やっちまったな。久々だったし無意識に手が動いてたぽい。座って待っててくれよ」
「はーい」
挽いた粉に少量のお湯を含ませて蒸らす。コーヒーの香りが際立つ瞬間だ。今は機械で全部やってくれるものが主流になっている。その方が楽には違いないけど、手挽きミルは味わいがあるんだよな。
カフェのバイトに入ったばかりの頃、ラテアートの練習に夢中になったことがある。気づいたらカップがずらっと並んでて。先輩や同期バイトのヤツらに飲んでもらったな。一番上手く描けたと思っていたラテアートを見ないですぐに飲まれたことも。その後に「えーと…花だっけ?いやーすごかった!上出来だったぜ!」と適当に褒められた。描いたのは雪の結晶だったんだけどな。まぁ、悪気があったわけじゃないだろうから、怒らなかったけど。アイツら元気にしてるかな。
俺はコーヒーが抽出される様子を見守りながら、カフェでバイトしていた頃の思い出に浸っていた。
◇
「お待たせしました。特製ブレンドコーヒーです」
淹れたてのコーヒーをソファ席で待つお客様の元へ。「ありがとう」と感謝された言葉がなんかくすぐったい。こうして並べたマグカップも特別な物に思えてくる。
「……美味しい。ガストが淹れてくれたから尚更」
「ははっ、それは嬉しいな。ブレンドはその日の気分で決めるトコもあるし、今日しか飲めないぜ。日替わりブレンドってヤツだ」
「なんかどっかで聞いたような台詞ね。…じゃあ、次に飲む時のブレンドも楽しみにしてる」
「おう、任せてくれよ。…そうだ。これ、いつものチョコレート。限定フレーバーのヤツ」
俺はコーヒーを味わう前に持参した紙袋から赤いチョコレートの箱を取り出す。毎年同じメーカーのチョコレートを穂香に贈っていた。このメーカーが美味くて好きだって言ってたから。トリュフは滑らかで口溶けもいいから気に入ってるんだろうな。
「ありがと!私からも、はい。今年はカカオの配分量がそれぞれ違うチョコレートにしてみた」
「サンキュー。……えっと、実はさ。さっきの花束とコレ以外にもプレゼントがあるんだ」
「え?」
受け取ったチョコレートを満足そうに眺めていた穂香が顔を上げた。
俺は紙袋からチョコレートブラウンのテディベアを取り出す。腕には赤いハートのクッションが抱えられていて、取り外し可能になっているんだ。ふわふわのコイツを見た途端に穂香は目を丸くしていた。
「え……これ、バレンタイン限定で販売してるベアでしょ。ウエストのアミューズメントパークでしか買えない」
「お、流石に知ってたみたいだな」
「毛並みがフワフワ…でも、いいの?」
「ああ。バレンタインと言えばテディベアだしな。それと、こっちは…」
「ちょ、ちょっと待って!誕生日でもクリスマスでもないのよ」
四つ目のプレゼントを取り出そうとしたら、待ったをかけられた。
正方形の平たい箱の中身は細身のチェーンブレスレット。透輝石っていう緑の石がついている。
まぁ、確かに自分でも買いすぎだなとは思っていた。俺は箱を持たない方の指先で頬をかき、目を細めてみせる。
「何がいいか悩んじまってさ。あれもいいし、これも良さそうだ…って見てたら、色々手元に集まってた」
「…嬉しいけど、こっちはチョコレートとクッキーしか用意してないのよ」
「まぁ、その辺は気にしなくてもいいって。今までの分の気持ちってことで、受け取ってもらえたら嬉しい。それに、穂香だってマグカップ揃えてくれたし」
穂香は腑に落ちない表情のまま、抱えていたテディベアをぎゅっと抱きしめていた。ギブアンドテイクの考え方を否定するつもりはない。俺も基本そうだしな。それでも、偶に気持ちの方が上回ることがある。なんていうか、溢れる気持ちを形にするとこうなったわけで。
迷惑だったかと思い始めた時、穂香の口元に笑みが薄っすらと浮かんだ。
「…そんな不安そうな表情しないでよ。ただ、こんなにプレゼント貰って申し訳ないなって思ってるだけ。ガストの気持ちは勿論嬉しい。…今度何かでお礼するわね。この子もありがとう」
そう言って、頬ずりしそうな勢いでテディベアを抱きしめた。この様子だと俺のぬいぐるみ同様に可愛がってくれるんだろう。ダチができて良かったな。ベアだけど。
これからはちゃんと考えてプレゼント用意しよう。多ければいいってもんじゃないんだ。反省を頭に叩き込んだ所で「ガスト」と呼ばれて彼女の方に振り向こうとした。頬に温かいものが触れる。それは一瞬だったし、何があったのか直ぐには脳が理解できず、追いつかなかった。
フリーズしかけた俺に穂香が「今はこれで」と頬を緩ませる。
「ほら、クッキー食べよ。焼き立ては今しか味わえないわ」
「………あぁ」
今のキスでお釣りがくる、とは口にしないでおこう。絶対顔赤くなってる。手繋いだり、肩寄せ合ったり、軽くハグすることはだいぶ慣れてはきたけど。いつかこれにも慣れるんだろうか。いや、慣れないとな。
俺はクッキーを摘むより先にコーヒーを口に含んだ。このままじゃ、クッキーもチョコレートも味が分からなくなりそうだから。