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The countdown began
日差しがある晴れた日でも、空気は冷えて凛としていた。昨日、ブルーノースシティでも雪が降って、解け残った雪が道端に薄っすらと積もっている。
メインストリートはロードヒーティングのおかげで、コンクリートは完全に乾いた状態だ。こういう設備が整っているあたり、さすがブルーノースシティだと思う。
俺はこの大通りに面したブティックを目指していた。
昼過ぎに行くと穂香に伝えたら、その時間帯に居るようにすると返事が来た。知らない店に行くという実感は薄いはずなんだ。それでも妙な緊張が拭えなくて、歩みが遅くなる。
なにせこの辺のショップには立ち寄ったことがない。ブティックとなれば尚更だ。俺みたいなヤツが一人で行くようなエリアじゃないからな。【HELIOS】に入所してノースセクターに配属されたから、フード店を利用する機会は増えた。でも、服は別だ。どこもお洒落で気取ったショップばかりだし。だから今まで避けてきたけど、今日はそうもいかない。兼ねてからの約束を果たす為、それと大事な用事もある。
穂香が勤めているデザイナー事務所の直営店。店の外観だけは何度も見たことがある。市内パトロールのルートにもあるからな。スタイリッシュで、ショーウィンドウには季節に合わせてマネキンの服装が変わる。今は冬の装いをしたマネキンが二体並んでいた。あのコート、穂香に似合いそうだ。ショーウィンドウ広告には男のモデルが写っている。トレンチコートを羽織って、ポケットに手を入れて、流し目でカッコつけている。二十代ぐらいに見える。
店内の様子を外から探ろうと考えてみたが、それだと怪しまれそうな気がした。俺はショーウィンドウを眺めるフリをして、ガラスに映った自分の前髪を直す。それから覚悟を決めて、ブティックのドアをゆっくりと押し開けた。
カラン、カランと上品なベルの音が鳴り響いた。来店を報せたその音で入口付近にいた店員から「いらっしゃいませ」と挨拶される。無駄に声を勢いよく張らないあたり、ここはサウスのショップとは別世界だなと一瞬で感じとれた。
試着用の服を戻していた店員が俺の方を見て、にこりと微笑んだ。その瞬間、嫌な予感がした。それは大当たりで、肩までのストレートヘアの若い女性店員がこっちに近づいてくる。
「何かお探しのものはございますか?」
客に声を掛けてくるタイプの接客、それは覚悟していた。でも、初っ端から話しかけられても、どうしたらいいのか。いや、慌てる必要はない。店の入口で固まりかけていた俺はそう言い聞かせ、緊張を抑えながら愛想笑いを浮かべてみせる。
「え、ええっと……探し物、というよりは約束があるんだけど」
「御来店予約でございますね。恐れ入りますが、お客様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あ、あぁ……ガスト・アドラーだ。水無月さんと会う約束で」
どうも来店予約っていう形になっているらしい。服の取り置きは他のショップでもあるけど、来店に予約できるとか聞いたことがない。さすが、高級ブティックだな。
小柄な女性店員が薄いピンクのルージュを引いた口元に上品な笑みを浮かべた。
「アドラー様ですね。確認して参りますので、こちらのお席でお待ちいただけますか」
そう案内された店の奥には来客用の小さなスペースが設置されていた。お洒落なソファにテーブル。その一画にふかふかの絨毯が敷かれている。
俺はそのソファに浅く腰かけた。それだけでも深く沈み込みそうになる。特定の人間をダメにしそうなソファだ。
服を買いに来て来客用のスペースに案内されることなんて、まずない。お洒落な感じのクリスマスソングが店内に流れているし、音量もかなり控えめだ。会話の邪魔にならないように配慮してるんだろうけど、それが逆に落ち着かない。
ここから見える範囲で店内をざっと見渡してみた。服のジャンル毎に店員が一人ずつ配置されているようで、今気づいたけど、店員は全て女性だ。そりゃそうか、元々ブティックだしな。
その中に肝心の相手が見つからなかった。死角にいるのかとソファから身を乗り出そうとした時、さっきの店員が戻ってくるのが見えたから慌てて座り直す。
「お待たせしております。申し訳ございません、水無月は只今接客中でして…しばらくお待ちいただけますか」
「ああ、終わるまで待つから問題ない」
「有難うございます。お飲み物をお持ち致します。コーヒーと紅茶どちらがよろしいですか」
「い、いや……店内適当に見せてもらっても?」
待つとは言ったけど、こんな所でお茶飲みながらとかは無理だ。きっと高級な茶葉やコーヒー豆なんだろうけど、味や香りを楽しむ余裕は今の俺には無い。じっと待つよりも、服とか見てた方がずっといい。
彼女は俺の提案に対して一つも嫌な顔をせず「恐れ入ります。それではご自由にご覧くださいませ。何かご不明な点、お気に召したものがございましたら近くのスタッフにお声掛けください」と呪文のような言葉を並べていった。
今ので実感した。どう考えても俺一人で入るにはハードルが高い店だ。この店のブランドを教えたヤツらは普通に買い物してるのか。彼女いるヤツは一緒に来ているのかもしれない。気後れしてんのは俺だけか。
紳士服はトップスやアウターなどが服のジャンルごとにざっくりと分かれているようだった。小物もガラスケースの上に展示されている。ネクタイやタイ・クリップが飾られていた。アクセサリーもその横にあって、シルバーバングルが目に留まった。あれ、結構良さそうだな。手に取ってみたいけど、触れちゃいけないような気がする。
「アウターに合わせるのであれば、明るい色味の…こちらのようなストールを首元に飾るのもよろしいかと」
聞き覚えある声が奥から聞こえてきた。その声を耳聡く拾い上げた俺はそっちに顔を向ける。
穂香がいた。普段見る笑顔とは少し違う。仕事用の顔、そういえば初めて見る。
中年の女性客が羽織っているコートの差し色にと、ストールを二枚腕にかけてどちらが良いか決めてもらっているようだった。ちょっときつめというか、神経質な雰囲気の客だ。そんな相手にも物怖じせずに穂香は対応している。
「ね、あの人見たことあるよね。ノースセクターのヒーロー…ルーキーじゃない?」
「うんうん、絶対そうよ」
注意がそっちに向いていたところに、そんな会話が聞こえてきた。今度はそっちへちらりと目を向けると、若い店員二人が頭を寄せてヒソヒソ話をしながら俺を見ている。まだヒーローになって半年くらいだってのに、もう顔が割れてんのか。【ハロウィン・リーグ】で目立ちすぎたのかもな。
意図せず彼女たちと目が合うと、ニコリと微笑みを返された。とりあえずこっちも返すけど、口の端が引きつって上がりきらない。
適当に服を物色すること十五分。よさそうなトップスを身体に当ててみたり、素材を見様見真似で確かめてみたりしていた。その間にドアベルの音が何度か響く。そのどれかでさっきの客が帰ったんだろう。ようやく待ち人が「お待たせ」と声を掛けてきた。
「…結構待たせたわよね。ごめん。あのお客様、私が初めて研修でお店入った時に買い物してくれた方で…久しぶりに会ったから、つい話が弾んじゃったの」
「全然待ってないから、大丈夫だ。それに、馴染みの客がリピーターになってくれるってのは良いことだろ?穂香の頑張りが形になって表れてる証拠だし」
「ん……ありがと。それにしても、顔強張ってるわよ。ドレスコードがあるわけでもないんだし、いつも通り振舞ってればいいのに」
表情筋に余計な力が入っていると指摘される。いつも通りと言われても、当分は肩の力も抜けそうにないんだ。今日の目的は買い物だけじゃない。
「どの辺から案内する?フロア全体見て回ってもいいし、何系か決めてるならそこで選んでもいいし」
「…実はそこのアクセが気になってるんだ」
ハンガーラックの隣にあるガラスケースの什器。さっきから気になっていたシルバーバングル。サンプル品だと分かっていても、試すに試せなかった。
そのバングルは表面がマット加工で中央に緑のラインが入っていて、シンプルながらお洒落な感じがしていい。
穂香はそれを手に取り、什器の引き出しから専用のクロスを取り出した。慣れた手つきでバングルをさっと拭い、アクセサリートレイに乗せる。
「どうぞ。…さすがに三連着けはガチャガチャすると思うから、気分で一つどれかと着け替えるのがいいんじゃないかしら」
「……ああ、いいなこれ。カッコイイし、気に入ったかも」
俺がそう感想を述べると、丁寧なルージュに彩られた口元を僅かに上げて、穂香が微笑む。これは人気商品で売れているもので、特徴や材質の説明をしてくれた。詳しいんだなと相槌を打とうとした時だ。「水無月さん」と控えめに声を掛けてきた子がいた。
華奢な肩を窄めて、オドオドしながら穂香と俺の方を見る。不安を一杯に溜めた目で。
「ご対応中に申し訳ございません」
「気にしないで。お客さんって言っても、友達だし。何かあった?」
「す、すみません…。あの、このカラーシャツのことで訊かれたことがあって…」
腕に抱えていたカラーシャツを広げてみせる。その手は少し震えていた。胸元に研修中の文字が入ったネームタグ。入ったばかりの新人なんだろう。
「オーケー。私もそっちに行くわ。…ごめんガスト、ちょっと待ってて」
「あぁ、構わない。俺のことは気にしないでくれていいから」
どうやら他の店員も対応や電話中のようだった。その中でも声を掛けやすくて、頼りやすいのが穂香だったみたいで。それを駄目だなんて言えるわけない。
穂香は新人の子から不安を取り除かせようと明るい声をかけながら、その客のいる方へ一緒に向かった。
さて、こっちはまた一人になっちまったわけだが。他の店員が話しかけてこないことを祈りながら、バングルを外して元の場所へ戻した。と、そこで背後に人の気配を感じる。これは話しかけられるぞと身構えて、先にこちらから振り返った。不意打ちでなければ少しは対応できる、と思いたい。
「そのシルバーバングル、穂香先輩がデザインしたものなんですよ~。昨年のデザインですけど、シンプルさが好評でして」
そこには店内で見掛けなかった女性店員が立っていた。なんか見た目はこう、服や化粧の流行りを追うのが好きそうな印象だ。
彼女はニコニコと笑いながら俺の顔をじっと見てくる。その視線がずっと外れないもんだから、段々と居心地が悪くなってきた。それにこの圧、どこかで前にも感じたような気がする。
「へ…へぇ…そうなのか。いいデザイン、だな」
「ですよねぇ。ある人をイメージしながらデザインしたって言ってましたし」
「そうなのか……あ、あの~…なにか?」
「ハロウィンの衣装着てなくても、真面目なヴァンパイアさんはイケメンだなぁって」
その一言で思い出した。【ハロウィン・リーグ】が始まる前、市民にクッキーを配り歩いていた時に会った子だ。声を掛けられて色々聞かれたけど、彼女がいるって嘘をついて何とか逃げ切った。なんでこんな所に。それにさっき穂香先輩って言ってたよな。ちょっと待て、ということはあのことがバレてるんじゃ。
「彼女って、穂香先輩のコトだったんですねぇ。あ、彼女予定でしたっけ?」
バレてる。いや、なんでその『彼女』が穂香だって分かったんだ。お互い初対面だったはずだぞ。まさか司令並みに勘が鋭いのか、この子。口元に手を当てながらニヤニヤと目元を笑わせている。
「そんなに怯えなくても、先輩には何も話してませんよ」
「……そ、そうか。それなら、うん」
「先輩、結構アドラーさんのこと話してくれたんですよねぇ。顔も写真で見たことあったし、見たことあるなぁって。ホント、イケメンでびっくりしちゃいましたぁ」
今の話しぶりからして、結構二人は仲が良さそうな雰囲気だな。でも、話とか写真を見たって言うけど、俺のことどこまで話してるんだ。友達っていうのには間違いないだろうけど。
「変なことは別に言ってませんでしたよ?こっちで出来た初めての友達なんだーって。ニューミリオンをあちこち案内してくれるし、一緒にいると楽しいってニコニコしてました」
ああ、楽しんでくれてたんだな。映画館、アミューズメントパーク、ダーツバー、クリスマスマーケットやショッピングモール。思えばホントに色んな場所を案内して歩いた。さすがにカジノには行ってない。相手もそこまで興味無さそうだったし、俺が言うのもなんだけど治安があまり良くないからな。変な連中に絡まれたくなかったし。
本人の口から「今日は楽しかった」とお礼を毎回言われたけど、それが得意の社交辞令じゃないってことが分かっただけでも、なんか嬉しいよな。
「お待たせ……って、もう休憩上がったの?」
戻って来た穂香が後輩の顔を見て、少し驚いていた。
「先輩がよく話してくれたアドラーさんが来てるって聞いたんで、早めに休憩切り上げちゃいました。先輩が狙ってたっていう人、どんな人かなぁって気になってましたし」
「…その言い方だと語弊があるわよ」
「でもぉ、本気で考えてたじゃないですかぁ」
特に隔たりもなく会話を交わす二人。予想通り親しいみたいだな。でも、狙ってたってどういう意味だ。本気で考えてたって。穂香は険しそうな表情から、肩を竦めてみせた。
「……ああ、ごめんね。この子、私の後輩なの。去年まで事務所勤務だったんだけど、販売の方が好きだっていって直営店に配属になったのよ」
「へ、へぇ〜…そうなんだ。…明るくて、接客に向いてるんじゃないか?」
「わぁ~ありがとうございます」
当たり障りのない褒め言葉を贈ると、彼女は人の良い笑顔を見せた。なんていうか、直営店という割には店員に統一性がないよな。こんな風に気軽に話しかけてくる人もいれば、さっきみたいに畏まった感じの人もいるし。店の雰囲気を変えてるって言ってたから、きっとそれなんだろう。
「……あの、さ。狙ってた…って、どういう」
頭の隅に引っかかっていた話。俺がそう訊ねると、穂香は口を曲げた。それは残念そうに。
「惜しいことしたと思ってるのよ。いいモデルになりそうだったのに」
「主任が先に見つけてなければ、決まってたかもしれないんですよねぇ。アドラーさんに」
「話が見えてこねぇんだけど…?」
「うちの専属モデルに抜擢しようと思ってたの。…ほら、店のショーウィンドウに広告貼ってあったでしょ?」
店頭の広告モデル。三年前、引き受けてくれるモデルを探していたと二人が話していた。その当時から紳士服を展開しようと企画が上がっていたらしく、ノースシティの一号店で募集していたらしい。もしかすると、俺がその広告モデルになってたかもしれないのか。でも、そんな話一度も穂香から聞いてない。今初めて聞いた。その話を出すより先に、その主任が見つけてきたヤツに決まったからなのか。
「俺の顔目当てだったのか…?」
「……そういうわけじゃ、ないわ」
こっちは冗談交じりに言ったつもりが、穂香は真に受けたのかバツが悪そうに目を逸らした。いつもなら「冗談よ」と笑い飛ばしてくるのに。今のは俺の聞き方も悪かったか。それにしても、やっぱりこの間から穂香の態度が変わっているような気がする。
「あ、あの……何度も申し訳ございません。午前中に入荷したベルトの箱が見つからなくて…ご存じですか」
俺たちの所へさっきの新人の子が、さらに小さくなりながらそう訊ねてきた。客の対応は無事に済んだみたいだが、今度は在庫補充の件みたいだ。新人の時は分からないことばかりだよな、うん。カフェでバイトしてた時、俺も先輩に聞きまくったな。
「ごめんなさい、私だわ。配達員から受け取った時、ちょうどお客さんが来て。そっちの対応してたら…すっかり忘れてた。とりあえず、休憩室にそのまま置いといたんだけど」
「それじゃ、私が一緒に行ってきます。穂香先輩はお客様の相手をしてください」
「でも」
「いいからいいから〜。ごゆっくりご覧くださいねぇ」
自分が行くと渋る穂香を遮り、新人の背中を軽く押していく。去り際に「頑張ってくださいねぇ」と言わんばかりのウィンクが一つ飛んできた。俺がここに来た理由、知ってるのか。いや、まさかな。
「……うるさくてごめんね。あんな感じだけど、いい子なの」
「まぁ、それは何となく分かる」
「話は戻すけど、さっきのアクセ以外に気になるものは何かあった?」
「そう、だな…そろそろコート買い替えようと考えてるんだ。良さそうなのがあれば…って」
今のモッズコートは気に入っているし、温かい。冬のこの時期はいつもこれを羽織ってるけど、回数が多ければそれだけ生地が傷む。服や靴はお気に入りのものばかりを着るんじゃなく、複数枚でローテーションさせると長持ちするって教わった。理に適ってるよな。
コーディネーターの視線が俺の頭から爪先までを眺めていた。今さらすぎるけど、今日の格好特に変じゃないよな。
「そうね……ガストの私服に合わせるなら、こんなのはどう?」
ハンガーラックから黒のチェスターコートを持ってきて、俺の身体に合わせるようにした。
「これならモード系でも、きれいめカジュアルでも合わせやすいと思う。黒だと引き締まるし、色も組みやすい。羽織ってみる?」
「ん、そうだな」
俺はすぐ脇にある姿見の前に立ち、着ていたモッズコートを渡してチェスターコートを受け取った。思いの外軽いし、袖を通した感じは温かそうだった。肩回りも窮屈じゃくて、いい感じだ。手持ちの服やマフラーとも相性が良さそうだな。
鏡越しに見えた穂香は満足そうに頬を緩めて、笑っていた。俺の好きな表情だ。
「うん。似合ってる。…やっぱりガストは何着ても似合うわ」
「サンキュ。…センスの良いヤツが側にいるから、自然と気を使うようになったおかげだな」
隣に顔を向けて、直接笑みを返す。目が合ったその瞬間、相手は何故か驚いて、ふいっと目を逸らした。「ガストは昔から服のセンス、いいわよ」と目を伏せがちにしながらも、そう褒めてくれる。
「他にも着てみる?タートルネック着る時ならトレンチだとすっきりしていいわよ」
「いや、これに決めた。さっきのバングルも一緒に」
「畏まりました。新しいもの用意するから、少し待ってて」
「わかった」
返してもらった自前のコートを羽織り、バックヤードに引っ込んだ穂香を目で追いかける。買い物して満足、今日はそれで帰るわけにいかないんだ。
ただ遊びに行く誘いなら電話やメッセ─ジでもいいだろと思う。今回は特別なんだ。だから、直接デートの申し込みに来た。覚悟を決めてきたのはいいけど、どのタイミングで誘えばいいのか。それが掴めずにずっと考えている。その間に色々思わぬアクシデントに見舞われたけど、まあそれは大したことじゃない。動揺はしたけどな。
「お待たせ。こちらの二点でお間違いないでしょうか」
「…あ、あぁ」
「それじゃあ、こっちでお会計してもらってもいいかしら」
「おう」
「ガストにはお世話になってるし、特別に割引しておく」
キャッシュレジスターに表示された値段は定価の三割以上も値引きされていて、逆に悪い気がした。店の売上に響くんじゃないかって聞いても「今後も贔屓にしてくれるなら大丈夫」と。正直、この調子だと今度はいつになるか分からないぞ。値段云々の問題以前に、一人で来店する自信が無い。誰かが行くついでになら、なんとか。それもちょっとカッコ悪いか。
お洒落な店のロゴが入ったショッパーにアクセサリーの化粧箱と手早く畳んだコートが入れられた。
カウンターから出てきた穂香が「店の入口までお持ちします」とショッパーを持ってくる。ここで言うか、それともショッパーを受け取る時か。いや、店の入口付近で立ち話してたら他の客が入ってこられないよな。それなら、会計待ちの客も今はいないし、ここで。
いつまでもカウンターの前に留まっていた俺を不思議そうに相手が見上げてくる。いざ言葉を口にしようとすると、いつの間にか渇いていた喉が貼りついて、上手く声が出てこない。
「あ、あのさ。……次の休み空いてたら、イエローウエストのアミューズメントパークに、行かないか?」
自分でもわかるぐらいに声のトーンが落ち着いていた。なんか物凄く改まった言い方になっちまった。いつもみたいにメシ行こうとか、飲みに行こうって感じで軽く誘いたかったんだけど。こんな真面目な調子で声掛けたら、何かあるんじゃないかって勘繰られそうだ。現に答えがすぐ返ってこないし、あまりいい顔されてない。だいぶ前にアミューズメントパークには行ったことあるし、割と楽しんでいた気がする。ホラーハウスは本気で嫌がってたな。来月からクリスマスイベントもやるっていうから、どうかと思ったんだけど。
「予定は特に、無いけど」
「しばらく遊びに行ってなかったし、久しぶりにさ。…新しいエリアもオープンしたっていうし。どうかなぁと思って」
「……私とでいいの?他の子じゃなくて」
ショッパーを両手で支えていた穂香の腕が僅かに下がる。また、目を逸らされた。避けられてるわけじゃないよな。ただ、乗り気じゃないだけだと思いたかった。
「俺は穂香と行きたいんだ。…もうすぐ【クリスマス・リーグ】の準備も始まるし、忙しくなる前に遊びに行っておきたくて。他の誰かとじゃなく、穂香と一緒に」
「……ごめん、そういうつもりで聞いたんじゃないの。ありがと。……しばらく遊びに行ってないもんね。うん、いいよ」
眉をキュッと寄せていた表情が少し、和らいだ。
あんまりにも乗り気じゃないなら、また今度にしようかと考えてもいた。引き際も肝心だし、無理に連れ回しても、きっと楽しめない。でも、相手がオーケーサイン出してくれたからには、こっちからやっぱ止めようとは言い辛くなってしまった。
「じゃあ、詳しい時間決めたらまた連絡するから」
再度持ち上げられたショッパーを受け取り、穂香に笑いかける。
少し前から様子がおかしい彼女のことを心配しながらも、想いを告げるまでのカウントダウンがいよいよ動き始めた。
日差しがある晴れた日でも、空気は冷えて凛としていた。昨日、ブルーノースシティでも雪が降って、解け残った雪が道端に薄っすらと積もっている。
メインストリートはロードヒーティングのおかげで、コンクリートは完全に乾いた状態だ。こういう設備が整っているあたり、さすがブルーノースシティだと思う。
俺はこの大通りに面したブティックを目指していた。
昼過ぎに行くと穂香に伝えたら、その時間帯に居るようにすると返事が来た。知らない店に行くという実感は薄いはずなんだ。それでも妙な緊張が拭えなくて、歩みが遅くなる。
なにせこの辺のショップには立ち寄ったことがない。ブティックとなれば尚更だ。俺みたいなヤツが一人で行くようなエリアじゃないからな。【HELIOS】に入所してノースセクターに配属されたから、フード店を利用する機会は増えた。でも、服は別だ。どこもお洒落で気取ったショップばかりだし。だから今まで避けてきたけど、今日はそうもいかない。兼ねてからの約束を果たす為、それと大事な用事もある。
穂香が勤めているデザイナー事務所の直営店。店の外観だけは何度も見たことがある。市内パトロールのルートにもあるからな。スタイリッシュで、ショーウィンドウには季節に合わせてマネキンの服装が変わる。今は冬の装いをしたマネキンが二体並んでいた。あのコート、穂香に似合いそうだ。ショーウィンドウ広告には男のモデルが写っている。トレンチコートを羽織って、ポケットに手を入れて、流し目でカッコつけている。二十代ぐらいに見える。
店内の様子を外から探ろうと考えてみたが、それだと怪しまれそうな気がした。俺はショーウィンドウを眺めるフリをして、ガラスに映った自分の前髪を直す。それから覚悟を決めて、ブティックのドアをゆっくりと押し開けた。
カラン、カランと上品なベルの音が鳴り響いた。来店を報せたその音で入口付近にいた店員から「いらっしゃいませ」と挨拶される。無駄に声を勢いよく張らないあたり、ここはサウスのショップとは別世界だなと一瞬で感じとれた。
試着用の服を戻していた店員が俺の方を見て、にこりと微笑んだ。その瞬間、嫌な予感がした。それは大当たりで、肩までのストレートヘアの若い女性店員がこっちに近づいてくる。
「何かお探しのものはございますか?」
客に声を掛けてくるタイプの接客、それは覚悟していた。でも、初っ端から話しかけられても、どうしたらいいのか。いや、慌てる必要はない。店の入口で固まりかけていた俺はそう言い聞かせ、緊張を抑えながら愛想笑いを浮かべてみせる。
「え、ええっと……探し物、というよりは約束があるんだけど」
「御来店予約でございますね。恐れ入りますが、お客様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「あ、あぁ……ガスト・アドラーだ。水無月さんと会う約束で」
どうも来店予約っていう形になっているらしい。服の取り置きは他のショップでもあるけど、来店に予約できるとか聞いたことがない。さすが、高級ブティックだな。
小柄な女性店員が薄いピンクのルージュを引いた口元に上品な笑みを浮かべた。
「アドラー様ですね。確認して参りますので、こちらのお席でお待ちいただけますか」
そう案内された店の奥には来客用の小さなスペースが設置されていた。お洒落なソファにテーブル。その一画にふかふかの絨毯が敷かれている。
俺はそのソファに浅く腰かけた。それだけでも深く沈み込みそうになる。特定の人間をダメにしそうなソファだ。
服を買いに来て来客用のスペースに案内されることなんて、まずない。お洒落な感じのクリスマスソングが店内に流れているし、音量もかなり控えめだ。会話の邪魔にならないように配慮してるんだろうけど、それが逆に落ち着かない。
ここから見える範囲で店内をざっと見渡してみた。服のジャンル毎に店員が一人ずつ配置されているようで、今気づいたけど、店員は全て女性だ。そりゃそうか、元々ブティックだしな。
その中に肝心の相手が見つからなかった。死角にいるのかとソファから身を乗り出そうとした時、さっきの店員が戻ってくるのが見えたから慌てて座り直す。
「お待たせしております。申し訳ございません、水無月は只今接客中でして…しばらくお待ちいただけますか」
「ああ、終わるまで待つから問題ない」
「有難うございます。お飲み物をお持ち致します。コーヒーと紅茶どちらがよろしいですか」
「い、いや……店内適当に見せてもらっても?」
待つとは言ったけど、こんな所でお茶飲みながらとかは無理だ。きっと高級な茶葉やコーヒー豆なんだろうけど、味や香りを楽しむ余裕は今の俺には無い。じっと待つよりも、服とか見てた方がずっといい。
彼女は俺の提案に対して一つも嫌な顔をせず「恐れ入ります。それではご自由にご覧くださいませ。何かご不明な点、お気に召したものがございましたら近くのスタッフにお声掛けください」と呪文のような言葉を並べていった。
今ので実感した。どう考えても俺一人で入るにはハードルが高い店だ。この店のブランドを教えたヤツらは普通に買い物してるのか。彼女いるヤツは一緒に来ているのかもしれない。気後れしてんのは俺だけか。
紳士服はトップスやアウターなどが服のジャンルごとにざっくりと分かれているようだった。小物もガラスケースの上に展示されている。ネクタイやタイ・クリップが飾られていた。アクセサリーもその横にあって、シルバーバングルが目に留まった。あれ、結構良さそうだな。手に取ってみたいけど、触れちゃいけないような気がする。
「アウターに合わせるのであれば、明るい色味の…こちらのようなストールを首元に飾るのもよろしいかと」
聞き覚えある声が奥から聞こえてきた。その声を耳聡く拾い上げた俺はそっちに顔を向ける。
穂香がいた。普段見る笑顔とは少し違う。仕事用の顔、そういえば初めて見る。
中年の女性客が羽織っているコートの差し色にと、ストールを二枚腕にかけてどちらが良いか決めてもらっているようだった。ちょっときつめというか、神経質な雰囲気の客だ。そんな相手にも物怖じせずに穂香は対応している。
「ね、あの人見たことあるよね。ノースセクターのヒーロー…ルーキーじゃない?」
「うんうん、絶対そうよ」
注意がそっちに向いていたところに、そんな会話が聞こえてきた。今度はそっちへちらりと目を向けると、若い店員二人が頭を寄せてヒソヒソ話をしながら俺を見ている。まだヒーローになって半年くらいだってのに、もう顔が割れてんのか。【ハロウィン・リーグ】で目立ちすぎたのかもな。
意図せず彼女たちと目が合うと、ニコリと微笑みを返された。とりあえずこっちも返すけど、口の端が引きつって上がりきらない。
適当に服を物色すること十五分。よさそうなトップスを身体に当ててみたり、素材を見様見真似で確かめてみたりしていた。その間にドアベルの音が何度か響く。そのどれかでさっきの客が帰ったんだろう。ようやく待ち人が「お待たせ」と声を掛けてきた。
「…結構待たせたわよね。ごめん。あのお客様、私が初めて研修でお店入った時に買い物してくれた方で…久しぶりに会ったから、つい話が弾んじゃったの」
「全然待ってないから、大丈夫だ。それに、馴染みの客がリピーターになってくれるってのは良いことだろ?穂香の頑張りが形になって表れてる証拠だし」
「ん……ありがと。それにしても、顔強張ってるわよ。ドレスコードがあるわけでもないんだし、いつも通り振舞ってればいいのに」
表情筋に余計な力が入っていると指摘される。いつも通りと言われても、当分は肩の力も抜けそうにないんだ。今日の目的は買い物だけじゃない。
「どの辺から案内する?フロア全体見て回ってもいいし、何系か決めてるならそこで選んでもいいし」
「…実はそこのアクセが気になってるんだ」
ハンガーラックの隣にあるガラスケースの什器。さっきから気になっていたシルバーバングル。サンプル品だと分かっていても、試すに試せなかった。
そのバングルは表面がマット加工で中央に緑のラインが入っていて、シンプルながらお洒落な感じがしていい。
穂香はそれを手に取り、什器の引き出しから専用のクロスを取り出した。慣れた手つきでバングルをさっと拭い、アクセサリートレイに乗せる。
「どうぞ。…さすがに三連着けはガチャガチャすると思うから、気分で一つどれかと着け替えるのがいいんじゃないかしら」
「……ああ、いいなこれ。カッコイイし、気に入ったかも」
俺がそう感想を述べると、丁寧なルージュに彩られた口元を僅かに上げて、穂香が微笑む。これは人気商品で売れているもので、特徴や材質の説明をしてくれた。詳しいんだなと相槌を打とうとした時だ。「水無月さん」と控えめに声を掛けてきた子がいた。
華奢な肩を窄めて、オドオドしながら穂香と俺の方を見る。不安を一杯に溜めた目で。
「ご対応中に申し訳ございません」
「気にしないで。お客さんって言っても、友達だし。何かあった?」
「す、すみません…。あの、このカラーシャツのことで訊かれたことがあって…」
腕に抱えていたカラーシャツを広げてみせる。その手は少し震えていた。胸元に研修中の文字が入ったネームタグ。入ったばかりの新人なんだろう。
「オーケー。私もそっちに行くわ。…ごめんガスト、ちょっと待ってて」
「あぁ、構わない。俺のことは気にしないでくれていいから」
どうやら他の店員も対応や電話中のようだった。その中でも声を掛けやすくて、頼りやすいのが穂香だったみたいで。それを駄目だなんて言えるわけない。
穂香は新人の子から不安を取り除かせようと明るい声をかけながら、その客のいる方へ一緒に向かった。
さて、こっちはまた一人になっちまったわけだが。他の店員が話しかけてこないことを祈りながら、バングルを外して元の場所へ戻した。と、そこで背後に人の気配を感じる。これは話しかけられるぞと身構えて、先にこちらから振り返った。不意打ちでなければ少しは対応できる、と思いたい。
「そのシルバーバングル、穂香先輩がデザインしたものなんですよ~。昨年のデザインですけど、シンプルさが好評でして」
そこには店内で見掛けなかった女性店員が立っていた。なんか見た目はこう、服や化粧の流行りを追うのが好きそうな印象だ。
彼女はニコニコと笑いながら俺の顔をじっと見てくる。その視線がずっと外れないもんだから、段々と居心地が悪くなってきた。それにこの圧、どこかで前にも感じたような気がする。
「へ…へぇ…そうなのか。いいデザイン、だな」
「ですよねぇ。ある人をイメージしながらデザインしたって言ってましたし」
「そうなのか……あ、あの~…なにか?」
「ハロウィンの衣装着てなくても、真面目なヴァンパイアさんはイケメンだなぁって」
その一言で思い出した。【ハロウィン・リーグ】が始まる前、市民にクッキーを配り歩いていた時に会った子だ。声を掛けられて色々聞かれたけど、彼女がいるって嘘をついて何とか逃げ切った。なんでこんな所に。それにさっき穂香先輩って言ってたよな。ちょっと待て、ということはあのことがバレてるんじゃ。
「彼女って、穂香先輩のコトだったんですねぇ。あ、彼女予定でしたっけ?」
バレてる。いや、なんでその『彼女』が穂香だって分かったんだ。お互い初対面だったはずだぞ。まさか司令並みに勘が鋭いのか、この子。口元に手を当てながらニヤニヤと目元を笑わせている。
「そんなに怯えなくても、先輩には何も話してませんよ」
「……そ、そうか。それなら、うん」
「先輩、結構アドラーさんのこと話してくれたんですよねぇ。顔も写真で見たことあったし、見たことあるなぁって。ホント、イケメンでびっくりしちゃいましたぁ」
今の話しぶりからして、結構二人は仲が良さそうな雰囲気だな。でも、話とか写真を見たって言うけど、俺のことどこまで話してるんだ。友達っていうのには間違いないだろうけど。
「変なことは別に言ってませんでしたよ?こっちで出来た初めての友達なんだーって。ニューミリオンをあちこち案内してくれるし、一緒にいると楽しいってニコニコしてました」
ああ、楽しんでくれてたんだな。映画館、アミューズメントパーク、ダーツバー、クリスマスマーケットやショッピングモール。思えばホントに色んな場所を案内して歩いた。さすがにカジノには行ってない。相手もそこまで興味無さそうだったし、俺が言うのもなんだけど治安があまり良くないからな。変な連中に絡まれたくなかったし。
本人の口から「今日は楽しかった」とお礼を毎回言われたけど、それが得意の社交辞令じゃないってことが分かっただけでも、なんか嬉しいよな。
「お待たせ……って、もう休憩上がったの?」
戻って来た穂香が後輩の顔を見て、少し驚いていた。
「先輩がよく話してくれたアドラーさんが来てるって聞いたんで、早めに休憩切り上げちゃいました。先輩が狙ってたっていう人、どんな人かなぁって気になってましたし」
「…その言い方だと語弊があるわよ」
「でもぉ、本気で考えてたじゃないですかぁ」
特に隔たりもなく会話を交わす二人。予想通り親しいみたいだな。でも、狙ってたってどういう意味だ。本気で考えてたって。穂香は険しそうな表情から、肩を竦めてみせた。
「……ああ、ごめんね。この子、私の後輩なの。去年まで事務所勤務だったんだけど、販売の方が好きだっていって直営店に配属になったのよ」
「へ、へぇ〜…そうなんだ。…明るくて、接客に向いてるんじゃないか?」
「わぁ~ありがとうございます」
当たり障りのない褒め言葉を贈ると、彼女は人の良い笑顔を見せた。なんていうか、直営店という割には店員に統一性がないよな。こんな風に気軽に話しかけてくる人もいれば、さっきみたいに畏まった感じの人もいるし。店の雰囲気を変えてるって言ってたから、きっとそれなんだろう。
「……あの、さ。狙ってた…って、どういう」
頭の隅に引っかかっていた話。俺がそう訊ねると、穂香は口を曲げた。それは残念そうに。
「惜しいことしたと思ってるのよ。いいモデルになりそうだったのに」
「主任が先に見つけてなければ、決まってたかもしれないんですよねぇ。アドラーさんに」
「話が見えてこねぇんだけど…?」
「うちの専属モデルに抜擢しようと思ってたの。…ほら、店のショーウィンドウに広告貼ってあったでしょ?」
店頭の広告モデル。三年前、引き受けてくれるモデルを探していたと二人が話していた。その当時から紳士服を展開しようと企画が上がっていたらしく、ノースシティの一号店で募集していたらしい。もしかすると、俺がその広告モデルになってたかもしれないのか。でも、そんな話一度も穂香から聞いてない。今初めて聞いた。その話を出すより先に、その主任が見つけてきたヤツに決まったからなのか。
「俺の顔目当てだったのか…?」
「……そういうわけじゃ、ないわ」
こっちは冗談交じりに言ったつもりが、穂香は真に受けたのかバツが悪そうに目を逸らした。いつもなら「冗談よ」と笑い飛ばしてくるのに。今のは俺の聞き方も悪かったか。それにしても、やっぱりこの間から穂香の態度が変わっているような気がする。
「あ、あの……何度も申し訳ございません。午前中に入荷したベルトの箱が見つからなくて…ご存じですか」
俺たちの所へさっきの新人の子が、さらに小さくなりながらそう訊ねてきた。客の対応は無事に済んだみたいだが、今度は在庫補充の件みたいだ。新人の時は分からないことばかりだよな、うん。カフェでバイトしてた時、俺も先輩に聞きまくったな。
「ごめんなさい、私だわ。配達員から受け取った時、ちょうどお客さんが来て。そっちの対応してたら…すっかり忘れてた。とりあえず、休憩室にそのまま置いといたんだけど」
「それじゃ、私が一緒に行ってきます。穂香先輩はお客様の相手をしてください」
「でも」
「いいからいいから〜。ごゆっくりご覧くださいねぇ」
自分が行くと渋る穂香を遮り、新人の背中を軽く押していく。去り際に「頑張ってくださいねぇ」と言わんばかりのウィンクが一つ飛んできた。俺がここに来た理由、知ってるのか。いや、まさかな。
「……うるさくてごめんね。あんな感じだけど、いい子なの」
「まぁ、それは何となく分かる」
「話は戻すけど、さっきのアクセ以外に気になるものは何かあった?」
「そう、だな…そろそろコート買い替えようと考えてるんだ。良さそうなのがあれば…って」
今のモッズコートは気に入っているし、温かい。冬のこの時期はいつもこれを羽織ってるけど、回数が多ければそれだけ生地が傷む。服や靴はお気に入りのものばかりを着るんじゃなく、複数枚でローテーションさせると長持ちするって教わった。理に適ってるよな。
コーディネーターの視線が俺の頭から爪先までを眺めていた。今さらすぎるけど、今日の格好特に変じゃないよな。
「そうね……ガストの私服に合わせるなら、こんなのはどう?」
ハンガーラックから黒のチェスターコートを持ってきて、俺の身体に合わせるようにした。
「これならモード系でも、きれいめカジュアルでも合わせやすいと思う。黒だと引き締まるし、色も組みやすい。羽織ってみる?」
「ん、そうだな」
俺はすぐ脇にある姿見の前に立ち、着ていたモッズコートを渡してチェスターコートを受け取った。思いの外軽いし、袖を通した感じは温かそうだった。肩回りも窮屈じゃくて、いい感じだ。手持ちの服やマフラーとも相性が良さそうだな。
鏡越しに見えた穂香は満足そうに頬を緩めて、笑っていた。俺の好きな表情だ。
「うん。似合ってる。…やっぱりガストは何着ても似合うわ」
「サンキュ。…センスの良いヤツが側にいるから、自然と気を使うようになったおかげだな」
隣に顔を向けて、直接笑みを返す。目が合ったその瞬間、相手は何故か驚いて、ふいっと目を逸らした。「ガストは昔から服のセンス、いいわよ」と目を伏せがちにしながらも、そう褒めてくれる。
「他にも着てみる?タートルネック着る時ならトレンチだとすっきりしていいわよ」
「いや、これに決めた。さっきのバングルも一緒に」
「畏まりました。新しいもの用意するから、少し待ってて」
「わかった」
返してもらった自前のコートを羽織り、バックヤードに引っ込んだ穂香を目で追いかける。買い物して満足、今日はそれで帰るわけにいかないんだ。
ただ遊びに行く誘いなら電話やメッセ─ジでもいいだろと思う。今回は特別なんだ。だから、直接デートの申し込みに来た。覚悟を決めてきたのはいいけど、どのタイミングで誘えばいいのか。それが掴めずにずっと考えている。その間に色々思わぬアクシデントに見舞われたけど、まあそれは大したことじゃない。動揺はしたけどな。
「お待たせ。こちらの二点でお間違いないでしょうか」
「…あ、あぁ」
「それじゃあ、こっちでお会計してもらってもいいかしら」
「おう」
「ガストにはお世話になってるし、特別に割引しておく」
キャッシュレジスターに表示された値段は定価の三割以上も値引きされていて、逆に悪い気がした。店の売上に響くんじゃないかって聞いても「今後も贔屓にしてくれるなら大丈夫」と。正直、この調子だと今度はいつになるか分からないぞ。値段云々の問題以前に、一人で来店する自信が無い。誰かが行くついでになら、なんとか。それもちょっとカッコ悪いか。
お洒落な店のロゴが入ったショッパーにアクセサリーの化粧箱と手早く畳んだコートが入れられた。
カウンターから出てきた穂香が「店の入口までお持ちします」とショッパーを持ってくる。ここで言うか、それともショッパーを受け取る時か。いや、店の入口付近で立ち話してたら他の客が入ってこられないよな。それなら、会計待ちの客も今はいないし、ここで。
いつまでもカウンターの前に留まっていた俺を不思議そうに相手が見上げてくる。いざ言葉を口にしようとすると、いつの間にか渇いていた喉が貼りついて、上手く声が出てこない。
「あ、あのさ。……次の休み空いてたら、イエローウエストのアミューズメントパークに、行かないか?」
自分でもわかるぐらいに声のトーンが落ち着いていた。なんか物凄く改まった言い方になっちまった。いつもみたいにメシ行こうとか、飲みに行こうって感じで軽く誘いたかったんだけど。こんな真面目な調子で声掛けたら、何かあるんじゃないかって勘繰られそうだ。現に答えがすぐ返ってこないし、あまりいい顔されてない。だいぶ前にアミューズメントパークには行ったことあるし、割と楽しんでいた気がする。ホラーハウスは本気で嫌がってたな。来月からクリスマスイベントもやるっていうから、どうかと思ったんだけど。
「予定は特に、無いけど」
「しばらく遊びに行ってなかったし、久しぶりにさ。…新しいエリアもオープンしたっていうし。どうかなぁと思って」
「……私とでいいの?他の子じゃなくて」
ショッパーを両手で支えていた穂香の腕が僅かに下がる。また、目を逸らされた。避けられてるわけじゃないよな。ただ、乗り気じゃないだけだと思いたかった。
「俺は穂香と行きたいんだ。…もうすぐ【クリスマス・リーグ】の準備も始まるし、忙しくなる前に遊びに行っておきたくて。他の誰かとじゃなく、穂香と一緒に」
「……ごめん、そういうつもりで聞いたんじゃないの。ありがと。……しばらく遊びに行ってないもんね。うん、いいよ」
眉をキュッと寄せていた表情が少し、和らいだ。
あんまりにも乗り気じゃないなら、また今度にしようかと考えてもいた。引き際も肝心だし、無理に連れ回しても、きっと楽しめない。でも、相手がオーケーサイン出してくれたからには、こっちからやっぱ止めようとは言い辛くなってしまった。
「じゃあ、詳しい時間決めたらまた連絡するから」
再度持ち上げられたショッパーを受け取り、穂香に笑いかける。
少し前から様子がおかしい彼女のことを心配しながらも、想いを告げるまでのカウントダウンがいよいよ動き始めた。