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5.その訳
朝早い時間に事務所の給湯室兼調理室から物音が聞こえてきた。こんな朝早くから誰が何をしとんのかと。少なくともインターンに来ている二人ではないなと思いながら欠伸を一つ。
どうせ馴染みの顔が居るんかと思い込んでいたせいで、覗き込んだ先に居た相手を見て驚いた。もう既に身支度を整えた霧華ちゃんがでかい鍋を火にかけて、湯を沸かしてるところやった。
「…おはよーさん。えらい早いなァ。ゆっくりしててもええのに」
「お早うございます」
「……もしかして、朝飯作ろうとしてる?」
「はい。ファットさんいつもこの位の時間に起きられてるんですか?」
「ああ、まあ当直以外は大体こんな時間やな」
冷蔵庫からキャベツを一玉、人参とゴボウを二本ずつ取り出して洗い場に置いた。水道の蛇口を捻り、野菜を丁寧に洗い始めた。ゴボウの土を洗い落として包丁で削るように切り落としていく。洗い場の隅にはボウルに水が張ってあり、そん中にアサリの砂抜きがされてあった。
霧華ちゃん手際ええなあと思わず見とれとったが。いや、そうじゃない。
「ってちゃうねん。別に霧華ちゃんが朝飯作らんでもええのに。俺がやるつもりやし」
「…私、お世話になってる身ですし。ほら、働かざる者食うべからずって諺もありますよね。だから、お手伝いさせてください。他にも事務所内の掃除とか、私に出来そうなことであれば何でも」
三日目の朝だった。初日よりもだいぶ喋るようになったし、表情もすこーし柔なってきた。急に話しかけると小動物かってほど驚かれたりはする。
俺よか環や切島くんと話す事が多い。おかしいな。俺ん方が年近うて親しみやすいと思うんやけど。切島くんは素直で明るいとこあるし、話しやすいんは分かる。環とふつーに会話してんは性格が似てて落ち着けるんやろな。
事務所の中がすこーし分かってくると自分であれこれ進んでやろうとする。積極的な姿勢はええねん。けどな。
「じっとしていると落ち着かなくて。それに動いていた方が気が紛れるんです」
「…まあ、それで霧華ちゃんの気ぃ済むんならな。せやけどな、そんな肩に力入れとうたら心も体もバッキバキになってまうよ。霧華ちゃんはまずその無駄に入った力抜くことからやねん。それクリアしてから次考えてけばええねん。あれもこれもとまとめて越えようとしても中々上手くいかへんで」
特にこうして不慣れな土地に居るん。気合入れて状況打破しようとする前向きな姿勢を見習わせたいとこはある。それでも無理しおったら空回りするだけや。
タンタンとリズミカルに響いていた包丁の音がぴたりと止まった。切った野菜をザルに移して水気を切る。その手が少し震えとるような気がした。それからは俺に背を向ける様にして調理を続けている。声を掛けてもはっきりとした返事は来なかった。そこで右手で目元を拭うような仕草。それ見て寝惚けてた頭が一気に覚めた。
「なっ、なんや…どうしたん。ファットさんそんなキツイ事言うてしもうた?別に責めてるつもりで言うたわけじゃなくて…な、泣かんといてな」
俺の言い方がきつかったんやろか。気に障った事言ってしもうたのかもしれへん。鼻を啜る音まで聞こえてきて、どうしてええのかおろおろしていたら、掠れた声で遅れた返事が返ってきた。
「………ます、すみま、せん」
そう、謝られてしもうて何も言えんかった。
◇◆◇
「あかん。俺、恐がられとるわ」
事務所のデスクでそうぼやいたファットガムが大きな溜息をついた。この人は今更何を言い出すのだろうか。敵にとって恐れられるということは、牽制にもなる。結果として争闘が減少するのだからむしろ喜ばしいのでは。
「牽制になっていいと思います。…その方が争いも減るし」
「いや、敵さんの話ちゃうわ。霧華ちゃんや霧華ちゃん。…なんや俺だけ避けられとる気がする」
「……気のせいでは?」
「気のせいとちゃうわ。目ぇ合わせてくれへんし、話しかけたらめっちゃオドオドされるし」
「自意識過剰…だと思う」
葉月さんは天真爛漫で細かい事を気にしない、という性格じゃない。大人しくて、落ち着きがあって俺は話しやすい。ということは、逆に明るい性格の人とは相性が悪いんじゃないか。そう考えてはみたものの、葉月さんは切島くんとも良く話している所を見る。ということは。
「…やっぱりファットだけ嫌われているのかもしれない」
一思案した後の俺の一言が矢の様に突き刺さったというリアクションを取られた。涙目でこちらを見る、大袈裟なリアクションを。
「真顔で言わんといて!めっちゃ傷つくわァ!」
「何か気に障る言動でもしたのでは」
「それが思い当たらへん」
片肘をデスクについたファットがまた大きな溜息を一つ吐き出した。普段細かい事を気にしない人が、一人の女性をこんなに気にしているなんて。珍しい事もあるものだ。その気遣いを少しは俺にも向けてほしい。パワハラを止めてもらいたい。
「環は何が原因だと思う?」
「……それ、俺に聞いても意味がないと思います」
「参考までにや」
「……見た目」
「物理的な問題!こんなに丸くて愛嬌あるファットさんやのに?!」
「自分の身長よりも二倍以上あるのが。それだけで恐怖を与えているのかも…縮めば怖がられなくなるかもしれませんよ」
コンパクトにぎゅっと小さくなれば問題ないかもしれない。両手でその例えを示すとすかさずツッコミが飛んできた。
「いや無理やろそれは!……低脂肪状態やっても身長ほぼ変わらんしなあ」
「というよりその状態だとヒーロー業に支障が出ますよね」
「そないなことないで。これでも昔はゴリゴリの武闘派やってん。多少は対応できるし。まあ、捕縛方法に吸着使えんから手が出る回数は多なるけどな」
「……そういうところだと思う」
それが葉月さんの耳に入ったら余計に避けられるのでは。
こんな話を振られた時から嫌な予感は薄々していた。キャビネットの資料を探しているのを遮られた挙句、厄介事を頼まれてしまうことになった。
「…なー環。それとなーく探ってみてくれへん」
「なんで俺が……探り屋みたいなの、出来る訳がないでしょう」
「せやかて切島くんに頼んだら真っ向から聞くやろ」
確かに彼なら面と向かって「ファットの事嫌いなんスか!?」と尋ねそうだ。それにたじろぐ相手の光景がとてもよく想像できる。何も解決しないどころか事態が悪化しそうだ。
「頼むで環ぃ…このまま俺だけ打ち解けられへんの辛いわァ」
「寂しんぼですか。……善処します」
探していた資料が見つからなかったA4ファイルをキャビネットに戻した俺は深い溜息をついた。
様子を窺うといっても、どうすればいいのか。そのタイミングは。何から聞き出せばいいのか。相手が頑なに話してくれなかったとしたら。ああ、やっぱり考えれば考える程俺には向いていない。
第一、二人きりで話す機会なんて訪れる事があるのか。そう思っていた。その矢先のことだった。
切島くんがファットと二人でパトロールに出ると言ってコスチュームに着替えていた。俺は、とファットの顔を見れば意味深なウインクと笑顔。この隙に探れということだ。
心の準備が全く出来ていない上に、急に振られたチャンスが重いプレッシャーとなって圧し掛かってくる。
「今日は天喰くん一緒に行かないんだね」
「……ええ。ファットが、切島くんに覚えてもらいたいポイントを教えに行くだけだと…言っていたので。それに、事務所に在中しているヒーローがいないから…留守番、です」
飲み物を淹れてくると葉月さんが言い残して、給湯室へ消えていった。戻ってくるまでの間に話の順序を組み立てよう。少しでもこの心臓が落ち着くように。頭を悩ませていたら余計に緊張してきた。やっぱり無理だ。俺には出来ない。
「お待たせ。熱いから気を付けてね」
「…有り難うございます」
顔に近づけたマグカップから緑茶の薫りが漂う。舌先が少し熱いと感じた温度の緑茶は渋く無くて飲みやすい。
話を切り出そうとしてはやっぱり今じゃないと緑茶を啜る。五分経過して、口を開こうとして閉じる。そしてまた緑茶を啜る。
それを何度繰り返したか。無言に耐えきれずこの場から退場したい。でもそれはできない。俺が何処かに行ってしまえば葉月さんが一人になってしまう。
この葛藤といつまで戦えばいい。誰でもいいから早く戻ってきてほしい。
緑茶が半分以上減ってしまい、どうしようかと更に悩み始めた頃だ。
「高校の授業、英語や数学も普通にあるの?」
「…は、い。あります」
「ヒーロー科、だっけ。通常の授業に加えて特別な授業があるの大変そう」
「…それがヒーロー科なので。特に大変とかは…考えたことないです」
「そっか。天喰くんも切島くんも頑張り屋さんだね」
「……有り難うございます」
自分が返した言葉は尻すぼみになって消えていった。急に振られた話。なんてことは無い日常会話。上手く返せていたか分からない。
でも、これは会話の糸口と考えてもいいのかもしれなかった。話を続けるには今しかない。張り付きそうな喉を残りの緑茶で潤し、意を決して話を切り出した。
「葉月さんは…どうですか」
「え?」
「此処に、慣れましたか」
「…うん」
「すみません。…まだ一週間も経ってないのに…おかしい質問を。慣れる訳がない…」
「あ、ううん。そんなことない。…ほら、ここの人みんな優しいから。そのおかげでだいぶ」
妙な質問だと思われたに違いない。でも聞いてしまった以上は後戻りできない。俺は葉月さんの方に少しだけ視線を向けて、唾を飲み込んだ。
「葉月さん」
「はい」
「…俺達の事は、怖くないんですか」
回りくどい聞き方も考えた。でも外堀を埋めていくうちにボロが出る。それなら簡潔に聞いてしまった方が良い。結局は切島くんと同じようなものだろうけど。
俺の質問に葉月さんはキョトンとしていた。質問の意味が汲めない、といった風じゃない。どうしてそんなことを聞くんだと。そう言いたそうな気がしていた。
「怖くないけど…どうして?」
「俺達は葉月さんと違う。見たことのない…個性が怖いとか、気持ち悪いとか…そう、思ってるんじゃ」
「ん…最初はみんなの個性を見てびっくりしたよ」
「やっぱり」
「でも、それだけ。怖いとか、変だとか……思わないよ。だって、天喰くんは命の恩人だもん。ファットさんから聞いたの。機転を利かせて、私を受け止める為の花を咲かせたって。咄嗟の判断が出来るところプロにも負けないって言ってたわ」
あの時は切島くんが真っ先に駆けつけようとしていた。でも、間に合わないと思ったから腕を伸ばして再現をした。掴み損ねたらアウト。それなら、広範囲をカバーできる向日葵をクッションに。一秒を争う場でそれを行えた自分を褒めてくれたが、それか最良の判断だったかどうかは自信が無い。
「お礼、ちゃんと言ってなかったね。ありがとう」
隣で緩く微笑む顔をつい視界に入れてしまい、物恥ずかしくて目を逸らした。
「ヒーローか……夢が現実になる世界、すごいなあ」
「…夢」
「昔、ヒーローになるんだ!って言ってた子がいたなあって思い出したの。私の世界でも小さい頃の夢にヒーローってあるの。でも、空想の職業だから…大人になるにつれて忘れちゃう夢。…あの子もこの世界に居れば夢を叶えられたのかもしれないなあ」
葉月さんは遠い昔を思い出すように目を細めて笑っていた。抱いた夢が叶わない世界。耐え難い世界のような気がする。
ふと気がついたことがあった。今の会話の流れでこの人はファットの名前を普通に口にした。ということはつまり、嫌悪感や恐怖は抱いてないんじゃないだろうか。やっぱり自意識過剰によるものだったのでは。
「葉月さん、ファットのことはどう思っていますか」
「…え。どうって、……ええと、うん」
これなら大丈夫だろうと思って聞いた自分が浅はかだった。明らかな作り笑いというよりは引きつった困り顔をされて、酷く後悔の念に囚われた。
「……すみません」
「えっ、なんで天喰くんが謝るの」
「余計なことを聞いてしまって。…すみません」
「天喰くんも、ファットさんも悪くないよ。…私が臆病なだけだから」
そうぽつりと話した葉月さんは俯いた。俺の質問の意図が伝わったんだろうか。このまま拗れた話になってもお互い傷が深くなるだけだ。それならいっそのこと。
「怖いですか、ファットが」
「……怖くないって言ったら…嘘になるけど、いい人だなって思う。…ごめんね、矛盾してるよね」
「いえ。見た目が、ですか」
「最初見た時は着ぐるみかな…ってびっくりした。大きな着ぐるみ」
「着ぐるみ。…食事の量で引いているとか」
「それは個性の話を聞いてなるほどなあって思ったよ。…ただ、エンゲル係数大変な数値になってそうだなって。余計なお世話かもしれないけど」
「確かに食費が嵩んでると思う」
自分も食べる方だが、その何倍も食事量が多い。でもこれで見た目や食に関して怖がっていないことははっきりした。「タコ焼き美味しかった」とも言っている。
「……ただ、ね」
「はい」
「笑わないで聞いてくれる…?」
「はい」
「……私、関西弁が怖いの」
まさかの理由だった。見た目の問題ではなく、言語の問題。
「……すみません。それは俺にもフォローができない…というかあのノリに俺もついていけてない」
「気にしないで。方言はその土地柄だし、好き嫌いとか言っちゃ駄目なんだろうけど。…前にね、職場でお客さんに関西弁で物凄く怒られたことがあって。それ以来、関西弁聞いただけで身構えちゃうの」
所謂、トラウマというやつだ。地域によって方言やイントネーションが異なる。それは仕方のないことだと歴史で教わった。北海道と関西ではだいぶ発音が違うんだろう。それは葉月さんの喋り方を聞いていれば分かる。彼女はおっとりとした話し方に対し、ファットは急かすような、勢いのある話し方だ。それに圧倒される。その気持ちは痛いほど分かる。
「…そうだったんですね。そうか…それでここに居る他のスタッフにも」
「うん。…あと、初対面でいきなり名前で呼ばれて…距離感近いなあ…って」
「あの人そういう所ありますから。……ノリがきつい」
「天喰くんも苦労してるんだね」
葉月さんが眉尻を下げて静かに笑う。ちゃんと話を受け止めて、返してくれる。ここ数日でこの人は優しい人だと感じていた。
「ファットさん、私が早く此処に慣れるように色々気を使ってくれてる。気晴らしに近所の散歩に連れていってくれたり、声かけてくれたりして…。昨日も、まずは肩の強張りを取るのが大事だって言ってくれて。…色々焦ってる所にそう声をかけてもらったから嬉しかった。それと同時に申し訳なさ過ぎて…」
しゅんとうなだれた姿はとても小さく見えた。
突然見知らぬ場所にやって来て、不馴れな環境に身を置くことになった。それに職を失って、居候状態に焦りを感じている。それらが相まって葉月さんに焦燥感を与えているんだろう。ファットの声かけも怖がられるどころか役に立っている。でも、上手く言葉に、行動にできない。そのジレンマは痛いほど分かる。
「……言葉の壁、大きいですね。同じ日本語なのにそれも少し可笑しい話だけど」
「ほんとね。地域によって文化や言葉の発達が違うの面白いとは思う。うん。……私が慣れなくちゃ。郷に入れば郷に従え、とも言うし」
「……前向きだ」
「大人になると嫌でも上手くやっていかないといけない時もあるのよ。……あ、この環境がとか、みんなのことが嫌ってわけじゃないよ。それに関西のお出汁は好き。前に関空で食べた讃岐うどんが美味しくて感動したの」
店の名前は忘れたけど、と話す葉月さんは頬を緩ませていた。
「…天喰くん、心配かけてごめんね。気にかけてくれてありがとう」
「…いえ」
俺ではなく、ファットが気にしていたと今は言えそうになかった。
朝早い時間に事務所の給湯室兼調理室から物音が聞こえてきた。こんな朝早くから誰が何をしとんのかと。少なくともインターンに来ている二人ではないなと思いながら欠伸を一つ。
どうせ馴染みの顔が居るんかと思い込んでいたせいで、覗き込んだ先に居た相手を見て驚いた。もう既に身支度を整えた霧華ちゃんがでかい鍋を火にかけて、湯を沸かしてるところやった。
「…おはよーさん。えらい早いなァ。ゆっくりしててもええのに」
「お早うございます」
「……もしかして、朝飯作ろうとしてる?」
「はい。ファットさんいつもこの位の時間に起きられてるんですか?」
「ああ、まあ当直以外は大体こんな時間やな」
冷蔵庫からキャベツを一玉、人参とゴボウを二本ずつ取り出して洗い場に置いた。水道の蛇口を捻り、野菜を丁寧に洗い始めた。ゴボウの土を洗い落として包丁で削るように切り落としていく。洗い場の隅にはボウルに水が張ってあり、そん中にアサリの砂抜きがされてあった。
霧華ちゃん手際ええなあと思わず見とれとったが。いや、そうじゃない。
「ってちゃうねん。別に霧華ちゃんが朝飯作らんでもええのに。俺がやるつもりやし」
「…私、お世話になってる身ですし。ほら、働かざる者食うべからずって諺もありますよね。だから、お手伝いさせてください。他にも事務所内の掃除とか、私に出来そうなことであれば何でも」
三日目の朝だった。初日よりもだいぶ喋るようになったし、表情もすこーし柔なってきた。急に話しかけると小動物かってほど驚かれたりはする。
俺よか環や切島くんと話す事が多い。おかしいな。俺ん方が年近うて親しみやすいと思うんやけど。切島くんは素直で明るいとこあるし、話しやすいんは分かる。環とふつーに会話してんは性格が似てて落ち着けるんやろな。
事務所の中がすこーし分かってくると自分であれこれ進んでやろうとする。積極的な姿勢はええねん。けどな。
「じっとしていると落ち着かなくて。それに動いていた方が気が紛れるんです」
「…まあ、それで霧華ちゃんの気ぃ済むんならな。せやけどな、そんな肩に力入れとうたら心も体もバッキバキになってまうよ。霧華ちゃんはまずその無駄に入った力抜くことからやねん。それクリアしてから次考えてけばええねん。あれもこれもとまとめて越えようとしても中々上手くいかへんで」
特にこうして不慣れな土地に居るん。気合入れて状況打破しようとする前向きな姿勢を見習わせたいとこはある。それでも無理しおったら空回りするだけや。
タンタンとリズミカルに響いていた包丁の音がぴたりと止まった。切った野菜をザルに移して水気を切る。その手が少し震えとるような気がした。それからは俺に背を向ける様にして調理を続けている。声を掛けてもはっきりとした返事は来なかった。そこで右手で目元を拭うような仕草。それ見て寝惚けてた頭が一気に覚めた。
「なっ、なんや…どうしたん。ファットさんそんなキツイ事言うてしもうた?別に責めてるつもりで言うたわけじゃなくて…な、泣かんといてな」
俺の言い方がきつかったんやろか。気に障った事言ってしもうたのかもしれへん。鼻を啜る音まで聞こえてきて、どうしてええのかおろおろしていたら、掠れた声で遅れた返事が返ってきた。
「………ます、すみま、せん」
そう、謝られてしもうて何も言えんかった。
◇◆◇
「あかん。俺、恐がられとるわ」
事務所のデスクでそうぼやいたファットガムが大きな溜息をついた。この人は今更何を言い出すのだろうか。敵にとって恐れられるということは、牽制にもなる。結果として争闘が減少するのだからむしろ喜ばしいのでは。
「牽制になっていいと思います。…その方が争いも減るし」
「いや、敵さんの話ちゃうわ。霧華ちゃんや霧華ちゃん。…なんや俺だけ避けられとる気がする」
「……気のせいでは?」
「気のせいとちゃうわ。目ぇ合わせてくれへんし、話しかけたらめっちゃオドオドされるし」
「自意識過剰…だと思う」
葉月さんは天真爛漫で細かい事を気にしない、という性格じゃない。大人しくて、落ち着きがあって俺は話しやすい。ということは、逆に明るい性格の人とは相性が悪いんじゃないか。そう考えてはみたものの、葉月さんは切島くんとも良く話している所を見る。ということは。
「…やっぱりファットだけ嫌われているのかもしれない」
一思案した後の俺の一言が矢の様に突き刺さったというリアクションを取られた。涙目でこちらを見る、大袈裟なリアクションを。
「真顔で言わんといて!めっちゃ傷つくわァ!」
「何か気に障る言動でもしたのでは」
「それが思い当たらへん」
片肘をデスクについたファットがまた大きな溜息を一つ吐き出した。普段細かい事を気にしない人が、一人の女性をこんなに気にしているなんて。珍しい事もあるものだ。その気遣いを少しは俺にも向けてほしい。パワハラを止めてもらいたい。
「環は何が原因だと思う?」
「……それ、俺に聞いても意味がないと思います」
「参考までにや」
「……見た目」
「物理的な問題!こんなに丸くて愛嬌あるファットさんやのに?!」
「自分の身長よりも二倍以上あるのが。それだけで恐怖を与えているのかも…縮めば怖がられなくなるかもしれませんよ」
コンパクトにぎゅっと小さくなれば問題ないかもしれない。両手でその例えを示すとすかさずツッコミが飛んできた。
「いや無理やろそれは!……低脂肪状態やっても身長ほぼ変わらんしなあ」
「というよりその状態だとヒーロー業に支障が出ますよね」
「そないなことないで。これでも昔はゴリゴリの武闘派やってん。多少は対応できるし。まあ、捕縛方法に吸着使えんから手が出る回数は多なるけどな」
「……そういうところだと思う」
それが葉月さんの耳に入ったら余計に避けられるのでは。
こんな話を振られた時から嫌な予感は薄々していた。キャビネットの資料を探しているのを遮られた挙句、厄介事を頼まれてしまうことになった。
「…なー環。それとなーく探ってみてくれへん」
「なんで俺が……探り屋みたいなの、出来る訳がないでしょう」
「せやかて切島くんに頼んだら真っ向から聞くやろ」
確かに彼なら面と向かって「ファットの事嫌いなんスか!?」と尋ねそうだ。それにたじろぐ相手の光景がとてもよく想像できる。何も解決しないどころか事態が悪化しそうだ。
「頼むで環ぃ…このまま俺だけ打ち解けられへんの辛いわァ」
「寂しんぼですか。……善処します」
探していた資料が見つからなかったA4ファイルをキャビネットに戻した俺は深い溜息をついた。
様子を窺うといっても、どうすればいいのか。そのタイミングは。何から聞き出せばいいのか。相手が頑なに話してくれなかったとしたら。ああ、やっぱり考えれば考える程俺には向いていない。
第一、二人きりで話す機会なんて訪れる事があるのか。そう思っていた。その矢先のことだった。
切島くんがファットと二人でパトロールに出ると言ってコスチュームに着替えていた。俺は、とファットの顔を見れば意味深なウインクと笑顔。この隙に探れということだ。
心の準備が全く出来ていない上に、急に振られたチャンスが重いプレッシャーとなって圧し掛かってくる。
「今日は天喰くん一緒に行かないんだね」
「……ええ。ファットが、切島くんに覚えてもらいたいポイントを教えに行くだけだと…言っていたので。それに、事務所に在中しているヒーローがいないから…留守番、です」
飲み物を淹れてくると葉月さんが言い残して、給湯室へ消えていった。戻ってくるまでの間に話の順序を組み立てよう。少しでもこの心臓が落ち着くように。頭を悩ませていたら余計に緊張してきた。やっぱり無理だ。俺には出来ない。
「お待たせ。熱いから気を付けてね」
「…有り難うございます」
顔に近づけたマグカップから緑茶の薫りが漂う。舌先が少し熱いと感じた温度の緑茶は渋く無くて飲みやすい。
話を切り出そうとしてはやっぱり今じゃないと緑茶を啜る。五分経過して、口を開こうとして閉じる。そしてまた緑茶を啜る。
それを何度繰り返したか。無言に耐えきれずこの場から退場したい。でもそれはできない。俺が何処かに行ってしまえば葉月さんが一人になってしまう。
この葛藤といつまで戦えばいい。誰でもいいから早く戻ってきてほしい。
緑茶が半分以上減ってしまい、どうしようかと更に悩み始めた頃だ。
「高校の授業、英語や数学も普通にあるの?」
「…は、い。あります」
「ヒーロー科、だっけ。通常の授業に加えて特別な授業があるの大変そう」
「…それがヒーロー科なので。特に大変とかは…考えたことないです」
「そっか。天喰くんも切島くんも頑張り屋さんだね」
「……有り難うございます」
自分が返した言葉は尻すぼみになって消えていった。急に振られた話。なんてことは無い日常会話。上手く返せていたか分からない。
でも、これは会話の糸口と考えてもいいのかもしれなかった。話を続けるには今しかない。張り付きそうな喉を残りの緑茶で潤し、意を決して話を切り出した。
「葉月さんは…どうですか」
「え?」
「此処に、慣れましたか」
「…うん」
「すみません。…まだ一週間も経ってないのに…おかしい質問を。慣れる訳がない…」
「あ、ううん。そんなことない。…ほら、ここの人みんな優しいから。そのおかげでだいぶ」
妙な質問だと思われたに違いない。でも聞いてしまった以上は後戻りできない。俺は葉月さんの方に少しだけ視線を向けて、唾を飲み込んだ。
「葉月さん」
「はい」
「…俺達の事は、怖くないんですか」
回りくどい聞き方も考えた。でも外堀を埋めていくうちにボロが出る。それなら簡潔に聞いてしまった方が良い。結局は切島くんと同じようなものだろうけど。
俺の質問に葉月さんはキョトンとしていた。質問の意味が汲めない、といった風じゃない。どうしてそんなことを聞くんだと。そう言いたそうな気がしていた。
「怖くないけど…どうして?」
「俺達は葉月さんと違う。見たことのない…個性が怖いとか、気持ち悪いとか…そう、思ってるんじゃ」
「ん…最初はみんなの個性を見てびっくりしたよ」
「やっぱり」
「でも、それだけ。怖いとか、変だとか……思わないよ。だって、天喰くんは命の恩人だもん。ファットさんから聞いたの。機転を利かせて、私を受け止める為の花を咲かせたって。咄嗟の判断が出来るところプロにも負けないって言ってたわ」
あの時は切島くんが真っ先に駆けつけようとしていた。でも、間に合わないと思ったから腕を伸ばして再現をした。掴み損ねたらアウト。それなら、広範囲をカバーできる向日葵をクッションに。一秒を争う場でそれを行えた自分を褒めてくれたが、それか最良の判断だったかどうかは自信が無い。
「お礼、ちゃんと言ってなかったね。ありがとう」
隣で緩く微笑む顔をつい視界に入れてしまい、物恥ずかしくて目を逸らした。
「ヒーローか……夢が現実になる世界、すごいなあ」
「…夢」
「昔、ヒーローになるんだ!って言ってた子がいたなあって思い出したの。私の世界でも小さい頃の夢にヒーローってあるの。でも、空想の職業だから…大人になるにつれて忘れちゃう夢。…あの子もこの世界に居れば夢を叶えられたのかもしれないなあ」
葉月さんは遠い昔を思い出すように目を細めて笑っていた。抱いた夢が叶わない世界。耐え難い世界のような気がする。
ふと気がついたことがあった。今の会話の流れでこの人はファットの名前を普通に口にした。ということはつまり、嫌悪感や恐怖は抱いてないんじゃないだろうか。やっぱり自意識過剰によるものだったのでは。
「葉月さん、ファットのことはどう思っていますか」
「…え。どうって、……ええと、うん」
これなら大丈夫だろうと思って聞いた自分が浅はかだった。明らかな作り笑いというよりは引きつった困り顔をされて、酷く後悔の念に囚われた。
「……すみません」
「えっ、なんで天喰くんが謝るの」
「余計なことを聞いてしまって。…すみません」
「天喰くんも、ファットさんも悪くないよ。…私が臆病なだけだから」
そうぽつりと話した葉月さんは俯いた。俺の質問の意図が伝わったんだろうか。このまま拗れた話になってもお互い傷が深くなるだけだ。それならいっそのこと。
「怖いですか、ファットが」
「……怖くないって言ったら…嘘になるけど、いい人だなって思う。…ごめんね、矛盾してるよね」
「いえ。見た目が、ですか」
「最初見た時は着ぐるみかな…ってびっくりした。大きな着ぐるみ」
「着ぐるみ。…食事の量で引いているとか」
「それは個性の話を聞いてなるほどなあって思ったよ。…ただ、エンゲル係数大変な数値になってそうだなって。余計なお世話かもしれないけど」
「確かに食費が嵩んでると思う」
自分も食べる方だが、その何倍も食事量が多い。でもこれで見た目や食に関して怖がっていないことははっきりした。「タコ焼き美味しかった」とも言っている。
「……ただ、ね」
「はい」
「笑わないで聞いてくれる…?」
「はい」
「……私、関西弁が怖いの」
まさかの理由だった。見た目の問題ではなく、言語の問題。
「……すみません。それは俺にもフォローができない…というかあのノリに俺もついていけてない」
「気にしないで。方言はその土地柄だし、好き嫌いとか言っちゃ駄目なんだろうけど。…前にね、職場でお客さんに関西弁で物凄く怒られたことがあって。それ以来、関西弁聞いただけで身構えちゃうの」
所謂、トラウマというやつだ。地域によって方言やイントネーションが異なる。それは仕方のないことだと歴史で教わった。北海道と関西ではだいぶ発音が違うんだろう。それは葉月さんの喋り方を聞いていれば分かる。彼女はおっとりとした話し方に対し、ファットは急かすような、勢いのある話し方だ。それに圧倒される。その気持ちは痛いほど分かる。
「…そうだったんですね。そうか…それでここに居る他のスタッフにも」
「うん。…あと、初対面でいきなり名前で呼ばれて…距離感近いなあ…って」
「あの人そういう所ありますから。……ノリがきつい」
「天喰くんも苦労してるんだね」
葉月さんが眉尻を下げて静かに笑う。ちゃんと話を受け止めて、返してくれる。ここ数日でこの人は優しい人だと感じていた。
「ファットさん、私が早く此処に慣れるように色々気を使ってくれてる。気晴らしに近所の散歩に連れていってくれたり、声かけてくれたりして…。昨日も、まずは肩の強張りを取るのが大事だって言ってくれて。…色々焦ってる所にそう声をかけてもらったから嬉しかった。それと同時に申し訳なさ過ぎて…」
しゅんとうなだれた姿はとても小さく見えた。
突然見知らぬ場所にやって来て、不馴れな環境に身を置くことになった。それに職を失って、居候状態に焦りを感じている。それらが相まって葉月さんに焦燥感を与えているんだろう。ファットの声かけも怖がられるどころか役に立っている。でも、上手く言葉に、行動にできない。そのジレンマは痛いほど分かる。
「……言葉の壁、大きいですね。同じ日本語なのにそれも少し可笑しい話だけど」
「ほんとね。地域によって文化や言葉の発達が違うの面白いとは思う。うん。……私が慣れなくちゃ。郷に入れば郷に従え、とも言うし」
「……前向きだ」
「大人になると嫌でも上手くやっていかないといけない時もあるのよ。……あ、この環境がとか、みんなのことが嫌ってわけじゃないよ。それに関西のお出汁は好き。前に関空で食べた讃岐うどんが美味しくて感動したの」
店の名前は忘れたけど、と話す葉月さんは頬を緩ませていた。
「…天喰くん、心配かけてごめんね。気にかけてくれてありがとう」
「…いえ」
俺ではなく、ファットが気にしていたと今は言えそうになかった。