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迷子?
午後の市内パトロールを終え、事務所へと戻ってきた。
ファットは昼からアポがあった為、インターンに来ていた切島くんを引率してきたところだ。鉄哲くんは授業の都合で明日から来ることになっている。
繁華街が動き出す時間帯は三人で巡回の予定だ。それまでに報告書を纏めておかなければならない。一日の残りのスケジュールを頭の中で整理しながら、執務室のドアをノックした。
「失礼します。只今戻りました」
返事が聞こえてこない。どうやら中には誰もいないようだ。室内はしんと静まり返っている。
応接スペースには来客の痕跡が見られた。ファットが来客の見送りに行っているのかもしれない。事務所前や廊下ですれ違わなかったし、だいぶ前に帰ったんだろう。
それにしても妙だ。いつもならすぐ葉月さんが片付けてしまっているのに。
違和感を覚えつつもその辺りに注目していた時だ。来客用ソファの影から女の子がひょこっと顔を覗かせた。
あまりにも突然現れたので、というか気配を全く感じなかった。驚きのあまりこちらが固まりそうになる。なんでこんな所に小さな女の子がいるんだ。
見た感じエリちゃんぐらいの年齢だろうか。白い長そでブラウスにベージュのジャンパースカートを着ている。七分丈の黒いレギンスを履いた足元は真っ赤な靴で飾られていた。靴の甲に白い猫のキャラクターが描かれている。
その女の子が大きな目で俺をじっと見上げている。兎に角、まずは落ち着くことが先決だ。考えられる理由は二つ。来客が連れて来たお子さんか、一時的に保護した迷子か。いや、もう一つあるな。事務所に迷い込んできたというケースも。でも、連れて来た子どもを忘れて帰ることがあるだろうか。それに迷子を保護したとしても、一人で待たせるなんて有り得ない。消去法でいくと事務所に迷い込んできた線が強そうだ。
なんて声を掛ければいいのかと悩んでいる間、女の子は周りをきょろきょろと見渡し始めた。その表情がどんどん曇り始める。
「ここ、どこ?……お母さんは?」
大きな目が潤みだした。まずい。このままだと泣き出してしまう。
俺は女の子が恐がらない位置まで近づいて、膝を折って視線の高さを合わせた。お腹の辺りで服を握り締める小さな手。俯いた顔は泣くまいと必死に我慢している。
「だ…大丈夫。すぐ見つかるよ」
「先輩、事務長さんから伝言預かっ……て、この子は」
事務長に呼び止められていた切島くんが戻ってきた。屈んでいる俺と女の子を交互に見比べる。何度かそれを繰り返した後、彼は何を察したのか「先輩、妹いたんスか」と訊ねてきた。俺ですらまだ状況が読み込めていないというのに。その考えはどこから来たのか。
「…切島くん、俺に妹はいない…。事務所に戻ってきたらこの子がいたんだ。迷子だと思うんだけど…下で迷子を保護してるっていう話はしてた?」
「あ、いや…してませんでした」
「…そうなると、やっぱり事務所に迷い込んできたのか」
女の子の興味が切島くんに向いたのも束の間、ササっと俺の後ろに隠れてしまった。マントを掴んでいるのか、軽く引っ張られる感覚。
「え……ちょっと」
「恥ずかしがり屋さんみたいっスね」
「……」
「…大丈夫。このお兄さん、恐くないよ」
優しくそう声を掛けてみても、反応が返ってこない。怯えてしまっているようだ。
「…小学生くらいっスよね。そうだ、お名前は?」
その場に屈んだ切島くんが女の子に問い掛ける。この様子ではまともに答えてくれるか分からないな。まずは少し落ち着かせてから話を聞いた方が良さそうだ。
そう思っていたのだけど、背中でもぞりと動く気配を感じた。女の子が不安げな表情を残して、ぽそりと呟いた。
「霧華」
聞き間違いでなければ、この子は自分の名前をそう口にした。霧華、と。切島くんも同様に聞こえていたようだ。目が点になっている。
ここで新たな説が浮上した。もしかして、この子の正体は。
「切島くん、下に葉月さんいた?」
「あ、いや……居なかったス。こっちに居ると思ってたんで……え、もしかして、マジで」
「そうだと思う…この子、葉月さんだ」
「ええっ?!」
室内に切島くんの声が響く。その大きな声に驚いたのか、また俺の背中に隠れてしまった。微かに震えている。
「あっ、すんません…!……言われてみたら面影があるような気が」
「…こんな小さな子が自分の名前嘘つくとは思えないし。それに…」
「先輩…?どうかしたんスか」
「…いや、なんでもないよ。とりあえず、ファットに連絡を取ってみる。…この様子だと記憶も遡ってるようだ」
ただ姿が小さくなっただけじゃないのは今までのやり取りで一目瞭然。子供時代の葉月さんは俺達のことどころか、個性の認識すらない状態だ。ただでさえこうして怯えているのだから、下手に刺激を与えたりしたら大泣きしてしまう予感がしてならない。
「うっす。…じゃあ俺はなんか飲み物持ってきます。ジュースとか飲んだ方が落ち着くだろうし。これも片付けときますんで」
「ありがとう。頼むよ」
この状況下だと俺は身動きが取れそうになかった。背中にしがみついてる葉月さんを振り解くわけにもいかない。この場で縋ろうと選んだ大人が俺である理由は薄々感じていた。
給湯室に向かった切島くんの姿が見えなくなると、警戒心が和らいだのか背中でもぞもぞと動きが見られた。横から顔を覗かせ、掴んでいた手も離したようだ。
「ジュース持ってきてくれるから、座ろうか」
「……うん」
ローテーブルの上を簡単に片付け、重ねた茶碗を隅に寄せる。
ソファに行儀よく座る葉月さんはとても小さく見えた。しょぼくれた表情で視線を膝頭に落としている。その視線が時々俺の足元を気にするようにしていた。
少し落ち着いたようなので、今のうちにファットに連絡を入れることにした。スマホから通話履歴を呼び出し、コール音を鳴らす。幸いにもすぐに電話は繋がった。
「ファット、お疲れ様です」
『お疲れさん。どないしたん?もーすぐ事務所戻れるで』
「すみません。ちょっと急ぎで確認したいことがあって…」
『なんや、パトロール中トラブルでもおうたん』
「あ、いや…パトロールは何事もなく終わりました。ただ、事務所に…恐らく小さくなった葉月さんがいるんですが」
『は?』
ファットに事の経緯を簡潔に伝えると、鼓膜が破れそうな程の音量が俺の耳元で響いた。それが同時に廊下からも聞こえてきたのは気のせいじゃない。
「なんやとおぉっ!?」
部屋のドアが勢いよく開け放たれる。ドアの蝶番が外れるんじゃないかと思うほどの力。
俺の隣に座る葉月さんがその小さな体をびくりと震わせた。飛び込んできたファットの方を向いたまま、固まっている。さながら蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。
その状態の葉月さんを見たローファットがスマホ片手に大声で喋り続けるので、俺はスマホを耳から遠ざけた。鼓膜が本当に破れかねない。
「ほんまや!見た目は子ども、頭脳は大人的な感じになっとるがな!」
「中身も子どもみたいですよ。……少し声量抑えて。怯えてる。あと電話も切ってくれ」
どうやらファットもこうなった原因を知らないようだ。何故こんな事態になってしまったのか。もしかして事務所にヴィランが押し入って、その時に巻き込まれてしまったのでは。でも、事務所内が荒らされた形跡はない。その線は薄いと信じたい。
入口に突っ立っていたファットがずかずかとこちらに歩み寄ってきた。その足音が恐ろしいものに聞こえでもしたのか、わなわなと震えだした葉月さんが俺の服を掴んだ。
ファットが葉月さんの前ですっとしゃがみ込んだ。そして頭から爪先までゆっくりと見渡す。
「はー…ほんまに小さな霧華ちゃんや。…環らが帰ってきた時にはもうこの状態やったんやな?」
「はい。…ファット、こうなってしまった心当たりは」
「ある。めっちゃある。さっき駅まで送った客、俺のダチなん。そいつの個性の可能性が……まだ連絡取れそうやな。ちょい待ち、そいつに聞いてみるわ」
よいしょと掛け声を口にしながらファットが立ち上がり、手持ちのスマホで電話を掛け始めた。
相手とはすぐに連絡がついたようで、喋りながら壁の方へと歩いていく。それとすれ違うように切島くんがお盆を抱えて戻ってきた。
「ファット戻ってきたんスね」
「いいタイミングで戻ってきてくれたよ。今、心当たりがあるって連絡とってるところ」
「原因分かるといいっスね。あ、リンゴジュース持ってきたんで…ここ置いときます。……なんか、さっきより怯えてないっスか」
「ファットが大声出したせいだよ。…どうやら小さい頃から大きな声や物音を恐がってたみたいだ。それが大人になってさらにトラウマに」
前に聞いた時は関西弁の客に怒鳴られたから苦手だと語っていた。今の状況が元に戻った葉月さんに悪影響とならなければいいけど。
来客用の茶碗を回収していった切島くんの後ろ姿を目で追いかける。置いていったグラスに手をつけようとせず、肩を窄めて小さくなっていた。
「リンゴジュース嫌い?」
「……すき」
「飲んでもいいよ」
「……いただきます」
小さな葉月さんは知らない場所、知らない人間に囲まれてすっかり怖気づいてしまっていた。
連絡を取っているファットから時々素っ頓狂な声が聞こえてくる。どうも雲行きが怪しそうだ。
「…分かった。ええって、そんならちゃんと新幹線で寝とき。これ以上他の連中に迷惑かけんようにな」
そこで相手の会話が終了したようだ。スマホの画面を見つめ、深い溜息を漏らす。不安しかない。
「…ファット」
「ん?ああ、心配は要らへん。間違いなく俺のダチの個性やったし、ちゃんと元に戻る。アイツの個性、寝不足になるとコントロール効かなくなるんや昔っから。試験前にエラい目に遭うたやつもおるし。…で、肝心なトコやな。コントロール効かん時に発動したせいで、具体的な時間は分からんのやけど…半日から一週間で元に戻るそうや」
「振り幅がありすぎる…。記憶の関係は」
「記憶もそん時の状態になるけど、小さなってる時の出来事は殆ど憶えとらん。ただ、強烈で印象に残る事は戻ってからもなんとなーく憶えとるんやて」
壁際にいるファットを見つめていた葉月さんがまた片手を伸ばして俺の服を掴んできた。不安な眼差しを宿している。
「…それは、不味いことになりそうだ」
「なんで?」
「この短時間でも大きな声や物音に怯えてる様子が見られる。推測するに、この頃から恐がりだったんじゃ…。そこに加えて過去に体験した関西弁のクレーマー。このままだと元に戻った時にファットを潜在的に恐がる可能性が高い」
「……いやいやそれは無いやろ。さすがに」
「自分が嫌われてるようだから探り入れてほしいと頼んだの忘れたんですか」
それは葉月さんが此処に来たばかりのことだ。交流が深まるより前にファットから依頼を受けた。どうやら自分は避けられているみたいだから、その理由を探ってほしいと。自分に探偵染みたことができるわけないと思いながらも、偶然話を聞く事ができた。それが、先述の関西弁クレーマーの件。以来大きな声で怒鳴る人が苦手になったと。
これを踏まえると、小さな葉月さんから見たファットは大声で喋る関西人でしかない。
「…それと、これは黙っておこうと思ってましたけど。葉月さんが初めて低脂肪状態のファットを見た時に『事務所に関西弁の厳つい男が入ってきたと思って恐かった』って話してましたよ」
「それ初耳なんやけど。……警察呼ばれそうにはなってん」
「…警察沙汰になりそうだったのは知らなかった。…とにかく、これ以上恐がらせる様な真似は控えた方がいい。ファット自体が葉月さんのトラウマになってしまったら、この先お互い辛いでしょ」
ファットはグッと口をつぐんだ。恋人に無意識下で避けられ続ける未来を想像したのか、しゅんと頭を項垂れてしまった。
「兎に角、大きな声や物音立てないほうがいい」
「…せやな」
蚊の鳴くような声でそう頷いた。いやそこまで声量抑えてとは言ってない。
「片付け完了しましたっ!……さらになんかあったんスか」
「切島くん、片付けありがとう。いや、葉月さんを恐がらせないようにと…ファットが配慮してるところだよ」
戻ってきた切島くんがこの状況を見て、深刻そうに訊ねてきた。動くに動けず、壁際でじっとしているファット。その距離感がおかしいと思ったんだろう。
電話の内容を簡潔に説明すれば、すぐに成程と頷いた。
「つまり、元に戻るまでの間は恐がらせないようにして、楽しい思い出を作ってあげればいいってことですよね」
「…そうだね、それがいい。このままだとヒグマの親子に遭遇したかの様な思い出になってしまうから」
「ヒグマ扱いかいな。…そんならトランプでもしよか」
「いいっスね。ババ抜きとか七並べやりましょうか」
トランプなら人数の制限なく、かつ簡単なルールで遊べる。今は屋外に出るより屋内ですごした方が余計なトラブルを招かなくてすみそうだ。
ファットが執務机の引き出しからトランプを持って俺たちの向かいに座った。その隣に切島くんが詰める。
箱から取り出されたトランプの束がファットの手の中で切られていく。鮮やかなカードさばき。まるでカードが生きているようだ。
良い所を見せたかったようで、ちらちらと葉月さんの方を気にしていた。俺の隣から小さな声で「すごい」と呟く声。緊張や不安の色はだいぶ薄れているようだった。
「…お兄ちゃん、てんきるのうまいね」
「せやろ〜。上手いやろ!……点?」
「多分、トランプを切ること…だと思う」
「なんで点なんスかね」
「さあ…それは分からない。元に戻ったら聞いてみようか」
「せやな。うっし、よーく繰ったで。なにしよか。テーブルもあるし、七並べからやる?」
小さな首が横にぶんぶんと振られた。
「ポーカーがいい」
思いもよらぬ発言。こんな小さなうちからポーカーなんて難しい遊びを知っているのか。
「…そんな難易度の高いものを覚えてるのか。さすが葉月さん」
「まだ可愛らしい方やで。ブラックジャックとか言われるよりな」
「このあいだ、あそびかたおしえてもらったの」
「じゃあポーカーで!ファット、俺が配ります」
手際よく配られていく五枚のカード。テーブルの中央に山が置かれた。それを皮切りにして一斉に手持ちのカードを見る。順番をじゃんけんで決め、ファットから時計回りとなった。
ファットは二枚のカードを捨てて山から二枚カードを引く。
「まあ、ポーカー言うても覚えてるんスリーカードくらいまでやろ」
確かにポーカー・ハンドは小さな子にとっては複雑なものが多い。運が左右するゲームとはいえ、手加減しようと考えていたんだけど。
この後、フルハウスから始まり次々と強役を開示する幼子に戦々恐々とすることになるとは。夢にも思わなかった。
葉月さんに幸運の女神という二つ名が密かに付いたのはここだけの話。
午後の市内パトロールを終え、事務所へと戻ってきた。
ファットは昼からアポがあった為、インターンに来ていた切島くんを引率してきたところだ。鉄哲くんは授業の都合で明日から来ることになっている。
繁華街が動き出す時間帯は三人で巡回の予定だ。それまでに報告書を纏めておかなければならない。一日の残りのスケジュールを頭の中で整理しながら、執務室のドアをノックした。
「失礼します。只今戻りました」
返事が聞こえてこない。どうやら中には誰もいないようだ。室内はしんと静まり返っている。
応接スペースには来客の痕跡が見られた。ファットが来客の見送りに行っているのかもしれない。事務所前や廊下ですれ違わなかったし、だいぶ前に帰ったんだろう。
それにしても妙だ。いつもならすぐ葉月さんが片付けてしまっているのに。
違和感を覚えつつもその辺りに注目していた時だ。来客用ソファの影から女の子がひょこっと顔を覗かせた。
あまりにも突然現れたので、というか気配を全く感じなかった。驚きのあまりこちらが固まりそうになる。なんでこんな所に小さな女の子がいるんだ。
見た感じエリちゃんぐらいの年齢だろうか。白い長そでブラウスにベージュのジャンパースカートを着ている。七分丈の黒いレギンスを履いた足元は真っ赤な靴で飾られていた。靴の甲に白い猫のキャラクターが描かれている。
その女の子が大きな目で俺をじっと見上げている。兎に角、まずは落ち着くことが先決だ。考えられる理由は二つ。来客が連れて来たお子さんか、一時的に保護した迷子か。いや、もう一つあるな。事務所に迷い込んできたというケースも。でも、連れて来た子どもを忘れて帰ることがあるだろうか。それに迷子を保護したとしても、一人で待たせるなんて有り得ない。消去法でいくと事務所に迷い込んできた線が強そうだ。
なんて声を掛ければいいのかと悩んでいる間、女の子は周りをきょろきょろと見渡し始めた。その表情がどんどん曇り始める。
「ここ、どこ?……お母さんは?」
大きな目が潤みだした。まずい。このままだと泣き出してしまう。
俺は女の子が恐がらない位置まで近づいて、膝を折って視線の高さを合わせた。お腹の辺りで服を握り締める小さな手。俯いた顔は泣くまいと必死に我慢している。
「だ…大丈夫。すぐ見つかるよ」
「先輩、事務長さんから伝言預かっ……て、この子は」
事務長に呼び止められていた切島くんが戻ってきた。屈んでいる俺と女の子を交互に見比べる。何度かそれを繰り返した後、彼は何を察したのか「先輩、妹いたんスか」と訊ねてきた。俺ですらまだ状況が読み込めていないというのに。その考えはどこから来たのか。
「…切島くん、俺に妹はいない…。事務所に戻ってきたらこの子がいたんだ。迷子だと思うんだけど…下で迷子を保護してるっていう話はしてた?」
「あ、いや…してませんでした」
「…そうなると、やっぱり事務所に迷い込んできたのか」
女の子の興味が切島くんに向いたのも束の間、ササっと俺の後ろに隠れてしまった。マントを掴んでいるのか、軽く引っ張られる感覚。
「え……ちょっと」
「恥ずかしがり屋さんみたいっスね」
「……」
「…大丈夫。このお兄さん、恐くないよ」
優しくそう声を掛けてみても、反応が返ってこない。怯えてしまっているようだ。
「…小学生くらいっスよね。そうだ、お名前は?」
その場に屈んだ切島くんが女の子に問い掛ける。この様子ではまともに答えてくれるか分からないな。まずは少し落ち着かせてから話を聞いた方が良さそうだ。
そう思っていたのだけど、背中でもぞりと動く気配を感じた。女の子が不安げな表情を残して、ぽそりと呟いた。
「霧華」
聞き間違いでなければ、この子は自分の名前をそう口にした。霧華、と。切島くんも同様に聞こえていたようだ。目が点になっている。
ここで新たな説が浮上した。もしかして、この子の正体は。
「切島くん、下に葉月さんいた?」
「あ、いや……居なかったス。こっちに居ると思ってたんで……え、もしかして、マジで」
「そうだと思う…この子、葉月さんだ」
「ええっ?!」
室内に切島くんの声が響く。その大きな声に驚いたのか、また俺の背中に隠れてしまった。微かに震えている。
「あっ、すんません…!……言われてみたら面影があるような気が」
「…こんな小さな子が自分の名前嘘つくとは思えないし。それに…」
「先輩…?どうかしたんスか」
「…いや、なんでもないよ。とりあえず、ファットに連絡を取ってみる。…この様子だと記憶も遡ってるようだ」
ただ姿が小さくなっただけじゃないのは今までのやり取りで一目瞭然。子供時代の葉月さんは俺達のことどころか、個性の認識すらない状態だ。ただでさえこうして怯えているのだから、下手に刺激を与えたりしたら大泣きしてしまう予感がしてならない。
「うっす。…じゃあ俺はなんか飲み物持ってきます。ジュースとか飲んだ方が落ち着くだろうし。これも片付けときますんで」
「ありがとう。頼むよ」
この状況下だと俺は身動きが取れそうになかった。背中にしがみついてる葉月さんを振り解くわけにもいかない。この場で縋ろうと選んだ大人が俺である理由は薄々感じていた。
給湯室に向かった切島くんの姿が見えなくなると、警戒心が和らいだのか背中でもぞもぞと動きが見られた。横から顔を覗かせ、掴んでいた手も離したようだ。
「ジュース持ってきてくれるから、座ろうか」
「……うん」
ローテーブルの上を簡単に片付け、重ねた茶碗を隅に寄せる。
ソファに行儀よく座る葉月さんはとても小さく見えた。しょぼくれた表情で視線を膝頭に落としている。その視線が時々俺の足元を気にするようにしていた。
少し落ち着いたようなので、今のうちにファットに連絡を入れることにした。スマホから通話履歴を呼び出し、コール音を鳴らす。幸いにもすぐに電話は繋がった。
「ファット、お疲れ様です」
『お疲れさん。どないしたん?もーすぐ事務所戻れるで』
「すみません。ちょっと急ぎで確認したいことがあって…」
『なんや、パトロール中トラブルでもおうたん』
「あ、いや…パトロールは何事もなく終わりました。ただ、事務所に…恐らく小さくなった葉月さんがいるんですが」
『は?』
ファットに事の経緯を簡潔に伝えると、鼓膜が破れそうな程の音量が俺の耳元で響いた。それが同時に廊下からも聞こえてきたのは気のせいじゃない。
「なんやとおぉっ!?」
部屋のドアが勢いよく開け放たれる。ドアの蝶番が外れるんじゃないかと思うほどの力。
俺の隣に座る葉月さんがその小さな体をびくりと震わせた。飛び込んできたファットの方を向いたまま、固まっている。さながら蛇に睨まれた蛙のようになってしまった。
その状態の葉月さんを見たローファットがスマホ片手に大声で喋り続けるので、俺はスマホを耳から遠ざけた。鼓膜が本当に破れかねない。
「ほんまや!見た目は子ども、頭脳は大人的な感じになっとるがな!」
「中身も子どもみたいですよ。……少し声量抑えて。怯えてる。あと電話も切ってくれ」
どうやらファットもこうなった原因を知らないようだ。何故こんな事態になってしまったのか。もしかして事務所にヴィランが押し入って、その時に巻き込まれてしまったのでは。でも、事務所内が荒らされた形跡はない。その線は薄いと信じたい。
入口に突っ立っていたファットがずかずかとこちらに歩み寄ってきた。その足音が恐ろしいものに聞こえでもしたのか、わなわなと震えだした葉月さんが俺の服を掴んだ。
ファットが葉月さんの前ですっとしゃがみ込んだ。そして頭から爪先までゆっくりと見渡す。
「はー…ほんまに小さな霧華ちゃんや。…環らが帰ってきた時にはもうこの状態やったんやな?」
「はい。…ファット、こうなってしまった心当たりは」
「ある。めっちゃある。さっき駅まで送った客、俺のダチなん。そいつの個性の可能性が……まだ連絡取れそうやな。ちょい待ち、そいつに聞いてみるわ」
よいしょと掛け声を口にしながらファットが立ち上がり、手持ちのスマホで電話を掛け始めた。
相手とはすぐに連絡がついたようで、喋りながら壁の方へと歩いていく。それとすれ違うように切島くんがお盆を抱えて戻ってきた。
「ファット戻ってきたんスね」
「いいタイミングで戻ってきてくれたよ。今、心当たりがあるって連絡とってるところ」
「原因分かるといいっスね。あ、リンゴジュース持ってきたんで…ここ置いときます。……なんか、さっきより怯えてないっスか」
「ファットが大声出したせいだよ。…どうやら小さい頃から大きな声や物音を恐がってたみたいだ。それが大人になってさらにトラウマに」
前に聞いた時は関西弁の客に怒鳴られたから苦手だと語っていた。今の状況が元に戻った葉月さんに悪影響とならなければいいけど。
来客用の茶碗を回収していった切島くんの後ろ姿を目で追いかける。置いていったグラスに手をつけようとせず、肩を窄めて小さくなっていた。
「リンゴジュース嫌い?」
「……すき」
「飲んでもいいよ」
「……いただきます」
小さな葉月さんは知らない場所、知らない人間に囲まれてすっかり怖気づいてしまっていた。
連絡を取っているファットから時々素っ頓狂な声が聞こえてくる。どうも雲行きが怪しそうだ。
「…分かった。ええって、そんならちゃんと新幹線で寝とき。これ以上他の連中に迷惑かけんようにな」
そこで相手の会話が終了したようだ。スマホの画面を見つめ、深い溜息を漏らす。不安しかない。
「…ファット」
「ん?ああ、心配は要らへん。間違いなく俺のダチの個性やったし、ちゃんと元に戻る。アイツの個性、寝不足になるとコントロール効かなくなるんや昔っから。試験前にエラい目に遭うたやつもおるし。…で、肝心なトコやな。コントロール効かん時に発動したせいで、具体的な時間は分からんのやけど…半日から一週間で元に戻るそうや」
「振り幅がありすぎる…。記憶の関係は」
「記憶もそん時の状態になるけど、小さなってる時の出来事は殆ど憶えとらん。ただ、強烈で印象に残る事は戻ってからもなんとなーく憶えとるんやて」
壁際にいるファットを見つめていた葉月さんがまた片手を伸ばして俺の服を掴んできた。不安な眼差しを宿している。
「…それは、不味いことになりそうだ」
「なんで?」
「この短時間でも大きな声や物音に怯えてる様子が見られる。推測するに、この頃から恐がりだったんじゃ…。そこに加えて過去に体験した関西弁のクレーマー。このままだと元に戻った時にファットを潜在的に恐がる可能性が高い」
「……いやいやそれは無いやろ。さすがに」
「自分が嫌われてるようだから探り入れてほしいと頼んだの忘れたんですか」
それは葉月さんが此処に来たばかりのことだ。交流が深まるより前にファットから依頼を受けた。どうやら自分は避けられているみたいだから、その理由を探ってほしいと。自分に探偵染みたことができるわけないと思いながらも、偶然話を聞く事ができた。それが、先述の関西弁クレーマーの件。以来大きな声で怒鳴る人が苦手になったと。
これを踏まえると、小さな葉月さんから見たファットは大声で喋る関西人でしかない。
「…それと、これは黙っておこうと思ってましたけど。葉月さんが初めて低脂肪状態のファットを見た時に『事務所に関西弁の厳つい男が入ってきたと思って恐かった』って話してましたよ」
「それ初耳なんやけど。……警察呼ばれそうにはなってん」
「…警察沙汰になりそうだったのは知らなかった。…とにかく、これ以上恐がらせる様な真似は控えた方がいい。ファット自体が葉月さんのトラウマになってしまったら、この先お互い辛いでしょ」
ファットはグッと口をつぐんだ。恋人に無意識下で避けられ続ける未来を想像したのか、しゅんと頭を項垂れてしまった。
「兎に角、大きな声や物音立てないほうがいい」
「…せやな」
蚊の鳴くような声でそう頷いた。いやそこまで声量抑えてとは言ってない。
「片付け完了しましたっ!……さらになんかあったんスか」
「切島くん、片付けありがとう。いや、葉月さんを恐がらせないようにと…ファットが配慮してるところだよ」
戻ってきた切島くんがこの状況を見て、深刻そうに訊ねてきた。動くに動けず、壁際でじっとしているファット。その距離感がおかしいと思ったんだろう。
電話の内容を簡潔に説明すれば、すぐに成程と頷いた。
「つまり、元に戻るまでの間は恐がらせないようにして、楽しい思い出を作ってあげればいいってことですよね」
「…そうだね、それがいい。このままだとヒグマの親子に遭遇したかの様な思い出になってしまうから」
「ヒグマ扱いかいな。…そんならトランプでもしよか」
「いいっスね。ババ抜きとか七並べやりましょうか」
トランプなら人数の制限なく、かつ簡単なルールで遊べる。今は屋外に出るより屋内ですごした方が余計なトラブルを招かなくてすみそうだ。
ファットが執務机の引き出しからトランプを持って俺たちの向かいに座った。その隣に切島くんが詰める。
箱から取り出されたトランプの束がファットの手の中で切られていく。鮮やかなカードさばき。まるでカードが生きているようだ。
良い所を見せたかったようで、ちらちらと葉月さんの方を気にしていた。俺の隣から小さな声で「すごい」と呟く声。緊張や不安の色はだいぶ薄れているようだった。
「…お兄ちゃん、てんきるのうまいね」
「せやろ〜。上手いやろ!……点?」
「多分、トランプを切ること…だと思う」
「なんで点なんスかね」
「さあ…それは分からない。元に戻ったら聞いてみようか」
「せやな。うっし、よーく繰ったで。なにしよか。テーブルもあるし、七並べからやる?」
小さな首が横にぶんぶんと振られた。
「ポーカーがいい」
思いもよらぬ発言。こんな小さなうちからポーカーなんて難しい遊びを知っているのか。
「…そんな難易度の高いものを覚えてるのか。さすが葉月さん」
「まだ可愛らしい方やで。ブラックジャックとか言われるよりな」
「このあいだ、あそびかたおしえてもらったの」
「じゃあポーカーで!ファット、俺が配ります」
手際よく配られていく五枚のカード。テーブルの中央に山が置かれた。それを皮切りにして一斉に手持ちのカードを見る。順番をじゃんけんで決め、ファットから時計回りとなった。
ファットは二枚のカードを捨てて山から二枚カードを引く。
「まあ、ポーカー言うても覚えてるんスリーカードくらいまでやろ」
確かにポーカー・ハンドは小さな子にとっては複雑なものが多い。運が左右するゲームとはいえ、手加減しようと考えていたんだけど。
この後、フルハウスから始まり次々と強役を開示する幼子に戦々恐々とすることになるとは。夢にも思わなかった。
葉月さんに幸運の女神という二つ名が密かに付いたのはここだけの話。