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やがて辿り着く未来
事務所で昼食を取り終え、コスチュームを纏ったサンイーターはファットガムと共に市内のパトロールへ赴いていた。
見頃を迎えた薄紅色の桜が澄んだ青空によく映えている。歩道の花壇に植えられたチューリップも花を咲かせており、白い蝶が周囲をひらひらと舞っていた。気温も安定して温かい日が続いており、すっかり春だなとサンイーターはその蝶を目で追いかける。
特に事件が起きる気配も無い。珍しく穏やかな日だ。降り注ぐ陽射しも暖かく、塀の上で日向ぼっこをしている三毛猫は大きな欠伸をしていた。それにつられて欠伸が出そうになる。しかし、それはパトロール中に禁物だと口の中で噛み殺した。
そのサンイーターの前をアゲハ蝶がひらりと横切っていった。ふわふわと舞いながら飛ぶ蝶を目で追っていくと、その先にいた見慣れた人物に目が留まった。が、それは有り得ないと彼は歩みを止める。
「どないしたんサンイーター」
「いや……たぶん、見間違い……じゃないかも」
「なんや?」
「……あれ」
まるで幽霊でも見たかのように、サンイーターの顔は青ざめている。ただならぬ様子にファットガムも息を呑む。
彼が指した方角には二人の女性がいた。楽しそうに会話を弾ませているあたり、親しい間柄なのだろう。その一人の顔を見て、ぎょっと目を見開いた。ファットガムの反応に自分の見間違いでは無かったと安堵する。
その女性は葉月霧華と身長や体格、容姿がとてもよく似ていた。髪の色、顔のパーツ、仕草。むしろ本人ではないかと思うぐらいだ。
こちら側に向かって歩いてくる彼女達は揃いのトートバッグを肩から提げていた。
「あれは霧華ちゃん、やな。どっからどう見ても」
「…やっぱり。……でも、切島くんたちと事務所にいるはず。出掛けるとは言ってなかった」
「せやな。あの二人おらんようやし、お友達と一緒みたいや。つまり、あの霧華ちゃんは…こっちの世界の霧華ちゃんや」
やはりそうか。予想していた答えが一致し、サンイーターは浅く頷いた。
まさか彼女をこんな所で見かけるとは夢にも思っていない。こちらの彼女は北海道に居住しているものだと半ば決めつけていたのだ。元より関西に居住しているのか、旅行で訪れているのかは不明である。
いずれにしろ、低い確率で遭遇を引き当てたことに変わりない。
葉月は友人と和気藹々と話に華を咲かせている。いつになく明るい表情で、身振り手振りも加わえた彼女の様子にサンイーターは違和感を覚えた。
「あんな風に話している葉月さん…違和感があるな」
「元気あってええやん。環もあんぐらいハキハキした方がええで」
「またそうやって……!」
遠目から様子を眺めていたのだが、ふと彼女たちの視線がこちらを向いた。間違いなくファットガムとサンイーターを捉えている。目が合ったとサンイーターがその場から逃げ出そうとするが、首根っこを掴まれてしまった。
「逃げたらあかん。市民見て逃げ出すヒーローがどこにおんねん。余計怪しまれんで!」
「で、でも…この世界の葉月さんとはコンタクトを取らない方が」
「見つかってしもうんたやし、ここは話合わせとくしかないで。ええな?」
「…わ、分かった」
上司にそう諭されたサンイーターは逃げ腰の自分を宥め、その場に踏みとどまった。僅かに震えている手足、どくどくと心臓が波打ち始める。上手く話を合わせられるだろうか。その不安ばかりが彼を包み込んでいた。
小走りで駆け寄ってきた葉月は目を爛々と輝かせており、頬を紅潮させている。
「あ、あの!ファットガムさんですよね!」
「せやで。大阪のBMIヒーロー、ファットさんやでぇ」
「……ああ、ウソみたい。まさか生で見られるなんて…!私、ヒーローのファンなんです!夢は日本中を巡って、各地のヒーローに会うことで!…あ、すみません。つい、舞い上がっちゃって……」
巨体のファットガムを見上げ、うわずった声を整えていた。こんな風に感情を顕わにする葉月は初めて見る。自分たちがよく知っている女性とはだいぶ違っていた。大袈裟に言うならば正反対の性格。肩までのウルフヘアに白いメッシュが入っている。派手なメイクとまではいかないが、ナチュラルよりも少し濃い目のアイシャドウが塗られていた。
彼女は頬を変わらず紅潮させたまま、ファットガムに熱い視線を送っている。
「やっぱり、写真で見るよりもカッコカワイイ」
「おおきに!せや、飴ちゃんやろなー」
「わぁ…!ありがとうございます!プロヒーローから貰った飴…!大切にします!」
「いや、食べてな。悪くならんうちに」
「はい!あの、そちらはもしかして…サイドキックの方ですか?」
ファットガムを盾に隠れていたサンイーターは顔だけをちらりと覗かせていたが、葉月の視線を感じた途端にぴゃっと身を隠してしまった。ファットガムはその首根っこを掴み、自分の前へ下ろす。
「うちの事務所に新しく来たヒーローやで。新米やけど、めっちゃ強いん。応援よろしゅうな。ほれ、自己紹介せぇ」
「……サンイーター、です」
「サンイーター…かっこいいヒーローネームですね!それに、コスチュームもクールで素敵です!」
「う……眩しい。み、見ないでください」
両手で光を遮る仕草を葉月に対して行ったことはない。同じ光でも柔らかい月明かりだったはずなのだが、この葉月はとても眩しい。そう感じたサンイーターはまともに言葉を交わすことも厳しいのではないのかとさえ思う。
「あのっ、ご迷惑じゃなければお二人のサインを頂いてもいいですか!」
「ええよ。何に書こか?」
「さ、サイン…!?いや、サインとか…無理」
「サインくらいええやん。ファンは大切にせなあかんで、サンイーター」
ファットガムは快く返事をしたが、これ以上追い打ちをかけないでくれとサンイーターはフードを深く被り直した。彼女はお構いなしにトートバッグから手帳を取り出し、フリースペースの頁を開き、ボールペンと共にファットガムへ差し出した。
慣れた手つきでボールペンを滑らせ、左上にサインを記す。
「さらさらさらーっと。ほい、これでええかな」
「ありがとうございます!……あの、サンイーターさんも」
「う……そんな目で見ないでください。分かりましたから…」
隣から強引に回されてきた手帳をボールペンを受け取り、サンイーターは意を決してサインを試みた。が、ここである事に気が付いてしまう。民衆向けのサインなど一度も書いたことがない。ヒーローデビューした際のファンサービスを積極的に考えている同級生もいたが、サンイーターは全く意識してこなかった。こんな機会、訪れることなど無いと思っていたのだ。しかも最初がこちらの葉月とは。
サインらしいものを考えたこともない。ヒーローネームの最後に太陽のマークでも添えておけばいいのだろうか。それともタコがいいのか。そもそも、サインらしい筆跡とは。下手なものを書いて幻滅されやしないだろうか。色々な不安が渦巻き、サンイーターの手は固まって動かせずにいた。
唸りながら手帳と睨めっこをしているサイドキックの時間稼ぎと思い、ファットガムは差支えの無い話を始めることに。
「お友達、向こうで待たせてんけどええの」
「はい。ちょっとなら時間あるって言ってたので」
「時間て、どっか行くんか。旅行で来てんの?」
「はい、遠征です!」
「遠征。…ちゅうことは、この辺の人じゃあらへんのか」
「北海道からです。今日、好きなアーティストのライブを大阪でやるんです。休み合わせて友達と来たんです」
「そか。北海道からて君らフットワーク軽いなァ。めっちゃ好きやねんな」
確かにライブの遠征で北海道から大阪まで来るなんてフットワークが軽すぎる。その話を聞きながら、サンイーターはサインのパターンをようやく三つ考え、どれにするかと悩んでいた。さりげなく何処に住んでいるのかと情報を聞き出している上司は流石だ。一ミリも動揺を見せない所が凄いと。
ようやくサインを一つに絞り、ボールペンのインクを紙に染みこませ、滑らせていく。
「…実はそのアーティスト、ずっと活動休止中だったんです。もう、十年ぐらい経つのかな。……休止って聞いた時はすごく悲しかったけど、いつか、活動再開したら復活ライブに行こうねって友達と約束して。今日やっとそれが果たせたんです」
そのせいでずっとテンションも高いと話していた。
顔を上げたサンイーターの目に葉月のにこやかな笑みが映る。その顔は普段見ている、彼女の笑い方そのものであった。
ああ、やはり彼女は彼女だ。ただ、生まれ持った素質を取り巻く環境が異なっただけ。基は真っ白いキャンバス、そこに描いた道筋が枝分かれして分岐点が現れる。やがて辿り着く未来が互いに異なっていただけの話。根本的なものは何も変わらないのだ。
いつどこで、彼女に何があったんだろうか。今の彼女を形成することになったターニングポイント。それが少し気になっていたサンイーターだが、あまり深く考えるのはよそうと手元のサインを見直した。手が震えていたせいか、線が笑っている。初めて書いたサインがこれではあんまりではなかろうか。
その下に書き直そうかと思ったのだが、その前に葉月が「ありがとうございます!」と手帳を受取ろうとしたので後戻りが出来ず。おずおずと手帳をその手に返した。葉月はそれを胸にしっかりと抱きしめている。
「…ありがとうございます!この手帳、他のヒーローの方達のサインで埋めて…宝物にします!」
「君みたいにヒーロー応援してくれんのありがたいで。俺らの活力や」
「おーい霧華ー!そろそろ行かないと、物販の列長くなるよー!」
少し離れた場所で待機していた葉月の友人がこちらに手を振っている。スマホを片手に画面と周囲を何度も見比べていた。道を探しているようだ。彼女の髪にも赤いメッシュが所々入っているのが環の目に映る。
「ごめんごめん!今行くー。したっけ、ファットガムさん、サンイーターさん。ヒーローのお仕事頑張ってくださいね!北の大地から応援してます!」
「おう、君らもライブ楽しんできぃや。時間あったら大阪観光もしてくとええで」
「はい!」
葉月はぺこりと頭を二人に下げ、友人の元へ駆け寄った。
彼女たちが身に着けている物はよく見るとライブグッズだと思わせる物が幾つも。揃いのトートバッグにはそのアーティスト名がプリントされていた。袖から見えるリストバンドやストラップも昔購入したライブグッズなのだろう。
「良かったねぇ。生ヒーローが見れてさ」
「うん、カッコイイ!それに存在感すごかったべさ!」
「確かに、なまら目立つよねあの体格だと。…白いフードのヒーロー、もしかしてサイドキック?」
「だべさ!…グッズ出ないかなあ。出たら絶対買うしか。…通販されるかなぁ」
「いや、気が早すぎっしょ…。それより、まずはライブ会場行ってゲットするもんしないと」
「そだね。あ、その後ヒーローグッズ売ってる店行きたいっ!記念にファットガムさんのグッズ欲しい!」
「はいはい。したら早く行くよ」
彼女たちの会話がはっきりと聞き取れたのはそこまでだった。横断歩道を示し、それを渡って小さくなっていく後姿はやがて見えなくなる。
二つの背を見送ったサンイーターは安堵の溜息を漏らし、ぽつりと呟く。
「俺たちの知る葉月さんとは、だいぶ性格が違いましたね。……グイグイ来るから恐ろしかった」
「霧華ちゃんに怯えとる環見るん貴重やったなァ。…貴重と言えば、霧華ちゃんの方言聞けたな」
「そうですね。葉月さん、鈍りを気にしてるのか滅多に口にしませんし……ゴミ投げ騒動があってから余計に」
先日、事務所内で起きたプチ騒動。事の発端は葉月が口にした方言であり、それを真に受けた切島が本気で説得をしていたという珍妙な事件であった。事務所での生活にも慣れ、気が緩んだせいだと本人は弁解。それ以降、目立つ方言を聞かなくなったのが残念だとサンイーターは話す。
「かいらしいからええんやけどなァ。……ま、聞き出した情報によればこっちの霧華ちゃんとそのお友達は北海道に基本居るようやし。ばったり鉢合わせなんてことは無さそうやな」
「そうですね」
「あとサイン練習しときや。これから先、なんべん書くか分からんで」
「……極力書かずに活動していきたい」
「そうもいかんやろ。そや、手始めに事務所戻ったら霧華ちゃんにサインしてやり。余っとる色紙あるし、それにばばーんっと。喜ぶでぇ」
「う……お腹が痛くなってきた。…俺よりもファットの方が喜ばれるに決まってる」
「俺はもうサインあげとるで。ブロマイド二枚に。そのうちの一枚、低脂肪状態のブロマイドはレアもんやでぇ。滅多に出ぇへんからな。どっちも大事にしてくれてん。ほんま嬉しいわァ」
それはヒーローとしてか、それとも恋人として嬉しいのか。尋ねればどっちもだと答えそうなのは目に見えていたので、サンイーターは敢えて口にせずにいた。
事務所で昼食を取り終え、コスチュームを纏ったサンイーターはファットガムと共に市内のパトロールへ赴いていた。
見頃を迎えた薄紅色の桜が澄んだ青空によく映えている。歩道の花壇に植えられたチューリップも花を咲かせており、白い蝶が周囲をひらひらと舞っていた。気温も安定して温かい日が続いており、すっかり春だなとサンイーターはその蝶を目で追いかける。
特に事件が起きる気配も無い。珍しく穏やかな日だ。降り注ぐ陽射しも暖かく、塀の上で日向ぼっこをしている三毛猫は大きな欠伸をしていた。それにつられて欠伸が出そうになる。しかし、それはパトロール中に禁物だと口の中で噛み殺した。
そのサンイーターの前をアゲハ蝶がひらりと横切っていった。ふわふわと舞いながら飛ぶ蝶を目で追っていくと、その先にいた見慣れた人物に目が留まった。が、それは有り得ないと彼は歩みを止める。
「どないしたんサンイーター」
「いや……たぶん、見間違い……じゃないかも」
「なんや?」
「……あれ」
まるで幽霊でも見たかのように、サンイーターの顔は青ざめている。ただならぬ様子にファットガムも息を呑む。
彼が指した方角には二人の女性がいた。楽しそうに会話を弾ませているあたり、親しい間柄なのだろう。その一人の顔を見て、ぎょっと目を見開いた。ファットガムの反応に自分の見間違いでは無かったと安堵する。
その女性は葉月霧華と身長や体格、容姿がとてもよく似ていた。髪の色、顔のパーツ、仕草。むしろ本人ではないかと思うぐらいだ。
こちら側に向かって歩いてくる彼女達は揃いのトートバッグを肩から提げていた。
「あれは霧華ちゃん、やな。どっからどう見ても」
「…やっぱり。……でも、切島くんたちと事務所にいるはず。出掛けるとは言ってなかった」
「せやな。あの二人おらんようやし、お友達と一緒みたいや。つまり、あの霧華ちゃんは…こっちの世界の霧華ちゃんや」
やはりそうか。予想していた答えが一致し、サンイーターは浅く頷いた。
まさか彼女をこんな所で見かけるとは夢にも思っていない。こちらの彼女は北海道に居住しているものだと半ば決めつけていたのだ。元より関西に居住しているのか、旅行で訪れているのかは不明である。
いずれにしろ、低い確率で遭遇を引き当てたことに変わりない。
葉月は友人と和気藹々と話に華を咲かせている。いつになく明るい表情で、身振り手振りも加わえた彼女の様子にサンイーターは違和感を覚えた。
「あんな風に話している葉月さん…違和感があるな」
「元気あってええやん。環もあんぐらいハキハキした方がええで」
「またそうやって……!」
遠目から様子を眺めていたのだが、ふと彼女たちの視線がこちらを向いた。間違いなくファットガムとサンイーターを捉えている。目が合ったとサンイーターがその場から逃げ出そうとするが、首根っこを掴まれてしまった。
「逃げたらあかん。市民見て逃げ出すヒーローがどこにおんねん。余計怪しまれんで!」
「で、でも…この世界の葉月さんとはコンタクトを取らない方が」
「見つかってしもうんたやし、ここは話合わせとくしかないで。ええな?」
「…わ、分かった」
上司にそう諭されたサンイーターは逃げ腰の自分を宥め、その場に踏みとどまった。僅かに震えている手足、どくどくと心臓が波打ち始める。上手く話を合わせられるだろうか。その不安ばかりが彼を包み込んでいた。
小走りで駆け寄ってきた葉月は目を爛々と輝かせており、頬を紅潮させている。
「あ、あの!ファットガムさんですよね!」
「せやで。大阪のBMIヒーロー、ファットさんやでぇ」
「……ああ、ウソみたい。まさか生で見られるなんて…!私、ヒーローのファンなんです!夢は日本中を巡って、各地のヒーローに会うことで!…あ、すみません。つい、舞い上がっちゃって……」
巨体のファットガムを見上げ、うわずった声を整えていた。こんな風に感情を顕わにする葉月は初めて見る。自分たちがよく知っている女性とはだいぶ違っていた。大袈裟に言うならば正反対の性格。肩までのウルフヘアに白いメッシュが入っている。派手なメイクとまではいかないが、ナチュラルよりも少し濃い目のアイシャドウが塗られていた。
彼女は頬を変わらず紅潮させたまま、ファットガムに熱い視線を送っている。
「やっぱり、写真で見るよりもカッコカワイイ」
「おおきに!せや、飴ちゃんやろなー」
「わぁ…!ありがとうございます!プロヒーローから貰った飴…!大切にします!」
「いや、食べてな。悪くならんうちに」
「はい!あの、そちらはもしかして…サイドキックの方ですか?」
ファットガムを盾に隠れていたサンイーターは顔だけをちらりと覗かせていたが、葉月の視線を感じた途端にぴゃっと身を隠してしまった。ファットガムはその首根っこを掴み、自分の前へ下ろす。
「うちの事務所に新しく来たヒーローやで。新米やけど、めっちゃ強いん。応援よろしゅうな。ほれ、自己紹介せぇ」
「……サンイーター、です」
「サンイーター…かっこいいヒーローネームですね!それに、コスチュームもクールで素敵です!」
「う……眩しい。み、見ないでください」
両手で光を遮る仕草を葉月に対して行ったことはない。同じ光でも柔らかい月明かりだったはずなのだが、この葉月はとても眩しい。そう感じたサンイーターはまともに言葉を交わすことも厳しいのではないのかとさえ思う。
「あのっ、ご迷惑じゃなければお二人のサインを頂いてもいいですか!」
「ええよ。何に書こか?」
「さ、サイン…!?いや、サインとか…無理」
「サインくらいええやん。ファンは大切にせなあかんで、サンイーター」
ファットガムは快く返事をしたが、これ以上追い打ちをかけないでくれとサンイーターはフードを深く被り直した。彼女はお構いなしにトートバッグから手帳を取り出し、フリースペースの頁を開き、ボールペンと共にファットガムへ差し出した。
慣れた手つきでボールペンを滑らせ、左上にサインを記す。
「さらさらさらーっと。ほい、これでええかな」
「ありがとうございます!……あの、サンイーターさんも」
「う……そんな目で見ないでください。分かりましたから…」
隣から強引に回されてきた手帳をボールペンを受け取り、サンイーターは意を決してサインを試みた。が、ここである事に気が付いてしまう。民衆向けのサインなど一度も書いたことがない。ヒーローデビューした際のファンサービスを積極的に考えている同級生もいたが、サンイーターは全く意識してこなかった。こんな機会、訪れることなど無いと思っていたのだ。しかも最初がこちらの葉月とは。
サインらしいものを考えたこともない。ヒーローネームの最後に太陽のマークでも添えておけばいいのだろうか。それともタコがいいのか。そもそも、サインらしい筆跡とは。下手なものを書いて幻滅されやしないだろうか。色々な不安が渦巻き、サンイーターの手は固まって動かせずにいた。
唸りながら手帳と睨めっこをしているサイドキックの時間稼ぎと思い、ファットガムは差支えの無い話を始めることに。
「お友達、向こうで待たせてんけどええの」
「はい。ちょっとなら時間あるって言ってたので」
「時間て、どっか行くんか。旅行で来てんの?」
「はい、遠征です!」
「遠征。…ちゅうことは、この辺の人じゃあらへんのか」
「北海道からです。今日、好きなアーティストのライブを大阪でやるんです。休み合わせて友達と来たんです」
「そか。北海道からて君らフットワーク軽いなァ。めっちゃ好きやねんな」
確かにライブの遠征で北海道から大阪まで来るなんてフットワークが軽すぎる。その話を聞きながら、サンイーターはサインのパターンをようやく三つ考え、どれにするかと悩んでいた。さりげなく何処に住んでいるのかと情報を聞き出している上司は流石だ。一ミリも動揺を見せない所が凄いと。
ようやくサインを一つに絞り、ボールペンのインクを紙に染みこませ、滑らせていく。
「…実はそのアーティスト、ずっと活動休止中だったんです。もう、十年ぐらい経つのかな。……休止って聞いた時はすごく悲しかったけど、いつか、活動再開したら復活ライブに行こうねって友達と約束して。今日やっとそれが果たせたんです」
そのせいでずっとテンションも高いと話していた。
顔を上げたサンイーターの目に葉月のにこやかな笑みが映る。その顔は普段見ている、彼女の笑い方そのものであった。
ああ、やはり彼女は彼女だ。ただ、生まれ持った素質を取り巻く環境が異なっただけ。基は真っ白いキャンバス、そこに描いた道筋が枝分かれして分岐点が現れる。やがて辿り着く未来が互いに異なっていただけの話。根本的なものは何も変わらないのだ。
いつどこで、彼女に何があったんだろうか。今の彼女を形成することになったターニングポイント。それが少し気になっていたサンイーターだが、あまり深く考えるのはよそうと手元のサインを見直した。手が震えていたせいか、線が笑っている。初めて書いたサインがこれではあんまりではなかろうか。
その下に書き直そうかと思ったのだが、その前に葉月が「ありがとうございます!」と手帳を受取ろうとしたので後戻りが出来ず。おずおずと手帳をその手に返した。葉月はそれを胸にしっかりと抱きしめている。
「…ありがとうございます!この手帳、他のヒーローの方達のサインで埋めて…宝物にします!」
「君みたいにヒーロー応援してくれんのありがたいで。俺らの活力や」
「おーい霧華ー!そろそろ行かないと、物販の列長くなるよー!」
少し離れた場所で待機していた葉月の友人がこちらに手を振っている。スマホを片手に画面と周囲を何度も見比べていた。道を探しているようだ。彼女の髪にも赤いメッシュが所々入っているのが環の目に映る。
「ごめんごめん!今行くー。したっけ、ファットガムさん、サンイーターさん。ヒーローのお仕事頑張ってくださいね!北の大地から応援してます!」
「おう、君らもライブ楽しんできぃや。時間あったら大阪観光もしてくとええで」
「はい!」
葉月はぺこりと頭を二人に下げ、友人の元へ駆け寄った。
彼女たちが身に着けている物はよく見るとライブグッズだと思わせる物が幾つも。揃いのトートバッグにはそのアーティスト名がプリントされていた。袖から見えるリストバンドやストラップも昔購入したライブグッズなのだろう。
「良かったねぇ。生ヒーローが見れてさ」
「うん、カッコイイ!それに存在感すごかったべさ!」
「確かに、なまら目立つよねあの体格だと。…白いフードのヒーロー、もしかしてサイドキック?」
「だべさ!…グッズ出ないかなあ。出たら絶対買うしか。…通販されるかなぁ」
「いや、気が早すぎっしょ…。それより、まずはライブ会場行ってゲットするもんしないと」
「そだね。あ、その後ヒーローグッズ売ってる店行きたいっ!記念にファットガムさんのグッズ欲しい!」
「はいはい。したら早く行くよ」
彼女たちの会話がはっきりと聞き取れたのはそこまでだった。横断歩道を示し、それを渡って小さくなっていく後姿はやがて見えなくなる。
二つの背を見送ったサンイーターは安堵の溜息を漏らし、ぽつりと呟く。
「俺たちの知る葉月さんとは、だいぶ性格が違いましたね。……グイグイ来るから恐ろしかった」
「霧華ちゃんに怯えとる環見るん貴重やったなァ。…貴重と言えば、霧華ちゃんの方言聞けたな」
「そうですね。葉月さん、鈍りを気にしてるのか滅多に口にしませんし……ゴミ投げ騒動があってから余計に」
先日、事務所内で起きたプチ騒動。事の発端は葉月が口にした方言であり、それを真に受けた切島が本気で説得をしていたという珍妙な事件であった。事務所での生活にも慣れ、気が緩んだせいだと本人は弁解。それ以降、目立つ方言を聞かなくなったのが残念だとサンイーターは話す。
「かいらしいからええんやけどなァ。……ま、聞き出した情報によればこっちの霧華ちゃんとそのお友達は北海道に基本居るようやし。ばったり鉢合わせなんてことは無さそうやな」
「そうですね」
「あとサイン練習しときや。これから先、なんべん書くか分からんで」
「……極力書かずに活動していきたい」
「そうもいかんやろ。そや、手始めに事務所戻ったら霧華ちゃんにサインしてやり。余っとる色紙あるし、それにばばーんっと。喜ぶでぇ」
「う……お腹が痛くなってきた。…俺よりもファットの方が喜ばれるに決まってる」
「俺はもうサインあげとるで。ブロマイド二枚に。そのうちの一枚、低脂肪状態のブロマイドはレアもんやでぇ。滅多に出ぇへんからな。どっちも大事にしてくれてん。ほんま嬉しいわァ」
それはヒーローとしてか、それとも恋人として嬉しいのか。尋ねればどっちもだと答えそうなのは目に見えていたので、サンイーターは敢えて口にせずにいた。