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19.誓い
明日提出する宿題を終わらせ、教科書や参考書も鞄に揃えた。明日の準備が終わったのは二十一時前。
ネットニュースのチェックをしようと、ベッドに腰を下ろしてスマホを手にした時だ。ちょうど短い通知が手の中で鳴る。
ファットからの連絡だ。個人宛ではなく、俺と切島くんの二人に宛てたもの。
『今度の休み、二人ともこっちに来れん?』
そのメッセージが表示されて直ぐに切島くんの返事がぽんと浮かび上がった。
『日帰りになりますが、行けます!』
『それでええよ。環は?』
このトーク画面を開いている時点で、相手方には既読マークが伝わってしまっている。そのせいで見ている前提で話がこちらに振られてきた。文化祭も無事に終わったし、次の日曜はこれといった用事もない。
『俺も大丈夫です』
『なんか用事でもあるんスか?』
『霧華ちゃんのことでな。ほな待っとるわ。新幹線の時間決まったら教えてな』
「えっ」
思わず声が出てしまった。最後のメッセージの意味を聞こうにも『待っとるで!』というファットのスタンプで一方的に話が終了してしまった。
もう一度、その一文を読み返しても文字からは感情が読み取れそうにない。どういうテンションで送ってきたんだ。意味深すぎる一文。もしかして。そう思ったが最後、背筋がざわざわと粟立つ。最悪の事態が真っ先に浮かび上がった。
見えない手に喉元を押さえられている錯覚すらして、息が苦しい。
呆然とスマホの画面を眺めていると、着信が。切島くんからだ。
「…もしもし」
『あっ、先輩!大丈夫っスか?!今、ファットから…あっ、お疲れ様です!こんばんは!今話しても』
「…うん。とりあえず切島くん落ち着いて」
挨拶、内容からして順序がめちゃくちゃだ。それだけ彼も動揺しているのか。でも、そのおかげかこちらが必要以上に取り乱さなかった。感謝しないと。
『すんません!…ってか、意外に落ちついてますね先輩』
「これでも相当動揺しているよ…。君こそ電話、周りに人は」
『ちょうど部屋に戻ってたんで、その辺は心配いらねぇっス。先輩は』
「俺も自分の部屋だから、大丈夫」
お互いに都合の良い場所で連絡を取ることができたのは良かった。でも、その内容は良い報せじゃない。
『…さっきのファットからの連絡、やっぱ…あの件、ですよね』
「だと思うよ。…見つかったんだろうね、葉月さんが帰る方法」
だから連絡をしてきた。自分がそう頼んだ。別れる前に知らせてくれと。何も言えずに永遠に会えなくなるのは嫌だ。自分でそう頼んだというのに、いざこうしてその時を迎えると、どうしようもない思いに囚われる。息の仕方を忘れてしまいそうだ。
『…先輩、…環先輩!』
「こ…ごめん。なんでもないよ」
『もしかしたら、違う用事かもしれねぇし…俺、ファットに聞いてみます』
押し黙っていた俺に気遣いの声。呼び出す理由は別の用事かもしれない、そう別の見解を見出す彼の前向きさが羨ましいばかりだ。
「いや、止めとこう。…今真実を知るよりも、後で分かった方がまだ。…狡い考え方だろうけど、絶望を抱えながらその日を迎えるよりは…マシだから」
前向きな捉え方ができない俺だって、僅かな希望を抱いていたい。
先月だってそうだった。何の前触れもなく俺たちの前に現れた理由が顔を見たいという、それだけだったじゃないか。
でも、今回ばかりは淡い期待すらできないのかもしれない。
「……新幹線の時間、調べたら送るよ。またその時に詳しいこと決めよう」
その後切島くんと話した内容をあまり覚えていなかった。
緊張して、頭が真っ白になることは何度も経験している。何も考えることができなくて、心臓の鼓動が逸るばかりで、言葉が出てこない。
視界がじわりと滲んで、ぼやけてきた。
◇◆◇
日曜の午前十時半、自己主張の激しいヒーロー事務所の前に着いた。このカラーリングですら今は目に痛いし心臓にも悪い。そして気が重い。足取りも重い。
「先輩。…大丈夫スか」
階段の踊り場から心配する声が聞こえてきた。今日だけで何度この台詞を言わせてしまったか。大阪に来るまで弱音自体は吐かないようにしていたけど、流石にしんどすぎる。
「…目の前が真っ暗になりそうだ」
「気を確かにっ!…環先輩、目の下のクマもひでぇし、寝不足も相まって」
「そうだね……昨日は殆ど眠れなかったんだ。それに、今日まで生きた心地が…」
「大丈夫じゃねえ!しっかりしてください!あと、足元気をつけて」
後輩に励まされながら、重たい身体で階段をなんとか登り切る。途中、階段踏み外しそうになった時は流石に目が覚めた。
執務室のドアの前に並び立つ。初めてインターンに来た時以上に緊張で腕が上がらない。
一度息をついて、ぐっと奥歯を噛みしめる。ノックしようと持ち上げたところを切島くんに制された。そして真面目な表情で「先輩」と言うものだから、どうしたのかと思った。
「俺、先輩が恐れてることから目を背けないで、立ち向かおうとしてる姿がすげぇ漢らしいと思ってます。…背中向けて、無かったことにしようって逃げ出さねえ姿勢…尊敬できます」
「……」
「あと、やっぱ…葉月さんに此処にいてほしいってこと伝えた方がいいと思います。自分の気持ちに嘘つくのは、漢らしくねぇ。…俺も、葉月さんに此処にいてほしい。その後のこととか、色々あるだろうけど…俺たちでカバーできることは全力ですればいいんじゃないかって、この間から考えてたんスよ」
真っすぐと前を向いている眼差しは力強くて、眩しい。
自分の手元に視線を落とした俺は拳を握り直した。
「…君はすごいよ。俺が悩んでいた時間に比べて、たった数日でその答えが出せるんだから。……そうだね。正直に、後悔しない為にも」
そして、その拳でドアを叩いた。
部屋の中からファットの返事が聞こえた。
「失礼しますっ!ファット、お久しぶりです!」
フライング気味に切島くんがそう声を張るので、少し驚いてしまう。でも、それが彼の緊張の現れなんだと思うと、こちらの不安が和らいだ気がした。
窓際に面したデスクにどんと構えるファットの私服姿が威圧感を増している気すらした。書類に目を通している所だったのか、トントンと書類の束を揃えて脇へ置いた。
「おおー久しぶりやなァ!二人とも元気にしとった?まァ、言うても一ヶ月ぶりなんやけど」
「ハイっ!こっちは変わりありません!」
「切島くんの声聞いたら元気ハツラツなんよう分かるな。環は相変わらず景気悪そうな顔して。いつも以上に目つき悪いで」
「…寝不足なだけです」
嫌な違和感を覚えた。執務室にはファットしかいない。ここにいると思った葉月さんの姿が見えない。いつも笑顔で出迎えてくれていた人が、いない。
それに気づいた切島くんも軽く周囲を見渡してから、ファットに訊ねる。
「ファット、葉月さんは」
その時だった。ファットの表情が一瞬、固まった。その間がやけに長く感じて、嫌な予感が徐々に膨れ上がっていく。
ファットにしては珍しく俺たちから視線を外して、静かにゆっくりと口を開く。
「せや、霧華ちゃんな。早めに君らに話とかあかんと思うてな。わざわざここまで来てもろたんやけど…。その、めっちゃ言いにくいことなん。悪いことしたと思うとる。特に環にはな。一番霧華ちゃんに懐いとったしな」
「……ファット、それって…葉月さんはもう。…先輩」
此処にはいない。俺たちが別れを告げるより先にいなくなってしまった。最悪の事態が起きてしまった。突き付けられた現実に、悲しみや怒りとか後悔が渦巻いて、言葉が形にできそうにない。
ぐっと下唇を噛みしめて俯く俺に慰めの言葉が降りかかる。後輩に気を遣わせてばかりで、駄目だな。
いっそのこと、夢であれば良かったのに。優しい笑顔も、言葉も全部。白昼夢で終わらせてほしかった。
ノック音に気付かないぐらいには絶望に打ちひしがれていた。聞こえてきた場にそぐわない落ち着いた声に、俺は顔を上げる。
「ただいま戻りました。…あ、二人とも着いてたんだね。いらっしゃい」
顔を向けた方に、葉月さんがいた。優しい微笑みを携えて、俺たちにそう声をかけてくれた。葉月さんはビニール袋を手に提げたまま首を軽く傾げる。それもそうだ、俺たち二人ともこれでもかってぐらい目を丸くしているんだろうから。
「……葉月さん…元の世界に帰ったんじゃ…なかったんスか」
「……えっ?」
「だって、ファットが今…」
切島くんと一緒にファットの方を振り返る。すると、事もあろうかファットは笑いを堪えているところだった。まさか、さっきのは演技。
「誰も帰った、なんて言うとらんで?」
「…びっくりしたぁ!いや、でもマジで心臓に悪かった…。俺たち、てっきり葉月さんがもう帰っちまったんだとばかり。今日だって元の世界に帰る方法が分かったから、最後の挨拶だと思って。…先輩と腹括って来たとこなんスよ」
そこで思わぬ展開になったのだと切島くんが話す。それを傍で聞いていたファットが「君らホント、霧華ちゃん大好きっ子やな。愛されとんね」と微笑ましく目を細める。恥ずかしそうに葉月さんは少し俯いていた。
「心配せんでも、最後やないで。…あんな、霧華ちゃん此処に残ってくれることになったん」
「……ホントに?でも、いいんスか」
「うん。…自分でも驚くぐらい此処に馴染んでることに気づいたの。居心地がいいな…って。それにみんなと一緒にいるのが楽しくて。…色々迷惑かけるかもしれないけど」
「迷惑だなんて、そんな。…先輩、良かったっスね」
少しの間黙っていただけなのに、まるで縫い付けられたように口が上手く開かない。熱くなる目頭を押さえ、それから葉月さんと向き合った。
「良かった。……葉月さん、ありがとう。此処に残ることを選んでくれて、ありがとう」
「こちらこそ、これからもよろしくね。…天喰くん、隈酷いけど大丈夫?」
「…大丈夫です。今日からはぐっすり眠れそうだから。…むしろ立ったまま寝れそう」
気疲れがどっと出たのか、急に睡魔が圧し掛かってきた。目を閉じたら秒で眠りにつけそうだ。ふらついた俺を支えた切島くんが「倒れたら危ねぇんで座ってください先輩!」とソファに誘導される。ソファに背を預けた瞬間、欠伸と心地良い眠気が。帰りの新幹線で寝ようかと考えたところなのに、眠い。
「お茶、淹れてきますね。さっきお茶菓子も買ってきたからそれも一緒に」
「あ、手伝いますよ俺」
「切島くんたち移動の疲れもあるし、座って待ってて。それに今日はお客さんなんだから」
「…あざっス!そうだ、文化祭の動画撮ってきたんで、それ後で見ましょう!」
「ありがとう!楽しみにしてたの。すぐ淹れてくるね」
うとうとしながら聞いていた会話がそこで途切れ、足音も遠のいて、葉月さんの声が聞こえなくなった。代わりに向かい側のソファに一人で腰掛けたファットがぼんやりと映る。
「…ほんまに環寝てしまいそうやな。ここで爆睡したら切島くんがおぶって帰らなあかんで」
「先輩一人ぐらいなら担いで帰れるんで、問題ねぇっス!」
「駅までならファットさん抱えてくで。ファッタク初乗り一万円や」
「……ぼったくりだ。心配しなくても本当に寝たりしないから」
「そんならええけど。……あんな、君らにもう一個言うとかなあかんことあるんやけど」
「どうしたんすかファット。なんか、急に改まって…」
切島くんの言う通り、急に挙動不審な動きを始めた。赤らんだ顔を手で隠すようにしたり、首の裏を掻いてみたりと。「あー」とか「んー」とか歯切れ悪い音を発してもいた。
「…実はな、霧華ちゃんとお付き合いすることになったん」
ああ、なるほど。そういうことか。全て繋がった。ファットの申し出を受け入れて、それで此処に残ると決めたんだ。
「この間告白してOK貰うたん」
「マジっスか!おめでとうございますっ!」
「お…おおきに」
「……まさか惚気るために俺たちを呼んだとかじゃないでしょうね」
「ちゃうわ!…霧華ちゃんの事情知っとるん環と切島くんやし、言うといた方がええかなァと」
「まあ、知らないよりは……でも、俺はファットとどうだとか別に気にしない。此処に居てくれるだけで……。切島くんともさっき話したんだ。葉月さんが此処で暮らしやすいように全力でサポートするって」
何処にいても、駆けつける。
何があっても、必ず守る。
「そう、決めたから」
明日提出する宿題を終わらせ、教科書や参考書も鞄に揃えた。明日の準備が終わったのは二十一時前。
ネットニュースのチェックをしようと、ベッドに腰を下ろしてスマホを手にした時だ。ちょうど短い通知が手の中で鳴る。
ファットからの連絡だ。個人宛ではなく、俺と切島くんの二人に宛てたもの。
『今度の休み、二人ともこっちに来れん?』
そのメッセージが表示されて直ぐに切島くんの返事がぽんと浮かび上がった。
『日帰りになりますが、行けます!』
『それでええよ。環は?』
このトーク画面を開いている時点で、相手方には既読マークが伝わってしまっている。そのせいで見ている前提で話がこちらに振られてきた。文化祭も無事に終わったし、次の日曜はこれといった用事もない。
『俺も大丈夫です』
『なんか用事でもあるんスか?』
『霧華ちゃんのことでな。ほな待っとるわ。新幹線の時間決まったら教えてな』
「えっ」
思わず声が出てしまった。最後のメッセージの意味を聞こうにも『待っとるで!』というファットのスタンプで一方的に話が終了してしまった。
もう一度、その一文を読み返しても文字からは感情が読み取れそうにない。どういうテンションで送ってきたんだ。意味深すぎる一文。もしかして。そう思ったが最後、背筋がざわざわと粟立つ。最悪の事態が真っ先に浮かび上がった。
見えない手に喉元を押さえられている錯覚すらして、息が苦しい。
呆然とスマホの画面を眺めていると、着信が。切島くんからだ。
「…もしもし」
『あっ、先輩!大丈夫っスか?!今、ファットから…あっ、お疲れ様です!こんばんは!今話しても』
「…うん。とりあえず切島くん落ち着いて」
挨拶、内容からして順序がめちゃくちゃだ。それだけ彼も動揺しているのか。でも、そのおかげかこちらが必要以上に取り乱さなかった。感謝しないと。
『すんません!…ってか、意外に落ちついてますね先輩』
「これでも相当動揺しているよ…。君こそ電話、周りに人は」
『ちょうど部屋に戻ってたんで、その辺は心配いらねぇっス。先輩は』
「俺も自分の部屋だから、大丈夫」
お互いに都合の良い場所で連絡を取ることができたのは良かった。でも、その内容は良い報せじゃない。
『…さっきのファットからの連絡、やっぱ…あの件、ですよね』
「だと思うよ。…見つかったんだろうね、葉月さんが帰る方法」
だから連絡をしてきた。自分がそう頼んだ。別れる前に知らせてくれと。何も言えずに永遠に会えなくなるのは嫌だ。自分でそう頼んだというのに、いざこうしてその時を迎えると、どうしようもない思いに囚われる。息の仕方を忘れてしまいそうだ。
『…先輩、…環先輩!』
「こ…ごめん。なんでもないよ」
『もしかしたら、違う用事かもしれねぇし…俺、ファットに聞いてみます』
押し黙っていた俺に気遣いの声。呼び出す理由は別の用事かもしれない、そう別の見解を見出す彼の前向きさが羨ましいばかりだ。
「いや、止めとこう。…今真実を知るよりも、後で分かった方がまだ。…狡い考え方だろうけど、絶望を抱えながらその日を迎えるよりは…マシだから」
前向きな捉え方ができない俺だって、僅かな希望を抱いていたい。
先月だってそうだった。何の前触れもなく俺たちの前に現れた理由が顔を見たいという、それだけだったじゃないか。
でも、今回ばかりは淡い期待すらできないのかもしれない。
「……新幹線の時間、調べたら送るよ。またその時に詳しいこと決めよう」
その後切島くんと話した内容をあまり覚えていなかった。
緊張して、頭が真っ白になることは何度も経験している。何も考えることができなくて、心臓の鼓動が逸るばかりで、言葉が出てこない。
視界がじわりと滲んで、ぼやけてきた。
◇◆◇
日曜の午前十時半、自己主張の激しいヒーロー事務所の前に着いた。このカラーリングですら今は目に痛いし心臓にも悪い。そして気が重い。足取りも重い。
「先輩。…大丈夫スか」
階段の踊り場から心配する声が聞こえてきた。今日だけで何度この台詞を言わせてしまったか。大阪に来るまで弱音自体は吐かないようにしていたけど、流石にしんどすぎる。
「…目の前が真っ暗になりそうだ」
「気を確かにっ!…環先輩、目の下のクマもひでぇし、寝不足も相まって」
「そうだね……昨日は殆ど眠れなかったんだ。それに、今日まで生きた心地が…」
「大丈夫じゃねえ!しっかりしてください!あと、足元気をつけて」
後輩に励まされながら、重たい身体で階段をなんとか登り切る。途中、階段踏み外しそうになった時は流石に目が覚めた。
執務室のドアの前に並び立つ。初めてインターンに来た時以上に緊張で腕が上がらない。
一度息をついて、ぐっと奥歯を噛みしめる。ノックしようと持ち上げたところを切島くんに制された。そして真面目な表情で「先輩」と言うものだから、どうしたのかと思った。
「俺、先輩が恐れてることから目を背けないで、立ち向かおうとしてる姿がすげぇ漢らしいと思ってます。…背中向けて、無かったことにしようって逃げ出さねえ姿勢…尊敬できます」
「……」
「あと、やっぱ…葉月さんに此処にいてほしいってこと伝えた方がいいと思います。自分の気持ちに嘘つくのは、漢らしくねぇ。…俺も、葉月さんに此処にいてほしい。その後のこととか、色々あるだろうけど…俺たちでカバーできることは全力ですればいいんじゃないかって、この間から考えてたんスよ」
真っすぐと前を向いている眼差しは力強くて、眩しい。
自分の手元に視線を落とした俺は拳を握り直した。
「…君はすごいよ。俺が悩んでいた時間に比べて、たった数日でその答えが出せるんだから。……そうだね。正直に、後悔しない為にも」
そして、その拳でドアを叩いた。
部屋の中からファットの返事が聞こえた。
「失礼しますっ!ファット、お久しぶりです!」
フライング気味に切島くんがそう声を張るので、少し驚いてしまう。でも、それが彼の緊張の現れなんだと思うと、こちらの不安が和らいだ気がした。
窓際に面したデスクにどんと構えるファットの私服姿が威圧感を増している気すらした。書類に目を通している所だったのか、トントンと書類の束を揃えて脇へ置いた。
「おおー久しぶりやなァ!二人とも元気にしとった?まァ、言うても一ヶ月ぶりなんやけど」
「ハイっ!こっちは変わりありません!」
「切島くんの声聞いたら元気ハツラツなんよう分かるな。環は相変わらず景気悪そうな顔して。いつも以上に目つき悪いで」
「…寝不足なだけです」
嫌な違和感を覚えた。執務室にはファットしかいない。ここにいると思った葉月さんの姿が見えない。いつも笑顔で出迎えてくれていた人が、いない。
それに気づいた切島くんも軽く周囲を見渡してから、ファットに訊ねる。
「ファット、葉月さんは」
その時だった。ファットの表情が一瞬、固まった。その間がやけに長く感じて、嫌な予感が徐々に膨れ上がっていく。
ファットにしては珍しく俺たちから視線を外して、静かにゆっくりと口を開く。
「せや、霧華ちゃんな。早めに君らに話とかあかんと思うてな。わざわざここまで来てもろたんやけど…。その、めっちゃ言いにくいことなん。悪いことしたと思うとる。特に環にはな。一番霧華ちゃんに懐いとったしな」
「……ファット、それって…葉月さんはもう。…先輩」
此処にはいない。俺たちが別れを告げるより先にいなくなってしまった。最悪の事態が起きてしまった。突き付けられた現実に、悲しみや怒りとか後悔が渦巻いて、言葉が形にできそうにない。
ぐっと下唇を噛みしめて俯く俺に慰めの言葉が降りかかる。後輩に気を遣わせてばかりで、駄目だな。
いっそのこと、夢であれば良かったのに。優しい笑顔も、言葉も全部。白昼夢で終わらせてほしかった。
ノック音に気付かないぐらいには絶望に打ちひしがれていた。聞こえてきた場にそぐわない落ち着いた声に、俺は顔を上げる。
「ただいま戻りました。…あ、二人とも着いてたんだね。いらっしゃい」
顔を向けた方に、葉月さんがいた。優しい微笑みを携えて、俺たちにそう声をかけてくれた。葉月さんはビニール袋を手に提げたまま首を軽く傾げる。それもそうだ、俺たち二人ともこれでもかってぐらい目を丸くしているんだろうから。
「……葉月さん…元の世界に帰ったんじゃ…なかったんスか」
「……えっ?」
「だって、ファットが今…」
切島くんと一緒にファットの方を振り返る。すると、事もあろうかファットは笑いを堪えているところだった。まさか、さっきのは演技。
「誰も帰った、なんて言うとらんで?」
「…びっくりしたぁ!いや、でもマジで心臓に悪かった…。俺たち、てっきり葉月さんがもう帰っちまったんだとばかり。今日だって元の世界に帰る方法が分かったから、最後の挨拶だと思って。…先輩と腹括って来たとこなんスよ」
そこで思わぬ展開になったのだと切島くんが話す。それを傍で聞いていたファットが「君らホント、霧華ちゃん大好きっ子やな。愛されとんね」と微笑ましく目を細める。恥ずかしそうに葉月さんは少し俯いていた。
「心配せんでも、最後やないで。…あんな、霧華ちゃん此処に残ってくれることになったん」
「……ホントに?でも、いいんスか」
「うん。…自分でも驚くぐらい此処に馴染んでることに気づいたの。居心地がいいな…って。それにみんなと一緒にいるのが楽しくて。…色々迷惑かけるかもしれないけど」
「迷惑だなんて、そんな。…先輩、良かったっスね」
少しの間黙っていただけなのに、まるで縫い付けられたように口が上手く開かない。熱くなる目頭を押さえ、それから葉月さんと向き合った。
「良かった。……葉月さん、ありがとう。此処に残ることを選んでくれて、ありがとう」
「こちらこそ、これからもよろしくね。…天喰くん、隈酷いけど大丈夫?」
「…大丈夫です。今日からはぐっすり眠れそうだから。…むしろ立ったまま寝れそう」
気疲れがどっと出たのか、急に睡魔が圧し掛かってきた。目を閉じたら秒で眠りにつけそうだ。ふらついた俺を支えた切島くんが「倒れたら危ねぇんで座ってください先輩!」とソファに誘導される。ソファに背を預けた瞬間、欠伸と心地良い眠気が。帰りの新幹線で寝ようかと考えたところなのに、眠い。
「お茶、淹れてきますね。さっきお茶菓子も買ってきたからそれも一緒に」
「あ、手伝いますよ俺」
「切島くんたち移動の疲れもあるし、座って待ってて。それに今日はお客さんなんだから」
「…あざっス!そうだ、文化祭の動画撮ってきたんで、それ後で見ましょう!」
「ありがとう!楽しみにしてたの。すぐ淹れてくるね」
うとうとしながら聞いていた会話がそこで途切れ、足音も遠のいて、葉月さんの声が聞こえなくなった。代わりに向かい側のソファに一人で腰掛けたファットがぼんやりと映る。
「…ほんまに環寝てしまいそうやな。ここで爆睡したら切島くんがおぶって帰らなあかんで」
「先輩一人ぐらいなら担いで帰れるんで、問題ねぇっス!」
「駅までならファットさん抱えてくで。ファッタク初乗り一万円や」
「……ぼったくりだ。心配しなくても本当に寝たりしないから」
「そんならええけど。……あんな、君らにもう一個言うとかなあかんことあるんやけど」
「どうしたんすかファット。なんか、急に改まって…」
切島くんの言う通り、急に挙動不審な動きを始めた。赤らんだ顔を手で隠すようにしたり、首の裏を掻いてみたりと。「あー」とか「んー」とか歯切れ悪い音を発してもいた。
「…実はな、霧華ちゃんとお付き合いすることになったん」
ああ、なるほど。そういうことか。全て繋がった。ファットの申し出を受け入れて、それで此処に残ると決めたんだ。
「この間告白してOK貰うたん」
「マジっスか!おめでとうございますっ!」
「お…おおきに」
「……まさか惚気るために俺たちを呼んだとかじゃないでしょうね」
「ちゃうわ!…霧華ちゃんの事情知っとるん環と切島くんやし、言うといた方がええかなァと」
「まあ、知らないよりは……でも、俺はファットとどうだとか別に気にしない。此処に居てくれるだけで……。切島くんともさっき話したんだ。葉月さんが此処で暮らしやすいように全力でサポートするって」
何処にいても、駆けつける。
何があっても、必ず守る。
「そう、決めたから」