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13.前を向いて
翌日、退院前の診察で日常生活を送っても問題が無いと診断を受けた。顔や腕を覆っていた包帯は全て取れ、顔面に入ったヒビも痕には残らないそうだ。リカバリーガールの個性があってこその賜物。でも頼り過ぎは良くない。治癒力を高めるということは、自己の体力が基本となる。今はまだ翌日復帰が出来るが、それを何度も繰り返し基礎が削られていけば、やがて己の生命を脅かすことになる。もっと、慎重にならないと駄目だ。
元いた病室に戻ると、私服姿のファットしかいなかった。三角巾で吊っていた腕も自由に動かせるようで、窓の方を向いて軽い準備運動をしている。
ベッドの上にはコスチューム類をまとめた鞄。制服にはもう着替えている。このあとは事情聴取で警察署へ向かわなければいけない。
「ファット。葉月さんは」
診察室に向かう前まではここにいた。宿泊先のホテルからさっき着いたと話していたけど、眠りが浅かったのか疲れが残っている表情だった。
「ん?おー環。霧華ちゃんなら売店に飲み物買いに行ったで」
「……ちょっと俺も行ってきます」
「なんや待っとればええやん。ここに戻ってくるんやし」
「……この後、警察署に向かわないといけない。一緒ではあるけど、ゆっくり話せないから……話しておきたいこと、あるし」
俺は制服のブレザーの右ポケットに手を重ねた。くすんだ鈴の音色が揺れる。大切な物だったのに。今朝、気づいた瞬間に絶望へ突き落とされるような心境だった。その時と同じように顔が青ざめてしまったんだろう。ファットが口をへの字に曲げ、軽い溜息をつく。俺がここまで慌てている理由をファットは既に知っている。
「……環も心配性やなァ。そんなら行ってき。すれ違わんよーにな」
「はい」
病室を出て、この階のエレベーターに向かう。階段を下りた方が早い気もする。でも、それですれ違ってしまったら元も子もない。二階ならまだしも、わざわざ階段で移動するとも考えにくいから、大人しく待っていた方がすれ違う可能性は低い。
エレベーターは一階で停まっていた。俺が下りのボタンに触れるより先に表示階が動き出した。もしかしたらこれに乗っているかもしれない。
それは二階で一度停止した。すぐに動き出したが、階数の表示の切り替わりがやけにゆっくりと感じる。
心臓が煩く、逸る様に鳴り始めた。この機会を逃してしまったら、次に話ができるのはいつになるか分からない。いや、もう、その機会は訪れないかもしれない。
ようやくこの階にエレベーターが到着した。ゆっくりと開いたドアの向こう側は空っぽ。まだ、売店にいるのだろうか。俺はエレベーターに乗り込み、一階へ。幸い、全ての階を通過したので直ぐに着いた。下りてから天井の吊り案内板を頼りに売店へ早足で向かう。
「切島と天喰がお世話になっています」
売店に近づくと、男の声が聞こえた。俺たちのことを知っている人、それに聞いたことのある声だ。立ち止まったところから様子を窺うと、イレイザーヘッドと葉月さんが話をしていた。ぺこり、ぺこりとお辞儀を交わしている。
「何か問題は起こしていませんか。特に切島はまだ一年ですし…勢いで突っ走ることもあるので、ご迷惑をお掛けしていないかと」
「いえ、何も。二人には私の方がお世話になっています。切島くんは明るくて元気で、とても優しい子です。天喰くんもよく話し相手になってくれますし、頼りになる子ですよ。二人とも優しくて、強くて…未来のヒーローに相応しいと思います」
「そうですか。有難う御座います」
イレイザーヘッドの表情が少しだけ和らいだ。葉月さんの表情も柔らかい。きっと、本当にそう思ってくれているんだろう。
俺の気配に気づいた先生が徐にこちらを捉えた。
「……ん、天喰か。怪我の具合はどうだ」
「問題ないです」
「そうか。ならいい。…お前は確かファットガムと病室が同じだったな」
「はい」
「すまないがファットガムに伝言を頼む。一時間後には迎えが来る。一階ロビーに集合と伝えてくれ」
「分かりました」
「…それでは、私はこれで失礼します」
ぺこりと頭を下げた先生は一階ロビーの方へ歩いていった。その後ろ姿を目で追っていると、手前にいた葉月さんが視界に映る。
「天喰くんも買い物?」
「…いえ。その、葉月さんに話が……あって」
「話?」
わざわざこんな所まで追いかけてきたのか。そう思われているに違いない。物々しい話かと身構えられていたら。実際に良い話ではない。むしろ俺の方が身構えてしまっている。視線はゆっくりと下へ落ちていき、靴の爪先まで落ちてしまった。
「いいよ。じゃあ、ちょっと待っててくれるかな」
そう、返ってきた。普段と変わらない声の調子で。恐るおそる顔を上げれば、葉月さんは売店で買い物をしている。会計を終えて戻ってきたその手に細身の缶ジュースが二つ。
「お待たせ。そこの椅子がある所で大丈夫?」
「…はい」
売店の側に設けられた休憩スペース。四人掛けの長椅子が三つ平行に並べられている。今はそこを利用する人の姿が無い。時々通行人がいるだけで、この状態が今は丁度いいのかもしれない。
一つの長椅子に並んで腰掛けた後、葉月さんからさっきの缶ジュースを手渡された。赤ラベルに赤いリンゴが描かれている。
「お茶よりも樹木の方が役に立つかな…と思って」
「ありがとうございます」
葉月さんは細かい気遣いのできる人だった。俺の個性を考えて、色々としてくれる。俺だけじゃない、ファットや切島くんに対しても。
それなのに、俺は葉月さんを悲しませることばかりしている。その目元だって、昨日泣き晴らしたそのものだし。迷惑どころか心配のかけすぎだ。どうしよう。そう思うと余計に話を切り出しにくくなってしまった。
「みんなすっかり良くなったみたいで本当に良かった。天喰くんの顔も傷が遺らなくて」
「…はい。心配かけて、すみませんでした」
「私が心配性なだけだから。こっちの方こそ、みっともないとこ見せてごめんね。……大丈夫?寝不足なんじゃない。目、眠たそう」
まともな眠りについたのは昨日の昼だけ。昨夜は殆ど眠れずにいた。目を瞑っても過るのは最悪のシナリオばかり。何度も寝返りを打って、目を瞑り直す。それを繰り返し、気づけば外が明るくなっていた。人間がどれだけの絶望の闇を抱えようと、太陽は必ず昇ってくる。
俺を気遣う眼差しを感じた。それに目を合わせられる自信が無くて、自分の手元をずっと見ている。缶ジュースが汗をかき始めていた。
「……葉月さんも、眠そうです」
「昨日、よく眠れなかったから。……怖いこと沢山あったせいね。良いこともあったけど」
葉月さんは一般市民、しかも個性とは無縁の世界で暮らしてきた人だ。予想だにしない出来事ばかりが立て続けに周囲で起きて、混乱を生じている。まだ頭の中が整理できていない、そうぽつりと漏らしていた。
「でも、これが…この世界の理なんだよね。ヒーローは危険と隣り合わせでも、怪我をしても…自分の信念があるんだもんね。その周りでめそめそしていたら、迷惑…だよね」
「そんなことない。……葉月さんみたいに俺たちのことを心配してくれる人がいる。見ていてくれる人がいる。それが、力になるんです。…だから、信じてください。俺たちを。…不安にさせないよう、もっと強くなるから」
「……ふふっ」
隣から僅かに笑みが零れて、ついそちらを向いた。葉月さんもまだ缶のフタを開けていなくて、両手でそれを持ちながら、口元に微笑みを浮かべていた。
「ファットさんと同じこと、言うんだなぁって。考え方、やっぱり似てくるのかしら」
「ファットが…そんなことを」
「うん。応援してくれる人がいるから、頑張れるんだって。だから、笑って待っててほしい…って」
どこか懐かしそうにその台詞を復唱した。
「そんなヒーロー達に私は二度も助けられた。だから、応援しなくちゃね。…天喰くんが頼もしいヒーローになれるように、私応援してるから」
疲労の残る目元をくしゃりとさせて、葉月さんがこちらに微笑んで見せた。また、胸に温かいものが灯る。不思議なこの感覚を覚えるのはこれが初めてじゃない。温かくて、心地よい。不思議だった。貴方からの言葉は素直に、受け止められる自分がいる。どうしてだろうな。
その理由をぼんやりと探していたら、弾いた様に葉月さんが「ごめんね」と謝ってきた。
「余計な話、しちゃって。天喰くん、用があったんだよね」
「…う。あの、……その」
話が逸れていたから本題を忘れていたわけじゃない。切り出すタイミングを逃していたんだ。ああ、そうだ。残された時間は少ない。あと一時間も待たずに警察署へ向かわないといけないんだ。葉月さんとまともに会話を交わせるのは今しかない。
缶を握る手がまた震えだした。
「葉月さん」
「うん」
「俺……貴女に謝らなければならないことが、あって」
「え…何か、あったの?」
「これ」
俺は缶を一度椅子の上に避けて、ブレザーのポケットに手を入れる。そこからハンカチに包まれたものを取り出した。包みを開こうとする指先が震えている。
開かれたハンカチの包み。以前、葉月さんから戴いた厄除けの御守り。珠を紐で繋いでいたそれは紐が切れてしまい、バラバラになってしまった。付属の鈴は少し歪み、珠に無数のヒビが入っているけど、割れていないのが奇跡だ。元の形を保っていないそれらは僅かな衝撃で砕けてしまいそうで。
これを見た葉月さんの口から「あ」と小さな声が漏れた。あまりにも無残な姿になっていたから。
「……すみません。ヴィランとの攻防中に壊してしまったみたいで…今朝、気づいて…葉月さんから戴いた大切な御守りだったのに…本当に、ごめんなさい」
手も、声も震えていた。目を合わせることができない。
黙っていれば分からなかったことだ。でも、この先後ろめたい気持ちを引きずっていくのは嫌だった。まして、この世界からいなくなるかもしれない葉月さんに黙ったままでいるのは。
いくら穏やかな人とはいえ、酷いとか、なんてことしたんだとか。怒るだろうと思っていた。非難の声一つや二つが。でも、俺の予想をこの人は裏切った。怒るどころか、安堵の表情すら見せて。
「良かった。御守り、御利益あったみたいね」
「…え」
「これ、厄除けの御守りでしょ?だから、これのおかげで天喰くんが無事だった」
「あ……身代わりに、これが」
災厄の身代わりになるものだ。確かにあの時そう説明を受けた。御守りが壊れたのは俺の身代わりになって、厄を受けてくれたからだと。
バラバラになってしまった珠、千切れた紐。そこから恐々と顔を上げれば、葉月さんが眉尻を下げてこう言った。怪我はしたけれど、と。嘆くよりも、俺の身を案じてくれている。
「これは今度、近くの神社に返納しに行こうか」
「…そうですね。今度……いつになるかは、分からないけど。いつか」
俺は何を言っているんだろうか。いつかなんて言葉、似つかわしくない。でもそれがするりと出てきたのは、口先だけの約束にしたくない思いがあるからだ。
本当はもっと色んな話がしたい。これを今生の別れにしたくない。いつか、また。会えると信じて。
「…また、今度。切島くんやファットも一緒に」
「うん。二人とまた会えるの楽しみにしてる。学校の授業、頑張ってね。あ、実技の時は怪我に注意してね。あとご飯もしっかり食べて…まだまだ暑いから熱中症にも気をつけて」
「はい」
そう答えてから、葉月さんの言い方がまるで母親か姉のようなものに思えて、笑えてしまった。自分の口から漏れた笑み。
昨日から沈んでいた気分。少し浮上した気さえする。胸が温まる。前向きさを分けてもらえた。
ミリオ、お前以外からも前向きな力を分けてくれる人がいたよ。
そうだな。悪いことばかりを考えていてはいけない。それをつい昨日、あいつから教わったばかりじゃないか。ああ、大丈夫だ。あいつは必ず戻ってきて、太陽の様なヒーローになれるし、葉月さんともまた会える。そう、信じていよう。
「葉月さん。ありがとうございます。俺も…めげずに頑張れそうだ」
翌日、退院前の診察で日常生活を送っても問題が無いと診断を受けた。顔や腕を覆っていた包帯は全て取れ、顔面に入ったヒビも痕には残らないそうだ。リカバリーガールの個性があってこその賜物。でも頼り過ぎは良くない。治癒力を高めるということは、自己の体力が基本となる。今はまだ翌日復帰が出来るが、それを何度も繰り返し基礎が削られていけば、やがて己の生命を脅かすことになる。もっと、慎重にならないと駄目だ。
元いた病室に戻ると、私服姿のファットしかいなかった。三角巾で吊っていた腕も自由に動かせるようで、窓の方を向いて軽い準備運動をしている。
ベッドの上にはコスチューム類をまとめた鞄。制服にはもう着替えている。このあとは事情聴取で警察署へ向かわなければいけない。
「ファット。葉月さんは」
診察室に向かう前まではここにいた。宿泊先のホテルからさっき着いたと話していたけど、眠りが浅かったのか疲れが残っている表情だった。
「ん?おー環。霧華ちゃんなら売店に飲み物買いに行ったで」
「……ちょっと俺も行ってきます」
「なんや待っとればええやん。ここに戻ってくるんやし」
「……この後、警察署に向かわないといけない。一緒ではあるけど、ゆっくり話せないから……話しておきたいこと、あるし」
俺は制服のブレザーの右ポケットに手を重ねた。くすんだ鈴の音色が揺れる。大切な物だったのに。今朝、気づいた瞬間に絶望へ突き落とされるような心境だった。その時と同じように顔が青ざめてしまったんだろう。ファットが口をへの字に曲げ、軽い溜息をつく。俺がここまで慌てている理由をファットは既に知っている。
「……環も心配性やなァ。そんなら行ってき。すれ違わんよーにな」
「はい」
病室を出て、この階のエレベーターに向かう。階段を下りた方が早い気もする。でも、それですれ違ってしまったら元も子もない。二階ならまだしも、わざわざ階段で移動するとも考えにくいから、大人しく待っていた方がすれ違う可能性は低い。
エレベーターは一階で停まっていた。俺が下りのボタンに触れるより先に表示階が動き出した。もしかしたらこれに乗っているかもしれない。
それは二階で一度停止した。すぐに動き出したが、階数の表示の切り替わりがやけにゆっくりと感じる。
心臓が煩く、逸る様に鳴り始めた。この機会を逃してしまったら、次に話ができるのはいつになるか分からない。いや、もう、その機会は訪れないかもしれない。
ようやくこの階にエレベーターが到着した。ゆっくりと開いたドアの向こう側は空っぽ。まだ、売店にいるのだろうか。俺はエレベーターに乗り込み、一階へ。幸い、全ての階を通過したので直ぐに着いた。下りてから天井の吊り案内板を頼りに売店へ早足で向かう。
「切島と天喰がお世話になっています」
売店に近づくと、男の声が聞こえた。俺たちのことを知っている人、それに聞いたことのある声だ。立ち止まったところから様子を窺うと、イレイザーヘッドと葉月さんが話をしていた。ぺこり、ぺこりとお辞儀を交わしている。
「何か問題は起こしていませんか。特に切島はまだ一年ですし…勢いで突っ走ることもあるので、ご迷惑をお掛けしていないかと」
「いえ、何も。二人には私の方がお世話になっています。切島くんは明るくて元気で、とても優しい子です。天喰くんもよく話し相手になってくれますし、頼りになる子ですよ。二人とも優しくて、強くて…未来のヒーローに相応しいと思います」
「そうですか。有難う御座います」
イレイザーヘッドの表情が少しだけ和らいだ。葉月さんの表情も柔らかい。きっと、本当にそう思ってくれているんだろう。
俺の気配に気づいた先生が徐にこちらを捉えた。
「……ん、天喰か。怪我の具合はどうだ」
「問題ないです」
「そうか。ならいい。…お前は確かファットガムと病室が同じだったな」
「はい」
「すまないがファットガムに伝言を頼む。一時間後には迎えが来る。一階ロビーに集合と伝えてくれ」
「分かりました」
「…それでは、私はこれで失礼します」
ぺこりと頭を下げた先生は一階ロビーの方へ歩いていった。その後ろ姿を目で追っていると、手前にいた葉月さんが視界に映る。
「天喰くんも買い物?」
「…いえ。その、葉月さんに話が……あって」
「話?」
わざわざこんな所まで追いかけてきたのか。そう思われているに違いない。物々しい話かと身構えられていたら。実際に良い話ではない。むしろ俺の方が身構えてしまっている。視線はゆっくりと下へ落ちていき、靴の爪先まで落ちてしまった。
「いいよ。じゃあ、ちょっと待っててくれるかな」
そう、返ってきた。普段と変わらない声の調子で。恐るおそる顔を上げれば、葉月さんは売店で買い物をしている。会計を終えて戻ってきたその手に細身の缶ジュースが二つ。
「お待たせ。そこの椅子がある所で大丈夫?」
「…はい」
売店の側に設けられた休憩スペース。四人掛けの長椅子が三つ平行に並べられている。今はそこを利用する人の姿が無い。時々通行人がいるだけで、この状態が今は丁度いいのかもしれない。
一つの長椅子に並んで腰掛けた後、葉月さんからさっきの缶ジュースを手渡された。赤ラベルに赤いリンゴが描かれている。
「お茶よりも樹木の方が役に立つかな…と思って」
「ありがとうございます」
葉月さんは細かい気遣いのできる人だった。俺の個性を考えて、色々としてくれる。俺だけじゃない、ファットや切島くんに対しても。
それなのに、俺は葉月さんを悲しませることばかりしている。その目元だって、昨日泣き晴らしたそのものだし。迷惑どころか心配のかけすぎだ。どうしよう。そう思うと余計に話を切り出しにくくなってしまった。
「みんなすっかり良くなったみたいで本当に良かった。天喰くんの顔も傷が遺らなくて」
「…はい。心配かけて、すみませんでした」
「私が心配性なだけだから。こっちの方こそ、みっともないとこ見せてごめんね。……大丈夫?寝不足なんじゃない。目、眠たそう」
まともな眠りについたのは昨日の昼だけ。昨夜は殆ど眠れずにいた。目を瞑っても過るのは最悪のシナリオばかり。何度も寝返りを打って、目を瞑り直す。それを繰り返し、気づけば外が明るくなっていた。人間がどれだけの絶望の闇を抱えようと、太陽は必ず昇ってくる。
俺を気遣う眼差しを感じた。それに目を合わせられる自信が無くて、自分の手元をずっと見ている。缶ジュースが汗をかき始めていた。
「……葉月さんも、眠そうです」
「昨日、よく眠れなかったから。……怖いこと沢山あったせいね。良いこともあったけど」
葉月さんは一般市民、しかも個性とは無縁の世界で暮らしてきた人だ。予想だにしない出来事ばかりが立て続けに周囲で起きて、混乱を生じている。まだ頭の中が整理できていない、そうぽつりと漏らしていた。
「でも、これが…この世界の理なんだよね。ヒーローは危険と隣り合わせでも、怪我をしても…自分の信念があるんだもんね。その周りでめそめそしていたら、迷惑…だよね」
「そんなことない。……葉月さんみたいに俺たちのことを心配してくれる人がいる。見ていてくれる人がいる。それが、力になるんです。…だから、信じてください。俺たちを。…不安にさせないよう、もっと強くなるから」
「……ふふっ」
隣から僅かに笑みが零れて、ついそちらを向いた。葉月さんもまだ缶のフタを開けていなくて、両手でそれを持ちながら、口元に微笑みを浮かべていた。
「ファットさんと同じこと、言うんだなぁって。考え方、やっぱり似てくるのかしら」
「ファットが…そんなことを」
「うん。応援してくれる人がいるから、頑張れるんだって。だから、笑って待っててほしい…って」
どこか懐かしそうにその台詞を復唱した。
「そんなヒーロー達に私は二度も助けられた。だから、応援しなくちゃね。…天喰くんが頼もしいヒーローになれるように、私応援してるから」
疲労の残る目元をくしゃりとさせて、葉月さんがこちらに微笑んで見せた。また、胸に温かいものが灯る。不思議なこの感覚を覚えるのはこれが初めてじゃない。温かくて、心地よい。不思議だった。貴方からの言葉は素直に、受け止められる自分がいる。どうしてだろうな。
その理由をぼんやりと探していたら、弾いた様に葉月さんが「ごめんね」と謝ってきた。
「余計な話、しちゃって。天喰くん、用があったんだよね」
「…う。あの、……その」
話が逸れていたから本題を忘れていたわけじゃない。切り出すタイミングを逃していたんだ。ああ、そうだ。残された時間は少ない。あと一時間も待たずに警察署へ向かわないといけないんだ。葉月さんとまともに会話を交わせるのは今しかない。
缶を握る手がまた震えだした。
「葉月さん」
「うん」
「俺……貴女に謝らなければならないことが、あって」
「え…何か、あったの?」
「これ」
俺は缶を一度椅子の上に避けて、ブレザーのポケットに手を入れる。そこからハンカチに包まれたものを取り出した。包みを開こうとする指先が震えている。
開かれたハンカチの包み。以前、葉月さんから戴いた厄除けの御守り。珠を紐で繋いでいたそれは紐が切れてしまい、バラバラになってしまった。付属の鈴は少し歪み、珠に無数のヒビが入っているけど、割れていないのが奇跡だ。元の形を保っていないそれらは僅かな衝撃で砕けてしまいそうで。
これを見た葉月さんの口から「あ」と小さな声が漏れた。あまりにも無残な姿になっていたから。
「……すみません。ヴィランとの攻防中に壊してしまったみたいで…今朝、気づいて…葉月さんから戴いた大切な御守りだったのに…本当に、ごめんなさい」
手も、声も震えていた。目を合わせることができない。
黙っていれば分からなかったことだ。でも、この先後ろめたい気持ちを引きずっていくのは嫌だった。まして、この世界からいなくなるかもしれない葉月さんに黙ったままでいるのは。
いくら穏やかな人とはいえ、酷いとか、なんてことしたんだとか。怒るだろうと思っていた。非難の声一つや二つが。でも、俺の予想をこの人は裏切った。怒るどころか、安堵の表情すら見せて。
「良かった。御守り、御利益あったみたいね」
「…え」
「これ、厄除けの御守りでしょ?だから、これのおかげで天喰くんが無事だった」
「あ……身代わりに、これが」
災厄の身代わりになるものだ。確かにあの時そう説明を受けた。御守りが壊れたのは俺の身代わりになって、厄を受けてくれたからだと。
バラバラになってしまった珠、千切れた紐。そこから恐々と顔を上げれば、葉月さんが眉尻を下げてこう言った。怪我はしたけれど、と。嘆くよりも、俺の身を案じてくれている。
「これは今度、近くの神社に返納しに行こうか」
「…そうですね。今度……いつになるかは、分からないけど。いつか」
俺は何を言っているんだろうか。いつかなんて言葉、似つかわしくない。でもそれがするりと出てきたのは、口先だけの約束にしたくない思いがあるからだ。
本当はもっと色んな話がしたい。これを今生の別れにしたくない。いつか、また。会えると信じて。
「…また、今度。切島くんやファットも一緒に」
「うん。二人とまた会えるの楽しみにしてる。学校の授業、頑張ってね。あ、実技の時は怪我に注意してね。あとご飯もしっかり食べて…まだまだ暑いから熱中症にも気をつけて」
「はい」
そう答えてから、葉月さんの言い方がまるで母親か姉のようなものに思えて、笑えてしまった。自分の口から漏れた笑み。
昨日から沈んでいた気分。少し浮上した気さえする。胸が温まる。前向きさを分けてもらえた。
ミリオ、お前以外からも前向きな力を分けてくれる人がいたよ。
そうだな。悪いことばかりを考えていてはいけない。それをつい昨日、あいつから教わったばかりじゃないか。ああ、大丈夫だ。あいつは必ず戻ってきて、太陽の様なヒーローになれるし、葉月さんともまた会える。そう、信じていよう。
「葉月さん。ありがとうございます。俺も…めげずに頑張れそうだ」