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11.確信へ
『…なお、負傷者は多数いるものの何れもヒーロー、警察関係者であり、近隣住民の被害は軽傷。また住宅街の損傷も最小限に留まり…』
二階部署の壁面に設置された液晶テレビ。普段は音量を下げた状態でつけっぱなしになっている。十時頃に臨時ニュースが流れてきて、事務員さんがニュースキャスターの声がはっきりと聞き取れるまでの音量に上げた。
ニュースで流された映像はとても衝撃的なものだった。ガス爆発でも起きたのかと思わせる、住宅街のど真ん中に現れた大きなクレーター。ヘリコプターから映された上空からの映像に何台もの救急車に警察車両、近辺を慌ただしく行き交う大勢の人達。何故か私は、そのニュースに胸騒ぎを覚えた。
事務所の所長であるファットさんは昨夜から所用で出張中。関東方面に行くとしか言っていなくて、それ以上は聞くことができなかった。
事務所内に居る人間は私を含めて四人。誰もが黙ってニュースに釘付けになっていた。どうしてか空気が深刻なものに思えて、少し息苦しく感じる。
重苦しい雰囲気の中、一本の電話が鳴り響いた。すぐ近くの受話器に手を伸ばした私よりも先に経理担当の女性事務員さんが「はい、ファットガム事務所です」と応答。
「はい、お疲れさんでした。……そら何よりですわ。はい、はい…分かりました。誰か迎えに行かせますわ。いや、着替えあらへんでしょ。ええから大人しゅう待っといてください!せや、今葉月さんに替わります。葉月さーん電話やで、ファットから」
「は、はい!」
二つ離れたデスクから電話の取り次ぎを指名され、近くの受話器に手を伸ばす。手が震えていた。受話器を耳に当てて、一呼吸置いてから保留を解除。「お電話替わりました」と発した声も揺れていた。
『おー。お疲れさん、ファットさんやで。昨日から事務所空けてしもてすまんなァ。変わりない?』
カラっとした明るい声が耳に届く。その陽気さが逆に不安の素を膨らませた。このニュースの事件と関係しているんじゃないかと。
「お疲れ様、です。…こちらは特に何も」
『そか。そんならええわ。でな、事務所戻るん明日になりそうや。ほんますまんなァ』
「…あの、ファットさん」
『ん、どしたん』
「今、ニュースで…八斎會、に関するものを報道していて…その、…もしかしてこの件に関わっているんですか」
そう尋ねてから心臓がどくどくと波打ち始める。陽気な声が直ぐには返ってこなくて、その反応から私は確信した。少なからず、この臨時ニュースの件に関わっているのだと。
『なんや、もうニュースになっとるんか』
「…っ大丈夫なんですか。ヒーローの負傷者が多いって、ファットさんも怪我」
『大したことあらへんって。ただ一日だけ入院するだけで』
「入院する程の怪我なんですかっ?!」
『…あかん。口滑ってもうた。いや、ほんま大したことあらへんのや!様子見なだけやて!』
本人はそう言っているけれど、入院しなければいけない程の怪我は確実にしていると思う。ただただ心配が募っていく。
受話器の向こうで「全然痛くも痒くもない」「ピンピンしとるで」「霧華ちゃんの声聞いたら痛みも吹っ飛んだわ」と話している。上手くそれらに返せずにいた私は胸が詰まりそうな思いだった。
不意に、両手で支えていた受話器を経理の事務員さんに取り上げられる。
「ちゅーわけで、今から葉月さんそっちに向かわせますんで。いや、さっき言いましたやん。誰か向かわせるて。あかんて、もう新幹線の切符取りましたし。上司命令かてこれ以上聞けませんっ!ええから待っときや!」
がちゃりと受話器が荒々しく戻された。威勢の良い関西弁に私の心臓がばくばくとして鳴り止まない。経理の事務員さんは長い溜息をついて、私の方にすっと視線を向けた。プリンターから出力されたA4の紙をはいと手渡される。
「ほい、新幹線の切符の受取りコード。電話番号はここに書いてあるやつな。駅の券売機か窓口で切符と引き換えてや。荷物の準備出来とる?」
「ちょうど今終わったとこやで。これ、ファットの着替えやお見舞いとか入ってんねん。重かったら堪忍な」
どんと私の目の前に置かれた赤茶色のボストンバッグ。肩から提げれるようにショルダーの角紐がついていた。
あれよあれよと話が進んでいく。つまり、話を纏めるとこういうこと。入院することになったファットさんのお見舞いにこれを持って、新幹線に乗って行ってきてくれと。
「あ、あの…」
「そや、大学病院の名前と住所も書いとくわ。……分からんくなったらネットで調べてや。あとこれ軍資金。途中なんか食べ物買うてき。タコ焼きとかあれば大喜びやで」
銀行の封筒をピッと渡されたので、私はおずおずとそれを受け取った。素直に受け取ったことに満足したのか、よしと腕を組みながら頷かれる。
「ほんま堪忍な」
「…え」
「うちら、ファットが関わっとる事件知っとったん。でもそれ葉月さんには言うなて口止めされてたんわ。別にはみごにしとったわけやないんやで?ほれ、インターン生の天喰くんが撃たれたことあったやろ。そん時のこともあるし、これ以上葉月さんに心配かけたらあかん!てカッコつけおったん。けど結局こうして入院して心配かけとったら意味ないわ」
「せやせや、俺ら喉のここまで出かかってたんをグッと呑み込んどったんやで。あー…内緒にしとくんきつかったわぁ」
肩凝ってしょうがないわぁと肩を揉みほぐすリアクションを取ってみせる男性職員。それから歯を見せてニッと笑いかけてくれた。
「あとの仕事は俺らに任せといてや。葉月さんは気にせんで見舞いに行ってき」
「わ、私で良いんですか。お見舞い」
「なーに言うとんのや。ファットが一番見たいんは葉月さんの顔やで。こればっかしは満場一致で譲れへんわ。それに、葉月さんかて心配なんやろ?うちらファットガム事務所の代表として、胸張って行ってきや!」
肩を優しく叩かれた私は目から溢れそうになるものをグッと堪えた。
真実を告げればただ不安を煽ることになると知っていた彼の優しさ。それを黙って守り抜いた事務所の皆さん。そして今、こうして温かい言葉をかけてくれる。ここの人達はどうしてこんなにいい人ばかりなんだろう。
ボストンバッグの持ち手を掴んで、ぐっと引き上げる。一泊二日程度の重み。これなら問題なく運べそう。
「駅まで送ったる。車出しとっから、その間に着替えてきや」
「……あ、ありがとうございます」
「葉月さん、もううちら事務所の一員なんやし、遠慮は無しやで」
「…はいっ」
「ん、ええ返事やわ!」
その言葉にまた涙腺が緩みかけた。
◇◆◇
午前中に患者収容でバタついていた病院内も落ち着いたようやった。外もすっかり静かになっとる。雀がちゅんちゅん鳴いとるわ。
病室の窓から眺める景色は穏やかそのもので、数時間前に戦ってたとは思えんほど長閑や。まるで別次元のような気さえしてくる。
エリちゃん保護出来たんは良かった。けど、同時にかけがえの無い同胞を失うことにもなった。その報せをまだうちのインターン生にはまだ伝えていない。戦いの傷が癒えてからの方がええ。
先の報せを思い出しては目頭が熱くなった。もっと、しっかりせなあかん。今以上に。
昼を過ぎても環は眠っておった。リカバリーガールの治療を受けた後もぐっすりや。完全に爆睡しとる。明日の朝まで起きんやろなこれ。眩しくないように隣のベッドをカーテンでぐるっと囲っておいた。
ベッドで大人しゅうしとくのも、その、飽きてきたわ。身体休めなあかんのは分かっとる。どうもじっとしてるんは性に合わん。それに腹減ってあかんでこれ。
ぐうと腹が鳴いた。
ところで、霧華ちゃんほんまに来るんやろか。手元のスマホはうんともすんとも言わん。さっき、というかだいぶ前にガチャ切りしおった経理から『駅まで送ったで』と来たきりや。それ以来、事務所の人間からも本人からも一切音沙汰なしや。霧華ちゃんに「今どの辺?」て送りそうになって、文字を消す。いや、これどっきりとかやったら俺が阿呆みたいやんか。期待して阿呆みたいやなァとか笑われるんちゃうか。せやから何度かメッセージを送りかけて、何度も止めていた。
仮にや、来るとしても遅ないか。そろそろついてもええ頃やないの。道に迷ったとか、まさか変な男に絡まれたりしてないやろな。そうホイホイついてはいかんやろけど、断れない性格やし。あかん。心配になってきた。
あれこれ考えてるうちにいても立ってもいられんくなる。様子だけ見に行こうとして、スリッパ履いてベッドから下りた。そっから廊下に繋がる出入り口に目を向けた時、廊下で話し声がした。その直後に控えめなノック音。
「失礼します」
病室に入ってきた霧華ちゃんとそこでバチッと目が合った。
引き戸がまだ閉まりきらんうちに、相手の表情がみるみるうちに崩れていく。も少しで泣いてしまいそうな所をなんとか堪えているようやった。
「……重症じゃないですかっ!」
「ちゃうねん、こう見えてほんまに大したことないんやで?!骨何本か折っただけやったし、リカバリーガールっちゅう人の個性で治療も受けたん。痛みはもう引いとるし明日の朝には完治やで!」
「骨折れて…ほんとに、ですか。…そんなすごい人…個性が」
「そやで。まあ、本人の治癒力を高めるんやけど…せやから若い方が治りも早いねん。環や切島くんのが今夜には治っとるやろ。……あ」
しもた。二人のこと黙っとこう思うてたのに。口滑りすぎやろ自分。折角霧華ちゃんの涙引っ込んだのに、また目が潤み始めた。
「っ…二人も、入院して…っ!」
「だ、大丈夫や。二人も治療終わって今休んどるとこやねん。…お願いや。そう泣かんといてな。霧華ちゃんに泣かれんとどうしてええか分からんくなるし。…俺のこと信じてや」
誰かが泣いて悲しむ姿は見とうない。霧華ちゃんの場合は何故か特にそうやった。初めて会った時から。
細い指の腹が涙を拭って、涙声で頷く。唇を一文字に結んで、これ以上は泣くまいと気張ってるようやった。ほんま、環の言うとおり、強い人や。
一先ず俺のベッドサイドに丸椅子を用意してそこへ座るように、ちょいちょいと手招いた。担いどったボストンバッグを椅子の横に置いて、ちょこんとそこへ座る。向かい合わせになるよう俺もベッドに腰掛けた。
「大阪からここまで遠かったやろ。おまけにそんな大荷物持たされて…たかだか一泊やのに。霧華ちゃんの肩が壊れたらどないすんのや」
「…大丈夫、です。それに、私は…皆さんの、事務所代表でお見舞いに来ましたから」
「…ん、そか。俺も霧華ちゃんの顔見れてホッとしたわ」
ニッと笑ってみせれば、暗い顔をしとった霧華ちゃんの口元が少し緩む。なんやろな、その笑い方に既視感ちゅうか見覚えがあった。今までだって何度も笑った顔は見てきたのに、これだけが頭の隅っこに引っかかっとる。
「んー…」
「どうかされたんですか」
「あ、いや…なんでもあらへん」
「…あっ。すみません、事務所の方からお見舞いを預かっています」
「ほんま?なんや着替えだけやなかったんかいな。気ぃ利くわ。なに詰め込んでくれたんやろ。もー腹減ってしゃあないねん」
美味いもん入ってるとええなァ。ほこほこした気持ちで待っとったら、ボストンバッグの中を探っている時間が長い。どないしたんと声をかけると、困惑したように微妙な顔して膝の上に小さな四角い保冷バッグを乗せた。その中から取り出したのは長方形の黄色いパッケージの箱。よう見慣れた牛の絵が描かれたものやった。
「おおー!そのメーカーのバター美味いねん。コクがあってなァ…って、なんでやねん!いやいや見舞いにバターてなんやねん。ご丁寧に保冷バッグに入れてしかも三箱とか。もっと他にあるやろ?!あいつら何考えてん!」
「…こ、高カロリーですし。きっとファットさんの身体のことを考えて…」
「そらな、俺の個性に高カロリーがマストなん考えとんのは分かんねん。せやけど病室で大の男がバター丸ごと齧ってたらどうなん。入ってきた看護師さんもびっくりやで」
「……アメリカにはバターに衣をつけて丸ごと油で揚げた食べ物があるらしいですよ」
「え、ほんまに?それ美味そうやな」
フォローのつもりで霧華ちゃんはそう言ったみたいやが、こっちの本気返しに苦笑いされてもうた。
「……引いとるやん」
「すみません…」
すっと流れるように視線を外される。
あいつらほんま何考えとんねん。持ち運べる菓子なら銘菓にわとりとかあるやろ。まあええわ。これは後で有り難くいただくわ。
バターの箱を吊ってない手で持ち上げると、中身が外箱にぶつかる感触。
「しっかしこのバターも中身が小さなったなァ…箱の中で遊んどるで」
「どこのメーカーもそうなりましたよね。値段は上がるしバターは小さくなるし…仕方ないと思うんですけど。中々手が出しにくくなりました」
「国産バターは元手取るん厳しい言うとるからなァ……あたっ」
箱を片手で開けようとして力加減を誤ったばかりに親指の腹が紙にスッと擦れた。遅れてじわじわとした痛みと線を引いたように血が滲んでくる。
「あー…切ってもうた」
「だ大丈夫ですかっ。血が…私、サビオ持ってますからちょっと待ってください」
そう言うて、わたわたと慌てながら自分のバッグを漁る。サビオってなんやねん。そう、聞きかけて止めた。そのフレーズを昔、聞いたことあった。
「指、貸してください」
霧華ちゃんの指に挟まれた一枚の絆創膏。それを示す方言やった。絆創膏のフィルムを剥がして、丁寧に親指の傷に巻きつける。その様子に古い記憶が重なって見えた。あの時の、いじめっ子に靴隠されて、うずくまって泣いとったあの子と。
「これでもう大丈夫です」
小さく微笑んだ霧華ちゃん。女の子の声も一緒になって聞こえてきた。そんな気さえする。「小さなキズでも、そこからバイキンが入ってヒドくなるんだよ」そう、言っとったな。
ゆっくり離れていく華奢な手を掴み取る。当然驚かれて、目を丸くされた。温度が幾分か低い手の先を握りながら、俺は張り付きそうな喉から声を出す。
「なあ、霧華ちゃん。…俺ら、昔どっかで会うたことあらへん」
不明瞭な記憶を確信に変えたい。その気持ち一心で答えを待つ。しんと静まり返ったこの場所。時がゆっくり流れすぎて一秒、一秒が長く感じた。答えを待つ間に心臓が高鳴り始める。顔がほんのり赤く染まっていく霧華ちゃんが躊躇いがちに声を発した時やった。
隣から環が咳き込んでいるのが聞こえてきた。注意は一転してそっちに向く。
「駄目だ…耐えられない。…ファットが、ベタな台詞で口説き始めた」
帰りたい、と続いた声は意外にもはっきりとした物で、その声の主が環のものだと霧華ちゃんはすぐに気づいたようやった。
「…天喰くん、そこにいるの?」
「はい」
そう、弱々しい返事が聞こえると、俺の掴んでいた手を優しく解いて環のベッドへと回り込む。カーテン越しに開けてもいいかと尋ねていた。
「……っ!大丈夫?ほんとに、…ほんとうに大丈夫なの。だって、顔…!」
「だ、大丈夫です…痛いけど、痛くないから。…寝たらだいぶ良くなりました」
後ろ姿しか見えんくて、表情は分からんけど。また涙を流しとんやろな。涙を拭う仕草、鼻を啜る音。二言三言環と交わした後で「切島くんの所、行ってきます」と言って、振り向かずにそのまま病室を飛び出していった。引き止める暇もなくて、自由に動く方の手で頭をカリカリと掻く。切島くんのとこで号泣せえへんとええけど。イレイザーの話やとミイラばりに包帯ぐるぐる巻きらしいからな。目、真っ赤にして戻ってきそうや。
また静かになった病室。環がベッドに仰向けになったままぽそりと呟く。
「振られてる」
「阿呆、…振られてへんわ。環、いつから目え覚めとったん」
「バター…あんな大きな声で話してたら、目も覚める」
「そらすまんかった。…あ、環もバター食う?」
「…いらない。バターは単体で食べる物じゃないでしょ…」
バター薦めたらそれこそ見向きもされずに振られてもうた。天井を仰いどった環の瞼がゆっくりと閉じる。
一先ずバターの箱を保冷バッグに戻し、保冷剤の冷気が逃げ出さんように保冷バッグのファスナーをきっちりと閉めた。ボストンバッグの中をこっから覗き込むと、着替えの他にクッキーの箱や袋チョコレートが入っているのが見えた。マシなモンが入っとって少し安心したわ。
親指に巻かれた無地の絆創膏。あの子が巻いてくれとったのはキャラもんの絆創膏やった気がする。白い猫、あの赤い靴と同じキャラクターの。
古い記憶の中に居った小さな女の子、間違いない。
『…なお、負傷者は多数いるものの何れもヒーロー、警察関係者であり、近隣住民の被害は軽傷。また住宅街の損傷も最小限に留まり…』
二階部署の壁面に設置された液晶テレビ。普段は音量を下げた状態でつけっぱなしになっている。十時頃に臨時ニュースが流れてきて、事務員さんがニュースキャスターの声がはっきりと聞き取れるまでの音量に上げた。
ニュースで流された映像はとても衝撃的なものだった。ガス爆発でも起きたのかと思わせる、住宅街のど真ん中に現れた大きなクレーター。ヘリコプターから映された上空からの映像に何台もの救急車に警察車両、近辺を慌ただしく行き交う大勢の人達。何故か私は、そのニュースに胸騒ぎを覚えた。
事務所の所長であるファットさんは昨夜から所用で出張中。関東方面に行くとしか言っていなくて、それ以上は聞くことができなかった。
事務所内に居る人間は私を含めて四人。誰もが黙ってニュースに釘付けになっていた。どうしてか空気が深刻なものに思えて、少し息苦しく感じる。
重苦しい雰囲気の中、一本の電話が鳴り響いた。すぐ近くの受話器に手を伸ばした私よりも先に経理担当の女性事務員さんが「はい、ファットガム事務所です」と応答。
「はい、お疲れさんでした。……そら何よりですわ。はい、はい…分かりました。誰か迎えに行かせますわ。いや、着替えあらへんでしょ。ええから大人しゅう待っといてください!せや、今葉月さんに替わります。葉月さーん電話やで、ファットから」
「は、はい!」
二つ離れたデスクから電話の取り次ぎを指名され、近くの受話器に手を伸ばす。手が震えていた。受話器を耳に当てて、一呼吸置いてから保留を解除。「お電話替わりました」と発した声も揺れていた。
『おー。お疲れさん、ファットさんやで。昨日から事務所空けてしもてすまんなァ。変わりない?』
カラっとした明るい声が耳に届く。その陽気さが逆に不安の素を膨らませた。このニュースの事件と関係しているんじゃないかと。
「お疲れ様、です。…こちらは特に何も」
『そか。そんならええわ。でな、事務所戻るん明日になりそうや。ほんますまんなァ』
「…あの、ファットさん」
『ん、どしたん』
「今、ニュースで…八斎會、に関するものを報道していて…その、…もしかしてこの件に関わっているんですか」
そう尋ねてから心臓がどくどくと波打ち始める。陽気な声が直ぐには返ってこなくて、その反応から私は確信した。少なからず、この臨時ニュースの件に関わっているのだと。
『なんや、もうニュースになっとるんか』
「…っ大丈夫なんですか。ヒーローの負傷者が多いって、ファットさんも怪我」
『大したことあらへんって。ただ一日だけ入院するだけで』
「入院する程の怪我なんですかっ?!」
『…あかん。口滑ってもうた。いや、ほんま大したことあらへんのや!様子見なだけやて!』
本人はそう言っているけれど、入院しなければいけない程の怪我は確実にしていると思う。ただただ心配が募っていく。
受話器の向こうで「全然痛くも痒くもない」「ピンピンしとるで」「霧華ちゃんの声聞いたら痛みも吹っ飛んだわ」と話している。上手くそれらに返せずにいた私は胸が詰まりそうな思いだった。
不意に、両手で支えていた受話器を経理の事務員さんに取り上げられる。
「ちゅーわけで、今から葉月さんそっちに向かわせますんで。いや、さっき言いましたやん。誰か向かわせるて。あかんて、もう新幹線の切符取りましたし。上司命令かてこれ以上聞けませんっ!ええから待っときや!」
がちゃりと受話器が荒々しく戻された。威勢の良い関西弁に私の心臓がばくばくとして鳴り止まない。経理の事務員さんは長い溜息をついて、私の方にすっと視線を向けた。プリンターから出力されたA4の紙をはいと手渡される。
「ほい、新幹線の切符の受取りコード。電話番号はここに書いてあるやつな。駅の券売機か窓口で切符と引き換えてや。荷物の準備出来とる?」
「ちょうど今終わったとこやで。これ、ファットの着替えやお見舞いとか入ってんねん。重かったら堪忍な」
どんと私の目の前に置かれた赤茶色のボストンバッグ。肩から提げれるようにショルダーの角紐がついていた。
あれよあれよと話が進んでいく。つまり、話を纏めるとこういうこと。入院することになったファットさんのお見舞いにこれを持って、新幹線に乗って行ってきてくれと。
「あ、あの…」
「そや、大学病院の名前と住所も書いとくわ。……分からんくなったらネットで調べてや。あとこれ軍資金。途中なんか食べ物買うてき。タコ焼きとかあれば大喜びやで」
銀行の封筒をピッと渡されたので、私はおずおずとそれを受け取った。素直に受け取ったことに満足したのか、よしと腕を組みながら頷かれる。
「ほんま堪忍な」
「…え」
「うちら、ファットが関わっとる事件知っとったん。でもそれ葉月さんには言うなて口止めされてたんわ。別にはみごにしとったわけやないんやで?ほれ、インターン生の天喰くんが撃たれたことあったやろ。そん時のこともあるし、これ以上葉月さんに心配かけたらあかん!てカッコつけおったん。けど結局こうして入院して心配かけとったら意味ないわ」
「せやせや、俺ら喉のここまで出かかってたんをグッと呑み込んどったんやで。あー…内緒にしとくんきつかったわぁ」
肩凝ってしょうがないわぁと肩を揉みほぐすリアクションを取ってみせる男性職員。それから歯を見せてニッと笑いかけてくれた。
「あとの仕事は俺らに任せといてや。葉月さんは気にせんで見舞いに行ってき」
「わ、私で良いんですか。お見舞い」
「なーに言うとんのや。ファットが一番見たいんは葉月さんの顔やで。こればっかしは満場一致で譲れへんわ。それに、葉月さんかて心配なんやろ?うちらファットガム事務所の代表として、胸張って行ってきや!」
肩を優しく叩かれた私は目から溢れそうになるものをグッと堪えた。
真実を告げればただ不安を煽ることになると知っていた彼の優しさ。それを黙って守り抜いた事務所の皆さん。そして今、こうして温かい言葉をかけてくれる。ここの人達はどうしてこんなにいい人ばかりなんだろう。
ボストンバッグの持ち手を掴んで、ぐっと引き上げる。一泊二日程度の重み。これなら問題なく運べそう。
「駅まで送ったる。車出しとっから、その間に着替えてきや」
「……あ、ありがとうございます」
「葉月さん、もううちら事務所の一員なんやし、遠慮は無しやで」
「…はいっ」
「ん、ええ返事やわ!」
その言葉にまた涙腺が緩みかけた。
◇◆◇
午前中に患者収容でバタついていた病院内も落ち着いたようやった。外もすっかり静かになっとる。雀がちゅんちゅん鳴いとるわ。
病室の窓から眺める景色は穏やかそのもので、数時間前に戦ってたとは思えんほど長閑や。まるで別次元のような気さえしてくる。
エリちゃん保護出来たんは良かった。けど、同時にかけがえの無い同胞を失うことにもなった。その報せをまだうちのインターン生にはまだ伝えていない。戦いの傷が癒えてからの方がええ。
先の報せを思い出しては目頭が熱くなった。もっと、しっかりせなあかん。今以上に。
昼を過ぎても環は眠っておった。リカバリーガールの治療を受けた後もぐっすりや。完全に爆睡しとる。明日の朝まで起きんやろなこれ。眩しくないように隣のベッドをカーテンでぐるっと囲っておいた。
ベッドで大人しゅうしとくのも、その、飽きてきたわ。身体休めなあかんのは分かっとる。どうもじっとしてるんは性に合わん。それに腹減ってあかんでこれ。
ぐうと腹が鳴いた。
ところで、霧華ちゃんほんまに来るんやろか。手元のスマホはうんともすんとも言わん。さっき、というかだいぶ前にガチャ切りしおった経理から『駅まで送ったで』と来たきりや。それ以来、事務所の人間からも本人からも一切音沙汰なしや。霧華ちゃんに「今どの辺?」て送りそうになって、文字を消す。いや、これどっきりとかやったら俺が阿呆みたいやんか。期待して阿呆みたいやなァとか笑われるんちゃうか。せやから何度かメッセージを送りかけて、何度も止めていた。
仮にや、来るとしても遅ないか。そろそろついてもええ頃やないの。道に迷ったとか、まさか変な男に絡まれたりしてないやろな。そうホイホイついてはいかんやろけど、断れない性格やし。あかん。心配になってきた。
あれこれ考えてるうちにいても立ってもいられんくなる。様子だけ見に行こうとして、スリッパ履いてベッドから下りた。そっから廊下に繋がる出入り口に目を向けた時、廊下で話し声がした。その直後に控えめなノック音。
「失礼します」
病室に入ってきた霧華ちゃんとそこでバチッと目が合った。
引き戸がまだ閉まりきらんうちに、相手の表情がみるみるうちに崩れていく。も少しで泣いてしまいそうな所をなんとか堪えているようやった。
「……重症じゃないですかっ!」
「ちゃうねん、こう見えてほんまに大したことないんやで?!骨何本か折っただけやったし、リカバリーガールっちゅう人の個性で治療も受けたん。痛みはもう引いとるし明日の朝には完治やで!」
「骨折れて…ほんとに、ですか。…そんなすごい人…個性が」
「そやで。まあ、本人の治癒力を高めるんやけど…せやから若い方が治りも早いねん。環や切島くんのが今夜には治っとるやろ。……あ」
しもた。二人のこと黙っとこう思うてたのに。口滑りすぎやろ自分。折角霧華ちゃんの涙引っ込んだのに、また目が潤み始めた。
「っ…二人も、入院して…っ!」
「だ、大丈夫や。二人も治療終わって今休んどるとこやねん。…お願いや。そう泣かんといてな。霧華ちゃんに泣かれんとどうしてええか分からんくなるし。…俺のこと信じてや」
誰かが泣いて悲しむ姿は見とうない。霧華ちゃんの場合は何故か特にそうやった。初めて会った時から。
細い指の腹が涙を拭って、涙声で頷く。唇を一文字に結んで、これ以上は泣くまいと気張ってるようやった。ほんま、環の言うとおり、強い人や。
一先ず俺のベッドサイドに丸椅子を用意してそこへ座るように、ちょいちょいと手招いた。担いどったボストンバッグを椅子の横に置いて、ちょこんとそこへ座る。向かい合わせになるよう俺もベッドに腰掛けた。
「大阪からここまで遠かったやろ。おまけにそんな大荷物持たされて…たかだか一泊やのに。霧華ちゃんの肩が壊れたらどないすんのや」
「…大丈夫、です。それに、私は…皆さんの、事務所代表でお見舞いに来ましたから」
「…ん、そか。俺も霧華ちゃんの顔見れてホッとしたわ」
ニッと笑ってみせれば、暗い顔をしとった霧華ちゃんの口元が少し緩む。なんやろな、その笑い方に既視感ちゅうか見覚えがあった。今までだって何度も笑った顔は見てきたのに、これだけが頭の隅っこに引っかかっとる。
「んー…」
「どうかされたんですか」
「あ、いや…なんでもあらへん」
「…あっ。すみません、事務所の方からお見舞いを預かっています」
「ほんま?なんや着替えだけやなかったんかいな。気ぃ利くわ。なに詰め込んでくれたんやろ。もー腹減ってしゃあないねん」
美味いもん入ってるとええなァ。ほこほこした気持ちで待っとったら、ボストンバッグの中を探っている時間が長い。どないしたんと声をかけると、困惑したように微妙な顔して膝の上に小さな四角い保冷バッグを乗せた。その中から取り出したのは長方形の黄色いパッケージの箱。よう見慣れた牛の絵が描かれたものやった。
「おおー!そのメーカーのバター美味いねん。コクがあってなァ…って、なんでやねん!いやいや見舞いにバターてなんやねん。ご丁寧に保冷バッグに入れてしかも三箱とか。もっと他にあるやろ?!あいつら何考えてん!」
「…こ、高カロリーですし。きっとファットさんの身体のことを考えて…」
「そらな、俺の個性に高カロリーがマストなん考えとんのは分かんねん。せやけど病室で大の男がバター丸ごと齧ってたらどうなん。入ってきた看護師さんもびっくりやで」
「……アメリカにはバターに衣をつけて丸ごと油で揚げた食べ物があるらしいですよ」
「え、ほんまに?それ美味そうやな」
フォローのつもりで霧華ちゃんはそう言ったみたいやが、こっちの本気返しに苦笑いされてもうた。
「……引いとるやん」
「すみません…」
すっと流れるように視線を外される。
あいつらほんま何考えとんねん。持ち運べる菓子なら銘菓にわとりとかあるやろ。まあええわ。これは後で有り難くいただくわ。
バターの箱を吊ってない手で持ち上げると、中身が外箱にぶつかる感触。
「しっかしこのバターも中身が小さなったなァ…箱の中で遊んどるで」
「どこのメーカーもそうなりましたよね。値段は上がるしバターは小さくなるし…仕方ないと思うんですけど。中々手が出しにくくなりました」
「国産バターは元手取るん厳しい言うとるからなァ……あたっ」
箱を片手で開けようとして力加減を誤ったばかりに親指の腹が紙にスッと擦れた。遅れてじわじわとした痛みと線を引いたように血が滲んでくる。
「あー…切ってもうた」
「だ大丈夫ですかっ。血が…私、サビオ持ってますからちょっと待ってください」
そう言うて、わたわたと慌てながら自分のバッグを漁る。サビオってなんやねん。そう、聞きかけて止めた。そのフレーズを昔、聞いたことあった。
「指、貸してください」
霧華ちゃんの指に挟まれた一枚の絆創膏。それを示す方言やった。絆創膏のフィルムを剥がして、丁寧に親指の傷に巻きつける。その様子に古い記憶が重なって見えた。あの時の、いじめっ子に靴隠されて、うずくまって泣いとったあの子と。
「これでもう大丈夫です」
小さく微笑んだ霧華ちゃん。女の子の声も一緒になって聞こえてきた。そんな気さえする。「小さなキズでも、そこからバイキンが入ってヒドくなるんだよ」そう、言っとったな。
ゆっくり離れていく華奢な手を掴み取る。当然驚かれて、目を丸くされた。温度が幾分か低い手の先を握りながら、俺は張り付きそうな喉から声を出す。
「なあ、霧華ちゃん。…俺ら、昔どっかで会うたことあらへん」
不明瞭な記憶を確信に変えたい。その気持ち一心で答えを待つ。しんと静まり返ったこの場所。時がゆっくり流れすぎて一秒、一秒が長く感じた。答えを待つ間に心臓が高鳴り始める。顔がほんのり赤く染まっていく霧華ちゃんが躊躇いがちに声を発した時やった。
隣から環が咳き込んでいるのが聞こえてきた。注意は一転してそっちに向く。
「駄目だ…耐えられない。…ファットが、ベタな台詞で口説き始めた」
帰りたい、と続いた声は意外にもはっきりとした物で、その声の主が環のものだと霧華ちゃんはすぐに気づいたようやった。
「…天喰くん、そこにいるの?」
「はい」
そう、弱々しい返事が聞こえると、俺の掴んでいた手を優しく解いて環のベッドへと回り込む。カーテン越しに開けてもいいかと尋ねていた。
「……っ!大丈夫?ほんとに、…ほんとうに大丈夫なの。だって、顔…!」
「だ、大丈夫です…痛いけど、痛くないから。…寝たらだいぶ良くなりました」
後ろ姿しか見えんくて、表情は分からんけど。また涙を流しとんやろな。涙を拭う仕草、鼻を啜る音。二言三言環と交わした後で「切島くんの所、行ってきます」と言って、振り向かずにそのまま病室を飛び出していった。引き止める暇もなくて、自由に動く方の手で頭をカリカリと掻く。切島くんのとこで号泣せえへんとええけど。イレイザーの話やとミイラばりに包帯ぐるぐる巻きらしいからな。目、真っ赤にして戻ってきそうや。
また静かになった病室。環がベッドに仰向けになったままぽそりと呟く。
「振られてる」
「阿呆、…振られてへんわ。環、いつから目え覚めとったん」
「バター…あんな大きな声で話してたら、目も覚める」
「そらすまんかった。…あ、環もバター食う?」
「…いらない。バターは単体で食べる物じゃないでしょ…」
バター薦めたらそれこそ見向きもされずに振られてもうた。天井を仰いどった環の瞼がゆっくりと閉じる。
一先ずバターの箱を保冷バッグに戻し、保冷剤の冷気が逃げ出さんように保冷バッグのファスナーをきっちりと閉めた。ボストンバッグの中をこっから覗き込むと、着替えの他にクッキーの箱や袋チョコレートが入っているのが見えた。マシなモンが入っとって少し安心したわ。
親指に巻かれた無地の絆創膏。あの子が巻いてくれとったのはキャラもんの絆創膏やった気がする。白い猫、あの赤い靴と同じキャラクターの。
古い記憶の中に居った小さな女の子、間違いない。