番外編
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雨が止むまで
曇りがちだった空は遂に雨を降らせた。まっすぐ、しとしとと降り注ぐ柔らかい雨がバンガードの街並みを濡らしている。
朝に聞いた天気予報では午後には晴れる。それを食堂で話題にしたルミカはこの世界での天気予報は当たるのかと訊ねた。様々な多種多様な知識が流れ込んだ世界。もしかしたら物凄い予報方法が確立しているのではないかと思ったのだ。しかし、予想とは裏腹な答えが返ってくる。
「天気は気まぐれだからなー。当たる時もあれば、当たらない時もある。この間は一日中晴れの予報の筈が土砂降りに遭っちまって参ったよ」
食後のコーヒーを片手にダリアスはそう笑っていた。どうやらどこの世界の天気予報も精度の高さは大差ないようだ。
今朝の会話をふと思い返し、ルミカは窓の外を眺めていた。煉瓦道は空から落ちる雫によって色濃く染め変えられている。
「雨が止むのを待ってるの?」
クラヴィス本部の一階廊下でぼうっとしていたルミカに声を掛けたルージュは振り返った彼女に微笑んだ。
「あ、いえ……。ずっとこんな調子で降ってるし、雲間も見えないので……本当に晴れるのかなって」
「僕の世界では天気を占いで決める人もいた。ドゥバンというリージョンでね。当たるも八卦当たらぬも八卦……ってやつ。だから、晴れるかどうかはその時になってみないと分からない」
「気まぐれですもんね、空模様は」
肩を竦めて笑ったルミカは再び窓越しの空を見上げる。その横顔は誰かを待っている。ルージュにはそんな風に感じられた。
「彼らが帰ってくる頃には止んでるといいね」
「え?」
「今日はダリアスも扉の調査に同行してるんだよね。リアム達と一緒に。なんだか心配だってそんな顔をしていたよ」
「そ、そんな……顔に出てましたか」
ルミカは思わず頬を両手で覆い隠し、恥ずかしげに俯いた。
しかし、ルージュの言うとおりなのだ。黒い星が空に現れてからというものの、魔獣が殊更に凶暴化している。一筋縄ではいかない上に、扉の調査も上手くいかないことが次第に増えてきた。
戦士の解放ができず、大型魔獣という難解な敵の出没。決死の攻防にも関わらず、戦士を連れて帰る事が出来なかった日はリアムの表情に顕著に現れていた。
そして今朝、リアムとダリアスは戦士たちを連れ、ユニオンシップに乗り込んだ。そんな芳しくない話を聞いていたルミカは、不安を抱きながらも彼らを見送ったのだ。
「大丈夫。彼は凄腕のパイロットでもあるし、様々な経験を積んだ冒険者だ。僕も何度か彼に同行したけど機転は利くし作戦も策士並。頭が良くて腕っぷしも強い」
「そう、ですね」
「それに少し嬉しそうな顔をしていたよ。ここ最近は市の政治に助言したり、事務処理ばかりだったみたいだし。久々に外に出られる! って感じだった」
その言葉とウキウキしたダリアスの顔を思い浮かべたルミカはくすりと笑みを零した。
「デスクワーク好きじゃないってボヤいてた事ありました、そういえば。身体動かしてる方が好きなんだ、って」
「ああ、言ってたね。……でも、最近はそうでもない気もする。君が来てからは」
同じ様に外の様子を眺めていたルージュは窓ガラスに映ったルミカに柔らかく笑いかけた。
ルージュには双子の兄弟がいる。その瓜二つの顔を持つブルーとは性格も表情も、操る術の資質も全てが正反対。そして片一方の話題を振れば態度が豹変。まさに烈火の如く。これはルージュにも同様の事が言えた。
最強の術士はどちらか一人のみ。「双子故の運命だ」と語る紅の術士に迷いは見られなかった。
そんな彼はブルーよりも物腰が柔らかい。
「……私が来てから、ですか? 確かに、私が手伝うようになってから書類処理や他の雑務が減ったとは言ってました。でも、そんなに力になれてる気はしないんですけど」
「まぁ、それもあるだろうけど……なんだか外が騒がしいね」
不意にルージュの表情が強張った。ルミカの耳には雨音しか聞こえてこない。が、次第に駆けてくる足音が聞こえてきた。
「ルージュ。ちょうどいい所に」
廊下のつきあたりから姿を見せたのはアセルスと白薔薇姫。二人はどこか焦りの色を携えていた。
「何かあったのかい」
「さっき連絡があったんだ。負傷者がいるって」
「間もなくユニオンシップが到着するとのことです」
「医務室の手配は」
「済んでるよ。私達は本部の入口まで迎えに行くところ。ルージュ、貴方にも手伝ってほしい」
「分かった。……ルミカ、大丈夫かい?」
ルミカの顔色が確かに変わっていた。血の気が引いたようにして、不安が色濃く浮かび上がってくる。
今までにもパイロットや戦士達が負傷して帰還することはあった。大型魔獣が初めて確認された時も多くの戦士が致命傷を負った。
嫌な予感が渦巻いていた。
「ルミカ様、顔色が優れませんわ。少しお休みになられた方が」
「……大丈夫です。私も行っていいですか。人手は多い方が良いですよね」
「ああ、助かるよ。行こう、みんな」
歩みを進めるアセルスの顔つきは険しいものであった。リャオ・ユウから「ダリアス達を迎えに行ってほしい。負傷者がいるみたいだ」とだけ聞かされたアセルス。誰が、怪我の程度までは聞かされていない。それを聞くより先にダリアスとの通信が切れてしまったそうだ。連絡もままならない状況。そう予想したアセルスの脳裏に一抹の不安が過ぎる。それはルミカも同じであった。
本部の入口付近には人が集まっていた。クラヴィスに訪れてた一部の市民は青ざめた顔で同じ方向を見つめる。
扉調査に向かったのはダリアス、リアム、アーニャ、ケルヴィン、ヒラガ18世の五人。彼等の帰還は慌ただしいものであった。
「ケルヴィン、ヒラガ。歩けるか? ああ、頼む付き添ってやってくれ。二人とも医務室で手当てを。アーニャ、そっちを支えてくれ」
彼等は皆、怪我を負い、疲弊していた。ダリアスの肩に担がれたリアムに至ってはぐったりと頭を垂れている。その傍らで彼を支えながらもアーニャは今にも泣き出しそうな顔。懸命にそれを堪え、リアムに声をかけ続けていた。その声も震えている。
「リアム、しっかりして。お願い」
「ダリアス! ……一体何が」
「シップを飛ばしながらだと詳しく話せなかった。兎に角、リアムを医務室へ」
「分かった。ルージュ、手伝って」
「……リアム、しっかりするんだ」
「アセルス様。私がリアム様の回復を致します」
その為に自分は同行した。白薔薇姫は自身の胸に手を当て、祈りを捧げるように目を閉じる。
彼女が手を掲げると、柔らかく温かい光がリアムの身体を包み込んだ。身体中あちこちに負っていた傷がみるみるうちに塞がっていく。しかし、リアムの意識は戻らない。苦痛に歪んでいた表情が和らいだだけマシではあろうか。
「リアム」
「アーニャ様、大丈夫です。傷は塞がりました。脈も呼吸も正常です。直に目を覚ましますわ」
「……うん」
「アーニャ、何が……何があったの」
満身創痍のパイロットと戦士達を前にしてルミカは言葉を失っていた。彼等が手際良く対応する中でようやく声を振り絞ることが出来た。
「リアムが……私のせいで。私を、庇って……」
か細く、悲痛な声。アーニャはそう呟くと胸元をぎゅっと掴み、短く息を吐き出した後に俯いてしまう。閉じた目からは涙が今にも零れ落ちそうなほどであった。
「……アーニャ」
「アーニャ、君もリアムと一緒に医務室へ。自分も怪我人だってこと忘れないでくれよ」
「……はい」
力なく頷いたアーニャはアセルス達と共に医務室の方へ向かっていった。その後ろ姿を見送るルミカ。リアムや戦士達の事も心配だが、彼女の思い詰めた表情が胸に突き刺さる。
「悪いな、バタバタしちまって」
ダリアスは雨に濡れた前髪を煩わしそうに掻き上げた。湿った黒髪が一段と色濃く艶を放つ。その横顔は険しく、彼等の行く先を見つめていた。
「……怪我人は医務室に全員向かわせたし、俺は緊急会議の準備を」
「駄目です」
咄嗟にルミカはダリアスの手を掴んだ。そうでもしなければ今にも飛んでいってしまいそうだからと。
「ダリアスさんの手当ても先です」
褐色を帯びたアンバーの目がすっと見開かれた。俄か、左腕に負った傷がじくりと疼く。これは扉の中で大型魔獣と対峙した際に負ったもの。想定以上の力に成す術がなく、戦士の解放すらままならず。強大な力を前に屈した彼らは意識を失ったリアムを連れ、崩れ落ちる世界から脱出を果たした。
ダリアスは片腕に負った裂傷を布で縛り、止血。最低限の応急手当を済ませ、戦士達を乗せたユニオンシップの操縦桿を握った。同行した戦士達には「返り血だ」とはぐらかしたのだが、目の前にいる彼女に対してはどうやらそれもできそうにない。
コートの袖に鮮血が滲みだしているのを目にしたダリアスは「これじゃあ誤魔化しがきかない、か」と眉根を寄せ、呟いた。
「早く治療を受けてください。確かに怪我の程度で治療の優先順位は変わります。でも、だからって放っておいていいわけじゃないです。化膿したらそれこそ大変なことに」
ダリアスの手を掴む力が微かに強められる。低い体温を持つ華奢な手。自分を心配する、小刻みに震えるこの手を振り払うことが出来るだろうか。
涙声で訴え掛けるルミカの頭にそっと手を置き、優しい眼差しを向けた。
「わかった。俺も先に医務室で治療を受ける」
「……はい」
「俺が逃げちまわないようにこのまま連れて行ってくれるか」
「あ、はい。……その、手は」
勢い任せに掴んでしまった手をルミカは放そうとしたのだが、逆に指先をダリアスに握られてしまった。頬を染める彼女に対して有無を言わせない笑みを浮かべ、自ら手を引いてダリアスは歩き出した。指先に熱が帯び始めたのはどちらが先か、わからない。
曇りがちだった空は遂に雨を降らせた。まっすぐ、しとしとと降り注ぐ柔らかい雨がバンガードの街並みを濡らしている。
朝に聞いた天気予報では午後には晴れる。それを食堂で話題にしたルミカはこの世界での天気予報は当たるのかと訊ねた。様々な多種多様な知識が流れ込んだ世界。もしかしたら物凄い予報方法が確立しているのではないかと思ったのだ。しかし、予想とは裏腹な答えが返ってくる。
「天気は気まぐれだからなー。当たる時もあれば、当たらない時もある。この間は一日中晴れの予報の筈が土砂降りに遭っちまって参ったよ」
食後のコーヒーを片手にダリアスはそう笑っていた。どうやらどこの世界の天気予報も精度の高さは大差ないようだ。
今朝の会話をふと思い返し、ルミカは窓の外を眺めていた。煉瓦道は空から落ちる雫によって色濃く染め変えられている。
「雨が止むのを待ってるの?」
クラヴィス本部の一階廊下でぼうっとしていたルミカに声を掛けたルージュは振り返った彼女に微笑んだ。
「あ、いえ……。ずっとこんな調子で降ってるし、雲間も見えないので……本当に晴れるのかなって」
「僕の世界では天気を占いで決める人もいた。ドゥバンというリージョンでね。当たるも八卦当たらぬも八卦……ってやつ。だから、晴れるかどうかはその時になってみないと分からない」
「気まぐれですもんね、空模様は」
肩を竦めて笑ったルミカは再び窓越しの空を見上げる。その横顔は誰かを待っている。ルージュにはそんな風に感じられた。
「彼らが帰ってくる頃には止んでるといいね」
「え?」
「今日はダリアスも扉の調査に同行してるんだよね。リアム達と一緒に。なんだか心配だってそんな顔をしていたよ」
「そ、そんな……顔に出てましたか」
ルミカは思わず頬を両手で覆い隠し、恥ずかしげに俯いた。
しかし、ルージュの言うとおりなのだ。黒い星が空に現れてからというものの、魔獣が殊更に凶暴化している。一筋縄ではいかない上に、扉の調査も上手くいかないことが次第に増えてきた。
戦士の解放ができず、大型魔獣という難解な敵の出没。決死の攻防にも関わらず、戦士を連れて帰る事が出来なかった日はリアムの表情に顕著に現れていた。
そして今朝、リアムとダリアスは戦士たちを連れ、ユニオンシップに乗り込んだ。そんな芳しくない話を聞いていたルミカは、不安を抱きながらも彼らを見送ったのだ。
「大丈夫。彼は凄腕のパイロットでもあるし、様々な経験を積んだ冒険者だ。僕も何度か彼に同行したけど機転は利くし作戦も策士並。頭が良くて腕っぷしも強い」
「そう、ですね」
「それに少し嬉しそうな顔をしていたよ。ここ最近は市の政治に助言したり、事務処理ばかりだったみたいだし。久々に外に出られる! って感じだった」
その言葉とウキウキしたダリアスの顔を思い浮かべたルミカはくすりと笑みを零した。
「デスクワーク好きじゃないってボヤいてた事ありました、そういえば。身体動かしてる方が好きなんだ、って」
「ああ、言ってたね。……でも、最近はそうでもない気もする。君が来てからは」
同じ様に外の様子を眺めていたルージュは窓ガラスに映ったルミカに柔らかく笑いかけた。
ルージュには双子の兄弟がいる。その瓜二つの顔を持つブルーとは性格も表情も、操る術の資質も全てが正反対。そして片一方の話題を振れば態度が豹変。まさに烈火の如く。これはルージュにも同様の事が言えた。
最強の術士はどちらか一人のみ。「双子故の運命だ」と語る紅の術士に迷いは見られなかった。
そんな彼はブルーよりも物腰が柔らかい。
「……私が来てから、ですか? 確かに、私が手伝うようになってから書類処理や他の雑務が減ったとは言ってました。でも、そんなに力になれてる気はしないんですけど」
「まぁ、それもあるだろうけど……なんだか外が騒がしいね」
不意にルージュの表情が強張った。ルミカの耳には雨音しか聞こえてこない。が、次第に駆けてくる足音が聞こえてきた。
「ルージュ。ちょうどいい所に」
廊下のつきあたりから姿を見せたのはアセルスと白薔薇姫。二人はどこか焦りの色を携えていた。
「何かあったのかい」
「さっき連絡があったんだ。負傷者がいるって」
「間もなくユニオンシップが到着するとのことです」
「医務室の手配は」
「済んでるよ。私達は本部の入口まで迎えに行くところ。ルージュ、貴方にも手伝ってほしい」
「分かった。……ルミカ、大丈夫かい?」
ルミカの顔色が確かに変わっていた。血の気が引いたようにして、不安が色濃く浮かび上がってくる。
今までにもパイロットや戦士達が負傷して帰還することはあった。大型魔獣が初めて確認された時も多くの戦士が致命傷を負った。
嫌な予感が渦巻いていた。
「ルミカ様、顔色が優れませんわ。少しお休みになられた方が」
「……大丈夫です。私も行っていいですか。人手は多い方が良いですよね」
「ああ、助かるよ。行こう、みんな」
歩みを進めるアセルスの顔つきは険しいものであった。リャオ・ユウから「ダリアス達を迎えに行ってほしい。負傷者がいるみたいだ」とだけ聞かされたアセルス。誰が、怪我の程度までは聞かされていない。それを聞くより先にダリアスとの通信が切れてしまったそうだ。連絡もままならない状況。そう予想したアセルスの脳裏に一抹の不安が過ぎる。それはルミカも同じであった。
本部の入口付近には人が集まっていた。クラヴィスに訪れてた一部の市民は青ざめた顔で同じ方向を見つめる。
扉調査に向かったのはダリアス、リアム、アーニャ、ケルヴィン、ヒラガ18世の五人。彼等の帰還は慌ただしいものであった。
「ケルヴィン、ヒラガ。歩けるか? ああ、頼む付き添ってやってくれ。二人とも医務室で手当てを。アーニャ、そっちを支えてくれ」
彼等は皆、怪我を負い、疲弊していた。ダリアスの肩に担がれたリアムに至ってはぐったりと頭を垂れている。その傍らで彼を支えながらもアーニャは今にも泣き出しそうな顔。懸命にそれを堪え、リアムに声をかけ続けていた。その声も震えている。
「リアム、しっかりして。お願い」
「ダリアス! ……一体何が」
「シップを飛ばしながらだと詳しく話せなかった。兎に角、リアムを医務室へ」
「分かった。ルージュ、手伝って」
「……リアム、しっかりするんだ」
「アセルス様。私がリアム様の回復を致します」
その為に自分は同行した。白薔薇姫は自身の胸に手を当て、祈りを捧げるように目を閉じる。
彼女が手を掲げると、柔らかく温かい光がリアムの身体を包み込んだ。身体中あちこちに負っていた傷がみるみるうちに塞がっていく。しかし、リアムの意識は戻らない。苦痛に歪んでいた表情が和らいだだけマシではあろうか。
「リアム」
「アーニャ様、大丈夫です。傷は塞がりました。脈も呼吸も正常です。直に目を覚ましますわ」
「……うん」
「アーニャ、何が……何があったの」
満身創痍のパイロットと戦士達を前にしてルミカは言葉を失っていた。彼等が手際良く対応する中でようやく声を振り絞ることが出来た。
「リアムが……私のせいで。私を、庇って……」
か細く、悲痛な声。アーニャはそう呟くと胸元をぎゅっと掴み、短く息を吐き出した後に俯いてしまう。閉じた目からは涙が今にも零れ落ちそうなほどであった。
「……アーニャ」
「アーニャ、君もリアムと一緒に医務室へ。自分も怪我人だってこと忘れないでくれよ」
「……はい」
力なく頷いたアーニャはアセルス達と共に医務室の方へ向かっていった。その後ろ姿を見送るルミカ。リアムや戦士達の事も心配だが、彼女の思い詰めた表情が胸に突き刺さる。
「悪いな、バタバタしちまって」
ダリアスは雨に濡れた前髪を煩わしそうに掻き上げた。湿った黒髪が一段と色濃く艶を放つ。その横顔は険しく、彼等の行く先を見つめていた。
「……怪我人は医務室に全員向かわせたし、俺は緊急会議の準備を」
「駄目です」
咄嗟にルミカはダリアスの手を掴んだ。そうでもしなければ今にも飛んでいってしまいそうだからと。
「ダリアスさんの手当ても先です」
褐色を帯びたアンバーの目がすっと見開かれた。俄か、左腕に負った傷がじくりと疼く。これは扉の中で大型魔獣と対峙した際に負ったもの。想定以上の力に成す術がなく、戦士の解放すらままならず。強大な力を前に屈した彼らは意識を失ったリアムを連れ、崩れ落ちる世界から脱出を果たした。
ダリアスは片腕に負った裂傷を布で縛り、止血。最低限の応急手当を済ませ、戦士達を乗せたユニオンシップの操縦桿を握った。同行した戦士達には「返り血だ」とはぐらかしたのだが、目の前にいる彼女に対してはどうやらそれもできそうにない。
コートの袖に鮮血が滲みだしているのを目にしたダリアスは「これじゃあ誤魔化しがきかない、か」と眉根を寄せ、呟いた。
「早く治療を受けてください。確かに怪我の程度で治療の優先順位は変わります。でも、だからって放っておいていいわけじゃないです。化膿したらそれこそ大変なことに」
ダリアスの手を掴む力が微かに強められる。低い体温を持つ華奢な手。自分を心配する、小刻みに震えるこの手を振り払うことが出来るだろうか。
涙声で訴え掛けるルミカの頭にそっと手を置き、優しい眼差しを向けた。
「わかった。俺も先に医務室で治療を受ける」
「……はい」
「俺が逃げちまわないようにこのまま連れて行ってくれるか」
「あ、はい。……その、手は」
勢い任せに掴んでしまった手をルミカは放そうとしたのだが、逆に指先をダリアスに握られてしまった。頬を染める彼女に対して有無を言わせない笑みを浮かべ、自ら手を引いてダリアスは歩き出した。指先に熱が帯び始めたのはどちらが先か、わからない。