番外編
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肝試しの後で
真夏の空気に包まれたバンガード。ここ数日は茹だるような暑さが続いていた。
この時季だからこそとビーチに遊びに行く人達が多い。夏の陽射しをたっぷりと浴びて、冷たい海水に浸かる。近年は驚く事にナイトプールの施設がオープンしたとか。この世界の文化や文明は私達の世界とほぼ変わらないんじゃないだろうか。そう思う事が多々ある。
でも、クーラーという室内を冷やす機械はまだ発明されていないのだ。残念な事に。
この暑さを和らげる為に打ち水をしたり、冷たい水や氷で身体を冷やしたりして凌いでいる。風鈴のような風に揺れると涼やかな音を奏でるものを窓枠にぶら下げてもいた。
クラヴィスの研究部の人達がクーラーの存在を知ると、気化熱を利用してメカにその役割を持たせられないかと目を輝かせた。ユニオンシップのように巨大な飛行船を造れるんだ。きっと近年にはクーラーも発明してしまいそう。今すぐにでも欲しいぐらいだから、ちょっと皆さんには頑張ってほしいかも。
今夜も熱帯夜のようだ。窓を開けても風が殆ど入ってこなくて、硝子の風鈴がリンとも鳴らない。代わりに小さな草むらで鳴いている夏の虫の声が一際大きく聞こえてきた。
報告書の整理がひと段落したので、そろそろ休憩を挟もうかとダリアスさんと話していた。
「もう少しで片付きそうだな。ルミカのおかげでホント助かった。こう暑い日が続くと処理能力も下がっちまうから、全然進まなかったんだ。暑さでアーサーも調子悪いって言ってたし」
「私は戦士じゃないから、こういう形でお力になれて良かったです」
「ルミカも熱中症や夏バテには気をつけるんだぞ。氷が必要ならいつでも声掛けてくれ」
「有難うございます。ダリアスさんも気をつけてくださいね。……そういえば、アザミさんたちの夜間特訓って何時頃終わるんでしょうか」
市内にある道場で冒険者や戦士達の特訓を任されているアザミさんとスミレさん。
道場に集う戦士達のほとばしる汗と熱気。室内の気温は外よりも高くなると聞いた。さっきも言った通り、クーラーなんていう物が存在していないから、ダリアスさんが氷を度々差し入れている。
それでも毎日暑くて堪らない。だから今夜は訓練をしながら涼めるという趣旨で夜間特訓を行うと戦士たちに声を掛けていたそうだ。
「日が沈んで、星が輝き出した頃に開始すると言ってたな。差し入れも特訓が終わる頃に届く様にって頼まれてたし。そろそろ戻って来る頃じゃないか」
報告書の束をトントンと机の上で揃え、壁掛け時計に目を向けるダリアスさん。時刻は九時を過ぎていた。
「誰か待ってるのか?」
「あ、いえ。そういう訳じゃないんですけど、どういうものだったのかなぁって気になったんです。アザミさんたち、詳しくは教えてくれなかったし。リアムくんかアーニャに聞いてみたくて」
「とっても恐ろしくて涼しくなる特訓だ……とは言ってたが。いくら日が沈んだからって全然涼しくねぇしな。俺もそこは気になってる。リアムが戻って来たら聞いてみるとするか」
「ダリアスさんも聞かされてなかったんですね」
「ああ。内緒だって言われたよ。どっかで情報が漏れたらつまらないから、ってな」
「うーん。益々気になってきましたね。早くみんな戻って来ないかなぁ」
私は処理済みの報告書をボックスに収めた。そういえば何を差し入れしたのか。それも気になったので、ダリアスさんに訊ねようとしたその時だった。
ギュゥウウウ。
奇妙な鳴き声が聞こえた。低く、唸るような獣の声が遠くから。
それは私にだけじゃなく、ダリアスさんの耳にも届いたようだ。手をぴたりと止めて、声のした方を探るように注意を払っている。
ギュウウウ。
次第にその鳴き声がこちらに、真っ直ぐ執務室に向かってくる。
まさか、魔獣がこんな所にまでやってきたのだろうか。そう不安に駆られた時、私の視界にダリアスさんの背中が映った。私を庇う様にしてドアを睨みつけていた。その眼光は鷹の様に鋭くて、緊張感がひしひしと伝わってくる。
ギュウウ、ギュウウウという声はどこか悲痛な物にも思えた。
その声が一際大きく、ドアの前に響く。すると、やや乱暴にドアが開け放たれた。そこに姿を現したのは魔獣でもお化けでもない、私達が良く知っているモンスター。キャンディだった。
「ギュゥウウ」
「キャンディ? ……と、ブラック」
「よう。って、だから前が見えねぇって言ってんだろ!」
「ギュウウウ」
ブラックの頭にしがみつくようにしているキャンディ。その体と手がブラックの視界を遮っていた。ふさふさの尻尾をぐるりとブラックの首に巻き付けてもいる。キャンディの尻尾はもふもふで手触りがとても良いんだけど、今の季節はちょっと暑そう。
奇妙な鳴き声の正体はキャンディだった。しかもずっとその悲痛な鳴き声を上げ続けている。一体どうしちゃったんだろう。
「おら、着いたぞ。……ったく」
「どうしたんですか」
「どうしたもこうしたもねぇ。肝試しでビビッちまったんだよ、こいつ」
アザミさん達が率いる夜間特訓。それは肝試しだったみたい。二人一組になって道を進んでいたはいいものの、キャンディが怖がって動けなくなってしまったとか。
ブラックに首根っこを掴まれたキャンディの手足がぶらんと宙に投げ出される。その状態のまま私の腕に引き渡された。キャンディを落とさないように抱きかかえると、彼は両目をさっと手で覆い隠す。それからぴったりと私の方に顔を隠すようにくっついてきた。
「ギュウウ……」
「オレに跳び付いてきてからずっとその調子だ。そいつが怖がりだなんて知らなかったぜ」
「ほんと、怯えてる。……よしよし、もう怖くないよ」
「キュゥゥゥ」
背中を優しく撫でて、キャンディを宥めた。小さな体を微かに震わせている。よほど怖い思いをしたんだろう。この状態の彼をダリアスさんは苦笑いで見ていた。
「ブラック、悪いな。キャンディをここまで送ってくれて助かった」
名を馳せた海賊ブラック。どんなに恐ろしい人なんだろうと最初は思っていたけど、案外優しい人だ。前にブラックさんと呼んだら「海賊ブラックさんなんてカッコわりい」と顰め面をされた。「様ならつけてくれて構わない。それが嫌なら呼び捨てな」と言ってきたぐらい。
彼はひらりと手を振り、それからニッと笑ってみせた。
「礼なら金貨で構わねぇぜ」
「明日でもいいか?」
「おう、忘れんなよ。……おら、もう泣き止めって。此処にはお化けいねぇだろ。こいつ、氷すいっていう甘いモンにも手を全く付けなかったんだぜ」
「よっぽど怖かったんだね」
「……キュウ」
キャンディがちらりと顔を上げてくれたけど、その目はしょぼんとしていて覇気が全くない。
「ったく、しっかりしろよ」
彼は役目を終えたと首を鳴らし、ぶっきらぼうにキャンディの頭をわしゃわしゃと撫でる。長居をするつもりはないらしく、宿舎に戻って寝ると大きな欠伸をしながら去っていった。
「肝試し、か。訓練かと思って行ったら、とんだ災難だったみたいだなキャンディ」
そう声をかけるダリアスさんは笑いを堪えている感じがした。
「ミュイ」
「そう恨めしい顔するなって。俺だって知らなかったんだ。差し入れの氷とシロップを調達して、届けさせただけだし。……よし、ちょっと待っててくれないか」
「ダリアスさん?」
良いことを思いついた。といった風に手を打ち、ダリアスさんは執務室を出ていく。
静まり返った室内。虫の声だけが響く。後に残された私は何となく不安に駆られる。
不意に外で、ガサガサッと物音がした。思わずびくりと身体を震わせる。キャンディもその物音に耳をまたぺたりと伏せてしまった。
「だ、大丈夫。多分、狸とか夜行性の動物……だよ、うん」
不安はある。早くダリアスさんに戻ってきてほしい。でも、キャンディが怖がってるから私がしっかりしないと。私はキャンディをぎゅっと抱きしめた。
つぶらな瞳が私を見上げてくる。
「キュ……?」
「大丈夫。……私だって、いざとなったら」
ダリアスさんがあの時私を助けてくれた様に。私だってキャンディを守りたい。
「キュ……キュミィッ!」
腕の中で丸くなっていた彼がぴょーんと勢いよく跳び出した。くるりと宙で一回転して、四足で机の上に着地。
恐怖で怯えているというのに、どれだけの勇気を振り絞っているんだろう。窓の外を睨むキャンディは全身の毛を猫の用に逆立てて、尻尾を震わせていた。
「グルルルルッ」
彼は低い唸り声を外に向け、臨戦態勢を取る。得体の知れないものに立ち向かうのはとても怖い。でも、そんな事言ってる場合じゃない。
私は手近にあったハードカバーの分厚い本を手に取った。
二人で身構えたその直後。背後に人の気配を感じた。勢いよく振り返ると、そこにはダリアスさんの姿。大きなダンボールぐらいある箱型の機械を両腕に抱えて、それをテーブルの上に置くところだった。
彼は私達の恐怖に慄いた様子を感じ取り、静かに訊ねてくる。キャンディは低い姿勢を保ったまま、窓の外を睨み続けていた。
「何かあったのか」
「そ、その……窓の外でさっき物音がして」
私がそう言うと、ダリアスさんが徐ろに私達を横切り、観音開き窓を大きく開けて外を覗き込んだ。大胆過ぎる行動にキャンディと二人で首を竦めてしまう。
「お」
「なっ、何かいたんですか」
「ギュッ」
辺りを見渡していたダリアスさんが何かを見つけたみたいだった。
「猫がいた」
「……ねこ?」
「ああ、ほら」
ダリアスさんがそう言うのだから、嘘じゃないんだろう。手招かれた私はそろりと歩みを進めて窓際まで近づいた。彼が指で示す方向でキラリと目のようなものが光る。
「にゃーん」
猫の鳴き声。全身は見えないけれど、茂みに身を潜めているようだ。
「これから集会か?」
「にゃあー」
「気をつけてな」
猫と会話をするダリアスさんがどこか微笑ましい。怖い思いをしたから余計にそう思える。
ガサガサと葉の擦れる音を立ててその猫がどこかへ行ってしまった。
「猫は夜に集まって会議をするらしい。近況報告とかする為に」
「私も聞いたことあります。同じエリアにいる猫達の顔合わせみたいなものだって」
「やることが人間とあまり変わらないよな」
「キュゥウウ」
「化け猫じゃないって。ただの猫だったろ?」
いつの間にかキャンディがダリアスさんの頭に飛び乗っていた。お腹をぴったりとくっつけて伏せている。まだちょっと怯えているみたい。
「ミュイ……」
「ところで、なんでルミカは法律辞典を抱えてるんだ?」
「え?」
自分の胸元でしっかりと抱えた一冊の分厚い本。立派な黒い革張りの装丁。この本の門で殴れば少しは敵も怯むだろう。そう考えて咄嗟に手に取ったなんてとてもじゃないけど言えない。しかもこれはアーサーさんが愛用しているこの国の法律辞典。これで撃退したとしても「法がルミカちゃんを救ったね。物理的に」と冗談を交えた返しをしてくれそうだけど。大事な書物を傷物にしなくて良かった。
「な、なんでもないんです。それより、ダリアスさんが持ってきたその機械は何ですか?」
「こいつか? 研究部の試作品なんだ。で、こっちが氷とシロップ。氷は適当な大きさに切り出してあるから……ここにセットしてフタをする。それから器をここに置いて、レバーを下ろすと」
ダリアスさんがレバーに手を掛けると、電源が入った機械がゴウンゴウンと音を立てて動き出した。ギュイインと何かが回る音。間もなくして器の上に雪の結晶が降り出した。
とても細かくて、白くてふわふわとした雪の粒。冬の雪国で見るような景色に私はつい見惚れてしまった。雪が降り積もると同時に懐かしい気持ちがで胸が満たされていく。夏祭りの屋台で見た光景が浮かんだ。
「キュ……キュミィ?」
「お前がさっき食べそこねたやつだ。これにシロップをかけて……完成っと」
きらきら輝くかき氷があっという間に出来上がった。雪山の頂を苺のシロップが赤く染める。夕日に照らされた冬の富士山みたいに。
「ミュイ、ミィ!」
「ほんとに一口も食べて来なかったのか」
「かき氷機だったんですね、この機械」
「ああ。安定した電源を確保できないからって、向こうは手動で削るやつを持っていってる。それにしてもこれにも色んな呼び方があるみたいだな。アザミたちは氷すいって呼んでたし。物や事柄の呼び方も世界によって違う。それが面白いってリアムが言ってたよ」
リアムくんは異世界の戦士たちの話を聞くのが好きだ。私の世界のこともよく聞かれる。剣も魔法も身近じゃない日常話を一つ一つ、それはもう楽しそうに聞いてくれる。特に彼は機械が好きだから、小型化された通信機、つまりスマホを見て目を輝かせていた。この世界では高価な品、しかも多彩な機能を併せ持つと知れば「すごい!」と連発するほど。
にわかにキャンディが「キュッ」と短い声を上げた。かき氷に顔を近付けすぎたのか、鼻先がちょんと冷たい氷に当たってびっくりしたみたい。その後はシロップがかかった場所が甘くて美味しいと分かったみたいで、顔を雪だらけにしながら夢中で食べていた。
「シロップは何がいい。えーと……今あるのはイチゴとレモンだな。変わったやつは向こうに持っていってるんだ」
「それじゃあ、レモンでお願いします」
「了解」
ダリアスさんは慣れた手つきで機械を操作して、ふわふわのかき氷を二つ作り上げる。「氷湖の天然氷は高いけど、舌触りが良いって評判だ」と言いながら私にレモンのかき氷と小さなスプーンを渡してくれた。
ふわふわで真っ白な雪山。雪の結晶が照明に反射してきらきら輝いている。
「天然氷だからこんなにふわふわしてるんですね。私の世界だと高級かき氷です」
「ルミカの世界じゃ冷蔵庫っていう箱の機械で氷も作れるんだっけか。食料を冷やしながら氷も作れるなんて、夢のような機械だよな」
銀のスプーンで掬い取った雪山の一部。一欠片がとても冷たくて、淡雪のように一瞬のうちに溶けて消える。ひと口、ふた口とスプーンで掬って食べていくうちに暑さがすっと和らいできた。
「いつかルミカの世界にも行ってみたいもんだな」
ふと、ダリアスさんがいちごのかき氷を食べながらそんなことを言った。異世界の話に興味を持つのはリアムくんだけじゃない。彼も私の話によく耳を傾けてくれる。便利な機械の話だけじゃなく、些細な事にも。
仕事やレジャー、スポーツ。目的地までの移動手段。芸術の表現方法、鑑賞方法。書物の普及媒体。他にも定番の料理やお菓子、郷土料理の種類。色んな事を聞かれたし、話した。私にとって当たり前の事を興味深そうに相槌を打ってくれる。
特に彼の興味を引いたのは貨幣の流通方法。電子通貨が普及されていると知ると、すごく驚いていた。
この世界は四十年ほど前に異世界の戦士が現れてから、凄まじい文明の進化を遂げている。遅かれ早かれ、電子マネーが登場するかもしれない。
「ダリアスさんも私の世界に興味津々でしたもんね。……私としてはごくごく普通の日常なので、逆に驚いたというか」
「ルミカにとっては当たり前の日常でも、俺にとっては何もかもが新鮮。もしそっちの世界に行く機会があったらその時は案内してくれよ」
「はい。私でよければ」
「楽しみだな」と言ってダリアスさんが朗らかに笑う。社交辞令だと分かっていても、そう気遣ってくれる気持ちがとても嬉しい。
「そういえば、リアムくんとアーニャまだ戻って来ないですね」
「どこかで寄り道してるか、かき氷に夢中になってるのかもな」
「今日は特に暑いですからね。でも、食べ過ぎたらお腹壊しちゃう」
小さな雪山はみるみるうちに溶けていく。溶けたシロップの部分と一緒に掬って口に入れていた時だった。「ギュゥウウ」とまたどこか苦しそうに訴える鳴き声がすぐ側で聞こえた。
声のする方を見れば、キャンディが机の上にぺたんと座り込んでいる。小さな両手で頭をぎゅっと抱えながら唸っていた。
「ギュゥウウ……」
「キャンディ?」
「……一気に食べ過ぎたな? 頭が痛くなったんだろ」
器から溢れそうなほどの雪山がこの数分で消え去っていた。空っぽになった器を見たダリアスさんが眉を顰める。冷たいものを一気に食べると起きる現象は人間もモンスターも変わらないみたい。
「キュゥウウ」
「食い意地が張ってるからだぞ。落ち着いて食べろっていつも言って……」
「ダリアスさん?」
彼の表情が急に曇る。こめかみの辺りを押さえて目を瞑った。眉間に皺も寄せている。
「もしかして、頭キーンってなってます?」
「人の事言えないな……いてて」
二人して頭を抱えてる。その様子が少し可笑しく思えてしまって。つい、笑いを零してしまった。
過去に現れた異世界の戦士達は、此処で過ごした出来事を一切憶えていないらしい。でもこの世界の人達は彼らのことを憶えている。片一方だけの想い出。私もいつか自分の世界に帰った時、此処で過ごした事を忘れてしまうんだろうか。それが堪らなく嫌で、スマホに沢山の想い出を撮り溜めてきた。例え忘れてしまっても、写真を見たら思い出せるかなって。
今日の出来事も写真に残しておきたかったけど、ちょっと二人が可哀想だから私の胸にだけ刻んでおくことにした。
真夏の空気に包まれたバンガード。ここ数日は茹だるような暑さが続いていた。
この時季だからこそとビーチに遊びに行く人達が多い。夏の陽射しをたっぷりと浴びて、冷たい海水に浸かる。近年は驚く事にナイトプールの施設がオープンしたとか。この世界の文化や文明は私達の世界とほぼ変わらないんじゃないだろうか。そう思う事が多々ある。
でも、クーラーという室内を冷やす機械はまだ発明されていないのだ。残念な事に。
この暑さを和らげる為に打ち水をしたり、冷たい水や氷で身体を冷やしたりして凌いでいる。風鈴のような風に揺れると涼やかな音を奏でるものを窓枠にぶら下げてもいた。
クラヴィスの研究部の人達がクーラーの存在を知ると、気化熱を利用してメカにその役割を持たせられないかと目を輝かせた。ユニオンシップのように巨大な飛行船を造れるんだ。きっと近年にはクーラーも発明してしまいそう。今すぐにでも欲しいぐらいだから、ちょっと皆さんには頑張ってほしいかも。
今夜も熱帯夜のようだ。窓を開けても風が殆ど入ってこなくて、硝子の風鈴がリンとも鳴らない。代わりに小さな草むらで鳴いている夏の虫の声が一際大きく聞こえてきた。
報告書の整理がひと段落したので、そろそろ休憩を挟もうかとダリアスさんと話していた。
「もう少しで片付きそうだな。ルミカのおかげでホント助かった。こう暑い日が続くと処理能力も下がっちまうから、全然進まなかったんだ。暑さでアーサーも調子悪いって言ってたし」
「私は戦士じゃないから、こういう形でお力になれて良かったです」
「ルミカも熱中症や夏バテには気をつけるんだぞ。氷が必要ならいつでも声掛けてくれ」
「有難うございます。ダリアスさんも気をつけてくださいね。……そういえば、アザミさんたちの夜間特訓って何時頃終わるんでしょうか」
市内にある道場で冒険者や戦士達の特訓を任されているアザミさんとスミレさん。
道場に集う戦士達のほとばしる汗と熱気。室内の気温は外よりも高くなると聞いた。さっきも言った通り、クーラーなんていう物が存在していないから、ダリアスさんが氷を度々差し入れている。
それでも毎日暑くて堪らない。だから今夜は訓練をしながら涼めるという趣旨で夜間特訓を行うと戦士たちに声を掛けていたそうだ。
「日が沈んで、星が輝き出した頃に開始すると言ってたな。差し入れも特訓が終わる頃に届く様にって頼まれてたし。そろそろ戻って来る頃じゃないか」
報告書の束をトントンと机の上で揃え、壁掛け時計に目を向けるダリアスさん。時刻は九時を過ぎていた。
「誰か待ってるのか?」
「あ、いえ。そういう訳じゃないんですけど、どういうものだったのかなぁって気になったんです。アザミさんたち、詳しくは教えてくれなかったし。リアムくんかアーニャに聞いてみたくて」
「とっても恐ろしくて涼しくなる特訓だ……とは言ってたが。いくら日が沈んだからって全然涼しくねぇしな。俺もそこは気になってる。リアムが戻って来たら聞いてみるとするか」
「ダリアスさんも聞かされてなかったんですね」
「ああ。内緒だって言われたよ。どっかで情報が漏れたらつまらないから、ってな」
「うーん。益々気になってきましたね。早くみんな戻って来ないかなぁ」
私は処理済みの報告書をボックスに収めた。そういえば何を差し入れしたのか。それも気になったので、ダリアスさんに訊ねようとしたその時だった。
ギュゥウウウ。
奇妙な鳴き声が聞こえた。低く、唸るような獣の声が遠くから。
それは私にだけじゃなく、ダリアスさんの耳にも届いたようだ。手をぴたりと止めて、声のした方を探るように注意を払っている。
ギュウウウ。
次第にその鳴き声がこちらに、真っ直ぐ執務室に向かってくる。
まさか、魔獣がこんな所にまでやってきたのだろうか。そう不安に駆られた時、私の視界にダリアスさんの背中が映った。私を庇う様にしてドアを睨みつけていた。その眼光は鷹の様に鋭くて、緊張感がひしひしと伝わってくる。
ギュウウ、ギュウウウという声はどこか悲痛な物にも思えた。
その声が一際大きく、ドアの前に響く。すると、やや乱暴にドアが開け放たれた。そこに姿を現したのは魔獣でもお化けでもない、私達が良く知っているモンスター。キャンディだった。
「ギュゥウウ」
「キャンディ? ……と、ブラック」
「よう。って、だから前が見えねぇって言ってんだろ!」
「ギュウウウ」
ブラックの頭にしがみつくようにしているキャンディ。その体と手がブラックの視界を遮っていた。ふさふさの尻尾をぐるりとブラックの首に巻き付けてもいる。キャンディの尻尾はもふもふで手触りがとても良いんだけど、今の季節はちょっと暑そう。
奇妙な鳴き声の正体はキャンディだった。しかもずっとその悲痛な鳴き声を上げ続けている。一体どうしちゃったんだろう。
「おら、着いたぞ。……ったく」
「どうしたんですか」
「どうしたもこうしたもねぇ。肝試しでビビッちまったんだよ、こいつ」
アザミさん達が率いる夜間特訓。それは肝試しだったみたい。二人一組になって道を進んでいたはいいものの、キャンディが怖がって動けなくなってしまったとか。
ブラックに首根っこを掴まれたキャンディの手足がぶらんと宙に投げ出される。その状態のまま私の腕に引き渡された。キャンディを落とさないように抱きかかえると、彼は両目をさっと手で覆い隠す。それからぴったりと私の方に顔を隠すようにくっついてきた。
「ギュウウ……」
「オレに跳び付いてきてからずっとその調子だ。そいつが怖がりだなんて知らなかったぜ」
「ほんと、怯えてる。……よしよし、もう怖くないよ」
「キュゥゥゥ」
背中を優しく撫でて、キャンディを宥めた。小さな体を微かに震わせている。よほど怖い思いをしたんだろう。この状態の彼をダリアスさんは苦笑いで見ていた。
「ブラック、悪いな。キャンディをここまで送ってくれて助かった」
名を馳せた海賊ブラック。どんなに恐ろしい人なんだろうと最初は思っていたけど、案外優しい人だ。前にブラックさんと呼んだら「海賊ブラックさんなんてカッコわりい」と顰め面をされた。「様ならつけてくれて構わない。それが嫌なら呼び捨てな」と言ってきたぐらい。
彼はひらりと手を振り、それからニッと笑ってみせた。
「礼なら金貨で構わねぇぜ」
「明日でもいいか?」
「おう、忘れんなよ。……おら、もう泣き止めって。此処にはお化けいねぇだろ。こいつ、氷すいっていう甘いモンにも手を全く付けなかったんだぜ」
「よっぽど怖かったんだね」
「……キュウ」
キャンディがちらりと顔を上げてくれたけど、その目はしょぼんとしていて覇気が全くない。
「ったく、しっかりしろよ」
彼は役目を終えたと首を鳴らし、ぶっきらぼうにキャンディの頭をわしゃわしゃと撫でる。長居をするつもりはないらしく、宿舎に戻って寝ると大きな欠伸をしながら去っていった。
「肝試し、か。訓練かと思って行ったら、とんだ災難だったみたいだなキャンディ」
そう声をかけるダリアスさんは笑いを堪えている感じがした。
「ミュイ」
「そう恨めしい顔するなって。俺だって知らなかったんだ。差し入れの氷とシロップを調達して、届けさせただけだし。……よし、ちょっと待っててくれないか」
「ダリアスさん?」
良いことを思いついた。といった風に手を打ち、ダリアスさんは執務室を出ていく。
静まり返った室内。虫の声だけが響く。後に残された私は何となく不安に駆られる。
不意に外で、ガサガサッと物音がした。思わずびくりと身体を震わせる。キャンディもその物音に耳をまたぺたりと伏せてしまった。
「だ、大丈夫。多分、狸とか夜行性の動物……だよ、うん」
不安はある。早くダリアスさんに戻ってきてほしい。でも、キャンディが怖がってるから私がしっかりしないと。私はキャンディをぎゅっと抱きしめた。
つぶらな瞳が私を見上げてくる。
「キュ……?」
「大丈夫。……私だって、いざとなったら」
ダリアスさんがあの時私を助けてくれた様に。私だってキャンディを守りたい。
「キュ……キュミィッ!」
腕の中で丸くなっていた彼がぴょーんと勢いよく跳び出した。くるりと宙で一回転して、四足で机の上に着地。
恐怖で怯えているというのに、どれだけの勇気を振り絞っているんだろう。窓の外を睨むキャンディは全身の毛を猫の用に逆立てて、尻尾を震わせていた。
「グルルルルッ」
彼は低い唸り声を外に向け、臨戦態勢を取る。得体の知れないものに立ち向かうのはとても怖い。でも、そんな事言ってる場合じゃない。
私は手近にあったハードカバーの分厚い本を手に取った。
二人で身構えたその直後。背後に人の気配を感じた。勢いよく振り返ると、そこにはダリアスさんの姿。大きなダンボールぐらいある箱型の機械を両腕に抱えて、それをテーブルの上に置くところだった。
彼は私達の恐怖に慄いた様子を感じ取り、静かに訊ねてくる。キャンディは低い姿勢を保ったまま、窓の外を睨み続けていた。
「何かあったのか」
「そ、その……窓の外でさっき物音がして」
私がそう言うと、ダリアスさんが徐ろに私達を横切り、観音開き窓を大きく開けて外を覗き込んだ。大胆過ぎる行動にキャンディと二人で首を竦めてしまう。
「お」
「なっ、何かいたんですか」
「ギュッ」
辺りを見渡していたダリアスさんが何かを見つけたみたいだった。
「猫がいた」
「……ねこ?」
「ああ、ほら」
ダリアスさんがそう言うのだから、嘘じゃないんだろう。手招かれた私はそろりと歩みを進めて窓際まで近づいた。彼が指で示す方向でキラリと目のようなものが光る。
「にゃーん」
猫の鳴き声。全身は見えないけれど、茂みに身を潜めているようだ。
「これから集会か?」
「にゃあー」
「気をつけてな」
猫と会話をするダリアスさんがどこか微笑ましい。怖い思いをしたから余計にそう思える。
ガサガサと葉の擦れる音を立ててその猫がどこかへ行ってしまった。
「猫は夜に集まって会議をするらしい。近況報告とかする為に」
「私も聞いたことあります。同じエリアにいる猫達の顔合わせみたいなものだって」
「やることが人間とあまり変わらないよな」
「キュゥウウ」
「化け猫じゃないって。ただの猫だったろ?」
いつの間にかキャンディがダリアスさんの頭に飛び乗っていた。お腹をぴったりとくっつけて伏せている。まだちょっと怯えているみたい。
「ミュイ……」
「ところで、なんでルミカは法律辞典を抱えてるんだ?」
「え?」
自分の胸元でしっかりと抱えた一冊の分厚い本。立派な黒い革張りの装丁。この本の門で殴れば少しは敵も怯むだろう。そう考えて咄嗟に手に取ったなんてとてもじゃないけど言えない。しかもこれはアーサーさんが愛用しているこの国の法律辞典。これで撃退したとしても「法がルミカちゃんを救ったね。物理的に」と冗談を交えた返しをしてくれそうだけど。大事な書物を傷物にしなくて良かった。
「な、なんでもないんです。それより、ダリアスさんが持ってきたその機械は何ですか?」
「こいつか? 研究部の試作品なんだ。で、こっちが氷とシロップ。氷は適当な大きさに切り出してあるから……ここにセットしてフタをする。それから器をここに置いて、レバーを下ろすと」
ダリアスさんがレバーに手を掛けると、電源が入った機械がゴウンゴウンと音を立てて動き出した。ギュイインと何かが回る音。間もなくして器の上に雪の結晶が降り出した。
とても細かくて、白くてふわふわとした雪の粒。冬の雪国で見るような景色に私はつい見惚れてしまった。雪が降り積もると同時に懐かしい気持ちがで胸が満たされていく。夏祭りの屋台で見た光景が浮かんだ。
「キュ……キュミィ?」
「お前がさっき食べそこねたやつだ。これにシロップをかけて……完成っと」
きらきら輝くかき氷があっという間に出来上がった。雪山の頂を苺のシロップが赤く染める。夕日に照らされた冬の富士山みたいに。
「ミュイ、ミィ!」
「ほんとに一口も食べて来なかったのか」
「かき氷機だったんですね、この機械」
「ああ。安定した電源を確保できないからって、向こうは手動で削るやつを持っていってる。それにしてもこれにも色んな呼び方があるみたいだな。アザミたちは氷すいって呼んでたし。物や事柄の呼び方も世界によって違う。それが面白いってリアムが言ってたよ」
リアムくんは異世界の戦士たちの話を聞くのが好きだ。私の世界のこともよく聞かれる。剣も魔法も身近じゃない日常話を一つ一つ、それはもう楽しそうに聞いてくれる。特に彼は機械が好きだから、小型化された通信機、つまりスマホを見て目を輝かせていた。この世界では高価な品、しかも多彩な機能を併せ持つと知れば「すごい!」と連発するほど。
にわかにキャンディが「キュッ」と短い声を上げた。かき氷に顔を近付けすぎたのか、鼻先がちょんと冷たい氷に当たってびっくりしたみたい。その後はシロップがかかった場所が甘くて美味しいと分かったみたいで、顔を雪だらけにしながら夢中で食べていた。
「シロップは何がいい。えーと……今あるのはイチゴとレモンだな。変わったやつは向こうに持っていってるんだ」
「それじゃあ、レモンでお願いします」
「了解」
ダリアスさんは慣れた手つきで機械を操作して、ふわふわのかき氷を二つ作り上げる。「氷湖の天然氷は高いけど、舌触りが良いって評判だ」と言いながら私にレモンのかき氷と小さなスプーンを渡してくれた。
ふわふわで真っ白な雪山。雪の結晶が照明に反射してきらきら輝いている。
「天然氷だからこんなにふわふわしてるんですね。私の世界だと高級かき氷です」
「ルミカの世界じゃ冷蔵庫っていう箱の機械で氷も作れるんだっけか。食料を冷やしながら氷も作れるなんて、夢のような機械だよな」
銀のスプーンで掬い取った雪山の一部。一欠片がとても冷たくて、淡雪のように一瞬のうちに溶けて消える。ひと口、ふた口とスプーンで掬って食べていくうちに暑さがすっと和らいできた。
「いつかルミカの世界にも行ってみたいもんだな」
ふと、ダリアスさんがいちごのかき氷を食べながらそんなことを言った。異世界の話に興味を持つのはリアムくんだけじゃない。彼も私の話によく耳を傾けてくれる。便利な機械の話だけじゃなく、些細な事にも。
仕事やレジャー、スポーツ。目的地までの移動手段。芸術の表現方法、鑑賞方法。書物の普及媒体。他にも定番の料理やお菓子、郷土料理の種類。色んな事を聞かれたし、話した。私にとって当たり前の事を興味深そうに相槌を打ってくれる。
特に彼の興味を引いたのは貨幣の流通方法。電子通貨が普及されていると知ると、すごく驚いていた。
この世界は四十年ほど前に異世界の戦士が現れてから、凄まじい文明の進化を遂げている。遅かれ早かれ、電子マネーが登場するかもしれない。
「ダリアスさんも私の世界に興味津々でしたもんね。……私としてはごくごく普通の日常なので、逆に驚いたというか」
「ルミカにとっては当たり前の日常でも、俺にとっては何もかもが新鮮。もしそっちの世界に行く機会があったらその時は案内してくれよ」
「はい。私でよければ」
「楽しみだな」と言ってダリアスさんが朗らかに笑う。社交辞令だと分かっていても、そう気遣ってくれる気持ちがとても嬉しい。
「そういえば、リアムくんとアーニャまだ戻って来ないですね」
「どこかで寄り道してるか、かき氷に夢中になってるのかもな」
「今日は特に暑いですからね。でも、食べ過ぎたらお腹壊しちゃう」
小さな雪山はみるみるうちに溶けていく。溶けたシロップの部分と一緒に掬って口に入れていた時だった。「ギュゥウウ」とまたどこか苦しそうに訴える鳴き声がすぐ側で聞こえた。
声のする方を見れば、キャンディが机の上にぺたんと座り込んでいる。小さな両手で頭をぎゅっと抱えながら唸っていた。
「ギュゥウウ……」
「キャンディ?」
「……一気に食べ過ぎたな? 頭が痛くなったんだろ」
器から溢れそうなほどの雪山がこの数分で消え去っていた。空っぽになった器を見たダリアスさんが眉を顰める。冷たいものを一気に食べると起きる現象は人間もモンスターも変わらないみたい。
「キュゥウウ」
「食い意地が張ってるからだぞ。落ち着いて食べろっていつも言って……」
「ダリアスさん?」
彼の表情が急に曇る。こめかみの辺りを押さえて目を瞑った。眉間に皺も寄せている。
「もしかして、頭キーンってなってます?」
「人の事言えないな……いてて」
二人して頭を抱えてる。その様子が少し可笑しく思えてしまって。つい、笑いを零してしまった。
過去に現れた異世界の戦士達は、此処で過ごした出来事を一切憶えていないらしい。でもこの世界の人達は彼らのことを憶えている。片一方だけの想い出。私もいつか自分の世界に帰った時、此処で過ごした事を忘れてしまうんだろうか。それが堪らなく嫌で、スマホに沢山の想い出を撮り溜めてきた。例え忘れてしまっても、写真を見たら思い出せるかなって。
今日の出来事も写真に残しておきたかったけど、ちょっと二人が可哀想だから私の胸にだけ刻んでおくことにした。