番外編
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甘い香りに誘われて
季節は冬。寒波が吹き荒ぶ日も続き、滅多に積もらない地域にまで雪が積もったこともあり「今年は数十年に一度の異常気象だ」と訴える学者も少なくない。
寒い日が続いたかと思えば、今日のように暖かい昼下がりを迎える日もある。
クラヴィス本部に隣接する道場では異界の戦士たちが訓練に励んでいた。アザミとスミレが筆頭とするこの道場。基礎の型、技や術の強化などに力を入れているのだが、夏には少し変わった催しも行った。とあるモンスターには大変不況だったとも聞く。
戦士たちの訓練を担う彼女たちは「今後も意表を突く修行を考えている」とダリアスに話したところだ。
道場の訓練視察を終えたダリアスは執務室に戻るべく本部の廊下を進んでいた。
廊下の窓から差し込む陽光。それが浮遊する埃の粒に反射してキラキラと輝く。等間隔に並ぶ陽光の窓を通り過ぎる度に、ダリアスの足下を暖かく包んだ。じんわりと気持ちが良い、心地よい暖かさ。
日向ぼっこでもしたら気持ちが良さそうだ。
ふと足を止めそうになったダリアスは「止めておこう」と心の中で首を振る。心地が良すぎるとそのまま睡魔に誘われてしまう。今日はまだやることがあるのだ。山積みの書類が執務室で彼の帰りを待っている。それに、明日は市政の会議に呼ばれている。少しでも書類の山を減らしておかなければ、自分の首が絞まるだけ。
休憩を取るなら粗方目処がついてからにしよう。
机上の書類で急ぎの案件は二つほどある。それは明日の正午までに片付ければ良い。
ダリアスは憶えている限りの案件を頭の中で並び替えながら、廊下の突き当たりに差し掛かる。陽光が差し込む窓もこれでラスト。その角を曲がろうとした瞬間であった。
「!?」
ダリアスの前に飛び出してきた丸っこい物体。驚きのあまり足を止め、身構える。
それはもふもふの塊で、猫のようにも思えた。しかし、脱兎の如く足下を横切っていったので、確かな姿を判別できず。
振り返った先には、ふさふさの尻尾をご機嫌にぴんと立てた、四つ足で走り去るキャンディの後ろ姿。ダリアスが「待った」と声を掛ける暇も無く、あっという間に彼の姿は豆粒となって曲がり角で消えてしまった。
キャンディとはつい先刻道場で顔を合わせたのだが、ふと目を離した際に忽然と姿を消したのだ。扉調査中にも度々寄り道をする癖が前々からあるのは重々承知。訓練中にもふらりと居なくなったので、どこへ消えたのかと思えばこんな所に。
こんな所で何を。いや、考える必要もなかった。この先にキッチンがある。しかもあのご機嫌な様子。まさか彼はつまみ食いをしていたのではないだろうか。
食い意地が張っているあいつのことだ、充分に有り得る。
しかし昼食時には遅く、夕飯時にはまだ早い。キャンディを一目散に吸い寄せた要因は何か。大方、食べ物関連だろうと見当をつけるダリアス。どうやらその予想は的中していたようだった。
「ダリアスさん? どうしたんですかこんな所で」
柔らかく、まるで春風のように優しい声で名を呼ばれ振り返る。その風が連れてきたのか、甘くて香ばしい匂いが廊下の一角に漂っていた。
バスケットを両手に抱えたルミカが不思議そうにダリアスに訊ねた。
普段から互いに執務室で顔を合わせる立場ではあるが、こうして廊下等でばったり出逢うと驚くというもの。何せ間借りしたこの館は広い。ロアーヌ侯爵が建てただけのことはある。加えて常日頃忙しい身。一定の場所以外で彼女の顔が見られると嬉しくなるのだ。自然と口角も上がる。
「よう。俺は今から戻る所だ。ルミカはキッチンで何か作ってたのか」
ダリアスの言葉に茶褐色の瞳が更に丸くなった。どうして分かったのかとそこに書いてある。
「香ばしくて良い匂いを連れてきたからな。キッチンも近いし、キャンディもそこにいたんじゃないのか? 大方、つまみ食いしていったんだろ」
「え、ええと……クッキーを少し」
どこかバツが悪そうに眉尻を下げるルミカ。これには言い淀む理由があった。
キャンディを甘やかしすぎないようにと言われているのだ。しかし、お菓子をねだる表情、小さな口を動かして美味しそうに食べる姿。その全てが愛くるしい。これにはついつい甘やかし、お菓子を分け与えてしまう。
実はダリアスの言うとおり、先ほども焼きたてのチョコチップクッキーをあげてしまった。五枚も。
これ以上はふたりとも怒られてしまうからと心を鬼にしたところだ。キャンディはダリアスやリアムの頭にしがみつくことが多い。キャンディの重さで首の骨に負担が掛かり、下手をすれば折れてしまうかも。最悪のケースを思い浮かべつつ、びくびくとしながらルミカは答えた。
ところが、ダリアスは怒るどころか「やっぱりか」と一笑した。
「訓練場にいたんだが、急に姿が見えなくなってな。どこに行ったのかと思えば、甘い匂いを嗅ぎつけてここに来たのか。……それにしても、キッチンから訓練場まで結構遠いってのに」
「……あの子、鼻が良いですよね」
「おかげで頼りにはなってる。寄り道が玉に瑕だけどな」
「あの、怒らないんですか」
「怒るって、キャンディのことか。もう食べたもんはしょうがないって。それより、悪いことしたな。それ、せっかく焼いたのにつまみ食いされて数が減っちまっただろ」
そう言いながらダリアスはバスケットに視線を向けた。
きつね色にこんがり焼けた丸いクッキーがきれいに並べられている。チョコチップをたっぷり生地に練り込んだ薄焼きのクッキーだ。焼きたて独特の甘い香りがふわりと鼻を掠めてくる。
とても甘くて香ばしく、食欲がそそられる匂い。お菓子に目が無いキャンディでなくとも、フラフラと匂いに誘われてしまいそうだ。
ルミカはゆっくりと頭を横に振った。
「味見がてらに少し分けてあげたんです。ミリアムと一緒に作ったから、予想より多めに出来上がったんです」
「ミリアムと? そりゃまた珍しい組み合わせだな。仲良かったんだな」
「普段はあまり話さないんです。今日はお菓子の作り方を教えてほしいって頼まれたので」
事のいきさつはつい昨日に遡る。
市内の食料品店でルミカが夕飯の食材を見繕っていたところ、野菜を真剣に見つめるミリアムがいた。彼女とは見知らぬ仲でもないので、挨拶ぐらいはと声を掛けたのだ。すると、振り向いた彼女はルミカを見るなり途端にカッと目を見開き、両肩をがっしりと掴んだ。「いい所に! お願いしたいことがあるんだけど!」と。そこで先の話に繋がる。
ルミカはお菓子作りを趣味のひとつとしていた。
クッキー、マフィン、スコーンを始めとする焼き菓子。プリンやパウンドケーキなどといった洋菓子も一通りこなせる。得手不得手はあれど、味も見た目も世界問わずに評判が良い。キャンディのお墨付きもある。
皆が「美味しい」と笑顔を見せてくれるので、度々お菓子を作ってはクラヴィスの隊員や異界の戦士たちにお裾分けした。気心が知れた相手とお茶をする際に持ち寄ることも。中でもアーニャにはこのチョコチップクッキーが好評であった。
「なるほどな」とダリアスは頷いた。
「滅多に作ることがないからって言ってたので、どこから教えればいいのかちょっと悩みました」
「普段作らないなら材料どころか、物の名前も知らないだろうしな。用語や調理器具だって取り違えることもあるし。でもルミカなら良い先生になったんじゃないか? 現にうまく焼き上がってる」
「……そう、だといいんですけど」
ルミカはどこか不安げに表情を曇らせた。
チョコチップクッキーの出来映えは見事で、店で売られていてもおかしくない。見た目ではなく味に問題があるのだろうか。だが、キャンディのご機嫌な様子からそうは窺えない。
「ダリアスさん。……火術の強火で一気に焼き上げたら、料理って時短になると思いますか」
「……なんだって?」
「その、ミリアムに火術で一気に焼き上げた方が早いわよって提案されて」
耳を疑うような話であった。実際ルミカも困惑している。何せ、彼女の世界には火術どころか魔術の類いは不確かな存在。日常にありふれていないのだ。
一方、この世界では地術と天術が古くから存在する。そこへ数十年前から新たな術法が徐々に確立し始めた。ダリアス自身も申し訳程度に陰術を扱うことができる。
術を日常生活に取り込むこと自体は不思議ではない。水を調達し、火を起こす。土を耕し、風を動力にするなど。
但し、限度というものがある。例えば、火力の微調整だ。
聞くところによれば、生地が焼き上がるのを待つのが暇だという話になったそうだ。オーブンレンジならば一定の温度を設定し、タイマーをセットできる。便利なその機能が使えない此処では、火加減を都度見てやらなければならない。それを術で加減するには術士の負担が大きくなる。神経を余計に使う。
普段から魔獣などを相手にする冒険者のミリアム。常に最大パワーの火力を放つ。焼き上がりが早いどころか、一瞬で炭になる可能性が格段に高い。
まさに強火の発想。これにはルミカは同意しかねる。いや、それとも火を扱う術士ならば普通に考えつくことなのだろうか。しかし、それを実行されてはオーブン諸共キッチンが吹き飛びかねない。
「試しにやってみない?」というミリアムの提案に懸命に首を横へ振ったという話を聞き、助かったとダリアスは胸を撫で下ろした。
「屋外なら兎に角、室内でそれはちょっと遠慮してもらいたい。一応ここ、間借りしてる身だし」
「そ、そうですよね。キャンプみたいに外で調理するならまだ、うん」
「外って言ってもな。火力が強すぎたら丸焦げになっちまう。食材相手に火術ってのは難しいかもしれないぞ。それにしても、なんで急にミリアムは菓子作りに興味持ち始めたんだ」
「バレンタインが近いからだと思いますよ」
暦上で二週間を数えるとバレンタインデーがやってくる。
大切な人にチョコレートを贈る習慣が根付いたのはいつからか。それを明確にした文献は何処かの古い書物にもしかすると遺されているかもしれない。
ルミカの国ではチョコレート会社の商戦が始まりだとされている。
女性から好きな男性にチョコレートを贈る風習は年月を経て、"大切な人"に贈るという形に変化を遂げた。
どうやらこの世界でも同様の現象が起きているようで、菓子屋はこの時期になるとバレンタイン用のチョコレートを店頭に並べる。アケ産の高級カカオを使用、トッピングに珍しいナッツやカラフルなアラザン。繊細な飾り飴細工を施したものなど。職人が腕を振るう有名な菓子屋が集まる街では互いに火花を散らす時期でもあった。
そんな近年では既製品よりも、手作りしたチョコレートを贈るのが流行りだという。その情報をダリアスもアンテナを張ってキャッチしていた。
「もうそんな時期か。こっちもそろそろ手配しとかねぇと」
任務や雑務に追われるあまり、そのイベントをダリアスは忘れかけていた。正直なところ、少々遅めのスタートになってしまったが、融通のきく知人がいる。彼に声を掛ければ用意ができるだろう。
ところで、ダリアスが呟いたそれが意外だったようで、ルミカは再び目を丸くした。
「……ダリアスさんも、チョコレートを贈るんですか?」
「いや、売る方だよ。この時期は稼ぎ時でね。少しでもクラヴィスの資金に充てたいからな」
「そうだったんですね。ちょっとびっくりしました。既製品のチョコレートを売るんですか?」
「今年は手作りチョコキットを仕入れようと思ってる。最近は買うよりも手作りするのが流行りらしい」
バレンタインは男性から女性へ花束を贈る国もある。真っ赤な赤いバラの花束で情熱を伝えるのだ。もしやそんな相手がいるのかと焦ったルミカ。チョコレートを売る側だと分かると息を吐いた。
昨今は有名な菓子屋の高級チョコレートが主流であったバレンタイン。こぞって買い求める女性たちが売り場に群がる姿は『砂糖に集まるアリのようだ』と誰かが揶揄したもの。
しかし、高級チョコレートに手が出せない人も数多い。それを手玉に取るかのように、近年では「心を込めて作ったチョコレートを贈ろう」という製菓会社のキャッチフレーズが飛び交い始めた。
チョコレート、生クリーム、アラザンやナッツのトッピング、ハートの型。これらと簡単なレシピ、ラッピング材料をセットにした物。試しに売りに出したところ、これが飛ぶように売れたという。
「やっぱり手作りチョコが一番気持ちを伝えられるわ!」と誰が言ったか名フレーズ。かくして「バレンタインには手作りチョコレートを」という風が吹き始めた。
「私も昔は良く作ってました。でも大人になってからは催事場で買うことが増えたかも。自分用にちょっと高いチョコレートを選ぶんです。いつも頑張ってる自分へのご褒美にって」
「へぇ。そういう考え方もあるんだな。自分へのプレゼント、良いコンセプトかもな」
商家の人間は常にアンテナを世間に向ける。それはどの世界でも同じようだ。特に此処では通信手段が発達途中。通信機は一部普及されど、民衆に行き届くのはまだ先の話。よって人伝の情報がまだまだ頼りとされていた。
ダリアスは多くの冒険者と研究者を抱えるクラヴィスの資金源を自ら捻出している。自分もこの場を拠り所としている身の上。何か協力できることがないかとルミカは申し出た。
「私にお手伝いできることがあれば言ってください」
「助かるよ。と、言いたいとこだが……そこまで手の込んだ売り場を用意するわけじゃないんだ。ワゴンに積んできてもらったのを売るくらいだし。手が足りなくなりそうだったら声を掛けるよ。ああ、ひとつ頼み事があった。クラヴィスでチョコ手作りキットを販売するって宣伝してくれると助かる」
「わかりました。心当たりがありそうな方に声を掛けておきます」
「頼むよ。そうだ、ルミカの分もひとつ用意しておこうか。チョコレート作るんだろ?」
ダリアスは軽く笑いながら、そう訊ねた。あくまで軽くだ。探りを入れたといっても過言ではない。彼女のことだ、きっとお世話になった人たちに贈るのだろう。
しかし、思っていた反応とだいぶ違うものが返ってきた。
ルミカは途端に頬をほんのりと赤く染め、控えめなルージュを惹いた唇をきゅっと一文字に結んだ。まるで、意中の相手がいるかのような反応だった。
目を下方に彷徨わせ、掠れた小さな声を絞り出した。
「わ、私は……お世話になってる、大切な人たちに渡せたらいいなって思ってます」
ダリアスの予想は当たらずといえども遠からず。複数人に渡す予定だという返事であった。 此処に来てからゆっくりとではあるが、ルミカは確かな人間関係を築いてきた。特に女性陣との交友関係が良好。チョコレートは男女問わずに渡すつもりだろう。
そしてその中に頬を染める様な相手も含まれているということだ。
「誰に」とは野暮なことを敢えて聞くのは止そう。傷が深くなるだけだ。
「……そうか。喜んでもらえるといいな」
精一杯に微笑んだつもりでも、上手く笑えている自信がない。引き攣った表情を見せれば不安にさせてしまうかも。そう危惧を抱きもしたが、俯きがちのルミカから「はい」と返事が聞こえた。
まだそれが恋路だと決まったわけでもない。彼女を応援したい気持ちもあるが、少し妬ける気持ちもある。心模様は二色が渦巻いて複雑な色彩に染まっていた。
「ダリアスさんはこのままお仕事に戻られるんですか」
「ん、まあ……そろそろ休憩を入れるかどうかで悩んでるとこだな。なんか集中もできなさそうだし」
そこで不意にルミカの表情がパッと明るくなった。陽光を映すその瞳はきらきらと輝いているように見えた。「それなら」と手持ちのバスケットを持ち上げてみせる。
「休憩がてらにコーヒーブレイクしませんか。焼きたてのクッキーもありますし」
「いいのか?」
バスケットに詰められたクッキーは誰かとのお茶会用だとばかり。誘う相手はアーニャかエミリアか。その辺りだろうと考えていたダリアスはまさか自分に声を掛けてくれるとは思いもよらず。嬉しさよりも驚きの方が勝り、呆然としかけたが二つ返事で頷いた。
「有り難く頂くとするよ。焼きたてなんて滅多に食べられないしな。そうだ、美味いコーヒーがあるんだ。コーヒーミルを借りていこう。アケのオーロラコーヒーが新しいブレンドを出したんだよ。酸味が少なめで、コクがある。フルシティローストぐらいってとこだな。酸味が苦手でも飲みやすいと思う」
知人がアケで仕入れたものだとダリアスが話す。近年は何種類ものブレンドコーヒーを発売しているそうだ。その数ある中でも、先に話したものが飲みやすいと言う。
もしや、わざわざ吟味をしたのだろうか。いつだったか、酸味が強いコーヒーは好まないと話したのを憶えていてくれたのか。些細な嗜好のひとつ。それでも憶えていてくれたのがルミカにとって嬉しいことであった。
キッチンにコーヒーミルを取りに行くダリアスを待つ傍ら、こっそりとルミカは微笑む。
「お待たせ。どうしたんだ?」
「いえ。クッキー、お口に合うと良いんですけれど」
「キャンディのお墨付きだ。それにルミカが作った菓子は美味いぞ。お世辞なしに、だ」
数週間後には誰かの手に渡る特別なチョコレート。
その人物が気にかかるが、今は知らずに忘れていた方が良さそうだ。
誘われたお茶会で浮かない表情をするわけにもいかないのだから。
季節は冬。寒波が吹き荒ぶ日も続き、滅多に積もらない地域にまで雪が積もったこともあり「今年は数十年に一度の異常気象だ」と訴える学者も少なくない。
寒い日が続いたかと思えば、今日のように暖かい昼下がりを迎える日もある。
クラヴィス本部に隣接する道場では異界の戦士たちが訓練に励んでいた。アザミとスミレが筆頭とするこの道場。基礎の型、技や術の強化などに力を入れているのだが、夏には少し変わった催しも行った。とあるモンスターには大変不況だったとも聞く。
戦士たちの訓練を担う彼女たちは「今後も意表を突く修行を考えている」とダリアスに話したところだ。
道場の訓練視察を終えたダリアスは執務室に戻るべく本部の廊下を進んでいた。
廊下の窓から差し込む陽光。それが浮遊する埃の粒に反射してキラキラと輝く。等間隔に並ぶ陽光の窓を通り過ぎる度に、ダリアスの足下を暖かく包んだ。じんわりと気持ちが良い、心地よい暖かさ。
日向ぼっこでもしたら気持ちが良さそうだ。
ふと足を止めそうになったダリアスは「止めておこう」と心の中で首を振る。心地が良すぎるとそのまま睡魔に誘われてしまう。今日はまだやることがあるのだ。山積みの書類が執務室で彼の帰りを待っている。それに、明日は市政の会議に呼ばれている。少しでも書類の山を減らしておかなければ、自分の首が絞まるだけ。
休憩を取るなら粗方目処がついてからにしよう。
机上の書類で急ぎの案件は二つほどある。それは明日の正午までに片付ければ良い。
ダリアスは憶えている限りの案件を頭の中で並び替えながら、廊下の突き当たりに差し掛かる。陽光が差し込む窓もこれでラスト。その角を曲がろうとした瞬間であった。
「!?」
ダリアスの前に飛び出してきた丸っこい物体。驚きのあまり足を止め、身構える。
それはもふもふの塊で、猫のようにも思えた。しかし、脱兎の如く足下を横切っていったので、確かな姿を判別できず。
振り返った先には、ふさふさの尻尾をご機嫌にぴんと立てた、四つ足で走り去るキャンディの後ろ姿。ダリアスが「待った」と声を掛ける暇も無く、あっという間に彼の姿は豆粒となって曲がり角で消えてしまった。
キャンディとはつい先刻道場で顔を合わせたのだが、ふと目を離した際に忽然と姿を消したのだ。扉調査中にも度々寄り道をする癖が前々からあるのは重々承知。訓練中にもふらりと居なくなったので、どこへ消えたのかと思えばこんな所に。
こんな所で何を。いや、考える必要もなかった。この先にキッチンがある。しかもあのご機嫌な様子。まさか彼はつまみ食いをしていたのではないだろうか。
食い意地が張っているあいつのことだ、充分に有り得る。
しかし昼食時には遅く、夕飯時にはまだ早い。キャンディを一目散に吸い寄せた要因は何か。大方、食べ物関連だろうと見当をつけるダリアス。どうやらその予想は的中していたようだった。
「ダリアスさん? どうしたんですかこんな所で」
柔らかく、まるで春風のように優しい声で名を呼ばれ振り返る。その風が連れてきたのか、甘くて香ばしい匂いが廊下の一角に漂っていた。
バスケットを両手に抱えたルミカが不思議そうにダリアスに訊ねた。
普段から互いに執務室で顔を合わせる立場ではあるが、こうして廊下等でばったり出逢うと驚くというもの。何せ間借りしたこの館は広い。ロアーヌ侯爵が建てただけのことはある。加えて常日頃忙しい身。一定の場所以外で彼女の顔が見られると嬉しくなるのだ。自然と口角も上がる。
「よう。俺は今から戻る所だ。ルミカはキッチンで何か作ってたのか」
ダリアスの言葉に茶褐色の瞳が更に丸くなった。どうして分かったのかとそこに書いてある。
「香ばしくて良い匂いを連れてきたからな。キッチンも近いし、キャンディもそこにいたんじゃないのか? 大方、つまみ食いしていったんだろ」
「え、ええと……クッキーを少し」
どこかバツが悪そうに眉尻を下げるルミカ。これには言い淀む理由があった。
キャンディを甘やかしすぎないようにと言われているのだ。しかし、お菓子をねだる表情、小さな口を動かして美味しそうに食べる姿。その全てが愛くるしい。これにはついつい甘やかし、お菓子を分け与えてしまう。
実はダリアスの言うとおり、先ほども焼きたてのチョコチップクッキーをあげてしまった。五枚も。
これ以上はふたりとも怒られてしまうからと心を鬼にしたところだ。キャンディはダリアスやリアムの頭にしがみつくことが多い。キャンディの重さで首の骨に負担が掛かり、下手をすれば折れてしまうかも。最悪のケースを思い浮かべつつ、びくびくとしながらルミカは答えた。
ところが、ダリアスは怒るどころか「やっぱりか」と一笑した。
「訓練場にいたんだが、急に姿が見えなくなってな。どこに行ったのかと思えば、甘い匂いを嗅ぎつけてここに来たのか。……それにしても、キッチンから訓練場まで結構遠いってのに」
「……あの子、鼻が良いですよね」
「おかげで頼りにはなってる。寄り道が玉に瑕だけどな」
「あの、怒らないんですか」
「怒るって、キャンディのことか。もう食べたもんはしょうがないって。それより、悪いことしたな。それ、せっかく焼いたのにつまみ食いされて数が減っちまっただろ」
そう言いながらダリアスはバスケットに視線を向けた。
きつね色にこんがり焼けた丸いクッキーがきれいに並べられている。チョコチップをたっぷり生地に練り込んだ薄焼きのクッキーだ。焼きたて独特の甘い香りがふわりと鼻を掠めてくる。
とても甘くて香ばしく、食欲がそそられる匂い。お菓子に目が無いキャンディでなくとも、フラフラと匂いに誘われてしまいそうだ。
ルミカはゆっくりと頭を横に振った。
「味見がてらに少し分けてあげたんです。ミリアムと一緒に作ったから、予想より多めに出来上がったんです」
「ミリアムと? そりゃまた珍しい組み合わせだな。仲良かったんだな」
「普段はあまり話さないんです。今日はお菓子の作り方を教えてほしいって頼まれたので」
事のいきさつはつい昨日に遡る。
市内の食料品店でルミカが夕飯の食材を見繕っていたところ、野菜を真剣に見つめるミリアムがいた。彼女とは見知らぬ仲でもないので、挨拶ぐらいはと声を掛けたのだ。すると、振り向いた彼女はルミカを見るなり途端にカッと目を見開き、両肩をがっしりと掴んだ。「いい所に! お願いしたいことがあるんだけど!」と。そこで先の話に繋がる。
ルミカはお菓子作りを趣味のひとつとしていた。
クッキー、マフィン、スコーンを始めとする焼き菓子。プリンやパウンドケーキなどといった洋菓子も一通りこなせる。得手不得手はあれど、味も見た目も世界問わずに評判が良い。キャンディのお墨付きもある。
皆が「美味しい」と笑顔を見せてくれるので、度々お菓子を作ってはクラヴィスの隊員や異界の戦士たちにお裾分けした。気心が知れた相手とお茶をする際に持ち寄ることも。中でもアーニャにはこのチョコチップクッキーが好評であった。
「なるほどな」とダリアスは頷いた。
「滅多に作ることがないからって言ってたので、どこから教えればいいのかちょっと悩みました」
「普段作らないなら材料どころか、物の名前も知らないだろうしな。用語や調理器具だって取り違えることもあるし。でもルミカなら良い先生になったんじゃないか? 現にうまく焼き上がってる」
「……そう、だといいんですけど」
ルミカはどこか不安げに表情を曇らせた。
チョコチップクッキーの出来映えは見事で、店で売られていてもおかしくない。見た目ではなく味に問題があるのだろうか。だが、キャンディのご機嫌な様子からそうは窺えない。
「ダリアスさん。……火術の強火で一気に焼き上げたら、料理って時短になると思いますか」
「……なんだって?」
「その、ミリアムに火術で一気に焼き上げた方が早いわよって提案されて」
耳を疑うような話であった。実際ルミカも困惑している。何せ、彼女の世界には火術どころか魔術の類いは不確かな存在。日常にありふれていないのだ。
一方、この世界では地術と天術が古くから存在する。そこへ数十年前から新たな術法が徐々に確立し始めた。ダリアス自身も申し訳程度に陰術を扱うことができる。
術を日常生活に取り込むこと自体は不思議ではない。水を調達し、火を起こす。土を耕し、風を動力にするなど。
但し、限度というものがある。例えば、火力の微調整だ。
聞くところによれば、生地が焼き上がるのを待つのが暇だという話になったそうだ。オーブンレンジならば一定の温度を設定し、タイマーをセットできる。便利なその機能が使えない此処では、火加減を都度見てやらなければならない。それを術で加減するには術士の負担が大きくなる。神経を余計に使う。
普段から魔獣などを相手にする冒険者のミリアム。常に最大パワーの火力を放つ。焼き上がりが早いどころか、一瞬で炭になる可能性が格段に高い。
まさに強火の発想。これにはルミカは同意しかねる。いや、それとも火を扱う術士ならば普通に考えつくことなのだろうか。しかし、それを実行されてはオーブン諸共キッチンが吹き飛びかねない。
「試しにやってみない?」というミリアムの提案に懸命に首を横へ振ったという話を聞き、助かったとダリアスは胸を撫で下ろした。
「屋外なら兎に角、室内でそれはちょっと遠慮してもらいたい。一応ここ、間借りしてる身だし」
「そ、そうですよね。キャンプみたいに外で調理するならまだ、うん」
「外って言ってもな。火力が強すぎたら丸焦げになっちまう。食材相手に火術ってのは難しいかもしれないぞ。それにしても、なんで急にミリアムは菓子作りに興味持ち始めたんだ」
「バレンタインが近いからだと思いますよ」
暦上で二週間を数えるとバレンタインデーがやってくる。
大切な人にチョコレートを贈る習慣が根付いたのはいつからか。それを明確にした文献は何処かの古い書物にもしかすると遺されているかもしれない。
ルミカの国ではチョコレート会社の商戦が始まりだとされている。
女性から好きな男性にチョコレートを贈る風習は年月を経て、"大切な人"に贈るという形に変化を遂げた。
どうやらこの世界でも同様の現象が起きているようで、菓子屋はこの時期になるとバレンタイン用のチョコレートを店頭に並べる。アケ産の高級カカオを使用、トッピングに珍しいナッツやカラフルなアラザン。繊細な飾り飴細工を施したものなど。職人が腕を振るう有名な菓子屋が集まる街では互いに火花を散らす時期でもあった。
そんな近年では既製品よりも、手作りしたチョコレートを贈るのが流行りだという。その情報をダリアスもアンテナを張ってキャッチしていた。
「もうそんな時期か。こっちもそろそろ手配しとかねぇと」
任務や雑務に追われるあまり、そのイベントをダリアスは忘れかけていた。正直なところ、少々遅めのスタートになってしまったが、融通のきく知人がいる。彼に声を掛ければ用意ができるだろう。
ところで、ダリアスが呟いたそれが意外だったようで、ルミカは再び目を丸くした。
「……ダリアスさんも、チョコレートを贈るんですか?」
「いや、売る方だよ。この時期は稼ぎ時でね。少しでもクラヴィスの資金に充てたいからな」
「そうだったんですね。ちょっとびっくりしました。既製品のチョコレートを売るんですか?」
「今年は手作りチョコキットを仕入れようと思ってる。最近は買うよりも手作りするのが流行りらしい」
バレンタインは男性から女性へ花束を贈る国もある。真っ赤な赤いバラの花束で情熱を伝えるのだ。もしやそんな相手がいるのかと焦ったルミカ。チョコレートを売る側だと分かると息を吐いた。
昨今は有名な菓子屋の高級チョコレートが主流であったバレンタイン。こぞって買い求める女性たちが売り場に群がる姿は『砂糖に集まるアリのようだ』と誰かが揶揄したもの。
しかし、高級チョコレートに手が出せない人も数多い。それを手玉に取るかのように、近年では「心を込めて作ったチョコレートを贈ろう」という製菓会社のキャッチフレーズが飛び交い始めた。
チョコレート、生クリーム、アラザンやナッツのトッピング、ハートの型。これらと簡単なレシピ、ラッピング材料をセットにした物。試しに売りに出したところ、これが飛ぶように売れたという。
「やっぱり手作りチョコが一番気持ちを伝えられるわ!」と誰が言ったか名フレーズ。かくして「バレンタインには手作りチョコレートを」という風が吹き始めた。
「私も昔は良く作ってました。でも大人になってからは催事場で買うことが増えたかも。自分用にちょっと高いチョコレートを選ぶんです。いつも頑張ってる自分へのご褒美にって」
「へぇ。そういう考え方もあるんだな。自分へのプレゼント、良いコンセプトかもな」
商家の人間は常にアンテナを世間に向ける。それはどの世界でも同じようだ。特に此処では通信手段が発達途中。通信機は一部普及されど、民衆に行き届くのはまだ先の話。よって人伝の情報がまだまだ頼りとされていた。
ダリアスは多くの冒険者と研究者を抱えるクラヴィスの資金源を自ら捻出している。自分もこの場を拠り所としている身の上。何か協力できることがないかとルミカは申し出た。
「私にお手伝いできることがあれば言ってください」
「助かるよ。と、言いたいとこだが……そこまで手の込んだ売り場を用意するわけじゃないんだ。ワゴンに積んできてもらったのを売るくらいだし。手が足りなくなりそうだったら声を掛けるよ。ああ、ひとつ頼み事があった。クラヴィスでチョコ手作りキットを販売するって宣伝してくれると助かる」
「わかりました。心当たりがありそうな方に声を掛けておきます」
「頼むよ。そうだ、ルミカの分もひとつ用意しておこうか。チョコレート作るんだろ?」
ダリアスは軽く笑いながら、そう訊ねた。あくまで軽くだ。探りを入れたといっても過言ではない。彼女のことだ、きっとお世話になった人たちに贈るのだろう。
しかし、思っていた反応とだいぶ違うものが返ってきた。
ルミカは途端に頬をほんのりと赤く染め、控えめなルージュを惹いた唇をきゅっと一文字に結んだ。まるで、意中の相手がいるかのような反応だった。
目を下方に彷徨わせ、掠れた小さな声を絞り出した。
「わ、私は……お世話になってる、大切な人たちに渡せたらいいなって思ってます」
ダリアスの予想は当たらずといえども遠からず。複数人に渡す予定だという返事であった。 此処に来てからゆっくりとではあるが、ルミカは確かな人間関係を築いてきた。特に女性陣との交友関係が良好。チョコレートは男女問わずに渡すつもりだろう。
そしてその中に頬を染める様な相手も含まれているということだ。
「誰に」とは野暮なことを敢えて聞くのは止そう。傷が深くなるだけだ。
「……そうか。喜んでもらえるといいな」
精一杯に微笑んだつもりでも、上手く笑えている自信がない。引き攣った表情を見せれば不安にさせてしまうかも。そう危惧を抱きもしたが、俯きがちのルミカから「はい」と返事が聞こえた。
まだそれが恋路だと決まったわけでもない。彼女を応援したい気持ちもあるが、少し妬ける気持ちもある。心模様は二色が渦巻いて複雑な色彩に染まっていた。
「ダリアスさんはこのままお仕事に戻られるんですか」
「ん、まあ……そろそろ休憩を入れるかどうかで悩んでるとこだな。なんか集中もできなさそうだし」
そこで不意にルミカの表情がパッと明るくなった。陽光を映すその瞳はきらきらと輝いているように見えた。「それなら」と手持ちのバスケットを持ち上げてみせる。
「休憩がてらにコーヒーブレイクしませんか。焼きたてのクッキーもありますし」
「いいのか?」
バスケットに詰められたクッキーは誰かとのお茶会用だとばかり。誘う相手はアーニャかエミリアか。その辺りだろうと考えていたダリアスはまさか自分に声を掛けてくれるとは思いもよらず。嬉しさよりも驚きの方が勝り、呆然としかけたが二つ返事で頷いた。
「有り難く頂くとするよ。焼きたてなんて滅多に食べられないしな。そうだ、美味いコーヒーがあるんだ。コーヒーミルを借りていこう。アケのオーロラコーヒーが新しいブレンドを出したんだよ。酸味が少なめで、コクがある。フルシティローストぐらいってとこだな。酸味が苦手でも飲みやすいと思う」
知人がアケで仕入れたものだとダリアスが話す。近年は何種類ものブレンドコーヒーを発売しているそうだ。その数ある中でも、先に話したものが飲みやすいと言う。
もしや、わざわざ吟味をしたのだろうか。いつだったか、酸味が強いコーヒーは好まないと話したのを憶えていてくれたのか。些細な嗜好のひとつ。それでも憶えていてくれたのがルミカにとって嬉しいことであった。
キッチンにコーヒーミルを取りに行くダリアスを待つ傍ら、こっそりとルミカは微笑む。
「お待たせ。どうしたんだ?」
「いえ。クッキー、お口に合うと良いんですけれど」
「キャンディのお墨付きだ。それにルミカが作った菓子は美味いぞ。お世辞なしに、だ」
数週間後には誰かの手に渡る特別なチョコレート。
その人物が気にかかるが、今は知らずに忘れていた方が良さそうだ。
誘われたお茶会で浮かない表情をするわけにもいかないのだから。