番外編
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小さなその背に背負う
忍術学園の正門に荷車が到着した。
荷車には大量の壺。しっかりと蓋で覆われた壺の中身は黒色火薬である。
納品された壺を火薬委員である紅蓮、兵助と顧問の半助が荷車に移し替える。数が多く、重量もあるのでこれだけで一仕事であった。
全てを移し替えた後には額に薄っすらと汗が滲んだ。
しかし、これで終わりではない。次はこの荷車を焔硝蔵まで運ばなければならないのだ。
重い荷車を火薬委員二人掛かりで引くも、足腰にぐっと力を入れなければ動かない。無闇矢鱈に全力を注ぎ込めばバランスを崩した荷車から火薬壺が落下してしまう。
二人は顧問の指示に従い、慎重に歩を進めていった。
「それにしても、戦でも始めるのかってぐらいの量、ですね。うちの在庫の半分くらいありますよ、これ」
「確かに、な。土井先生。もしや、学園長先生は何か有事を見越しておいでなのでしょうか」
近々始まる戦の情報を得たのか。そうなれば火薬の匂いを嗅ぎ付けた曲者が増える。
今以上に警戒を強め、焔硝蔵の守りを固めなければ。言葉にせずとも同じ考えに至った紅蓮と兵助は互いに視線を交わせ、頷く。
しかし、それは杞憂に終わった。
「いやぁ、実はだな」
歩を進めながら振り返った半助の顔――非常に気まずそうな――にその答えは書いていた。
焔硝蔵の前で待つ火薬委員は荷車と火薬壺の数を見るなり、げんなりとしてしまった。
「先日の雨で在庫の火薬が殆ど湿ってしまったんだ」
「たかが雨で湿ったんですか。そこまで強い雨ではなかったはずですが」
「屋根に穴が空いていたんだ。そこから雨漏りして、周囲の火薬が使い物にならなくなってしまった」
三日前に降った雨は昼から夜にかけてしとしと降り続いた。雨足は然程強くなく、水もすぐ捌ける程度であったのだが。それに火薬壺には布で覆いをしている。雨漏りといえど直に雨水が入り込まなければ。火薬委員一同そう考えたのだが、どうやら顧問の顔を見る限りそれが当たってしまったようだ。
「何故か蓋の開いている壺が幾つもあってな。雨水が混入してしまったんだ」
半助は書類を脇に抱え、額に手を当て項垂れた。
火薬の在庫、蔵内の点検及び外壁の目視調査も行ってはいたのだが。目につかない小さな綻びが気づかぬうちに大きくなってしまったのだろう。
彼らにとって幸いなことは火薬補充の予算が特別に予備費として認められたことだ。なにせ火薬委員会の今年度予算は零。自費で賄うにも限度がある。
「そういうわけで、今日は湿気て駄目になった火薬の入れ替えを行う。事前に取り替える壺を確認しておいたから、この表を元に作業をしてくれ。あとは雨漏りの箇所も確認してくれると助かる」
「わかりました」
半助は束ねた資料を委員長の紅蓮に手渡した後「私は職員会議があるから行かなくては。すまないが、先にお前たちで始めていてくれ」とそそくさと退場してしまった。
束ねられた資料をぺらりと捲る。その数に紅蓮は口の端を引き攣らせた。脇からそれを覗き見た兵助も「これ相当な量ですね」と同様に顔を曇らせる。
「やるしかあるまい。よし、先ずは湿った火薬壺を外に運び出すぞ。作業は二手に分かれて行う。伊助と兵助、タカ丸と三郎次で組んでくれ。水分を含んだ火薬壺は特に重量を増している。一人で運ぼうとせず協力するように。私は先に雨漏りの箇所を確認してくる」
「はーい」
「タカ丸、三郎次。錠前を外して扉を開けてくれ」
「わっかりましたー」
「はい」
焔硝蔵の鍵をタカ丸に託した紅蓮は荷車に目を向ける。周囲に曲者の気配はない。入れ替えとはいえ、学園の火薬を補填するという情報がどこかで漏れている可能性も無きにしも非ずだ。
紅蓮は細心の注意を払い、兵助にその役目を渡した後に焔硝蔵の外壁をぐるりと見て回った。石造りの壁に異常は特に見られなかった。
横殴りの風雨で漏れた様子ではなさそうだ。そうなると、雨漏りは完全に天井からのものとなる。
本日は晴天なり。どこまでも青く澄み渡った空が広がっている。しかし、天気は気まぐれ。いつ雨が降るのかわからない。補填した火薬が二度も湿気たとなれば、次からは予算を工面されないであろう。いくら授業で使うものとて、他の委員会から野次が飛んでくる。
早急に雨漏りの箇所を調べ、用具委員会へ修補の依頼を出さなければ。食堂の食券二枚で請け負ってくれるだろうか。竹馬の友とはいえ、無償で頼むのは気が引けるというもの。留三郎への御礼を考えながら紅蓮は焔硝蔵に足を踏み入れた。
焔硝蔵の内部は紅蓮が思っていた以上に酷い有様であった。
雨上がりとはまた違う、生乾きの湿気た嫌な臭いが充満している。鼻を覆う程ではないが、気分は良くない。
後輩が火薬壺を運び出す傍らで紅蓮は雨漏りの箇所を調べていた。雨漏りの痕跡である染みを調べ、指を折って数えていく。
「ひい、ふう、み……穴ぼこだらけじゃないか」
「葉月先輩! ここにも雨漏りの痕があります」
「こっちにもあります」
伊助と三郎次が滴り落ちた雨の痕跡を見つけては委員長へ報告。その数は遂に片手を折り返してしまった。顧問が頭を抱えたくなる気持ちがわかる。
恨めしげに紅蓮は天井を見上げた。
「大雨が降っていたらもっと悲惨な事になっていたな」
「雨足が弱くて助かりましたね。流石に焔硝蔵全ての火薬を入れ替えるのは骨が折れますから」
「全くだ。私の方から用具委員会に修補の依頼を至急頼んでおく。また雨漏りの箇所を見つけたら私に教えてくれ」
「紅蓮くん。これも雨漏りだと思うんだけど」
「そうだな。……食券三枚で手を打ってくれればいいんだが。いや、こっちの話だ。タカ丸、伊助。それを運び終えたら次はこっちを頼む」
顧問が拵えた表を元に火薬委員たちは順繰りに壺を外へ運び出していった。
時折、足が縺れて危うく壺を割りそうになる場面も見受けられたが、なんとか事なきを得る。転びそうになった伊助に対して三郎次から「ぼんやりしてるからだぞ」と普段よりもきつめの一言も飛ぶ。火薬の扱いは確かに慎重でなければならないのだが、今日はどこか一段とピリピリしているようであった。
「三郎次」
何となしに声を掛けてみたが一度では反応が無く、二度目の呼び掛けで弾いたように三郎次は返事をした。
「は、はい」
「どこか調子でも悪いのか?」
「い、いえ。大丈夫です。それよりも先輩、この棚の上も雨漏りしていたようです」
「……これで十五、か」
途方に暮れたように紅蓮は天井を見上げ、呟いた。
いよいよもって食券では事足りなくなってきた。これはもう留三郎の願いを訊いた方が早い。用具委員長への要望をどう伝えるか。それを考えつつも紅蓮は三郎次の異変を気にしていた。
火薬委員総出で湿気た火薬壺を全て焔硝蔵の外に運び出した後、今度は新しい火薬壺を棚に納めていく。半助も後に加わったが、焔硝蔵の扉を施錠した時には一刻ばかりが過ぎていた。
◇
委員会活動から解放された火薬委員たちはそれぞれの場所へ散った。伊助と三郎次は自学年の忍たま長屋へ、タカ丸は図書室に。兵助は食堂のおばちゃんに呼ばれていたと急いだ。
紅蓮は用具倉庫で作業中の留三郎を訪ね、先の件を話した。
「雨漏りの箇所多すぎるだろ」
「この間、風が強い日があったからな。その時に飛ばされてきたもので屋根に穴が空いたか」
「何にせよ、お前も不運だな」
他人事のように笑い飛ばされる始末であった。それに加え、対価を提示するも彼は「俺とお前の仲だろ。気にすんな」と無償で快く引き受けてくれた。とはいえ、タダ働きさせるのは腑に落ちない。今度町へ出掛けた時にでも何か奢ろう。級友への礼はそれで良いだろう。
次に紅蓮は後輩の顔を思い浮かべた。委員会活動が思いの他長引き、拘束時間が長かったことを申し訳なく思う。
実技で身体を動かすのとはまた違う重労働であった。解散前の後輩たちは皆へとへとになっていたのだ。
頑張った後輩たちに何かご褒美を。そう紅蓮は考えていた。
全員が喜びそうなもの。紅蓮の頭に真っ先に豆腐の影が浮かぶ。その隣に満面の笑みを浮かべる兵助が添えられた。
頭を振りその残像を振り払った。自分もすっかり後輩の豆腐地獄に毒されてしまっている。それもそのはず。兵助は事ある毎に「御礼に豆腐を」「頑張ったご褒美に豆腐料理を振る舞おう」「これが終われば美味しいお豆腐が待ってるぞ!」と口にするものだから。
それを紅蓮までが今日の頑張りに豆腐などと発言しようものなら「委員長まで豆腐推しになったんですか」と他の後輩に嘆かれかねない。それだけは避けたいところだ。
都合が合えば皆で町へ出掛けようか。美味しいと評判のうどん屋に行くのも良いかもしれない。
紅蓮は後輩たちの笑顔を思い浮かべ、ひとり目を細めた。
用具倉庫からの帰り道。ふらりと立ち寄った場所で紅蓮は後輩の姿を見つけた。
図書室から出てきた三郎次。何か考え事をしているようで、紅蓮の気配にまだ気づいていない。
先刻の様子も気になっていたので、これは好機と捉えた紅蓮は瞬時に茂みへ身を隠し、三郎次を待つ。廊下伝いに歩く後輩が近づいてきたところで「三郎次」と名を呼ぶ。
呼び声を拾い上げた三郎次はぴたりと足を止め、周囲をきょろきょろと見渡した。
周囲に注意を払ってはみたが、姿どころか気配すら感じられない。
その場で声の出所を探る三郎次の目つきは真剣そのもの。どこかピリピリとした空気を纏っていた。
がさり。
直ぐ側の茂みが僅かに揺れた。
刹那、その茂み目掛けて三郎次は四方手裏剣を打ち込んだ。
しかし、手応えはなかった。それもそのはず、そこに忍んでいた紅蓮はとうに居場所を変えていたのだ。三郎次の真後ろに立ち、今一度彼の名を呼ぶ。
「こっちだ、三郎次」
意識を向けていた方とは真逆から呼ばれ、ばっと振り向いた紅蓮の後輩はそれはもう驚いていた。腰を抜かしそうな程と言えば大袈裟かもしれないが、肩を震わせて飛び上がっていた。
「葉月先輩っ!?」
「驚かせて悪かった。図書室から出てくるのを見かけたんだ」
「そう、だったんですか。すみません。先輩とは知らず、つい手裏剣を」
怪しい物音、気配に対して敏感になることは忍たまとして正しい行いである。それが例え先輩相手であろうとだ。
上級生としては逆に下級生の打った手裏剣を受けてしまっては「鍛錬不足だ!」と怒声がもれなく飛んでくる。
「注意を払うことは大切だ。……が、寝不足の状態が続いているのは感心しない。最近ちゃんと寝ていないだろう?」
紅蓮は三郎次の目元をすっと捉えた。近くで見なければわからない程度の薄い隈。その小さな顔を両手で包み込み、窪みを親指でなぞる。齢十一の子どもが隈を色濃くするにはまだ早すぎる。これには寛容の態度は見せられぬと顔を顰めた。
ところで、不意に頬を挟まれた三郎次はどきまぎとしていた。図星を指されて返す言い訳が上手く見つけられないようである。
「どうしてわかった、とでも言いたそうだな。目元に隈ができてるぞ。三郎次のことだから、熱心に勉学と鍛錬に励んでいるんだろうが……。不意打ちとはいえ、私が姿を見せた時にかなり驚いていただろ。寝不足で神経が過敏になっている証拠だ」
「そ、それは」
「神経が昂ったままでいると思わぬ怪我や失敗を誘う。疲れている時はしっかり休息を取った方が良い。……まあ、文次郎のようにギンギンな忍者を目指したいというのなら止めはしない」
自分の後輩が忍術学園一ギンギンに忍者している文次郎を目標とするのは、委員会の先輩としてどこかうら悲しくもある。
少し寂しげな表情を見せた紅蓮に対し、三郎次は真顔で頭を横に何度も振った。
「ぼくが目指す理想の忍者像は葉月先輩です。潮江先輩じゃありません!」
力強く、目一杯に否定を口にする三郎次。
これ以上の徹夜は暗に勧めない。それが上手く伝わったようで何よりだ。紅蓮は優しく笑いかけた。
「有難う」
「でも、どうしておわかりになったんですか」
「ああ、委員会活動中も少しぴりぴりとしていたからな」
「す、すみませんでした。……火薬の取り扱いは危険だし、集中力が落ちていたから気をつけなければいけないと思って」
「そうだろうと思ったよ。三郎次、ちょっと私に付き合ってくれないか」
誰よりも敬愛する先輩の誘いだ。断れるはずもない。三郎次は二つ返事で答えた。
場所を訊ねても「私のお気に入りの場所だ」と楽しげに笑う紅蓮の後をついていく。
◇
薫風が駆け抜けた。
青々とした草丈が揺れる。
木々の葉が擦れる音。鳥の声。忍術学園の裏手に位置するこの場所。少し離れているためか、人の声は聞こえてこない。
耳を澄まし、風の流れ具合によっては川の流れる音も聞こえる。そう言って紅蓮は草むらに寝転んだ。この辺りに生える草は柔らかく、丁度良い草布団となる。
三郎次は仰向けに寝転ぶその隣に腰を下ろした。見上げた空の明るさが眩しく、目を細めた。
「学園の近くにこんな場所があるなんて知りませんでした」
「風が吹き抜けて気持ちが良いだろ。暑くも寒くもなく、木陰もある。快適な昼寝場所なんだ」
「ここが先輩のお気に入りの場所なんですか」
「ああ。秘密の場所だよ。二年の時に見つけたんだ。友人が迷子になってしまって、それで探し回って辿り着いた所がここというわけだ。こっちは必死に探していたというのに、そいつは慌てた様子がひとつもなくて」
あれは町の見学から帰る途中の出来事であった。は組で揃って歩いていたはずが、道中で一人逸れた者がいた。特段、迷子癖がある者ではなかった。それが余計に不安を助長させ、紅蓮は伊作、留三郎と共に手分けして周囲を探し回ったのだ。
山林を抜け、学園にほど近い場所で叫んだ声に呼応した友の声。聞こえた方角へ駆けていった先に、この開けた場所が紅蓮の眼前に広がった。
「ね、いい場所見つけたよ。ここなら手裏剣の的にできる丁度良い木もあるし、草布団がふかふかでお昼寝もできる」当の迷子はのほほんと、そう笑っていた。あの時の光景が紅蓮の瞼に焼き付いていたせいか、鮮明に思い出すことができた。
頭上でざわめく新緑の葉。手裏剣の的にしていた木の背丈は少し伸びて、今も成長を続けていた。
「三郎次もこの場所を使っていいぞ。ゆっくり休むもよし、鍛錬するもよし。今やこの場所を知るのは私だけだ。邪魔も入りにくいだろう」
「あ、はい。ありがとう、ございます」
その言葉に妙な引っ掛かりを感じた三郎次。しかしこの時は睡眠負債が蓄積していたばかりに、真実を確かめることもできない。
片膝を抱え、ぼんやりと景色を眺めていた。
「三郎次」
「はい」
「あまり無理はするんじゃないぞ」
未熟な自分に比べ、四つ上の先輩は全てを見透かしていた。
授業の予習、復習、課題をこなし自主鍛錬にも励む。その全てを行うには時間が足りない。限られた時間を確保するべく、夜遅くまで活動してしまう。指摘されたように悪循環に陥ることは承知の上であった。それでも三郎次はそうしなければならない理由がひとつある。
忍術学園で優秀な生徒が集まるのは"い組"。
周囲の友人と切磋琢磨して日々勉学に励む環境はどの組も変わらずではあるが、い組は特にその意識が強い。とりわけ真面目な三郎次は上位を常に目指していた。
ただ、それが重荷となることもしばしばある。
「い組の生徒なのに」少しでも成績が下がればそう陰口を叩かれそうだと。周囲の目が、圧力がその小さな背に圧し掛かる。
は組の生徒が羨ましい。そう思ったのはこれが初めてではない。
「先輩。は組で良かったと思うこと、ありますか」
紅蓮にそう問いかけた横顔に浮かぶのは苦悶の色。眉根を顰めた三郎次に「ああ、そういうことか」と視線を逸らした。
「は組が良かったのか、三郎次は」
「いえ、そういうわけじゃ。というか、先輩は優秀なのになんでい組じゃないんですか?」
「なんで、と言われてもなあ。先方の事情もあっただろうし。例えどの組だったとしても、特に拘りは感じていない。まあ、友人関係は少しだけ変わっていたかもしれないな」
己の事情が事情なだけに、他の組が良かったと思うことはなかった気もする。六年前の思い出を振り返り、そこで出会った友人たちの顔を紅蓮は思い浮かべた。は組に属したからこそ、得られた友情が確かにある。
「い組だから一所懸命にならなければならない。そう考えているんだろう、三郎次は」
紅蓮は寝転がったまま三郎次の方を再度見上げた。逆光で暗がりになった表情は読めない、僅かに動揺が見え隠れする程度でしか。
「い組だからとか、は組だからとか。一年や二年は気にすることが多いかもしれんな。だが、学年が上がるにつれて無頓着になるぞ」
「……そういうものなんですか」
「ああ。どこに属していようと、同じ学び舎の仲間だからな」
「同じ学び舎の仲間」
ゆっくりと言葉を繰り返した三郎次に紅蓮は静かに笑ってみせた。
「真面目に悩むのも三郎次の良い所だ。だが、気負ってばかりいては疲れ果ててしまう。少しは肩の力を抜いて、三郎次は三郎次らしく生きればいい」
微かな「はい」という声は風にかき消された。
目元を袂で拭う仕草を紅蓮は見て見ぬふりをして、組んだ両腕に後頭部を乗せ目を瞑る。
「さてと、私はひと眠りするとしよう。日が沈む前には学園に戻るから、それまで三郎次もゆっくり過ごすといい」
目を瞑った紅蓮の様子を三郎次は少しの間眺めていた。規則正しい呼吸、穏やかな表情。これが狸寝入りかどうかはどうも判断がつかない。
この際、聞こえていようといまいと関係はないだろう。
「先輩、ありがとうございます」
そう呟いた後、三郎次は自身も仰向けになって目を瞑る。
隣で眠る紅蓮の口元が弧を描いたことを、知ることはない。
忍術学園の正門に荷車が到着した。
荷車には大量の壺。しっかりと蓋で覆われた壺の中身は黒色火薬である。
納品された壺を火薬委員である紅蓮、兵助と顧問の半助が荷車に移し替える。数が多く、重量もあるのでこれだけで一仕事であった。
全てを移し替えた後には額に薄っすらと汗が滲んだ。
しかし、これで終わりではない。次はこの荷車を焔硝蔵まで運ばなければならないのだ。
重い荷車を火薬委員二人掛かりで引くも、足腰にぐっと力を入れなければ動かない。無闇矢鱈に全力を注ぎ込めばバランスを崩した荷車から火薬壺が落下してしまう。
二人は顧問の指示に従い、慎重に歩を進めていった。
「それにしても、戦でも始めるのかってぐらいの量、ですね。うちの在庫の半分くらいありますよ、これ」
「確かに、な。土井先生。もしや、学園長先生は何か有事を見越しておいでなのでしょうか」
近々始まる戦の情報を得たのか。そうなれば火薬の匂いを嗅ぎ付けた曲者が増える。
今以上に警戒を強め、焔硝蔵の守りを固めなければ。言葉にせずとも同じ考えに至った紅蓮と兵助は互いに視線を交わせ、頷く。
しかし、それは杞憂に終わった。
「いやぁ、実はだな」
歩を進めながら振り返った半助の顔――非常に気まずそうな――にその答えは書いていた。
焔硝蔵の前で待つ火薬委員は荷車と火薬壺の数を見るなり、げんなりとしてしまった。
「先日の雨で在庫の火薬が殆ど湿ってしまったんだ」
「たかが雨で湿ったんですか。そこまで強い雨ではなかったはずですが」
「屋根に穴が空いていたんだ。そこから雨漏りして、周囲の火薬が使い物にならなくなってしまった」
三日前に降った雨は昼から夜にかけてしとしと降り続いた。雨足は然程強くなく、水もすぐ捌ける程度であったのだが。それに火薬壺には布で覆いをしている。雨漏りといえど直に雨水が入り込まなければ。火薬委員一同そう考えたのだが、どうやら顧問の顔を見る限りそれが当たってしまったようだ。
「何故か蓋の開いている壺が幾つもあってな。雨水が混入してしまったんだ」
半助は書類を脇に抱え、額に手を当て項垂れた。
火薬の在庫、蔵内の点検及び外壁の目視調査も行ってはいたのだが。目につかない小さな綻びが気づかぬうちに大きくなってしまったのだろう。
彼らにとって幸いなことは火薬補充の予算が特別に予備費として認められたことだ。なにせ火薬委員会の今年度予算は零。自費で賄うにも限度がある。
「そういうわけで、今日は湿気て駄目になった火薬の入れ替えを行う。事前に取り替える壺を確認しておいたから、この表を元に作業をしてくれ。あとは雨漏りの箇所も確認してくれると助かる」
「わかりました」
半助は束ねた資料を委員長の紅蓮に手渡した後「私は職員会議があるから行かなくては。すまないが、先にお前たちで始めていてくれ」とそそくさと退場してしまった。
束ねられた資料をぺらりと捲る。その数に紅蓮は口の端を引き攣らせた。脇からそれを覗き見た兵助も「これ相当な量ですね」と同様に顔を曇らせる。
「やるしかあるまい。よし、先ずは湿った火薬壺を外に運び出すぞ。作業は二手に分かれて行う。伊助と兵助、タカ丸と三郎次で組んでくれ。水分を含んだ火薬壺は特に重量を増している。一人で運ぼうとせず協力するように。私は先に雨漏りの箇所を確認してくる」
「はーい」
「タカ丸、三郎次。錠前を外して扉を開けてくれ」
「わっかりましたー」
「はい」
焔硝蔵の鍵をタカ丸に託した紅蓮は荷車に目を向ける。周囲に曲者の気配はない。入れ替えとはいえ、学園の火薬を補填するという情報がどこかで漏れている可能性も無きにしも非ずだ。
紅蓮は細心の注意を払い、兵助にその役目を渡した後に焔硝蔵の外壁をぐるりと見て回った。石造りの壁に異常は特に見られなかった。
横殴りの風雨で漏れた様子ではなさそうだ。そうなると、雨漏りは完全に天井からのものとなる。
本日は晴天なり。どこまでも青く澄み渡った空が広がっている。しかし、天気は気まぐれ。いつ雨が降るのかわからない。補填した火薬が二度も湿気たとなれば、次からは予算を工面されないであろう。いくら授業で使うものとて、他の委員会から野次が飛んでくる。
早急に雨漏りの箇所を調べ、用具委員会へ修補の依頼を出さなければ。食堂の食券二枚で請け負ってくれるだろうか。竹馬の友とはいえ、無償で頼むのは気が引けるというもの。留三郎への御礼を考えながら紅蓮は焔硝蔵に足を踏み入れた。
焔硝蔵の内部は紅蓮が思っていた以上に酷い有様であった。
雨上がりとはまた違う、生乾きの湿気た嫌な臭いが充満している。鼻を覆う程ではないが、気分は良くない。
後輩が火薬壺を運び出す傍らで紅蓮は雨漏りの箇所を調べていた。雨漏りの痕跡である染みを調べ、指を折って数えていく。
「ひい、ふう、み……穴ぼこだらけじゃないか」
「葉月先輩! ここにも雨漏りの痕があります」
「こっちにもあります」
伊助と三郎次が滴り落ちた雨の痕跡を見つけては委員長へ報告。その数は遂に片手を折り返してしまった。顧問が頭を抱えたくなる気持ちがわかる。
恨めしげに紅蓮は天井を見上げた。
「大雨が降っていたらもっと悲惨な事になっていたな」
「雨足が弱くて助かりましたね。流石に焔硝蔵全ての火薬を入れ替えるのは骨が折れますから」
「全くだ。私の方から用具委員会に修補の依頼を至急頼んでおく。また雨漏りの箇所を見つけたら私に教えてくれ」
「紅蓮くん。これも雨漏りだと思うんだけど」
「そうだな。……食券三枚で手を打ってくれればいいんだが。いや、こっちの話だ。タカ丸、伊助。それを運び終えたら次はこっちを頼む」
顧問が拵えた表を元に火薬委員たちは順繰りに壺を外へ運び出していった。
時折、足が縺れて危うく壺を割りそうになる場面も見受けられたが、なんとか事なきを得る。転びそうになった伊助に対して三郎次から「ぼんやりしてるからだぞ」と普段よりもきつめの一言も飛ぶ。火薬の扱いは確かに慎重でなければならないのだが、今日はどこか一段とピリピリしているようであった。
「三郎次」
何となしに声を掛けてみたが一度では反応が無く、二度目の呼び掛けで弾いたように三郎次は返事をした。
「は、はい」
「どこか調子でも悪いのか?」
「い、いえ。大丈夫です。それよりも先輩、この棚の上も雨漏りしていたようです」
「……これで十五、か」
途方に暮れたように紅蓮は天井を見上げ、呟いた。
いよいよもって食券では事足りなくなってきた。これはもう留三郎の願いを訊いた方が早い。用具委員長への要望をどう伝えるか。それを考えつつも紅蓮は三郎次の異変を気にしていた。
火薬委員総出で湿気た火薬壺を全て焔硝蔵の外に運び出した後、今度は新しい火薬壺を棚に納めていく。半助も後に加わったが、焔硝蔵の扉を施錠した時には一刻ばかりが過ぎていた。
◇
委員会活動から解放された火薬委員たちはそれぞれの場所へ散った。伊助と三郎次は自学年の忍たま長屋へ、タカ丸は図書室に。兵助は食堂のおばちゃんに呼ばれていたと急いだ。
紅蓮は用具倉庫で作業中の留三郎を訪ね、先の件を話した。
「雨漏りの箇所多すぎるだろ」
「この間、風が強い日があったからな。その時に飛ばされてきたもので屋根に穴が空いたか」
「何にせよ、お前も不運だな」
他人事のように笑い飛ばされる始末であった。それに加え、対価を提示するも彼は「俺とお前の仲だろ。気にすんな」と無償で快く引き受けてくれた。とはいえ、タダ働きさせるのは腑に落ちない。今度町へ出掛けた時にでも何か奢ろう。級友への礼はそれで良いだろう。
次に紅蓮は後輩の顔を思い浮かべた。委員会活動が思いの他長引き、拘束時間が長かったことを申し訳なく思う。
実技で身体を動かすのとはまた違う重労働であった。解散前の後輩たちは皆へとへとになっていたのだ。
頑張った後輩たちに何かご褒美を。そう紅蓮は考えていた。
全員が喜びそうなもの。紅蓮の頭に真っ先に豆腐の影が浮かぶ。その隣に満面の笑みを浮かべる兵助が添えられた。
頭を振りその残像を振り払った。自分もすっかり後輩の豆腐地獄に毒されてしまっている。それもそのはず。兵助は事ある毎に「御礼に豆腐を」「頑張ったご褒美に豆腐料理を振る舞おう」「これが終われば美味しいお豆腐が待ってるぞ!」と口にするものだから。
それを紅蓮までが今日の頑張りに豆腐などと発言しようものなら「委員長まで豆腐推しになったんですか」と他の後輩に嘆かれかねない。それだけは避けたいところだ。
都合が合えば皆で町へ出掛けようか。美味しいと評判のうどん屋に行くのも良いかもしれない。
紅蓮は後輩たちの笑顔を思い浮かべ、ひとり目を細めた。
用具倉庫からの帰り道。ふらりと立ち寄った場所で紅蓮は後輩の姿を見つけた。
図書室から出てきた三郎次。何か考え事をしているようで、紅蓮の気配にまだ気づいていない。
先刻の様子も気になっていたので、これは好機と捉えた紅蓮は瞬時に茂みへ身を隠し、三郎次を待つ。廊下伝いに歩く後輩が近づいてきたところで「三郎次」と名を呼ぶ。
呼び声を拾い上げた三郎次はぴたりと足を止め、周囲をきょろきょろと見渡した。
周囲に注意を払ってはみたが、姿どころか気配すら感じられない。
その場で声の出所を探る三郎次の目つきは真剣そのもの。どこかピリピリとした空気を纏っていた。
がさり。
直ぐ側の茂みが僅かに揺れた。
刹那、その茂み目掛けて三郎次は四方手裏剣を打ち込んだ。
しかし、手応えはなかった。それもそのはず、そこに忍んでいた紅蓮はとうに居場所を変えていたのだ。三郎次の真後ろに立ち、今一度彼の名を呼ぶ。
「こっちだ、三郎次」
意識を向けていた方とは真逆から呼ばれ、ばっと振り向いた紅蓮の後輩はそれはもう驚いていた。腰を抜かしそうな程と言えば大袈裟かもしれないが、肩を震わせて飛び上がっていた。
「葉月先輩っ!?」
「驚かせて悪かった。図書室から出てくるのを見かけたんだ」
「そう、だったんですか。すみません。先輩とは知らず、つい手裏剣を」
怪しい物音、気配に対して敏感になることは忍たまとして正しい行いである。それが例え先輩相手であろうとだ。
上級生としては逆に下級生の打った手裏剣を受けてしまっては「鍛錬不足だ!」と怒声がもれなく飛んでくる。
「注意を払うことは大切だ。……が、寝不足の状態が続いているのは感心しない。最近ちゃんと寝ていないだろう?」
紅蓮は三郎次の目元をすっと捉えた。近くで見なければわからない程度の薄い隈。その小さな顔を両手で包み込み、窪みを親指でなぞる。齢十一の子どもが隈を色濃くするにはまだ早すぎる。これには寛容の態度は見せられぬと顔を顰めた。
ところで、不意に頬を挟まれた三郎次はどきまぎとしていた。図星を指されて返す言い訳が上手く見つけられないようである。
「どうしてわかった、とでも言いたそうだな。目元に隈ができてるぞ。三郎次のことだから、熱心に勉学と鍛錬に励んでいるんだろうが……。不意打ちとはいえ、私が姿を見せた時にかなり驚いていただろ。寝不足で神経が過敏になっている証拠だ」
「そ、それは」
「神経が昂ったままでいると思わぬ怪我や失敗を誘う。疲れている時はしっかり休息を取った方が良い。……まあ、文次郎のようにギンギンな忍者を目指したいというのなら止めはしない」
自分の後輩が忍術学園一ギンギンに忍者している文次郎を目標とするのは、委員会の先輩としてどこかうら悲しくもある。
少し寂しげな表情を見せた紅蓮に対し、三郎次は真顔で頭を横に何度も振った。
「ぼくが目指す理想の忍者像は葉月先輩です。潮江先輩じゃありません!」
力強く、目一杯に否定を口にする三郎次。
これ以上の徹夜は暗に勧めない。それが上手く伝わったようで何よりだ。紅蓮は優しく笑いかけた。
「有難う」
「でも、どうしておわかりになったんですか」
「ああ、委員会活動中も少しぴりぴりとしていたからな」
「す、すみませんでした。……火薬の取り扱いは危険だし、集中力が落ちていたから気をつけなければいけないと思って」
「そうだろうと思ったよ。三郎次、ちょっと私に付き合ってくれないか」
誰よりも敬愛する先輩の誘いだ。断れるはずもない。三郎次は二つ返事で答えた。
場所を訊ねても「私のお気に入りの場所だ」と楽しげに笑う紅蓮の後をついていく。
◇
薫風が駆け抜けた。
青々とした草丈が揺れる。
木々の葉が擦れる音。鳥の声。忍術学園の裏手に位置するこの場所。少し離れているためか、人の声は聞こえてこない。
耳を澄まし、風の流れ具合によっては川の流れる音も聞こえる。そう言って紅蓮は草むらに寝転んだ。この辺りに生える草は柔らかく、丁度良い草布団となる。
三郎次は仰向けに寝転ぶその隣に腰を下ろした。見上げた空の明るさが眩しく、目を細めた。
「学園の近くにこんな場所があるなんて知りませんでした」
「風が吹き抜けて気持ちが良いだろ。暑くも寒くもなく、木陰もある。快適な昼寝場所なんだ」
「ここが先輩のお気に入りの場所なんですか」
「ああ。秘密の場所だよ。二年の時に見つけたんだ。友人が迷子になってしまって、それで探し回って辿り着いた所がここというわけだ。こっちは必死に探していたというのに、そいつは慌てた様子がひとつもなくて」
あれは町の見学から帰る途中の出来事であった。は組で揃って歩いていたはずが、道中で一人逸れた者がいた。特段、迷子癖がある者ではなかった。それが余計に不安を助長させ、紅蓮は伊作、留三郎と共に手分けして周囲を探し回ったのだ。
山林を抜け、学園にほど近い場所で叫んだ声に呼応した友の声。聞こえた方角へ駆けていった先に、この開けた場所が紅蓮の眼前に広がった。
「ね、いい場所見つけたよ。ここなら手裏剣の的にできる丁度良い木もあるし、草布団がふかふかでお昼寝もできる」当の迷子はのほほんと、そう笑っていた。あの時の光景が紅蓮の瞼に焼き付いていたせいか、鮮明に思い出すことができた。
頭上でざわめく新緑の葉。手裏剣の的にしていた木の背丈は少し伸びて、今も成長を続けていた。
「三郎次もこの場所を使っていいぞ。ゆっくり休むもよし、鍛錬するもよし。今やこの場所を知るのは私だけだ。邪魔も入りにくいだろう」
「あ、はい。ありがとう、ございます」
その言葉に妙な引っ掛かりを感じた三郎次。しかしこの時は睡眠負債が蓄積していたばかりに、真実を確かめることもできない。
片膝を抱え、ぼんやりと景色を眺めていた。
「三郎次」
「はい」
「あまり無理はするんじゃないぞ」
未熟な自分に比べ、四つ上の先輩は全てを見透かしていた。
授業の予習、復習、課題をこなし自主鍛錬にも励む。その全てを行うには時間が足りない。限られた時間を確保するべく、夜遅くまで活動してしまう。指摘されたように悪循環に陥ることは承知の上であった。それでも三郎次はそうしなければならない理由がひとつある。
忍術学園で優秀な生徒が集まるのは"い組"。
周囲の友人と切磋琢磨して日々勉学に励む環境はどの組も変わらずではあるが、い組は特にその意識が強い。とりわけ真面目な三郎次は上位を常に目指していた。
ただ、それが重荷となることもしばしばある。
「い組の生徒なのに」少しでも成績が下がればそう陰口を叩かれそうだと。周囲の目が、圧力がその小さな背に圧し掛かる。
は組の生徒が羨ましい。そう思ったのはこれが初めてではない。
「先輩。は組で良かったと思うこと、ありますか」
紅蓮にそう問いかけた横顔に浮かぶのは苦悶の色。眉根を顰めた三郎次に「ああ、そういうことか」と視線を逸らした。
「は組が良かったのか、三郎次は」
「いえ、そういうわけじゃ。というか、先輩は優秀なのになんでい組じゃないんですか?」
「なんで、と言われてもなあ。先方の事情もあっただろうし。例えどの組だったとしても、特に拘りは感じていない。まあ、友人関係は少しだけ変わっていたかもしれないな」
己の事情が事情なだけに、他の組が良かったと思うことはなかった気もする。六年前の思い出を振り返り、そこで出会った友人たちの顔を紅蓮は思い浮かべた。は組に属したからこそ、得られた友情が確かにある。
「い組だから一所懸命にならなければならない。そう考えているんだろう、三郎次は」
紅蓮は寝転がったまま三郎次の方を再度見上げた。逆光で暗がりになった表情は読めない、僅かに動揺が見え隠れする程度でしか。
「い組だからとか、は組だからとか。一年や二年は気にすることが多いかもしれんな。だが、学年が上がるにつれて無頓着になるぞ」
「……そういうものなんですか」
「ああ。どこに属していようと、同じ学び舎の仲間だからな」
「同じ学び舎の仲間」
ゆっくりと言葉を繰り返した三郎次に紅蓮は静かに笑ってみせた。
「真面目に悩むのも三郎次の良い所だ。だが、気負ってばかりいては疲れ果ててしまう。少しは肩の力を抜いて、三郎次は三郎次らしく生きればいい」
微かな「はい」という声は風にかき消された。
目元を袂で拭う仕草を紅蓮は見て見ぬふりをして、組んだ両腕に後頭部を乗せ目を瞑る。
「さてと、私はひと眠りするとしよう。日が沈む前には学園に戻るから、それまで三郎次もゆっくり過ごすといい」
目を瞑った紅蓮の様子を三郎次は少しの間眺めていた。規則正しい呼吸、穏やかな表情。これが狸寝入りかどうかはどうも判断がつかない。
この際、聞こえていようといまいと関係はないだろう。
「先輩、ありがとうございます」
そう呟いた後、三郎次は自身も仰向けになって目を瞑る。
隣で眠る紅蓮の口元が弧を描いたことを、知ることはない。