番外編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
待ち人待たず、迎えに行くが吉
「葉月先輩と立花先輩がまだ戻ってこない」
それは学園内で両者の姿を見かけないと噂が立ち始めた頃であった。
三日前、卒業試験に赴く紅蓮を見送った三郎次は二人の身を案じ、今日で四日目を迎える。しかし、未だ学園内で二人の姿を何処にも見掛けない。
その不安言を聞いた同室の左近と久作は密かに息を呑む。
六年生ともあろう忍たまが、忍務を滞りなく遂行できていない。それだけ難しく、厳しい現実だと突き付けられた。
二年生の忍たまは三年次への進級試験を済ませ、い組は自習となっていた。長屋の自室にいる間も三郎次の気はそぞろであり、理由を訊ねたのがそれだった。
三郎次はやおら立ち上がり、拳を握りしめる。
その表情は既に決意が固められているものであった。
「ぼく、外出許可を貰ってくる」
「三郎次?」
「先輩方を探しに行く」
「ちょっと待てよ。大丈夫だって、六年生なんだぞ」
確かに心配ではある。しかし、下級生の自分たちがどうこうできる問題なのだろうか。
煮え切らない二人の態度に三郎次は静かに声を荒げた。
「お前ら、もし自分の先輩が同じ様に消息不明で帰ってこなくても同じこと言えるのか」
その言葉に二人はハッとした。
世話を焼いてくれた自分の先輩がもし何日も戻らずにいたとしたら。友人の様に居ても立っても居られないであろう。自分たちも生存の可能性に希望を抱き、捜しに行く。
左近、久作は再び互いに顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。そこにあった迷いは消えていた。
「三郎次、私も行きます」
しかし、返事が聞こえてきたのは部屋の外からであった。
二年は組の羽丹羽石人、時友四郎兵衛が顔を覗かせていた。話は既に聞いたと互いに頷き合う。
「ぼくも行くよ、三郎次」
「石人、四郎兵衛」
「忍術学園に編入して日が浅い私にも優しく接してくださった葉月先輩。心配です」
紅蓮は同じ委員会に属することになった石人のことも可愛がっていた。
先日、石人は周囲に迷惑を掛けてしまう程の爆発を起こしてしまった。火薬の知識はあれど、調合が上手くいかなかったのだ。それを火薬委員会委員長は叱るだけではなく、しっかりと問題点を指摘したうえで指導を行った。
優しいその先輩を案じる。石人は胸に手を当て、今一度決心を固めたように笑ってみせた。
「これは出遅れちゃったな」と肩を竦めた左近は久作と共に立ち上がった。
「同じい組のぼくたちが行かない、なんて言うわけないだろ」
「止めたって独りで行く気満々みたいだし。捜索隊は数が多い方がいいに決まってる」
「左近、久作」
「みんなで探しに行きましょう、先輩たちを」
◇
「斯々然々で外出許可をいただけませんか」
三郎次を筆頭に五人は職員室を訪れた。そこは二年い組の担当教師ではない。
彼らは土井半助の前に正座をしてずらりと並んだ。そして外出許可を得る理由を明確に話す。
これには半助も呆気らかんと二年生の彼らを眺めるしかなく。採点用の赤筆を静かに置き、居住まいを正した。腕を組み、どうしたものかと頭を悩ませながら口を開く。目の前の顔ぶれは真剣な目で捉えてくるので、余計に悩むというもの。
「ちょっと落ち着きなさい。私はお前たちの担当教師じゃないんだぞ」
「それはわかっています。でも、先生は火薬委員会の顧問です。葉月先輩も火薬委員会の委員長ではありませんか」
「それはそうだが」
「私も火薬委員会の顧問土井先生から外出許可を頂きたく思い、馳せ参じました」
「ぼくたちはそのついでに貰おうと思ってまーす」
「左近に久作、四郎兵衛まで……うーん困ったなぁ」
一同揃って許可を得に来たという話もだが、その外出許可理由に半助は賛同し兼ねていた。
卒業試験に赴いた六年生が期日通りに帰ってこない。心配する理由は十二分にわかる。
「先生方も知っているはずですよね。先輩方が未だ戻らずにいることを」
「土井先生は心配じゃないんですか」
「心配に決まっている」
半助の口から本音が遂に漏れた。
教師が生徒を不安にさせてはいけない。だが、未だ学園に戻らない二人のことを酷く案じていた。
教師が動けない事情は多岐に渡る。それをまだ若い彼らに理解させるのも難しい話だ。
「土井先生、話は聞きました」
職員室の戸がからりと開いた。
戸口に立つ二年い組の教科担当である野村雄三はそう言いながら、二枚の紙を取り出す。そこにはい組の生徒の名前が連ねられていた。
「野村先生」
「私がい組の外出許可を出します。は組の分も頂いてきました」
「ちょっと話が早すぎやしませんか」
今さっき出たばかりの話だというのに、この迅速な対応に半助も困惑気味。
雄三は表情を変えずに眼鏡を中指で押し上げ、教え子たちの顔を見た。
彼らはこれで心置きなく外出できると喜びの色を顔に浮かべている。
「卒業試験とはいえ、二人は大事な生徒ですからね。彼らを助けたいという気持ちを汲みました」
「うーん。ですが、二年生だけで行かせるには不安が残ります。火薬委員会の兵助とタカ丸は実習でいないし」
「土井先生、我々が同行します」
今日は随分と千客万来の日である。
生徒が自分を頼って訪れることは教師冥利に尽きる。ただ、内容が内容なだけに素直に慶べないところではあるが。
戸口に立つ松葉色の制服。まさに今話題の中心となる人間と親しい者――伊作、留三郎は「話は聞かせてもらった」と後輩たちに笑いかけた。
「伊作、それに留三郎」
「紅蓮と仙蔵が未だ戻らないことに私たちも心配しています。それ以上に紅蓮とは隣のよしみです。我々が二年生と同行するならば、構いませんよね」
「お前たち」
上級生、それも六年生が一緒であれば。半助の不安が少しずつ解れていく。
あと一押しだ。二年生一同、伊作と留三郎に視線を送る。その熱意に応えるべく、伊作はしっかりと頷いた。
「窮地に陥っているならば助けたい。それは彼らも同じ思いです」
伊作の声は真っ直ぐに半助へと届いた。その握りしめられた拳が僅かに震えていたことに気づいたのは留三郎のみ。
この場で一番不安と恐怖を抱いているのは彼だ。友を喪うかもしれないという恐怖で首をぎりぎりと絞められている。
室内に半助の溜息が零れた。
「お前たちの熱意に負けたよ。くれぐれも無茶をしないように。伊作、留三郎。二年生たちを頼んだぞ」
「はい」
「お任せください。みんな、着替えたら正門で落ち合おう」
二人は急ぎ足でその場を離れていった。
雄三はいつの間にか姿を消しており、外出許可証は三郎次と石人の手に握られていた。
二年生たちも長屋で私服に着替えるべく、ぞろぞろと席を立つ。
その最中、半助は一つの杞憂を懸念し、火薬委員の二人を呼び止めた。
それぞれ顔をじっと見、重々しく口を開く。
「三郎次、石人。火薬委員であるお前たちに頼みたいことがひとつある」
「はい」
「なんでしょうか」
「伊助にこの件は黙っておくこと。それだけは頼む」
これは意外な命であった。
伊助も同じ火薬委員なのだ。連れていきなさいという指示かと思いきや。三郎次と石人の顔には「どうして」と疑問符が浮かぶ。
半助の顔つきが途端に険しいものへと変わる。
「な、何故ですか。伊助も同じ火薬委員なのに」
「何故なら」
「何故なら?」
「伊助に声を掛けると、もれなく一年は組のよい子たちがわらわらとついていく。そうなると、補習が追い付かなくなるんだああ」
半助は実に悲痛な叫びを上げ、頭を抱えた。次に腹部の差し込みを抑え、前屈みに蹲る。持病の胃痛がキリキリと半助を襲った。目の前にはバツが沢山ついた答案用紙。あれもこれも教えたはずだと呪詛の様に呟き始める。
「ど、土井先生お気を確かに」
「うう……進級試験がかかっているんだ。今必死に穴埋めの補習授業を行っているところで。……そういうことだ。お前たちだけで行ってきなさい」
「わかりました。伊助の分までしっかり行ってきます」
「必ず葉月先輩、立花先輩と共に戻って参ります」
「行こう、石人。先輩たちを待たせてしまう」
「はい」
慌ただしく職員室を去る間際に「失礼しました!」という声を残し、職員室に静寂が訪れる。
遠くの足音もやがて聞こえなくなる。
ふうとついた溜息は誰にも聞こえることなく消えた。
本音はあの子たちにも行かせたくないのだ。しかし意思を尊重せざるえを得ない。個人的な思い、教師としての思いが拮抗する。
数多の実践を潜り抜けてきた上級生が付き添いとはいえ、不安は払拭できずにいた。
半助は両腕を顔の下で組み合わせ、祈るように目を伏せた。どうか、無事に戻ってきますようにと。
「土井先生」
聞こえた落ち着きのある声。それに半助はハッとなり、顔を上げた。
戸口には同じ黒色の装束を纏う教師。六年は組の教科担任であり、葉月紅蓮の担任だ。
その手には折り畳まれた文が一通握られている。
「こちらの文が仙蔵から早馬で届きました」
「内容は」
半助は身を乗り出し、文机に手をがたりとついた。
いよいよもって、事の次第では我々教師陣も早急に手を打たねばならない。いっそその方が良い気もしてきた。こう気を揉むのは胃に負担がかかり過ぎる。
六年は組の教師は眉尻を下げ、笑う。安堵した表情で。
「無事ですよ二人とも。忍務も遂行したとのことです」
途端、半助の全身から力が抜けた。
へたりと文机に伏せ「よ、良かったあ」と呟く。生きているのなら何よりだ。
「内容によれば紅蓮は負傷したようですが、自力で歩行可能とのこと。この文が届く夕方には学園に戻れそうだとも書いてあります。詳しい報告はその時にと」
「……そうでしたか。良かった、本当に良かった」
負傷の程度は文からは窺えぬが、自力で歩けるのならば意識は鮮明。四肢も無事であろう。
半助は俄かに熱くなる目頭を指の腹で押さえた。
室内に鼻をすする音が聞こえた。自分のものではない。半助が頭を上げると紅蓮の担任が同じ様に目頭を押さえている。一番に気を揉んでいたのは誰よりもこの人だ。手出ししたくとも、教師が手助けをしたとなれば試験に響いてしまう。
「すみません」
「いえ。……我々にとって大事な教え子たちですからね」
「土井先生。有難うございます。あの子の為に色々と手を焼いてくださって」
「私は何も。そちらこそ、一番歯痒かったでしょうに」
「ええ。あの子の卒業だけは見届けねばと、常々」
紅蓮と仙蔵が戻らぬ一報を聞いた折、半助も動揺を隠しきれずにいた。
遠い未来の話ではない。自分も何れこの先生の様に安否を待つ身となる。それを思うと、胃痛が増しそうであったので考えるのを止めた。
「あ、どうしましょうか。無事とわかったのだから、伊作たちを呼び戻した方が」
「いえ、迎えに行かせてやりましょう。彼らにとって大事な友人、先輩ですからね」
「それもそうですね」
二人の教師が見やる方角には澄んだ青空が広がっていた。
◇
厳寒を迎えた野山は色褪せていた。
冷え込んだ翌朝には霜が降り、酷く冷え込んだ日には平地にも雪が降ることもある。
紅蓮たちが出発した日は暖かく、指先が悴むこともなかった。それに比べて今日は寒い。吐息が白く曇るほどだ。
紅蓮、仙蔵の二人がどのような状況下にいるかは未だわからず。この寒空の下、凍える可能性は十二分にある。場合によっては体温の低下も考えられる。
伊作の頭には最悪の場面ばかりが浮かんでは消えていた。
隣を歩いていたはずの友人は半歩、一歩と先を行く。留三郎はそれを止めずにいた。この状態の伊作に何か言ったとしても逆効果なのを知っている。
そしてそれは逆隣を歩く険しい表情の後輩もまた然り。
六年と二年、体格差ゆえに歩幅はそこまで広がらないが、彼としてはかなりの急ぎ足。
意固地になった友人よりはそれでも忠告を聞くはずだ。
「三郎次。急く気持ちもわからなくはないが、俺たちが心を乱してはいけない」
「はい。わかっています」
真っ直ぐに向いた視線の先は続く道の先を捉えていた。
しっかり者で、頼りになる。後輩や他の二年生を先導する性格だ。留三郎は三郎次のことを紅蓮からそう聞いていた。ちょっぴり意地悪で、負けず嫌い。一言多い所もあるが、と欠点を含め。
「食満先輩。葉月先輩たちは無事ですよね」
それは留三郎に訊ねるというよりかは、まるで自分に言い聞かせているようであった。
「ああ。あいつは不運だが、悪運も強い。ちょっとやそっとのことで諦めるようなやつでもない。誰かさんのように逆上することもなかった。それに、俺たちは約束をした。六年前、俺たちは三人で学園の門をくぐった。だから、出る時も三人一緒だとな。紅蓮は約束を破ったことはただの一度もない」
名だたる道場の跡継ぎ。忍術学園には修行の一環として入学したと聞き、そのせいか一年の頃から腕っぷしは強かった。揉め事やケンカは放っておけない性分でもある。情に厚く、面倒見も良い。
策を練るのも得意で、知識も豊富。機転もきく。刀の扱いが苦手といっていた話が気に掛かるも、実力は学年でも引けを取らない。
竹馬の友といえる相手に絶対的な信頼を留三郎は寄せていた。それは同室の彼も同じはず。それでも拭えない不安は、最早致し方ない。
「だから、大丈夫だ」
これ以上の不安を悟られぬよう、留三郎は笑ってみせ、三郎次の頭をぽんと叩いた。
つい自分の後輩に接するようにしてしまった。怒るだろうかと心配をするも、意外なことに三郎次は一瞬驚いた様な目をしたかと思えば、ぱっと下を向いてしまった。
その姿が自身の尊敬するものと重なったのだ。刹那、目の奥が熱くなり、三郎次は俯いたのである。
二里ばかり歩いただろうか。
峠に続く道をひたすらに七人が歩む。草木がひっそりと枯れるこの季節は物寂しさを煽る。
峠に巣食う山賊退治を課せられたと聞いていた伊作と留三郎は人知れず気を張っていた。
「食満先輩、三郎次。あれを!」
久作の声に驚いた鳥の群れが茂みから飛び立った。
高く澄んだ空に羽ばたく七つの影は直ぐに小さくなって見えなくなる。
道の先に見えた二つの人影。
見慣れた背丈、歩き方。それは彼らが良く知る友の姿。紅蓮と仙蔵であった。
確信を得るや否や伊作は駆け出した。がむしゃらに風を切り、走る。
紅蓮と仙蔵は尋常ではない速さで近づいてくる人影に警戒をしていたが、それが友人の姿とわかると目を丸めた。
「伊作?」
「何故ここに」
「紅蓮、仙蔵っ! 無事で良かっ……!?」
あと一間。その手前で伊作は不運にも小石に躓き、前のめりに転んでしまった。その勢いは衰えることなく、それはもう見事な前滑走を披露することに。
伊作はずざざざっと砂埃を巻き上げて進み、ようやく二人の足元で滑走が止まった。
この一部始終に呆気を取られる二人。初手、曲者の変装かと警戒をしていたが、これは紛う方なき友人だ。懐から手を引いた仙蔵は顔面から倒れ伏す伊作に声を掛けた。
「伊作。おい、大丈夫か」
返事はない。ただその肩は微かに震えていた。
投げ出された伊作の両手。その拳がぐっと握られる。
顔を上げずに押し黙る友を心配し、片膝をつく紅蓮。疼いた左脇腹に顔を歪ませた。三尺手ぬぐいで傷口を止血したとて、まだ塞がるほどの時が経過していない。
「伊作」
「良かった。無事で」
伊作の顔は涙に濡れていた。
ようやく上げてみせた顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、細かい砂粒とで汚れている。顔中擦り傷だらけだ。
怪我をする度に身を案じ、落涙するばかり。今これ以上に顔を濡らす日はあっただろうか。あまりの心苦しさに紅蓮の胸は痛んだ。
「ごめん。心配を掛けた」
こうして素直に謝るのは何年ぶりか。それは遠い日のことのようで、懐かしすら憶えていた。
涙に濡れた友の目につられ、紅蓮の涙腺も緩みそうになる。
紅蓮は目の前で転がったままの友に手を差し伸べた。伊作は手を伸ばし、その手をしっかりと掴む。血の通う、温かい手の平。互いの顔に微笑が浮かぶ。
「それにしても、どうしたんだ伊作。こんな所まで来て」
「二人が戻って来ないからだよ」
「今朝方、文を学園宛てに出した。届いていないのか? 忍務は遂行したが、戻りは遅くなると記したのだが」
「そうなのかい? もしかしたら僕たちが出た後に届いたのかもしれない。……紅蓮、その染みはどう見ても返り血じゃないよね」
嗚呼、この友は目聡い。伊作の鋭い目が紅蓮の左脇腹へと向く。紅蓮は反射的に手で覆い隠し、視線を彷徨わせた。
それは虚しい足掻きとなり、仙蔵が追い打ちをかける。
「山賊の鈍刀に斬られた。応急手当はしたが走ることができん。全く、現を抜かしているからだぞ」
「余計な説明有難う仙蔵。伊作、大丈夫だ。落ち着いてくれ」
「落ち着いていられないよ! 毒は、膿は?!」
「毒は塗られていなかった。その代わり傷は深いがな」
「ああーっもう! 戻ったら消毒と傷の縫合、あとはあれとこれと」
伊作の不安を煽りたいのか、いやこれは面白半分である。仙蔵は至極楽しそうにしていた。伊作が憤怒する様子、それにたじろぐ紅蓮の姿を見たいだけの様子。それを紅蓮は恨めしげに睨んだ。
「伊作、さっき僕たちって言ってたが。まだ誰か来ているのか」
「ああ、留三郎たちと一緒だよ。みんなで探しに来たんだ」
は組の二人ならばわかる。だが、まだ複数形の表現に紅蓮は首を傾げた。文次郎たちも来ているのだろうか。疑問を抱く最中、伊作が「ほら」と後ろを振り返る。
そこには懸命に駆けてくる後輩たちの姿。紅蓮が数日前に見た光景とそれは酷似していた。柳色の髪ともう一つ、相済茶色の髪が揺れる。
「先輩!」
「葉月先輩っ!」
「紅蓮、仙蔵! 無事かっ!」
「三郎次、石人。留三郎……それにお前たちまで」
委員会の後輩、友人だけに留まらない出迎えに紅蓮は驚いていた。
皆、息せき切って駆けつけてくる。四郎兵衛、久作、左近と。ここまで慕われているのかと思うと、くすぐったくもなる。
「お二人とも無事でよかったあ」
「先輩たちが戻らないので、僕たちが、捜索に」
「ご無事で何よりです、先輩」
安堵の笑みを浮かべる後輩たちを横目に、仙蔵は目を細めた。
「お前は慕われているな、紅蓮」
「仙蔵もな」
紅蓮の視線がすっと進行方向に向けられた。学園に続く道程の途中、そこに見えた二つの人影。遠目からでもわかる、その姿――踏み鋤を肩に担いだ綾部喜八郎、その隣を歩く浦風藤内の二人であった。
喜八郎は仙蔵を見るなり「おやまあ」と口を開けた。
「立花先輩はピンピンしていらっしゃる」
「良かったあ。予習の意味はなくなったけど、本当に良かった」
「喜八郎、藤内。お前たち何故。いや、その前に何の予習をしてきた藤内」
「二年生が慌てて出ていくのを見掛けたので、土井先生に聞いたんです。そしたら立花先輩ともあろうお方が、まだ戻ってこないというじゃないですか。四年い組は自習だったので、藤内を引き連れてやってきました」
同じ作法委員会の兵太夫にも声を掛けようとしたが、半助に必死の形相で止められたと喜八郎は淡々と話した。一年は組の姿がない理由を知り、紅蓮は苦笑いをそっと浮かべる。
喜八郎の視線が不意に紅蓮に刺さる。刃物で裂けた着物、その染みで怪我の程度を直ぐに察した。
「葉月先輩はそこまで無事じゃなさそうですね」
「先輩、そんなに酷い怪我を」
「ああ、いや大丈夫だ。走れないだけだから」
「でもそれなら歩くのもお辛いはずですよ。三郎次、私たちで葉月先輩の支えを」
「わかった。石人はそっちを頼む」
紅蓮の背を支えるようにして、両側から添えられる腕。その小さな温もりを払うことなどできるはずもない。
変わらず疼く傷口も、背に触れる温もりも此の世を生きている証拠。
「紅蓮」
「先輩」
「おかえりなさい」
命あっての物種だ。
その言葉が深く、深く紅蓮に沁みるのであった。
「葉月先輩と立花先輩がまだ戻ってこない」
それは学園内で両者の姿を見かけないと噂が立ち始めた頃であった。
三日前、卒業試験に赴く紅蓮を見送った三郎次は二人の身を案じ、今日で四日目を迎える。しかし、未だ学園内で二人の姿を何処にも見掛けない。
その不安言を聞いた同室の左近と久作は密かに息を呑む。
六年生ともあろう忍たまが、忍務を滞りなく遂行できていない。それだけ難しく、厳しい現実だと突き付けられた。
二年生の忍たまは三年次への進級試験を済ませ、い組は自習となっていた。長屋の自室にいる間も三郎次の気はそぞろであり、理由を訊ねたのがそれだった。
三郎次はやおら立ち上がり、拳を握りしめる。
その表情は既に決意が固められているものであった。
「ぼく、外出許可を貰ってくる」
「三郎次?」
「先輩方を探しに行く」
「ちょっと待てよ。大丈夫だって、六年生なんだぞ」
確かに心配ではある。しかし、下級生の自分たちがどうこうできる問題なのだろうか。
煮え切らない二人の態度に三郎次は静かに声を荒げた。
「お前ら、もし自分の先輩が同じ様に消息不明で帰ってこなくても同じこと言えるのか」
その言葉に二人はハッとした。
世話を焼いてくれた自分の先輩がもし何日も戻らずにいたとしたら。友人の様に居ても立っても居られないであろう。自分たちも生存の可能性に希望を抱き、捜しに行く。
左近、久作は再び互いに顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。そこにあった迷いは消えていた。
「三郎次、私も行きます」
しかし、返事が聞こえてきたのは部屋の外からであった。
二年は組の羽丹羽石人、時友四郎兵衛が顔を覗かせていた。話は既に聞いたと互いに頷き合う。
「ぼくも行くよ、三郎次」
「石人、四郎兵衛」
「忍術学園に編入して日が浅い私にも優しく接してくださった葉月先輩。心配です」
紅蓮は同じ委員会に属することになった石人のことも可愛がっていた。
先日、石人は周囲に迷惑を掛けてしまう程の爆発を起こしてしまった。火薬の知識はあれど、調合が上手くいかなかったのだ。それを火薬委員会委員長は叱るだけではなく、しっかりと問題点を指摘したうえで指導を行った。
優しいその先輩を案じる。石人は胸に手を当て、今一度決心を固めたように笑ってみせた。
「これは出遅れちゃったな」と肩を竦めた左近は久作と共に立ち上がった。
「同じい組のぼくたちが行かない、なんて言うわけないだろ」
「止めたって独りで行く気満々みたいだし。捜索隊は数が多い方がいいに決まってる」
「左近、久作」
「みんなで探しに行きましょう、先輩たちを」
◇
「斯々然々で外出許可をいただけませんか」
三郎次を筆頭に五人は職員室を訪れた。そこは二年い組の担当教師ではない。
彼らは土井半助の前に正座をしてずらりと並んだ。そして外出許可を得る理由を明確に話す。
これには半助も呆気らかんと二年生の彼らを眺めるしかなく。採点用の赤筆を静かに置き、居住まいを正した。腕を組み、どうしたものかと頭を悩ませながら口を開く。目の前の顔ぶれは真剣な目で捉えてくるので、余計に悩むというもの。
「ちょっと落ち着きなさい。私はお前たちの担当教師じゃないんだぞ」
「それはわかっています。でも、先生は火薬委員会の顧問です。葉月先輩も火薬委員会の委員長ではありませんか」
「それはそうだが」
「私も火薬委員会の顧問土井先生から外出許可を頂きたく思い、馳せ参じました」
「ぼくたちはそのついでに貰おうと思ってまーす」
「左近に久作、四郎兵衛まで……うーん困ったなぁ」
一同揃って許可を得に来たという話もだが、その外出許可理由に半助は賛同し兼ねていた。
卒業試験に赴いた六年生が期日通りに帰ってこない。心配する理由は十二分にわかる。
「先生方も知っているはずですよね。先輩方が未だ戻らずにいることを」
「土井先生は心配じゃないんですか」
「心配に決まっている」
半助の口から本音が遂に漏れた。
教師が生徒を不安にさせてはいけない。だが、未だ学園に戻らない二人のことを酷く案じていた。
教師が動けない事情は多岐に渡る。それをまだ若い彼らに理解させるのも難しい話だ。
「土井先生、話は聞きました」
職員室の戸がからりと開いた。
戸口に立つ二年い組の教科担当である野村雄三はそう言いながら、二枚の紙を取り出す。そこにはい組の生徒の名前が連ねられていた。
「野村先生」
「私がい組の外出許可を出します。は組の分も頂いてきました」
「ちょっと話が早すぎやしませんか」
今さっき出たばかりの話だというのに、この迅速な対応に半助も困惑気味。
雄三は表情を変えずに眼鏡を中指で押し上げ、教え子たちの顔を見た。
彼らはこれで心置きなく外出できると喜びの色を顔に浮かべている。
「卒業試験とはいえ、二人は大事な生徒ですからね。彼らを助けたいという気持ちを汲みました」
「うーん。ですが、二年生だけで行かせるには不安が残ります。火薬委員会の兵助とタカ丸は実習でいないし」
「土井先生、我々が同行します」
今日は随分と千客万来の日である。
生徒が自分を頼って訪れることは教師冥利に尽きる。ただ、内容が内容なだけに素直に慶べないところではあるが。
戸口に立つ松葉色の制服。まさに今話題の中心となる人間と親しい者――伊作、留三郎は「話は聞かせてもらった」と後輩たちに笑いかけた。
「伊作、それに留三郎」
「紅蓮と仙蔵が未だ戻らないことに私たちも心配しています。それ以上に紅蓮とは隣のよしみです。我々が二年生と同行するならば、構いませんよね」
「お前たち」
上級生、それも六年生が一緒であれば。半助の不安が少しずつ解れていく。
あと一押しだ。二年生一同、伊作と留三郎に視線を送る。その熱意に応えるべく、伊作はしっかりと頷いた。
「窮地に陥っているならば助けたい。それは彼らも同じ思いです」
伊作の声は真っ直ぐに半助へと届いた。その握りしめられた拳が僅かに震えていたことに気づいたのは留三郎のみ。
この場で一番不安と恐怖を抱いているのは彼だ。友を喪うかもしれないという恐怖で首をぎりぎりと絞められている。
室内に半助の溜息が零れた。
「お前たちの熱意に負けたよ。くれぐれも無茶をしないように。伊作、留三郎。二年生たちを頼んだぞ」
「はい」
「お任せください。みんな、着替えたら正門で落ち合おう」
二人は急ぎ足でその場を離れていった。
雄三はいつの間にか姿を消しており、外出許可証は三郎次と石人の手に握られていた。
二年生たちも長屋で私服に着替えるべく、ぞろぞろと席を立つ。
その最中、半助は一つの杞憂を懸念し、火薬委員の二人を呼び止めた。
それぞれ顔をじっと見、重々しく口を開く。
「三郎次、石人。火薬委員であるお前たちに頼みたいことがひとつある」
「はい」
「なんでしょうか」
「伊助にこの件は黙っておくこと。それだけは頼む」
これは意外な命であった。
伊助も同じ火薬委員なのだ。連れていきなさいという指示かと思いきや。三郎次と石人の顔には「どうして」と疑問符が浮かぶ。
半助の顔つきが途端に険しいものへと変わる。
「な、何故ですか。伊助も同じ火薬委員なのに」
「何故なら」
「何故なら?」
「伊助に声を掛けると、もれなく一年は組のよい子たちがわらわらとついていく。そうなると、補習が追い付かなくなるんだああ」
半助は実に悲痛な叫びを上げ、頭を抱えた。次に腹部の差し込みを抑え、前屈みに蹲る。持病の胃痛がキリキリと半助を襲った。目の前にはバツが沢山ついた答案用紙。あれもこれも教えたはずだと呪詛の様に呟き始める。
「ど、土井先生お気を確かに」
「うう……進級試験がかかっているんだ。今必死に穴埋めの補習授業を行っているところで。……そういうことだ。お前たちだけで行ってきなさい」
「わかりました。伊助の分までしっかり行ってきます」
「必ず葉月先輩、立花先輩と共に戻って参ります」
「行こう、石人。先輩たちを待たせてしまう」
「はい」
慌ただしく職員室を去る間際に「失礼しました!」という声を残し、職員室に静寂が訪れる。
遠くの足音もやがて聞こえなくなる。
ふうとついた溜息は誰にも聞こえることなく消えた。
本音はあの子たちにも行かせたくないのだ。しかし意思を尊重せざるえを得ない。個人的な思い、教師としての思いが拮抗する。
数多の実践を潜り抜けてきた上級生が付き添いとはいえ、不安は払拭できずにいた。
半助は両腕を顔の下で組み合わせ、祈るように目を伏せた。どうか、無事に戻ってきますようにと。
「土井先生」
聞こえた落ち着きのある声。それに半助はハッとなり、顔を上げた。
戸口には同じ黒色の装束を纏う教師。六年は組の教科担任であり、葉月紅蓮の担任だ。
その手には折り畳まれた文が一通握られている。
「こちらの文が仙蔵から早馬で届きました」
「内容は」
半助は身を乗り出し、文机に手をがたりとついた。
いよいよもって、事の次第では我々教師陣も早急に手を打たねばならない。いっそその方が良い気もしてきた。こう気を揉むのは胃に負担がかかり過ぎる。
六年は組の教師は眉尻を下げ、笑う。安堵した表情で。
「無事ですよ二人とも。忍務も遂行したとのことです」
途端、半助の全身から力が抜けた。
へたりと文机に伏せ「よ、良かったあ」と呟く。生きているのなら何よりだ。
「内容によれば紅蓮は負傷したようですが、自力で歩行可能とのこと。この文が届く夕方には学園に戻れそうだとも書いてあります。詳しい報告はその時にと」
「……そうでしたか。良かった、本当に良かった」
負傷の程度は文からは窺えぬが、自力で歩けるのならば意識は鮮明。四肢も無事であろう。
半助は俄かに熱くなる目頭を指の腹で押さえた。
室内に鼻をすする音が聞こえた。自分のものではない。半助が頭を上げると紅蓮の担任が同じ様に目頭を押さえている。一番に気を揉んでいたのは誰よりもこの人だ。手出ししたくとも、教師が手助けをしたとなれば試験に響いてしまう。
「すみません」
「いえ。……我々にとって大事な教え子たちですからね」
「土井先生。有難うございます。あの子の為に色々と手を焼いてくださって」
「私は何も。そちらこそ、一番歯痒かったでしょうに」
「ええ。あの子の卒業だけは見届けねばと、常々」
紅蓮と仙蔵が戻らぬ一報を聞いた折、半助も動揺を隠しきれずにいた。
遠い未来の話ではない。自分も何れこの先生の様に安否を待つ身となる。それを思うと、胃痛が増しそうであったので考えるのを止めた。
「あ、どうしましょうか。無事とわかったのだから、伊作たちを呼び戻した方が」
「いえ、迎えに行かせてやりましょう。彼らにとって大事な友人、先輩ですからね」
「それもそうですね」
二人の教師が見やる方角には澄んだ青空が広がっていた。
◇
厳寒を迎えた野山は色褪せていた。
冷え込んだ翌朝には霜が降り、酷く冷え込んだ日には平地にも雪が降ることもある。
紅蓮たちが出発した日は暖かく、指先が悴むこともなかった。それに比べて今日は寒い。吐息が白く曇るほどだ。
紅蓮、仙蔵の二人がどのような状況下にいるかは未だわからず。この寒空の下、凍える可能性は十二分にある。場合によっては体温の低下も考えられる。
伊作の頭には最悪の場面ばかりが浮かんでは消えていた。
隣を歩いていたはずの友人は半歩、一歩と先を行く。留三郎はそれを止めずにいた。この状態の伊作に何か言ったとしても逆効果なのを知っている。
そしてそれは逆隣を歩く険しい表情の後輩もまた然り。
六年と二年、体格差ゆえに歩幅はそこまで広がらないが、彼としてはかなりの急ぎ足。
意固地になった友人よりはそれでも忠告を聞くはずだ。
「三郎次。急く気持ちもわからなくはないが、俺たちが心を乱してはいけない」
「はい。わかっています」
真っ直ぐに向いた視線の先は続く道の先を捉えていた。
しっかり者で、頼りになる。後輩や他の二年生を先導する性格だ。留三郎は三郎次のことを紅蓮からそう聞いていた。ちょっぴり意地悪で、負けず嫌い。一言多い所もあるが、と欠点を含め。
「食満先輩。葉月先輩たちは無事ですよね」
それは留三郎に訊ねるというよりかは、まるで自分に言い聞かせているようであった。
「ああ。あいつは不運だが、悪運も強い。ちょっとやそっとのことで諦めるようなやつでもない。誰かさんのように逆上することもなかった。それに、俺たちは約束をした。六年前、俺たちは三人で学園の門をくぐった。だから、出る時も三人一緒だとな。紅蓮は約束を破ったことはただの一度もない」
名だたる道場の跡継ぎ。忍術学園には修行の一環として入学したと聞き、そのせいか一年の頃から腕っぷしは強かった。揉め事やケンカは放っておけない性分でもある。情に厚く、面倒見も良い。
策を練るのも得意で、知識も豊富。機転もきく。刀の扱いが苦手といっていた話が気に掛かるも、実力は学年でも引けを取らない。
竹馬の友といえる相手に絶対的な信頼を留三郎は寄せていた。それは同室の彼も同じはず。それでも拭えない不安は、最早致し方ない。
「だから、大丈夫だ」
これ以上の不安を悟られぬよう、留三郎は笑ってみせ、三郎次の頭をぽんと叩いた。
つい自分の後輩に接するようにしてしまった。怒るだろうかと心配をするも、意外なことに三郎次は一瞬驚いた様な目をしたかと思えば、ぱっと下を向いてしまった。
その姿が自身の尊敬するものと重なったのだ。刹那、目の奥が熱くなり、三郎次は俯いたのである。
二里ばかり歩いただろうか。
峠に続く道をひたすらに七人が歩む。草木がひっそりと枯れるこの季節は物寂しさを煽る。
峠に巣食う山賊退治を課せられたと聞いていた伊作と留三郎は人知れず気を張っていた。
「食満先輩、三郎次。あれを!」
久作の声に驚いた鳥の群れが茂みから飛び立った。
高く澄んだ空に羽ばたく七つの影は直ぐに小さくなって見えなくなる。
道の先に見えた二つの人影。
見慣れた背丈、歩き方。それは彼らが良く知る友の姿。紅蓮と仙蔵であった。
確信を得るや否や伊作は駆け出した。がむしゃらに風を切り、走る。
紅蓮と仙蔵は尋常ではない速さで近づいてくる人影に警戒をしていたが、それが友人の姿とわかると目を丸めた。
「伊作?」
「何故ここに」
「紅蓮、仙蔵っ! 無事で良かっ……!?」
あと一間。その手前で伊作は不運にも小石に躓き、前のめりに転んでしまった。その勢いは衰えることなく、それはもう見事な前滑走を披露することに。
伊作はずざざざっと砂埃を巻き上げて進み、ようやく二人の足元で滑走が止まった。
この一部始終に呆気を取られる二人。初手、曲者の変装かと警戒をしていたが、これは紛う方なき友人だ。懐から手を引いた仙蔵は顔面から倒れ伏す伊作に声を掛けた。
「伊作。おい、大丈夫か」
返事はない。ただその肩は微かに震えていた。
投げ出された伊作の両手。その拳がぐっと握られる。
顔を上げずに押し黙る友を心配し、片膝をつく紅蓮。疼いた左脇腹に顔を歪ませた。三尺手ぬぐいで傷口を止血したとて、まだ塞がるほどの時が経過していない。
「伊作」
「良かった。無事で」
伊作の顔は涙に濡れていた。
ようやく上げてみせた顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、細かい砂粒とで汚れている。顔中擦り傷だらけだ。
怪我をする度に身を案じ、落涙するばかり。今これ以上に顔を濡らす日はあっただろうか。あまりの心苦しさに紅蓮の胸は痛んだ。
「ごめん。心配を掛けた」
こうして素直に謝るのは何年ぶりか。それは遠い日のことのようで、懐かしすら憶えていた。
涙に濡れた友の目につられ、紅蓮の涙腺も緩みそうになる。
紅蓮は目の前で転がったままの友に手を差し伸べた。伊作は手を伸ばし、その手をしっかりと掴む。血の通う、温かい手の平。互いの顔に微笑が浮かぶ。
「それにしても、どうしたんだ伊作。こんな所まで来て」
「二人が戻って来ないからだよ」
「今朝方、文を学園宛てに出した。届いていないのか? 忍務は遂行したが、戻りは遅くなると記したのだが」
「そうなのかい? もしかしたら僕たちが出た後に届いたのかもしれない。……紅蓮、その染みはどう見ても返り血じゃないよね」
嗚呼、この友は目聡い。伊作の鋭い目が紅蓮の左脇腹へと向く。紅蓮は反射的に手で覆い隠し、視線を彷徨わせた。
それは虚しい足掻きとなり、仙蔵が追い打ちをかける。
「山賊の鈍刀に斬られた。応急手当はしたが走ることができん。全く、現を抜かしているからだぞ」
「余計な説明有難う仙蔵。伊作、大丈夫だ。落ち着いてくれ」
「落ち着いていられないよ! 毒は、膿は?!」
「毒は塗られていなかった。その代わり傷は深いがな」
「ああーっもう! 戻ったら消毒と傷の縫合、あとはあれとこれと」
伊作の不安を煽りたいのか、いやこれは面白半分である。仙蔵は至極楽しそうにしていた。伊作が憤怒する様子、それにたじろぐ紅蓮の姿を見たいだけの様子。それを紅蓮は恨めしげに睨んだ。
「伊作、さっき僕たちって言ってたが。まだ誰か来ているのか」
「ああ、留三郎たちと一緒だよ。みんなで探しに来たんだ」
は組の二人ならばわかる。だが、まだ複数形の表現に紅蓮は首を傾げた。文次郎たちも来ているのだろうか。疑問を抱く最中、伊作が「ほら」と後ろを振り返る。
そこには懸命に駆けてくる後輩たちの姿。紅蓮が数日前に見た光景とそれは酷似していた。柳色の髪ともう一つ、相済茶色の髪が揺れる。
「先輩!」
「葉月先輩っ!」
「紅蓮、仙蔵! 無事かっ!」
「三郎次、石人。留三郎……それにお前たちまで」
委員会の後輩、友人だけに留まらない出迎えに紅蓮は驚いていた。
皆、息せき切って駆けつけてくる。四郎兵衛、久作、左近と。ここまで慕われているのかと思うと、くすぐったくもなる。
「お二人とも無事でよかったあ」
「先輩たちが戻らないので、僕たちが、捜索に」
「ご無事で何よりです、先輩」
安堵の笑みを浮かべる後輩たちを横目に、仙蔵は目を細めた。
「お前は慕われているな、紅蓮」
「仙蔵もな」
紅蓮の視線がすっと進行方向に向けられた。学園に続く道程の途中、そこに見えた二つの人影。遠目からでもわかる、その姿――踏み鋤を肩に担いだ綾部喜八郎、その隣を歩く浦風藤内の二人であった。
喜八郎は仙蔵を見るなり「おやまあ」と口を開けた。
「立花先輩はピンピンしていらっしゃる」
「良かったあ。予習の意味はなくなったけど、本当に良かった」
「喜八郎、藤内。お前たち何故。いや、その前に何の予習をしてきた藤内」
「二年生が慌てて出ていくのを見掛けたので、土井先生に聞いたんです。そしたら立花先輩ともあろうお方が、まだ戻ってこないというじゃないですか。四年い組は自習だったので、藤内を引き連れてやってきました」
同じ作法委員会の兵太夫にも声を掛けようとしたが、半助に必死の形相で止められたと喜八郎は淡々と話した。一年は組の姿がない理由を知り、紅蓮は苦笑いをそっと浮かべる。
喜八郎の視線が不意に紅蓮に刺さる。刃物で裂けた着物、その染みで怪我の程度を直ぐに察した。
「葉月先輩はそこまで無事じゃなさそうですね」
「先輩、そんなに酷い怪我を」
「ああ、いや大丈夫だ。走れないだけだから」
「でもそれなら歩くのもお辛いはずですよ。三郎次、私たちで葉月先輩の支えを」
「わかった。石人はそっちを頼む」
紅蓮の背を支えるようにして、両側から添えられる腕。その小さな温もりを払うことなどできるはずもない。
変わらず疼く傷口も、背に触れる温もりも此の世を生きている証拠。
「紅蓮」
「先輩」
「おかえりなさい」
命あっての物種だ。
その言葉が深く、深く紅蓮に沁みるのであった。