軽率なコラボシリーズ
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猫指南と夫婦
「霧華さん、懐に宝禄火矢でも入れてる?」
久々知さんが玄関口で出迎えた霧華さんにそう言った。
正月休みは瞬く間に過ぎ去っていった。
とは言え、フリーの忍者である俺たちには特に関係ないこと。三が日が明けて直ぐに仕事が入った年もある。
今年はゆっくりと過ごせたから良かった。
年始早々に久々知先輩が落涙したのは兎も角。
先輩たちが勤める忍術学園はまだ冬休み中だ。その間に家に来ると話していたけど、まさかそれが今日だとは思わなかった。偶々二人とも在宅中だったから良かったものの。
霧華さんの懐に入っている宝禄火矢もといミケがひょっと顔を出した。藍色の半纏をすっかり気に入ってしまったようで、最近は暇さえあれば潜り込んでいる。
目を真ん丸にして、久々知夫妻の顔を見ている。普段聞かない声に驚いているんだろうな。
「この子が噂の猫かぁ」
久々知先輩がミケの顔を覗き込もうとすると、ミケは頭をさっと半纏に潜らせた。わかるぞ。あの豆腐みたいな目で見られたら顔を反らしたくなる。
「ミケ。この人たちはお客さんだ。怖くないよ」
半纏の外側からミケを支える霧華さんはまるて赤子をあやすように声を掛ける。
けれど、優しい声を掛けた所で怯えたミケからの返事は無言。
「……ダメですね。完全に久々知先輩に怯えてる」
「なんでっ!? まだ何もしてないのに」
「ダメだよ兵助くん。他所の猫ちゃんに自分から構いに行ったら」
「そうですよ。ミケは人見知りなんです。それにそんな豆腐みたいな目で見られたら人見知りじゃなくても逃げたくなります」
双方から駄目出しをされた先輩は「そんなぁ」と残念そうに肩をがくりと落とした。
「ところで、家にいる時はいつもこうなの?」
「最近頻度は増えましたが……先程までは普通に。今しがた潜り込んできました」
「久々知先輩の足音を聞いて察したんじゃないですかね」
猫は物音に敏感だ。
前に久々知さんから聞いた話によると、人では感知できない微々たる振動をいち早く察知できるとか。
猫の感覚は侮ることなかれ、だ。
「兵助から溢れ出る豆腐意識に危機を察したのかもしれん」
「溢れ出る豆腐意識」
「若しくは御内儀に向ける愛が重すぎて中てられたとか」
「二人とも俺を何だと思っているんですか! 豆腐と不二子さん以外のこともちゃんと考えてます!」
声を荒げた久々知先輩はそう言うけど。
怒る点はそこなのか。
頭から湯気を出す勢いで憤慨する先輩を久々知さんが「まあまあ」と宥めていた。
「ここで立ち話もなんです。囲炉裏の方へお上がりください。外も冷えていたでしょうし」
「お邪魔しまーす」
二人を囲炉裏の前へ案内した霧華さんに代わり、お茶を淹れる準備を整えた。
半纏の内側とはいえ、ミケを抱えたままじゃ身動きが取りにくい。かと言って「動きにくいからミケに退いてもらおう」と考えて行動に移すような人じゃない。追い出すどころか、ヨシヨシとあやして寝かしつけてしまう始末だ。
これを踏まえて最近わかったことが一つある。霧華さんは後輩だけじゃなく、猫にも甘い。
「そうそう、これ猫の習性や適した食べ物とか私がメモしたのを」
「俺が書き写したものです」
「なんて?」
久々知さんが懐から取り出した四つ折りの紙。
それを久々知さんが書いたのは分かるけど、そうじゃなくて久々知先輩がさらに書き写したと仰った。ちょっと意味が分からない。
片手で頭を抱えるように俯く霧華さんの気持ちが物凄く分かる。俺も今それです。湯呑み乗せたお盆を持っているから出来ないだけで。
「……兵助。お前、気持ち悪いと各所で言われないか。私はそれが心配で堪らない」
「大丈夫ですよ霧華さん。一部の生徒たちからは既にそう思われてますから」
何処か遠い目で虚空をぼんやりと――むしろ何か残念なものを見るように霧華さんが「そうか」と溜息を吐いた。
先輩方の言い分はこうだ。
「不二子さんが書いたものは手元に残しておきたいんだ」
「私の字よりも兵助くんの方が綺麗だしと思って、うん」
わざわざ紙と墨を消費してまでそうすることを許したのか。
とことん久々知さんは先輩に甘いな。
「……兎も角、有難うございます。こちらのメモを参考に致しましょう」
「わかんないことあったら聞いてね。ミケちゃんに長生きしてもらいたいし」
熱心に目を通す霧華さんの手元を俺も覗き込んだ。
メモには猫に与えてはいけない食べ物、控えめに与えた方が良い食べ物など。食を中心に書かれていた。
以前久々知さんが作られたちょこれいと菓子も猫には与えていけないそうだ。玉ねぎも不可。前述のものは早々手に入るものでもないな。
けど、頭には入れておこう。ミケの健康の為にも。
「池田くんたちお昼はまだ食べてない?」
「そろそろ作ろうかと話をしていたところですよ」
「よし、いいタイミング。お昼は私に作らせてくれない?」
「客人にそのようなことをさせるわけには」
「いいのいいの。調味料持ってきたから豆腐の唐揚げ作ろうと思って」
豆腐の唐揚げという単語に霧華さんが揺らいだ。
好物で揺さぶられるのはちょっとどうかと思うけど。これはこの二人に対してだけだろうからまあ、大丈夫かな。
「……良いのですか?」
「うん。それにこれは戦略でもあるのだ」
「戦略?」
「猫ちゃんは初対面の人だと警戒しまくるんだよ。だから、私たちは無害ですよーって思わせるの。兵助くんみたいに初っ端から構いに行ったら敵認定されちゃう」
俺はちらりと半纏の内側に目を向けた。
ミケはさっきよりも少し落ち着いた様子だけど、まだ満月のような目をギラギラとさせている。
「もしかして、俺はもう嫌われ判定されてしまった……?」
「うーん。第一印象最悪ってとこかな。でも挽回の余地はあると思うよ」
しゅんと力なく項垂れた先輩を見かねたのか、その頭を不二子さんがよしよしと撫でていた。
正直な所、挽回できるかどうかは五分五分といったところか。ミケは気まぐれな性格だから。
構ってほしくて俺にちょっかいをちょいちょいと前足で掛けてくるくせに、構おうとすれば「何?」といった澄ました表情で毛繕いに移る。
対して霧華さんには素直な面がある。命の恩人であり、甘やかしてくれるからだろう。まあ、躾もしっかりと厳しいけど。
「だからその為にも、私にお昼ご飯作らせて」
「そういった話であれば。では豆腐を買ってきましょう」
「あ、先輩。それは大丈夫ですよ。俺が自家製のお豆腐をお持ちしましたので」
久々知先輩が桶に入った豆腐を俺たちに見せた。
いつの間に持ち込んでいたんだ。というか何処から出したんだそれ。
「……久々知先輩あるところ豆腐有り」
「いやあ。それほどでも」
「三郎次。もうツッコミを入れるのはよせ。疲れるだけだ」
「そうですね」
俺たちが呆れていることも気に留めず、久々知夫妻は土間に下りて仲良く厨に並んだ。
◇
厨からいい匂いが漂ってきた頃、ミケが暫くぶりに顔を出した。
最初は顔だけを恐る恐る覗かせ、厨から音がする度にぴくりと三角の耳を聳てる。
それからもう少し経ってから、のそりと表に出てきた。霧華さんの膝上に体を預けて、毛繕いを始める。
「ミケ。慣れてきたか」
「なーん」
「あの人たちはお前を虐めたりはしないよ」
顎をちょいちょいと撫でられたミケがごろごろと喉を鳴らす。
一見いつも通りの様子。
厨に立つ久々知夫妻をじっと見つめていたかと思えば、不意に俺の方にその小さな顔を向ける。
それから口を開けて見せた。欠伸とも違うこの行動。なんと言えばいいか。例えるなら、何か言おうとしてやっぱり止めたような。そんな感じに似ている。
「霧華さん、メモ見せてもらってもいいですか」
「ああ。何か気になることでもあったか」
「最近なんですけどミケが変わった行動見せるんですよ。こっち見ながら口だけ開けてることが」
俺は久々知先輩の文字で書かれたメモに目を通していく。
猫の習性に書かれた欄にはそれらしき事は書かれていなかった。
「あ、それもしかしてサイレントにゃーかな」
こっちの話を聞いている余裕があったのか、久々知さんが顔だけをこちらに向ける。
隣にいらっしゃる先輩はやけにご機嫌な様子。後ろ姿だけなのに伝わってくるから、なんかもう、あれだよな。
「さいれんとにゃー」
「一見鳴いてるように見えるけど、声は聞こえないってやつ。猫ちゃんは鳴いてるつもりなんだよすごく小さな声で」
「へえ。それは周りに気づかれたくないからとかですか?」
「んー確かそんな感じだったと思う。その仕草は信頼してる相手にしかしないんだったかな。ごめん、ちょっとうろ覚えだったからそれ書かなかったんだ」
「信頼している相手」
額を撫でられ、気持ち良さそうに目を瞑る。
なんだ。結構懐いてるのか、お前。と、ここで調子に乗って撫でると素早い反撃が飛んでくることを知っている。
「ミケちゃんツンデレなんだよきっと。池田くんみたいだね」
「誰がツンデレですか誰が」
「似てると思うけどなぁ。お、そろそろいいかな。はい、味見」
豆腐の唐揚げが続々と揚がっていた。
そのうちの一つが菜箸で摘ままれ、久々知先輩の口に放り込まれた。
「美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「よかった」
二人の表情はゆるゆるだ。見ているこっちが照れ臭くなるぐらいに。
俺たちはまだ学園に時たま訪れるからまだマシな方なのかもしれない。学園関係者及び生徒たちは毎日、毎刻常にこれを見せられているんだ。悪意もなく。胃もたれを起こすっていう表現も分かる気がしてきた。
しかも人の目を憚らずに肩をぴったりと寄せ合うし、久々知先輩がさり気なく抱き寄せもする。
完全に二人の世界だな。
霧華さんも遂に気まずくなったのか厨から目を逸らし、ミケの背中を撫で続けている。
「……なんで我が家の厨で久々知夫妻がいちゃついてるんですかね」
「まあ、お二人にとっては日常なんだろうさ」
「そういえば先月、霧華さんがくりすますパーティーの時に先輩を呼び出したじゃないですか」
「ああ」
「あの時、生徒たちが「遂に先生からのお説教が。久々知先生も懲りるかな」とかざわついてましたよ」
霧華さんの口から溜息が漏れる。
「そういえば、猫ちゃんって偶に宙を見つめてることあるんだよね。何か見えてるのかもしれないってよく言うんだよ」
「不二子さんも時々宙を見つめてるよね。俺といる時も。宙じゃなくて俺を見てほしいんだけど」
「あれは夕飯どうしようかなーって考えてるんだよ」
そして諦めに近い表情から俺は察した。
「説教したとしても変わらんだろ、あいつは」
「そうですね。塩でも撒いときたいくらいですよ」
ごろんと寝転んだミケが仰向けになり、腹を見せた。
すっかりくつろぎ出した。これなら姿を隠さずに心を開くかもしれないな。
多分。
「霧華さん、懐に宝禄火矢でも入れてる?」
久々知さんが玄関口で出迎えた霧華さんにそう言った。
正月休みは瞬く間に過ぎ去っていった。
とは言え、フリーの忍者である俺たちには特に関係ないこと。三が日が明けて直ぐに仕事が入った年もある。
今年はゆっくりと過ごせたから良かった。
年始早々に久々知先輩が落涙したのは兎も角。
先輩たちが勤める忍術学園はまだ冬休み中だ。その間に家に来ると話していたけど、まさかそれが今日だとは思わなかった。偶々二人とも在宅中だったから良かったものの。
霧華さんの懐に入っている宝禄火矢もといミケがひょっと顔を出した。藍色の半纏をすっかり気に入ってしまったようで、最近は暇さえあれば潜り込んでいる。
目を真ん丸にして、久々知夫妻の顔を見ている。普段聞かない声に驚いているんだろうな。
「この子が噂の猫かぁ」
久々知先輩がミケの顔を覗き込もうとすると、ミケは頭をさっと半纏に潜らせた。わかるぞ。あの豆腐みたいな目で見られたら顔を反らしたくなる。
「ミケ。この人たちはお客さんだ。怖くないよ」
半纏の外側からミケを支える霧華さんはまるて赤子をあやすように声を掛ける。
けれど、優しい声を掛けた所で怯えたミケからの返事は無言。
「……ダメですね。完全に久々知先輩に怯えてる」
「なんでっ!? まだ何もしてないのに」
「ダメだよ兵助くん。他所の猫ちゃんに自分から構いに行ったら」
「そうですよ。ミケは人見知りなんです。それにそんな豆腐みたいな目で見られたら人見知りじゃなくても逃げたくなります」
双方から駄目出しをされた先輩は「そんなぁ」と残念そうに肩をがくりと落とした。
「ところで、家にいる時はいつもこうなの?」
「最近頻度は増えましたが……先程までは普通に。今しがた潜り込んできました」
「久々知先輩の足音を聞いて察したんじゃないですかね」
猫は物音に敏感だ。
前に久々知さんから聞いた話によると、人では感知できない微々たる振動をいち早く察知できるとか。
猫の感覚は侮ることなかれ、だ。
「兵助から溢れ出る豆腐意識に危機を察したのかもしれん」
「溢れ出る豆腐意識」
「若しくは御内儀に向ける愛が重すぎて中てられたとか」
「二人とも俺を何だと思っているんですか! 豆腐と不二子さん以外のこともちゃんと考えてます!」
声を荒げた久々知先輩はそう言うけど。
怒る点はそこなのか。
頭から湯気を出す勢いで憤慨する先輩を久々知さんが「まあまあ」と宥めていた。
「ここで立ち話もなんです。囲炉裏の方へお上がりください。外も冷えていたでしょうし」
「お邪魔しまーす」
二人を囲炉裏の前へ案内した霧華さんに代わり、お茶を淹れる準備を整えた。
半纏の内側とはいえ、ミケを抱えたままじゃ身動きが取りにくい。かと言って「動きにくいからミケに退いてもらおう」と考えて行動に移すような人じゃない。追い出すどころか、ヨシヨシとあやして寝かしつけてしまう始末だ。
これを踏まえて最近わかったことが一つある。霧華さんは後輩だけじゃなく、猫にも甘い。
「そうそう、これ猫の習性や適した食べ物とか私がメモしたのを」
「俺が書き写したものです」
「なんて?」
久々知さんが懐から取り出した四つ折りの紙。
それを久々知さんが書いたのは分かるけど、そうじゃなくて久々知先輩がさらに書き写したと仰った。ちょっと意味が分からない。
片手で頭を抱えるように俯く霧華さんの気持ちが物凄く分かる。俺も今それです。湯呑み乗せたお盆を持っているから出来ないだけで。
「……兵助。お前、気持ち悪いと各所で言われないか。私はそれが心配で堪らない」
「大丈夫ですよ霧華さん。一部の生徒たちからは既にそう思われてますから」
何処か遠い目で虚空をぼんやりと――むしろ何か残念なものを見るように霧華さんが「そうか」と溜息を吐いた。
先輩方の言い分はこうだ。
「不二子さんが書いたものは手元に残しておきたいんだ」
「私の字よりも兵助くんの方が綺麗だしと思って、うん」
わざわざ紙と墨を消費してまでそうすることを許したのか。
とことん久々知さんは先輩に甘いな。
「……兎も角、有難うございます。こちらのメモを参考に致しましょう」
「わかんないことあったら聞いてね。ミケちゃんに長生きしてもらいたいし」
熱心に目を通す霧華さんの手元を俺も覗き込んだ。
メモには猫に与えてはいけない食べ物、控えめに与えた方が良い食べ物など。食を中心に書かれていた。
以前久々知さんが作られたちょこれいと菓子も猫には与えていけないそうだ。玉ねぎも不可。前述のものは早々手に入るものでもないな。
けど、頭には入れておこう。ミケの健康の為にも。
「池田くんたちお昼はまだ食べてない?」
「そろそろ作ろうかと話をしていたところですよ」
「よし、いいタイミング。お昼は私に作らせてくれない?」
「客人にそのようなことをさせるわけには」
「いいのいいの。調味料持ってきたから豆腐の唐揚げ作ろうと思って」
豆腐の唐揚げという単語に霧華さんが揺らいだ。
好物で揺さぶられるのはちょっとどうかと思うけど。これはこの二人に対してだけだろうからまあ、大丈夫かな。
「……良いのですか?」
「うん。それにこれは戦略でもあるのだ」
「戦略?」
「猫ちゃんは初対面の人だと警戒しまくるんだよ。だから、私たちは無害ですよーって思わせるの。兵助くんみたいに初っ端から構いに行ったら敵認定されちゃう」
俺はちらりと半纏の内側に目を向けた。
ミケはさっきよりも少し落ち着いた様子だけど、まだ満月のような目をギラギラとさせている。
「もしかして、俺はもう嫌われ判定されてしまった……?」
「うーん。第一印象最悪ってとこかな。でも挽回の余地はあると思うよ」
しゅんと力なく項垂れた先輩を見かねたのか、その頭を不二子さんがよしよしと撫でていた。
正直な所、挽回できるかどうかは五分五分といったところか。ミケは気まぐれな性格だから。
構ってほしくて俺にちょっかいをちょいちょいと前足で掛けてくるくせに、構おうとすれば「何?」といった澄ました表情で毛繕いに移る。
対して霧華さんには素直な面がある。命の恩人であり、甘やかしてくれるからだろう。まあ、躾もしっかりと厳しいけど。
「だからその為にも、私にお昼ご飯作らせて」
「そういった話であれば。では豆腐を買ってきましょう」
「あ、先輩。それは大丈夫ですよ。俺が自家製のお豆腐をお持ちしましたので」
久々知先輩が桶に入った豆腐を俺たちに見せた。
いつの間に持ち込んでいたんだ。というか何処から出したんだそれ。
「……久々知先輩あるところ豆腐有り」
「いやあ。それほどでも」
「三郎次。もうツッコミを入れるのはよせ。疲れるだけだ」
「そうですね」
俺たちが呆れていることも気に留めず、久々知夫妻は土間に下りて仲良く厨に並んだ。
◇
厨からいい匂いが漂ってきた頃、ミケが暫くぶりに顔を出した。
最初は顔だけを恐る恐る覗かせ、厨から音がする度にぴくりと三角の耳を聳てる。
それからもう少し経ってから、のそりと表に出てきた。霧華さんの膝上に体を預けて、毛繕いを始める。
「ミケ。慣れてきたか」
「なーん」
「あの人たちはお前を虐めたりはしないよ」
顎をちょいちょいと撫でられたミケがごろごろと喉を鳴らす。
一見いつも通りの様子。
厨に立つ久々知夫妻をじっと見つめていたかと思えば、不意に俺の方にその小さな顔を向ける。
それから口を開けて見せた。欠伸とも違うこの行動。なんと言えばいいか。例えるなら、何か言おうとしてやっぱり止めたような。そんな感じに似ている。
「霧華さん、メモ見せてもらってもいいですか」
「ああ。何か気になることでもあったか」
「最近なんですけどミケが変わった行動見せるんですよ。こっち見ながら口だけ開けてることが」
俺は久々知先輩の文字で書かれたメモに目を通していく。
猫の習性に書かれた欄にはそれらしき事は書かれていなかった。
「あ、それもしかしてサイレントにゃーかな」
こっちの話を聞いている余裕があったのか、久々知さんが顔だけをこちらに向ける。
隣にいらっしゃる先輩はやけにご機嫌な様子。後ろ姿だけなのに伝わってくるから、なんかもう、あれだよな。
「さいれんとにゃー」
「一見鳴いてるように見えるけど、声は聞こえないってやつ。猫ちゃんは鳴いてるつもりなんだよすごく小さな声で」
「へえ。それは周りに気づかれたくないからとかですか?」
「んー確かそんな感じだったと思う。その仕草は信頼してる相手にしかしないんだったかな。ごめん、ちょっとうろ覚えだったからそれ書かなかったんだ」
「信頼している相手」
額を撫でられ、気持ち良さそうに目を瞑る。
なんだ。結構懐いてるのか、お前。と、ここで調子に乗って撫でると素早い反撃が飛んでくることを知っている。
「ミケちゃんツンデレなんだよきっと。池田くんみたいだね」
「誰がツンデレですか誰が」
「似てると思うけどなぁ。お、そろそろいいかな。はい、味見」
豆腐の唐揚げが続々と揚がっていた。
そのうちの一つが菜箸で摘ままれ、久々知先輩の口に放り込まれた。
「美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「よかった」
二人の表情はゆるゆるだ。見ているこっちが照れ臭くなるぐらいに。
俺たちはまだ学園に時たま訪れるからまだマシな方なのかもしれない。学園関係者及び生徒たちは毎日、毎刻常にこれを見せられているんだ。悪意もなく。胃もたれを起こすっていう表現も分かる気がしてきた。
しかも人の目を憚らずに肩をぴったりと寄せ合うし、久々知先輩がさり気なく抱き寄せもする。
完全に二人の世界だな。
霧華さんも遂に気まずくなったのか厨から目を逸らし、ミケの背中を撫で続けている。
「……なんで我が家の厨で久々知夫妻がいちゃついてるんですかね」
「まあ、お二人にとっては日常なんだろうさ」
「そういえば先月、霧華さんがくりすますパーティーの時に先輩を呼び出したじゃないですか」
「ああ」
「あの時、生徒たちが「遂に先生からのお説教が。久々知先生も懲りるかな」とかざわついてましたよ」
霧華さんの口から溜息が漏れる。
「そういえば、猫ちゃんって偶に宙を見つめてることあるんだよね。何か見えてるのかもしれないってよく言うんだよ」
「不二子さんも時々宙を見つめてるよね。俺といる時も。宙じゃなくて俺を見てほしいんだけど」
「あれは夕飯どうしようかなーって考えてるんだよ」
そして諦めに近い表情から俺は察した。
「説教したとしても変わらんだろ、あいつは」
「そうですね。塩でも撒いときたいくらいですよ」
ごろんと寝転んだミケが仰向けになり、腹を見せた。
すっかりくつろぎ出した。これなら姿を隠さずに心を開くかもしれないな。
多分。