軽率なコラボシリーズ
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
文騒動
この騒動は一通の小文から始まった。
先に結論を述べておこう。二日と半日ばかりずっと心ここに非ず状態だったということを。
今日は忍術学園の特別講師として呼ばれ、四年生たちを相手に組手の演習を行った。
生徒たちは実力がついてきている。それに個性も豊かで、というか豊かすぎてクセの強い奴らばかりだ。まあ、そうじゃなきゃ此処で四年も過ごせないか。この先もっとクセどころか灰汁が強くなるんだろうな。
組手指導を終えてようやく放課後を迎えた。
最近は実技講師として呼ばれることも増えてきた。特に三、四年生を相手にしたものだ。
下級生相手だと力加減が難しいから、その辺はそこまで気を使わなくて済むからちょっと助かる。
明日は二年生の座学講師を頼まれている。忍者文字についての授業補佐だ。
今までも連日講師を頼まれたことは少なくなかった。朝早い授業の時は泊まりがけのこともある。
そこで今夜は泊まっていくかどうかで俺は悩んでいた。
今日は霧華さんがいない。二日ばかりの忍務に赴いている。だから、家に帰っても誰もいないし一人きりだ。
別に寂しいわけじゃない。
今までも片一方が日を跨ぐ忍務に赴き家を留守にすることはあった。
でも、思えば卒業してからずっと行動を共にしてきたんだよな。もはや隣にいるのが当たり前すぎて。
どうしてか今日は、物寂しいと感じていた。
まるで胸の真ん中に風穴が空いたようで、冷たい外気が吹き抜けていく。
襟巻きの隙間にひゅっと潜り込んだ風が足早に立ち去っていった。
帰り道はもっと冷えそうだな。やっぱり学園に泊まっていくか。
「……凍えてなきゃいいけど」
あの人は意外と寒がりだ。
秋はあっという間に走り去って、冬の足音を偲ばせてくる。
「冬は好きじゃない」そう言う割に夏と変わらずに朝が早い。今朝も早起き競争に負けてしまった。
「寒いからまだ布団を被ってるといい」なんて言いながら厨で動かすその手は氷の様に冷たくて。時間に追われる必要が無い時は俺に任せてほしいのに。
特に冷え込んだ日は脇腹の古傷が疼くらしく、擦る仕草をよく見かける。だからいつも半纏を羽織らせて、寒さが和らぐようにぎゅっとする。
いつもより距離がほんの少しだけ縮まるから、冬は嫌いじゃない。
ふと、軽快に駆ける蹄の音を聞いた。
「三郎次先輩!」
名を呼ぶ声。そしてすぐ後に馬の嘶き。
振り返るとそこには懐かしい顔がいた。
一つ下の後輩――団蔵はひらりと軽い身のこなしで馬から降り、日に焼けた肌に白い歯を見せて笑った。
「お久しぶりです。お元気そうで」
「団蔵、久しぶりだな。荷物の配達か」
「そんなとこです。先輩は最近特別講師としていらっしゃってるんでしたっけ」
「まあな。それより、何か用か?」
「そうそう。忍術学園には荷を運びに、三郎次先輩にはこちらを預かってきました」
団蔵は懐から取り出した一通の小文をこちらにすっと差し出す。
文なんて珍しい。そう思いながらも受け取り「誰からだ?」と軽く口にした。
それがまさか。まさかの相手からだとは考えもしなかった。
「奥さんからです」
「……は?」
開いた口が塞がらなかった。
いや、なんで。だって今朝普通に見送ってもらったんだけど。
今日は俺の方が早く家を出た。霧華さんは昼から忍務だと言っていたし。
「三郎次先輩? どうかなされたんですか」
明らかな動揺を表に出してしまっていた。
団蔵があくまで不思議そうに、どうしたのかと尋ねてくる。どうしたもこうしたもない。
「団蔵。この文、いつ預かったんだ。というか団蔵が霧華さんから直接預かったのか」
「預かったのは今日の昼前で、直接預りましたよ。丁度良い所にって」
団蔵が言うには本人から直接この文を預かったと。しかも今日の昼前、つまり俺が家を出た後だ。
とある不安に顔が曇る。
「まさか、急に具合が悪くなったとかなんじゃ」
「いえ、すごくお元気そうでしたよ。これから仕事に行くとも言ってましたし」
「……じゃあ、なんで文なんかを」
「俺も変だなぁと思って聞いてみたんですよ。そしたら、面と向かってじゃ言いにくいからって仰ってました」
一緒に暮らしてる御夫婦なのに、文じゃなきゃ言えないことだなんて。喧嘩でもしてるんですかとまで団蔵は聞いてきた。笑いながら。
「なんたって三郎次先輩はいつも一言多くて人を怒らせる天才ですからね」
◇
「土井先生は居られますかっ!」
俺は職員室の戸をすぱーんと勢いよく開け放った。
文机の前に座っていた土井先生と目が合う。
俺の顔を見るなり目を皿のように丸くして「何事だ」と筆を持つ手を止めていた。
「どうしたんだ三郎次。顔がぐしゃぐしゃじゃないか」
「じ、実は……斯々然々で」
俺は簡潔に今さっきあったことを土井先生に漏れなく伝えた。
団蔵が届けに来た文を床上に置き、それを挟む形で先生の顔を伺う。
霧華さんからの小文は折り畳んだそのままだ。中はまだ一切見ていない。というか、怖くてとてもじゃないけど読めない。
話を静かに聞いてくれた土井先生は両腕を組み「うーん」と目を瞑り唸る。
「団蔵が言うには普段通りの様子で体調も良さそうだと。急を要する様な内容とは考えにくい」
「はい。今朝は体調が悪そうには見えませんでした。……天気も崩れる心配はなさそうだったし」
霧華さんは天気が悪くなる予兆を感じると体調を崩されやすい。
薄曇りや雨が降り出した時はそうでもないんだけど。空全体を分厚い雲が覆うような日は要注意だ。
土井先生が背後を振り返った。
格子窓から薄い青空が覗く。外は風が少し冷たいだけで、穏やかそのもの。
因みに件の状況は土井先生も存じておられる。
「仕事に関してでもないだろうし。我々忍者は例え家族でも内容は伏せる」
「仰る通りです」
俺は敢えてそこで言葉を区切った。
確かに家族や親しい者でも忍者は仕事内容を公にしてはならない。けど、俺たちは向かう方角や方面だけは互いに伝え合っていく。
帰りが遅いとか、何か情報を聞きつけた時に向かえる様にだ。でも幸い今までそういった危機に面したことはない。そして今回も危険な忍務ではないはずだ。
忍務に関する内容を文に認めるなんて、敢えて危険を冒す真似もしないだろうし。
体調不良、仕事内容。二つの可能性は潰された。
そうなると益々不安が募る一方だ。
じわじわと滲み出る様に浮かび上がる、数ヶ月前に学園で起きたとある出来事が。
「面と向かっては言い難いこと。……ややを身籠ったとかじゃないのか?」
その何気ない、しかもやんわりとした笑顔付きの一言にぴたりと固まった。
一瞬そうなのかと考えが頭に過ぎる。でもそれは有り得ない。例えそうだったとしても文じゃなく直接言って欲しい。
「いや、そんな状態ならそもそも仕事に行かせないんですけど?!」
「三郎次にそう反対されると思ってわざわざ文で」
「反対するに決まってるじゃないですか! 安静にしてなきゃ駄目なんですし!」
「まあ、落ち着きなさい。それで、その心当たりはないのか?」
「ありません」
「そうか」
きっぱりと答えれば先生が眉を下げて笑い返した。
それから今度は口元をへの字に結び、再び悩み始める。
「そうでもないとすると……というよりも、お前たちそもそも文のやり取りは」
「そりゃ、在学中は。でも稽古の日程調整とかそれぐらいでしたよ。思えば普通の文は……ないですね」
「筆不精だと自分で言っていたからなぁ。文の書き方を訊かれたぐらいだし」
齢十歳の子が文の書き方を訊ねるのはそう珍しいことでもない。
ただ、土井先生が言うには霧華さんが一年次に「文とは何を書けば良いのですか」と紙と筆を持ってきたそうだ。その幼い顔には本当に何を書けばいいのかわからないと浮かんでいたらしい。
その年は先生の指導の元で「寒くなってきましたが、皆様お変わりありませんか」「友人と共に勤勉に励んでおります」とかを認めたらしい。
「そもそも一緒に暮らしてるのに、普通の文は送り合わないのではないですか。それこそ緊急時ぐらいしか場面が浮かびません」
「うーん……そう、かもしれんなぁ普通は」
先生は微妙に歯切れの悪い言葉で留め、句読点の変わりに苦笑いを打つ。
何か例外を知っている。そんな様子でもあった。
「兎に角、僕らは普段文のやり取りはしないんです。だから、もしかしたらこの文の内容は」
「文の内容は?」
「……不満とか離縁の話で、暇を頂きたいとかそういうものなんじゃないかって」
頭を垂れた視線の先に映る文。
あの頃は内容が簡素な物でも、霧華さんから文が届くと物凄く嬉しかった。
数年ぶりに好きな人から貰う小文がよもやこんな形だなんて。
俺は膝の上で拳を握りしめた。
「少しは落ち着きなさい三郎次。うう……落ち着け私の胃」
「直接言い難いって、つまりそういうことじゃないですか」
「そうとは限らんだろう。そもそも、その兆しはあったのか?」
怒らせた原因となる兆し。そんなもの思い返せば幾らでも見つかる。
三日前に薪を取り損ねて足元にぶつけてしまった。
一昨日は近所のおばちゃんたちの井戸端会議に長時間捕まってしまい、そろそろ離れたいと思った所を霧華さんが助け舟を出してくれた。あの時ちょっと機嫌が悪そうな気もしたんだ。
ああ、それと少し前だけど滝夜叉丸先輩のブロマイドを柱から剥がしたせいもありそうだ。
「……お前は紅蓮がそんな小さな事で不満を抱く様な心の狭い人間だと思っているのか。そもそも最後のブロマイドの件は何なんだ」
「積もり積もればって言うじゃないですか。滝夜叉丸先輩のブロマイドは話せばものすごーく長くなります」
「じゃあその件については触れないでおこう」
その方が絶対にいい。なにせ七年前まで話を遡らないといけないんだから。
「……あの人、僕に対して不満をあまり言ってくれないんです。完璧な人間なんて存在するわけない。絶対一つや二つあるはずなのに。……土井先生」
霧華さんが家に帰って来なかったらどうしよう。
口から出かけた言葉を呑み込んだ。
言葉には力が宿る。音に現して本当にそうなったら嫌だ。
「三郎次」
すっかり項垂れてしまった頭をゆっくりと上げる。そこには微笑を携えた土井先生の顔。
それは昔目にした、教え子に優しく教えを説いていた時の物と同じだった。
嗚呼、何年経とうとこの人は僕らの教師であり恩師であることに変わりないんだ。
「お前が不安に思う気持ちもよくわかる。だが、少し考えすぎだ。あの子は何かある前に必ずお前に話をするよ。三郎次が気にする事はきっと紅蓮にとってはほんの些細な事でしかないんだろう」
「そう、なんでしょうか」
「ああ、そうだとも。それらを全て許せる程に三郎次のことを好いている証拠だ。そしてお前も紅蓮のことを同じくらい好いている」
「……とっくに好き通り越して愛してますよ」
ぽつりと呟いた言葉は文に吸い込まれるようにして消えた。
「それは本人に直接伝えてあげなさい」土井先生は胃の辺りを擦りながら笑っていた。
「兎に角、文を読んでみないか」
「はい」
手を伸ばして文を掴んだ指先は小刻みに震えていた。心臓もやたら煩く鳴っている。
丁寧に折り畳まれた文を広げると、先ずその時点で妙な文章を見つけてしまった。
書き出しが『拝啓 池田三郎次様』から始まったのは良い。最初の話題が二行程書かれていたかと思えば、その後はずっと空白の行が続いた。
そして紙の末端に書かれた差出人の名前。『敬具 池田霧華』と間違いなく筆跡は霧華さんのものだった。
暫くその空白とにらめっこをして、ハッと閃いた。
「土井先生。灯りを貸して貰えますか」
「勿論。少し待っていなさい」
快く頷いた先生の顔も明るかった。
先生もこの文に仕掛けられた謎を解く鍵に気づいたんだ。
「あからさまな空白の部分。これは忍者が情報を伝える為の手段の一つ、炙り出しだ」
「炙り出しとは墨の代わりに果物や大豆の汁を用いて書いた文字のこと。それで書かれたものはこうして……火で炙ると」
灯明皿の火へ慎重に文の背面を近づける。
ジリジリと焦げた臭い。それと共に真っ白な文に同じ筆跡の文字が浮かび上がってきた。
先に全ての文字を炙り出し、火から遠ざけた場所で文に目を走らせた。
◇◆◇
真上に登っていた太陽が傾き始めた。
予定通りの二日半で忍務を終えた私は我が家ヘの帰路に着いていた。
道すがら私は左手の甲に目を落とす。
昨夜、逃げる際に相手の分銅が掠めた。痛みの程度から骨に軽くヒビが入っていそうだ。部位も腫れている。今は手甲で隠せているが、これは三郎次に隠し通せないな。腫れが引かないことにはどうにも。
何はともあれ利き手ではない方で助かった。日常生活にも支障が出てくるからな。
『何かあったら直ぐに医者に診てもらうこと。若しくは僕の所へ。君は昔も今も怪我が絶えないんだから』
友である伊作の声が聞こえた気がした。
私は人知れず溜息を吐く。
明日は非番だし、理由を話して忍術学園に出向くとするか。
それから一里ばかり歩き、町長屋に到着した。
我が家の玄関が見えた所で、私は足を止める。
家の中に人の気配。しかも二つだ。
一つは三郎次のもの。やけに落ち着きがない気もするが、間違いなく三郎次だ。
もう一つは、誰だ。客人でも来ているのか。
私は妙な気配に気を取られながらも、我が家の玄関前に立つ。
その時であった。
ガラッと勢いよく玄関戸が開け放たれた。
家の中から出てきた三郎次は何とも言えない表情――二年前くらい前、私が死の淵から戻ってきた時に見たものと酷似している。
まさか、この怪我を察知したのか。いや伊作じゃあるまいし。
「良かった帰ってきた! お帰りなさいっ」
開口一番、涙ぐんだその声。
「どうしたんだ」そう聞くよりも先に三郎次の腕に抱き竦められてしまった。
肩口に寄せてくる頭。私の視界に映る柳葉色。それと部屋の中にいる見知った顔が一つ。
「……土井先生? 何故我が家に、と言うよりもどうしたんだ三郎次」
右手で背を優しく二度叩いても返事はない。その代わりに腕の力が強められた。
「どうしたもこうしたもない。お前が普段出さない妙な文を送るからだ」
囲炉裏の前で土井先生は呆れた声を出された。溜息付きで。
話は不鮮明だがとりあえず玄関の戸を後ろ手で閉め切り、なんとか三郎次を宥めた。
三郎次の目尻には薄っすらと涙が滲んでいた。いや、本当に何があったんだ。
何も喋らず、黙ったまま私の左手に触れようとしたので思わずその手を引いてしまった。
途端に三郎次が目を見張る。ああ、これは左手の怪我に勘付かれたな。
眉間に皺を寄せた三郎次に右手を引かれ、囲炉裏の前へと連れてこられた。
囲炉裏を挟んだ状態で二人並び座る。それはいいが、三郎次との距離が近い。膝が触れる程寄り添われている。
「……それで、何があったのか話していただけますか。文というのは私が二日程前に三郎次宛に出したものでしょうか」
先生が指す文にはそれしか心当たりがない。二日と半日ばかり前に三郎次を見送ってから馬借の加藤に預けた文だ。あの文に何か問題でもあったのだろうか。
「大有りだ。お陰で一昨日からずっと三郎次がこの調子なんだ。お前がやたら滅多に書かない文を出すもんだから、三郎次が何かあったんじゃないかと勘繰ったんだよ」
「何か……いや、何もありませんが」
深く、長い溜息が土井先生の口から吐き出された。それは緊張が解れたとも取れるし、呆れ返ったようにも取れた。
「それを本人の口から聞けて良かったよ。三郎次、これで安心したな」
「……はい」
「あの、本当に何があったんですか。……先程の話からすると、私が書いた文をもしや土井先生も読まれて」
「ああ、読ませてもらったよ。ご丁寧に炙り出しまで使った文をな」
「あ、あれは……その」
三郎次に宛てた文だというのに、何故土井先生も読まれているんだ。
あの文には三郎次への思いが。俄、頬に熱を帯びていく。
「大体なんだあの文の書き方は! お前が一年生の時に私が文の書き方を教えたはずだぞ!」
しかし私が恥じらう暇すらも許されず。
土井先生のお説教はそこから止まらなかった。
その後も「教えたはずだ、教えたはずだ」と呪詛のように繰り返した土井先生の話を食堂で話せば「大変だったみたいだね」と不二子さんから返ってきた。
「……やはり慣れないことはしない方が良いですね。身を持って知りました」
「まあ、タイミングが悪かったんじゃないかなそれ」
空になった湯呑みに茶を注いだ不二子さんは椅子に座り直した。
以前、不二子さんと兵助が文のやり取りをしていると聞いた。
学園内に互いに住み込みでいるというのに、そんな至近距離で文をやり取りするものなのかと最初は驚いた。文は遠く離れた相手に送るものだと念頭にあったせいだ。
身近で起きたそれこそ他愛ないことを認め、送りあったという。
私は筆不精だ。
文を書く頻度は本当に少ないものだったし、初めて出した文は実家宛のもの。それも一年に一度という縛りがあった故に、文を認める回数が他よりも少なかった。私が筆不精になったのはその所為でもありそうだ。
それはさておき、ここは不二子さんたちを見倣って私も一筆取ろうかと思い立ったのである。
まさかその文があんなことになろうとは。
文騒動の翌日。学園へ訪れた私は医務室で左手を診てもらい、処置を受けてから食堂に顔を出した。
左手の甲は予想通りヒビが入っているようで。伊作には「無理は厳禁」と釘を刺されてしまった。
包帯で巻かれた私の左手を見る度に不二子さんは痛々しい顔をする。
いっそ折れてくれた方が治りは早いのですがと添えれば、余計に顔を顰めてしまった。
「あれ、池田くんも今日は非番だよね」
「ええ。一緒に来ていますが、先程四年生たちに声を掛けられていました」
「ほんとは霧華さんの隣にいたかったんじゃないかな」
「まあ、そんな感じはしましたね」
昨日は土井先生がお帰りになられた後も、ずっと私に引っ付いていた。その癖口数が少ないものだからどう扱って良いのか悩んだ。
「どんな内容書いたの?」
「貴方がたを見倣い取り留めのないことを。……それを炙り出しで書いたせいもあり、何か意味が含まれているんじゃないかと疑心暗鬼になってしまったそうです」
「……なんでわざわざ炙り出しに」
「いえ、その……最初は墨で書いていたんです。それが書いているうちに恥ずかしくなり、それならば炙り出しにしようかと」
墨と違い果汁で書いたものならば目に映らない。その方が恥じらいも半減する。
そう私が話しても不二子さんは首を捻るばかりであった。
まあ、その一工夫が要らぬ騒動に繋がってしまったわけだ。
あまりにも他愛のない話ばかりが認められていたので、そこに隠された隠語や忍者文字を探していたらしい。果ては私が暇を頂きたいなどと書いたのではないかと勘繰りもしたとか。
そんなわけがないと言うのに。
「それは何か隠されてると思っちゃうよ」
「反省しています。……私は文を書くことはどうやら向いていない。兵助からの文も三回のうち一回返していれば良い方でしたし」
「その節はなんか……すみません」
「貴女が謝ることではないですよ。……これからは緊急時以外は直接伝えるようにします」
文字ではなく、直接聞きたい。三郎次にもそう言われてしまった。
あの小文にひっそりと認めた気持ちも、今後は本人に直に伝えることにしよう。
この騒動は一通の小文から始まった。
先に結論を述べておこう。二日と半日ばかりずっと心ここに非ず状態だったということを。
今日は忍術学園の特別講師として呼ばれ、四年生たちを相手に組手の演習を行った。
生徒たちは実力がついてきている。それに個性も豊かで、というか豊かすぎてクセの強い奴らばかりだ。まあ、そうじゃなきゃ此処で四年も過ごせないか。この先もっとクセどころか灰汁が強くなるんだろうな。
組手指導を終えてようやく放課後を迎えた。
最近は実技講師として呼ばれることも増えてきた。特に三、四年生を相手にしたものだ。
下級生相手だと力加減が難しいから、その辺はそこまで気を使わなくて済むからちょっと助かる。
明日は二年生の座学講師を頼まれている。忍者文字についての授業補佐だ。
今までも連日講師を頼まれたことは少なくなかった。朝早い授業の時は泊まりがけのこともある。
そこで今夜は泊まっていくかどうかで俺は悩んでいた。
今日は霧華さんがいない。二日ばかりの忍務に赴いている。だから、家に帰っても誰もいないし一人きりだ。
別に寂しいわけじゃない。
今までも片一方が日を跨ぐ忍務に赴き家を留守にすることはあった。
でも、思えば卒業してからずっと行動を共にしてきたんだよな。もはや隣にいるのが当たり前すぎて。
どうしてか今日は、物寂しいと感じていた。
まるで胸の真ん中に風穴が空いたようで、冷たい外気が吹き抜けていく。
襟巻きの隙間にひゅっと潜り込んだ風が足早に立ち去っていった。
帰り道はもっと冷えそうだな。やっぱり学園に泊まっていくか。
「……凍えてなきゃいいけど」
あの人は意外と寒がりだ。
秋はあっという間に走り去って、冬の足音を偲ばせてくる。
「冬は好きじゃない」そう言う割に夏と変わらずに朝が早い。今朝も早起き競争に負けてしまった。
「寒いからまだ布団を被ってるといい」なんて言いながら厨で動かすその手は氷の様に冷たくて。時間に追われる必要が無い時は俺に任せてほしいのに。
特に冷え込んだ日は脇腹の古傷が疼くらしく、擦る仕草をよく見かける。だからいつも半纏を羽織らせて、寒さが和らぐようにぎゅっとする。
いつもより距離がほんの少しだけ縮まるから、冬は嫌いじゃない。
ふと、軽快に駆ける蹄の音を聞いた。
「三郎次先輩!」
名を呼ぶ声。そしてすぐ後に馬の嘶き。
振り返るとそこには懐かしい顔がいた。
一つ下の後輩――団蔵はひらりと軽い身のこなしで馬から降り、日に焼けた肌に白い歯を見せて笑った。
「お久しぶりです。お元気そうで」
「団蔵、久しぶりだな。荷物の配達か」
「そんなとこです。先輩は最近特別講師としていらっしゃってるんでしたっけ」
「まあな。それより、何か用か?」
「そうそう。忍術学園には荷を運びに、三郎次先輩にはこちらを預かってきました」
団蔵は懐から取り出した一通の小文をこちらにすっと差し出す。
文なんて珍しい。そう思いながらも受け取り「誰からだ?」と軽く口にした。
それがまさか。まさかの相手からだとは考えもしなかった。
「奥さんからです」
「……は?」
開いた口が塞がらなかった。
いや、なんで。だって今朝普通に見送ってもらったんだけど。
今日は俺の方が早く家を出た。霧華さんは昼から忍務だと言っていたし。
「三郎次先輩? どうかなされたんですか」
明らかな動揺を表に出してしまっていた。
団蔵があくまで不思議そうに、どうしたのかと尋ねてくる。どうしたもこうしたもない。
「団蔵。この文、いつ預かったんだ。というか団蔵が霧華さんから直接預かったのか」
「預かったのは今日の昼前で、直接預りましたよ。丁度良い所にって」
団蔵が言うには本人から直接この文を預かったと。しかも今日の昼前、つまり俺が家を出た後だ。
とある不安に顔が曇る。
「まさか、急に具合が悪くなったとかなんじゃ」
「いえ、すごくお元気そうでしたよ。これから仕事に行くとも言ってましたし」
「……じゃあ、なんで文なんかを」
「俺も変だなぁと思って聞いてみたんですよ。そしたら、面と向かってじゃ言いにくいからって仰ってました」
一緒に暮らしてる御夫婦なのに、文じゃなきゃ言えないことだなんて。喧嘩でもしてるんですかとまで団蔵は聞いてきた。笑いながら。
「なんたって三郎次先輩はいつも一言多くて人を怒らせる天才ですからね」
◇
「土井先生は居られますかっ!」
俺は職員室の戸をすぱーんと勢いよく開け放った。
文机の前に座っていた土井先生と目が合う。
俺の顔を見るなり目を皿のように丸くして「何事だ」と筆を持つ手を止めていた。
「どうしたんだ三郎次。顔がぐしゃぐしゃじゃないか」
「じ、実は……斯々然々で」
俺は簡潔に今さっきあったことを土井先生に漏れなく伝えた。
団蔵が届けに来た文を床上に置き、それを挟む形で先生の顔を伺う。
霧華さんからの小文は折り畳んだそのままだ。中はまだ一切見ていない。というか、怖くてとてもじゃないけど読めない。
話を静かに聞いてくれた土井先生は両腕を組み「うーん」と目を瞑り唸る。
「団蔵が言うには普段通りの様子で体調も良さそうだと。急を要する様な内容とは考えにくい」
「はい。今朝は体調が悪そうには見えませんでした。……天気も崩れる心配はなさそうだったし」
霧華さんは天気が悪くなる予兆を感じると体調を崩されやすい。
薄曇りや雨が降り出した時はそうでもないんだけど。空全体を分厚い雲が覆うような日は要注意だ。
土井先生が背後を振り返った。
格子窓から薄い青空が覗く。外は風が少し冷たいだけで、穏やかそのもの。
因みに件の状況は土井先生も存じておられる。
「仕事に関してでもないだろうし。我々忍者は例え家族でも内容は伏せる」
「仰る通りです」
俺は敢えてそこで言葉を区切った。
確かに家族や親しい者でも忍者は仕事内容を公にしてはならない。けど、俺たちは向かう方角や方面だけは互いに伝え合っていく。
帰りが遅いとか、何か情報を聞きつけた時に向かえる様にだ。でも幸い今までそういった危機に面したことはない。そして今回も危険な忍務ではないはずだ。
忍務に関する内容を文に認めるなんて、敢えて危険を冒す真似もしないだろうし。
体調不良、仕事内容。二つの可能性は潰された。
そうなると益々不安が募る一方だ。
じわじわと滲み出る様に浮かび上がる、数ヶ月前に学園で起きたとある出来事が。
「面と向かっては言い難いこと。……ややを身籠ったとかじゃないのか?」
その何気ない、しかもやんわりとした笑顔付きの一言にぴたりと固まった。
一瞬そうなのかと考えが頭に過ぎる。でもそれは有り得ない。例えそうだったとしても文じゃなく直接言って欲しい。
「いや、そんな状態ならそもそも仕事に行かせないんですけど?!」
「三郎次にそう反対されると思ってわざわざ文で」
「反対するに決まってるじゃないですか! 安静にしてなきゃ駄目なんですし!」
「まあ、落ち着きなさい。それで、その心当たりはないのか?」
「ありません」
「そうか」
きっぱりと答えれば先生が眉を下げて笑い返した。
それから今度は口元をへの字に結び、再び悩み始める。
「そうでもないとすると……というよりも、お前たちそもそも文のやり取りは」
「そりゃ、在学中は。でも稽古の日程調整とかそれぐらいでしたよ。思えば普通の文は……ないですね」
「筆不精だと自分で言っていたからなぁ。文の書き方を訊かれたぐらいだし」
齢十歳の子が文の書き方を訊ねるのはそう珍しいことでもない。
ただ、土井先生が言うには霧華さんが一年次に「文とは何を書けば良いのですか」と紙と筆を持ってきたそうだ。その幼い顔には本当に何を書けばいいのかわからないと浮かんでいたらしい。
その年は先生の指導の元で「寒くなってきましたが、皆様お変わりありませんか」「友人と共に勤勉に励んでおります」とかを認めたらしい。
「そもそも一緒に暮らしてるのに、普通の文は送り合わないのではないですか。それこそ緊急時ぐらいしか場面が浮かびません」
「うーん……そう、かもしれんなぁ普通は」
先生は微妙に歯切れの悪い言葉で留め、句読点の変わりに苦笑いを打つ。
何か例外を知っている。そんな様子でもあった。
「兎に角、僕らは普段文のやり取りはしないんです。だから、もしかしたらこの文の内容は」
「文の内容は?」
「……不満とか離縁の話で、暇を頂きたいとかそういうものなんじゃないかって」
頭を垂れた視線の先に映る文。
あの頃は内容が簡素な物でも、霧華さんから文が届くと物凄く嬉しかった。
数年ぶりに好きな人から貰う小文がよもやこんな形だなんて。
俺は膝の上で拳を握りしめた。
「少しは落ち着きなさい三郎次。うう……落ち着け私の胃」
「直接言い難いって、つまりそういうことじゃないですか」
「そうとは限らんだろう。そもそも、その兆しはあったのか?」
怒らせた原因となる兆し。そんなもの思い返せば幾らでも見つかる。
三日前に薪を取り損ねて足元にぶつけてしまった。
一昨日は近所のおばちゃんたちの井戸端会議に長時間捕まってしまい、そろそろ離れたいと思った所を霧華さんが助け舟を出してくれた。あの時ちょっと機嫌が悪そうな気もしたんだ。
ああ、それと少し前だけど滝夜叉丸先輩のブロマイドを柱から剥がしたせいもありそうだ。
「……お前は紅蓮がそんな小さな事で不満を抱く様な心の狭い人間だと思っているのか。そもそも最後のブロマイドの件は何なんだ」
「積もり積もればって言うじゃないですか。滝夜叉丸先輩のブロマイドは話せばものすごーく長くなります」
「じゃあその件については触れないでおこう」
その方が絶対にいい。なにせ七年前まで話を遡らないといけないんだから。
「……あの人、僕に対して不満をあまり言ってくれないんです。完璧な人間なんて存在するわけない。絶対一つや二つあるはずなのに。……土井先生」
霧華さんが家に帰って来なかったらどうしよう。
口から出かけた言葉を呑み込んだ。
言葉には力が宿る。音に現して本当にそうなったら嫌だ。
「三郎次」
すっかり項垂れてしまった頭をゆっくりと上げる。そこには微笑を携えた土井先生の顔。
それは昔目にした、教え子に優しく教えを説いていた時の物と同じだった。
嗚呼、何年経とうとこの人は僕らの教師であり恩師であることに変わりないんだ。
「お前が不安に思う気持ちもよくわかる。だが、少し考えすぎだ。あの子は何かある前に必ずお前に話をするよ。三郎次が気にする事はきっと紅蓮にとってはほんの些細な事でしかないんだろう」
「そう、なんでしょうか」
「ああ、そうだとも。それらを全て許せる程に三郎次のことを好いている証拠だ。そしてお前も紅蓮のことを同じくらい好いている」
「……とっくに好き通り越して愛してますよ」
ぽつりと呟いた言葉は文に吸い込まれるようにして消えた。
「それは本人に直接伝えてあげなさい」土井先生は胃の辺りを擦りながら笑っていた。
「兎に角、文を読んでみないか」
「はい」
手を伸ばして文を掴んだ指先は小刻みに震えていた。心臓もやたら煩く鳴っている。
丁寧に折り畳まれた文を広げると、先ずその時点で妙な文章を見つけてしまった。
書き出しが『拝啓 池田三郎次様』から始まったのは良い。最初の話題が二行程書かれていたかと思えば、その後はずっと空白の行が続いた。
そして紙の末端に書かれた差出人の名前。『敬具 池田霧華』と間違いなく筆跡は霧華さんのものだった。
暫くその空白とにらめっこをして、ハッと閃いた。
「土井先生。灯りを貸して貰えますか」
「勿論。少し待っていなさい」
快く頷いた先生の顔も明るかった。
先生もこの文に仕掛けられた謎を解く鍵に気づいたんだ。
「あからさまな空白の部分。これは忍者が情報を伝える為の手段の一つ、炙り出しだ」
「炙り出しとは墨の代わりに果物や大豆の汁を用いて書いた文字のこと。それで書かれたものはこうして……火で炙ると」
灯明皿の火へ慎重に文の背面を近づける。
ジリジリと焦げた臭い。それと共に真っ白な文に同じ筆跡の文字が浮かび上がってきた。
先に全ての文字を炙り出し、火から遠ざけた場所で文に目を走らせた。
◇◆◇
真上に登っていた太陽が傾き始めた。
予定通りの二日半で忍務を終えた私は我が家ヘの帰路に着いていた。
道すがら私は左手の甲に目を落とす。
昨夜、逃げる際に相手の分銅が掠めた。痛みの程度から骨に軽くヒビが入っていそうだ。部位も腫れている。今は手甲で隠せているが、これは三郎次に隠し通せないな。腫れが引かないことにはどうにも。
何はともあれ利き手ではない方で助かった。日常生活にも支障が出てくるからな。
『何かあったら直ぐに医者に診てもらうこと。若しくは僕の所へ。君は昔も今も怪我が絶えないんだから』
友である伊作の声が聞こえた気がした。
私は人知れず溜息を吐く。
明日は非番だし、理由を話して忍術学園に出向くとするか。
それから一里ばかり歩き、町長屋に到着した。
我が家の玄関が見えた所で、私は足を止める。
家の中に人の気配。しかも二つだ。
一つは三郎次のもの。やけに落ち着きがない気もするが、間違いなく三郎次だ。
もう一つは、誰だ。客人でも来ているのか。
私は妙な気配に気を取られながらも、我が家の玄関前に立つ。
その時であった。
ガラッと勢いよく玄関戸が開け放たれた。
家の中から出てきた三郎次は何とも言えない表情――二年前くらい前、私が死の淵から戻ってきた時に見たものと酷似している。
まさか、この怪我を察知したのか。いや伊作じゃあるまいし。
「良かった帰ってきた! お帰りなさいっ」
開口一番、涙ぐんだその声。
「どうしたんだ」そう聞くよりも先に三郎次の腕に抱き竦められてしまった。
肩口に寄せてくる頭。私の視界に映る柳葉色。それと部屋の中にいる見知った顔が一つ。
「……土井先生? 何故我が家に、と言うよりもどうしたんだ三郎次」
右手で背を優しく二度叩いても返事はない。その代わりに腕の力が強められた。
「どうしたもこうしたもない。お前が普段出さない妙な文を送るからだ」
囲炉裏の前で土井先生は呆れた声を出された。溜息付きで。
話は不鮮明だがとりあえず玄関の戸を後ろ手で閉め切り、なんとか三郎次を宥めた。
三郎次の目尻には薄っすらと涙が滲んでいた。いや、本当に何があったんだ。
何も喋らず、黙ったまま私の左手に触れようとしたので思わずその手を引いてしまった。
途端に三郎次が目を見張る。ああ、これは左手の怪我に勘付かれたな。
眉間に皺を寄せた三郎次に右手を引かれ、囲炉裏の前へと連れてこられた。
囲炉裏を挟んだ状態で二人並び座る。それはいいが、三郎次との距離が近い。膝が触れる程寄り添われている。
「……それで、何があったのか話していただけますか。文というのは私が二日程前に三郎次宛に出したものでしょうか」
先生が指す文にはそれしか心当たりがない。二日と半日ばかり前に三郎次を見送ってから馬借の加藤に預けた文だ。あの文に何か問題でもあったのだろうか。
「大有りだ。お陰で一昨日からずっと三郎次がこの調子なんだ。お前がやたら滅多に書かない文を出すもんだから、三郎次が何かあったんじゃないかと勘繰ったんだよ」
「何か……いや、何もありませんが」
深く、長い溜息が土井先生の口から吐き出された。それは緊張が解れたとも取れるし、呆れ返ったようにも取れた。
「それを本人の口から聞けて良かったよ。三郎次、これで安心したな」
「……はい」
「あの、本当に何があったんですか。……先程の話からすると、私が書いた文をもしや土井先生も読まれて」
「ああ、読ませてもらったよ。ご丁寧に炙り出しまで使った文をな」
「あ、あれは……その」
三郎次に宛てた文だというのに、何故土井先生も読まれているんだ。
あの文には三郎次への思いが。俄、頬に熱を帯びていく。
「大体なんだあの文の書き方は! お前が一年生の時に私が文の書き方を教えたはずだぞ!」
しかし私が恥じらう暇すらも許されず。
土井先生のお説教はそこから止まらなかった。
その後も「教えたはずだ、教えたはずだ」と呪詛のように繰り返した土井先生の話を食堂で話せば「大変だったみたいだね」と不二子さんから返ってきた。
「……やはり慣れないことはしない方が良いですね。身を持って知りました」
「まあ、タイミングが悪かったんじゃないかなそれ」
空になった湯呑みに茶を注いだ不二子さんは椅子に座り直した。
以前、不二子さんと兵助が文のやり取りをしていると聞いた。
学園内に互いに住み込みでいるというのに、そんな至近距離で文をやり取りするものなのかと最初は驚いた。文は遠く離れた相手に送るものだと念頭にあったせいだ。
身近で起きたそれこそ他愛ないことを認め、送りあったという。
私は筆不精だ。
文を書く頻度は本当に少ないものだったし、初めて出した文は実家宛のもの。それも一年に一度という縛りがあった故に、文を認める回数が他よりも少なかった。私が筆不精になったのはその所為でもありそうだ。
それはさておき、ここは不二子さんたちを見倣って私も一筆取ろうかと思い立ったのである。
まさかその文があんなことになろうとは。
文騒動の翌日。学園へ訪れた私は医務室で左手を診てもらい、処置を受けてから食堂に顔を出した。
左手の甲は予想通りヒビが入っているようで。伊作には「無理は厳禁」と釘を刺されてしまった。
包帯で巻かれた私の左手を見る度に不二子さんは痛々しい顔をする。
いっそ折れてくれた方が治りは早いのですがと添えれば、余計に顔を顰めてしまった。
「あれ、池田くんも今日は非番だよね」
「ええ。一緒に来ていますが、先程四年生たちに声を掛けられていました」
「ほんとは霧華さんの隣にいたかったんじゃないかな」
「まあ、そんな感じはしましたね」
昨日は土井先生がお帰りになられた後も、ずっと私に引っ付いていた。その癖口数が少ないものだからどう扱って良いのか悩んだ。
「どんな内容書いたの?」
「貴方がたを見倣い取り留めのないことを。……それを炙り出しで書いたせいもあり、何か意味が含まれているんじゃないかと疑心暗鬼になってしまったそうです」
「……なんでわざわざ炙り出しに」
「いえ、その……最初は墨で書いていたんです。それが書いているうちに恥ずかしくなり、それならば炙り出しにしようかと」
墨と違い果汁で書いたものならば目に映らない。その方が恥じらいも半減する。
そう私が話しても不二子さんは首を捻るばかりであった。
まあ、その一工夫が要らぬ騒動に繋がってしまったわけだ。
あまりにも他愛のない話ばかりが認められていたので、そこに隠された隠語や忍者文字を探していたらしい。果ては私が暇を頂きたいなどと書いたのではないかと勘繰りもしたとか。
そんなわけがないと言うのに。
「それは何か隠されてると思っちゃうよ」
「反省しています。……私は文を書くことはどうやら向いていない。兵助からの文も三回のうち一回返していれば良い方でしたし」
「その節はなんか……すみません」
「貴女が謝ることではないですよ。……これからは緊急時以外は直接伝えるようにします」
文字ではなく、直接聞きたい。三郎次にもそう言われてしまった。
あの小文にひっそりと認めた気持ちも、今後は本人に直に伝えることにしよう。
