軽率なコラボシリーズ
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重ね、贈る想い
「……豆腐?」
俺は思わず聞き返してしまった。
長屋で夕餉を終えて間もなくしてから霧華さんに「まだ腹に余裕はあるか」と聞かれて頷いた矢先のことだ。
「豆腐を作ってみたから試食してほしい」と言われて冒頭に戻る。
小鉢に寄せられた白い豆腐。形は緩く崩れていて、普通の豆腐ではない独特な匂い。この匂いには憶えがあった。
忍術学園の食堂で食べた記憶が薄っすらとある。
「……なんでしたっけ、これ。なんちゃら豆腐」
「杏仁 を使った甘味だそうだ。これを使った甘味を杏仁豆腐と不二子さんの時代では呼ぶらしい」
「ああ、そういえば。そんな名前でしたね。でも杏仁って」
杏仁とは杏の種をすり潰したもので、薬になる。鎮咳効果があって、喘息や乾いた咳に効くと左近から聞いたことがあった。
それが甘味の材料になるのか。まあ、薬膳料理というのがあるし甘味としても成り立つんだろう。
「杏仁って薬のですよね。鎮咳の効能がある」
「そうだ。あくまで薬だから食べ過ぎは身体に害を及ぼす。偶にか風邪を引いた時に食べるのが良いと伊作も話していたよ」
「甘味というよりは薬膳ですよね。いただきます」
竹の匙を入れた感触は豆腐よりも少し軟らかく、寒天に近い硬さ。
ほんのりとした風味の甘さが口の中に広がる。牛臭さが良い感じに緩和されているし、癖のある味が美味しい。それに喉越しも優しい。確かに喉を痛めた時にうってつけの薬膳甘味かもしれない。
霧華さんはまだ小鉢に手をつけておらず、俺の感想待ちなんだと窺えた。
「美味しいです」
忖度なしにそう述べれば、少し不安そうにしていた表情に明かりが灯る。
俺は霧華さんの作るもので嫌いだったり、不味かったりと思ったことはないんだよな。
「そうか。良かった。……気持ち寒天の量が多かった気もしたんだ」
「前に食べたことあるやつよりも確かにちょっと固めかも。でも俺はこっちの方が好きです」
確かに匙で掬った感じは豆腐より柔らかく、茶碗蒸しより固い。でも、これはこれで美味しいから文句の付けようがない。
霧華さんは褒め言葉にも敏感な人だ。
お世辞や建前、社交辞令のような流れで贈られた言葉は受取りはするものの、あくまで建前だからと本気にしない。
でも自分の気にしていることに対しては別だ。
髪の先を飾った組紐が似合うか、新しく下ろした紅が違和感ないかとか。
どちらも俺が霧華さんに贈ったものだし、どっちも当然似合っていた。
それを褒めると、ふわりとはにかんだ表情をしてくれるんだ。
そう、今みたいに。
「気に入ったのならまた作ろう」
「霧華さんが食べたい時にで良いですよ」
小鉢に添えられた手。竹の匙を持ったまま霧華さんはきょとんとした顔で俺を見る。
「気に入ってるんですよね」
そう返せば「えっ」と意外そうな顔をされた。
いや、だって。
◇
「霧華さん、好きなものは自分でも作りたがる傾向があるんですよ」
つい先日のことを食堂に集まった顔ぶれに話すと、二つほど頭が頷いた。
「美味しかったものはそりゃ自分で作って食べたくなるんじゃない。あと、美味しいと思ったものは他の人にも食べてもらいたいし。特に好きな人に」
一番手は久々知さん。久々知先輩に抱えられ、膝の上に座らされている。もうこの際このことにはツッコミは入れないことにしていた。
「昔から食堂で気に入った料理は自炊の時によく作ってたからな。肉じゃがもその一つだ」
続いて食満先輩の証言。
在学中は食堂のおばちゃんが不在の時や食いっぱぐれた時に作っていたという。
手に入りやすい食材、調味料であればそれなりに再現していたとも。
学園が運営する食堂だからこそ作れるものがある。
此処では一般市場に普及していないもの――輸入された珍しい調味料とか調理法のことを指す――も割と手に入りやすい。
つまり、南蛮の調味料を使ったカレーや麻婆豆腐がその類に入ってしまう。だから一般人として暮らす俺たちがこれらを再現するのは中々に難しいんだ。お金も手間もかかるし、場合によっては調理器具も揃えなきゃいけない。
「まあ、料理の腕はそこそこだった気もする」
「そうなの? そういえば私、霧華さんの作った料理ちゃんと食べたことないかも」
「そりゃそうだ。不二子さんは飯を提供する側なんだし」
「でもたまに食堂の手伝いしてくれるんだよ。池田くん待ちの時とか」
学園の卒業生である俺と霧華さんはよくここに訪れる。その実力と知識を買われ、特別講師として招かれる頻度が増えてきた。講師料もしっかり頂いてるので、フリーの忍者としてはかなり有り難い話。
片方の講義が終わるまでの待ち時間や別件で往訪した時にこうして食堂に集うことも増えた。
霧華さんは俺を待つ間、食堂で久々知さんの手伝いをすることもある。本当にちょっとした手伝いで、材料の下拵えや盛り付けをするぐらいだ。
「生徒はおばちゃんと不二子さんの作った料理を楽しみにしているんだ。私が介入するわけにもいくまい」と、なんとも霧華さんらしい意見。
だから霧華さんの手料理を食べたことない人がいても不思議じゃないし、むしろそのことにちょっとした優越感すら覚える。
「僕は好きですよ」
「そりゃあそうだろ。三郎次のバヤイは」
「奥さんの手料理だもんね」
「そ、それはそうかもしれませんけど。……久々知先輩、なんですか人の顔ジロジロ見て」
特徴的な四角い目がじっとこちらを見つめてくる。
四角い物を見ると豆腐が脳内に浮かぶ。ここだけの話だけど、在学中よりもその頻度が高くなってしまった。それもこれもこの先輩、いや豆腐夫婦のせいだ。
久々知先輩は御内儀の肩に顎を乗せ、頬と頬をくっつけながら話している。
人と話をする時ぐらい離れたらどうなんだこの人。
「三郎次のことだから不味い時はハッキリと言いそうだよなぁって。でも、不二子さんが言う通り最愛の奥さんが作ってるから、そこはお世辞を言うのかどうか……どっちなのかなぁと気になったんだ」
「遠回しにそれ料理が下手で不味いって貶してません? 本当に美味しいから言うに決まってるじゃないですか! それに、不味かったことなんて一度もありませんよ!」
一息にそう言葉を吐くと、その場にいる全員にきょとんとされた。食満先輩にまで。
そこまで言い切ってから自分が何を口にしたのかようやく理解した直後、俄かに頬が熱を帯びた。
「それも一種の惚気だよ」
「惚気てなんかいませんっ!」
「霧華さんとおんなじこと言ってる。ね、留くん」
「……どうしてこの場に紅蓮がいないんだ。お前たちはお互い居ない所で惚気るのが趣味か?」
「趣味なワケないでしょう!?」
刹那、食満先輩は遠い目をした後に目頭を揉むように抑えた。
それからちらりと俺の方に視線を向ける。相変わらず目つきが悪くて、怒ったら怖そうな顔だ。
「前にあいつはこう言ってたぞ。三郎次の魚を捌く腕前で右に出る者はいない。つみれ汁は最高に美味くて、俺たちにも食べさせてやりたい程だ……ってな」
確かにそう言われてみれば、魚料理は俺が担当することが多い気がする。
あれはいつだったか、兵庫水軍の重さんたちから頂いた魚を捌いた時のこと。やけに感心した様子で「すごいな。鮮やかな手つきだ」と褒めて貰ったことがある。
その日は褒められたのが嬉しくて、つい魚を捌き過ぎてしまった。
つみれ汁、刺身、練り物、白焼きに蒲焼き。手分けして調理をしたはいいけど、とても二人じゃ食べ切れない量が出来上がってしまって。
だから、日持ちしないものはご近所さんにお裾分けをしたんだ。その時耳にした会話がこれ。
「美味しそうねぇ。え、旦那さんが捌いて作ったの? すごいわねぇ!」
「ええ。夫は魚料理が得意なんです」
近所のおばちゃんに褒められたのがよほど嬉しかったのか、ずーっとニコニコしていらっしゃった。
「それは三郎次のことを褒められて物凄く嬉しかったからだよ」
霧華さんはご友人や後輩のことを褒められると、ご自分のことのように頬を緩められる。
単に自慢の友人や後輩であるから。
昔は俺もそう思っていた。でも、最近になってそれは「自分にとって大切で掛け替えのない人」だからということに気がついた。そこには友情や愛情の垣根を越えた感情が込められている。
自分が大事に想っている人のことを褒められたら、そりゃ嬉しくもなるよな。
今度新鮮なお魚が手に入ったらつみれ汁にしようかな。そろそろ脂の乗ったイワシも獲れる頃だし。
「池田くんがニコニコしてる」
「怒ったり笑ったりして忙しないなぁ」
「五車の術に掛けられてころころ表情変えてた先輩に言われたくありません」
タカ丸さんが四年次の時に「四年生のリーダーを決めよう」っていう話があったらしく。そこに偶々居合わせて、首を突っ込まされてしまった久々知先輩。豆腐のことを褒められたり、貶されたりして百面相を披露したとかなんとか。
その時は先輩もまだ忍たまだったし、感情の統制が取れてなかったんだろうけど。でも、今もそれは何か変わらない気がする。
今は最愛の久々知さんが傍にいるおかげか。とてつもなく、この上なく幸せだといった穏やかな表情でいらっしゃる。
「あ、そういえば三郎次」
「何ですか」
突然何かを思い出しかのように久々知先輩が声を上げた。よいしょと久々知さんを抱え直しながら。
「先輩にあれ渡したのか」
その一言に俺は言葉を詰まらせた。
久々知先輩に向けていた視線をそっと逸らす。
それだけで事の次第を理解したのか今度は「えっ」と、口をぽかんと開けて驚かれてしまった。
「まさか、まだ渡してないのか。だってあれ買ったのって……結構前、だよな」
「うっ。いや、ちょっと色々あって、なんだかんだまだ渡せてなくて」
「おかしいと思ったんだ。不二子さんからもその類の話聞いてなかったし」
「え、なんの話? あれって?」
久々知さんが俺たちの顔を順番に見て、ついでに食満先輩の顔も見た。いや、食満先輩は全くわからない話だと思いますそれは。
両肩を竦めてみせた食満先輩も「何の話だ」と口を挟んでくる。
「先日、三郎次は先輩に贈る為の櫛を買ったんですよ」
その問いに俺が口を開くよりも先に久々知先輩が答えた。
今ここに霧華さんがいなくて本当に良かった。今日は別件で動いているんだ。
「へぇ。良いじゃないか。でも、今の話ぶりからして相当前に買った様に思えるんだが」
「早く渡してあげたら? 直接、顔見ながら手渡しで」
「……なんか痛い所を突かれている気がするのは気の所為かなぁ」
「だって私が貰った櫛は誰からかわからなかったし」
「だから、俺なんだけど」
久々知さんは櫛の件を未だに根に持ってるみたいだった。
櫛はそっと部屋の前に置かれていたらしく、雪解けの水で字が滲んでしまったこともあって贈り主不明。
その話を事ある毎に繰り返す御内儀。最早久々知先輩の反応を見て楽しんでいるようにも思えた。これも一種の語り草として代々受け継がれていくんだろうな。
「そうだ。まだ渡してないなら名前掘ってもらったら?」
「名前?」
「うん。私たちもお互いに名前入れたもの持ってるんだよ。私が久々知で、兵助くんが持ってるのは不二子って入ってる」
「……とりあえず、深くは突っ込まないでおこう」
「はい。仲が良すぎて胃もたれしてきますからね」
蚊帳の外である俺と食満先輩はお互いに頷き合った。
名入れは確かに珍しいことじゃない。けど、流石にちょっとそれは恥ずかしい。
「それは兎も角、早めに渡してしまった方がいいぞ」
「わかってはいるんですが、中々良い機会がなくて」
「しれっと渡せばいいじゃないか。はい、これって」
「久々知先輩はちょっと黙っててもらえます?」
「ひどい!」と聞こえてきた声は敢えて無視した。しれっと渡して何も気づかれなかった前例がある人にとやかく言われたくない。
そこで食満先輩の顔が険しいものに変わった。
「その櫛、まだ紅蓮は何も気づいていないというか、勘付いてないんだな?」
「え、ええ。多分ですけど」
「それなら尚の事あいつが何か勘付く前に渡した方が良い」
「留くんの言う通りかも。自分宛てならなんで渡してくれないのかなぁって思うし、もしかして別の誰かに渡すものかなって勘違いしそう」
「そ、そんな事態に。まさか」
「有り得んとは言い切れん。あいつは自分事には鈍いが、他人事には鋭い」
妙な説得力を感じるのは食満先輩だからこそだ。自称鋭い久々知さんが言うこともお墨付に変わる。
「少しでも変に疑われでもしたら、たちまち崩れるように悪化するだろう。そうならないよう、早めに渡してしまった方がいい」
それを聞いて、照れ臭いとかそういうことはもう言ってられないのかもしれなかった。
ちょっと大袈裟すぎやしないかとも思うけれど、周囲を騒がせた良くない前例が目の前にいる。
真顔で苦言に近いものを聞かされた俺は頷くことしかできなかった。
◇
少し不穏な空気に脅された俺はそそくさと食堂を後にした。
学園から帰る前に教員長屋に足を運び、先生方にご挨拶を。そう思ったのだけど、土井先生と野村先生は出張中でいらした。
無駄足になりながらも長屋から引き返す途中、廊下の分かれ道でやや久しぶりの顔を見つける。
「三郎次くん」
俺と顔を合わせるなりタカ丸さんは目を弓なりに細め、口角をきゅっと引き上げた。
タカ丸さんは髪結処に立つ仕事着姿だ。髪結いとして学園の誰かに呼ばれたのかもしれない。
「お久しぶりですタカ丸さん」
「うん、久しぶり。元気そうで良かった。紅蓮くんも元気にしてる?」
「お陰様で元気です」
「髪は伸びた? あれから斬られてない?」
柔和な笑顔から一転。タカ丸さんの顔に般若の面が張り付きそうになる。
タカ丸さんの言う“あれから”とは、霧華さんの後ろ髪が曲者のせいでざっくりと持っていかれた日のことだ。
ざっくばらんになってしまった髪をタカ丸さんの所で整えてもらったけど、腰まであった結髪が肩までの長さになってしまって。怒りに震えたのは俺だけじゃなく、タカ丸さんも相当怒っていた。
あまりの気迫に俺も引いてしまうほどに。今にも髪が逆立つんじゃないかと。
「タカ丸さん、髪のこととなると相変わらずですね」
「そりゃそうだよ。紅蓮くんに怪我がなかったのは良かったけど、髪があんなことになってたんだから。……今思い出してもその曲者が憎たらしい」
「タカ丸さん。声が怖いですよ」
声の調子が普段よりも一つ低くなったタカ丸さんの声が、怖い。辻󠄀刈り時代を思わせる。でも気持ちは十二分にわかる。
「……まあ、もう過ぎ去ってしまったことだから怒っても仕方がないんだけどね」
「そして急に落ち着きますね。……タカ丸さんの言う通りではありますけど」
「因果応報とも言うでしょ。それはともかく、今度また髪結処においでよ。お代少し負けてあげるから」
「有難う御座います。霧華さんにも伝えておきますよ。タカ丸さんが是非来て欲しいって仰ってたと」
後輩大好きな霧華さんのことだ。こう言えば「都合の良い日はいつだ」って直ぐに俺に聞いてくるに決まっている。あれ以来タカ丸さんの顔も見てないだろうし。
今日学園に立ち寄った理由は学園長先生に髪結を依頼されたそうで。タカ丸さんが出張髪結いとしていらした。
髪結処斉藤は今も変わらずに大行列ができる店だ。そこに並ばずに髪結いをしてもらうだなんて。
「職権乱用もいいとこじゃないですかそれ」
「大丈夫。出張料もちゃんと貰ってるから」
「割増料金も取って良いと思いますよ」
「うーん……時と場合に応じてそうしようかな。お客さんありきの商売だし、無闇矢鱈に値上げしちゃうとねぇ」
そう言って顎に手を当て、天井を見上げながら唸る。
タカ丸さんは編入生として学園に入ってきた時は忍術の知識がそれはもうさっぱりだった。下級生に教わる場面も多くて「年下に教わるの悔しくないんですか」と不思議に思ったこともある。
「知らないことを学ぶのに年齢は関係ないよ」
柔らかい笑顔でタカ丸さんはそう言ったことがあった。
この前向きな姿勢は見倣うべきだし、接客の技量は目を見張るばかりだ。
そんなことを思い返し、改めて接客業のプロだと感心していると、タカ丸さんの視線を感じた。
こちらの顔というよりも、髪にその視線が注がれる。
「あ、枝毛」
ぼそりと呟かれた言葉に俺は頭もとい髪をバッと庇う。タカ丸さんから一歩飛び退き、背を向けないようにした。
「と、ところでタカ丸さん!」
「うん?」
「そ、そのえーっと……そう、タカ丸さんなら櫛を好きな相手に贈る時はどんな風に渡しますか?」
「櫛?」
意識をこの傷んだ毛先から逸らすべく、咄嗟に出した話題。
人はこういった心が乱された時に悩んでいることを口に出してしまいがちだ。あくまで平常心でいなければ。どう綻びていくかわかったもんじゃない。それを心掛けていたというのに。
俺が振った突拍子もない問い掛けに不思議そうに首を傾げるも、相手は「ああ」と合点をぽんっと打った。
「紅蓮くんに贈るの?」
「う……なんでわかったんです」
「なんでって、紅蓮くん以外だったら流石の俺もひっくり返っちゃうよ」
「それは一生ないんで大丈夫です。……って、なんですかそのニヤニヤした顔」
「いやぁ。三郎次くんの一途っぷりを久々に見たなぁと思って」
「揶揄わないでくださいっ」
「怒らない、怒らない。それで、その櫛をどう贈るかって話だよね」
「……実は、斯々然々で」
櫛をだいぶ前に買ったこと。それを渡す機会をうっかり逃してしまったこと。さっき食堂で聞いた久々知夫妻のこと。早めに渡さないと大変なことになると脅されたこと。それらを簡潔にまとめて話した。
そうすると、タカ丸さんは笑顔のまま困った風に固まりかけていた。
「……その櫛、寝かせてるの? 飴色にする為にとか」
「違います! だから、渡す機会が全然なくって。久々知先輩に聞いたらしれっと渡せばいいとか言ってくるし、食満先輩には脅されるし。もう、どうしたら良いのかわからなくなってきて。だから、髪結いのタカ丸さんならどんな風に渡すのかお聞きしたかったんです」
「うんうん、なるほどねぇ」
二度頷いた後、タカ丸さんが笑いかけてきた。
目尻を下げて微笑む表情は、火薬委員会の委員長を務めてた時の後輩を見るものとよく似ていた。面倒見が良いところをみんなあの人から引き継いでいく。
「三郎次くんは紅蓮くんのことでどうしようかって悩むことが昔から多いね」
「そう、でしたか?」
「うん。鏡を渡す時だって、ずーっと機会を窺ってたじゃない? 自分の想いに気づいてからもずっと一途に追いかけ続けていたし。ちょっぴりヤキモチ焼きの所も見ていて可愛らしかったよ」
「最後の一言は余計ですタカ丸さん」
「ごめんごめん。それはそうと、櫛を渡したいならやっぱり髪を梳く時がいいんじゃないかな」
「髪を梳く時」
盲点だった。
本来の使い道が完全に頭から抜けていたんだ。確かに、それなら自然な流れで渡せそうな気がする。
「それ、いい方法ですね」
「でしょ? 好きな相手の髪を一番にその櫛で梳いてあげるのって、優越感も出るし。ヤキモチ焼きの三郎次くんにぴったり」
「だから余計な一言ですってば」
「あと、名入りが恥ずかしいならちょっとした模様を自分で掘ってみるのはどう? 彫刻刀があればできると思うよ」
「模様、ですか」
「忍者文字みたいなのでもいいし、二人だけがわかる特殊な印みたいなのがあれば特別感が増すよ」
印の入ったもの。真っ先に浮かんだものがあった。
霧華さんは親友の形見である棒手裏剣を常に忍ばせている。その棒手裏剣には元の持ち主がつけた印が刻まれていた。なんでそれを知っているのかというと、ここで話すようなものでもない。それはまた今度だ。
模様を彫るなら長屋に帰って作業をしたら絶対にバレるし、落ち着かない。
彫刻刀なら事務室で借りることができる。その情報をタカ丸さんから得た俺は「暇だから手伝おうか」と言う手を引っ張って一緒に行くことにした。頭に図案を思い浮かべながら。
◇
星明かりが煌々と照らす夜。
窓から差し込む青白い光と、灯明皿の灯りが室内を照らしていた。
手元を照らすには十分過ぎる。まるで昼間の様な明るさだ。と、思っていた矢先に灯明皿の灯りがふっと音もなく消えた。
灯明皿の側にいた霧華さんが手元の本を床に伏せ、覗き込むように身体を伸ばした。
「……ああ、油切れだ。明日足そうと思っていたんだが、間に合わなかったか」
「明日で良いんじゃないですか。もう遅いですし」
「そうだな。こう過ごしやすい季節になると、つい本に耽ってしまう。そろそろ寝るとしようか」
「あ、ちょっと待ってください」
読みかけの本に銀杏の栞を挟み、霧華さんが文机にそれを置いたところで俺は待ったをかけた。
俺も同じ様に栞を挟んだ本を文机に置き、隣に腰を下ろす。
「その前に髪、梳かせてください。櫛はあるんで、これで」
なんて言いながらタカ丸さんの真似事をするように櫛を構えてみせた。
何も変なことは言っていないつもりだ。寝る前に櫛で髪を梳かすのは普通で当たり前。それなのに、物凄く意外そうな顔を向けられていた。
「いや、まあ構わないが。どういう風の吹き回しかと思って」
「……偶にはいいじゃないですか。俺が髪梳くぐらい」
「そうだな。じゃあ、お願いするよ。……と、言いたい所だが。その前に」
難なく許可も得たし、これですんなり事が運ぶ。と、そうは問屋が卸さなかった。
霧華さんが俺の方――というよりは、手元を見た。いや、分かってはいるけど目敏すぎませんか。
外から差し込んだ光が鋭いその瞳に反射した。
「その櫛。普段三郎次が使っているものとは違うな」
「どっどうしてそう思うんですか」
「お前が持っている櫛には模様がない」
「……」
「ああ、いや。別にどうといった訳ではなく。ただ模様がちらと見えて気になっただけだよ」
あくまで気になったから。特段咎める様子もなくそう話す。
これ以上会話を引き延ばしたところで、猜疑の眼を向けられるだけだ。
話がややこしくなる前に。俺は持っていた櫛を霧華さんの手の平に置いた。
「この櫛は俺が霧華さんに差し上げる為に買った物です」
ちょんと乗せられた櫛に目を落とす霧華さんは暫く黙っていた。
ようやく上げた顔には「え?」と描かれている気もした。そこまで驚かれるとは想定外なんですけど。
「だいぶ前に買ったやつで、その。渡す機会が全然なくてですね。本当は買ったその日に渡したかったんだけど、左近たちが急に来たから」
「……ああ、四人で町へ出た時の。結構前の話、だな。確かに」
「ええ」
「その間、今日までずっと持ち歩いてたのか」
「はい」
正直に、素直にそう答えていたら霧華さんが急にひっそりと笑い出した。肩を震わせ、薄っすらと目尻に涙まで浮かべて。
「いや、すまない。……それでここ暫く三郎次の態度がおかしかったのかと思ってな。時々上の空だっただろう」
「そんなにわかりやすかったですか」
いつ渡そうか。
どうやって渡そうか。
そんなことを考えている間は確かに上の空だったかもしれない。そしてそれをやはりというか、完全に見破られていた。
「やましいことは何もありませんからね」
「そこまで杞憂せずとも。私は三郎次のことを信じている。……綺麗な桜彫りだ。両面に模様が施されているのは珍しいな」
櫛の表面は目の上側に桜模様が彫られている。そして裏面には猫の顔の輪郭と足跡が二つ。
「裏面の猫と足跡は、俺が彫りました」
「三郎次が?」
「職人じゃないんで、あんまり見栄えは良くないですけど」
あんまり細かい模様を彫るのは厳しいと感じた。本体の櫛が折れて壊れでもしたら元も子もない。簡単かつ霧華さんが喜びそうなものをと考えた結果これに落ち着いたんだ。
霧華さんは櫛の裏面ばかりをじっと見つめ、俺が彫った猫の模様を指でそっとなぞる様に撫でた。
「……すごいな。螺鈿細工の時も思ったが、三郎次は手先が器用だ。職人顔負けだよ」
感嘆混じりの吐息。
そこまで褒められる程のものじゃないのに、今日ばかりは嬉しい限りだ。
「宝物がまた一つ増えた。大事にするよ。有難う、三郎次」
ふわり。嬉しそうに笑う顔。
ああ、もっと早く渡せば良かったな。
幾重にも重ね、重ね続けた想いは減ることを知らない。
櫛を大事そうに持つその手にそっと触れた。
「この先もずっと。苦楽を共に、生涯隣に居させてください」
「……豆腐?」
俺は思わず聞き返してしまった。
長屋で夕餉を終えて間もなくしてから霧華さんに「まだ腹に余裕はあるか」と聞かれて頷いた矢先のことだ。
「豆腐を作ってみたから試食してほしい」と言われて冒頭に戻る。
小鉢に寄せられた白い豆腐。形は緩く崩れていて、普通の豆腐ではない独特な匂い。この匂いには憶えがあった。
忍術学園の食堂で食べた記憶が薄っすらとある。
「……なんでしたっけ、これ。なんちゃら豆腐」
「
「ああ、そういえば。そんな名前でしたね。でも杏仁って」
杏仁とは杏の種をすり潰したもので、薬になる。鎮咳効果があって、喘息や乾いた咳に効くと左近から聞いたことがあった。
それが甘味の材料になるのか。まあ、薬膳料理というのがあるし甘味としても成り立つんだろう。
「杏仁って薬のですよね。鎮咳の効能がある」
「そうだ。あくまで薬だから食べ過ぎは身体に害を及ぼす。偶にか風邪を引いた時に食べるのが良いと伊作も話していたよ」
「甘味というよりは薬膳ですよね。いただきます」
竹の匙を入れた感触は豆腐よりも少し軟らかく、寒天に近い硬さ。
ほんのりとした風味の甘さが口の中に広がる。牛臭さが良い感じに緩和されているし、癖のある味が美味しい。それに喉越しも優しい。確かに喉を痛めた時にうってつけの薬膳甘味かもしれない。
霧華さんはまだ小鉢に手をつけておらず、俺の感想待ちなんだと窺えた。
「美味しいです」
忖度なしにそう述べれば、少し不安そうにしていた表情に明かりが灯る。
俺は霧華さんの作るもので嫌いだったり、不味かったりと思ったことはないんだよな。
「そうか。良かった。……気持ち寒天の量が多かった気もしたんだ」
「前に食べたことあるやつよりも確かにちょっと固めかも。でも俺はこっちの方が好きです」
確かに匙で掬った感じは豆腐より柔らかく、茶碗蒸しより固い。でも、これはこれで美味しいから文句の付けようがない。
霧華さんは褒め言葉にも敏感な人だ。
お世辞や建前、社交辞令のような流れで贈られた言葉は受取りはするものの、あくまで建前だからと本気にしない。
でも自分の気にしていることに対しては別だ。
髪の先を飾った組紐が似合うか、新しく下ろした紅が違和感ないかとか。
どちらも俺が霧華さんに贈ったものだし、どっちも当然似合っていた。
それを褒めると、ふわりとはにかんだ表情をしてくれるんだ。
そう、今みたいに。
「気に入ったのならまた作ろう」
「霧華さんが食べたい時にで良いですよ」
小鉢に添えられた手。竹の匙を持ったまま霧華さんはきょとんとした顔で俺を見る。
「気に入ってるんですよね」
そう返せば「えっ」と意外そうな顔をされた。
いや、だって。
◇
「霧華さん、好きなものは自分でも作りたがる傾向があるんですよ」
つい先日のことを食堂に集まった顔ぶれに話すと、二つほど頭が頷いた。
「美味しかったものはそりゃ自分で作って食べたくなるんじゃない。あと、美味しいと思ったものは他の人にも食べてもらいたいし。特に好きな人に」
一番手は久々知さん。久々知先輩に抱えられ、膝の上に座らされている。もうこの際このことにはツッコミは入れないことにしていた。
「昔から食堂で気に入った料理は自炊の時によく作ってたからな。肉じゃがもその一つだ」
続いて食満先輩の証言。
在学中は食堂のおばちゃんが不在の時や食いっぱぐれた時に作っていたという。
手に入りやすい食材、調味料であればそれなりに再現していたとも。
学園が運営する食堂だからこそ作れるものがある。
此処では一般市場に普及していないもの――輸入された珍しい調味料とか調理法のことを指す――も割と手に入りやすい。
つまり、南蛮の調味料を使ったカレーや麻婆豆腐がその類に入ってしまう。だから一般人として暮らす俺たちがこれらを再現するのは中々に難しいんだ。お金も手間もかかるし、場合によっては調理器具も揃えなきゃいけない。
「まあ、料理の腕はそこそこだった気もする」
「そうなの? そういえば私、霧華さんの作った料理ちゃんと食べたことないかも」
「そりゃそうだ。不二子さんは飯を提供する側なんだし」
「でもたまに食堂の手伝いしてくれるんだよ。池田くん待ちの時とか」
学園の卒業生である俺と霧華さんはよくここに訪れる。その実力と知識を買われ、特別講師として招かれる頻度が増えてきた。講師料もしっかり頂いてるので、フリーの忍者としてはかなり有り難い話。
片方の講義が終わるまでの待ち時間や別件で往訪した時にこうして食堂に集うことも増えた。
霧華さんは俺を待つ間、食堂で久々知さんの手伝いをすることもある。本当にちょっとした手伝いで、材料の下拵えや盛り付けをするぐらいだ。
「生徒はおばちゃんと不二子さんの作った料理を楽しみにしているんだ。私が介入するわけにもいくまい」と、なんとも霧華さんらしい意見。
だから霧華さんの手料理を食べたことない人がいても不思議じゃないし、むしろそのことにちょっとした優越感すら覚える。
「僕は好きですよ」
「そりゃあそうだろ。三郎次のバヤイは」
「奥さんの手料理だもんね」
「そ、それはそうかもしれませんけど。……久々知先輩、なんですか人の顔ジロジロ見て」
特徴的な四角い目がじっとこちらを見つめてくる。
四角い物を見ると豆腐が脳内に浮かぶ。ここだけの話だけど、在学中よりもその頻度が高くなってしまった。それもこれもこの先輩、いや豆腐夫婦のせいだ。
久々知先輩は御内儀の肩に顎を乗せ、頬と頬をくっつけながら話している。
人と話をする時ぐらい離れたらどうなんだこの人。
「三郎次のことだから不味い時はハッキリと言いそうだよなぁって。でも、不二子さんが言う通り最愛の奥さんが作ってるから、そこはお世辞を言うのかどうか……どっちなのかなぁと気になったんだ」
「遠回しにそれ料理が下手で不味いって貶してません? 本当に美味しいから言うに決まってるじゃないですか! それに、不味かったことなんて一度もありませんよ!」
一息にそう言葉を吐くと、その場にいる全員にきょとんとされた。食満先輩にまで。
そこまで言い切ってから自分が何を口にしたのかようやく理解した直後、俄かに頬が熱を帯びた。
「それも一種の惚気だよ」
「惚気てなんかいませんっ!」
「霧華さんとおんなじこと言ってる。ね、留くん」
「……どうしてこの場に紅蓮がいないんだ。お前たちはお互い居ない所で惚気るのが趣味か?」
「趣味なワケないでしょう!?」
刹那、食満先輩は遠い目をした後に目頭を揉むように抑えた。
それからちらりと俺の方に視線を向ける。相変わらず目つきが悪くて、怒ったら怖そうな顔だ。
「前にあいつはこう言ってたぞ。三郎次の魚を捌く腕前で右に出る者はいない。つみれ汁は最高に美味くて、俺たちにも食べさせてやりたい程だ……ってな」
確かにそう言われてみれば、魚料理は俺が担当することが多い気がする。
あれはいつだったか、兵庫水軍の重さんたちから頂いた魚を捌いた時のこと。やけに感心した様子で「すごいな。鮮やかな手つきだ」と褒めて貰ったことがある。
その日は褒められたのが嬉しくて、つい魚を捌き過ぎてしまった。
つみれ汁、刺身、練り物、白焼きに蒲焼き。手分けして調理をしたはいいけど、とても二人じゃ食べ切れない量が出来上がってしまって。
だから、日持ちしないものはご近所さんにお裾分けをしたんだ。その時耳にした会話がこれ。
「美味しそうねぇ。え、旦那さんが捌いて作ったの? すごいわねぇ!」
「ええ。夫は魚料理が得意なんです」
近所のおばちゃんに褒められたのがよほど嬉しかったのか、ずーっとニコニコしていらっしゃった。
「それは三郎次のことを褒められて物凄く嬉しかったからだよ」
霧華さんはご友人や後輩のことを褒められると、ご自分のことのように頬を緩められる。
単に自慢の友人や後輩であるから。
昔は俺もそう思っていた。でも、最近になってそれは「自分にとって大切で掛け替えのない人」だからということに気がついた。そこには友情や愛情の垣根を越えた感情が込められている。
自分が大事に想っている人のことを褒められたら、そりゃ嬉しくもなるよな。
今度新鮮なお魚が手に入ったらつみれ汁にしようかな。そろそろ脂の乗ったイワシも獲れる頃だし。
「池田くんがニコニコしてる」
「怒ったり笑ったりして忙しないなぁ」
「五車の術に掛けられてころころ表情変えてた先輩に言われたくありません」
タカ丸さんが四年次の時に「四年生のリーダーを決めよう」っていう話があったらしく。そこに偶々居合わせて、首を突っ込まされてしまった久々知先輩。豆腐のことを褒められたり、貶されたりして百面相を披露したとかなんとか。
その時は先輩もまだ忍たまだったし、感情の統制が取れてなかったんだろうけど。でも、今もそれは何か変わらない気がする。
今は最愛の久々知さんが傍にいるおかげか。とてつもなく、この上なく幸せだといった穏やかな表情でいらっしゃる。
「あ、そういえば三郎次」
「何ですか」
突然何かを思い出しかのように久々知先輩が声を上げた。よいしょと久々知さんを抱え直しながら。
「先輩にあれ渡したのか」
その一言に俺は言葉を詰まらせた。
久々知先輩に向けていた視線をそっと逸らす。
それだけで事の次第を理解したのか今度は「えっ」と、口をぽかんと開けて驚かれてしまった。
「まさか、まだ渡してないのか。だってあれ買ったのって……結構前、だよな」
「うっ。いや、ちょっと色々あって、なんだかんだまだ渡せてなくて」
「おかしいと思ったんだ。不二子さんからもその類の話聞いてなかったし」
「え、なんの話? あれって?」
久々知さんが俺たちの顔を順番に見て、ついでに食満先輩の顔も見た。いや、食満先輩は全くわからない話だと思いますそれは。
両肩を竦めてみせた食満先輩も「何の話だ」と口を挟んでくる。
「先日、三郎次は先輩に贈る為の櫛を買ったんですよ」
その問いに俺が口を開くよりも先に久々知先輩が答えた。
今ここに霧華さんがいなくて本当に良かった。今日は別件で動いているんだ。
「へぇ。良いじゃないか。でも、今の話ぶりからして相当前に買った様に思えるんだが」
「早く渡してあげたら? 直接、顔見ながら手渡しで」
「……なんか痛い所を突かれている気がするのは気の所為かなぁ」
「だって私が貰った櫛は誰からかわからなかったし」
「だから、俺なんだけど」
久々知さんは櫛の件を未だに根に持ってるみたいだった。
櫛はそっと部屋の前に置かれていたらしく、雪解けの水で字が滲んでしまったこともあって贈り主不明。
その話を事ある毎に繰り返す御内儀。最早久々知先輩の反応を見て楽しんでいるようにも思えた。これも一種の語り草として代々受け継がれていくんだろうな。
「そうだ。まだ渡してないなら名前掘ってもらったら?」
「名前?」
「うん。私たちもお互いに名前入れたもの持ってるんだよ。私が久々知で、兵助くんが持ってるのは不二子って入ってる」
「……とりあえず、深くは突っ込まないでおこう」
「はい。仲が良すぎて胃もたれしてきますからね」
蚊帳の外である俺と食満先輩はお互いに頷き合った。
名入れは確かに珍しいことじゃない。けど、流石にちょっとそれは恥ずかしい。
「それは兎も角、早めに渡してしまった方がいいぞ」
「わかってはいるんですが、中々良い機会がなくて」
「しれっと渡せばいいじゃないか。はい、これって」
「久々知先輩はちょっと黙っててもらえます?」
「ひどい!」と聞こえてきた声は敢えて無視した。しれっと渡して何も気づかれなかった前例がある人にとやかく言われたくない。
そこで食満先輩の顔が険しいものに変わった。
「その櫛、まだ紅蓮は何も気づいていないというか、勘付いてないんだな?」
「え、ええ。多分ですけど」
「それなら尚の事あいつが何か勘付く前に渡した方が良い」
「留くんの言う通りかも。自分宛てならなんで渡してくれないのかなぁって思うし、もしかして別の誰かに渡すものかなって勘違いしそう」
「そ、そんな事態に。まさか」
「有り得んとは言い切れん。あいつは自分事には鈍いが、他人事には鋭い」
妙な説得力を感じるのは食満先輩だからこそだ。自称鋭い久々知さんが言うこともお墨付に変わる。
「少しでも変に疑われでもしたら、たちまち崩れるように悪化するだろう。そうならないよう、早めに渡してしまった方がいい」
それを聞いて、照れ臭いとかそういうことはもう言ってられないのかもしれなかった。
ちょっと大袈裟すぎやしないかとも思うけれど、周囲を騒がせた良くない前例が目の前にいる。
真顔で苦言に近いものを聞かされた俺は頷くことしかできなかった。
◇
少し不穏な空気に脅された俺はそそくさと食堂を後にした。
学園から帰る前に教員長屋に足を運び、先生方にご挨拶を。そう思ったのだけど、土井先生と野村先生は出張中でいらした。
無駄足になりながらも長屋から引き返す途中、廊下の分かれ道でやや久しぶりの顔を見つける。
「三郎次くん」
俺と顔を合わせるなりタカ丸さんは目を弓なりに細め、口角をきゅっと引き上げた。
タカ丸さんは髪結処に立つ仕事着姿だ。髪結いとして学園の誰かに呼ばれたのかもしれない。
「お久しぶりですタカ丸さん」
「うん、久しぶり。元気そうで良かった。紅蓮くんも元気にしてる?」
「お陰様で元気です」
「髪は伸びた? あれから斬られてない?」
柔和な笑顔から一転。タカ丸さんの顔に般若の面が張り付きそうになる。
タカ丸さんの言う“あれから”とは、霧華さんの後ろ髪が曲者のせいでざっくりと持っていかれた日のことだ。
ざっくばらんになってしまった髪をタカ丸さんの所で整えてもらったけど、腰まであった結髪が肩までの長さになってしまって。怒りに震えたのは俺だけじゃなく、タカ丸さんも相当怒っていた。
あまりの気迫に俺も引いてしまうほどに。今にも髪が逆立つんじゃないかと。
「タカ丸さん、髪のこととなると相変わらずですね」
「そりゃそうだよ。紅蓮くんに怪我がなかったのは良かったけど、髪があんなことになってたんだから。……今思い出してもその曲者が憎たらしい」
「タカ丸さん。声が怖いですよ」
声の調子が普段よりも一つ低くなったタカ丸さんの声が、怖い。辻󠄀刈り時代を思わせる。でも気持ちは十二分にわかる。
「……まあ、もう過ぎ去ってしまったことだから怒っても仕方がないんだけどね」
「そして急に落ち着きますね。……タカ丸さんの言う通りではありますけど」
「因果応報とも言うでしょ。それはともかく、今度また髪結処においでよ。お代少し負けてあげるから」
「有難う御座います。霧華さんにも伝えておきますよ。タカ丸さんが是非来て欲しいって仰ってたと」
後輩大好きな霧華さんのことだ。こう言えば「都合の良い日はいつだ」って直ぐに俺に聞いてくるに決まっている。あれ以来タカ丸さんの顔も見てないだろうし。
今日学園に立ち寄った理由は学園長先生に髪結を依頼されたそうで。タカ丸さんが出張髪結いとしていらした。
髪結処斉藤は今も変わらずに大行列ができる店だ。そこに並ばずに髪結いをしてもらうだなんて。
「職権乱用もいいとこじゃないですかそれ」
「大丈夫。出張料もちゃんと貰ってるから」
「割増料金も取って良いと思いますよ」
「うーん……時と場合に応じてそうしようかな。お客さんありきの商売だし、無闇矢鱈に値上げしちゃうとねぇ」
そう言って顎に手を当て、天井を見上げながら唸る。
タカ丸さんは編入生として学園に入ってきた時は忍術の知識がそれはもうさっぱりだった。下級生に教わる場面も多くて「年下に教わるの悔しくないんですか」と不思議に思ったこともある。
「知らないことを学ぶのに年齢は関係ないよ」
柔らかい笑顔でタカ丸さんはそう言ったことがあった。
この前向きな姿勢は見倣うべきだし、接客の技量は目を見張るばかりだ。
そんなことを思い返し、改めて接客業のプロだと感心していると、タカ丸さんの視線を感じた。
こちらの顔というよりも、髪にその視線が注がれる。
「あ、枝毛」
ぼそりと呟かれた言葉に俺は頭もとい髪をバッと庇う。タカ丸さんから一歩飛び退き、背を向けないようにした。
「と、ところでタカ丸さん!」
「うん?」
「そ、そのえーっと……そう、タカ丸さんなら櫛を好きな相手に贈る時はどんな風に渡しますか?」
「櫛?」
意識をこの傷んだ毛先から逸らすべく、咄嗟に出した話題。
人はこういった心が乱された時に悩んでいることを口に出してしまいがちだ。あくまで平常心でいなければ。どう綻びていくかわかったもんじゃない。それを心掛けていたというのに。
俺が振った突拍子もない問い掛けに不思議そうに首を傾げるも、相手は「ああ」と合点をぽんっと打った。
「紅蓮くんに贈るの?」
「う……なんでわかったんです」
「なんでって、紅蓮くん以外だったら流石の俺もひっくり返っちゃうよ」
「それは一生ないんで大丈夫です。……って、なんですかそのニヤニヤした顔」
「いやぁ。三郎次くんの一途っぷりを久々に見たなぁと思って」
「揶揄わないでくださいっ」
「怒らない、怒らない。それで、その櫛をどう贈るかって話だよね」
「……実は、斯々然々で」
櫛をだいぶ前に買ったこと。それを渡す機会をうっかり逃してしまったこと。さっき食堂で聞いた久々知夫妻のこと。早めに渡さないと大変なことになると脅されたこと。それらを簡潔にまとめて話した。
そうすると、タカ丸さんは笑顔のまま困った風に固まりかけていた。
「……その櫛、寝かせてるの? 飴色にする為にとか」
「違います! だから、渡す機会が全然なくって。久々知先輩に聞いたらしれっと渡せばいいとか言ってくるし、食満先輩には脅されるし。もう、どうしたら良いのかわからなくなってきて。だから、髪結いのタカ丸さんならどんな風に渡すのかお聞きしたかったんです」
「うんうん、なるほどねぇ」
二度頷いた後、タカ丸さんが笑いかけてきた。
目尻を下げて微笑む表情は、火薬委員会の委員長を務めてた時の後輩を見るものとよく似ていた。面倒見が良いところをみんなあの人から引き継いでいく。
「三郎次くんは紅蓮くんのことでどうしようかって悩むことが昔から多いね」
「そう、でしたか?」
「うん。鏡を渡す時だって、ずーっと機会を窺ってたじゃない? 自分の想いに気づいてからもずっと一途に追いかけ続けていたし。ちょっぴりヤキモチ焼きの所も見ていて可愛らしかったよ」
「最後の一言は余計ですタカ丸さん」
「ごめんごめん。それはそうと、櫛を渡したいならやっぱり髪を梳く時がいいんじゃないかな」
「髪を梳く時」
盲点だった。
本来の使い道が完全に頭から抜けていたんだ。確かに、それなら自然な流れで渡せそうな気がする。
「それ、いい方法ですね」
「でしょ? 好きな相手の髪を一番にその櫛で梳いてあげるのって、優越感も出るし。ヤキモチ焼きの三郎次くんにぴったり」
「だから余計な一言ですってば」
「あと、名入りが恥ずかしいならちょっとした模様を自分で掘ってみるのはどう? 彫刻刀があればできると思うよ」
「模様、ですか」
「忍者文字みたいなのでもいいし、二人だけがわかる特殊な印みたいなのがあれば特別感が増すよ」
印の入ったもの。真っ先に浮かんだものがあった。
霧華さんは親友の形見である棒手裏剣を常に忍ばせている。その棒手裏剣には元の持ち主がつけた印が刻まれていた。なんでそれを知っているのかというと、ここで話すようなものでもない。それはまた今度だ。
模様を彫るなら長屋に帰って作業をしたら絶対にバレるし、落ち着かない。
彫刻刀なら事務室で借りることができる。その情報をタカ丸さんから得た俺は「暇だから手伝おうか」と言う手を引っ張って一緒に行くことにした。頭に図案を思い浮かべながら。
◇
星明かりが煌々と照らす夜。
窓から差し込む青白い光と、灯明皿の灯りが室内を照らしていた。
手元を照らすには十分過ぎる。まるで昼間の様な明るさだ。と、思っていた矢先に灯明皿の灯りがふっと音もなく消えた。
灯明皿の側にいた霧華さんが手元の本を床に伏せ、覗き込むように身体を伸ばした。
「……ああ、油切れだ。明日足そうと思っていたんだが、間に合わなかったか」
「明日で良いんじゃないですか。もう遅いですし」
「そうだな。こう過ごしやすい季節になると、つい本に耽ってしまう。そろそろ寝るとしようか」
「あ、ちょっと待ってください」
読みかけの本に銀杏の栞を挟み、霧華さんが文机にそれを置いたところで俺は待ったをかけた。
俺も同じ様に栞を挟んだ本を文机に置き、隣に腰を下ろす。
「その前に髪、梳かせてください。櫛はあるんで、これで」
なんて言いながらタカ丸さんの真似事をするように櫛を構えてみせた。
何も変なことは言っていないつもりだ。寝る前に櫛で髪を梳かすのは普通で当たり前。それなのに、物凄く意外そうな顔を向けられていた。
「いや、まあ構わないが。どういう風の吹き回しかと思って」
「……偶にはいいじゃないですか。俺が髪梳くぐらい」
「そうだな。じゃあ、お願いするよ。……と、言いたい所だが。その前に」
難なく許可も得たし、これですんなり事が運ぶ。と、そうは問屋が卸さなかった。
霧華さんが俺の方――というよりは、手元を見た。いや、分かってはいるけど目敏すぎませんか。
外から差し込んだ光が鋭いその瞳に反射した。
「その櫛。普段三郎次が使っているものとは違うな」
「どっどうしてそう思うんですか」
「お前が持っている櫛には模様がない」
「……」
「ああ、いや。別にどうといった訳ではなく。ただ模様がちらと見えて気になっただけだよ」
あくまで気になったから。特段咎める様子もなくそう話す。
これ以上会話を引き延ばしたところで、猜疑の眼を向けられるだけだ。
話がややこしくなる前に。俺は持っていた櫛を霧華さんの手の平に置いた。
「この櫛は俺が霧華さんに差し上げる為に買った物です」
ちょんと乗せられた櫛に目を落とす霧華さんは暫く黙っていた。
ようやく上げた顔には「え?」と描かれている気もした。そこまで驚かれるとは想定外なんですけど。
「だいぶ前に買ったやつで、その。渡す機会が全然なくてですね。本当は買ったその日に渡したかったんだけど、左近たちが急に来たから」
「……ああ、四人で町へ出た時の。結構前の話、だな。確かに」
「ええ」
「その間、今日までずっと持ち歩いてたのか」
「はい」
正直に、素直にそう答えていたら霧華さんが急にひっそりと笑い出した。肩を震わせ、薄っすらと目尻に涙まで浮かべて。
「いや、すまない。……それでここ暫く三郎次の態度がおかしかったのかと思ってな。時々上の空だっただろう」
「そんなにわかりやすかったですか」
いつ渡そうか。
どうやって渡そうか。
そんなことを考えている間は確かに上の空だったかもしれない。そしてそれをやはりというか、完全に見破られていた。
「やましいことは何もありませんからね」
「そこまで杞憂せずとも。私は三郎次のことを信じている。……綺麗な桜彫りだ。両面に模様が施されているのは珍しいな」
櫛の表面は目の上側に桜模様が彫られている。そして裏面には猫の顔の輪郭と足跡が二つ。
「裏面の猫と足跡は、俺が彫りました」
「三郎次が?」
「職人じゃないんで、あんまり見栄えは良くないですけど」
あんまり細かい模様を彫るのは厳しいと感じた。本体の櫛が折れて壊れでもしたら元も子もない。簡単かつ霧華さんが喜びそうなものをと考えた結果これに落ち着いたんだ。
霧華さんは櫛の裏面ばかりをじっと見つめ、俺が彫った猫の模様を指でそっとなぞる様に撫でた。
「……すごいな。螺鈿細工の時も思ったが、三郎次は手先が器用だ。職人顔負けだよ」
感嘆混じりの吐息。
そこまで褒められる程のものじゃないのに、今日ばかりは嬉しい限りだ。
「宝物がまた一つ増えた。大事にするよ。有難う、三郎次」
ふわり。嬉しそうに笑う顔。
ああ、もっと早く渡せば良かったな。
幾重にも重ね、重ね続けた想いは減ることを知らない。
櫛を大事そうに持つその手にそっと触れた。
「この先もずっと。苦楽を共に、生涯隣に居させてください」