軽率なコラボシリーズ
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夢は続かない
――実習先は
――え…?
――実習先はどこだ
――川向いの陣地です、……先輩?!
会話がそこでぷつりと途切れた。
糸を引きちぎったかのように。
見えていた景色は寸で色褪せ、消えていく。
瞼を押し上げ、薄闇の中で見えたものは三郎次の横顔。すやすやと眠る寝顔はどこかあどけなさが残っていて、愛らしい。そんなことを口にしたらまた怒られてしまいそうだ。
窓の隙間から僅かに差し込む月明かりに照らされた室内。
微睡んでからまだそう時は経過していないのだろう。
浅い眠りの中で見た夢。どうやら寝言は呟かなかったようで、隣布団で眠る伴侶は目を覚ました形跡は見られなかった。
夢見が悪かったわけじゃない。
それでも、その続きを見たいとは思わなかった。だからあの場面で、無理矢理引き千切ったのだろう。無意識下で。
過去を映す夢はどうとでも転がる。何事もなく平穏に終わることもあれば、突拍子もない展開が切り開かれることも。
振り返った顔全てが鉢屋三郎だったという夢も見たことがある。お決まりの「以上、全て鉢屋三郎でした!」という台詞で締め括るものだから、起きた時にその夢の話を三郎次にすると「あの先輩なら本当にやりかねない」と呆れながらも愉快に笑いあったものだ。
毎度愉快な展開で終われば夢も楽しいものだ。
だが、そう一筋縄ではいかない。
心の臓が握り潰されるような悲愴感に苛まれることが私には多い。
夢の続きを拒み、独り濡れ縁で過ごす夜も多かった。無言の月が見下ろす中で。
今宵はそんな気分にもなれずにいた。
ごく小さな溜息を漏らし、掛け布団を肩まで引き上げる。そのまま目を閉じようとしたところで、隣の布団から無造作にはみ出た三郎次の腕が目についた。
私はそろりと手を伸ばし、指先に触れる手前で一度空を掴んだ。代わりに隣布団の端を緩い力で掴む。
それから瞼を下ろした。
直後、指先を掴まれた感触に驚いて再び目を開けた。
「こっちの方が良くないですか。冷たい布団よりも」
こちらを向いた三郎次の眠たそうな目でそう言った。
しっかりと握ってくる手はとても温かい。
「起こしてしまったか」
「偶々目が覚めただけです」
その割にはっきりとした口調でいる。寝ぼけ眼は演技かと思えるほどに。
そう疑いもかけた。が、三郎次は何も言わずに隣から私の布団に潜り込んできた。
「……そっち、いってもいいですか」
既に行動を起こしてからこの台詞。
眠そうな声だ。どうやら寝惚けている。生じた矛盾に私は一つ笑いを零して「もう来ているよ」と返した。
三郎次に僅かな硬直と間が生まれる。若干の気まずさがその顔に滲み出た後、照れ隠しなのか腕に私の身体を抱き込んだ。
肩越しに何かごにょごにょと言っているのがおかしくもあり。空いている片手で背中をぽんぽんと叩いてやった。
「いつも起こしてしまってすまないな」
「……べつに。こわい夢でも見ましたか」
訊ねてくる内容はいつも同じ。
悪夢に魘されながら現実に戻ってきた私を気遣うように声を掛けてくれる。その度に申し訳なさで居た堪れなくもなった。
今までは友人の夢ばかりを見ていた。それが、ここ最近は変化しつつある。
「三郎次が、実習先から戻ってこないと聞いた時の夢を」
見ることが多くなってきた。
始まりはいつも同じ。医務室で顔を合わせた川西が「まだ、三郎次が戻ってきていなくて」と言う場面から始まることが多い。
私の応えは常に変わらない。まるで最初から決められていたかのように。
どこへ行ったのか訊ね、その場所へ向かおうとする。そしてそこで強制的に意識が浮上。
夢の続きを見たくがないために。
夢の続きを拒むために。悲惨な結末を迎えるかもしれない。
例え夢であろうと見たくはない。
あまりにも失いたくないものだから。
互いの心音が静かに、ゆっくりと鼓動を刻む。この音が心地良くて好きだ。
背に回された片腕。掴まれた手に力が込められる。
「俺はここにいる。何処にも行ったりしない」
不意に緩みそうになる涙腺。
その目を瞑り首筋にそっと顔を埋めた。
汗に混じ入る沈香の薫り。だいぶ甘さは取れたようで、薄っすらと残り香を纏う程度になった。
昨日、三郎次は二年生の生徒相手に聞香 の作法を教えた。いや、教えるはずだったのだが。
生徒たちが用意したものは聞香炉、香炉灰、香炭、香木、香筋。要するに空薫 の道具がきっちりと揃えられていたそうで。
「これじゃあ空薫になるだろ。聞香に使う道具を予習したんじゃなかったのか?」と、辛辣な言い方はどうにも出来なかったようで。この際だから聞香と空薫の違いを教えてきたという。年下の後輩に甘いのは私に似てしまったのか否か。
その夕方、授業を終えた三郎次は香木の薫りを纏って帰宅。勝手口に居た私の所まで届くほどの沈水香木。
先の話には続きがあった。授業後に聞香炉を片付けようとした生徒が運悪く転んでしまい、香炉灰が教室中に撒かれたと。
「これでも入念に拭ってきたんですけど」そう溜息を吐く。「数日は忍務に行けない」とも落ち込んでいた。
沈香は嫌いじゃない。
勿論、忍びの生業上では強い香りは好ましくないのだが。この香りは気持ちが安らぐので私は好きだ。
もう暫くすればこの匂いも消えてしまうのかと思うと、少しばかり悔やまれる。
「……楽しいこと考えながら寝たらどうです」
「楽しいこと、か」
「その方が夢見も良いのでは。例えば」
三郎次に問われ、私は頭に伊作や留三郎たちと遊んだこと、委員会の後輩たちと過ごした日のことを思い浮かべていた。
昔に想いを馳せることは今までもあった。
しかし、夫は私が考えつかない答えを導いた。
「あの三毛猫」
「猫」
「またふらっと現れて、ごろごろ喉鳴らしたり、後をついてきたりとか考えてみたらどうですか」
怪我を負った三毛模様の仔猫。あの子は姿を頑なに見せないが「いるよ」と言わんばかりに置き土産をしていく。
その子がふらりと姿を見せてくれたら。
立派に成長し、我が家を我が物顔で闊歩。囲炉裏の前を陣取り、丸くなって眠る。一連を想像しただけでも愛らしいというもの。
自然と口角が上がった。
「可愛らしくて良いな」
「でしょう。どうせ見るなら楽しい夢見た方が良いに決まってる」
「三郎次」
静かな声で伴侶に呼び掛けた私は顔を上げ、閉じかけていた目を見る。三郎次は眠たそうに瞬きをゆっくりと繰り返していた。それでも私と目を合わせようとしてくれている。
「あの仔猫が戻ってきたら、家猫にしても良いだろうか」
「いいですよ」
「本当か」
「……まあ、元々野良だったし、居着くかどうかは」
「そうだな。時々顔を見せてくれるだけでも私は嬉しい」
自分でも分かるほど声色が喜々としていたので、浮かれすぎかとも思ったほど。
それでも構わずに三郎次が私の頭を優しく、髪を梳くような手つきで撫でる。
「あの仔猫も霧華さんのとこに帰って来ますよ」
貴女のことが大好きだから。
そう呟いた末にすっと眠りについた。
言霊とはよく言ったもので、あの三毛猫が夢に出てきた。
ゴロゴロと喉を気持ちよさそうに鳴らし、額から頭に掛けてひと撫でしてやると「にゃん」と鳴いた。
その直後だ。この長屋周りを埋め尽くさんばかりの数の猫が突如降って湧いたかのように現れた。数はざっと五十匹。
そこまでは良かった。
猫たちが一斉に振り向いたかと思いきやその顔は皆、鉢屋三郎の顔であった。
奇しくも夢はそこで幕を閉じてしまう。
この事を朝餉の時に話したら、三郎次はなんと言ったと思う。
「うちじゃそんな顔の猫は飼えませんからね」
げんなりした面持ちでそう言い切ったのだ。流石に五十匹ばかり、しかも鉢屋の顔をした猫は私もちょっと。
暫くは他所猫の顔も注視してしまいそうだ。
◇◆◇
明くる朝、学園長先生に頼まれた用件を報告するべく三郎次と共に学園に往訪した。
私は前述した用件を、三郎次は三年生の教室へ。私の用事は直ぐに終わったのだが、学園長先生に「一局付き合ってくれんか」と頼まれたので将棋の手合わせをすることに。
そこで暇を潰した後、医務室に立ち寄ろうと足を向けた。授業が終わるまでまだ時間がある。伊作が来ていれば駄弁ろうと思っていたのだが。
「あ」
医務室前で見た顔は伊作の後輩――川西だった。
「こんにちは先輩。その節はどうもお世話になりました」
「こんな所で会うのも珍しいな。怪我の具合はどうだ」
「お陰様でもうすっかり良くなりました」
川西は蝉ふぁいなるが原因で足を捻挫し、我が家で手当てを受けた。もう半月程前のことか。
調子が良いと笑う様はどこか伊作に似ている気がしないでもない。
「先輩は特別講師で?」
「今日は三郎次が三年生の授業を見ている。私はその間待ちだ。さっきまで学園長先生の庵で将棋のお相手をしていた」
「へぇ〜。先輩、将棋はお強いんですか」
「いや、そんなには。私は参謀向きではないからな」
そう私が返せば「またまたそんな御謙遜を」と川西が笑う。
「あの時は先輩の策が功を奏したと三郎次も言ってましたよ」
川西が言う『あの時』とは、二年半前程の出来事である。
私の実家絡みで起きた厄介事。それを片付けるべく、協力を仰いだのは川西たち。それを手筈したのは誰でもない、三郎次であった。
後輩を巻き込んだ以上は勝たねばならぬ。相手の一手先を読み、講じた策。万事上手くいったから良かったというもの。
想定以上に事態は大きくなったが、彼らのお陰で事なきを得た。この話はまた何れ、機が来た時にでも。
「その節は世話になったな。多忙だったのにも関わらず私に協力してくれて感謝しているよ。川西たちの協力がなければ上手くいかなかっただろうし」
「僕らは大したことしてませんよ。それに先輩にはお世話になってますから。特に三郎次のことで」
「そうか。川西も何かあれば遠慮なく声を掛けてくれ。私たちが力になる」
そこで川西は不思議そうに目を丸くした。
私が後輩たちに対して協力的なことはよもや知らぬわけがない。何も自分の後輩だけに甘いわけじゃないのだから。
そう尋ねてみれば「いえ」と笑い返される。
「先輩、ちょっと変わりましたよね。私じゃなくて『私たち』って仰ったので。だから、二人で生きてるんだなぁと。……すみません。変なことを」
「……いや、川西の言う通りだよ。三郎次がいなければ私は今頃どうしていたやら」
「不穏なことはあまり仰らない方が」
「心配するな。元よりそんなつもりはなし。諸国放浪していたとしても、友や後輩たちの顔が恋しくなって戻ってきているだろう。川西も三郎次の顔を見ていってやってくれ」
「はい。そのつもりです」
川西は医務室で新野先生とお会いしたことを話し始めた。野暮用は既に済ませたそうだ。
話を聞いた限りでは、伊作は来ていない様子。ここ最近はむしろ留三郎と遭遇する率の方が高い気もする。伊作が学園に立ち寄りにくい理由は言わずもがな。しかしそれでは私が心寂しい。やはりここは四人で団子を食べに行く約束を交わした方が良いか。
「お、川西くんだ。久しぶりー」
私たちが他愛もない会話をする中、聞こえた馴染みある声。これは珍しいところで顔を合わせたものだ。
笊を抱えた不二子さんが私たちに向けて片手をひらひらと振る。笊には芋、人参、玉ねぎ。夕食のメニューはカレーだろうか。いや、肉じゃがの可能性もある。
「お久しぶりです久々知さん。久々知先輩はご一緒じゃないんですね」
「今はお豆腐の様子を見に行ってるんじゃないかなぁ」
今日は授業が入っていなかったはずだと宣ふ。互いの行動を把握しているのは最早流石としか言いようがない。
ここで川西が徐ろに一步退き、半笑いを浮かべる。
「まるで生き物の世話みたいな言い方」
「兵助にとっては我が子の様だろうさ」
「まあ、そうかも。前に「君たちは美味しい美味しいお豆腐になるぞー」って声掛けてたし。ところで、川西くんはなんで微妙な距離を取ってるの。今、後退りしたよね」
僅かに久々知さんから距離を取った川西。その顔が釣り針に引っ掛けられた様に引き攣る。
「……いやぁ。僕の不運に巻き込んでしまったら久々知先輩が怖いので」
「お前は伊作ほどではないだろ」
「軽く善法寺くんのことディスってる」
「私も不運ですから。お互い様ですよ」
その不運も学園を卒業してから見舞われることが減った気もする。まあ、ぼんやりして池に落ちたことは昔あったけれども。
「あれ」
「どうしました不二子さん」
「霧華さんなんかいい香りがする」
不二子さんはすんっと匂いを嗅ぐ仕草を私の近くで見せた。
私はそれに首を傾げる。香油の類はつけていない。今日は火薬を取り扱ってもいない。
しかし、匂いがわからないのはどうやら私だけのようで。川西も同じ相槌を打った。
「やっぱり久々知さんも気づきましたか」
「うん。なんだろ、お香の匂いっぽい」
「……ああ、それは先日のやつですね。聞香の授業を三郎次が担当した」
「そういえば誰かが香炉灰をぶちまけたんだっけ。それで教室中に沈香の匂いが充満したとかで」
「うわ……不運だな三郎次」
不二子さんは兵助から聞いたのか、それとも不運に見舞われた三郎次本人から聞いたのか。
「だいぶ凹んでたよね、池田くん」
「もうだいぶ匂いは取れたと言っていたんですが。……若しくは私の鼻が麻痺しているのやもしれませんね」
自分では気づかない程度の匂い。それが微かなものだと思っているのは当人、つまり私たちだけなのかもしれなかった。
共に生活していればお互いに気にしなくなるものが多くなる。
匂いに限らず、特に嫌悪するようなものでもなし。いや、もしかすると年上の先輩だからと遠慮している可能性も。
今度それとなく聞いてみるか。
私が一人思案に耽る僅かな間、川西は何かとても言いにくそうな表情をしていた。
「どうした」
「いえ、なんていうかその」
「残り香って相当近くにいないと移らないよね」
「まあ、ですよね。だからその、お二人も仲良しだなぁと」
他人事となれば、いけしゃあしゃあと言う不二子さんと違い川西は歯切れが悪い。
確かに昨夜は縋り付くように眠りについた。摩訶不思議な夢を見もしたが。
急に小っ恥ずかしさか込み上げてきたのか体温が俄に上昇し、頰まで上気する。傍ではニヤニヤと笑う後輩と御内儀。恥らいと共に多少の苛つきも瞬息的に覚えた。
だが、それは私だけに言えたことではないんですよ。
私はのほほんと笑う不二子さんをちらりと見やり、仕返しせんとばかりに口を開いた。
「お言葉を返すようですが不二子さん。貴女も大概豆乳の香りを身に纏っていますよ」
「え? まあ、うん。だってそれはそうじゃない? お豆腐いつも使ってるし」
「豆腐を作るのは兵助、でしたね」
亭主の名を出せば「あっ」と川西が何かに気付いた声を小さく上げた。これ以上は言わずとも分かるだろう。
不二子さんはどこかむず痒そうな表情をそこに浮かべていた。日頃からいちゃついていることに関してもう慣れきってもいるのだろう。慣れるのも些かどうかと思うのだが。
「川西。私たちよりも久々知夫妻の方がよほどべたべたしている」
「……先輩、ちょっと怒ってません? 声が、コワイ」
「怒ってなどいない」
「照れてるんじゃない?」
その笑い方も、言い方も兵助に似すぎている。この人の顔もそのうち兵助似になってしまうのでは。
今朝見た鉢屋だらけの夢をまた思い出してしまいそうになり、私は頭を軽く横へ振り払った。
「……まあ、兎に角だ。三郎次は聞香のことで結構凹んでいたのであまりつつかないでやってくれ」
「照れてることは否定しない」
「ところで不二子さん。夕餉のメニューは何の予定ですか」
この人が抱えている笊に目を向け、二人の意識を逸らす。少し無理のある話題転換だったのか「急だぁ」と御内儀がぼそり呟いた。
立ち話で此処に居続けるわけにもいかんだろ。医務室を利用したい生徒たちに変な気を使わせてしまう。伊作もいないし、早々に立ち去るべきだと二人に伝えた。
半ば強制的に移動を促せば「食堂に行くなら近道しましょうか」と言う川西の提案を受け、学園の敷地内を往く。
思えばこの時点で気を張っておけばよかった。
後の祭りとはよく言ったもので、先を歩く川西の身体が不自然に沈んだ。
嫌な予感が走った私は本能的に危険を察知し飛び込み、落下する川西の腕を寸での所で掴む。
「川西くんっ!」
偽り蓋の役割を果たした木の枝、乾いた砂、木の葉が穴の底へばらばらと落ちていった。
穴の縁にかけた手指の先からぽろぽろと土の破片が零れる。これは厄介なやつを引き当てたな。
ぽっかりと空いた穴。深さはそれほどでもないが、状態が悪すぎる。
私は無理に引き上げようとせず、掬い取った手だけは離さないよう指先に力を入れた。
それから焦りの色を浮かべる川西に向けて声を掛ける。あくまで、落ち着いた声で。
「川西。落ち着いてよく聞いてくれ。この落とし穴、深さはそうでもないが状態が悪い。クナイが刺さらないぐらいボロボロの地質だ。刺した箇所からたちまちおがくずや豆腐そぼろの様に崩れてしまう」
「そ、それってつまり」
川西の顔が一瞬にして青ざめる。
不安を煽るような言葉は極力避けたいところであったが、今はそんなバヤイじゃない。
下手に動けば諸共生き埋めになる。
「無闇に上がろうとするな」
「は、はいっ」
そうは言ったものの、どうしたものか。
この悪条件では一気に引き上げるしか他ないのだが、半分以上身を乗り出したこの態勢では力も入らない。無理に力を入れたらひとたび崩れ落ちてしまう。
ぱらり。また縁が欠け、砂粒となって落ちていった。
「先輩! 手を離してくださいっ。先輩まで巻き込まれて……!」
川西の言葉に目を見張った。
脳裏に過ぎゆくのは、同じ境遇で聞いた友の声。
『駄目だ咲! お前まで引きずり込まれる、手を離せっ!』
『離すわけ、ないでしょ……っ! 友達を見捨てるなんて、僕に出来るワケがない!』
決死の覚悟で救い上げてもらったこの手。
「手を緩めるなよ、川西」
決して離すまいと、その腕を絡め取る。
「私が手を離したと同時にその反動で崩れ落ちる。それを知っても尚、私が手を離すとでも思っているのか」
「葉月先輩……っ」
「三郎次の友を見捨てることなど、私には出来ない!」
川西の顔がぐっと歪む。
一時緩んでいた私の腕を掴む力が再び強くなった。
「不二子さん! 先生か上級生を呼んできてくれ!」
「わ、わかった!」
緊迫した状況の空気を読み、離れた場所に待機していた不二子さんに向けて声を張り上げる。
一人では無理だが、二人がかりならば川西を一気に引き上げることができる。しかし、その好機は一度きり。
くそ、腕が痺れてきた。
「左近! 左手を上げろっ!」
「へっ?」
後方から聞こえてきたのは三郎次の声だ。私が支える逆の手を上げろと指示を飛ばす。
いまいち状況が飲み込めずにいた川西は言われるがまま左手を上げる。すると、その腕に鉤縄が瞬時のうちに巻き付いた。
良い判断だ。口元から笑みが零れ落ちる。
これで支えが二つできた。
「三郎次! 一気に引き上げるぞ!」
「了解っ。左近、しっかり縄を掴んでろよ!」
「わかった!」
私は今一度右手に、力を入れる。
「……いち、にの、さんっ!」
私の合図で川西の身体を一本釣りの如く、思い切り引っ張り上げた。
宙に放り投げられた川西を抱き留めた勢いが止まらず、私は尻もちをついた状態で数歩後進し、止まる。
前方に空いていた落とし穴は静かに音を立てながら崩れ落ちていった。まるで砂の城が波に攫われたかのように。
辺りがしんと静まり返る。
私たちは皆呆然としていた。これは稀に見ない類の危機だった。
川西に至っては力なく私の膝上でへたり込んでいる。ふと伊助を庇った日のことを思い出し、川西の頭を優しく撫でてやっまた。
「せ、先輩」
「無事で何よりだ」
「こっ子ども扱いしないでください! あと、今すぐその撫でるのやめてもらっていいですか。じゃなきゃ、僕……明日の朝日が拝めないかもしれない」
川西の顔が恐怖に怯えたものに早変わりした。その背後には鉤縄の端を掴んだままの三郎次。顔は笑っているが、目が全く笑っていない。
「とりあえず左近、今すぐそこを退け」
「すっ、すみませんでしたぁ!」
そう言って慌てて飛び退いたものだから、川西は鉤縄に足を取られて縺れ、転んでしまった。保健委員を務めた者は総じて不運だな、やはり。
私は目の前に差し出された三郎次の手を掴み、その場に起き上がる。
「助かったよ、三郎次。流石だ」
「……久々知さんが物凄い慌ててたもんだから。とりあえずこっち向かいながら事情を聞きました」
三郎次は若干不貞腐れていた。旧友を無事に助けられたことと、さっきのこととで気持ちが反発しているのだろう。
不二子さんが偶然すぐ近くに居合わせた三郎次を捕まえて口早に事情を話したそうだ。
「そうか。それで、不二子さんは?」
「あ。急いでこっち来たんで置いてきちゃいました。そろそろ来ると思いますけど……噂をすれば」
二人でそちらを見やれば、小走りでこちらに向かい「おーい!」と手をぶんぶんと振る不二子さんの姿。
今回の恩人は不二子さんでもある。三郎次がそのことを川西に「有難く思うように」と偉そうにしていた。
「良かった、川西くん無事だ……っ!?」
「不二子さん!?」
彼女が足を運ぶ道に何故か張られていた用心縄。それに鈍臭くも足を取られてしまい、均衡を何とか保とうと身体を前後に揺らしたが奮闘虚しく。前方にばたりと転んでしまった。
それだけならまだ良かった。その用心縄は一点に力が加えられると、他の罠が連動するようになっていたようで、木の方から絡繰りの歯車が回る音が聞こえた。
不味い。何かが起きる。
その後の展開はまるで疾風迅雷の如く、あっという間であった。
茂みから飛び出した振り子のような材木。その先端には背負い籠のようなものが取り付けられていた。それにこれまた上手いことすっぽりと拾い上げられてしまった不二子さん。振り子は勢いを失わずに半円を描くように振り上げた。
「ええっ~!」
そして、そのまま空高く飛んでいってしまった。まるで石火矢の砲弾が飛んでいくような放物線を描きながら。姿は遥か彼方遠くへと、消える。
私たちは呆然と空を眺めることしかできずにいた。
「……ぼんやりしているバヤイじゃない! 追うぞ三郎次、川西!」
「はっはい!」
「何で今日はこんなことばっかりなんだよ~!」
◇
一方、こちらは絡繰りのせいで空高く打ち上げられてしまった私。
何が起きたのかさっぱり理解が追い付きませんでした。いや、自分が空を飛ぶなんて夢にも思わないじゃない。今まで落っこちることは多々あれど。
かの猫型ロボットが少年に提供した空を自由に飛ぶ道具。それを使ったらこんな気分なんだろうか。いや、そんなこと考えてる場合じゃないよね。もう既に落下し始めてるんだよ、私の身体は。
「ちょっ……兵助くんっ!!」
「え?」
このまま無様に地面とこんにちはするのかと思ってたら、都合の良い所に兵助くんがいた。
咄嗟に名前を呼ぶと、空を見上げた兵助くんは豆腐の様な目をお月様みたいに丸くした。それは、そう。
幸いなことに私は木や屋根とかの障害物に身体を打ち付けることなく、兵助くんの腕にすっぽりと抱き留められた。
「こっここここ怖かった」
「不二子さん。なんで、なんで空から降ってきたの。飛んで来てまで俺に会いに来てくれたとか?」
「いや、そうじゃなくてね」
「でも危ないから止めてほしいな。すごく、すっごく嬉しいんだけどさ。不二子さんの安全が第一だし」
「うん。私も某ゲームみたいなこんな移動方法は願い下げなんだよ」
「一体何があったの」
そう言いながらぎゅっとお姫様抱っこの状態で抱きしめてくれた。私も兵助くんの首にぎゅっとしがみつく。
用心縄からの絡繰り発動でと事の経緯を話すと、後日それを作った生徒と監修した笹山くんがこってりと叱られたらしい。曲者避けはもうちょっと考えて作ってほしい。
――実習先は
――え…?
――実習先はどこだ
――川向いの陣地です、……先輩?!
会話がそこでぷつりと途切れた。
糸を引きちぎったかのように。
見えていた景色は寸で色褪せ、消えていく。
瞼を押し上げ、薄闇の中で見えたものは三郎次の横顔。すやすやと眠る寝顔はどこかあどけなさが残っていて、愛らしい。そんなことを口にしたらまた怒られてしまいそうだ。
窓の隙間から僅かに差し込む月明かりに照らされた室内。
微睡んでからまだそう時は経過していないのだろう。
浅い眠りの中で見た夢。どうやら寝言は呟かなかったようで、隣布団で眠る伴侶は目を覚ました形跡は見られなかった。
夢見が悪かったわけじゃない。
それでも、その続きを見たいとは思わなかった。だからあの場面で、無理矢理引き千切ったのだろう。無意識下で。
過去を映す夢はどうとでも転がる。何事もなく平穏に終わることもあれば、突拍子もない展開が切り開かれることも。
振り返った顔全てが鉢屋三郎だったという夢も見たことがある。お決まりの「以上、全て鉢屋三郎でした!」という台詞で締め括るものだから、起きた時にその夢の話を三郎次にすると「あの先輩なら本当にやりかねない」と呆れながらも愉快に笑いあったものだ。
毎度愉快な展開で終われば夢も楽しいものだ。
だが、そう一筋縄ではいかない。
心の臓が握り潰されるような悲愴感に苛まれることが私には多い。
夢の続きを拒み、独り濡れ縁で過ごす夜も多かった。無言の月が見下ろす中で。
今宵はそんな気分にもなれずにいた。
ごく小さな溜息を漏らし、掛け布団を肩まで引き上げる。そのまま目を閉じようとしたところで、隣の布団から無造作にはみ出た三郎次の腕が目についた。
私はそろりと手を伸ばし、指先に触れる手前で一度空を掴んだ。代わりに隣布団の端を緩い力で掴む。
それから瞼を下ろした。
直後、指先を掴まれた感触に驚いて再び目を開けた。
「こっちの方が良くないですか。冷たい布団よりも」
こちらを向いた三郎次の眠たそうな目でそう言った。
しっかりと握ってくる手はとても温かい。
「起こしてしまったか」
「偶々目が覚めただけです」
その割にはっきりとした口調でいる。寝ぼけ眼は演技かと思えるほどに。
そう疑いもかけた。が、三郎次は何も言わずに隣から私の布団に潜り込んできた。
「……そっち、いってもいいですか」
既に行動を起こしてからこの台詞。
眠そうな声だ。どうやら寝惚けている。生じた矛盾に私は一つ笑いを零して「もう来ているよ」と返した。
三郎次に僅かな硬直と間が生まれる。若干の気まずさがその顔に滲み出た後、照れ隠しなのか腕に私の身体を抱き込んだ。
肩越しに何かごにょごにょと言っているのがおかしくもあり。空いている片手で背中をぽんぽんと叩いてやった。
「いつも起こしてしまってすまないな」
「……べつに。こわい夢でも見ましたか」
訊ねてくる内容はいつも同じ。
悪夢に魘されながら現実に戻ってきた私を気遣うように声を掛けてくれる。その度に申し訳なさで居た堪れなくもなった。
今までは友人の夢ばかりを見ていた。それが、ここ最近は変化しつつある。
「三郎次が、実習先から戻ってこないと聞いた時の夢を」
見ることが多くなってきた。
始まりはいつも同じ。医務室で顔を合わせた川西が「まだ、三郎次が戻ってきていなくて」と言う場面から始まることが多い。
私の応えは常に変わらない。まるで最初から決められていたかのように。
どこへ行ったのか訊ね、その場所へ向かおうとする。そしてそこで強制的に意識が浮上。
夢の続きを見たくがないために。
夢の続きを拒むために。悲惨な結末を迎えるかもしれない。
例え夢であろうと見たくはない。
あまりにも失いたくないものだから。
互いの心音が静かに、ゆっくりと鼓動を刻む。この音が心地良くて好きだ。
背に回された片腕。掴まれた手に力が込められる。
「俺はここにいる。何処にも行ったりしない」
不意に緩みそうになる涙腺。
その目を瞑り首筋にそっと顔を埋めた。
汗に混じ入る沈香の薫り。だいぶ甘さは取れたようで、薄っすらと残り香を纏う程度になった。
昨日、三郎次は二年生の生徒相手に
生徒たちが用意したものは聞香炉、香炉灰、香炭、香木、香筋。要するに
「これじゃあ空薫になるだろ。聞香に使う道具を予習したんじゃなかったのか?」と、辛辣な言い方はどうにも出来なかったようで。この際だから聞香と空薫の違いを教えてきたという。年下の後輩に甘いのは私に似てしまったのか否か。
その夕方、授業を終えた三郎次は香木の薫りを纏って帰宅。勝手口に居た私の所まで届くほどの沈水香木。
先の話には続きがあった。授業後に聞香炉を片付けようとした生徒が運悪く転んでしまい、香炉灰が教室中に撒かれたと。
「これでも入念に拭ってきたんですけど」そう溜息を吐く。「数日は忍務に行けない」とも落ち込んでいた。
沈香は嫌いじゃない。
勿論、忍びの生業上では強い香りは好ましくないのだが。この香りは気持ちが安らぐので私は好きだ。
もう暫くすればこの匂いも消えてしまうのかと思うと、少しばかり悔やまれる。
「……楽しいこと考えながら寝たらどうです」
「楽しいこと、か」
「その方が夢見も良いのでは。例えば」
三郎次に問われ、私は頭に伊作や留三郎たちと遊んだこと、委員会の後輩たちと過ごした日のことを思い浮かべていた。
昔に想いを馳せることは今までもあった。
しかし、夫は私が考えつかない答えを導いた。
「あの三毛猫」
「猫」
「またふらっと現れて、ごろごろ喉鳴らしたり、後をついてきたりとか考えてみたらどうですか」
怪我を負った三毛模様の仔猫。あの子は姿を頑なに見せないが「いるよ」と言わんばかりに置き土産をしていく。
その子がふらりと姿を見せてくれたら。
立派に成長し、我が家を我が物顔で闊歩。囲炉裏の前を陣取り、丸くなって眠る。一連を想像しただけでも愛らしいというもの。
自然と口角が上がった。
「可愛らしくて良いな」
「でしょう。どうせ見るなら楽しい夢見た方が良いに決まってる」
「三郎次」
静かな声で伴侶に呼び掛けた私は顔を上げ、閉じかけていた目を見る。三郎次は眠たそうに瞬きをゆっくりと繰り返していた。それでも私と目を合わせようとしてくれている。
「あの仔猫が戻ってきたら、家猫にしても良いだろうか」
「いいですよ」
「本当か」
「……まあ、元々野良だったし、居着くかどうかは」
「そうだな。時々顔を見せてくれるだけでも私は嬉しい」
自分でも分かるほど声色が喜々としていたので、浮かれすぎかとも思ったほど。
それでも構わずに三郎次が私の頭を優しく、髪を梳くような手つきで撫でる。
「あの仔猫も霧華さんのとこに帰って来ますよ」
貴女のことが大好きだから。
そう呟いた末にすっと眠りについた。
言霊とはよく言ったもので、あの三毛猫が夢に出てきた。
ゴロゴロと喉を気持ちよさそうに鳴らし、額から頭に掛けてひと撫でしてやると「にゃん」と鳴いた。
その直後だ。この長屋周りを埋め尽くさんばかりの数の猫が突如降って湧いたかのように現れた。数はざっと五十匹。
そこまでは良かった。
猫たちが一斉に振り向いたかと思いきやその顔は皆、鉢屋三郎の顔であった。
奇しくも夢はそこで幕を閉じてしまう。
この事を朝餉の時に話したら、三郎次はなんと言ったと思う。
「うちじゃそんな顔の猫は飼えませんからね」
げんなりした面持ちでそう言い切ったのだ。流石に五十匹ばかり、しかも鉢屋の顔をした猫は私もちょっと。
暫くは他所猫の顔も注視してしまいそうだ。
◇◆◇
明くる朝、学園長先生に頼まれた用件を報告するべく三郎次と共に学園に往訪した。
私は前述した用件を、三郎次は三年生の教室へ。私の用事は直ぐに終わったのだが、学園長先生に「一局付き合ってくれんか」と頼まれたので将棋の手合わせをすることに。
そこで暇を潰した後、医務室に立ち寄ろうと足を向けた。授業が終わるまでまだ時間がある。伊作が来ていれば駄弁ろうと思っていたのだが。
「あ」
医務室前で見た顔は伊作の後輩――川西だった。
「こんにちは先輩。その節はどうもお世話になりました」
「こんな所で会うのも珍しいな。怪我の具合はどうだ」
「お陰様でもうすっかり良くなりました」
川西は蝉ふぁいなるが原因で足を捻挫し、我が家で手当てを受けた。もう半月程前のことか。
調子が良いと笑う様はどこか伊作に似ている気がしないでもない。
「先輩は特別講師で?」
「今日は三郎次が三年生の授業を見ている。私はその間待ちだ。さっきまで学園長先生の庵で将棋のお相手をしていた」
「へぇ〜。先輩、将棋はお強いんですか」
「いや、そんなには。私は参謀向きではないからな」
そう私が返せば「またまたそんな御謙遜を」と川西が笑う。
「あの時は先輩の策が功を奏したと三郎次も言ってましたよ」
川西が言う『あの時』とは、二年半前程の出来事である。
私の実家絡みで起きた厄介事。それを片付けるべく、協力を仰いだのは川西たち。それを手筈したのは誰でもない、三郎次であった。
後輩を巻き込んだ以上は勝たねばならぬ。相手の一手先を読み、講じた策。万事上手くいったから良かったというもの。
想定以上に事態は大きくなったが、彼らのお陰で事なきを得た。この話はまた何れ、機が来た時にでも。
「その節は世話になったな。多忙だったのにも関わらず私に協力してくれて感謝しているよ。川西たちの協力がなければ上手くいかなかっただろうし」
「僕らは大したことしてませんよ。それに先輩にはお世話になってますから。特に三郎次のことで」
「そうか。川西も何かあれば遠慮なく声を掛けてくれ。私たちが力になる」
そこで川西は不思議そうに目を丸くした。
私が後輩たちに対して協力的なことはよもや知らぬわけがない。何も自分の後輩だけに甘いわけじゃないのだから。
そう尋ねてみれば「いえ」と笑い返される。
「先輩、ちょっと変わりましたよね。私じゃなくて『私たち』って仰ったので。だから、二人で生きてるんだなぁと。……すみません。変なことを」
「……いや、川西の言う通りだよ。三郎次がいなければ私は今頃どうしていたやら」
「不穏なことはあまり仰らない方が」
「心配するな。元よりそんなつもりはなし。諸国放浪していたとしても、友や後輩たちの顔が恋しくなって戻ってきているだろう。川西も三郎次の顔を見ていってやってくれ」
「はい。そのつもりです」
川西は医務室で新野先生とお会いしたことを話し始めた。野暮用は既に済ませたそうだ。
話を聞いた限りでは、伊作は来ていない様子。ここ最近はむしろ留三郎と遭遇する率の方が高い気もする。伊作が学園に立ち寄りにくい理由は言わずもがな。しかしそれでは私が心寂しい。やはりここは四人で団子を食べに行く約束を交わした方が良いか。
「お、川西くんだ。久しぶりー」
私たちが他愛もない会話をする中、聞こえた馴染みある声。これは珍しいところで顔を合わせたものだ。
笊を抱えた不二子さんが私たちに向けて片手をひらひらと振る。笊には芋、人参、玉ねぎ。夕食のメニューはカレーだろうか。いや、肉じゃがの可能性もある。
「お久しぶりです久々知さん。久々知先輩はご一緒じゃないんですね」
「今はお豆腐の様子を見に行ってるんじゃないかなぁ」
今日は授業が入っていなかったはずだと宣ふ。互いの行動を把握しているのは最早流石としか言いようがない。
ここで川西が徐ろに一步退き、半笑いを浮かべる。
「まるで生き物の世話みたいな言い方」
「兵助にとっては我が子の様だろうさ」
「まあ、そうかも。前に「君たちは美味しい美味しいお豆腐になるぞー」って声掛けてたし。ところで、川西くんはなんで微妙な距離を取ってるの。今、後退りしたよね」
僅かに久々知さんから距離を取った川西。その顔が釣り針に引っ掛けられた様に引き攣る。
「……いやぁ。僕の不運に巻き込んでしまったら久々知先輩が怖いので」
「お前は伊作ほどではないだろ」
「軽く善法寺くんのことディスってる」
「私も不運ですから。お互い様ですよ」
その不運も学園を卒業してから見舞われることが減った気もする。まあ、ぼんやりして池に落ちたことは昔あったけれども。
「あれ」
「どうしました不二子さん」
「霧華さんなんかいい香りがする」
不二子さんはすんっと匂いを嗅ぐ仕草を私の近くで見せた。
私はそれに首を傾げる。香油の類はつけていない。今日は火薬を取り扱ってもいない。
しかし、匂いがわからないのはどうやら私だけのようで。川西も同じ相槌を打った。
「やっぱり久々知さんも気づきましたか」
「うん。なんだろ、お香の匂いっぽい」
「……ああ、それは先日のやつですね。聞香の授業を三郎次が担当した」
「そういえば誰かが香炉灰をぶちまけたんだっけ。それで教室中に沈香の匂いが充満したとかで」
「うわ……不運だな三郎次」
不二子さんは兵助から聞いたのか、それとも不運に見舞われた三郎次本人から聞いたのか。
「だいぶ凹んでたよね、池田くん」
「もうだいぶ匂いは取れたと言っていたんですが。……若しくは私の鼻が麻痺しているのやもしれませんね」
自分では気づかない程度の匂い。それが微かなものだと思っているのは当人、つまり私たちだけなのかもしれなかった。
共に生活していればお互いに気にしなくなるものが多くなる。
匂いに限らず、特に嫌悪するようなものでもなし。いや、もしかすると年上の先輩だからと遠慮している可能性も。
今度それとなく聞いてみるか。
私が一人思案に耽る僅かな間、川西は何かとても言いにくそうな表情をしていた。
「どうした」
「いえ、なんていうかその」
「残り香って相当近くにいないと移らないよね」
「まあ、ですよね。だからその、お二人も仲良しだなぁと」
他人事となれば、いけしゃあしゃあと言う不二子さんと違い川西は歯切れが悪い。
確かに昨夜は縋り付くように眠りについた。摩訶不思議な夢を見もしたが。
急に小っ恥ずかしさか込み上げてきたのか体温が俄に上昇し、頰まで上気する。傍ではニヤニヤと笑う後輩と御内儀。恥らいと共に多少の苛つきも瞬息的に覚えた。
だが、それは私だけに言えたことではないんですよ。
私はのほほんと笑う不二子さんをちらりと見やり、仕返しせんとばかりに口を開いた。
「お言葉を返すようですが不二子さん。貴女も大概豆乳の香りを身に纏っていますよ」
「え? まあ、うん。だってそれはそうじゃない? お豆腐いつも使ってるし」
「豆腐を作るのは兵助、でしたね」
亭主の名を出せば「あっ」と川西が何かに気付いた声を小さく上げた。これ以上は言わずとも分かるだろう。
不二子さんはどこかむず痒そうな表情をそこに浮かべていた。日頃からいちゃついていることに関してもう慣れきってもいるのだろう。慣れるのも些かどうかと思うのだが。
「川西。私たちよりも久々知夫妻の方がよほどべたべたしている」
「……先輩、ちょっと怒ってません? 声が、コワイ」
「怒ってなどいない」
「照れてるんじゃない?」
その笑い方も、言い方も兵助に似すぎている。この人の顔もそのうち兵助似になってしまうのでは。
今朝見た鉢屋だらけの夢をまた思い出してしまいそうになり、私は頭を軽く横へ振り払った。
「……まあ、兎に角だ。三郎次は聞香のことで結構凹んでいたのであまりつつかないでやってくれ」
「照れてることは否定しない」
「ところで不二子さん。夕餉のメニューは何の予定ですか」
この人が抱えている笊に目を向け、二人の意識を逸らす。少し無理のある話題転換だったのか「急だぁ」と御内儀がぼそり呟いた。
立ち話で此処に居続けるわけにもいかんだろ。医務室を利用したい生徒たちに変な気を使わせてしまう。伊作もいないし、早々に立ち去るべきだと二人に伝えた。
半ば強制的に移動を促せば「食堂に行くなら近道しましょうか」と言う川西の提案を受け、学園の敷地内を往く。
思えばこの時点で気を張っておけばよかった。
後の祭りとはよく言ったもので、先を歩く川西の身体が不自然に沈んだ。
嫌な予感が走った私は本能的に危険を察知し飛び込み、落下する川西の腕を寸での所で掴む。
「川西くんっ!」
偽り蓋の役割を果たした木の枝、乾いた砂、木の葉が穴の底へばらばらと落ちていった。
穴の縁にかけた手指の先からぽろぽろと土の破片が零れる。これは厄介なやつを引き当てたな。
ぽっかりと空いた穴。深さはそれほどでもないが、状態が悪すぎる。
私は無理に引き上げようとせず、掬い取った手だけは離さないよう指先に力を入れた。
それから焦りの色を浮かべる川西に向けて声を掛ける。あくまで、落ち着いた声で。
「川西。落ち着いてよく聞いてくれ。この落とし穴、深さはそうでもないが状態が悪い。クナイが刺さらないぐらいボロボロの地質だ。刺した箇所からたちまちおがくずや豆腐そぼろの様に崩れてしまう」
「そ、それってつまり」
川西の顔が一瞬にして青ざめる。
不安を煽るような言葉は極力避けたいところであったが、今はそんなバヤイじゃない。
下手に動けば諸共生き埋めになる。
「無闇に上がろうとするな」
「は、はいっ」
そうは言ったものの、どうしたものか。
この悪条件では一気に引き上げるしか他ないのだが、半分以上身を乗り出したこの態勢では力も入らない。無理に力を入れたらひとたび崩れ落ちてしまう。
ぱらり。また縁が欠け、砂粒となって落ちていった。
「先輩! 手を離してくださいっ。先輩まで巻き込まれて……!」
川西の言葉に目を見張った。
脳裏に過ぎゆくのは、同じ境遇で聞いた友の声。
『駄目だ咲! お前まで引きずり込まれる、手を離せっ!』
『離すわけ、ないでしょ……っ! 友達を見捨てるなんて、僕に出来るワケがない!』
決死の覚悟で救い上げてもらったこの手。
「手を緩めるなよ、川西」
決して離すまいと、その腕を絡め取る。
「私が手を離したと同時にその反動で崩れ落ちる。それを知っても尚、私が手を離すとでも思っているのか」
「葉月先輩……っ」
「三郎次の友を見捨てることなど、私には出来ない!」
川西の顔がぐっと歪む。
一時緩んでいた私の腕を掴む力が再び強くなった。
「不二子さん! 先生か上級生を呼んできてくれ!」
「わ、わかった!」
緊迫した状況の空気を読み、離れた場所に待機していた不二子さんに向けて声を張り上げる。
一人では無理だが、二人がかりならば川西を一気に引き上げることができる。しかし、その好機は一度きり。
くそ、腕が痺れてきた。
「左近! 左手を上げろっ!」
「へっ?」
後方から聞こえてきたのは三郎次の声だ。私が支える逆の手を上げろと指示を飛ばす。
いまいち状況が飲み込めずにいた川西は言われるがまま左手を上げる。すると、その腕に鉤縄が瞬時のうちに巻き付いた。
良い判断だ。口元から笑みが零れ落ちる。
これで支えが二つできた。
「三郎次! 一気に引き上げるぞ!」
「了解っ。左近、しっかり縄を掴んでろよ!」
「わかった!」
私は今一度右手に、力を入れる。
「……いち、にの、さんっ!」
私の合図で川西の身体を一本釣りの如く、思い切り引っ張り上げた。
宙に放り投げられた川西を抱き留めた勢いが止まらず、私は尻もちをついた状態で数歩後進し、止まる。
前方に空いていた落とし穴は静かに音を立てながら崩れ落ちていった。まるで砂の城が波に攫われたかのように。
辺りがしんと静まり返る。
私たちは皆呆然としていた。これは稀に見ない類の危機だった。
川西に至っては力なく私の膝上でへたり込んでいる。ふと伊助を庇った日のことを思い出し、川西の頭を優しく撫でてやっまた。
「せ、先輩」
「無事で何よりだ」
「こっ子ども扱いしないでください! あと、今すぐその撫でるのやめてもらっていいですか。じゃなきゃ、僕……明日の朝日が拝めないかもしれない」
川西の顔が恐怖に怯えたものに早変わりした。その背後には鉤縄の端を掴んだままの三郎次。顔は笑っているが、目が全く笑っていない。
「とりあえず左近、今すぐそこを退け」
「すっ、すみませんでしたぁ!」
そう言って慌てて飛び退いたものだから、川西は鉤縄に足を取られて縺れ、転んでしまった。保健委員を務めた者は総じて不運だな、やはり。
私は目の前に差し出された三郎次の手を掴み、その場に起き上がる。
「助かったよ、三郎次。流石だ」
「……久々知さんが物凄い慌ててたもんだから。とりあえずこっち向かいながら事情を聞きました」
三郎次は若干不貞腐れていた。旧友を無事に助けられたことと、さっきのこととで気持ちが反発しているのだろう。
不二子さんが偶然すぐ近くに居合わせた三郎次を捕まえて口早に事情を話したそうだ。
「そうか。それで、不二子さんは?」
「あ。急いでこっち来たんで置いてきちゃいました。そろそろ来ると思いますけど……噂をすれば」
二人でそちらを見やれば、小走りでこちらに向かい「おーい!」と手をぶんぶんと振る不二子さんの姿。
今回の恩人は不二子さんでもある。三郎次がそのことを川西に「有難く思うように」と偉そうにしていた。
「良かった、川西くん無事だ……っ!?」
「不二子さん!?」
彼女が足を運ぶ道に何故か張られていた用心縄。それに鈍臭くも足を取られてしまい、均衡を何とか保とうと身体を前後に揺らしたが奮闘虚しく。前方にばたりと転んでしまった。
それだけならまだ良かった。その用心縄は一点に力が加えられると、他の罠が連動するようになっていたようで、木の方から絡繰りの歯車が回る音が聞こえた。
不味い。何かが起きる。
その後の展開はまるで疾風迅雷の如く、あっという間であった。
茂みから飛び出した振り子のような材木。その先端には背負い籠のようなものが取り付けられていた。それにこれまた上手いことすっぽりと拾い上げられてしまった不二子さん。振り子は勢いを失わずに半円を描くように振り上げた。
「ええっ~!」
そして、そのまま空高く飛んでいってしまった。まるで石火矢の砲弾が飛んでいくような放物線を描きながら。姿は遥か彼方遠くへと、消える。
私たちは呆然と空を眺めることしかできずにいた。
「……ぼんやりしているバヤイじゃない! 追うぞ三郎次、川西!」
「はっはい!」
「何で今日はこんなことばっかりなんだよ~!」
◇
一方、こちらは絡繰りのせいで空高く打ち上げられてしまった私。
何が起きたのかさっぱり理解が追い付きませんでした。いや、自分が空を飛ぶなんて夢にも思わないじゃない。今まで落っこちることは多々あれど。
かの猫型ロボットが少年に提供した空を自由に飛ぶ道具。それを使ったらこんな気分なんだろうか。いや、そんなこと考えてる場合じゃないよね。もう既に落下し始めてるんだよ、私の身体は。
「ちょっ……兵助くんっ!!」
「え?」
このまま無様に地面とこんにちはするのかと思ってたら、都合の良い所に兵助くんがいた。
咄嗟に名前を呼ぶと、空を見上げた兵助くんは豆腐の様な目をお月様みたいに丸くした。それは、そう。
幸いなことに私は木や屋根とかの障害物に身体を打ち付けることなく、兵助くんの腕にすっぽりと抱き留められた。
「こっここここ怖かった」
「不二子さん。なんで、なんで空から降ってきたの。飛んで来てまで俺に会いに来てくれたとか?」
「いや、そうじゃなくてね」
「でも危ないから止めてほしいな。すごく、すっごく嬉しいんだけどさ。不二子さんの安全が第一だし」
「うん。私も某ゲームみたいなこんな移動方法は願い下げなんだよ」
「一体何があったの」
そう言いながらぎゅっとお姫様抱っこの状態で抱きしめてくれた。私も兵助くんの首にぎゅっとしがみつく。
用心縄からの絡繰り発動でと事の経緯を話すと、後日それを作った生徒と監修した笹山くんがこってりと叱られたらしい。曲者避けはもうちょっと考えて作ってほしい。