第二部
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四|鈍色 咲
「……この作戦でいこうと思うんだけど、どうかな」
忍術学園の長屋一室で作戦会議が行われていた。
紫色の制服を纏う生徒が車座になり、頭を寄せ合う。五つの顔は各々側にいる者と目線を交わした。
間もなくして彼らは満場一致で頷き、口元に弧を描いた。皆、自信に満ちたもので、翌日の実習に向けて充分な気迫を蓄えていると言わんばかり。ただ一人――紅蓮を除いて。
「じゃあ、みんな明日はよろしく!」
「ああ」
「任せとけ」
「ヘマすんなよ」
平間という名札が掛けられた忍たま長屋の一室。
明日に控えた実習の作戦会議を終えた後、部屋の主である咲之助は友人たちの背を見送った。
そこでくるりと部屋の中を振り返る。
一人だけ残った紅蓮が眉間に皺を寄せるようにして難しい表情で佇んでいた。
今朝からずっとこの調子である。いや、実習の課題を言い渡された一昨日からだ。
暑さが本格的になる夏を迎えた四学年の生徒。明日、彼らは合戦場での実習を控えていた。
そこは実習用に整えられた場ではなく、実際の合戦場。刃を交える兵は当然の如く本物であり、城勤めの忍者或いは偵察に来た者と鉢合わせることも有り得る。
教員の補助は期待しない方が良いと告げられてもいた。
つまり、生死が隣り合わせとなるのだ。
「紅蓮」
咲之助は友人の名を呼んだ。しかし、考え事に耽っているのかその声は届かない。
二度、三度呼びかけた所でようやく伏せられていた睫が上がった。
「わ、悪い。……考え事を」
「顔色良くないよ。というか、最近ずっと不安そうな顔してる」
「そうでもないよ。気のせいじゃないのか」
眉根を寄せて笑った顔は無理に繕ったもの。
四年も共に過ごしてきた咲之助にとって、紅蓮の吐く嘘を見破るのは容易いことである。
「そうかなぁ。僕には明日の実習で緊張している様に見えるけど?」
紅蓮はぐっと息を詰まらせた。どうやら図星のようであった。
いや、それよりも感情を上手く隠せず表情に出ていたのかと落ち込んでもいた。
じっと覗き込んでくる榛摺 色の目。この視線を一度でも注がれてしまえば「違う」と否定を返すことはできなくなる。
この友人は他者の感情を読み取ることに長けているのだ。即ち嘘偽ることは不可能。
溜息が紅蓮の口から一つ漏れた。
それは咲之助が想像した以上に重く、思い詰めている。今ここで友人の気掛かりに気づくことができて良かったというもの。明日になってから不安を拭ったのでは遅すぎたかもしれないのだから。
「……印を取ってくるだけとはいえ、敵陣真っ只中に潜入するんだ。緊張もするし、不安になるものだろ普通は」
「大丈夫。大丈夫」
呪い のように言葉を繰り返した咲之助が紅蓮の両肩をぽんぽんと叩いた。
僅か触れた手の平は陽だまりの如く、麻布越しにその温もりが伝わる。これが実に不思議なもので、青ざめていた不安の色を瞬時に塗り替えた。
朗らかなその表情に幾度救われたことか。
「咲は怖くないのか」
「そりゃ、怖いよ。でもやらなきゃ。これは通らなきゃいけない道なんだし。不安は恐怖を増強させる。その恐怖を力に変えて味方につける人も中にはいるけど、僕らにはまだ無理な芸当だ」
恐怖は狂気を生む。
合戦場を駆け抜けた元戦忍の教師の言葉だ。
戦場で散った幾つもの命。自ら手に掛けた数も決して少なくはない。
一つの感情に囚われた者の末路は儚く、虚しいものだったと語る表情は苦々しいものであった。
「僕らに出来ることは必要以上の恐怖心を抱かないこと。敵を侮らずに、ね。恐怖に手足が竦んでしまったら、それこそそこまでだ」
「決して気を抜いてはいけない」
「そう。大丈夫、僕らならやれる。紅蓮も自信持って。前は任せたよ」
すっと上げた右手の握り拳。咲之助のそれに応じるかのように紅蓮も右手の拳を突き合わせた。その顔にはもう不安の色は映っていない。
「ああ。そっちも後ろは任せた」
「任せて。紅蓮たちの背中は僕が守る。どんと大船に乗ったつもりでいて」
「咲が大船なら、私が船頭になろう」
これ以上に心強い言葉はないものだ。
二人は互いに笑い合った。
「あ、そうだ。今年の夏休みは早く学園に戻って来るね」
「実家でゆっくり過ごしてくるんじゃないのか」
「休み明けに手裏剣打ちの試験があるでしょ。その時に棒手裏剣の打ち方教えるよ。僕も集中して練習したいし」
紅蓮は長い休みの間は学園に居残るか、伊作や留三郎の実家に身を寄せることが多い。実家に戻ることを許されない理由を咲之助もまた知っていた。
学園に一人残される事が多いゆえに、寂しさも募るというもの。一番の友人が早めに戻ってくると言うので、紅蓮の表情はパッと明るくなった。
「本当か」
「うん。紅蓮がめきめき腕を上げてるもんだから、うかうかしてられないもの。負けてられないよ」
「まだまだ咲の方が精度が高い。私は三度に一度は的を外すし」
「その言葉を鵜呑みにするとあっという間に追いつかれちゃうんだよ。君は手先が器用で飲み込みが早くて、何でも物にしちゃうんだから」
「私の上達は教えてくれる咲が優秀だからこそだ」
褒め言葉に微笑む顔。それが満更でもないといった様子で咲之助はにこりと笑い返した。
「咲。顔がニヤけてるぞ」
「えへへ。褒められたのが嬉しくって。よーし、期待に添えるよう僕も頑張らなくちゃ。こうなったら休み明けの手裏剣打ち試験は二人で首位を狙っちゃおう!」
「よし、負けないからな。夏休み終盤に咲が戻ってくるまで、自主鍛錬を怠らないようにする。待ってるよ」
「うん、待っててね。必ず早めに戻ってくるから。約束する」
紺青に晴れ渡る空はどこまでも、広がっていた。
◇◆◇
木片が燃やされた煙の臭い。雑じる鉄と血の臭いが風に流されてきた。
口元を覆う布だけではこの臭いは防げず、嫌な臭気が鼻をつく。
近年の戦では火縄銃が多用される。鉛玉が掠める事も珍しくなく。常に緊張の糸が張りつめていた。
雄叫び、叫声、無数の足音。
軍旗が風に靡き、白煙に捲かれ、倒れ伏した。
両軍が刃を交える真っ只中。
木立に身を潜め、印を取る若い忍びの影が複数。紫色の忍び装束に身を包んだ忍術学園の生徒が息を殺していた。
紅蓮は五人一組で今回の実習に挑んでいた。
己と咲之助を含む四人が印を取り、残る一人は連絡役として待機中である。機を窺い、狼煙を上げる役割を担う。
空一帯に広がる棚雲が風に流されている。雲の動きが速い。天気が急変する前触れだ。
ひとたび雨が降り出せば、狼煙が雨に掻き消されてしまう。
「狼煙が上がらないから撤退はしない」という意固地で馬鹿げた連中ではないことは重々承知ではあるが。
どうもこの空模様が気掛かりだ。
今一度、連絡役の忍たまは空を仰ぐ。その場に腰を屈め、火縄を近づけた。
真っ直ぐに立ち上る白煙。
数里離れた場所へ、空が崩れてしまうより前に、仲間へ届くよう一筋の煙を天へ見送った。
――撤退の合図。
樹上に身を潜めていた紅蓮は丑寅の方角に上がる狼煙を見つけた。
真っ直ぐに立ち上った白煙。ちょっとやそっとの風で散ることもなく、一本の細い糸が静かに揺らいでいた。
「狼煙なら任せろ」と言っていただけのことはある。素早く、正確に味方に情報を伝える手段が得意な者がいることは安心材料にもなった。
紅蓮は付近に留まる仲間に合図を送り、撤退を促した。
雑木林に囲まれた辺りは身を隠しながら移動するのに好適である。
前を行く紫色の影を見失わないように後を追い、枝から枝に飛び移っていく。
現段階では滞りもなく。少なくとも自分の周囲で派手な応戦は見られなかった。流れ弾にひやりとする場面は多少なりともありはしたが。
周囲に曲者の気配も感じられなかった。
只、前衛二番目を務める紅蓮には一つ気掛かりがあった。
印を取る間、不明勢力の忍び組を見かけたのだ。しかし、奴等は何も仕掛けて来ず。我々を学園の生徒だからと見逃したのか、それとも。
がさりと頭上の梢が揺れた。
烏が一羽、慌ただしく飛び立つ。抜け落ちた黒い羽がひらりと風に舞い、木立に紛れ消えた。
強迫観念がいやに纏わり付く。
紅蓮は別隊で動く友人たちの顔を思い浮かべ、無事を願った。細心の注意を払い、後に続く自分の隊を導きながら学園への路を目指す。
朧雲が空を覆い始めた。
昇っていたはずの太陽は薄らと雲に隠れてしまい、辺りは薄暗い。
雨が降れば姿は消しやすくなるも、その前に帰り着きたいところだ。
雑木林を走る咲之助は周囲の気配を探った。
懸念が一つあるのだ。
陣中の印を取る間、何者かが自分たちを窺っていた。だが、攻撃を仕掛けてくるような素振りはなく、ただこちらの様子を窺うのみ。何故なのか。
――僕らが忍たまと知って、いや。そうじゃない。
何もしないと油断させておき、機を窺っていたのだ。狩るとなれば、今この時。撤退の最中。
咲之助は前を行く友人が完全にこの場から離れたことを確かに見届け、足を止めた。
振り向きざま、探り当てた気配の場所に目掛けて棒手裏剣を打ち込んだ。
忍影が音を立て、それを退ける。
――やっぱり、付けられていた。
「何故、立ち止まる。逃げ果せられたかもしれぬのに」
抑揚のない、太い声が咲之助の耳に届いた。
姿を露わにした黒い忍び。十分に取られた間合いからでも伝わる、ひりひりとした殺気。放たれた殺気に喉元を押さえ付けられているような錯覚ですらある。
咲之助は俄に震え出した指先を握りしめた。
「此処から先へは行かせない」
「囮にでもなったつもりか、若い忍びが生き急ぎおって」
――このまま後を付けられたら、みんな殺られる。
「まさか」
――死間になるつもりなんて毛頭ない。帰らなきゃいけない理由が有る限り、僕は生きる。
翳る薄暗い林の中に影が溶け込む。
鉄の激しくぶつかる音。棒手裏剣を忍ばせた手甲で受け止めた咲之助は素早く身を翻し、クナイを手に。
「命短し、一所懸命生きろってね!」
不敵な笑みを静かに携えた。
◇
天つ空は妖雲が立ちこめていた。
雑木林の中をふらつく一つの影は天を仰ぎ、木々の葉から漏れる光に目を細める。覚束無い足を重く引きずりながら歩むも、ついにその足を止めてしまった。
木の幹に背を預けたつもりが、力が抜けていくようにずるずると崩れ落ちる。その背から滲み出た血が跡をつけた。
根元に座り込んだ若い忍びは荒い呼吸を肩で繰り返していた。
経験差が天と地ほどもある相手と刃を交え、逃げ果せたのは運が味方したのか否か。命からがらに深手を負いながらここまで来たが。足が言うことを聞かずにいる。
早く戻らなければ。自分の帰りが遅いと心配をする友人たちがいる。
嗚呼、でもこれ以上動き回るのは駄目だ。血を流しすぎた。この血の跡が続いているとわかれば、仲間に危険が及ぶ。
それだけは避けなければいけない。
自らの意思でこの場に留まることを決めた咲之助は目をそっと伏せた。
曇天の空からは間もなく雨が降り出すだろう。
雨が降れば血の跡も流れ、臭いも消せる。だが、体温は容赦なく奪われてしまう。
――みんなはもう、帰り着いたかな。僕も帰りたい。約束があるし。でも、身体が動かないや。
指先が悴む。真夏を迎えた時期だというのに、雪に埋もれたような寒さが咲之助の身体を包み込んでいた。
意識が朦朧とする中、聞こえた一つの足音。
「咲之助、咲之助! しっかりしなさい!」
幾度も呼ぶ声に応じようと、鉛のように重い瞼を持ち上げる。ぼやけた視界に映ったのは、黒い忍び装束。その声はいつも聞いていたもの。
「先生」
紡がれた言葉は糸よりも細い声。
定まらない咲之助の焦点は担任の顔を捉えた。
「先生、みんなは」
「心配は要らない。皆、学園に戻った」
「そう、よかった。……よかっ、た」
持ち上げられていた瞼が、ゆっくりと、下がっていく。
「いかん、しっかりするんだ! 今止血をする。学園までは直ぐそこだ、だから」
「せんせ、……ごめんと、伝えて……さい。やくそく、まもれなくって」
――ごめんね。紅蓮。
双眸は静かに閉じられた。
◇
「いってぇ! 伊作っ、もう少し優しく手当してくれ!」
「真っ向から突き進もうとしたのは誰だっけ? 全く。肝が冷えたよこっちは」
薬を染み込ませた筆先が触れただけでも痛みが走る。そう伊作に訴える留三郎であったが、実習中の行動に苦言を呈され押し黙った。
医務室で手当てを受けているのは四学年の忍たま。彼らは先ほど実習から戻ってきたばかりである。
怪我の程度は各隊によって異なるが、皆大事に至らず保健委員は安堵した。
「はい、終わり。次、紅蓮の手当てするからこっちに座って」
「私は大したことがない。火傷といっても、掠めた程度だから」
「だからって放っておいていい理由にはならないからね?」
「……はい」
伊作の物言わせぬ微笑みに素直に紅蓮は頷くしか術がなかった。
右手腕の手甲を解いた際、暗器として忍ばせていた棒手裏剣がカランと床板の上に落ちた。尾の方に目印が一つ刻まれている。紅蓮はそれを拾い上げて左腕に忍ばせ、医務室の出入り口を見やる。
「そういえば。最近、棒手裏剣の腕が上がってるよね」
「扱えるものは一つでも多い方がいいだろ」
「俺も同意見だ。忍者たるもの、ありとあらゆる物を武器として扱わねば」
「そうだね。石ころ一つとっても僕たちにとっては命運を左右するものだから」
伊作は薄らと赤く腫れた火傷の箇所に薬を塗り、包帯をしっかりと巻き付けていく。
その傍ら、紅蓮が先ほどから外を気に掛けていることを案じた。どこか、落ち着きもない。
「どうした、紅蓮。さっきから外を見て」
「……いや。嫌な空模様になってきた。昼間はあんなに晴れていただろ」
「一雨くる前に戻ってこられて良かったよね」
「なあ、そういえば咲之助は? お前と同じ隊だったろ」
「殿を務めていた。だから、そろそろ戻ってくる頃だと」
それにしてもだ。戻りが遅い。
妙なざわつきが胸の奥で渦巻いていた。嫌な予感が鼓動を速めていく。
「紅蓮」
医務室に駆け込んできた紫色の制服。紅蓮と同じ隊に属した友人、咲之助の前にいた者だ。顔色が優れないことに、一抹の不安が過る。
「どうしたんだ」
「咲之助がまだ、戻ってこない。もう学園に着いてもいい頃なのに」
この報せを聞くなり紅蓮は医務室を飛び出していった。後方で自分を呼び止める声も振り切り、廊下を駆ける。
鈍色の空。重く、今にも落ちてきそうなほど分厚い雲が頭上を覆う。
湿気を含んだ空気が肌に纏わり付く。呼吸を繰り返せばするほど、肺に水が溜まってしまいそうだ。
紅蓮は学園の敷地内を走り、裏門の一つに辿り着いた。何故ここに行き着いたかはわからない。直感に導かれたのか、或いは。
裏門の小さな木戸が開き、一人の教師が入ってきた。静かにその戸が音を立て、閉まる。教師は紅蓮の顔を見るなり、双眸を丸めた。憔悴しきった表情を崩すまいと、下唇を噛みながら。
「紅蓮」
教科担当の教師は自身が受け持つ四年生の生徒――咲之助をその腕に抱えていた。
紅蓮は変わり果てた友の姿に息を呑んだ。
その顔は血の気を失い青白く、触れた頬は石のように冷たかった。心の臓は既に鼓動を拍していない。
「咲。嘘だろ。なあ、咲」
声の音が一つ、また一つ哀しみに震える。
友人に呼び掛ける紅蓮の声が悲痛であるあまりに、担任教師の表情が歪んだ。紙をくしゃりと潰したように。嗚咽がその喉から、込み上げてきた。
「目を開けろ、……咲之助っ!!」
固く閉ざされた目は、もう開く事はない。
生徒の亡骸を抱えた担任教師はゆっくりと膝から崩れ落ちた。大粒の雫がぱたり、ぱたりと温度を失った頬に降り注いでいく。
紅蓮は握り返されることのない冷たい手を強く握りしめ、落涙に溺れる。
慟哭する生徒の肩を抱く教師の手もまた哀しみに震えていた。
応えないのだ。
呼びかけにはもう。
あの明るい笑い声はもう、聞くことができない。
光を受けて咲く花はもう、見ることができない。
「……この作戦でいこうと思うんだけど、どうかな」
忍術学園の長屋一室で作戦会議が行われていた。
紫色の制服を纏う生徒が車座になり、頭を寄せ合う。五つの顔は各々側にいる者と目線を交わした。
間もなくして彼らは満場一致で頷き、口元に弧を描いた。皆、自信に満ちたもので、翌日の実習に向けて充分な気迫を蓄えていると言わんばかり。ただ一人――紅蓮を除いて。
「じゃあ、みんな明日はよろしく!」
「ああ」
「任せとけ」
「ヘマすんなよ」
平間という名札が掛けられた忍たま長屋の一室。
明日に控えた実習の作戦会議を終えた後、部屋の主である咲之助は友人たちの背を見送った。
そこでくるりと部屋の中を振り返る。
一人だけ残った紅蓮が眉間に皺を寄せるようにして難しい表情で佇んでいた。
今朝からずっとこの調子である。いや、実習の課題を言い渡された一昨日からだ。
暑さが本格的になる夏を迎えた四学年の生徒。明日、彼らは合戦場での実習を控えていた。
そこは実習用に整えられた場ではなく、実際の合戦場。刃を交える兵は当然の如く本物であり、城勤めの忍者或いは偵察に来た者と鉢合わせることも有り得る。
教員の補助は期待しない方が良いと告げられてもいた。
つまり、生死が隣り合わせとなるのだ。
「紅蓮」
咲之助は友人の名を呼んだ。しかし、考え事に耽っているのかその声は届かない。
二度、三度呼びかけた所でようやく伏せられていた睫が上がった。
「わ、悪い。……考え事を」
「顔色良くないよ。というか、最近ずっと不安そうな顔してる」
「そうでもないよ。気のせいじゃないのか」
眉根を寄せて笑った顔は無理に繕ったもの。
四年も共に過ごしてきた咲之助にとって、紅蓮の吐く嘘を見破るのは容易いことである。
「そうかなぁ。僕には明日の実習で緊張している様に見えるけど?」
紅蓮はぐっと息を詰まらせた。どうやら図星のようであった。
いや、それよりも感情を上手く隠せず表情に出ていたのかと落ち込んでもいた。
じっと覗き込んでくる
この友人は他者の感情を読み取ることに長けているのだ。即ち嘘偽ることは不可能。
溜息が紅蓮の口から一つ漏れた。
それは咲之助が想像した以上に重く、思い詰めている。今ここで友人の気掛かりに気づくことができて良かったというもの。明日になってから不安を拭ったのでは遅すぎたかもしれないのだから。
「……印を取ってくるだけとはいえ、敵陣真っ只中に潜入するんだ。緊張もするし、不安になるものだろ普通は」
「大丈夫。大丈夫」
僅か触れた手の平は陽だまりの如く、麻布越しにその温もりが伝わる。これが実に不思議なもので、青ざめていた不安の色を瞬時に塗り替えた。
朗らかなその表情に幾度救われたことか。
「咲は怖くないのか」
「そりゃ、怖いよ。でもやらなきゃ。これは通らなきゃいけない道なんだし。不安は恐怖を増強させる。その恐怖を力に変えて味方につける人も中にはいるけど、僕らにはまだ無理な芸当だ」
恐怖は狂気を生む。
合戦場を駆け抜けた元戦忍の教師の言葉だ。
戦場で散った幾つもの命。自ら手に掛けた数も決して少なくはない。
一つの感情に囚われた者の末路は儚く、虚しいものだったと語る表情は苦々しいものであった。
「僕らに出来ることは必要以上の恐怖心を抱かないこと。敵を侮らずに、ね。恐怖に手足が竦んでしまったら、それこそそこまでだ」
「決して気を抜いてはいけない」
「そう。大丈夫、僕らならやれる。紅蓮も自信持って。前は任せたよ」
すっと上げた右手の握り拳。咲之助のそれに応じるかのように紅蓮も右手の拳を突き合わせた。その顔にはもう不安の色は映っていない。
「ああ。そっちも後ろは任せた」
「任せて。紅蓮たちの背中は僕が守る。どんと大船に乗ったつもりでいて」
「咲が大船なら、私が船頭になろう」
これ以上に心強い言葉はないものだ。
二人は互いに笑い合った。
「あ、そうだ。今年の夏休みは早く学園に戻って来るね」
「実家でゆっくり過ごしてくるんじゃないのか」
「休み明けに手裏剣打ちの試験があるでしょ。その時に棒手裏剣の打ち方教えるよ。僕も集中して練習したいし」
紅蓮は長い休みの間は学園に居残るか、伊作や留三郎の実家に身を寄せることが多い。実家に戻ることを許されない理由を咲之助もまた知っていた。
学園に一人残される事が多いゆえに、寂しさも募るというもの。一番の友人が早めに戻ってくると言うので、紅蓮の表情はパッと明るくなった。
「本当か」
「うん。紅蓮がめきめき腕を上げてるもんだから、うかうかしてられないもの。負けてられないよ」
「まだまだ咲の方が精度が高い。私は三度に一度は的を外すし」
「その言葉を鵜呑みにするとあっという間に追いつかれちゃうんだよ。君は手先が器用で飲み込みが早くて、何でも物にしちゃうんだから」
「私の上達は教えてくれる咲が優秀だからこそだ」
褒め言葉に微笑む顔。それが満更でもないといった様子で咲之助はにこりと笑い返した。
「咲。顔がニヤけてるぞ」
「えへへ。褒められたのが嬉しくって。よーし、期待に添えるよう僕も頑張らなくちゃ。こうなったら休み明けの手裏剣打ち試験は二人で首位を狙っちゃおう!」
「よし、負けないからな。夏休み終盤に咲が戻ってくるまで、自主鍛錬を怠らないようにする。待ってるよ」
「うん、待っててね。必ず早めに戻ってくるから。約束する」
紺青に晴れ渡る空はどこまでも、広がっていた。
◇◆◇
木片が燃やされた煙の臭い。雑じる鉄と血の臭いが風に流されてきた。
口元を覆う布だけではこの臭いは防げず、嫌な臭気が鼻をつく。
近年の戦では火縄銃が多用される。鉛玉が掠める事も珍しくなく。常に緊張の糸が張りつめていた。
雄叫び、叫声、無数の足音。
軍旗が風に靡き、白煙に捲かれ、倒れ伏した。
両軍が刃を交える真っ只中。
木立に身を潜め、印を取る若い忍びの影が複数。紫色の忍び装束に身を包んだ忍術学園の生徒が息を殺していた。
紅蓮は五人一組で今回の実習に挑んでいた。
己と咲之助を含む四人が印を取り、残る一人は連絡役として待機中である。機を窺い、狼煙を上げる役割を担う。
空一帯に広がる棚雲が風に流されている。雲の動きが速い。天気が急変する前触れだ。
ひとたび雨が降り出せば、狼煙が雨に掻き消されてしまう。
「狼煙が上がらないから撤退はしない」という意固地で馬鹿げた連中ではないことは重々承知ではあるが。
どうもこの空模様が気掛かりだ。
今一度、連絡役の忍たまは空を仰ぐ。その場に腰を屈め、火縄を近づけた。
真っ直ぐに立ち上る白煙。
数里離れた場所へ、空が崩れてしまうより前に、仲間へ届くよう一筋の煙を天へ見送った。
――撤退の合図。
樹上に身を潜めていた紅蓮は丑寅の方角に上がる狼煙を見つけた。
真っ直ぐに立ち上った白煙。ちょっとやそっとの風で散ることもなく、一本の細い糸が静かに揺らいでいた。
「狼煙なら任せろ」と言っていただけのことはある。素早く、正確に味方に情報を伝える手段が得意な者がいることは安心材料にもなった。
紅蓮は付近に留まる仲間に合図を送り、撤退を促した。
雑木林に囲まれた辺りは身を隠しながら移動するのに好適である。
前を行く紫色の影を見失わないように後を追い、枝から枝に飛び移っていく。
現段階では滞りもなく。少なくとも自分の周囲で派手な応戦は見られなかった。流れ弾にひやりとする場面は多少なりともありはしたが。
周囲に曲者の気配も感じられなかった。
只、前衛二番目を務める紅蓮には一つ気掛かりがあった。
印を取る間、不明勢力の忍び組を見かけたのだ。しかし、奴等は何も仕掛けて来ず。我々を学園の生徒だからと見逃したのか、それとも。
がさりと頭上の梢が揺れた。
烏が一羽、慌ただしく飛び立つ。抜け落ちた黒い羽がひらりと風に舞い、木立に紛れ消えた。
強迫観念がいやに纏わり付く。
紅蓮は別隊で動く友人たちの顔を思い浮かべ、無事を願った。細心の注意を払い、後に続く自分の隊を導きながら学園への路を目指す。
朧雲が空を覆い始めた。
昇っていたはずの太陽は薄らと雲に隠れてしまい、辺りは薄暗い。
雨が降れば姿は消しやすくなるも、その前に帰り着きたいところだ。
雑木林を走る咲之助は周囲の気配を探った。
懸念が一つあるのだ。
陣中の印を取る間、何者かが自分たちを窺っていた。だが、攻撃を仕掛けてくるような素振りはなく、ただこちらの様子を窺うのみ。何故なのか。
――僕らが忍たまと知って、いや。そうじゃない。
何もしないと油断させておき、機を窺っていたのだ。狩るとなれば、今この時。撤退の最中。
咲之助は前を行く友人が完全にこの場から離れたことを確かに見届け、足を止めた。
振り向きざま、探り当てた気配の場所に目掛けて棒手裏剣を打ち込んだ。
忍影が音を立て、それを退ける。
――やっぱり、付けられていた。
「何故、立ち止まる。逃げ果せられたかもしれぬのに」
抑揚のない、太い声が咲之助の耳に届いた。
姿を露わにした黒い忍び。十分に取られた間合いからでも伝わる、ひりひりとした殺気。放たれた殺気に喉元を押さえ付けられているような錯覚ですらある。
咲之助は俄に震え出した指先を握りしめた。
「此処から先へは行かせない」
「囮にでもなったつもりか、若い忍びが生き急ぎおって」
――このまま後を付けられたら、みんな殺られる。
「まさか」
――死間になるつもりなんて毛頭ない。帰らなきゃいけない理由が有る限り、僕は生きる。
翳る薄暗い林の中に影が溶け込む。
鉄の激しくぶつかる音。棒手裏剣を忍ばせた手甲で受け止めた咲之助は素早く身を翻し、クナイを手に。
「命短し、一所懸命生きろってね!」
不敵な笑みを静かに携えた。
◇
天つ空は妖雲が立ちこめていた。
雑木林の中をふらつく一つの影は天を仰ぎ、木々の葉から漏れる光に目を細める。覚束無い足を重く引きずりながら歩むも、ついにその足を止めてしまった。
木の幹に背を預けたつもりが、力が抜けていくようにずるずると崩れ落ちる。その背から滲み出た血が跡をつけた。
根元に座り込んだ若い忍びは荒い呼吸を肩で繰り返していた。
経験差が天と地ほどもある相手と刃を交え、逃げ果せたのは運が味方したのか否か。命からがらに深手を負いながらここまで来たが。足が言うことを聞かずにいる。
早く戻らなければ。自分の帰りが遅いと心配をする友人たちがいる。
嗚呼、でもこれ以上動き回るのは駄目だ。血を流しすぎた。この血の跡が続いているとわかれば、仲間に危険が及ぶ。
それだけは避けなければいけない。
自らの意思でこの場に留まることを決めた咲之助は目をそっと伏せた。
曇天の空からは間もなく雨が降り出すだろう。
雨が降れば血の跡も流れ、臭いも消せる。だが、体温は容赦なく奪われてしまう。
――みんなはもう、帰り着いたかな。僕も帰りたい。約束があるし。でも、身体が動かないや。
指先が悴む。真夏を迎えた時期だというのに、雪に埋もれたような寒さが咲之助の身体を包み込んでいた。
意識が朦朧とする中、聞こえた一つの足音。
「咲之助、咲之助! しっかりしなさい!」
幾度も呼ぶ声に応じようと、鉛のように重い瞼を持ち上げる。ぼやけた視界に映ったのは、黒い忍び装束。その声はいつも聞いていたもの。
「先生」
紡がれた言葉は糸よりも細い声。
定まらない咲之助の焦点は担任の顔を捉えた。
「先生、みんなは」
「心配は要らない。皆、学園に戻った」
「そう、よかった。……よかっ、た」
持ち上げられていた瞼が、ゆっくりと、下がっていく。
「いかん、しっかりするんだ! 今止血をする。学園までは直ぐそこだ、だから」
「せんせ、……ごめんと、伝えて……さい。やくそく、まもれなくって」
――ごめんね。紅蓮。
双眸は静かに閉じられた。
◇
「いってぇ! 伊作っ、もう少し優しく手当してくれ!」
「真っ向から突き進もうとしたのは誰だっけ? 全く。肝が冷えたよこっちは」
薬を染み込ませた筆先が触れただけでも痛みが走る。そう伊作に訴える留三郎であったが、実習中の行動に苦言を呈され押し黙った。
医務室で手当てを受けているのは四学年の忍たま。彼らは先ほど実習から戻ってきたばかりである。
怪我の程度は各隊によって異なるが、皆大事に至らず保健委員は安堵した。
「はい、終わり。次、紅蓮の手当てするからこっちに座って」
「私は大したことがない。火傷といっても、掠めた程度だから」
「だからって放っておいていい理由にはならないからね?」
「……はい」
伊作の物言わせぬ微笑みに素直に紅蓮は頷くしか術がなかった。
右手腕の手甲を解いた際、暗器として忍ばせていた棒手裏剣がカランと床板の上に落ちた。尾の方に目印が一つ刻まれている。紅蓮はそれを拾い上げて左腕に忍ばせ、医務室の出入り口を見やる。
「そういえば。最近、棒手裏剣の腕が上がってるよね」
「扱えるものは一つでも多い方がいいだろ」
「俺も同意見だ。忍者たるもの、ありとあらゆる物を武器として扱わねば」
「そうだね。石ころ一つとっても僕たちにとっては命運を左右するものだから」
伊作は薄らと赤く腫れた火傷の箇所に薬を塗り、包帯をしっかりと巻き付けていく。
その傍ら、紅蓮が先ほどから外を気に掛けていることを案じた。どこか、落ち着きもない。
「どうした、紅蓮。さっきから外を見て」
「……いや。嫌な空模様になってきた。昼間はあんなに晴れていただろ」
「一雨くる前に戻ってこられて良かったよね」
「なあ、そういえば咲之助は? お前と同じ隊だったろ」
「殿を務めていた。だから、そろそろ戻ってくる頃だと」
それにしてもだ。戻りが遅い。
妙なざわつきが胸の奥で渦巻いていた。嫌な予感が鼓動を速めていく。
「紅蓮」
医務室に駆け込んできた紫色の制服。紅蓮と同じ隊に属した友人、咲之助の前にいた者だ。顔色が優れないことに、一抹の不安が過る。
「どうしたんだ」
「咲之助がまだ、戻ってこない。もう学園に着いてもいい頃なのに」
この報せを聞くなり紅蓮は医務室を飛び出していった。後方で自分を呼び止める声も振り切り、廊下を駆ける。
鈍色の空。重く、今にも落ちてきそうなほど分厚い雲が頭上を覆う。
湿気を含んだ空気が肌に纏わり付く。呼吸を繰り返せばするほど、肺に水が溜まってしまいそうだ。
紅蓮は学園の敷地内を走り、裏門の一つに辿り着いた。何故ここに行き着いたかはわからない。直感に導かれたのか、或いは。
裏門の小さな木戸が開き、一人の教師が入ってきた。静かにその戸が音を立て、閉まる。教師は紅蓮の顔を見るなり、双眸を丸めた。憔悴しきった表情を崩すまいと、下唇を噛みながら。
「紅蓮」
教科担当の教師は自身が受け持つ四年生の生徒――咲之助をその腕に抱えていた。
紅蓮は変わり果てた友の姿に息を呑んだ。
その顔は血の気を失い青白く、触れた頬は石のように冷たかった。心の臓は既に鼓動を拍していない。
「咲。嘘だろ。なあ、咲」
声の音が一つ、また一つ哀しみに震える。
友人に呼び掛ける紅蓮の声が悲痛であるあまりに、担任教師の表情が歪んだ。紙をくしゃりと潰したように。嗚咽がその喉から、込み上げてきた。
「目を開けろ、……咲之助っ!!」
固く閉ざされた目は、もう開く事はない。
生徒の亡骸を抱えた担任教師はゆっくりと膝から崩れ落ちた。大粒の雫がぱたり、ぱたりと温度を失った頬に降り注いでいく。
紅蓮は握り返されることのない冷たい手を強く握りしめ、落涙に溺れる。
慟哭する生徒の肩を抱く教師の手もまた哀しみに震えていた。
応えないのだ。
呼びかけにはもう。
あの明るい笑い声はもう、聞くことができない。
光を受けて咲く花はもう、見ることができない。