第二部
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
四|鈍色 現
蝉時雨。
真夏の暑さをじわりと肌に感じる季節がやってきた。
今日ばかりは風の調子も悪く、座り仕事をしているだけでも汗がじわじわと沸いてくる。蝉の喧しい声が更に暑さを助長するように感じられた。
伊作の額から汗が一筋。つうっと流れ落ちる。手を止めた伊作は手拭いで汗を拭い、薬研で薬草を潰す作業を続けた。
外からはやかましい蝉の鳴き声。医務室ではごりごりと薬草を擦り潰す音。
ぼんやりとそれらを聞きながら紅蓮は吐息を一つ漏らした。
畳の上に敷かれた病人用の布団に身体を潜らせてはいるが、四肢を投げ出したくなるようなこの暑さ。既に両腕を布団から出しており、何なら掛け布団を跳ね退けたいまでもある。しかし、そうしては医務室の預かりを任されているこの友人が険しい表情をする。
「伊作」
「なに」
呼び掛けただけでこの辛辣で冷え切った反応なのだ。仕方なしに紅蓮は掛け布団を身体に掛けていた。
「あつい」
「それはそうだよ。高熱が出てるんだから」
今から一刻程前のことである。
伊作は保健委員会の会議に同席した後、書類を提出するべく事務室へと赴いた。
その戻りに聞こえた学園の正門を叩く音。周辺を見渡すが、事務員の姿は見えず。代わりに来客を出迎えようと伊作は出入り用の戸を開けた。
そこにいたのは先週顔を見たばかりの友人。「今日はどうしたの」と伊作が口を開くより前に、ぐらりと紅蓮の身体が傾いた。それが後方に倒れてゆくものだから、慌てて腕を掴み引き寄せる。と、布越しでもはっきりとわかるぐらいに高い体温。額に手を当てればじりじりと熱した鉄板の如く熱いではないか。
伊作は急いで紅蓮を抱え上げて医務室へ運び込んだ。
問診、視診等を経て現症をとった伊作は「感冒」と診断。最近忙しかったのかと尋ねれば「昨日池に落ちた」と意識朦朧としながらも熱っぽい声が返ってきた。
「全くもう。池に落ちてそのまま乾かさないで寝るとか信じられない。風邪引いて当然じゃないか」
「……最近暑かっただろ。だから、放っておけば乾くだろうと」
「思うのが間違い」
「良い風だって吹き抜けてた」
「濡れた状態そのままで乾かしたら身体が冷えるに決まってる」
押し問答に近いやり取りをしていた二人だが、先に白旗を上げたのは紅蓮の方であった。
「ご尤もです」と弱々しく掠れた声で伊作に降伏する。伊作の口からは大きな溜息が零れた。
熱を帯びた目が天井をぼうっと仰ぐ。
額を冷やす手拭いは寸で温くなってしまい、少しもひやりとしない。逆に気分が悪くなる。その手拭いを退かそうと手を伸ばしたが、指先は空を掴んだ。
消えた手拭いを探そうと頭を傾けることもせず、焼けた石のように熱い額に手の甲を乗せる。熱い。
目を瞑った紅蓮の唇から短い吐息が漏れた。
側でちゃぷちゃぷと音を立てる水音が頭の中で反響し、ぐるぐると回る目眩すら覚える。
額に乗せた手首をひょいと掴まれ、持ち上げられたかと思えば、代わりに冷たいものが額に触れた。
固く絞られた手拭い。冷たくて心地が良い。
また直ぐに温くなってしまうことは分かりきっているが、こうして側に看病してくれる、気心知れた者がいる。それだけで心が安らぐというものだ。否応なしにとびきり苦い薬を飲まされることだけは慣れず、嫌ではあるのだが。
「伊作」
「まだ熱い? 氷持ってこようか」
「いや、いい。……いつもすまない」
「こういう時は有難う、だろ」
伊作の言葉に伴う表情は穏やかであった。
苦言を呈するのはあくまで友の為。それをよく知る紅蓮も反発することなく呟いた。有難う、と。
「風邪が治るまでここにいるといいよ」
「熱が下がったら大人しく御暇する。私が居れば医務室を逼迫させてしまう」
「君一人ぐらいでそうはならないって。それに何を今更言ってるんだ。具合の悪い友人を追い出したりはしないから、安心して休みなさい。因みにこれは僕の権限だから、心配せずに」
医務室を預かる校医の新野洋一は遠方に出張中である。詳細は語れないがと伊作は前置きをつけた。
伊作は卒業後から校医の下で医学を学び、その傍らで医務室の手伝いをする。六年間保健委員を務め上げた伊作としては勝手知ったるもので、医療行為も滞りがない。
そして今後の進路はというと、学園側から校医にならないかと誘いを受けていた。伊作が医務室副担当になる日もそう遠くない話である。
「伊作先生がここに居てくれたら私も助かるよ」
「気が早いなぁ」
「医者は伊作の天職かもしれないな。忍者よりも余程向いてるよ」
「僕もそう思う。……人生何がどう転んで良い方向に行くかわからないってつくづく実感してる」
城からの内定を取り消され、続いていたはずの道は落石で閉ざされてしまった。
しかし途方に暮れる間もなく、脇道に見えた一筋の真っ直ぐな光。それは獣道とは言えぬ、草が取り払われた道。その脇道は真っ直ぐに続いていた。
ぼんやりとしていた輪郭がはっきりと浮かび上がり、人道が目の前に現れた。
最初からその道は見えていたのだ。ただ、朧気に揺らめいていただけで。
それに、と伊作は寝転がる紅蓮に目を向けた。
まるで己の事のように悔しがり、涙を流してくれた友人がいる。
人を助け、人に助けられてきた。この道を選んで悔いはないとさえ思えるようになったのも、友人がいたおかげだ。
「紅蓮」
「ん」
「有難う」
何の脈絡もなしに御礼を伝えられた方は、何の事かと話題を今しがた遡る。しかし、それらしきものは見つからず。顔を顰めた紅蓮に伊作が「いつも顔見せに来てくれてってこと」と穏やかに笑い返した。
「……そんなこと言われたら、私は忍術学園に常駐しなければならなくなるだろ」
「火薬委員会の後輩にも言われたんだっけ? 人気者じゃないか。いっそ教師にでもなっちゃえば」
「それも、悪くないかもな。もう少し経験を積まなければ、門は狭い」
「あれ、意外とノリ気?」
「熱に浮かされた戯言だと思ってくれ。それに私が教師になったら命が幾つあっても足りなくなりそうだ」
紅蓮は有事ある毎に身を挺してまで後輩を庇う性分だ。
いつか身を滅ぼすのではと周囲の心配が堪えることはなく。そんな友人が生徒を指導する立場になったとしたら。
「うん。……紅蓮はもう少し自分を大事にしなさい」
「わかってるよ。これでも怪我は減った方だ。御守りのおかげでな」
「御守り?」
「三郎次から受け取った。思いが込められているせいか、とても効いているよ」
「思い、ね」
伊作は三郎次がこの友人に想いを密かに寄せていることを知っている。
以前、留三郎が医務室へ顔を出した際にそう話していたのだ。恋慕を抱いていると。留三郎はこうも話していた「しかしあいつは鈍いからな。いつ気がつくやら」と溜息を添えて。
それには否定ができずにいた。自分も留三郎と同意見なのである。この六年間と二年余り、色恋沙汰の‟い”の字すらチラつかなかった。
果ては仙蔵が執着する理由にも気づかぬまま解散に至る。
三郎次から渡されたという御守り。それは単に世話になった先輩だからという意味ではないだろう。
「三郎次の調子はどう?」
「良い調子だ。力もついてきたし、技に磨きもかかってきた。この間は押し負かされそうにもなったよ」
熱を含んだ紅蓮の目が細められ、満足気に口元を緩める。
後輩の心知らず。「そろそろ手加減はしてやれなくなるかもな」とそれは呑気に言うものだ。
何かきっかけがなければ三郎次の気持ちに一生気づかないのでは。そう危惧するも、自分がしてやれることは思いつかない。なにせ、遠回しに言ったとしても全く気づかないのだこの友人は。
「なあ、伊作」
「うん?」
ジーッ、ジー。ジッと鳴いていた蝉の声が途切れた。
静寂が辺りをじわじわと包み込む。
「学園内がやけに静かな気がする」
「……ああ。昨日から四年生が実習でいないからね」
「実習」
乾いた唇が二文字の言葉を繰り返した。
何処へ、何の実習か。伊作は一言も触れずにいたが、夏休み前に行われる合戦場での実習だと勘を働かせたのだろう。紅蓮は目元を片手の平で覆い隠した。
「もう、そんな時期か」
絞り出された声は湿ったように重くなり、落ちた。
「大丈夫。みんな戻ってくるよ」
あくまで穏やかに伊作は返した。愁嘆に満たされぬようにと。
紅蓮の唇が言葉を僅か紡いだが、それは無音に消えていった。
「……水を換えてくるよ。大人しく寝てること」
「わかってる。身体を起こすのもやっとなんだ。ふらつく余裕なんてない」
「それ、信じてるからね」
手洗桶を両手に持ち抱えた伊作は医務室の出入口で立ち止まり、桶を片手で支えながら戸を引いた。
雲行きが怪しくなってきたな。心の内で呟いた伊作は空を見上げ、眉を顰めた。
屋根から覗いた空はどんよりと曇っている。直に通り雨がやってくるのか。
鈍色に染められた分厚い雲。今にもその塊が地上へ落ちてきそうだ。
これ以上酷くならないと良いんだけれど。
伊作は戸をゆっくりと閉めながら、紅蓮の様子を窺った。
どうか、暗然に満ちぬようにと願うばかりである。
蝉時雨。
真夏の暑さをじわりと肌に感じる季節がやってきた。
今日ばかりは風の調子も悪く、座り仕事をしているだけでも汗がじわじわと沸いてくる。蝉の喧しい声が更に暑さを助長するように感じられた。
伊作の額から汗が一筋。つうっと流れ落ちる。手を止めた伊作は手拭いで汗を拭い、薬研で薬草を潰す作業を続けた。
外からはやかましい蝉の鳴き声。医務室ではごりごりと薬草を擦り潰す音。
ぼんやりとそれらを聞きながら紅蓮は吐息を一つ漏らした。
畳の上に敷かれた病人用の布団に身体を潜らせてはいるが、四肢を投げ出したくなるようなこの暑さ。既に両腕を布団から出しており、何なら掛け布団を跳ね退けたいまでもある。しかし、そうしては医務室の預かりを任されているこの友人が険しい表情をする。
「伊作」
「なに」
呼び掛けただけでこの辛辣で冷え切った反応なのだ。仕方なしに紅蓮は掛け布団を身体に掛けていた。
「あつい」
「それはそうだよ。高熱が出てるんだから」
今から一刻程前のことである。
伊作は保健委員会の会議に同席した後、書類を提出するべく事務室へと赴いた。
その戻りに聞こえた学園の正門を叩く音。周辺を見渡すが、事務員の姿は見えず。代わりに来客を出迎えようと伊作は出入り用の戸を開けた。
そこにいたのは先週顔を見たばかりの友人。「今日はどうしたの」と伊作が口を開くより前に、ぐらりと紅蓮の身体が傾いた。それが後方に倒れてゆくものだから、慌てて腕を掴み引き寄せる。と、布越しでもはっきりとわかるぐらいに高い体温。額に手を当てればじりじりと熱した鉄板の如く熱いではないか。
伊作は急いで紅蓮を抱え上げて医務室へ運び込んだ。
問診、視診等を経て現症をとった伊作は「感冒」と診断。最近忙しかったのかと尋ねれば「昨日池に落ちた」と意識朦朧としながらも熱っぽい声が返ってきた。
「全くもう。池に落ちてそのまま乾かさないで寝るとか信じられない。風邪引いて当然じゃないか」
「……最近暑かっただろ。だから、放っておけば乾くだろうと」
「思うのが間違い」
「良い風だって吹き抜けてた」
「濡れた状態そのままで乾かしたら身体が冷えるに決まってる」
押し問答に近いやり取りをしていた二人だが、先に白旗を上げたのは紅蓮の方であった。
「ご尤もです」と弱々しく掠れた声で伊作に降伏する。伊作の口からは大きな溜息が零れた。
熱を帯びた目が天井をぼうっと仰ぐ。
額を冷やす手拭いは寸で温くなってしまい、少しもひやりとしない。逆に気分が悪くなる。その手拭いを退かそうと手を伸ばしたが、指先は空を掴んだ。
消えた手拭いを探そうと頭を傾けることもせず、焼けた石のように熱い額に手の甲を乗せる。熱い。
目を瞑った紅蓮の唇から短い吐息が漏れた。
側でちゃぷちゃぷと音を立てる水音が頭の中で反響し、ぐるぐると回る目眩すら覚える。
額に乗せた手首をひょいと掴まれ、持ち上げられたかと思えば、代わりに冷たいものが額に触れた。
固く絞られた手拭い。冷たくて心地が良い。
また直ぐに温くなってしまうことは分かりきっているが、こうして側に看病してくれる、気心知れた者がいる。それだけで心が安らぐというものだ。否応なしにとびきり苦い薬を飲まされることだけは慣れず、嫌ではあるのだが。
「伊作」
「まだ熱い? 氷持ってこようか」
「いや、いい。……いつもすまない」
「こういう時は有難う、だろ」
伊作の言葉に伴う表情は穏やかであった。
苦言を呈するのはあくまで友の為。それをよく知る紅蓮も反発することなく呟いた。有難う、と。
「風邪が治るまでここにいるといいよ」
「熱が下がったら大人しく御暇する。私が居れば医務室を逼迫させてしまう」
「君一人ぐらいでそうはならないって。それに何を今更言ってるんだ。具合の悪い友人を追い出したりはしないから、安心して休みなさい。因みにこれは僕の権限だから、心配せずに」
医務室を預かる校医の新野洋一は遠方に出張中である。詳細は語れないがと伊作は前置きをつけた。
伊作は卒業後から校医の下で医学を学び、その傍らで医務室の手伝いをする。六年間保健委員を務め上げた伊作としては勝手知ったるもので、医療行為も滞りがない。
そして今後の進路はというと、学園側から校医にならないかと誘いを受けていた。伊作が医務室副担当になる日もそう遠くない話である。
「伊作先生がここに居てくれたら私も助かるよ」
「気が早いなぁ」
「医者は伊作の天職かもしれないな。忍者よりも余程向いてるよ」
「僕もそう思う。……人生何がどう転んで良い方向に行くかわからないってつくづく実感してる」
城からの内定を取り消され、続いていたはずの道は落石で閉ざされてしまった。
しかし途方に暮れる間もなく、脇道に見えた一筋の真っ直ぐな光。それは獣道とは言えぬ、草が取り払われた道。その脇道は真っ直ぐに続いていた。
ぼんやりとしていた輪郭がはっきりと浮かび上がり、人道が目の前に現れた。
最初からその道は見えていたのだ。ただ、朧気に揺らめいていただけで。
それに、と伊作は寝転がる紅蓮に目を向けた。
まるで己の事のように悔しがり、涙を流してくれた友人がいる。
人を助け、人に助けられてきた。この道を選んで悔いはないとさえ思えるようになったのも、友人がいたおかげだ。
「紅蓮」
「ん」
「有難う」
何の脈絡もなしに御礼を伝えられた方は、何の事かと話題を今しがた遡る。しかし、それらしきものは見つからず。顔を顰めた紅蓮に伊作が「いつも顔見せに来てくれてってこと」と穏やかに笑い返した。
「……そんなこと言われたら、私は忍術学園に常駐しなければならなくなるだろ」
「火薬委員会の後輩にも言われたんだっけ? 人気者じゃないか。いっそ教師にでもなっちゃえば」
「それも、悪くないかもな。もう少し経験を積まなければ、門は狭い」
「あれ、意外とノリ気?」
「熱に浮かされた戯言だと思ってくれ。それに私が教師になったら命が幾つあっても足りなくなりそうだ」
紅蓮は有事ある毎に身を挺してまで後輩を庇う性分だ。
いつか身を滅ぼすのではと周囲の心配が堪えることはなく。そんな友人が生徒を指導する立場になったとしたら。
「うん。……紅蓮はもう少し自分を大事にしなさい」
「わかってるよ。これでも怪我は減った方だ。御守りのおかげでな」
「御守り?」
「三郎次から受け取った。思いが込められているせいか、とても効いているよ」
「思い、ね」
伊作は三郎次がこの友人に想いを密かに寄せていることを知っている。
以前、留三郎が医務室へ顔を出した際にそう話していたのだ。恋慕を抱いていると。留三郎はこうも話していた「しかしあいつは鈍いからな。いつ気がつくやら」と溜息を添えて。
それには否定ができずにいた。自分も留三郎と同意見なのである。この六年間と二年余り、色恋沙汰の‟い”の字すらチラつかなかった。
果ては仙蔵が執着する理由にも気づかぬまま解散に至る。
三郎次から渡されたという御守り。それは単に世話になった先輩だからという意味ではないだろう。
「三郎次の調子はどう?」
「良い調子だ。力もついてきたし、技に磨きもかかってきた。この間は押し負かされそうにもなったよ」
熱を含んだ紅蓮の目が細められ、満足気に口元を緩める。
後輩の心知らず。「そろそろ手加減はしてやれなくなるかもな」とそれは呑気に言うものだ。
何かきっかけがなければ三郎次の気持ちに一生気づかないのでは。そう危惧するも、自分がしてやれることは思いつかない。なにせ、遠回しに言ったとしても全く気づかないのだこの友人は。
「なあ、伊作」
「うん?」
ジーッ、ジー。ジッと鳴いていた蝉の声が途切れた。
静寂が辺りをじわじわと包み込む。
「学園内がやけに静かな気がする」
「……ああ。昨日から四年生が実習でいないからね」
「実習」
乾いた唇が二文字の言葉を繰り返した。
何処へ、何の実習か。伊作は一言も触れずにいたが、夏休み前に行われる合戦場での実習だと勘を働かせたのだろう。紅蓮は目元を片手の平で覆い隠した。
「もう、そんな時期か」
絞り出された声は湿ったように重くなり、落ちた。
「大丈夫。みんな戻ってくるよ」
あくまで穏やかに伊作は返した。愁嘆に満たされぬようにと。
紅蓮の唇が言葉を僅か紡いだが、それは無音に消えていった。
「……水を換えてくるよ。大人しく寝てること」
「わかってる。身体を起こすのもやっとなんだ。ふらつく余裕なんてない」
「それ、信じてるからね」
手洗桶を両手に持ち抱えた伊作は医務室の出入口で立ち止まり、桶を片手で支えながら戸を引いた。
雲行きが怪しくなってきたな。心の内で呟いた伊作は空を見上げ、眉を顰めた。
屋根から覗いた空はどんよりと曇っている。直に通り雨がやってくるのか。
鈍色に染められた分厚い雲。今にもその塊が地上へ落ちてきそうだ。
これ以上酷くならないと良いんだけれど。
伊作は戸をゆっくりと閉めながら、紅蓮の様子を窺った。
どうか、暗然に満ちぬようにと願うばかりである。